
相変わらず、体調不良です。
なかなか治りませんねぇ。感染性胃腸炎。
そんな中、昨夜小田さんのテレビをボーッとしながら見ていました。
先日の「ゆず」の冬至ライブのゲスト出演とか昨夜のテレビとか若いアーティストと一緒にやる事が多くなってるみたいですね。
昨夜のスキマスイッチの二人と小田さんのやりとりと、ゆずの二人が小田さんに対して緊張しっぱなしだったのが対照的で面白かったです。
35年位前から聞いていた小田さんの歌声って今も変わらず少年のよう。
小田さんと言えば最初にオフコースを見たのはテレビで杉田二郎さんのバックコーラスだかバックバンドで二人ともマーチンD41かD45を弾きつつコーラスをしていました。すんごいきれいなコーラスだなぁとビックリした物です。確か高校生の頃だったかと思います。
その頃はフォークブームでしたかね。その当時の私のアイドルは「赤い鳥」でした。5人のメンバーのコーラスがとても素敵でした。確かグリークラブ出身の人達だったと記憶してます。
そこで仕事を休んでいる事だし、私の音楽とのふれあいを。
幼稚園の頃、元々芸事が好きな祖母がレコードを買って来て私に聞かせてくれました。
曲は「橋 幸夫」の「潮来笠」って曲。レコードに合わせて歌ってました。
いたこのい~たろ~おちょいとみな~れば~、はくじょうそうなぁ~わたりどりぃ~♪
って感じです。
月日は流れ小学4年生の頃、GSブーム。
好きなバンドは「スパイダース」でした。そう堺正章さん井上順さんムッシュかまやつさんのいたバンドです。
そして小学5年生の時、初めてのライブを見に行きました。
当時、テレビで人気のあった「モンキーズ」です。場所は武道館。当時はPAシステムなど無かった筈ですのでアンプを積んでの大音量。お尻に音が響いて来たのを思い出します。
新鮮に見えたのはドラマーのミッキードレンツのドラムセットが左足にキック(ベードラ)右足でハイハットにアレンジされていて正面から見てちょっと斜めの感じになっていた事です。ひょっとしてサウスポーなのかな。
当然テレビもGS花盛り。毎週土曜日の午後からフジテレビでやっていた「ビートポップス」なる番組を欠かさず見ていました。「小山ルミさん」のゴーゴーダンスが可愛くてね。(ませたガキでした)司会は大橋巨泉さんだったと思います。
小学6年生の時に「帰って来た酔っぱらい」を耳にしました。そう「フォーククルセダーズ」です。
この曲自体はただ面白い曲だなと思った程度でしたが、この曲をかけたと言われる番組の方に興味がわいて来ました。
本当にませたガキのようですが、この他にも普通の小学生のように漫画の主題歌なんかも好きでした。「オオカミ少年ケン」の主題歌なんて良いですよね。最近、CMに一部使われていましたが。
で中学生になりサッカー部に入りました。しばらくサッカーに夢中になり音楽から遠ざかっていたのですが、2学期の途中でひざの故障。「シュラッテル病」と言う膝の軟骨が剥離する病気(怪我?)で退部しました。もっともサッカー部は膝が治った2年生の1学期に再入部しました。成長期に「うさぎ跳び」とかをやりすぎるとなるらしいです。当時の体育会系クラブはスポ根だったからね。
その退部中に夢中になってしまったのが、その番組。
「オールナイトニッポン」(LF)です。
当時のパーソナリティーはその殆どが社員さんでした。(お名前違ってたらすみません)
月曜日、糸居五郎さん(日本の草分けDJ)
火曜日、斉藤安弘さん(アンコーさん)
水曜日、高島秀武さん
木曜日、梶幹夫さん
金曜日、今似哲夫さん
土曜日、亀淵昭信さん(ホリエモン騒ぎの時の社長さん)
日曜日、ごめんなさい思い出せません。電リク2時間番組(一時、広見さんもやってましたね)
今はみんなタレントさんがやってるんでしょ。
この数年後、この方達すべての方と一緒にお仕事をする事になろうとは。
そんな番組の中で耳に入って来たのは外国の曲(ポップス)と共にGSブーム後のフォークブームの曲たちでした。
ベトナム戦争の中、反戦歌がルーツとなったような歌も多かったですが、まだ子供の私には意味も分からず口ずさんでいました。
そして「赤い鳥」との出会い。今では学校の音楽の教科書にまで載っていて誰でも知っている「翼をください」と言う名曲のオリジナルです。
この後、フォークからニューミュージックへと変化して来ます。赤い鳥もアコースティックの5人編成からEGの大村憲司さん(故人)DRSの村上秀一さん(ポンタさん)が加わり大きく変化して行きました。
高校に入ってもこれらのバンドを聞いていましたが基本的にコーラスのバンドが好きだったので当時ビックリするほど売れてしまった『ガロ」も好きでした。私の中での傑作は「美しすぎて」です。最初のシングルカットでは、この曲がA面で「学生街の喫茶店」はB面だったのですが、こちらが凄いヒット曲になってしまったのでA.Bが逆になってしまいました。このバンド、C.S.N&Yのコピーがとても上手でした。その後トミーが自殺されたのが残念です。
この頃流行ってたのは、キャロルですかね。友人たちはディープパープルなんかも好きでした。
大学生になり何のご縁か知りませんが、ニッポン放送(LF)でアルバイトをする事に。
最初に配属されたのが編成部でした。上記の亀淵さんが副部長、広見さんも部員で活躍されていました。ある日、広見さんと昼食を一緒に食べた時、「昔、広見さんのオールナイト聞いてたんですよ」と話したら「えーっ、そうなの?アルバイトに言われたの初めてだよ!嬉しい!!」って本当に嬉しそうに話されていました。まだ在局されていると思われます。
この部署で1ヶ月、もちろん意地悪なおじさんもいましたけどね。社会勉強させてもらいました。
次に総務部で3ヶ月。もっぱら通便物の処理です。番組宛に来た物とその他の部署に来た物とを分けます。一日に青い大きな袋で10個位来ます。
その後の2年少しはスタジオ管理と言う部署に配属になりました。
ここは、各スタジオのタイムスケジュール管理と放送用のテープの管理と放送済みテープの保管、そして女子アルバイトさんによる番組宛に来た郵便物の処理。(番組別に分ける作業)
ここでのアルバイトが私の人生に大きな変化を与えてくれたと思います。
その当時、耳にしたのが妙に心地よいリズム感のあるジャズでした。もともとジャズは難しくて分からない。と思っていた時、当時のFM東京で「渡辺貞夫のマイディアライフ」という番組があり、ビートルズ特集をやったのです。もちろんビートルズの有名な曲ばかりなのでメロディーは知ってますから、ジャズになるとこんな感じになるのかと理解出来ました。
そしてそのすんなり耳に入って来たのが「クルセイダーズ」でした。もともとのバンド名は「ジャズクルセイダーズ」です。フォーククルセダーズや最近のビートクルセイダーズの本家ですかね。
これにハマってしまいました。ラリーカールトンのギター、ウェインヘンダーソンのサックス、ジョーサンプルのピアノ、スティックスフーパーのドラム。ベースはサポートのロバートポップウェルかな。わたしにとってのベストアルバムは「スクラッチ」です。その中の「ウェイバックホーム」は泣けます。「ソーファーラウェイ」も中々ですが。
そうこうしている内に世の中もクロスオーバーブームに。いろんな人達がこの音楽に入って来ました。なんで?って思う人達もいましたけど。
この頃になると学校の勉強もつまらなくなり、殆ど行かず、アルバイトと酒漬けになってました。付き合ってた女の子の事でも悩んでた時期だしね。
週に2回くらい酒も飲めて好きな音楽も聞けてと言う場所に通う事になっていました。六本木のピットインです。新宿とは違ってここはクロスオーバー系のミュージシャンが多く出演するので、誰だか知らなくても見に行くといった感じで通いました。
ある日の事、オーディエンスは14~15人くらい。余裕で席に座り、キープしていたボトルを出してもらって飲みつつ開演を待ち、いざ始まったとたん酒どころではなくなったバンドがいました。
CASIOPEAです。最初の印象。「何だ!こいつら」です。16ビートでなじみやすいメロディーをスーパーなテクニックで(ここまではあり得る)めちゃくちゃ笑顔で楽しそうに演奏している。凄まじいインパクトでした。聞けば年齢は私と同じ。それにギターの彼の、使ってるギター、俺のと同じじゃん。参りました。まぁ私は所詮趣味、彼らはプロってこと。MCの向谷氏があと10日後にレコードが出ます!よろしくと言ってました。
もちろんすぐレコードは買い、その後もピットインで彼らの演奏は何回か聞きましたがいつも満員でした。(当たり前だけど)
その後もピットインで色々なミュジシャンの演奏を聴きましたがあれほどのインパクトは無かったです。
中野サンプラザでやったクルセイダーズのコンサートも良かったです。ギターがビリーロジャースに代わっていましたが、ファンキーでノリノリでした。
その翌年の新宿厚生年金は全然ダメでした。ジョーサンプルのミスタッチの嵐でドッチラケ。
私と言えば結局大学をやめて専門学校へ。今は無き「東京ミキシングスクール」というミキシングエンジニアを育成する、よくある学校です。
その後25歳まで業界にいましたが、LFで知り合った彼女と結婚を考えた時、この業界ではまだ養っていけないと考え、気質の世界に。
そしてディーラーマン(営業)になりました。石に上にも3年。とばかり3年後に転職して今の会社に入りました。
音楽的には、やはり20代前半に聞いた音楽はそのまま引きずって行くんでしょうか?今でもクロスオーバーからフージョンに名前が変わった音楽を聴き続けています。
カミさんもオフコース(小田さん)ユーミンのファンで今でも新しい物を聞いています。
ここ数年はハワイアンミュージックにもハマってますが、「ジャスティン」とかいいですね。
今でも新譜は必ず手に入れる物は、ラリーカールトン、カシオペア、フォープレイ、小田さんなど。
既に年が変わると50歳に手が届く年になりましたが、今でも音楽は新しい物も含めて沢山聞き続けたいと思います。
長々と失礼しました。何ぶん記憶で書いてますので違っていたらすみません。
次回、暇ができたら我家の安いギターコレクションでも紹介します。
※上の写真、ヤマハのSG2000です。ボディーはレッドサンバースト。1978年製。とても重いギターですが、太いコシのある良い音が出ます。サスティーンプレートと言う反則技のパーツも付いてますので、音の伸びは凄いです。当時はプロの人でも使っている(使ってもらっている)人が多かったです。因にサンタナが使っていたのはSG175の特別バージョンで後のSG2000のベースになったモデルです。SG2000でメジャーなのはやっぱり「高中先生」でしょうか。彼はSG1000の方が好きだったとか。