
今年は「年間50冊」を目指してみようかな。
なんて思って、ちょっとブースト掛けてます。
まー、三日坊主的に3月あたりで失速しそうな気が凄くするけどw
最近ふと思ったんですが。
ある程度本を読んでいないと文章は書けないけど、
かといってひたすら読み続けて蓄え続けても、それと物語を生み出す創造性はまた別の話ではないのか、と。
この読書感想文も続けて2年以上になりますが、
内容や感想を表す語彙が乏しいなと自分で思う。
もっと細かいニュアンスを伝えたいのに適当な言葉が見つからない(抽出しが無い)。
結果、使い古しのマンネリな言い回しに収斂する。
モノを書く術は、書くことでしか育たない。
本を読んだ読書感想文を書くことと、本そのものを書くことは全然違う。
…と、自分に言ってるワケですが。( ̄  ̄;)
「いつか」なにか書きたい、と思っていても、
思っているだけでは「いつか」は永遠に来ないよねぇ。
ニール・シャスタマン 『奪命者 [サイズ] 』 (2016)
原題『SCYTHE』
いやー、良いもん読んだ。
新年の1冊目を飾るに相応しい。
今から数百年後。“クラウド” が進化した全知全能のAI “サンダーヘッド(積乱雲)” が地球上の全てをコントロールし、人類は無限の知識を獲得し、不死の時代へ突入した。
しかし地球上の土地や資源には限りがある以上、人口の調整がどうしても必要になる。そこで人類は、余剰を刈り取る=人の命を奪う仕事を、一握りの選ばれし者達 [サイズ] に委ねた。
古参のサイズにスカウトされ弟子入りした十代の少女シトラと少年ローワン。
人の死と接したことの無かった二人は、他人の命を奪うことに大きな抵抗を感じながら、高潔な師を信じて修行に励む。
修行を通じて人間の尊厳、サイズの使命の重さと深さを学び成長していく。
という、まぁよく有るといえばよく有る感じ。
そこに勢力争いやミステリー要素も入ってきて盛り沢山、展開も二転三転次から次へ転がっていく。
なのに全てが綺麗に纏まっていて最後のカタルシスも素晴らしいのは、さすがベテランの技か。
ヴィクトリア・エイヴヤードの『レッドクイーン』と共通して「あぁ、上手いな」と思うのが、キャラ毎にイメージカラーを割り当てている所。
色じゃなくても良いんでしょうけど、何か紐付けするイメージが有れば何でも覚えやすいし広がりやすい。(受験勉強の暗記もそうでしょう)
平凡な一般人だった主人公が着々と力と知識を付けていき、それまでの生活から遠ざかり孤高の存在 [サイズ] としての資質を磨いていく様は、“強くなっていく” ワクワク感と、大人の事情に翻弄されていく無力感の両方がある。
同門の兄弟弟子だったシトラとローワンが途中から別々の師匠のもとにつき、“law 秩序” と “chaos 混沌” の両サイドに立たされる構図はいかにも王道だが解りやすく、過程と立場は違えど最終的には同じ使命に向かって進む二人の今後(本作は3部作の1作目)も楽しみだ。
ゴードン・マカルパイン 『青鉛筆の女』 (2015)
原題『Woman with a Blue Pencil』
何らかの理由・事情で作者から見捨てられたフィクションの登場人物はどうなるのか。
廃屋の箱から見つかった3つの物。
1945年に刊行されたパルプ・スリラー『オーキッドと秘密工作員』。編集者からの手紙。軍支給の便箋に書かれた『改訂版』と題された原稿。
開戦で反日感情の高まるなか、作家デビューを望んだ日系青年と、編集者の間に何があったのか。
2つの作中作と、編集者との手紙、作中作を執筆する青年、更に史実の背景。
緻密に構築されたメタ構造の作品。
作家を志す日系青年タクミ・サトーが持ち込んだ、日系人を主人公にした探偵小説。
だが初期草稿の段階で太平洋戦争開戦となり、編集者から「日系人を主人公にするのは望ましくない」と言われる。
ただし「このジャンルでアジア系主人公を起用するのは斬新なので、主人公を朝鮮系に変更してシナリオにも大掛かりな練り直しを行ない、時勢を採り入れ愛国心をアピールする内容にすれば売れる」と提案され、“編集者の意向” に添って書かれた『オーキッドと秘密工作員』が刊行される。
しかし著者タクミ・サトーの胸の内では当初のプロットこそが本当に書きたかった話であり、彼は『オーキッド』のパラレルストーリーともいえる物語を書き始める。『改訂版』と名打たれ、世に出す事も考えていない作品を。
上手く造形され一種の命を得たキャラクターは、究極的には作者の手を離れて独立して “生きて” いるとも言える。
では作者がボツにして切り捨てたキャラクターはどこへ行くのか?
このメタ的なテーマを、“元の世界から削除された存在” である『改訂版』の主人公で描く。
これが面白い。
ガンダムUCで喩えれば、小説版ではシャンブロ開発の指揮を取り、ジオン再興の念に娘ロニを巻き込んだ部分もあったマハディ・ガーベイが、OVAの世界に投げ込まれ、自分の存在が消えた世界で、狂気に侵された娘を見てどう思うだろう。
CCAで喩えれば、小説版ではアムロの恋人であり子供まで身籠ったベルトーチカが、劇場版の世界に投げ込まれ、自分はアムロの元カノになっていてチェーンとかいう違う女が自分のポジションに居る。周りの人々はそれが当然と思っている。
そんな世界で “自分” を保てるか。
昨日まで普通だった自分の周りの世界が一転して自分を否定する。
自宅には知らない誰かが住んでいる。友人にも「お前など知らん」と言われる。公的記録も何も無い。そんな世界で一人だけ自分の事を知っている男が現れる。
『改訂版』は先に完成している『オーキッド』の隙間を縫って展開する物語。
一方の視点からとは似て非なる世界が描かれる。
それを単に交互に交叉させるだけでなく、メタ視点で著者タクミ・サトーの葛藤や編集者の思惑等も絡めて一元的に読ませる所が凝っている。
『スタートボタンを押してください』 (2015)
ゲームを題材にしたSF短編12作のオムニバス。
名を連ねている作家もなかなか豪華な顔ぶれ。よー知らんけどw
FPSやMMORPG、NPCやリスポーンなど、ゲームならではの単語や概念がズラズラと。
少なからずゲームに触れた人なら楽しめる&一度は妄想したような話ばかり。
いくつか心に響いた作品はあるが、あくまで軽くサクッと読んで終わる1冊かと(笑)。
MMORPGでのリアル・マネー・トレードがはらむ問題を抉る『アンダのゲーム』はゲームに疎い人にも一読してもらいたい。
ボストン・テラン 『神は銃弾』 (1999)
原題『God is a Bullet』
いつもこの感想文を書くときに、スラスラと一気に書ける作品と、なかなか言葉が出てこない作品とがある。
読んでいる途中から明確に “伝えたいテーマ” や、“魅せ所” がハッキリしている作品は紹介するのも簡単なのだが、
“名作” で “凄い” のはわかるが、どこがどう凄いのかパッと簡単に言い表せない作品や、伝えたい事が深く多岐にわたるというのも時々ある。
本作『神は銃弾』もそんな1冊。
あらすじ自体は至ってシンプル。
残酷無比なカルトの教主サイラスに、元妻を殺され娘を拉致された父親ボブが、元教徒で元ジャンキーの女ケイスを案内役に追跡・復讐する。
その背景や動機に多少の謎解き要素はあったりするが大して重要ではなく、善玉悪玉も最初からハッキリしていて、ストーリーに重きを置く作品ではない。
では何がこの作品の “読みごたえ” に繋がっているのか。
1つには、作中で
“コヨーテとシープ” というメタファーで語られる、キリスト教社会の腐敗への痛烈な怒りのエネルギー。
保守的なシープの価値観を捨てきれないボブと、卑語だらけの強烈な発言で皮肉を散りばめるコヨーテたるケイス。
目的を達する為に不本意・不可避的に徐々にコヨーテになっていくボブ。自身の過去に苦しみながらもその過去のお陰でボブを導くケイス。
この二人が次第にお互いを理解し協力し信頼してサイラスを追う姿が大きなドラマか。
また1つに、ヒロイン・ケイスの強さ、タフさ、カッコ良さがある。
長年に渡ってサイラスに囚われてドラッグを打たれ自身の手を汚してきた過去が重くのしかかり、“これ以上失うものの無い者の強さ” とも言えるが、そこに悲壮感や投げやりな部分は無く勝ち気で強気で、全てを赦す包容力すら感じる。
更に、悪趣味一歩手前の “ドラッグとセックスと暴力” の描写に囚われがちだが、悪玉サイラスの側にも一貫した信念があり、正義とも言える理念に従って行動している点が、欺瞞だらけの “シープの群” と対照的に純粋で清々しくも映る。
シープの一頭であったボブを結果的に強いコヨーテへ成長させたのは、サイラスの誤算だったのか余興だったのか。サイラスとケイスが、仔狼ボブを(超現実的スパルタ育成で)導く親狼のようにも見える。
このように作品の根底に現代社会への強いアイロニーが有るために、各キャラクターの個性がハッキリと際立っている。
また、各キャラクターの感情描写が鮮やかで、その部分で読ませていく。
やや粗削りで過激な部分もあるが、ただのよくあるノワール小説、とは言えない何かを感じる1冊。
「神は銃弾」の言葉にケイスが込めた意味も、「苦しみと死」こそが自分が何者であるか痛切に教えてくれるというサイラスの言も真理。
サン=テグジュペリ 『夜間飛行』 (1931)
テグジュペリの言葉は美しい。
目に映るもの、それを言葉に置き換える時に、人は何を媒介に、何を触媒に、化学反応を起こすのか。
目に映るものをそのまま述べることも難しいが、
目に映るものを心に映す事ができる人の言葉は、澄んで美しい。
それでいて、ソリッドな現実感がそこにある。
無駄な言葉を削ぎ落とし、ひとつひとつの言葉に重みと潤いを与え、詩的な心地よさを湛え(タタエ)ながら、その言葉が表すのは鮮やかな現実。
いわば、引き算の美学なのかもしれない。
この『夜間飛行』という作品自体、草稿から半分以下に頁数を絞りこまれたものという。
余計なものを削った研ぎ澄まされた逸品。
彼の紡ぐ言葉もそうなのかもしれない。
本書は『夜間飛行』と『南方郵便機』という二つの中編だが、
小説と伝記の間にあるもののように思う。
全てテグジュペリ自身の経験からなる言葉の羅列。
飛行気乗りならではの視点。
デジタル機器の無い、剥き出しの操縦席で何時間も風になぶられて飛ぶ操縦士の視点。
1年の大半を空中か任地で過ごし、“自宅” というモノが自分の居場所でなく感じる男の視点。
空を駆け流れ動き続ける男と、地上に街に館に日常に繋ぎ止められた女との離れていく魂。
リアリズムとロマンティズムの同居。
『夜間飛行』の主人公リヴィエールは、航空郵便業という仕事へのプライドが高いと同時に、しかし尊ぶべきは生命を賭してその業務にあたる飛行士であり、自然と自己を克服し、勇気・沈着・責任・自己犠牲といった美徳の体現者たることを自身にも他者(部下)にも求める、一見苛酷な人物であるが、人間的な迷いも見せ、リヴィエール自身それを慈しむ姿に親しみと憧れを抱く。
登場人物(リヴィエールの部下達)も、彼の信念を体得していてこの物語は
“完成された人格” 達によって演じられる、非常に清々しい物語。
対し、『南方郵便機』の登場人物達は皆、迷い・求め・傷ついている。
主人公ベルニスの恋愛の追憶、アイデンティティの模索、求める理想、己の充足は “空” にある。
それらが混ざり渦巻く閉塞感の中で、最後に得る解放。
幸福とは、愛とは何か。
ベルニスとジュヌヴィエーヴの線は交わらない。
しかし二人ともそこに同情や憐憫の入りこむ隙は見せない。二人はそれぞれの人生に言い訳をしない。
このような精神性を、知ったような一言で言い表すと「ニーチェ的」というものになるらしい。
ニーチェ読んだこと無いからワタクシ自身の言葉としては言えないけど。
しかし、これでニーチェも読んでみようかと思った。