今回は生駒山編の最終回となる。
「石切劔箭(いしきりつるぎや)神社」下之社の見物編である。

「石切劔箭(いしきつるぎや)神社」下之社の境内。
石切は行政区域的には大阪府東大阪市になるということで、ちょっと東大阪市出身の芸能人・有名人・著名人を探してみた。なんと、まっさきに見つかったのが超大物だった。
山中伸弥
1962年9月4日生
医学者 京都大学iPS細胞研究所所長。2012年 ノーベル生理学・医学賞受賞。
なかなかノーベル賞受賞者を産んだ「市町村」なんて少ないよ。東大阪市の誇りだね。まだお若いのでもう一回くらいノーベル賞が受賞できるような大発見をされるかもしれない。たしか、キュリー夫人も二回、ノーベル賞を受賞しているはずだ。で、ここでふと疑問。なんでキュリー夫人なんだろう?調べてみたらなんと夫のピエール・キュリーとマリ・キュリー(夫人)は夫婦で1903年に同時に放射能の研究でノーベル物理学賞を受賞していたのだった。さらに、キュリー夫人は今度は単独で1911年にノーベル化学賞を受賞。さらにさらに、彼女の娘も、その夫と同時に1935年「人工放射性元素の研究」で共にノーベル化学賞を受賞。 一家一族あわせて5個のノーベル賞をゲットしている天才一族だった。いやあそんなことも知らずによくいままで生きてきたもんだと冷や汗が出る。それはともかく、山中伸弥先生もどうか新たな発見に頑張ってノーベル賞二個目をゲットしていただきたい。まだ日本人で二度のノーベル賞を受賞した人はいないからね。
さて、東大阪市にはいろいろと有名人がいることがわかった。
平井堅
1972年1月17日生
ミュージシャン 代表曲 『楽園』『大きな古時計』『瞳をとじて』
つんく♂
1968年10月29日生
ミュージシャン 音楽プロデューサー
シャ乱Qのボーカル テレビのオーディション番組から生まれたモーニング娘。のプロデューサーとして脚光を浴びる。代表曲『シングルベッド』『ズルい女』『いいわけ』。
大倉忠義
1985年5月16日生
アイドル 関ジャニ∞のメンバー
代表曲 『浪花いろは節』『ズッコケ男道』『無責任ヒーロー』
室加奈子
1996年11月20日生
アイドル NMB48のメンバー
大沢あかね
1985年8月16日生
タレント 子役モデルとして活動。祖父は元プロ野球選手の大沢啓二氏。
吉岡美穂
1980年2月3日生
元グラビアアイドル
タレント 2006年にSHAZNAのIZAMと結婚。
池脇千鶴
1981年11月21日生
女優 代表作『大阪物語』『猫の恩返し』『ジョゼと虎と魚たち』
谷佳知
1973年2月9日生
プロ野球選手 外野手、内野手。1996年 ドラフト2位でオリックス・ブルーウェーブに入団。
2006年シーズンオフに読売ジャイアンツに移籍。1996年・2004年オリンピック野球日本代表。2003年にオリンピック柔道金メダリスト田村亮子と結婚し、話題を集めた
松井稼頭央
1975年10月23日生
プロ野球選手 内野手
1993年 ドラフト3位で西武ライオンズに入団。2004年からはニューヨーク・メッツなどメジャーリーグでプレー。2011年に国内復帰し、2013年には東北楽天ゴールデンイーグルスのキャプテンとしてチーム初の日本一に貢献。
松嶋尚美
1971年12月2日生
コメディアン 相方・中島知子のトラブルにより解散したオセロの元メンバー。
西森洋一
1979年1月21日生
コメディアン モンスターエンジンのボケ担当
「暇を持て余した神々の遊び」ネタで一躍脚光を浴びる。実家は鉄工所
彦摩呂
1966年9月15日生
元アイドル タレント グルメリポーター
アイドルからタレントに転身後、旅番組や情報番組のリポーター。
エハラマサヒロ
1982年5月29日生
コメディアン 2009年・2010年R-1ぐらんぷり準優勝
モノマネネタでピン芸人として活動する他、歌の上手さを活かしてミュージカルにも出演している
黒田有
1970年1月29日生
コメディアン メッセンジャーのボケ担当
未知やすえ
1963年8月7日生
コメディアン吉本新喜劇で活動
出演番組『よしもと新喜劇』『ちちんぷいぷい』『せやねん!』など。
(以上 情報はNAVERを参考にした)
司馬遼太郎もたしか東大阪市に住んでいたと思ったので調べてみた。司馬遼太郎は生まれは大阪市浪速区だが、昭和39年に当時の布施市下小阪に移転している。現在の東大阪市の住民であったが惜しくも平成8年、72歳で他界された。その後、東大阪市名誉市民の称号を追号されている。

「石切劔箭神社」の神職を代々司ってきた木積家の墓所。「石切劔箭神社」の社家の木積氏は、『古事記』『日本書紀』『姓氏録』などに饒速日命・可美真手命の後裔とされる物部氏族穂積臣の末裔を称している。
こういう経緯から、物部氏の祖先である饒速日尊と可美真手命を石切の祭神として祀られている。
神武天皇の治世二年、可美真手命が生駒山系に天下ったとされる亡父・饒速日尊を生駒山腹の宮山に祀ったことが「石切劔箭神社」の創祀とされている。ここ下之社には、崇神朝になり可美真手命が祀られたといわれている。

「石切劔箭(いしきりつるぎや)神社」本殿。文字とおり「石を切る」「石に刺さる」ほどの強靭な劔や矢のように抜群の霊力ある神社として民間信仰を集めたのがこの神社である。とくに、石をも切るというところから出物、腫れ物をスパッと切り落としてくれる「でんぼの神様」(おでき、腫れ物)として霊験あらたかだと信じられてきた。いまでは、さらにその延長線上に癌にも効くとされて病気平癒の祈願で訪れる人も少なくない。治ったら治ったでお礼参りにも参上するというわけで閑散とした神社が多い中で例外的に参拝者が多く見られた。

この日も御百度参りをする人がかなり見受けられた。高校生も熱心に歩いている。時期的に受験シーズンでもあり大学合格祈願なのだろうか。実際にこういうお百度参りをする光景を目撃したのは初めてであった。紙こよりを手に黙々と歩いている姿には声をかけるのも憚られるほどの真剣さが漲っていた。

本殿の向かって左前にある巨木はクスノキである。樹齢500年ほどと言われ「ご神木」とされている。

神楽殿といいう大きな建物がある。本殿の向かって左隣に位置している。

稲荷神社。五社明神も祀られている。民間信仰の集大成という感じがしないでもない。

五社明神の説明書き。老若男女を問わず石切さんのご利益を求めて集まる人は半端なく多い。

水神社。水商売にもおご利益があると書いてあった。

馬の像もあった。馬の供養なのだろうが、競馬や馬券の必勝祈願にもいいかもしれない。

上社にもあった親子連れの牛の像。このあたりは牧畜業が盛んだったのかもしれない。

鳥居を出ると石切上之社への石切参道。ここからずっとう生駒西山麓への坂道が続く。

小さな占いの店。今なら「手相あるいはタロット占い」サービス、と書いてある。石切参道では占いも気軽におまけやサービス付きで提供されるものらしい。

「絵馬殿」という大きな建造物がある。仁王像が二体左右にある。屋根の上には剣が天を向き、矢が六本地に向かっている。剣と矢が象徴として屋根上に飾られているのは、古代最大の軍事貴族集団また武器の製造や管理迄も管理していた軍産複合体的集団だったと推定されている物部氏の先祖を祀神とする神社の由来を象徴するものとしてふさわしい感じがしないでもない。

この鳥居の鳥居でなさ感は半端ではない。このフォルムと極ホワイトのユニークさはさながら宇宙信仰的未来オーラ炸裂で日本の神社の固定概念をぶち壊すに足る迫力を放っている。石切神社は天皇家の系譜に連なる神社本庁には所属していない。つまり、伊勢神宮を頂点とす る「皇室」を頂点とする日本最大の宗教団体組織には属していないということになる。そういう立場の独自性を活かし神社ではあってもこの石切神社は独自の民間信仰を基盤として庶民の願望を叶えるご利益霊験に特化した独自路線を貫いていると言えるだろう。神様に救いを求める庶民の願望に直結したサービスを提供するというある意味では信仰の原点に位置していると言えるだろう。石切参道に密集している巷の神々とも手を携えて「どんな悩みでも晴らしてあげまっせ、どんな願いでも叶えてあげまっせ。頑張りや」と庶民の不安を払拭してくれるスピリチュアルな生駒石切信仰ワンダーランドなのかもしれない。また神社はじめ霊験サービスを提供する側にとっては人々の宗教離れが加速する現代において信者の減少、寄付金の激減、深刻な財政難に陥っている。自主財源には限りがありそのため新たな収入源の確保と多角化が神社存続の死活問題になっているのだ。
さらに何を考えているのか、日本政府の神社仏閣や伝統文化への保護、保全の予算措置などあって無きが如きものでお寒い限りである。日本各地の神社仏閣はいま造ろうと思っても造ることのできない貴重な文化遺産であり国家国民の貴重な共有財産とも言えるものである。地方創世もいいが伝統文化、文化財保護にもう少し気を配ってくれてもいいのではないか。
世界遺産の京都下鴨神社でさえも神社行事の莫大な費用捻出のために境内の一画にマンションを建設するとして大きな問題になっている。それほど神社仏閣はじめもももろの信仰業界も経営に苦しんでいるのが実情である。そういう中で徹底的ご利益信仰をうたって参拝者の信仰心を集め参道商店街とも共存共栄を図る「石切劔箭神社」はある意味で最先端を行く現代の信仰ビジネスモデルなのかもしれない。このような身も蓋もない分析をしている私にとって石切さんに何を願ってもご利益は水の一滴ほども天から降ってはこないと覚悟せねばなるまい。さらば石切また来る日まで。妙に印象に残って仕方ないサイケな鳥居を眺めつつかくして生駒石切神社下之社を後にしたのであった。

「東石切公園」。もう夕方で高台の公園には夕日がまぶしく差し込んでいたもはや朝からの歩き尽くめで足の痛さは限界に達していたが、まだ石切駅までは遠い。坂道を登り登り、やっと辿り着いた公園。ここからは大阪平野が一望できる。公園では犬を連れた近所のママさんたちが犬といっしょに集まって世間話に興じていた。最近よく見かける光景である。こういうのも犬のママ友というのだろうか。
生駒山から広がる西麓はかって「正興寺山」と呼ばれる独立した低い山だった。
この山は大阪層群といい第三記鮮新から第四記最新世(洪積世)にかけて形成された地層の露頭であり、発掘調査をしたところ二上山に産するサヌカイトを使用した「ナイフ形石器」という約二万年前の石器が出土した。
平成12年に「東石切公園」となったこの地は、縄文時代を5000年ほどもさかのぼる約2万年前の旧石器時代から旧日本人が住み始めたことを立証している。いまは公園となっているこの正興寺山遺跡だけではなく、生駒山山腹の草香山遺跡・千手寺山遺跡、山裾にある神並遺跡・鬼虎川遺跡などから二上山のサヌカイトを使った打製石器がみつかっており大昔から生駒山西山麓やその裾野が深い森に覆われ食べ物豊富で安全で暮らしやすい場所だったことを物語っている。
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「日本列島のなりたち」
日本列島は大昔は列島ではなく大陸の一番端だった。それが地殻変動により断層が拡大して約500万年前くらいに日本海が生まれしだいに日本列島は大陸から分離していった。
その後も日本列島は大陸から分離を続け、約15万年前には一部が大陸とつながっているがだいたい現在の日本列島が姿をあらわしている。さらに約一万年前にはほぼいまの日本列島の形となり大陸からは完全に離れてしまった。
したがって日本人の先祖は陸続きで移動してきて大陸の一部だった時代から日本列島に住み着いた人々といえる。 関連情報のサイトには、この経過を示す地図が載っている。