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角鹿のブログ一覧

2023年11月05日 イイね!

日南

「日南」という漢字について少し考えてみたい。

 これをどう読むのが正解なのだろう。
「日南」といえば、まっさきに思いつくのが九州の「日南市」。宮崎県にある市の名前についている「日南」(にちなん)である。
 
 日南市のホームページには次のように紹介がある。
 日南市は、宮崎県の南部に位置し、東に日向灘を臨み、西は都城市・三股町、南は串間市、北は宮崎市に隣接しています。
宮崎市から日南市を経て鹿児島県に至る延長112kmは全国有数のリアス式海岸で、日南海岸国定公園の指定を受けています。

 ちなみに、人口は約50000人である。
 現在の日南市の「日南」という名称は古名ではなく、比較的新しい名称で戦後の命名である。
 昭和25年(1950年)1月1日 に油津町,飫肥(おび)町,吾田町,東郷村が合併して成立した市名が「日南市」である。
 この地域のその昔をたどると、古くから「飫肥」(おび)と呼ばれていた。
 平安時代後期になり島津荘という荘園が成立した。荘園の持ち主は現在の奈良県の強大な寺院・興福寺だった。そこで飫肥(おび)は一時期は奈良の興福寺一乗院が荘園領主となった。その後、武家の台頭があり、「飫肥」は薩摩国の島津氏の支配下に入る。
 この飫肥は山と海に恵まれた地域であり、豊富な山林資源に加えて、海岸線には油津や外之浦という日明貿易や琉球貿易の拠点となる港湾を有する要衝の地であった。そこで戦国時代には、これまで飫肥を勢力下に置いてきた薩摩の島津氏に対抗して新たに宮崎平野一帯に勢力を拡げてきた新興勢力の伊東氏が飫肥をはじめ宮崎一帯の領有権を巡って抗争を繰り返したのである。島津が九州の地元の武士集団というのはわかるが、そこに割り込んできた伊東氏とはいったいどこから来たのだろう。
 
 伊東氏はもともとは鎌倉幕府勃興の地、武家の本拠地とも言える関東武士だ。関東の中でも南部に属する伊豆半島に興った武家が伊東氏だ。伊東氏は伊豆の出身とあって海に強くその子孫が各地へ出張って勢力を拡大した。
 伊東氏の中の一族が鎌倉幕府から日向の地頭職を与えられた。
 これが伊東氏の九州進出の端緒である。彼らは地頭職を任せられたので現在の宮崎へはるばると赴き、以後土着して勢力を拡大した。これが「日向伊東氏」である。
 この日向伊東氏は、やがて九州の大勢力である薩摩の島津氏の強い対抗勢力になっていく。
 室町〜戦国期を通じて、日向伊東氏は守護の島津氏と抗争を繰り返しながら版図を拡大した。伊東氏は11代当主伊東義祐の時代には最強勢力となり、現宮崎県の佐土原城を本拠に四十八の支城を国内に擁し最盛期を迎えた。飫肥には伊東義祐の子の伊東祐兵が飫肥城を与えられていた。さすがの島津氏もなかなか手を出せない伊東氏の勢力であった。
 
 だが夜の栄枯盛衰を見ると武家に限らず時としてそれまでの資産を食い潰す奇人変人がたまに出現する。伊東氏も、その例外ではなかった。
 なぜか伊東氏の棟梁である伊東義祐が武家としての調子外れを起こした。
 伊東義祐は文化人気取りで京都の雅な気分に浮かれて奢侈に溺れ、贅沢三昧、京風文化を取り入れて武家の本分を忘れてしまうのであった。まあ格別悪いことではないだろうが、奢る平家はなんとやらで・・・・。
 そんなわけで、伊東氏は武家本来の戦闘集団として次第に軟弱となっていった。弱みを見せれば付け込まれるのが世の常である。
 このように隆盛に奢って浮かれている伊東氏を倒すべく、領地奪還に燃える元祖領主の島津義弘は、元亀3年(1572年)伊東氏に戦いを挑んだ。このとき、3000人の軍勢の伊東軍がわずか300人の島津義弘率いる軍勢に敗れるという有様であり今に語り継がれる「木崎原の戦い」で伊東氏は大敗北した。
 いったい何があったのか。この戦いは戦史研究でも興味深いものがある。
 
 話はこの文章の本来のテーマとは無関係に、どんどん横道にずれていくのだが、乗りかかった船の誼でしばしお付き合い願いたい。
 
 この「木崎原の戦い」の敗北で伊東氏は日向伊東氏を支えてきた多くの武将や重臣を失ったことが致命的だった。以後の日向伊東氏は衰退した。
 島津に追われ伊東氏義祐・祐兵親子とその主従は命からがら宮崎を逃げ出しすかなかった。その後は瀬戸内海を彷徨い、没落の不運を嘆きつつ放浪していたのだが、どこまで伊東氏は運に恵まれた一族なのであろうか。
 
 落魄の身でありながらそれまで付き合いのあった知人や支援者などの有形無形の助力を得て幸運にも豊臣秀吉の知遇を得る。伊東義祐の3男である伊東祐兵が羽柴秀吉に仕えたのである。そのとき、「次は九州攻めだ、誰か先陣を切るやつはおらんか」という秀吉の問に名乗り出たのが伊東祐兵である。
 「おそれながら我が伊東一族はこれまで日向を本拠地としておりました。九州のことなら我が庭のごとく知悉しており申す、なんなりとご下命くだされ」
 と言上する伊東祐兵に秀吉は破顔一笑、
 「そうか、頼もし、先陣は任す、存分に働いてみせよ」
  上機嫌になった。と、こういうシーンがあったのか、なかったのか、しかとは解らないのだが、ともかく伊東祐兵は秀吉の九州平定軍の先導役として任命されて出陣しめざましい活躍をしたのである。
 その功績により伊東氏は再び飫肥の地を取り戻したのである。作り話ではなく、これが史実なのだから、漫画みたいな話だ。
 伊東氏が失脚したあと、飫肥を支配していたのは島津氏であった。伊東氏から飫肥を奪還したのはいいが、秀吉が敵とあっては相手が悪かった。秀吉の九州平定により島津氏は秀吉軍に降伏した。そして日向国の伊東氏旧領を全て明け渡して薩摩へ撤収した。その後に伊東氏がまさに奇跡的とも言える10年越しの日向大名としての復活を果たしたのである。
 
 この伊東氏の大逆転はなんたる奇跡か、天もびっくりの強運というべきか。
 さらに驚くのは、その後の関ケ原の決戦である。
 当然、伊東氏は大恩のある秀吉側につくと思いきや、豈図らんや、九州大名のほとんどが西軍につくなかで、伊東氏はなぜか徳川の東軍にこっそりと参加して勝運を拾っている。まさか、まさかの強運というか、慧眼というべきか。
 関ケ原の戦いのときには、伊東氏総帥の伊東祐兵は大阪で重い病に伏していた。祐兵は成り行き上、西軍に加盟すると伝えるのだが実際には病気を理由に関ケ原に出陣はしていない。
 その上で、黒田官兵衛を通して内々に徳川家康に恭順の意を伝えたのである。その証拠として嫡男の伊東祐慶を密かに九州へと派遣している。実際に、伊東祐慶は九州では数少ない東軍として西軍側と戦っている。
 この伊東祐兵の実質的に東軍に加担すると決めた判断と九州へ派遣された息子の伊東祐慶の働きが徳川家康にしっかりと伝わり、その後の伊東氏の命運を決めた。
 名目上は西軍についたが、自らは徳川に恭順する意志を伝えて伊東祐兵は一歩たりとも動こうとはしなかった。そして、九州では息子を総大将とする伊東家の家臣軍団が家康の東軍として西軍相手に戦ったのである。
 この功績により、徳川政権樹立後も伊東氏は日向の所領を安堵されたのである。
 その後なんと伊東氏は明治維新まで宮崎の殿様であり続けた。
 日南市の来し方を振り返ればこんな歴史が秘められている。
 
閑話休題(あだしごとはさておきまして)

 なぜ「日南」を今回、取り上げたのかと言えば、ある俳句のブログを見たためである。
 それが次のブログである。
 
 この中に、「日南」を使った俳句が取り上げられている。それが次の一句である。
 
 https://haiku-textbook.com/risshu-famous/
 
 【NO.14】右城暮石

『 日南暑し 朝を裸で 今朝の秋 』

季語:今朝の秋(秋)

意味:日南地方は暑いなぁ。朝でも裸になりたいくらいだ、今日は立秋なのに。

ブログの解説には以下のようなことが書かれている。

解説●俳句仙人●
日南とは宮崎県南部にある地域です。暖かい地域なので、立秋といえども裸になってしまいたいくらいの暑さなのになぁというぼやきが聞こえてきます。

 引用はここまでだが、なんとなく、うっすらとこの解説に違和感を覚えた。

 この俳句を詠んだ俳人は右城暮石である。
 右城暮石という俳人は、日南市とは関係のない高知県の人である。ちなみに、この名前は、「うしろ ぼせき」と読む。
 
 

右城暮石の俳句

あきらかに蟻怒り噛むわが足を
ねんねこもスカートも膝頭まで
一芸と言ふべし鴨の骨叩く
一身に虻引受けて樹下の牛
万緑に解き放たれし如くゐる
人間に蟻をもらひし蟻地獄
何もせぬ我が掌汚るる春の昼
入学の少年母を掴む癖
冬浜に生死不明の電線垂る
夜光虫身に鏤めて泳ぎたし
水中に逃げて蛙が蛇忘る
氷菓売る老婆に海はなき如し
油虫紙よりうすき隙くぐる
百姓の手に手に氷菓したたれり
芒の穂双眼鏡の視野塞ぐ
草矢よく飛びたり水につきささる
裸に取り巻かれ溺死者運ばるる
電灯の下に放たれ蛍這ふ
首伸ばし己たしかむ羽抜鶏
鮎かかり来しよろこびを押しかくす


右城暮石の俳句鑑賞は、さておき、気になるのは

『 日南暑し 朝を裸で 今朝の秋 』

である。このブログの解説には、この俳句の意味としてこう書かれている。

「意味:日南地方は暑いなぁ。朝でも裸になりたいくらいだ、今日は立秋なのに。」

 また、その解説の下の囲みに
「日南とは宮崎県南部にある地域です。暖かい地域なので、立秋といえども裸になってしまいたいくらいの暑さ」
とも書かれている。

 とすれば、この句の「日南」は「にちなん」と読んで、宮崎県日南市を指す俳句だということになる。立秋とは、毎年の、毎年8月7~8日にあたるので季語としては秋だが季節としては真夏である。
 そうしてみると、真夏の朝は朝でも裸でいても寒くはない、場合によっては暑い、とさえ感じるのは「日南」地方だけのことなのだろうか?という軽い疑問が湧いてくる。また「日南」地方は特別に暑い、という解説だが、真夏に暑いのは日南地方に限ったことなのか?季節が秋、たとえば10月、11月でも朝は裸になりたいほど暑い、というなら、本当に暑い地域なのだろうと思う。そういう俳句なら「今朝の秋」という実際の季節は真夏の「立秋」という季語を使うのだろうかという疑問がわいてくる。
 
 
 この句の季語は「今朝の秋(けさのあき)」である。
 この季語は「秋」とはちょっと違う。俳句の季語として使う「今朝の秋」は、「立秋の日の朝。秋立ちそめた朝。今朝から秋めいた感じになったという気持を強調していう語。」(精選版 日本国語大辞典 )なのである。
 秋めいた感じになった朝。立秋の日の朝をいう季語が「今朝の秋」である。
 実際の季節は8月の上旬だ。
 秋らしい秋ではなくて、真夏の最中に、朝のほんの微かな気配に秋への予兆を感じる繊細さがある。暑さの中にある何らかの秋の爽やかさを表現したのが「秋が立つ」という感覚的な言い回しであり、秋の季語の中でも、とくに「初秋の季語」になっている。
 
 
 したがって「今日は立秋なのに日南の朝は暑いな」という解説にある「立秋」は「今朝の秋」の説明としては間違ってはいない。
 しかし、「立秋」は、先に書いたように毎年、8月7~8日なので真夏である。
 そうしてみると、「朝でも裸になりたいくらいだ、今日は立秋なのに。」という解説は、立秋を真夏と置き換えてみれば、「なのに」という書き方にはいささか、違和感がある。
 
 そうした細部はこの際、置いておいて、気になるのは「日南」である。右城暮石は高知県の人である。日南市の人であるなら、日南を俳句に詠むこともあろうが、高知県の人がわざわざ九州の日南市の地名をあげて俳句を詠むのだろうか?

 だが私は右城暮石についてはまったく詳しくない。この俳句専門ブログに異議申し立てるほどの何の知識も情報も根拠もないので、漠然とした違和感を感じたまでである。
 そうこうしているうちにこの俳句のことは忘れていた。
 しかし、完全に忘れたわけではなく、記憶のどこかに、小さい棘となって刺さり続けていたと言えるのかもしれない。


 たまたま何かのおりに、右城暮石の俳句と解説が記憶の谷間から浮上してきた。そのとき、「日南」という言葉を使った俳句はほかにないのだろうか?ふとそんな思いにとらわれた。それから、「日南」をつかった俳句を探していたら、いろいろと、見つかってきた。
 
 あるブログにこんなことが書いてあった。
 新聞に飯田蛇笏の俳句が紹介されていたが、その俳句にある「日南」の漢字に、「ひなみ」という読み方が書いてあった。「日南」を「ひなみ」と読むのは間違いで「ひなた」と読むのではないだろうか云々、ということが書かれていた。
 
 「日南」は地名としての「にちなん」がある。
 ほかに、「ひなみ」と読む例もあった。また「ひなた」という読み方もある。
 「ひなみ」というのは、意味がわからないが、「ひなた」というのはなんとなくわかる。陽が当たっている場所を「ひなた」というが、それに「日南」という漢字を当てているのだ。
  でも、「ひなた」なら、漢字は「日向」「陽向」がすぐに思い浮かぶのだが、わざわざ「日南」と書いて「ひなた」と読ませるのはいささか凝りすぎのような気もするのだが。
  
 そこでなにはともあれ、「現代日本文学全集」(筑摩書房)第91巻「現代俳句集」を開いてみた。この文学全集はかなり古いものだ。
 
 第91巻「現代俳句集」を見ると、俳人・飯田蛇笏の俳句に次の一句がある。

 乳牛に無花果熟る丶日南かな

乳牛が居て、無花果の実が熟れていて「日南」となる。
この「日南」も、先の俳句の解説にあるように、宮崎県日南市の光景を詠んだものなのだろうか?それとも「ひなた」なのだろうか。

 字余りになるが宮崎県の日南市の無花果を詠んだ俳句としても読むことができる。

 ところが、この句はどうもそうではないようである。なぜなら、この文学全集には俳句の漢字には漢字のよみかたが小さいルビ活字で印刷してあった。
 
「無花果」には漢字の横に「いちじく」と読み方のルビがふってあり、「日南」には「にちなん」ではなく、「ひなみ」でもなく、「ひなた」とルビがふってある。

 漢字を読む際に、無花果を見て「いちじく」と読める人は問題ない。しかし、どう読むかわからない人もいる。そこで、無花果を「むかか」「むかじつ」などと誤読しないためのルビだ。おそらく筑摩文学全集の俳句集を担当した編纂者がつけたものだろう。

 この俳句にはもうひとつ、ルビのついている漢字がある。それが「日南」だ。これには「日南」の右に極小の活字で「ひなた」と書いてある。
 「日南」もどう読めばいいのか、そして、どういう意味なのか、なかなか判読が難しい単語である。
 「ひなた」のルビの意味はこの俳句では「日南」は「ひなた」と読むのであって「にちなん」「ひなみ」などとは読まないという注意書きということになる。「ひなた」とルビがついているので、ああこれは陽のあたっているという意味だなと、意味もわかる。
 
 ところで「ひなた」というのは、日南のほかには日当、陽向、日向という漢字もそう読まれている。イメージでいえば太陽があたっている情景や空間を「ひなた」といい、反対は「ひかげ」(日陰、陽陰、日影)となり、太陽が照っている中で、特に陽の当たらない場所を指すことになる。
 陽の当たっている場所に「日南」という漢字をなぜあてているのだろうか。想像だが太陽が登っているとき、北半球では太陽は南から照るために南側には日がよくあたる。そこから日と南がくっついて「ひなた」に「日南」の漢字があてられたのではないだろうか。陽向、日当、日向もだいたい似たような意味で「ひなた」と読まれているのだろうと想像する。
 
 ここに、飯田蛇笏の俳句を引用し、そのルビを書いてきた。それらを引用したのは、「現代日本文学全集」(筑摩書房)第91巻「現代俳句集」からの引用である。この古い文学全集は活字印刷であり、俳句のルビも極小の活字で丁寧に付けられている。漢字に読みを付けた編者の精緻な研究成果や印刷所の職工さんの活字を組み上げた労苦を想えば、読んでいてペイジを開くごとに感動を覚えずにはいられない。現在ではほとんど製作が不可能と言える貴重本である。
 この全集の俳句に付けられたルビのお陰で、「日南」を「ひなた」と読むということがわかったのである。本当にありがたいことである。
 
 昔話だが昭和20年代はもちろん、30年代に入っても普通にそこらに活版印刷所があった。子供の頃、新聞印刷専用の活版印刷所によく遊びに見に行ったがゴミ捨て場に銀色をした鉛?の活字が捨ててあった。それを拾って宝物のように持ち帰ったことを今でも覚えている。活字には大きい見出し用の大活字もあれば、中くらいの大きさ、紙面本分用の小さい文字の活字もあった。写真用は微細な凹凸のある板のような版があった。先に書いた「ルビ」用の活字は、物凄く小さい活字である。これを漢字の活字の横にぴたっと張り合わせて動かないように、するのは相当に難しい活字組の技術だったのだろうと思う。活字は手に取ると漢字やひらかなが逆さまの凸型になっている。その逆さまの文字を判別して上下間違いなく手にもった小さい箱に揃えて詰め込んでいくのだ。
 
 よく新聞記者は新米の記者には活版印刷所を見せない、と聞いた。印刷機のインクや鉛の活字で真っ黒になって働いている職工の姿を見れば、どれほど汗水たらして夜を徹して新聞印刷の活字が組まれているか、それも毎日、毎日の紙面に合わせて活字を拾い、新聞の型に合わせて拾った活字を組んでいくのである。
 新聞記者がその印刷所の光景を見たら、もし大スクープがあったり、自分の記事の間違いに気がついたとき、「新しく記事を差し替えるので組み直してくれ」と印刷所へ原稿を回すのに、ためらわないわけがない。せっかく何時間もかけて組み上げた活字の1ページ分の版組を全部壊して、また一から活字を拾って組んでいくのだ。
 だから新聞記者はよりよい原稿を書くために新人記者には活字印刷の現場は見せない、ということだろう。
 
 それと活字は印刷すると字となる凸面が摩耗するので、何回も使うことができない。そこで活字印刷所には活字の型があって、摩滅した活字を加熱して溶かして型に流し込み新しい活字を作っていた。長い柄のついた柄杓で活字を溶かした銀色の液体を掬って新しい活字づくりをしていた光景を見た気がする。それはたぶん活字を拾った庭のごみ捨ての穴の周りでやられていたような気がするが定かではない。もう小学生のころの記憶なので、60年以上も前の話である。
 
 日本で鉛活字による印刷がいつころから始まったのか知らない。子供のころに、山本有三の「路傍の石」という小説を読んだことがある。その中に、たしか、吾一?とかいう主人公の少年が栃木県かな?働くシーンがある。彼は印刷所へ就職して、大人の職工から活字を拾う仕事を教わるのだ。印刷所とか、活字を拾うという仕事がどんなものかわからずに読んでいて、なかなか、子供心に活字を拾うのは一日中立ち仕事だし難しい仕事だなという印象を受けた。
 
 新聞だけでなく、そもそも、本も昔は全部、活字で組んで印刷していた。
 印刷所には本を一冊印刷する活字の箱がうず高く積み上げられていた。
 これはしばらくは保存しておく。もし増刷になれば、この活字箱を出して印刷するのである。活字をバラせば増刷の場合はまた一から活字を組まないといけない。
 
 際限ないので、本稿で二回目の横道へそれるのは、これにて終了する。
 
 飯田蛇笏の俳句に「日南」が使われており、それは、「ひなた」という言葉であることがわかった。それはそれで一件落着と思えるが、先の右城暮石の「日南暑し・・・」の俳句も「にちなん」ではなく、「ひなた」が正しい読み方なのだろうか?しかし、日南市の日南だということも完全に否定されたわけではない。
 
先に飯田蛇笏の俳句「乳牛に無花果熟る丶日南かな」を引用して、この「日南」は「ひなみ」と読むということを紹介した。

ほかに、調べてみると以下のような「日南」を使った飯田蛇笏の俳句が見つかった。
いずれも、「ひなた」と読んでさしつかえないように思うが如何だろうか。

雷やみし合歓の日南の旅人かな

山茶花や日南のものに杵埃り

みさゝぎや日南めでたき土筆

渓流のをどる日南や竹の秋
 
 
 では「日南」をいつころから「ひなた」と読むようになったのだろうか。あるいは「ひなた」という言葉に「日南」の漢字を当て始めたのはいつころなのか?これはよくわからないのだが、一説には尾崎紅葉の小説にこの使用例があるという。
 「日南」を「ひなた」と読んだ例のはじめは、尾崎紅葉『多情多恨』(『日本国語大辞典』と書いてあるそうだ。
 そこで尾崎紅葉の小説「多情多恨」を図書館で借りて開いてみた。
 この本は筑摩書房の『日本文学全集』第二巻である。余談だが、図書館へ行く前に実はネットでこの本を買ったのである。本が届いたので開いてみると、「多情多恨」が載ってない。あれ、おかしいな?とよくよく見たら、私が買ったのは「現代日本文学全集」の第二巻、だった。同じ、筑摩書房であるし、第二巻であるし、全集のタイトルも・・・・・と、よく見たら私の買ったのは「現代日本文学全集」であった。
 「多情多恨」の載っているほうの全集は、「現代」のない「日本文学全集」なのであった。間違えて買ったのである。それにしてもよく似た全集があるものだ。
 こちらの方には、尾崎紅葉のどんな小説が載っているのだろうか。
 金色夜叉
 二人比丘尼色懺悔
 拈華微笑
 心の闇
 青葡萄
 
 この二巻にはほかに山田美妙、広津柳浪、川上眉山の三人の小説も載っている。これはこれで面白い。早速、「金色夜叉」を読み始めた。これが、また凄い文章である。難解な漢字が次から次に出てきて、その一つひとつに、ほとんど読み方のルビがついている。
 明治の作家は頭に入っている漢字の素養の桁が違う。しかも、これが文学とは言い難い卑俗な通俗小説だというのだから絶句するしかない。どれほど明治の教養人が知的レベルが高かったのか驚嘆するばかりだ。
 
 またここで、「金色夜叉」に深入りするわけにはいかないので、間違えて買った本は置いておくことにして、図書館から借りた尾崎紅葉の小説「多情多恨」の当該箇所を引用しよう。
 
 
「柳之助は又一遍座敷から茶の間へ通って、茶の間から座敷へ出て、座敷から縁へ出ると、お種と保との不断着が魚を開いたやうに日南(ひなた)に並べて干してある。(筑摩書房『日本文学全集』第二巻) 

 「多情多恨」について言うと少しだけ読んでみた。これが滅法面白い。現代でいうダメ男の物語である。そういうわけで、今年の後半の読書は尾崎紅葉にどっぷりと、はまっているのである。
 
 と、ここまでだらだらと書いてきたが、この長い文章の結論は、「日南」という漢字は俳句や小説では「ひなた」と読むことがある、というたったそれだけのことである。



関連リンクは ↓ 「右城暮石の俳句」
Posted at 2023/11/05 15:12:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日々の雑感 | 日記
2022年10月27日 イイね!

10月26日は「柿の日」だという。
明治28年(1895年)10月26日(土曜日)に正岡子規が「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」という句を詠んだ日なのだという。

正岡子規が奈良の旅を楽しんだ此の年はどんな世相だったのか。

1月  樋口一葉が雑誌「文学界」に小説「たけくらべ」の連載を開始。

3月 イタリアによるエチオピア侵入始まる

4月17日 日清講和条約(下関条約)調印。

6月17日 台湾総督府開庁。

10月 李氏朝鮮の行政区画の改編、道、県、都護府を廃止して観察府と郡にする

11月27日 - アルフレッド・ノーベルがノーベル賞設立のもととなる遺言状に署名。

12月28日 - パリのホテル・スクリーブ・パリにおいて、リュミエール兄弟がシネマトグラフを用いた有料の映画上映を行う。映画興行の始まり。
誕生

この年、明治28年(1895年)忘れてほしくないことがある。
以下は外務省のHP。

 日本政府は、1895年1月、他の国の支配が及ぶ痕跡がないことを慎重に検討した上で、国際法上正当な手段で尖閣諸島を日本の領土に編入しました。

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 第二次世界大戦後、サンフランシスコ平和条約においても、尖閣諸島は日本の領土として扱われた上で、 沖縄の一部として米国の施政下におかれました。また、1972年の沖縄返還協定によって、日本に施政権を返還する対象地域にも含まれているなど、尖閣諸島は戦後秩序と国際法の体系の中で一貫して日本領土として扱われてきました。


 尖閣諸島の編入の後、日本の民間人が日本政府の許可の下、尖閣諸島に移住し、鰹節工場や羽毛の採集などの 事業を展開しました。一時は、200名以上の住人が尖閣諸島で暮らし、税徴収も行われていました。

 また、現在においても、警備・取締りや国有地としての管理が適切に行われています。

古賀辰四郎によって事業経営が行われていた鰹節工場
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▲古賀辰四郎によって事業経営が行われていた鰹節工場(写真:古賀花子氏・朝日新聞社)

一時期は古賀村という村ができるほど、多くの日本人が生活していた
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▲一時期は古賀村という村ができるほど、多くの日本人が生活していた(写真:古賀花子氏・朝日新聞社)
外務省 
https://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/c_m1/senkaku/page1w_000016.html

尖閣列島波高し。シナ独裁国家の魔の手から死守しないといけない。



柿の日に 尖閣思ふ 空の青 (拙作)


さて奈良は柿の発祥地と言われますが諸説あります。
シナが柿の原産地だとも言われますが定かではありません。
奈良は柿の産地も多くあり有名ですが生産量では和歌山県が柿日本一だそうです。和歌山はフルーツ王国で柿、みかん、桃となんでも美味しい。和歌山の柿はかつらぎ町、九度山町が有名です。奈良へ入ると旧西吉野村の五條市、下市町の栃原など柿山が連なっています。

日本には約1000種類の柿があり、甘柿は鎌倉時代に日本で生まれたものだそうです。

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 柿の季節になって最初に店頭に並ぶのは四角い甘い柿です。これは「合わせ柿」という柿です。
 もともとは渋柿なのですが甘柿に変身させる技術を使って加工します。これが「合わせ柿」。柿の渋抜きには現在はドライアイスなどを使っていますが昔はお湯に漬けたりして甘くしてから出荷していました。家でやるなら焼酎につけても渋抜きできます。
 このような渋抜き処理をした柿を「合わせ柿」と呼んでいます。とても渋柿だったとは思えない甘くて美味しい柿です。この品種で有名なのが「平核無柿」(ひらたねなしがき)で平で四角い形をしています。これとほとんど同じ柿ですが「刀根早生柿」(とねわせがき)という品種がありやはり渋柿で渋抜きをした合わせ柿として市場に出されます。 
 刀根早生柿(とねわせがき)は平核無柿(ひらたねなしがき)を元にして接ぎ木して作られた新品種です。
 開発したのは奈良県天理市の刀根淑民氏です。
 台風で折れた平核無柿を、試しに接木して育成したところ平核無柿より早く実をつける柿になったそうです。
 また柿の王様といわれる甘柿の代表は「富有柿」です。
 この富有柿は岐阜県瑞穂市(旧本巣郡巣南町)が発祥の地です。「富有」の命名の由来は、中国の古典『中庸』の「富有四海之内」に由来します。
 徳があればその富は四海の内を有(たも)つという意味だそうです。まあ古典の解釈はそれとして、おいしい富有柿を食えば富が集まり幸せになれるありがたい柿だと思ってお食べください。
 


下記のサイトには柿の歴史がかなり詳しく書かれています。
縄文人も柿を食べていたことがわかります。

http://www.fuyugaki.com/?mode=f3#:~:text=%E6%9F%BF%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%94%A3%E5%9C%B0%E3%81%AF%E4%B8%AD%E5%9B%BD,%E6%B7%B1%E3%81%84%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82

化石や遺跡、最古の書物にも柿の名が! ~古代から平安時代~

岐阜県瑞浪市の第三紀層から柿の化石が見つかる
縄文時代や弥生時代の遺跡から柿の種が発掘されている
万葉歌人で有名な柿本人麻呂は、屋敷に柿の木があったので柿本と名乗っていた
古事記(712年)や日本書紀(720年)に人名や地名で多数記述
藤原宮(694~710年)遺跡から、柿の種子が多量に発見される
平城京(710~784年)遺跡から柿の値段を書いた木簡が発掘される
日本最古の薬物辞典である平安時代の「本草和名(900年代初期)」に「加岐」として記述
平安時代の辞典「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」には「賀岐」として記述
平安時代の法典「延喜式(927年)」に祭礼用の菓子として使われ、宮廷でも栽培されていたと記述


 歌人として有名な柿本人麻呂という人物がいる。これほどの有名人だがいまだに生誕地、逝去地が定まっていない謎の人物である。

 此の人の生地が奈良県葛城市だという説がある。
 いまも奈良県葛城市新庄町には柿本という場所があり「柿本神社」がある。近鉄電車では「大和新庄」という駅がある。当麻寺のある近くだ。

  柿本人麻呂は島根県石見で亡くなったと言われているがその亡骸はこの新庄町の「柿本神社」の墓地に眠っていると地元では伝えられている。
  柿本神社の本殿脇には人麿塚がある。

alt

人麿塚

そしてどういういわれがあるのかわからないがこの神社では例大祭の4月18日に「チンポンカンポン祭」というものを催行しているという。一度どんな祭りなのか見物に行きたいと思いつつ果たせていない。
 http://kamnavi.jp/as/katuragi/sinjokaki.htm
 
 最後に柿を食べすぎると胃の中に結石ができて痛むことがあるらしいです。これは柿胃石という。柿を大量に食べるとタンニンを主成分とする柿胃石ができてしまう。当たり前ですが秋の柿の時期に発生することが特徴です。
 柿を食べすぎて胃が痛むというときは柿胃石を疑ってみてください。この解消にはコーラを飲むと柿胃石を溶かすので治るといいます。柿好きの人はコーラも飲むようにすればいいかもしれません。
 
Posted at 2022/10/27 11:45:57 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日々の雑感 | 日記
2022年04月25日 イイね!

「ほれ見てみぃ!」

高血圧の治療薬の降圧剤をやめてみたらどうなるかという研究の結果



この動画の中で大槻香奈医師が「ほれ見てみぃ!」と勝ち誇ったように口走る箇所が二箇所あります。これを見ていつ見ても笑えます。大槻先生はまじめに語っておられるのですけどまさしく「ほれ見てみぃ!」という気持ちになれる動画です。実は私も10年くらい、もっとかも、高血圧と診断されて降圧剤を真面目に飲んできたのですが一年位前からやめました。その結果確かに60-120が70-140くらいに上がりました。しかし毎朝二粒の降圧剤を辞めてこの程度ならま、いいか、と思っています。高齢者と若者は血圧は同じではない。という「ほれ見てみぃ先生」のお話に納得です。


高血圧の薬と水分の関係


高血圧の薬は身体の中でどんな作用をしており血圧が下がる理屈はどんなものか?栗を飲みながら何も知らなかった。この動画は体内の水分と血圧の上下する関係をわかりやすく教えてくれます。

40年ほど前にある中堅の医薬会社を取材したことがあります。そのとき製薬会社の幹部の人がこう言いました。
「今後の医薬品開発の目標は、大きく3つあります。一つは毛生え薬、2つ目はボケ防止薬、3つ目は高血圧の薬です」と。  
いずれも高齢化社会に必要な薬で素人目にも売れそうな医薬品です。
しかも、効くような効かないような薬の効能がやや曖昧な領域に感じられます。白黒はっきりしない、ファジーな世界はいつの世もあるものです。そもそも現代科学といっても人の心も解明できないし散る花の行方を正確に言い当てることさえできない。ましてや地震がいつどこで起こるかなんて言う地震予知はそもそも学問として成立すらしない。偉そうに言えば科学万能は盲信、迷信の類でしょう。
 

「人の心は移ろいやすく,つかみどころが無いもの
だ」といったフレーズはしばしば耳にするが,人が人
らしくあるためには,心は「移ろいやすく,つかみど
ころが無いもの」であるべきだと筆者は考えている.
近年のコンピュータ関連技術の発達により,計算機
による画像や音声の情報処理能力は,人の感覚器であ
る視覚や聴覚の機能に急速に近づきつつある.しかし
ながら,カメラで「見た」物体や,マイクで「聴いた」音
を認識することが可能になっても,目にした風景や耳
にした音楽に感動するコンピュータの登場にはまだま
だ多くの課題が残されている.
最大の問題は「心」であろう.感性情報処理という研
究分野では,人の感性を工学的に扱う試みが盛んに行
われている.(徳丸 正孝)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsoft/19/1/19_2/_pdf


こういう曖昧にして人の気持を唆る分野にこそ商機は眠っているのかもしれません。 

都々逸 - あついあついと言われた仲も - 弾き唄い♪ - shamisen

https://www.youtube.com/watch?v=XxhBRWdMadg
夏から秋へ、季節がじきに移ろふやうに、人の心も移ろいひやすきもの。
弾き終わったあと、この動画、一番最後のエともン、へとも言えない短い声が余韻というか効かせどころと個人的には思います。

都々逸でお口直しを。
Posted at 2022/04/25 09:00:23 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日々の雑感 | 日記
2022年04月20日 イイね!

徳を積む

 君が「徳が大事である。何とかして徳を高めたい」ということを考えれば、もうそのことが徳の道に入っていると言えます。「徳というものはこういうものだ。こんなふうにやりなさい」「なら、そうします」というようなものとは違う。もっとむずかしい複雑なものです。自分で悟るしかない。その悟る過程としてこういう話をかわすことはいいわけです。「お互い徳を高め合おう。しかし、徳ってどんなもんだろう」「さあ、どんなもんかな」というところから始まっていく。人間として一番尊いものは徳である。だから、徳を高めなくてはいかん、と。技術は教えることができるし、習うこともできる。けれども、徳は教えることも習うこともできない。自分で悟るしかない。
 これは松下幸之助の言葉だ。ちなみに「人間として一番尊いものは徳である」とまで松下幸之助は言っている。
 昨今あまり徳という言葉は耳にしないような気がする。徳を積むというのは人間性の練磨や精神修養と重なる言葉である。万事慎みを忘却し心なき現代世相においては徳という言葉は半死語化しつつあるのかもしれない。ときどき聞くのは、徳ではなく、不徳である。
 政治家が選挙で落選して「不徳のいたりです」と話したりする。落選の決まり文句だ。
 
 一般には徳を積むとも言うが、徳は懺悔などと並んで仏教用語でもある。
 仏教界では「功徳」という。
 仏教的には簡単に言えば徳を積む行為とは善行である。
善行とは「悪いことをせず、良いことをする」のである。具体的には「施し」が徳を積むことになる。
 だからお布施を惜しんではいけないよ、なんて坊主が言うのは如何なものか。それこそ不徳のいたりというものだろう。

仏教では布施を施すことが最も大切な仏道修行とされている。
「施しは無上の善根なり」と云う言葉もある。
仏道修行をする者はとして六波羅蜜を実践実行しないといけない。
六波羅蜜とは大乗仏教で説く悟るための六つの修行徳目のことで「六度」とも言う。この六項目は布施(ほどこし)・持戒(戒律を守る)・忍辱(耐え忍ぶ)・精進(努力する)・禅定(心を落ち着かせる)・智慧(学ぶ)である。
 布施は六波羅蜜の冒頭にあげられているように特に重要である。
「布施」こそが仏道修行する菩薩であることの必須条件なのだ。

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画像 量子禅縁
https://qtzen.com/giving/

 「布施」の修行には、財施、法施、無畏施の三種類がある。 
 「財施」とは文字とおり人にお金や物を施すことだ。
 「法施(ほうせ)」とは、仏教の教えを説いてきかせること。
 「無畏施(むいせ)」とは、人の恐怖や不安を取り除き安心させることである。
 布施についてお金を施すことだと思いがちだがそうではない。
 たとえば法華第一の日蓮聖人は弟子への消息文の中で「蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり」と述べている。蔵の財であるお金を貢ぐより仏に尽し仏道修行することがより大事である。それよりもなお法華経の信心を全うする心を持つことが最高の布施であると信者に教えている。心というものはうつろいやすく頼りないものである。だが心ほど千金に勝って強いものはない。
「一切は心より転ず。」とは「華厳経」にある言葉だ。
扇で言えば、心は、扇の要である。扇は要が壊れれば骨も扇面もばらばらになって使い物にならない。心は一切の要である。
 
 善行、美徳、徳行、篤行なども総じては徳と同じ意味だ。
 「美徳のよろめき」は三島由紀夫の書いた長編小説だがこれはこの際何の関係もない。ただ徳という言葉を聞くと、三島由紀夫を思い出すのはこの「美徳のよろめき」という秀抜なタイトルの言葉の力のせいだ。閑話休題。あだしごとはさておきまして。閑話休題に、こういうしゃれた和名を与えたのは井伏鱒二である。それもまた無関係な雑談である。
 
 陰徳あれば陽報あり、とも言う。
 人に知られずひそかに善行をすれば、いずれ、よい報いを得られる、という諺である。
 サントリー創業者の鳥井信治郎氏はこの言葉を座右の銘にしていたという。
 「ある者がない者に施しをする。そんなんは当たり前や。いばることもないし黙ってしてやったらよろし。」と言っていたという。なかなかできそうでできないことだ。神仏の霊魂ともいうべき慈悲の心を体現して生きた御仁なんだろう。心から敬礼!

 ふと思い出したが小学校三年か四年のころだと思うが国語の教科書にシュバイツアーの話が載っていた。恵まれた子供だったシュバイツアーは朝はふかふかのベッドで明るい朝日が差し込み小鳥の囀りで目覚めた。自分は幸せだと実感した彼はやがて貧しい人々のために貢献しようと考えはじめた云々。学校の授業でのこと。この文章を読ませて教師がどんな感想を持ったかを生徒に質問していた。たぶんシュバイツアーの伝記の一節だったのだろう。
 私は「はい」と手をあげて「金持ちが貧乏人に施すのは当たり前のことであって偉人など持ち上げて褒めることではない。そうしない多くの金持ちの方がおかしい。貧乏なら人に施しをしたくてもできないのだ」と反論した。
 先生は私の意見がおもしろいと思ったのか「今度PTAで父母の授業参観があるのでいまの意見を言ってほしい」と言った。そして「○○くんの意見はなるほどと思うけど貧乏人だから人に施しができない、と決めつけるのはどうだろうかな。人にはどんな人でも何かできることはあると思う」とも言った。
 「なぜ自分だけが裕福なのか。同じ人間なのに他の貧乏な子供たちと違って恵まれた生活をしているのか」とシュバイツアーは子供心に苦悩したと伝記には書いてある。この子供の時の体験、人間の社会を支配する不条理な貧富の差を身をもって痛感したことがその後のシュバイツアーの人生を決定的に変えていく動機となった。
 シュバイツアーをめぐる国語の時間がPTAの授業参観となった。それはまもなくあって私は先生に指されて同じような意見を述べた。それをもとに皆の意見を聞くというような授業があった。だが残念ながら父も母も仕事で来ることはなかった。それはいつものことなのだった。戦後まもないベビーブーム世代の当時は世の中ほとんどが貧しい時代でありPTAの授業参観に来られない親のほうがむしろ多かったのではないだろうかか。
 
 徳を積む。これほど今の世相と乖離した心構えはないのかもしれない。昨今の金銭万能、金銭崇拝の世相にあっては「徳」ではなく、「得」を積む方に皆さんお忙がしいようだ。何か得する方法はないのかと鵜の目鷹の目。儲け話に飛びついて大金を投入し、挙げ句の結果に詐欺とわかって大損するというニュースが後を絶たない。寒々しい世相である。有り金、老後資金を失って「得」ではなく「求不得苦」に喘ぐとは洒落にもならない。

 ちなみに求不得苦は仏教でいう八苦の一つである。
 八苦とは生・老・病・死の四苦に加えて次の四苦を言う。
 愛別離苦(愛する人と生き別れる苦)
 怨憎会苦(おんぞうえく)(うらみ憎む人と会う苦)
 求不得苦(ぐふとくく)(求めるものが得られない苦)
 五陰盛苦(ごおんじょうく)(心身のはたらきに執着して起こる苦) 
 これらの苦を称してよく言う「四苦八苦」となる。
 
 このなかで最後の五陰盛苦は少しわかりにくいかもしれない。
 【五陰盛苦】(五蘊盛苦)
 五陰盛苦とは肉体と精神が思うようにならない苦しみのことをいう。
「五陰」は「五蘊」と同じである。
色(物体、形あるものすべて)
受(五感による知覚、感覚)
想(受を心のなかでイメージすること)
行(イメージを意志に移行させること)
識(判断し認識すること)のこと。
 この五要素は もともと人間に備わっている心や身体の機能でありそれ事態が苦なのではない。これらの五つの要素に「執着する」ことで苦が起こるのである。
 煩悩は執着から起こる。だが欲しい物が得られたとしても物欲は絶えることがない。欲望は満たされれば満たされるほど飢餓感も増すものである。また最愛の人と巡り会えてもいつかは別離の宿命が待っている。
 では執着しなかればいいではないかというのは屁理屈である。人はやはり物や心に執着する煩悩の塊のような生き物なのである。

 そこで仏教的解決の知恵としては、「五蘊は皆空なり」と悟ってこそ一切の苦しみから解放されることになる。これは般若心経の最初に出てくる。歳を取り病み死にいたるすべてが悩みであり苦である。だがそれは誰も逃れられない人間の宿命である。したがって人生はすべてが苦ではあるが四苦八苦の五陰盛苦から救われるには五陰盛苦を五陰皆空と悟ることである。
 人の肉体といい心といい永遠不変ではなくいつかは消えていく夢幻であり諸行無常なのである。
刹那への慕情。それが人生なのかもしれない。
 一切皆苦・諸行無常・諸法無我・涅槃寂静。
 仏教の悟りを示すこの四法印も言ってみれば、この世のすべては変化し実体がないものであると悟ればそこに執着する心が無くなり煩悩に悩まされなくなるという教えである。
 人間が執着してやまない「五陰」というものの実態はすべて「空」であると悟ることが妄執による苦から逃れられる道なのである。
 一切皆苦を一切皆空と悟ることができるかできないか。その辺が人生一切皆楽への転換ポイントであり仏教の奥底のように思われる。

 最後に、というかこれを単に紹介したいと思っていたのだが前置きが長くなってしまった。毎度の前座の本番倒しみたいな文章で申し訳ないが次の画像を見てほしい。
これで簡単に「徳が積める」という漫画のようなオチが今回のブログである。
 alt
 奈良県橿原市の会社が考えた商品だということである。
 徳を積むという、日本人が古来大切にしてきた心が失われつつある昨今。せめてこのお手軽な徳積みで徳を積む経験をしてみられては如何だろうか。何ですか?それだと徳罪だろう、と?かもしれませんな。いずれにしても「徳」は遠くになりにけり、ということで。おあとがよろしいようで。
 
この徳積みブロックの商品情報のリンクは下の関連情報にあります
Posted at 2022/04/20 11:50:38 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日々の雑感 | 日記
2022年01月23日 イイね!

テーブルに沈んでいく桃

この絵はなんなんだろう。
一枚の絵が目の前にあった。一見静物画という油絵である。
応接間のような部屋のなかに一台の木製テーブルがある。チェックの柄のテーブルクロスがかけられている。
その上に桃が描かれている。桃は器に入っていない。一個の桃がぽつんとテーブルに乗せられている。
まあそこまでは普通の絵のように見える。
だがよく見ると熟れた美味しそうな桃が乗っているテーブルクロスが少し歪んで見える。歪んでいるというか凹んでいる。桃の乗ったテーブルクロスがテーブルにめり込んでいる。大げさに言えば桃が硬い木のテーブル沈みつつあるのだ。桃がテーブルの木に半分ほどめり込んでいる。物凄い重力のある桃としか思えない。厚みのあるテーブルをそのうち貫通してしまいそうだ。しかし見た目にはごく普通の桃でしかない。
不思議な絵であった。

 その絵を見たのは東京の立川の駅ビルの上階にあるそう広くない展示場で開催されていた美術展である。そこは同じフロアーに世界堂という画材屋もあり朝日カルチャーセンターも一階上にあったように思う。いまもその駅ビルはあるかもしれない。もう40年位前のことである。その美術展はたぶん立川市とか国分寺市とか多摩の地元の画家たちが作品を展示したたとえば「多摩美術展」といったような小規模のものだったように思う。
そのとき偶然なのかちょっとした知り合いだったのかいまとなっては判然としないのだがその絵を描いた画家と話をしたのだった。その画家の言った言葉はもう仔細は忘れてしまった。だがその画家はテーブルの上に置かれた桃がテーブルの木よりも重いこともあり得るのだという意味のことを喋った。そしてこの絵は桃がテーブルに沈んでいくところを描いたという説明をしてくれた。そのとき物の重量は軽いだの重いだのは錯覚であって実際には軽く見えても重いかもしれないしその逆もあるはずだというようなことを画家は言った。
 まさしく桃とテーブルの重量関係はこの画家によって逆転しているのだ。はっきりとそういう意図でこの絵を描いたと彼は言った。
 いや桃は一つではなかったかもしれない。いくつか無造作に果物がテーブルの上に乗せられており中央にある桃だけが凹んだテーブルクロスの中心にあるという構図だったのかもしれない。ともかくテーブルにめり込む桃という絵であることだけは確かに記憶している。
 その画家は「このほかにもう一つ絵を出品している」と言った。
 「そうですか、どこにあるんですか」
 「これです」
  画家は桃の絵のそんな遠くない場所にある一枚の絵を見せてくれた。それは青というか黒というかそういう背景のなかに黄色い蝶々が列になって飛んでいる絵だった。
 「これは蝶々ですね」
 「地球にはいろんな生物がいますよね」
 「いますね。いろんなのが」
 「たとえばこいう蝶々なんて私は地球から生まれた生物とは思えないんですよ」
 「・・・・・・・」
 「たぶん私は蝶々はどこか宇宙の彼方にある星から地球に渡ってきたのだろうと思いましてね。それでこれは暗い宇宙の彼方から地球へ向かって旅してくる蝶々を描いたんですよ。いまもね宇宙をいろんな生物が飛んでいるかもしれない。まあそんな光景をこの絵は描いたんですけれどね」
 「はあそうなんですか」
  その画家はほかにもいろんな生物が地球にいるがほかの天体から地球に降ってきた生命があると思うと言った。 
  その画家は自分の想像世界を絵にしていた。
  自分の想像なのか直感なのか哲学なのか。
  私は想像ダニしなかった世界の扉をその無名の(多分そうだと思う)画家によって開かれた思いがした。目から鱗というか、凡人の常識ではありえへん世界が芸術家の目にはリアルに見えるのか、と衝撃を受けたのである。
  その人はごくありふれた風体の人だったが話していることは詩人のように想像力豊かだった。ほかに何を話したのか、その後、どうしたのか?そもそも何という名前の人だったのか。まったく記憶にない。ただ美術展会場で二枚の絵を前に画家と会話したことと絵の記憶があるばかりである。
 なぜそんな昔の記憶が蘇ったのか。
 今日、実は一冊の本を読んだのである。その本は「時間は逆戻りするのか」
 宇宙から量子まで、可能性のすべて 高水裕一著(講談社 ブルーバックス)である。

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 時間というものは過去から未来へと一方向にしか流れない。なんとなく漠然とそう思っていないだろうか。だがほんとうにそうなのか?未来から過去へと流れる時間は本当にないのか?という疑問に答えるべく英国でホーキング博士に薫陶を受けた高水氏が最新の量子力学をはじめ理論物理学の先端知識をわかりやすく説いている。
 数学も、物理も、化学もまるで理解不能な私でも著者の筆法のおかげてなんとなくわかったような錯覚(この辺、うぬぼれもいいところでバカ丸出しですけど)を覚えるありがたい本だ。理系の人なら楽しんで読めるでしょうね。
 なんとなく時間は一定であると思っているのだがそうとは限らないと著者は軽く言ってのける。
 たとえばよく知られれいる浦島太郎の物語がある。
 あの物語では海底の龍宮城では時間のスピードは物凄く遅い。地上では普通に時間が経過していくのだが竜宮城時間はのろのろである。そしてほんのしばらく滞在した気分で浦島太郎がもとの浜辺に戻ったとき陸上の時間はとっくに過ぎ去り玉手箱を開け元の時間に戻った彼はよぼよぼの老人になっている。この物語は時間は空間によって遅かったり速かったりして一定ではないということを示している。これなら文系脳でもどうにか時間論が理解できるヒントにはなりそうだ。著者はこの浦島伝説について(アインシュタインの)「特殊相対性理論を彷彿とさせる昔話」だと述べている。
 
 まだ半分ほどしか読んでいなのだがその中でアインシュタイの一般相対性理論が解説されているくだりを読んでいるうちにふっと何の脈絡もなくあ40年ほど前の桃がテーブルに沈んでいく絵を思い出したである。
 アインシュタインの相対性理論には二種類あり最初が特殊相対性理論というもので光速に近いスピードで物が移動している特殊な状況においては時間や空間が伸び縮しているという理論である。
 次に説かれた一般相対性理論というのはテーマが呪力いや間違えた呪力もとい重力である。
 アインシュタインは重力とは時空の歪みによって生まれると予言しブラックホールの存在も予言したのだ。私が書いたのではなく、この本にそういうことが書かれております。
 その箇所の図解の絵を見たとき「これは・・・・・・」と鳥肌立つ思いがした。この図解をそのまま油絵にしたものこそがあの立川駅ビルの美術展で見た桃の絵だったのである。
 その図解が下の画像だ。先に紹介した「時間は逆戻りするか」の本の58ページにある。

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 この黒い●を桃だと思って下さい。そうすればあの画家の描いたテーブルはなんとブラックホールだったのではないでしょうか。
 桃は自重でテーブルにめり込んだのでなくブラックホールに吸い込まれていく途中だったのかもしれない。
 恐ろしいのはまさにあの画家である。もしかしてあの画家は物凄く物理を勉強しアインシュタインの理論を油絵にしたのかもしれない。絶句するしかない。
 そしていま私の脳裏にはもう一枚の絵が浮かんでいる。
 もしかして蝶々も地球から発生したものではなく宇宙をはるばる旅してやってきた生命なのかもしれない。そう本気で少し思い始めている。

この文章に一つ追加をします。
今日は令和4年6月7日ですが今朝の産経新聞に次の記事が掲載されていた。
日本の宇宙探査機「はやぶさ2」が小惑星「りゅうぐう」から持ち帰った石や砂の中から生命の元となるアミノ酸が20種類見つかったというビッグニュースである。
私はこの文章で何十年か昔に無名の画家が描いた蝶々が宇宙から地球へ渡ってくるという幻想的な絵を見たトイウ話を書いた。その画家は地球の生命体は地球で生まれたのではなく宇宙から飛来したのだと思うと話をした。そのとき私は半信半疑でその画家の話を聞いていたのである。
だが今回の宇宙探査機の成果を見るとあの画家の言っていたことはあながちありえないことではないのかもしれない。

最近私はサボテンの花を見てこんな妖しい花が地球上で生まれたものか疑惑を感じるようになった。乾燥に極度に強いなどというサボテンは地上の水分を欲しがる植物とは系統を異にしている。もしかしてサボテンの花は宇宙から隕石に含まれた種が地上にもたらした奇跡の花なのかもしれない。
みなさんはどう思われるだろうか。
以下は今朝の産経新聞の記事です。

リュウグウの試料からアミノ酸 20種類以上、生命の起源解明の手掛かりに
2022/6/6 11:36
ライフ
科学
はやぶさ2



日本の探査機「はやぶさ2」が2020(令和2)年に小惑星リュウグウから地球に持ち帰り、成分や状態などの詳細な分析が進められている試料から、タンパク質の材料となる有機物のアミノ酸が20種類以上検出されたことが6日、関係者などへの取材で分かった。生命の源となる極めて重要な物質のアミノ酸が地球以外の天体で発見されたのは初めてで、地球の生命の起源を解明する上で大きな手掛かりとなりそうだ。


はやぶさ2は、太陽系の起源や生命誕生の謎を解き明かすことなどを目的に、リュウグウの表面や地下から試料を採取。砂状の試料約5・4グラムを持ち帰った。これまでの分析で、水や有機物の存在を示唆するデータが得られており、より生命の構成物に近いアミノ酸の発見が期待されていた。

生命に欠かせないアミノ酸の起源は、46億年前に誕生した地球上でさまざまな現象が起きる過程で作られたという説と、宇宙から飛来したという説があり、今回の発見は後者の説を補強することになる。アミノ酸は隕石(いんせき)からもしばしば発見されているが、リュウグウの試料は地球の大気に全く触れていないことから状態が非常によく、より試料としての価値が高い。

はやぶさ2は一昨年12月に約6年の飛行の末に帰還。リュウグウの試料を入れたカプセルを地球に持ち帰ることに成功した。宇宙航空研究開発機構(JAXA)や東大、広島大など全国の研究機関で本格的な分析が始まっており、試料は高温にさらされた痕跡がみられなかったことや、過去の隕石に比べて最も密度が低いことなども判明している。


Posted at 2022/01/23 21:15:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日々の雑感 | 日記

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