「日南」という漢字について少し考えてみたい。
これをどう読むのが正解なのだろう。
「日南」といえば、まっさきに思いつくのが九州の「日南市」。宮崎県にある市の名前についている「日南」(にちなん)である。
日南市のホームページには次のように紹介がある。
日南市は、宮崎県の南部に位置し、東に日向灘を臨み、西は都城市・三股町、南は串間市、北は宮崎市に隣接しています。
宮崎市から日南市を経て鹿児島県に至る延長112kmは全国有数のリアス式海岸で、日南海岸国定公園の指定を受けています。
ちなみに、人口は約50000人である。
現在の日南市の「日南」という名称は古名ではなく、比較的新しい名称で戦後の命名である。
昭和25年(1950年)1月1日 に油津町,飫肥(おび)町,吾田町,東郷村が合併して成立した市名が「日南市」である。
この地域のその昔をたどると、古くから「飫肥」(おび)と呼ばれていた。
平安時代後期になり島津荘という荘園が成立した。荘園の持ち主は現在の奈良県の強大な寺院・興福寺だった。そこで飫肥(おび)は一時期は奈良の興福寺一乗院が荘園領主となった。その後、武家の台頭があり、「飫肥」は薩摩国の島津氏の支配下に入る。
この飫肥は山と海に恵まれた地域であり、豊富な山林資源に加えて、海岸線には油津や外之浦という日明貿易や琉球貿易の拠点となる港湾を有する要衝の地であった。そこで戦国時代には、これまで飫肥を勢力下に置いてきた薩摩の島津氏に対抗して新たに宮崎平野一帯に勢力を拡げてきた新興勢力の伊東氏が飫肥をはじめ宮崎一帯の領有権を巡って抗争を繰り返したのである。島津が九州の地元の武士集団というのはわかるが、そこに割り込んできた伊東氏とはいったいどこから来たのだろう。
伊東氏はもともとは鎌倉幕府勃興の地、武家の本拠地とも言える関東武士だ。関東の中でも南部に属する伊豆半島に興った武家が伊東氏だ。伊東氏は伊豆の出身とあって海に強くその子孫が各地へ出張って勢力を拡大した。
伊東氏の中の一族が鎌倉幕府から日向の地頭職を与えられた。
これが伊東氏の九州進出の端緒である。彼らは地頭職を任せられたので現在の宮崎へはるばると赴き、以後土着して勢力を拡大した。これが「日向伊東氏」である。
この日向伊東氏は、やがて九州の大勢力である薩摩の島津氏の強い対抗勢力になっていく。
室町〜戦国期を通じて、日向伊東氏は守護の島津氏と抗争を繰り返しながら版図を拡大した。伊東氏は11代当主伊東義祐の時代には最強勢力となり、現宮崎県の佐土原城を本拠に四十八の支城を国内に擁し最盛期を迎えた。飫肥には伊東義祐の子の伊東祐兵が飫肥城を与えられていた。さすがの島津氏もなかなか手を出せない伊東氏の勢力であった。
だが夜の栄枯盛衰を見ると武家に限らず時としてそれまでの資産を食い潰す奇人変人がたまに出現する。伊東氏も、その例外ではなかった。
なぜか伊東氏の棟梁である伊東義祐が武家としての調子外れを起こした。
伊東義祐は文化人気取りで京都の雅な気分に浮かれて奢侈に溺れ、贅沢三昧、京風文化を取り入れて武家の本分を忘れてしまうのであった。まあ格別悪いことではないだろうが、奢る平家はなんとやらで・・・・。
そんなわけで、伊東氏は武家本来の戦闘集団として次第に軟弱となっていった。弱みを見せれば付け込まれるのが世の常である。
このように隆盛に奢って浮かれている伊東氏を倒すべく、領地奪還に燃える元祖領主の島津義弘は、元亀3年(1572年)伊東氏に戦いを挑んだ。このとき、3000人の軍勢の伊東軍がわずか300人の島津義弘率いる軍勢に敗れるという有様であり今に語り継がれる「木崎原の戦い」で伊東氏は大敗北した。
いったい何があったのか。この戦いは戦史研究でも興味深いものがある。
話はこの文章の本来のテーマとは無関係に、どんどん横道にずれていくのだが、乗りかかった船の誼でしばしお付き合い願いたい。
この「木崎原の戦い」の敗北で伊東氏は日向伊東氏を支えてきた多くの武将や重臣を失ったことが致命的だった。以後の日向伊東氏は衰退した。
島津に追われ伊東氏義祐・祐兵親子とその主従は命からがら宮崎を逃げ出しすかなかった。その後は瀬戸内海を彷徨い、没落の不運を嘆きつつ放浪していたのだが、どこまで伊東氏は運に恵まれた一族なのであろうか。
落魄の身でありながらそれまで付き合いのあった知人や支援者などの有形無形の助力を得て幸運にも豊臣秀吉の知遇を得る。伊東義祐の3男である伊東祐兵が羽柴秀吉に仕えたのである。そのとき、「次は九州攻めだ、誰か先陣を切るやつはおらんか」という秀吉の問に名乗り出たのが伊東祐兵である。
「おそれながら我が伊東一族はこれまで日向を本拠地としておりました。九州のことなら我が庭のごとく知悉しており申す、なんなりとご下命くだされ」
と言上する伊東祐兵に秀吉は破顔一笑、
「そうか、頼もし、先陣は任す、存分に働いてみせよ」
上機嫌になった。と、こういうシーンがあったのか、なかったのか、しかとは解らないのだが、ともかく伊東祐兵は秀吉の九州平定軍の先導役として任命されて出陣しめざましい活躍をしたのである。
その功績により伊東氏は再び飫肥の地を取り戻したのである。作り話ではなく、これが史実なのだから、漫画みたいな話だ。
伊東氏が失脚したあと、飫肥を支配していたのは島津氏であった。伊東氏から飫肥を奪還したのはいいが、秀吉が敵とあっては相手が悪かった。秀吉の九州平定により島津氏は秀吉軍に降伏した。そして日向国の伊東氏旧領を全て明け渡して薩摩へ撤収した。その後に伊東氏がまさに奇跡的とも言える10年越しの日向大名としての復活を果たしたのである。
この伊東氏の大逆転はなんたる奇跡か、天もびっくりの強運というべきか。
さらに驚くのは、その後の関ケ原の決戦である。
当然、伊東氏は大恩のある秀吉側につくと思いきや、豈図らんや、九州大名のほとんどが西軍につくなかで、伊東氏はなぜか徳川の東軍にこっそりと参加して勝運を拾っている。まさか、まさかの強運というか、慧眼というべきか。
関ケ原の戦いのときには、伊東氏総帥の伊東祐兵は大阪で重い病に伏していた。祐兵は成り行き上、西軍に加盟すると伝えるのだが実際には病気を理由に関ケ原に出陣はしていない。
その上で、黒田官兵衛を通して内々に徳川家康に恭順の意を伝えたのである。その証拠として嫡男の伊東祐慶を密かに九州へと派遣している。実際に、伊東祐慶は九州では数少ない東軍として西軍側と戦っている。
この伊東祐兵の実質的に東軍に加担すると決めた判断と九州へ派遣された息子の伊東祐慶の働きが徳川家康にしっかりと伝わり、その後の伊東氏の命運を決めた。
名目上は西軍についたが、自らは徳川に恭順する意志を伝えて伊東祐兵は一歩たりとも動こうとはしなかった。そして、九州では息子を総大将とする伊東家の家臣軍団が家康の東軍として西軍相手に戦ったのである。
この功績により、徳川政権樹立後も伊東氏は日向の所領を安堵されたのである。
その後なんと伊東氏は明治維新まで宮崎の殿様であり続けた。
日南市の来し方を振り返ればこんな歴史が秘められている。
閑話休題(あだしごとはさておきまして)
なぜ「日南」を今回、取り上げたのかと言えば、ある俳句のブログを見たためである。
それが次のブログである。
この中に、「日南」を使った俳句が取り上げられている。それが次の一句である。
https://haiku-textbook.com/risshu-famous/
【NO.14】右城暮石
『 日南暑し 朝を裸で 今朝の秋 』
季語:今朝の秋(秋)
意味:日南地方は暑いなぁ。朝でも裸になりたいくらいだ、今日は立秋なのに。
ブログの解説には以下のようなことが書かれている。
解説●俳句仙人●
日南とは宮崎県南部にある地域です。暖かい地域なので、立秋といえども裸になってしまいたいくらいの暑さなのになぁというぼやきが聞こえてきます。
引用はここまでだが、なんとなく、うっすらとこの解説に違和感を覚えた。
この俳句を詠んだ俳人は右城暮石である。
右城暮石という俳人は、日南市とは関係のない高知県の人である。ちなみに、この名前は、「うしろ ぼせき」と読む。
右城暮石の俳句
あきらかに蟻怒り噛むわが足を
ねんねこもスカートも膝頭まで
一芸と言ふべし鴨の骨叩く
一身に虻引受けて樹下の牛
万緑に解き放たれし如くゐる
人間に蟻をもらひし蟻地獄
何もせぬ我が掌汚るる春の昼
入学の少年母を掴む癖
冬浜に生死不明の電線垂る
夜光虫身に鏤めて泳ぎたし
水中に逃げて蛙が蛇忘る
氷菓売る老婆に海はなき如し
油虫紙よりうすき隙くぐる
百姓の手に手に氷菓したたれり
芒の穂双眼鏡の視野塞ぐ
草矢よく飛びたり水につきささる
裸に取り巻かれ溺死者運ばるる
電灯の下に放たれ蛍這ふ
首伸ばし己たしかむ羽抜鶏
鮎かかり来しよろこびを押しかくす
右城暮石の俳句鑑賞は、さておき、気になるのは
『 日南暑し 朝を裸で 今朝の秋 』
である。このブログの解説には、この俳句の意味としてこう書かれている。
「意味:日南地方は暑いなぁ。朝でも裸になりたいくらいだ、今日は立秋なのに。」
また、その解説の下の囲みに
「日南とは宮崎県南部にある地域です。暖かい地域なので、立秋といえども裸になってしまいたいくらいの暑さ」
とも書かれている。
とすれば、この句の「日南」は「にちなん」と読んで、宮崎県日南市を指す俳句だということになる。立秋とは、毎年の、毎年8月7~8日にあたるので季語としては秋だが季節としては真夏である。
そうしてみると、真夏の朝は朝でも裸でいても寒くはない、場合によっては暑い、とさえ感じるのは「日南」地方だけのことなのだろうか?という軽い疑問が湧いてくる。また「日南」地方は特別に暑い、という解説だが、真夏に暑いのは日南地方に限ったことなのか?季節が秋、たとえば10月、11月でも朝は裸になりたいほど暑い、というなら、本当に暑い地域なのだろうと思う。そういう俳句なら「今朝の秋」という実際の季節は真夏の「立秋」という季語を使うのだろうかという疑問がわいてくる。
この句の季語は「今朝の秋(けさのあき)」である。
この季語は「秋」とはちょっと違う。俳句の季語として使う「今朝の秋」は、「立秋の日の朝。秋立ちそめた朝。今朝から秋めいた感じになったという気持を強調していう語。」(精選版 日本国語大辞典 )なのである。
秋めいた感じになった朝。立秋の日の朝をいう季語が「今朝の秋」である。
実際の季節は8月の上旬だ。
秋らしい秋ではなくて、真夏の最中に、朝のほんの微かな気配に秋への予兆を感じる繊細さがある。暑さの中にある何らかの秋の爽やかさを表現したのが「秋が立つ」という感覚的な言い回しであり、秋の季語の中でも、とくに「初秋の季語」になっている。
したがって「今日は立秋なのに日南の朝は暑いな」という解説にある「立秋」は「今朝の秋」の説明としては間違ってはいない。
しかし、「立秋」は、先に書いたように毎年、8月7~8日なので真夏である。
そうしてみると、「朝でも裸になりたいくらいだ、今日は立秋なのに。」という解説は、立秋を真夏と置き換えてみれば、「なのに」という書き方にはいささか、違和感がある。
そうした細部はこの際、置いておいて、気になるのは「日南」である。右城暮石は高知県の人である。日南市の人であるなら、日南を俳句に詠むこともあろうが、高知県の人がわざわざ九州の日南市の地名をあげて俳句を詠むのだろうか?
だが私は右城暮石についてはまったく詳しくない。この俳句専門ブログに異議申し立てるほどの何の知識も情報も根拠もないので、漠然とした違和感を感じたまでである。
そうこうしているうちにこの俳句のことは忘れていた。
しかし、完全に忘れたわけではなく、記憶のどこかに、小さい棘となって刺さり続けていたと言えるのかもしれない。
たまたま何かのおりに、右城暮石の俳句と解説が記憶の谷間から浮上してきた。そのとき、「日南」という言葉を使った俳句はほかにないのだろうか?ふとそんな思いにとらわれた。それから、「日南」をつかった俳句を探していたら、いろいろと、見つかってきた。
あるブログにこんなことが書いてあった。
新聞に飯田蛇笏の俳句が紹介されていたが、その俳句にある「日南」の漢字に、「ひなみ」という読み方が書いてあった。「日南」を「ひなみ」と読むのは間違いで「ひなた」と読むのではないだろうか云々、ということが書かれていた。
「日南」は地名としての「にちなん」がある。
ほかに、「ひなみ」と読む例もあった。また「ひなた」という読み方もある。
「ひなみ」というのは、意味がわからないが、「ひなた」というのはなんとなくわかる。陽が当たっている場所を「ひなた」というが、それに「日南」という漢字を当てているのだ。
でも、「ひなた」なら、漢字は「日向」「陽向」がすぐに思い浮かぶのだが、わざわざ「日南」と書いて「ひなた」と読ませるのはいささか凝りすぎのような気もするのだが。
そこでなにはともあれ、「現代日本文学全集」(筑摩書房)第91巻「現代俳句集」を開いてみた。この文学全集はかなり古いものだ。
第91巻「現代俳句集」を見ると、俳人・飯田蛇笏の俳句に次の一句がある。
乳牛に無花果熟る丶日南かな
乳牛が居て、無花果の実が熟れていて「日南」となる。
この「日南」も、先の俳句の解説にあるように、宮崎県日南市の光景を詠んだものなのだろうか?それとも「ひなた」なのだろうか。
字余りになるが宮崎県の日南市の無花果を詠んだ俳句としても読むことができる。
ところが、この句はどうもそうではないようである。なぜなら、この文学全集には俳句の漢字には漢字のよみかたが小さいルビ活字で印刷してあった。
「無花果」には漢字の横に「いちじく」と読み方のルビがふってあり、「日南」には「にちなん」ではなく、「ひなみ」でもなく、「ひなた」とルビがふってある。
漢字を読む際に、無花果を見て「いちじく」と読める人は問題ない。しかし、どう読むかわからない人もいる。そこで、無花果を「むかか」「むかじつ」などと誤読しないためのルビだ。おそらく筑摩文学全集の俳句集を担当した編纂者がつけたものだろう。
この俳句にはもうひとつ、ルビのついている漢字がある。それが「日南」だ。これには「日南」の右に極小の活字で「ひなた」と書いてある。
「日南」もどう読めばいいのか、そして、どういう意味なのか、なかなか判読が難しい単語である。
「ひなた」のルビの意味はこの俳句では「日南」は「ひなた」と読むのであって「にちなん」「ひなみ」などとは読まないという注意書きということになる。「ひなた」とルビがついているので、ああこれは陽のあたっているという意味だなと、意味もわかる。
ところで「ひなた」というのは、日南のほかには日当、陽向、日向という漢字もそう読まれている。イメージでいえば太陽があたっている情景や空間を「ひなた」といい、反対は「ひかげ」(日陰、陽陰、日影)となり、太陽が照っている中で、特に陽の当たらない場所を指すことになる。
陽の当たっている場所に「日南」という漢字をなぜあてているのだろうか。想像だが太陽が登っているとき、北半球では太陽は南から照るために南側には日がよくあたる。そこから日と南がくっついて「ひなた」に「日南」の漢字があてられたのではないだろうか。陽向、日当、日向もだいたい似たような意味で「ひなた」と読まれているのだろうと想像する。
ここに、飯田蛇笏の俳句を引用し、そのルビを書いてきた。それらを引用したのは、「現代日本文学全集」(筑摩書房)第91巻「現代俳句集」からの引用である。この古い文学全集は活字印刷であり、俳句のルビも極小の活字で丁寧に付けられている。漢字に読みを付けた編者の精緻な研究成果や印刷所の職工さんの活字を組み上げた労苦を想えば、読んでいてペイジを開くごとに感動を覚えずにはいられない。現在ではほとんど製作が不可能と言える貴重本である。
この全集の俳句に付けられたルビのお陰で、「日南」を「ひなた」と読むということがわかったのである。本当にありがたいことである。
昔話だが昭和20年代はもちろん、30年代に入っても普通にそこらに活版印刷所があった。子供の頃、新聞印刷専用の活版印刷所によく遊びに見に行ったがゴミ捨て場に銀色をした鉛?の活字が捨ててあった。それを拾って宝物のように持ち帰ったことを今でも覚えている。活字には大きい見出し用の大活字もあれば、中くらいの大きさ、紙面本分用の小さい文字の活字もあった。写真用は微細な凹凸のある板のような版があった。先に書いた「ルビ」用の活字は、物凄く小さい活字である。これを漢字の活字の横にぴたっと張り合わせて動かないように、するのは相当に難しい活字組の技術だったのだろうと思う。活字は手に取ると漢字やひらかなが逆さまの凸型になっている。その逆さまの文字を判別して上下間違いなく手にもった小さい箱に揃えて詰め込んでいくのだ。
よく新聞記者は新米の記者には活版印刷所を見せない、と聞いた。印刷機のインクや鉛の活字で真っ黒になって働いている職工の姿を見れば、どれほど汗水たらして夜を徹して新聞印刷の活字が組まれているか、それも毎日、毎日の紙面に合わせて活字を拾い、新聞の型に合わせて拾った活字を組んでいくのである。
新聞記者がその印刷所の光景を見たら、もし大スクープがあったり、自分の記事の間違いに気がついたとき、「新しく記事を差し替えるので組み直してくれ」と印刷所へ原稿を回すのに、ためらわないわけがない。せっかく何時間もかけて組み上げた活字の1ページ分の版組を全部壊して、また一から活字を拾って組んでいくのだ。
だから新聞記者はよりよい原稿を書くために新人記者には活字印刷の現場は見せない、ということだろう。
それと活字は印刷すると字となる凸面が摩耗するので、何回も使うことができない。そこで活字印刷所には活字の型があって、摩滅した活字を加熱して溶かして型に流し込み新しい活字を作っていた。長い柄のついた柄杓で活字を溶かした銀色の液体を掬って新しい活字づくりをしていた光景を見た気がする。それはたぶん活字を拾った庭のごみ捨ての穴の周りでやられていたような気がするが定かではない。もう小学生のころの記憶なので、60年以上も前の話である。
日本で鉛活字による印刷がいつころから始まったのか知らない。子供のころに、山本有三の「路傍の石」という小説を読んだことがある。その中に、たしか、吾一?とかいう主人公の少年が栃木県かな?働くシーンがある。彼は印刷所へ就職して、大人の職工から活字を拾う仕事を教わるのだ。印刷所とか、活字を拾うという仕事がどんなものかわからずに読んでいて、なかなか、子供心に活字を拾うのは一日中立ち仕事だし難しい仕事だなという印象を受けた。
新聞だけでなく、そもそも、本も昔は全部、活字で組んで印刷していた。
印刷所には本を一冊印刷する活字の箱がうず高く積み上げられていた。
これはしばらくは保存しておく。もし増刷になれば、この活字箱を出して印刷するのである。活字をバラせば増刷の場合はまた一から活字を組まないといけない。
際限ないので、本稿で二回目の横道へそれるのは、これにて終了する。
飯田蛇笏の俳句に「日南」が使われており、それは、「ひなた」という言葉であることがわかった。それはそれで一件落着と思えるが、先の右城暮石の「日南暑し・・・」の俳句も「にちなん」ではなく、「ひなた」が正しい読み方なのだろうか?しかし、日南市の日南だということも完全に否定されたわけではない。
先に飯田蛇笏の俳句「乳牛に無花果熟る丶日南かな」を引用して、この「日南」は「ひなみ」と読むということを紹介した。
ほかに、調べてみると以下のような「日南」を使った飯田蛇笏の俳句が見つかった。
いずれも、「ひなた」と読んでさしつかえないように思うが如何だろうか。
雷やみし合歓の日南の旅人かな
山茶花や日南のものに杵埃り
みさゝぎや日南めでたき土筆
渓流のをどる日南や竹の秋
では「日南」をいつころから「ひなた」と読むようになったのだろうか。あるいは「ひなた」という言葉に「日南」の漢字を当て始めたのはいつころなのか?これはよくわからないのだが、一説には尾崎紅葉の小説にこの使用例があるという。
「日南」を「ひなた」と読んだ例のはじめは、尾崎紅葉『多情多恨』(『日本国語大辞典』と書いてあるそうだ。
そこで尾崎紅葉の小説「多情多恨」を図書館で借りて開いてみた。
この本は筑摩書房の『日本文学全集』第二巻である。余談だが、図書館へ行く前に実はネットでこの本を買ったのである。本が届いたので開いてみると、「多情多恨」が載ってない。あれ、おかしいな?とよくよく見たら、私が買ったのは「現代日本文学全集」の第二巻、だった。同じ、筑摩書房であるし、第二巻であるし、全集のタイトルも・・・・・と、よく見たら私の買ったのは「現代日本文学全集」であった。
「多情多恨」の載っているほうの全集は、「現代」のない「日本文学全集」なのであった。間違えて買ったのである。それにしてもよく似た全集があるものだ。
こちらの方には、尾崎紅葉のどんな小説が載っているのだろうか。
金色夜叉
二人比丘尼色懺悔
拈華微笑
心の闇
青葡萄
この二巻にはほかに山田美妙、広津柳浪、川上眉山の三人の小説も載っている。これはこれで面白い。早速、「金色夜叉」を読み始めた。これが、また凄い文章である。難解な漢字が次から次に出てきて、その一つひとつに、ほとんど読み方のルビがついている。
明治の作家は頭に入っている漢字の素養の桁が違う。しかも、これが文学とは言い難い卑俗な通俗小説だというのだから絶句するしかない。どれほど明治の教養人が知的レベルが高かったのか驚嘆するばかりだ。
またここで、「金色夜叉」に深入りするわけにはいかないので、間違えて買った本は置いておくことにして、図書館から借りた尾崎紅葉の小説「多情多恨」の当該箇所を引用しよう。
「柳之助は又一遍座敷から茶の間へ通って、茶の間から座敷へ出て、座敷から縁へ出ると、お種と保との不断着が魚を開いたやうに日南(ひなた)に並べて干してある。(筑摩書房『日本文学全集』第二巻)
「多情多恨」について言うと少しだけ読んでみた。これが滅法面白い。現代でいうダメ男の物語である。そういうわけで、今年の後半の読書は尾崎紅葉にどっぷりと、はまっているのである。
と、ここまでだらだらと書いてきたが、この長い文章の結論は、「日南」という漢字は俳句や小説では「ひなた」と読むことがある、というたったそれだけのことである。
関連リンクは ↓ 「右城暮石の俳句」