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角鹿のブログ一覧

2021年01月25日 イイね!

新聞

 新聞は人によって関心をもってみるページが違うでしょう。金融や経済また株式に関心のある人は株価の小さい数字のならんだページに眼が止まるかもしれない。だが私は株価の数字を追ってみたことはない。金融関係でおもしろかったのは日経の「大機小機」というコラム
 株式投資の参考になる話を書いていたように思うがいまもあるんだろうか。「人の行く裏に道あり花の山」などという株式の格言もこのコラムで知った。だが株式を買ったことがないので表道も裏道もいまだに無縁である。
 友人に言わすとこのひとは妙に信心深い人で毎月何箇所かのお寺参りを欠かさない人なのだが「新聞の占いの欄を見る」という。「そんなの載っているか?」「ある」「どこにあるんだ?」新聞を見てもそんな欄はないようだが友人が指でさす箇所に確かにあった。

 「あなたが相手をリードして」(牡牛座)これを見て今日は彼氏にちょっとデートしない?なんて押して見る女性がいるんだるか。それでも引っ込み思案な女性には背中を押してくれる言葉になるのかもしれない。

 「前向きでいれば奇跡が訪れる」(水瓶座)うーん、これは星座に関係有るのだろうか。どの星座にも当てはまりそうだがそんなに奇跡が来るとも思えないのだが。あの浄土宗寺院の掲示板にも「前向きに生きよう」と書いてあったしね。

 「非日常的なムードの演出が吉」(蟹座)こんなのどうすりゃいいんだ?
  新聞によっては生まれ月による占いもある。
  「6月生まれ」
  なぜ6月かといえば私の誕生月だからだ。えー、どれどれ「自分で限界を決めないで何でもトライ 才能開花の予感」おー、これはいいではないか、まさにそのとおりだ、いよいよ、遅ればせながら才能開花の予感がするぞおおおおお!と雄叫びを上げたくなるではないか。
  なるほど占い欄はおもしろいな。こんな短い言葉のなかに何か人生を励まし歓喜させてくれるパワーがある。
  逆に「6月生まれ 何をやってもうまく行かない 泥沼の深みにハマる 万事慎重に」なんて書かれていたら気分まで落ち込むよな。
  ともかくわざわざ占い欄が新聞に載っているのはこの占いを読みたいがために新聞を購読している人が少なからずいるということかもしれない。
先程の信心深い友人の言うには朝のテレビで「みずがめ座の人 今日のラッキーアイテムは 黄色です。蠍座の人は 中華丼です」なんてやってる占いのコーナーがあるけどもその時間にわずかながら視聴率が上がるらしいですよ、ということだ。ほんとかどかはわかりませんけど。

  とここまでは前文である。
  今日は実は川柳のことを書こうと思っているのだがこんにちわと玄関を入っていきなり本題に入るのもなんなのでちょっとええ今日はいい天気ですねえなんて当たり障りのない挨拶を少しするつもりが長々と書いてしまいお時間を取らせてしまい申し訳ない。
  ここからが本題ですぞ。
  ええ何のことかと言えば私は新聞を見る時そこに川柳や俳句短歌が載っていればよくそこを読みます、ということである。たったそれだけの事が言いたかっただけである。それだけでは面白くともなんでもないので尾ひれを少し付け加えてみたまでのことでる。
  んん?話に尾ひれをつけるとはどういうことか。自分で無意識に書いていながらその意味もわからずに書いているとは自分で自分に納得できないので調べてみよう。こういうときにネットは便利だ。国語辞典を引く手間が省ける。それがいいことか悪いことかはさておいてだ。
  
  
  「尾ひれをつける」

 魚の尾とひれは数が決まっている。これにさらに尾とひれをつけるということで、実際にはありえないことを、話ではいかにもあったことのように付け足して大げさに話すこと。評判やうわさなどは、人から人へ伝わる時、とかく何か付け足されて大げさになっていくもの。「話に尾ひれをつける」ともいう。
 
 
 なるほど。この言葉の初出文献は何なんだろう・・・・思考停止。ますます余計な細道へ入っていきそうなので無理やり思考停止して本筋へ戻す。筋?大阪には御堂筋などというがなんで道が筋なんだ?筋と道とはどう違うのか?やめやめ、これも通行止めのばってん標識をドン、と置く。どうしてこう思考というものは無分別に暴走するのか。放置しておけば制御不能になりそうだ。
 
 本筋に戻すために。画像をアップしよう。
 
 これは奈良県のローカル紙の奈良新聞の川柳コーナーである。俳句や単価、いや短歌もあるのだけど川柳コーナーが個人的には一番おもしろい。
 

 

 




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 お題は「細い」のようだ。
 女性の投稿には肉体的な細さをテーマにしたものが多い。それはまあそういうものだろうと思う。
 
 なるほど川柳をきっかけに同じ若い頃のほっそり美人だった頃の自分を思い出していらっしゃるようだ。もしかして昔の写真帳を押入れの中から取り出してご覧になったり大事にしまってあった昔のお洋服を取り出してこれ入るかしらねえなどとお着替えを試みておられるご婦人方を想像してみるのも川柳を読む余録かもしれない。

 男の川柳にはやっぱり助平っぽいのもありますね。子供が五人いる、なんて余計なお世話だよね。あの細い腰で・・・・なんて、何を想像しているんだか。
 まあこれもまた元気な証拠でよろしいことです。男はこうでなくっちゃいけないよね。なんの枯れ木に花が咲くものか、でっすよ。
 「あんたはほんとにやらしいんだから・・・」なんて一度は言われてみたいもんです。それも相手がいればの話ですけどね。ま、せめて妄想だけでも申そうか。

 ここにある川柳。
 みな短い575の言葉の背後にそれぞれ波乱万丈の喜怒哀楽の人生の重みがじわーっと感じられますね。

 それぞれの 来し方ありて 笑い在り
 
 何を書きたかったのかよくわからない蛇行水枯れの吉野川のような貧相な内容になってしまった。

 最後までお読みいただきありがとうございました。

●リンク●
 紹介してある奈良新聞の川柳選者の居谷真理子先生の川柳ミニ句集です。
 川柳にご興味有る方はぜひ御覧ください。
Posted at 2021/01/25 10:14:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | 身辺雑記 | 日記
2021年01月19日 イイね!

キーボードやコマンドの便利な使い方

①書いている文章を消してしまった。
そんなときは ctrl+Z で復元することができます。これは割とよく使います。


②今出しているページを右半分また左半分に固定してしまう方法。
  なにかの原稿を書いていてデータを画面に出したまま参照しながら作業をしたいと思う時があります。
そんなときは画面を左右分割して固定させて使えば便利です。
そのコマンドは「四角い窓を十字に切った線のあるコマンド」を使います。
私のキーボードでは一番手前の左から三番目、FNとALTの間にあります。
これなんというのか?知らないですが 
この「四角」+ ←・→ を使います。

これで→なら右半分、←なら左半分に出している画面が固定します。
そして参照したい画面を呼び出せば空いている半分に入りますので左右二分割画面となって例えばデータを参照しながら作業することができます。
調べたらこの四角の窓みたいなのは Windowsキーというらしいです。


③キー上に書いてある記号を出す場合。例えばシャープとか%とか上に書いてある記号は SHIFTキーを押しながら該当記号の書いてあるキーを押せば出ます。いまさらながらの基本なので書くまでもないかもしれません。

④そのほかよく使うのはコピーと貼り付けです。
コピーしたい箇所を反転させて ctrl + C でコピーしますので 貼り付けは ctrl + Vです。
コピーではなく反転箇所を切り取って貼り付けたい時は ctrl + Xで切り取りコピーをします。そのまま貼り付ければよいです。

⑤また出ているページ(見えてない部分も含めて)丸ごとコピーをしたいときは、まず ctrl + A を使います。これですべて反転します。
あとはctrl + C → ctrl + V で貼り付けます。


⑥日本語入力で ひらがな 入力しているとき何かの拍子に・・・Aという英数入力表示が出てしまうことがあります。これを元の ひらがな 入力に戻すには 左端の CAPSLOCK英数 というキーを使います。これを押せば ひらがな 入力に戻ります。

 
⑦テンキー入力をしたいとき。テンキーを押しても数字が入力できないときがあります。そのときは テンキーの上にあるNUMLOCK キーを押して点灯を確認します。これでテンキーが有効になって使えます。

⑧半角カタカナに変換したいとき。
 ひらがな入力をしていて たとえば やまもと と打つと変換前の やまもと に アンダーバーがついた状態になります。ここでF8キーを押すと やまもと が ヤマモト と半角カタカナに変換されます。 全角カタカナに変換したいときは F7を押すと ヤマモト と変換されます。
 
⑨ひらかなをアルファベット表記にしたいとき。
同じく やまもと(アンダーバー) のときにF10を押します。すると yamamoto と変換されます。F10キーを2回押すと YAMAMOTO 大文字になります。3回押すと Yamamoto となります。
これはいずれも半角英数の文字変換です。
全角英数のアルファベット変換をしたいときはF9を押せば3種類の全角英数での変換ができます。


⑩このほかいろんな便利な操作方法もあるでしょう。またここに書いたことはこれまでの経験で覚えたことでパソコンやキーボード操作として正確かどうかはわかりません。最近は音声入力も性能がよくなっているみたいです。

 思えば何台も買い替えたワープロに始まりパソコンの出始め(それまではビジコンとか言ってた)からMS-DOSを覚えてパソコンソフトの本を何冊も買い込んで勉強したのも昔語りとなりました。パソコン本体もさることながらドットプリンターがキーコキーコと音立てて両側に穴の空いた用紙に印刷していました。
 理工系の人と違ってそういう分野は苦手なものでいまだにパソコン関係の理屈はいまでもよくわかりません。それでも腱鞘炎になるほど万年筆で原稿を書いていたことを思えば随分と楽になりました。一晩原稿を書いた次の日には手首から肘から痛くて困りました。
 
 いまはスマホ全盛ですが個人的にはパソコンは便利なので両方とも使い続けるつもりです。
 
 とりとめのない内容になりました。
   
Posted at 2021/01/19 13:26:57 | コメント(0) | トラックバック(0) | 身辺雑記 | 日記
2021年01月17日 イイね!

散歩中に見たお寺の掲示板


大淀町の近鉄線「六田(むだ)駅」近くの歩道を歩いていたら道路向かいに掲示板が出ていました。たぶんこの家は寺院だろうと思います。



掲示板を拡大して撮影しました。
なるほどそのとおりだね、と。だが単純明快な言葉ですが実践するのは簡単そうでなかなか実際にはそうはいかない。強風の中を前を向いて歩くのはそう容易なことではない。


掲示板左に書かれれいる「修正会」とは何の意味だろう。
何かを修正する会なんてことはなさそうだ。
調べてみると下のようなことでした。

● 修正会
1月1日 修正会(しゅしょうえ)
新しい年の始めにあたり、天下泰平や人々の幸福を祈って行う法要です。「修正」とは、正月に修する法会(ほうえ)、の意味。起源は中国の年始の儀式にあるとされ、日本では平安時代以降から広く行われるようになりました。
(浄土宗 ホームページより)


●正月に祈修する法会(ほうえ)
「修正会」は、正月に祈修する法会(ほうえ)という意味で、古くから諸大寺で営まれてきたもの。現在東大寺では、正月七日に金堂大仏殿でこの悔過(けか)の法会をお勤めしている。

「悔過」とは、礼仏して罪過を懺悔(ざんげ)することにより、「天下泰安」「風雨順時」「五穀成熟」「万民快楽」等を祈願することをいう。

8世紀中頃、官大寺等で行われていた「吉祥天悔過会」が「修正会」の源流であるともいわれているが、法華堂に安置されていた「国宝 吉祥天立像(塑像)」(※1)も、この「吉祥天悔過」の本尊だったのかもしれない。その後「吉祥天悔過会」は諸国の国分寺でも広く勤められるようになったが国分寺の衰退と共に廃絶し、かわって平安時代になると「薬師悔過」などが「修正会」として諸寺院諸堂で盛んに勤められるようになった。

東大寺でも、平安時代には講堂などで元日から7日間にわたって「修正会」が勤められ、また鎌倉時代になると大仏殿の主要な法会の一つにもなり、夜は舞楽が演ぜられるなど、厳粛で盛大な法会が営まれていた。しかし、応仁の乱から続く戦乱の時代をむかえるに至って、東大寺は伽藍の多くを焼失するとともに、この「修正会」も続けることが出来なくなってしまった。

現在営んでいる「修正会」は、江戸時代になって再興されたもので、正月7日に大仏殿で初夜・後夜の法要をお勤めしている。
   (華厳宗 東大寺 ホームページより)

仏教寺院で行う元旦のおつとめのことを修正会と呼んでいるようです。
ついでに「修」のつく熟語を調べてみた。

「修身・修得・修養・修練・修道・修行(しゅぎょう)・修学・修了・修好・学修・独修・自修・専修(せんしゅう)(せんじゅ)・必修・履修・研修」

 このなかで「専修」という言葉はとても重要な意味をもっている。
 浄土宗は「専修念仏」とい。南無阿弥陀仏・・・・・念仏を専ら声に出して唱える。それだけが人間救済の道である。
 これは日本仏教おけるあるいは世界宗教における革命的な言葉である。
 あまたある宗教また仏道修行のなかで、ただひとつ念仏を唱えるだけで誰でも救われると法然は説いた。宗教で必ず誰でも救われると説く宗教はほかにはないだろう。しかも輪廻転生して何千年何億万年も修行しても救われるかどうかも保証されない宗教がいくらでもあるなかで念仏を唱えるだけであなたは必ず救われると説いた法然の悟りや確信は画期的である。

 大雑把なことを言うと釈尊の説いたインド仏教が世俗を断ち切って出家しひたすら煩悩滅却の修行をし輪回転生の業苦からの解脱と涅槃の境地をめざす「悟りの仏教」であるならば法然、親鸞、日蓮など日本で生まれた仏教は世俗のなかで煩悩のままであっても信じ、念ずるならば万民衆生さらには草木までも罪障消滅して安心立命の仏の境地、極楽浄土に行けるという究極の「救いの仏教」である。
 このような仏教のパラダイムシフトを成し遂げたのは日本仏教である。
 そのなかでも釈迦仏教からの長い阿彌陀佛信仰の系譜に基づいて阿弥陀仏への帰依という他力本願、専修念仏を樹立した法然である。
 鎌倉時代は仏教の教えでは世は釈迦の威光も途絶える末法となっていた。
 戦乱、疫病、飢饉などどこかしこも死骸で満ちておりどこにも救いがない絶望的な世の中だった。
 そういう世相のなかで日本では誰もが救われるという救いの仏教が生まれていった。
 救いこそが絶望の淵からの仏教に求める衆生の最後の希望だった。
 それが日本仏教の大きな特徴である。
  
 上を向いて 歩こう
 前を向いて 生きよう
 
 朝のこない 夜はない ←これは蛇足です。
   

 
Posted at 2021/01/17 16:25:30 | コメント(1) | トラックバック(0) | 身辺雑記 | 日記
2021年01月13日 イイね!

吉野町のとんど

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穏やかな正月明けの冬日。珍しく晴れた夕方。吉野上空を西へ飛んでいく飛行機。方向的には関空か伊丹空港か。


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昨年にくらべて寒い日が多い。とくに風が強く暴風とも言える嵐が吹きまくった。


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夜の明けるのは遅い。東の空が赤らんで朝日がまもなく上る。


どこからか白鷺が飛んできて凍てついた川で魚が来るのを待っている。この場所にはいつもこの同じ白鷺がやってくる。

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白鷺が一羽佇む前を水鳥が群れて通っていく。


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枯れ木のようなしだれ桜の古木。

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豆大福を皿に載せたら何か顔のような・・・・・。

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反対がわに回してみたらこちらも別の顔が現れた。



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集落により吉野町のとんどはまちまちに行われる。1月10日、11日、また旧来の1月14日にするところもある。これは吉野川の桜橋の下の河原での上市地区のとんどの風景。1月11日。対岸の飯貝は前日の10日にやはり向かいの河原で行った。

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少子高齢化のせいで参加しているのはほとんどが高齢者ばかりで青年の姿も子供の顔もみあたらない。動物界を代表して柴犬が一匹参加してくれていたが火を見て驚いたのかキャンキャンキャイ~ンとl吠えに吠えて飼い主により退場を余儀なくされた。犬にとんどの火や竹の爆裂する音はあわないようだ。


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こちらは隣の地区のとんど。同じ吉野川の河原で距離を開けて行う。ここでは三密はないのだがやはり誰もマスクをしている。燃え上がる炎の背後に沈む日輪がまぶしい。

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トンドの竹の燃え尽きるのは割に早い。




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向こうのほうにも別の地区のトンドの火が見える。これでだいたい終わった。午後3時に点火し4時くらいにはほぼ終わっている。

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次の日、1月12日は一転して朝から雪が降った。


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牡丹雪は重そうに空から降りてくる。


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木工所の中は暖を取る薪ストーブを燃やしている。


Posted at 2021/01/13 14:35:51 | コメント(0) | トラックバック(0) | 吉野見物 | 日記
2021年01月11日 イイね!

皇国史観

「皇国史観」
 片山杜秀著 片山氏は慶應義塾大学教授で思想史家。
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 皇国とは何かという主題を語るのに著者は日本の歴史の中で天皇とはどんな存在であったのかという天皇をめぐる話題を学生へ講義する形で解説している。
 最初は水戸学から説き起こされている。
 水戸学は儒教思想に基づいた天皇論を追究した藩学である。
 簡単に言えば「尊皇」とは「天皇とは日本で一番偉い人である」という考え方である。徳川時代において日本で最高の権力者は誰が考えても全国の大名を配下に治めている征夷大将軍の徳川家である。だがそれは違うと水戸学では言う。水戸藩の儒学者たちは天下国家はそもそも誰のものかと自問自答を繰り返し一つの結論を得た。
 栄枯盛衰は世の習いであり権力を握る覇者は時に生まれ時に去っていく。まさに覇者の驕りは移ろい漂う権(かり)の力に過ぎない。だがよくよく考えて見るに日本には神武天皇に始まる日本の万世一系の天皇が存在している。その威光は厳然と連綿として継続しておりわが国の最高統治者としての地位を一度も奪われてはいない。 
  では徳川政権の征夷大将軍とは何か。この地位は天皇によって与えられたものではないか。つまり徳川家は天皇によって政治権力の執政を委託された覇道の頭目に過ぎないことになる。
  日本におけるほんとの最高実力者というのは覇者の徳川家ではなくて王道の天皇であるというのが水戸学の尊皇論の根本思想である。
  水戸藩の藩学として儒学の学風を創始したのは水戸藩第二代藩主の徳川光圀である。徳川光圀は若くして「史記」を学び紀年体の日本史編纂を思い立ったと言われる。
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水戸藩藩校の「弘道館」の広間に掲げられている「尊攘」の掛け軸。この二文字は水戸学の尊皇思想を象徴してあまりある。
 「弘道館」は史跡として水戸市に保存されている。

  徳川 光圀(とくがわ みつくに)は、常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる。 諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。(Wikipediaより引用)
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 徳川光圀は持論として南朝正統論者であった。
 元禄5年(1692)に南朝の後醍醐天皇の忠臣として名高い楠木正成公の墓碑を建立する。場所は現在の兵庫県神戸市の湊川神社境内である。現在ももちろん湊川神社の中に墓碑が在り献花、墓参する人が絶えない。
 その墓碑に光圀公は自ら「嗚呼忠臣楠子之墓」と揮毫している。この光圀の南朝正統論は後に明治維新における尊皇思想に繋がり明治政府は南北朝の両統並立時代の正統を南朝に決めることになるのだがそれはまだ先の話になる。
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「楠木正成墓所」 神戸市湊川神社境内

 正成公以下御一族等の墓所として、境内東南隅に位置します(国指定文化財史蹟)。

元禄五年(1692)に、権中納言徳川光圀公(ごんのちゅうなごんとくがわみつくにこう)(水戸黄門)は、家臣佐々介三郎宗淳(さっさすけさぶろうむねきよ)を、この地に遣(つか)わして碑石(ひせき)を建て、光圀公みずから表面の「嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)」の文字を書き、裏面には明(みん)の遺臣朱舜水(いしんしゅしゅんすい)の作った賛文(さんぶん)を、岡村元春(おかむらもとはる)に書かせて、これに刻ませました。

御墓所 ごぼしょ(史蹟 しせき・楠木正成墓碑 くすのきまさしげぼひ)
この墓碑の建立によって、正成公の御盛徳は大いに宣揚(せんよう)されるとともに、幕末勤王思想の発展を助け、明治維新への力強い精神的指導力となったのです。即ち幕末から維新にかけて、頼山陽(らいさんよう)・吉田松陰(よしだしょういん)・真木保臣(まきやすおみ)・三条実美(さんじょうさねとみ)・坂本龍馬(さかもとりょうま)・高杉晋作(たかすぎしんさく)・西郷隆盛(さいごうたかもり)・大久保利通(おおくぼとしみち)・木戸孝允(きどたかよし)・伊藤博文(いとうひろぶみ)等々は、みなこの墓前にぬかづいて至誠を誓い、国事に奔走したのです。

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楠木正成肖像 横山大観筆 湊川神社 所蔵

  水戸藩が藩学として採用したのは儒教思想である。徳川時代に幕府は仏教を重視しており神道や儒教は低くみられていた。水戸藩の儒教に裏打ちされた尊王思想は否定こそされないものの幕藩体制を支える枢軸思想ではなかった。
 水戸藩は御三家の一つでありながらも儒者を抱えて尊皇論を探求し続けた。
 その論証として第二代藩主徳川光圀の命令で1657年より歴代天皇の事績をまとめるべく歴史書「大日本史」の編纂に着手する。
 神武天皇以来の天皇について記された文献を全国津々浦々を回って借用または書写し日本における天皇の歴史文献の収集作業を開始したのである。
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おなじみの時代劇「水戸黄門」。水戸市の観光シンボルとなっている。

 このときの諸国をめぐり文献収集をしたというエピソードをもとに作られた時代劇がテレビや映画でおなじみの「水戸黄門」である。光圀公は実際には諸国漫遊はしなかったのだが助さん格さんすなわち佐々 宗淳(さっさ むねきよ。別名、佐々木助三郎)と渥美格之進は実在の人物で水戸藩の武士である。
じっさいに全国を回ったのは佐々木助三郎で出身は現在の奈良県宇陀市。15歳で京都で臨済宗の門に入るが後に儒学に傾倒、還俗して江戸に出て水戸藩へ仕官した。儒学を修し学識のある佐々 宗淳は光圀側近として全国をまわり大日本史編纂の資料収集に尽力した。閑話休題(あだしごとはさておきまして・・・・)
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大日本史とは水戸藩2代藩主・徳川光圀の命により編纂された歴史書となります。
1657年(明暦3年)に編纂作業が開始され、編纂が終結するのが1906年(明治39年)と、実に249年もの長きに渡り続いたのと多額の費用を要した日本の歴史の上で類まれだ大事業だった。


 「大日本史」編纂は江戸時代のはじめから延々と続けられ完成したのは実に1906年。日露戦争の終わったあとの明治39年だった。そのときあったのは茨城県であり水戸藩も江戸幕府も歴史の背後に消え去っていた。しかし大日本史編纂に心血を注いだ水戸藩の尊皇思想は日本をは作り変える起爆剤となったのである。外国船が次々に押し寄せ日本へ開国を迫る緊急事態が起きる。この一大事に日本は水戸学の尊王思想を国防最前線に掲げるのである。
 幕末に水戸藩の藩論であった尊王思想が国防論と合体する。
天皇は開国を迫る外国を排斥しようという攘夷論と合体したのである。外国に押されて開国をする幕府の弱腰姿勢に怒った武士は幕府に代わる統率者としての天皇に期待を寄せる。このように天皇中心にして外国侵略を防ごうという「尊皇攘夷」思想が生まれていった。
 
 幕末の尊皇攘夷論に始まりから明治維新の国家体制の要となった天皇の存在を解く上で著者は明治政府の天皇絶対論に言及する。もともと水戸学の尊皇論は儒教思想に基づくもので天皇の天皇たる資格は徳の有無によるもので人徳を欠く人物には天皇の資格がないこととなる。シナの皇帝が天の徳を失い天命尽きて交代する皇帝徳論理と同じである。
 しかし明治維新の日本はキリスト教徒である西欧の外圧、侵略という国際情勢の危機に対抗するため西欧のキリスト教の神に相当する絶対的な国家、国民の支柱を必要としていた。それは既存の神仏ではなく現人神である天皇しかなかった。
 日本は水戸学や国学の「天皇絶対」という尊皇思想を採用する。同時に天皇の地位を不動のものとする仕組みを作り上げた。なかでも中国の儒学に由来する天皇の有徳論を退けるという大胆なことを行っている。
 本来天皇の地位は天命であり徳の有無により地位を奪われる。そうなると徳のない天皇であれば交代をせざるを得なくなる。これでは日本の柱となるべき天皇の地位が不安定である。そこで徳の有無に関わらず天皇の地位は揺るぎないものと規定したのである。
 これにより明治政府は儒学思想による水戸学の天皇像の中から天の徳によって天皇存在を相対化する儒教的概念を切り取り捨て去ったのである。かなりの乱暴な荒療治であるが国家が外国に侵略破滅するか存続するかの緊急危機事態の一大事に悠長に天皇の徳の有無を斟酌している余裕は明治政府にはなかった。
 そして万世一系の天皇のおわします神国日本という強国理念を打ち立てその中心に絶対的主祭神としての天皇をいただく皇国史観を確立していったのである。
 このように日本の近代化の中で生み出されたのが日本の旗印として絶対的存在としての天皇であり神としての天皇がしらす国の日本という皇国史観であった。このように日本は天皇を中心とする国家となったのである。蛇足を承知で言えば日本が天皇をいただく皇国になったのは明治時代に日本が近代化していく過程のおいてそのような皇国史観が作られてからのことである。
 
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神武天皇の東征図

 日本という独自の国柄はどのようなものか。それは皇国史観としては天皇が国家国民を統治する日本の「国体」として定義される。ではそういう日本の国柄、国体はいつごろ出来上がったのか。そう考えればそんなに古い話ではない。
 まずこれまで述べてきた水戸学がまず日本独自の国柄という意味で天皇の皇国思想をもとに天皇統治の国こそ日本であるという国体観念を打ち立てた。
 万世一系の天皇が日本に君臨し、天皇の君徳が天壌無窮に四海を覆い、臣民も天皇の事業を協賛し、義は君臣であれども情は親子のごとく、忠孝一致によって国家の進運を扶持する。この国体観念は天皇が永久に統治権を総攬する日本独自の国柄という意味をもち不可侵のものとされた。
 つまりこのような「皇国史観」は明治維新後の日本の近代化の中で生まれたものなのである。
 西欧列強に対抗して日本が近代国家に変身するために富国強兵、殖産興業をめざす中で日本は日本国民を統合する最強の求心力を持つ存在としての天皇像を必要としたのである。明治政府は西欧列強の侵略を阻止し近代国家として国家を立ち上げていくために日本存続の切り札として天皇を国家の守護神として近代国家日本の旗印に掲げたのである。皇国日本はかくして生まれたのである。
 
 ここでそのあたりについて著者が本書の最初の頃に書いている文章を少し引用する。
  「ここで念を押しておきたいのは、この「皇国史観」にせよ、そのベースとなっているとされている「国家神道」にせよ、特に江戸時代にルーツが求められるとはいえ、あくまで近代の産物だということです。
  明治以降、近代西洋的価値観が覇権を握る世界で日本なりの近代を創出し生き残りを図ろうとしていく中で、この国が選んだ国家の枠組みがまさに「天皇を中心とした国家」でした。それを思想として理論づける役割を担ったのが、本書で取り上げる「皇国史観」だと考えます。」(本文より引用)
 
 この本ではほかに大日本帝国憲法、南北朝時代の天皇正閏(せいじゅん)問題、天皇機関説など興味深い話題についても広範な知識と独自の洞察が展開されている。南北朝で南朝と北朝とどちらが正当な朝廷なのかという議論は誰しも興味ある話だ。本書でもそのあたりは詳しい解説がある。
 現在の天皇は北朝系なのだが実は明治時代に決められた公式の南北朝時代の正統(しょうとう)は南朝となっている。
 明治維新は尊皇思想が基本である。過去に天皇を中心として日本の政治が確立されたことはないのかと歴史を振り返ればそこには建武の中興があるではないか。後醍醐天皇は北条執権の鎌倉幕府を滅ぼし建武の新政という天皇親政を実現した。これこそ明治政府の目指すご一新、王政復古の手本である。このような流れの中で明治天皇は北朝系ではあるが天皇親政時代を築いた南朝系の後醍醐天皇の存在がクローズアップされる。そして「神皇正統記」「太平記」「大日本史」など南朝イデオロギーが明治政府では過去の中から蘇り優位となる。
 同時に楠木正成も蘇ってくる。
 南朝の後醍醐天皇の楠木正成の忠臣物語は日本人の心を深くうつものがあった。天皇のために命をも捧げる楠公精神は圧倒的に国民の感情に受け入れられた。
 これに対して北朝系の天皇を担いだ足利尊氏は天皇に弓を引いた逆賊の敵役として不人気の極みとなった。勝者の足利尊氏よりも湊川で散った楠木正成に明治の国民は共感していった。もちろんこれは明治政府の皇民化教育の成果でもある。
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東京 皇居外苑に建立された楠木正成公の銅像

 明治政府は国家のために戦争へ国民を動員しなくてはならない。そのためには天皇のために命をも捨てる楠公精神こそ必要であった。南北朝については歴史学者の見解は両統並立がオーソドックスな判断だった。だが明治政府も帝国議会も国民感情も南朝の楠公精神一本槍である。結果として北朝系の天皇をいただき忠誠を尽くせと国民教育をしながら皇統の正統(しょうとう)は南朝とするという矛盾を孕みながら天皇の歴史は綴られていくのである。

 このように過去の皇統譜さえも時代の波に翻弄されて変わっていくというのが天皇という存在の大きさでもあり危うさでもあるのだ。逆に言えば昭和天皇が「新日本建設に関する詔書」(人間宣言)の冒頭で「朕は爾(なんじ)ら国民と共に在り、常に利害を同じうし休戚(きゅうせき)=喜びと悲しみ=を分(わか)たんと欲す」と書かれているように天皇と臣民とは一体の存在であるという認識こそが天皇国家の真骨頂なのである。
 北朝系の天皇が南朝忠臣に共感する国民と心を同じくするという矛盾が矛盾でない姿、理屈や分別を超えた渾然一体としたものがそこにはある。未分割の魂のかたまりのような共同幻想、黙契としか言いようのない一体感の世界がそこにはある。
 西田幾多郎は「絶対矛盾的自己同一」という言葉で二元対立のない同一世界を提示した。君臣一体とはこのような皇国観でありこれこそが日本の近代に生まれた国体のリアルであるのかもしれない。
 
 南北朝論争以外でも民俗学と天皇論として柳田國男と折口信夫が俎上にあげられている。なかでもユニークなのは折口信夫の「天皇霊」である。折口信夫は天皇は神の詞を伝達する器であり代替わりの際に新しい天皇に天皇霊がひっついて天皇は天子様としての威力が生まれると説いている。天皇霊というのは聞き慣れない言葉かもしれないが昔は人に霊がつくということは珍しいことではない。そこから天皇には天皇霊が憑くことによって天皇の霊力が備わるのだと折口信夫は考えたのである。そのヒントは新天皇の行う大嘗祭の儀式にあった。
 新たな天皇が行う大嘗宮正殿内にはなぜか寝具が持ち込まれる。
 この寝具に着目した折口信夫は昭和の大嘗祭の直後に大嘗宮正殿内の寝具は「日本書紀」にも書かれている高天原から降臨する瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)がくるまれた真床覆衾(まとこおふすま)であり寝具に籠もる儀式によって天皇霊が天皇に憑いたとする仮説を発表した。
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秘儀とされている大嘗祭の儀式。新天皇は素足で真菰の敷物の上を歩く。

●天皇の万世一系は「血筋」ではなく「天皇霊」という霊魂の継承である。

 昔は新天皇はお衾に入られて、鎮魂の歌、諸国の国ぶりの歌をお聞きになっている間に、「天皇霊」を受け入れることで、半睡半覚醒の神的眠りから醒めた時には、完全な天皇として「復活」し、「新天皇」が誕生しているわけです
新天皇は「大嘗祭」における「潔斎」「真床追衾」の秘儀によって、天皇は代替わりごとに太陽に象徴される祖先神の力を得て、生命力を更新して行きます。そして、それが全国民に分配され、国民の結束力、神霊の加護も更新されるのです。』
このように、折口氏は、天皇の権威をほかならぬ「万世一系」の「血筋」ではなく、「肉体を入れ替えて復活をとげる霊魂」という超越的存在の継承によって説明しようとしたのです。


 否定する向きもあるが現在の大嘗宮での実際が部外者に公開されることはない。いまもって秘中の秘の秘儀とされているため寝具がどのような意味を持つのか知る人はいない。
 折口信夫の仮説によれば天皇に憑いた天皇霊が天皇に肉化し天皇が受信した神の声が天皇の意志として日本の方向性を決めることになる。
 しかしこの論理だと一つ問題がある。天皇霊は必ず天皇に憑くという保証はどこにもない。飛躍するがそこらの田吾作にもし間違って天皇霊がひっつけば田吾作が天皇になる危険性も含んでいる。また霊能者が天皇霊が憑いたと言うことも考えられる。実際にそういう事例があったことが本のなかで紹介されている。
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 左は柳田国男 右が折口信夫

 この本では更に折口信夫について昭和天皇の人間宣言は大きなショックだったと書いている。たしかに天皇が天皇霊の憑く神の憑依だと直感した折口信夫にとって天皇自身に神話を否定された上にダメ押しの人間宣言までされてしまったのである。頼りの天皇に神の衣を脱ぎ捨てられては折口信夫も立つ瀬があるまい。
 天皇霊は人間宣言で破綻した。
 昭和天皇に見放された天皇霊はどこに行ってしまったのだろう。神としての天皇は昭和天皇が最後ということになる。
 その後は天皇の神格はなくなり人間天皇の時代が今日まで続いていることになる。
 そうなれば天皇の儀式も神としての祈りではなく人間天皇としての祈りの儀式に変わっていることになるだろう。そのあたりのことは民草の盆暗には理解を超えることで論及は不可能である。
 
 だが見方を変えればそうでもないのではないかと著者は軽口を言う。
 それはもしかしたらマッカーサーを依代として憑いたアメリカ霊であり引退させられた天皇霊に代わってアメリカ霊が戦後の日本を発展させたのかもしれないと著者は書いている。
 だったとしたらこれには少し追加の悪霊話を書かねばなるまい。
 日本領土の尖閣列島海域への領海侵犯を常態化させいるのが中国である。
いま悪霊的な独裁国家の中国共産党霊が日本列島に漂い始めている。
 アメリカでは大統領選挙をめぐり自由と民主主義の旗を掲げるトランプ大統領が選挙の不正を訴えているにも関わらずトランプ大統領を非難、罵倒するマスコミや極左勢力がアメリカ全土を席巻している。これはどういうことだろうか。
 アメリカ極左勢力と民主党バイデンとその仲間には独裁主義、全体主義の中共霊が取り付いておりアメリカの混乱はアメリカだけでなく同盟国の日本にとっても危険なシグナルである。
 
 さて天皇霊から話が脱線しているが締めくくりに入らないといけない。  
 この本を通して感じるのは「皇国史観」としての神国日本という概念や現人神としての絶対者としての天皇像がもともとあったわけではないということである。
 万世一系の天皇家という存在を日本は連綿として受け継いできた。
 天皇は日本の家元である。だが天皇が権力者として常に強権を発揮して日本を支配してきたかといえばそうではない。
 天皇は権威として君臨し政治向きは権力を持つ時々の覇者が間接統治という形態で日本を支配してきたと一般的に言われている。しかし実際のところは天皇が形はともあれ日本を実質的に統治してきたかといえばそうではないような気がする。天皇はさまざまな権力構造と向き合い折り合いをつけながら存在している。 天皇は武力を持って自衛しているわけではない。無手勝流のような強いようで脆く、脆いようで強い存在のように思える。
 そのときどきの政権を使って天皇が日本を支配してきたと見るのは実情にはあわない。江戸時代など徳川将軍家は天皇などむしろ余計者扱いと言えば言いすぎかもしれないが、実態はないがしろにされていたと思われる。天皇は幕府の決めた禁中並びに公家諸法度によって雁字搦めに縛らていた。天皇の権限はただ年号を選んで変えるというそれだけだったとも言われている。
 江戸時代を通して印象を受けるのは幕府によって押し付けられた無力な天皇像である。
 そんな天皇が明治維新とその後の近代化では打って変わって日本を代表する主権者として脚光を浴びていく。幕末から明治時代にかけて天皇の権威は天井知らずで高まっていき「日本は天皇を中心とした国家」であるという皇国史観による国体が確立されていった。
 
 極端に言えば天皇の存りかた、天皇像というものはそのときどきの政権や広義に言えば国民の総意が決めてきたとも言える。
 どのような天皇像が好ましいのかは天皇自身が決めることはなくこれまでは時々の政権や国民に委ねられてきた。その意味では皇国史観は固定的なものではなく神武天皇以来約2700年その時代の空気によって変わってきたと言っても過言ではない。とくに大きく変わってきたのが戦後だと著者は言う。
 
 その実例として本書の最後の章「平成から令和へ」には昭和天皇のいわゆる「人間宣言」を取り上げる。そして昭和天皇の天皇像として「いつも国民とともにある」という認識が天皇という存在の基盤なのだと示されたと書いている。さらに昭和天皇の意志を継いで天皇を譲位して退位された上皇は「天皇とは何かを自ら国民に問いかけた」とその意味の重さを指摘している。
 そして上皇の示された平成の天皇道とは「戦後民主主義、人間天皇、象徴天皇を三位一体のものとして体現する」ということになると指摘する。

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●昭和天皇の人間宣言●
「神道指令」の半月後の1946年1月1日に出された天皇の詔書「新日本建設に関する詔書」と呼び習わされている昭和天皇の言葉が官報号外で公表された。「神道指令」に盛り込めなかった天皇の神聖性の縮減を意図したものである。。1946(昭和21)年1月1日に発せられ、天皇の人間宣言といわれる。

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通称「人間宣言」と呼ばれている文書は 1946年1月1日に昭和天皇が発表した
「年頭、国運振興ノ詔書」通称「新日本建設に関する詔書」 赤線部分
■現代語訳
私とあなたたち臣民との間の絆は、いつもお互いの信頼と敬愛によって結ばれ
単なる神話と伝説とによって生まれたものではない。
天皇は現人神、日本国民は他より優れた民族で、
ひいては世界の支配者たるべく運命づけられたという架空の概念に基くものではない。

人間宣言については次のような見解もあることを知っておきたい。
 
 この新たな理念が日本国憲法の「象徴としての天皇」へ引き継がれていき、平成の天皇の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(2016年)にも受け継がれる。いちおう「天皇の人間宣言」は一つの方向性を指し示したということは言える。しかし、「天皇の人間宣言」は天皇個人の意思表示にすぎず、法的拘束力のある文書ではない。人間宣言から1年以内に内容が固まっていく日本国憲法においても、天皇の神聖化に大きな問題があったということは、なお十分に明確になっていない。「象徴天皇」という規定は神聖天皇ではなく人々と「信頼と敬愛」の関係にある人間天皇という意味が含まれていると考えることもできるわけだが、それを確認することは戦後の日本国民にとっての課題として持ち越されたのだ。(島薗進 東京大学名誉教授、上智大学教授、宗教学者)

 ただ上皇の退位は実は重大な問題を孕んでいる。
 実は近代の天皇を支えてきた安定装置は「天皇は自分の意志で退位できない」「天皇は自分の後継者を指名できない」という二か条である。これは大日本帝国憲法を作った宰相の伊藤博文が天皇を護り近代日本を皇国として永続させるための金科玉条として定めたふたつの規定であった。
 その一つが上皇によって破られた。このことは天皇の存在に今後非常に重大な影響を与えることにもなりかねない。とは直接的に著者は書いてはいないがひとつ目が崩れたということは二番目が崩れるということも起こり得ると著者は警鐘を鳴らしている。
 それは女性天皇の問題であって愛子内親王の即位の可能性も出てくるのだがそのときの天皇の意志が問われかねないのである。本来なら天皇安定装置の二か条によりそういう生々しい問題は起きようはずがないのであるが・・・・。天皇の後継をめぐり現在は非常に不安定な状況が生まれている。
 
 日本は過去一度も王朝が変わったことのない「世界唯一の単一王朝国家」であり2700年という長きにわたって天皇を中心とした「皇国」であり続けている。こんな国はほかにはない。
 その歴史はまさに奇跡としか言いようがない。皇室の歴史は今上陛下まで125代、皇紀2681年の長きにわたり万世一系の天皇が存在している。単一王朝にして世界最古の歴史を持つ国家は地球上にただ日本だけである。

 

 現在の国連加盟国は196ヵ国ある。その中で最も国家として歴史の古い国はほかならぬ日本である。日本に次いで歴史の古い国はデンマークが約1000年、三番目はイギリスの約950年である。この二カ国よりも日本はさらに1000年以上も古くからある国なのだ。
 世界史を見ると日本よりも昔にできた国はある。だがそれらの古い国はすべて滅んでいる。 
 現存する国のなかで世界最古の国は「日本」である。もし子供に日本はどんな国なの?と聞かれたら世界一歴史の古い国だよと教えれば良い。中国4000年という謳い文句がある。これは中国は入れ替わり立ち替わり侵略王朝が興亡していった歴史であって現在の中華人民共和国や大韓民国は戦後に建国された歴史の浅い国だというのは常識である。

 日本は今後も皇国で有り続けることは間違いないだろう。その割に日本人には天皇とか皇国であるという認識、意識が薄いようだ。
 他の国の人から見れば日本は奇跡の国だと仰天するだろうが日本人は「へー、そうなのか」といった反応だろうと思う。
 いま秋篠宮家の長女の眞子様の結婚をめぐって何かと話題になっている。この際そういう話題をきっかけに天皇、皇室、皇国日本について関心を持ち歴史的な存在としての天皇について少し勉強してみるのもいいかもしれない。
 この図書はその意味で誰でも気軽に読める「天皇入門の書」としておすすめしたい。

 ★下の関連リンク。大嘗祭の儀式と折口信夫の天皇霊説についての詳しい解説があります。興味のある方はぜひご一読をお薦めします。

 ※新天皇に天皇霊をつける大嘗祭はマコモ祭り!(19/11/14)
以上
Posted at 2021/01/11 22:39:36 | コメント(0) | トラックバック(0) | 読後感想文 | 日記

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