簡単に言えば「尊皇」とは「天皇とは日本で一番偉い人である」という考え方である。徳川時代において日本で最高の権力者は誰が考えても全国の大名を配下に治めている征夷大将軍の徳川家である。だがそれは違うと水戸学では言う。水戸藩の儒学者たちは天下国家はそもそも誰のものかと自問自答を繰り返し一つの結論を得た。
栄枯盛衰は世の習いであり権力を握る覇者は時に生まれ時に去っていく。まさに覇者の驕りは移ろい漂う権(かり)の力に過ぎない。だがよくよく考えて見るに日本には神武天皇に始まる日本の万世一系の天皇が存在している。その威光は厳然と連綿として継続しておりわが国の最高統治者としての地位を一度も奪われてはいない。
では徳川政権の征夷大将軍とは何か。この地位は天皇によって与えられたものではないか。つまり徳川家は天皇によって政治権力の執政を委託された覇道の頭目に過ぎないことになる。
水戸藩の藩学として儒学の学風を創始したのは水戸藩第二代藩主の徳川光圀である。徳川光圀は若くして「史記」を学び紀年体の日本史編纂を思い立ったと言われる。
徳川 光圀(とくがわ みつくに)は、常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる。 諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。(Wikipediaより引用)
元禄5年(1692)に南朝の後醍醐天皇の忠臣として名高い楠木正成公の墓碑を建立する。場所は現在の兵庫県神戸市の湊川神社境内である。現在ももちろん湊川神社の中に墓碑が在り献花、墓参する人が絶えない。
その墓碑に光圀公は自ら「嗚呼忠臣楠子之墓」と揮毫している。この光圀の南朝正統論は後に明治維新における尊皇思想に繋がり明治政府は南北朝の両統並立時代の正統を南朝に決めることになるのだがそれはまだ先の話になる。
水戸藩が藩学として採用したのは儒教思想である。徳川時代に幕府は仏教を重視しており神道や儒教は低くみられていた。水戸藩の儒教に裏打ちされた尊王思想は否定こそされないものの幕藩体制を支える枢軸思想ではなかった。
このときの諸国をめぐり文献収集をしたというエピソードをもとに作られた時代劇がテレビや映画でおなじみの「水戸黄門」である。光圀公は実際には諸国漫遊はしなかったのだが助さん格さんすなわち佐々 宗淳(さっさ むねきよ。別名、佐々木助三郎)と渥美格之進は実在の人物で水戸藩の武士である。
じっさいに全国を回ったのは佐々木助三郎で出身は現在の奈良県宇陀市。15歳で京都で臨済宗の門に入るが後に儒学に傾倒、還俗して江戸に出て水戸藩へ仕官した。儒学を修し学識のある佐々 宗淳は光圀側近として全国をまわり大日本史編纂の資料収集に尽力した。閑話休題(あだしごとはさておきまして・・・・)
大日本史とは水戸藩2代藩主・徳川光圀の命により編纂された歴史書となります。
1657年(明暦3年)に編纂作業が開始され、編纂が終結するのが1906年(明治39年)と、実に249年もの長きに渡り続いたのと多額の費用を要した日本の歴史の上で類まれだ大事業だった。
「大日本史」編纂は江戸時代のはじめから延々と続けられ完成したのは実に1906年。日露戦争の終わったあとの明治39年だった。そのときあったのは茨城県であり水戸藩も江戸幕府も歴史の背後に消え去っていた。しかし大日本史編纂に心血を注いだ水戸藩の尊皇思想は日本をは作り変える起爆剤となったのである。外国船が次々に押し寄せ日本へ開国を迫る緊急事態が起きる。この一大事に日本は水戸学の尊王思想を国防最前線に掲げるのである。
幕末に水戸藩の藩論であった尊王思想が国防論と合体する。
天皇は開国を迫る外国を排斥しようという攘夷論と合体したのである。外国に押されて開国をする幕府の弱腰姿勢に怒った武士は幕府に代わる統率者としての天皇に期待を寄せる。このように天皇中心にして外国侵略を防ごうという「尊皇攘夷」思想が生まれていった。
幕末の尊皇攘夷論に始まりから明治維新の国家体制の要となった天皇の存在を解く上で著者は明治政府の天皇絶対論に言及する。もともと水戸学の尊皇論は儒教思想に基づくもので天皇の天皇たる資格は徳の有無によるもので人徳を欠く人物には天皇の資格がないこととなる。シナの皇帝が天の徳を失い天命尽きて交代する皇帝徳論理と同じである。
しかし明治維新の日本はキリスト教徒である西欧の外圧、侵略という国際情勢の危機に対抗するため西欧のキリスト教の神に相当する絶対的な国家、国民の支柱を必要としていた。それは既存の神仏ではなく現人神である天皇しかなかった。
日本は水戸学や国学の「天皇絶対」という尊皇思想を採用する。同時に天皇の地位を不動のものとする仕組みを作り上げた。なかでも中国の儒学に由来する天皇の有徳論を退けるという大胆なことを行っている。
本来天皇の地位は天命であり徳の有無により地位を奪われる。そうなると徳のない天皇であれば交代をせざるを得なくなる。これでは日本の柱となるべき天皇の地位が不安定である。そこで徳の有無に関わらず天皇の地位は揺るぎないものと規定したのである。
これにより明治政府は儒学思想による水戸学の天皇像の中から天の徳によって天皇存在を相対化する儒教的概念を切り取り捨て去ったのである。かなりの乱暴な荒療治であるが国家が外国に侵略破滅するか存続するかの緊急危機事態の一大事に悠長に天皇の徳の有無を斟酌している余裕は明治政府にはなかった。
そして万世一系の天皇のおわします神国日本という強国理念を打ち立てその中心に絶対的主祭神としての天皇をいただく皇国史観を確立していったのである。
このように日本の近代化の中で生み出されたのが日本の旗印として絶対的存在としての天皇であり神としての天皇がしらす国の日本という皇国史観であった。このように日本は天皇を中心とする国家となったのである。蛇足を承知で言えば日本が天皇をいただく皇国になったのは明治時代に日本が近代化していく過程のおいてそのような皇国史観が作られてからのことである。
神武天皇の東征図
日本という独自の国柄はどのようなものか。それは皇国史観としては天皇が国家国民を統治する日本の「国体」として定義される。ではそういう日本の国柄、国体はいつごろ出来上がったのか。そう考えればそんなに古い話ではない。
まずこれまで述べてきた水戸学がまず日本独自の国柄という意味で天皇の皇国思想をもとに天皇統治の国こそ日本であるという国体観念を打ち立てた。
万世一系の天皇が日本に君臨し、天皇の君徳が天壌無窮に四海を覆い、臣民も天皇の事業を協賛し、義は君臣であれども情は親子のごとく、忠孝一致によって国家の進運を扶持する。この国体観念は天皇が永久に統治権を総攬する日本独自の国柄という意味をもち不可侵のものとされた。
つまりこのような「皇国史観」は明治維新後の日本の近代化の中で生まれたものなのである。
西欧列強に対抗して日本が近代国家に変身するために富国強兵、殖産興業をめざす中で日本は日本国民を統合する最強の求心力を持つ存在としての天皇像を必要としたのである。明治政府は西欧列強の侵略を阻止し近代国家として国家を立ち上げていくために日本存続の切り札として天皇を国家の守護神として近代国家日本の旗印に掲げたのである。皇国日本はかくして生まれたのである。
ここでそのあたりについて著者が本書の最初の頃に書いている文章を少し引用する。
「ここで念を押しておきたいのは、この「皇国史観」にせよ、そのベースとなっているとされている「国家神道」にせよ、特に江戸時代にルーツが求められるとはいえ、あくまで近代の産物だということです。
明治以降、近代西洋的価値観が覇権を握る世界で日本なりの近代を創出し生き残りを図ろうとしていく中で、この国が選んだ国家の枠組みがまさに「天皇を中心とした国家」でした。それを思想として理論づける役割を担ったのが、本書で取り上げる「皇国史観」だと考えます。」(本文より引用)
この本ではほかに大日本帝国憲法、南北朝時代の天皇正閏(せいじゅん)問題、天皇機関説など興味深い話題についても広範な知識と独自の洞察が展開されている。南北朝で南朝と北朝とどちらが正当な朝廷なのかという議論は誰しも興味ある話だ。本書でもそのあたりは詳しい解説がある。
現在の天皇は北朝系なのだが実は明治時代に決められた公式の南北朝時代の正統(しょうとう)は南朝となっている。
明治維新は尊皇思想が基本である。過去に天皇を中心として日本の政治が確立されたことはないのかと歴史を振り返ればそこには建武の中興があるではないか。後醍醐天皇は北条執権の鎌倉幕府を滅ぼし建武の新政という天皇親政を実現した。これこそ明治政府の目指すご一新、王政復古の手本である。このような流れの中で明治天皇は北朝系ではあるが天皇親政時代を築いた南朝系の後醍醐天皇の存在がクローズアップされる。そして「神皇正統記」「太平記」「大日本史」など南朝イデオロギーが明治政府では過去の中から蘇り優位となる。
同時に楠木正成も蘇ってくる。
南朝の後醍醐天皇の楠木正成の忠臣物語は日本人の心を深くうつものがあった。天皇のために命をも捧げる楠公精神は圧倒的に国民の感情に受け入れられた。
これに対して北朝系の天皇を担いだ足利尊氏は天皇に弓を引いた逆賊の敵役として不人気の極みとなった。勝者の足利尊氏よりも湊川で散った楠木正成に明治の国民は共感していった。もちろんこれは明治政府の皇民化教育の成果でもある。
東京 皇居外苑に建立された楠木正成公の銅像
明治政府は国家のために戦争へ国民を動員しなくてはならない。そのためには天皇のために命をも捨てる楠公精神こそ必要であった。南北朝については歴史学者の見解は両統並立がオーソドックスな判断だった。だが明治政府も帝国議会も国民感情も南朝の楠公精神一本槍である。結果として北朝系の天皇をいただき忠誠を尽くせと国民教育をしながら皇統の正統(しょうとう)は南朝とするという矛盾を孕みながら天皇の歴史は綴られていくのである。
このように過去の皇統譜さえも時代の波に翻弄されて変わっていくというのが天皇という存在の大きさでもあり危うさでもあるのだ。逆に言えば昭和天皇が「新日本建設に関する詔書」(人間宣言)の冒頭で「朕は爾(なんじ)ら国民と共に在り、常に利害を同じうし休戚(きゅうせき)=喜びと悲しみ=を分(わか)たんと欲す」と書かれているように天皇と臣民とは一体の存在であるという認識こそが天皇国家の真骨頂なのである。
北朝系の天皇が南朝忠臣に共感する国民と心を同じくするという矛盾が矛盾でない姿、理屈や分別を超えた渾然一体としたものがそこにはある。未分割の魂のかたまりのような共同幻想、黙契としか言いようのない一体感の世界がそこにはある。
西田幾多郎は「絶対矛盾的自己同一」という言葉で二元対立のない同一世界を提示した。君臣一体とはこのような皇国観でありこれこそが日本の近代に生まれた国体のリアルであるのかもしれない。
南北朝論争以外でも民俗学と天皇論として柳田國男と折口信夫が俎上にあげられている。なかでもユニークなのは折口信夫の「天皇霊」である。折口信夫は天皇は神の詞を伝達する器であり代替わりの際に新しい天皇に天皇霊がひっついて天皇は天子様としての威力が生まれると説いている。天皇霊というのは聞き慣れない言葉かもしれないが昔は人に霊がつくということは珍しいことではない。そこから天皇には天皇霊が憑くことによって天皇の霊力が備わるのだと折口信夫は考えたのである。そのヒントは新天皇の行う大嘗祭の儀式にあった。
新たな天皇が行う大嘗宮正殿内にはなぜか寝具が持ち込まれる。
この寝具に着目した折口信夫は昭和の大嘗祭の直後に大嘗宮正殿内の寝具は「日本書紀」にも書かれている高天原から降臨する瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)がくるまれた真床覆衾(まとこおふすま)であり寝具に籠もる儀式によって天皇霊が天皇に憑いたとする仮説を発表した。
秘儀とされている大嘗祭の儀式。新天皇は素足で真菰の敷物の上を歩く。
●天皇の万世一系は「血筋」ではなく「天皇霊」という霊魂の継承である。
昔は新天皇はお衾に入られて、鎮魂の歌、諸国の国ぶりの歌をお聞きになっている間に、「天皇霊」を受け入れることで、半睡半覚醒の神的眠りから醒めた時には、完全な天皇として「復活」し、「新天皇」が誕生しているわけです
新天皇は「大嘗祭」における「潔斎」「真床追衾」の秘儀によって、天皇は代替わりごとに太陽に象徴される祖先神の力を得て、生命力を更新して行きます。そして、それが全国民に分配され、国民の結束力、神霊の加護も更新されるのです。』
このように、折口氏は、天皇の権威をほかならぬ「万世一系」の「血筋」ではなく、「肉体を入れ替えて復活をとげる霊魂」という超越的存在の継承によって説明しようとしたのです。
否定する向きもあるが現在の大嘗宮での実際が部外者に公開されることはない。いまもって秘中の秘の秘儀とされているため寝具がどのような意味を持つのか知る人はいない。
折口信夫の仮説によれば天皇に憑いた天皇霊が天皇に肉化し天皇が受信した神の声が天皇の意志として日本の方向性を決めることになる。
しかしこの論理だと一つ問題がある。天皇霊は必ず天皇に憑くという保証はどこにもない。飛躍するがそこらの田吾作にもし間違って天皇霊がひっつけば田吾作が天皇になる危険性も含んでいる。また霊能者が天皇霊が憑いたと言うことも考えられる。実際にそういう事例があったことが本のなかで紹介されている。
左は柳田国男 右が折口信夫
この本では更に折口信夫について昭和天皇の人間宣言は大きなショックだったと書いている。たしかに天皇が天皇霊の憑く神の憑依だと直感した折口信夫にとって天皇自身に神話を否定された上にダメ押しの人間宣言までされてしまったのである。頼りの天皇に神の衣を脱ぎ捨てられては折口信夫も立つ瀬があるまい。
天皇霊は人間宣言で破綻した。
昭和天皇に見放された天皇霊はどこに行ってしまったのだろう。神としての天皇は昭和天皇が最後ということになる。
その後は天皇の神格はなくなり人間天皇の時代が今日まで続いていることになる。
そうなれば天皇の儀式も神としての祈りではなく人間天皇としての祈りの儀式に変わっていることになるだろう。そのあたりのことは民草の盆暗には理解を超えることで論及は不可能である。
だが見方を変えればそうでもないのではないかと著者は軽口を言う。
それはもしかしたらマッカーサーを依代として憑いたアメリカ霊であり引退させられた天皇霊に代わってアメリカ霊が戦後の日本を発展させたのかもしれないと著者は書いている。
だったとしたらこれには少し追加の悪霊話を書かねばなるまい。
日本領土の尖閣列島海域への領海侵犯を常態化させいるのが中国である。
いま悪霊的な独裁国家の中国共産党霊が日本列島に漂い始めている。
アメリカでは大統領選挙をめぐり自由と民主主義の旗を掲げるトランプ大統領が選挙の不正を訴えているにも関わらずトランプ大統領を非難、罵倒するマスコミや極左勢力がアメリカ全土を席巻している。これはどういうことだろうか。
アメリカ極左勢力と民主党バイデンとその仲間には独裁主義、全体主義の中共霊が取り付いておりアメリカの混乱はアメリカだけでなく同盟国の日本にとっても危険なシグナルである。
さて天皇霊から話が脱線しているが締めくくりに入らないといけない。
この本を通して感じるのは「皇国史観」としての神国日本という概念や現人神としての絶対者としての天皇像がもともとあったわけではないということである。
万世一系の天皇家という存在を日本は連綿として受け継いできた。
天皇は日本の家元である。だが天皇が権力者として常に強権を発揮して日本を支配してきたかといえばそうではない。
天皇は権威として君臨し政治向きは権力を持つ時々の覇者が間接統治という形態で日本を支配してきたと一般的に言われている。しかし実際のところは天皇が形はともあれ日本を実質的に統治してきたかといえばそうではないような気がする。天皇はさまざまな権力構造と向き合い折り合いをつけながら存在している。 天皇は武力を持って自衛しているわけではない。無手勝流のような強いようで脆く、脆いようで強い存在のように思える。
そのときどきの政権を使って天皇が日本を支配してきたと見るのは実情にはあわない。江戸時代など徳川将軍家は天皇などむしろ余計者扱いと言えば言いすぎかもしれないが、実態はないがしろにされていたと思われる。天皇は幕府の決めた禁中並びに公家諸法度によって雁字搦めに縛らていた。天皇の権限はただ年号を選んで変えるというそれだけだったとも言われている。
江戸時代を通して印象を受けるのは幕府によって押し付けられた無力な天皇像である。
そんな天皇が明治維新とその後の近代化では打って変わって日本を代表する主権者として脚光を浴びていく。幕末から明治時代にかけて天皇の権威は天井知らずで高まっていき「日本は天皇を中心とした国家」であるという皇国史観による国体が確立されていった。
極端に言えば天皇の存りかた、天皇像というものはそのときどきの政権や広義に言えば国民の総意が決めてきたとも言える。
どのような天皇像が好ましいのかは天皇自身が決めることはなくこれまでは時々の政権や国民に委ねられてきた。その意味では皇国史観は固定的なものではなく神武天皇以来約2700年その時代の空気によって変わってきたと言っても過言ではない。とくに大きく変わってきたのが戦後だと著者は言う。
その実例として本書の最後の章「平成から令和へ」には昭和天皇のいわゆる「人間宣言」を取り上げる。そして昭和天皇の天皇像として「いつも国民とともにある」という認識が天皇という存在の基盤なのだと示されたと書いている。さらに昭和天皇の意志を継いで天皇を譲位して退位された上皇は「天皇とは何かを自ら国民に問いかけた」とその意味の重さを指摘している。
そして上皇の示された平成の天皇道とは「戦後民主主義、人間天皇、象徴天皇を三位一体のものとして体現する」ということになると指摘する。
●昭和天皇の人間宣言●
「神道指令」の半月後の1946年1月1日に出された天皇の詔書「新日本建設に関する詔書」と呼び習わされている昭和天皇の言葉が官報号外で公表された。「神道指令」に盛り込めなかった天皇の神聖性の縮減を意図したものである。。1946(昭和21)年1月1日に発せられ、天皇の人間宣言といわれる。
通称「人間宣言」と呼ばれている文書は 1946年1月1日に昭和天皇が発表した
「年頭、国運振興ノ詔書」通称「新日本建設に関する詔書」 赤線部分
■現代語訳
私とあなたたち臣民との間の絆は、いつもお互いの信頼と敬愛によって結ばれ
単なる神話と伝説とによって生まれたものではない。
天皇は現人神、日本国民は他より優れた民族で、
ひいては世界の支配者たるべく運命づけられたという架空の概念に基くものではない。
人間宣言については次のような見解もあることを知っておきたい。
この新たな理念が日本国憲法の「象徴としての天皇」へ引き継がれていき、平成の天皇の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(2016年)にも受け継がれる。いちおう「天皇の人間宣言」は一つの方向性を指し示したということは言える。しかし、「天皇の人間宣言」は天皇個人の意思表示にすぎず、法的拘束力のある文書ではない。人間宣言から1年以内に内容が固まっていく日本国憲法においても、天皇の神聖化に大きな問題があったということは、なお十分に明確になっていない。「象徴天皇」という規定は神聖天皇ではなく人々と「信頼と敬愛」の関係にある人間天皇という意味が含まれていると考えることもできるわけだが、それを確認することは戦後の日本国民にとっての課題として持ち越されたのだ。(島薗進 東京大学名誉教授、上智大学教授、宗教学者)
ただ上皇の退位は実は重大な問題を孕んでいる。
実は近代の天皇を支えてきた安定装置は「天皇は自分の意志で退位できない」「天皇は自分の後継者を指名できない」という二か条である。これは大日本帝国憲法を作った宰相の伊藤博文が天皇を護り近代日本を皇国として永続させるための金科玉条として定めたふたつの規定であった。
その一つが上皇によって破られた。このことは天皇の存在に今後非常に重大な影響を与えることにもなりかねない。とは直接的に著者は書いてはいないがひとつ目が崩れたということは二番目が崩れるということも起こり得ると著者は警鐘を鳴らしている。
それは女性天皇の問題であって愛子内親王の即位の可能性も出てくるのだがそのときの天皇の意志が問われかねないのである。本来なら天皇安定装置の二か条によりそういう生々しい問題は起きようはずがないのであるが・・・・。天皇の後継をめぐり現在は非常に不安定な状況が生まれている。
日本は過去一度も王朝が変わったことのない「世界唯一の単一王朝国家」であり2700年という長きにわたって天皇を中心とした「皇国」であり続けている。こんな国はほかにはない。
その歴史はまさに奇跡としか言いようがない。皇室の歴史は今上陛下まで125代、皇紀2681年の長きにわたり万世一系の天皇が存在している。単一王朝にして世界最古の歴史を持つ国家は地球上にただ日本だけである。
現在の国連加盟国は196ヵ国ある。その中で最も国家として歴史の古い国はほかならぬ日本である。日本に次いで歴史の古い国はデンマークが約1000年、三番目はイギリスの約950年である。この二カ国よりも日本はさらに1000年以上も古くからある国なのだ。
世界史を見ると日本よりも昔にできた国はある。だがそれらの古い国はすべて滅んでいる。
現存する国のなかで世界最古の国は「日本」である。もし子供に日本はどんな国なの?と聞かれたら世界一歴史の古い国だよと教えれば良い。中国4000年という謳い文句がある。これは中国は入れ替わり立ち替わり侵略王朝が興亡していった歴史であって現在の中華人民共和国や大韓民国は戦後に建国された歴史の浅い国だというのは常識である。
日本は今後も皇国で有り続けることは間違いないだろう。その割に日本人には天皇とか皇国であるという認識、意識が薄いようだ。
他の国の人から見れば日本は奇跡の国だと仰天するだろうが日本人は「へー、そうなのか」といった反応だろうと思う。
いま秋篠宮家の長女の眞子様の結婚をめぐって何かと話題になっている。この際そういう話題をきっかけに天皇、皇室、皇国日本について関心を持ち歴史的な存在としての天皇について少し勉強してみるのもいいかもしれない。
この図書はその意味で誰でも気軽に読める「天皇入門の書」としておすすめしたい。