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2023年07月22日 イイね!

尾崎放哉。「墓のうらに廻る。」


「大空」(たいくう)という俳句の本がある。手元に置いてときおり開いて読む。復刻本だが古い活字の俳句集だ。この俳句を詠んだのは尾崎放哉(おざきほうさい)。彼は明治の人で鳥取市に生まれ最期は瀬戸内海の小豆島で身罷った。本名は尾崎 秀雄〈おざき ひでお〉1885年~1926年)。放哉の俳句の著作は生前にはなく死後に編纂出版された。
尾崎放哉は種田山頭火とともに日本の自由律俳句の代表的俳人として知られる。この自由律俳句というのは俳句と言っても季語があり五七五の定型にならういわゆる有季定型俳句ではない。季語もなければ五音、七音の韻律も踏まない。自由奔放な俳句でありいわば異端の俳句と言えるだろう。定型を重んじ季語を大切にする俳人からみればとても俳句とは言えないと言われても仕方ないような俳句である。
見方を変えれば短い詩とも言える。この総称して自由律俳句と呼ばれる俳人として尾崎放哉は我が国の俳界に確固とした爪痕を残した俳界の奇才である。今回は自由律俳句の簡単な紹介と尾崎放哉という俳人について書こうと思う。

 後で自由律俳句については書くが、まずは、尾崎放哉の詠んだ俳句を紹介してみたい。こんな俳句をどう思われるだろうか。これが俳句なのか?と感じられる人もおられると思う。
 
 咳をしても一人
 
 墓のうらに廻る
 
 春の山のうしろから煙が出だした
 
 
 こういう俳句を詠んだ人である。
 またこんな俳句もある。
 
 入れ物はない両手でうける
 
 こんな良い月を一人で見て寝る
 
 肉が痩せて来る太い骨である
 
 大空のました帽子かぶらず
 
 漬物桶に塩ふれと母は産んだか

 何がたのしみに生きてると問はれて居る

 たった一人になり切って夕空

 
 尾崎放哉は鳥取一中時代から俳句に親しんでいた。文学的には早熟であったと言える。また学業でも秀才として知られ上京して一高から東京帝国大学に入り、法学部を卒業している。卒業後は有名な保険会社に入社してエリートサラリーマンとなった。彼の人生は順風満帆に見えた。
 しかし生来の自己中で我儘な性格は社会人となっても変わらなかった。当然、世間との折り合いがつけられず職場では孤立する。その鬱憤や不満のはけ口を酒に求めた。その程度なら並の酒飲みだが尾崎放哉の酒は癖が悪すぎた。
 過度の飲酒は酒乱であり酒癖は仕事にも支障をきたすようになり、とうとう会社に居られなくなる。自暴自棄の日々を過ごす尾崎の心を癒やすのはやはり酒と俳句であった。
 彼の一生をここで詳述しないが、仕事を得て渡った朝鮮や満州の寒さの中で病を得た上に満身創痍の状態で帰国してからは唯一の理解者であった妻にも愛想を尽かされてしまう。その後の尾崎はいっさいの社会的な関わりを捨て世捨て人なる。寺の堂守など雨露を凌ぐだけの隠遁の場を転々としながら吾と我が身は悪性の肋膜炎という持病に蝕まれながら俳句を詠み俳句投稿一筋の生活に入る。
 そんな困窮、貧窮の隠者姿の放浪俳人となった尾崎放哉を支えたのは自由律俳句の俳句誌「層雲」を主宰する荻原井泉水など若い頃からの先輩、同輩の俳人仲間であった。かろうじて生きながらえつつ俳句三昧だけの尾崎は生活能力をまったく欠いていた。俳句を詠むほかの一切を捨て去った尾崎放哉は、荻原井泉水のはからいで最期の命の捨て場としての小豆島へたどり着き、そこで短い生涯を終えた。享年41歳であった。
 
 人は誰しもが心も身も着飾って世間の眼を欺いて生きている。いい悪いではなく、それが人間の世渡りをする実態である。しかし尾崎放哉の生き方はその正反対であった。
 世間そのものを断捨離し、いっさいの関わりを絶って身も心も無一物となった尾崎放哉にとっては虚飾は無用の長物であった。尾崎放哉は金も名誉も学歴も家庭もみな投げ捨てた。ありのままの素のままの自分で生きたいというのが尾崎放哉の願望であった。しかし、そういう潔癖さやある種の純粋さが世渡りの不器用さと相まって放哉は世の中に受け入れられない。その結果、どこへ行っても世知辛い人間関係の柵の中で孤立していく。
 人並みに生きることに悪戦苦闘する放哉は、憂き世の辛さのはけ口を酒に求めた。酒に溺れることで傍目にも自覚でも放哉は自暴自棄、人間失格さながらの破滅の極地に追いやられ鬱々とした日々を過ごす。
 そのような生活の中でも、放哉は俳句をつくることをやめなかった。
 日記を書くように、放哉は心の呟き、独白を俳句の言葉に写し取っている。
 
 尾崎放哉の俳句は世間に背を向けた無一物生活をそのまま詠む孤高な心境そのものの表白であった。俳句というものはこういうものだ、という固定概念、知識や常識を破り捨てた。文字とおりの「型破り」俳句が、放哉の独自性、個性であり、俳句をつくる流儀であった。尾崎放哉の俳句からは、どの句一つとってもうまい俳句をつくって褒められたい、世評を得たいというような色気は微塵も感じられない。人の目は意に介せず、ただ己が信じる俳句の細道をひたすらに追究しつづけている。
 ただ、自らの心境を見つめ嘘偽りのない、作りものでない、俳句をつくる。それが世間から脱落し放浪する破戒僧となった放哉の俳句道である。晩年の俳句にはそうした虚飾を一切拒絶した研ぎ澄まされた心境、心象風景、心模様、心情が自由自在に表現されている。
 
 尾崎放哉の句を収載した「大空」の句を鑑賞すれば、そこには季語も韻律も問わない俳句の原石ともいうべき漂白する放哉の魂が露呈しているだけである。放哉の句には、飄々として世間を超越した句境がある。おかしみや悲しみのないまぜになった独特の世界がある。また生きる根源苦からの救いを感じさせる言葉が随所にころがっている。
 俳句から技巧も捨て俳趣味も捨てなにもかも捨て去った無一物の俳句。自分さえも世の中から捨て去り命さえも捨て去ろうとして生と死の間を彷徨いつつ懊悩する我と我が身を放哉は凝視し深掘りし続けている。
自分をとことん掘り下げ自分をみつめる。それはほとんど底の抜けた柄杓で水を汲む虚しい営みそのものである。放哉の句の悲しや寂しさの底には底のない柄杓で汲めない水を汲むその虚しさが通低音のように音のない音を出して流れる地下水のように存在しているからだ。。
 放哉は徹底して己にこだわり、己を見つめ、わが心の内を呟き続けた。それが放哉の俳句になった。極めて私小説のような、私俳句であるが、私つまり、個の深化は普遍に通じるのだ。
 それが放哉の俳句である。

 底がぬけた柄杓で水を呑まうとした 
 
 この放哉の句、それこそが放哉の人生そのものであった。柄杓の底、それは自らの本心を偽る自制と虚飾の板である。それがなければ、金も名誉も家族も円満な人間関係などの何もかもが得られないということは放哉にはわかってはいた。両親も家族も親戚も知人、友人もみなそれを放哉に求めたはずだ。
 放哉が酒で人生を破滅させたことは放哉を知る誰もが証言している。
 善意で好意で哀れみでまた俳人としての放哉への畏敬の念で、放哉に手を差し伸べてくれる人はあまたあった。だが一杯の酒が酒を呼び、泥酔の極みで手を差し伸べてくれる恩情の人たちに対し、放哉は凄まじい酔眼でなじり、罵倒し、冷笑の罵詈雑言を浴びせるのが常であった。これでは話にならない。

 放哉は酒の誘惑に負け、酒乱の泥沼に自らを投身自殺させるような破滅の道を歩んだ。いくら反省し自戒してはいても、酒の前には自制の心はいとも簡単に砕け散った。わが心の欲するままに生きる放哉にとって世間は放埒な心を閉じ込める牢獄そのものだったであろう。
 放哉は心を入れ替えて底のある柄杓を持ちたいと願うこともあった。だが世間は放哉をすでに見放していた。放哉の手には、もはや、底の抜けた壊れた柄杓しか残ってはいなかったのである。
 晩年、孤独な放浪の果にせめて別れた妻の写真一枚でも見たいと本心から思った。しかし、妻にそういう手紙を出すこともできなかった。無視されることがわかっていたのだろう。それでも放哉はその手紙を妻に送ったようだ。返事は来なかった。これまでのハチャメチャな生き方を見れば妻に愛想を尽かされてもしかたない放哉なのであった。

 底の抜けた柄杓。それが放哉の人生だった。柄杓についた水滴くらいはしゃぶってどうにかこうにか喉の乾きを抑えられたかもしれない。しかい、当たり前に人が飲んでいる、柄杓の水を尾崎放哉は遂に飲むことができなかったのである。そんな放哉にとって、唯一の救いが俳句であった。


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上が尾崎放哉。
下の笠の人が種田山頭火。


●正岡子規●

 近代の俳句の源流を素描すると、まず短歌や俳句の確立に貢献した正岡子規にたどり着く。それまであった発句や俳諧と言った江戸の文芸から俳句と言う文学を確立しようと一身をささげた文学者であり俳人として知られる、正岡子規(1867年~1902年)。本名は正岡常規(つねのり)といい、愛媛県松山市に生まれた。俳号の「子規」というのは、「ホトトギス」という鳥を指す言葉。子規は結核のため喀血を繰り返す闘病生活を送っていたことから、自分を「のどから血を流して鳴くと」と言い伝えられている鳥のホトトギスに例えたと言われている。正岡子規は21歳のときに結核を患い、以後34歳で亡くなった。闘病のなかで今に残る俳句を生み出した。亡くなる数時間前まで句を詠み続け、短い生涯に残した俳句の数は20万句ともいわれる。彼の俳句は命の絶唱といえる。
 正岡子規の代表的な俳句は多いが少し紹介する。
 『柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺』
 『柿くふも 今年ばかりと 思ひけり』
 『 故郷や どちらを見ても 山笑ふ 』
 『 島々に 灯をともしけり 春の海 』
 『 夏草や ベースボールの 人遠し 』
柿の俳句が多い。正岡子規は、柿が好物だったようだ。

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正岡子規の写真 ↑


●高浜虚子●

 次にこの偉大な正岡子規の弟子に高浜虚子と河東碧梧桐の二人がいる。
 師匠の後継者として俳句の興隆を担った逸材である。
 高浜 虚子(1874年~ 1959年〉は愛媛県松山市の人。本名は高浜 清(たかはま きよし)。
 高浜虚子は学校で1歳上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わった。高浜虚子と河東碧梧桐は大の親友であったが、俳句観においては相容れず対立相剋し世間を騒がせた。

 子規の没後、五七五調に囚われない新傾向俳句を唱えた碧梧桐に対して、虚子は俳句は伝統的な五七五調で詠まれるべきであると唱えた。また、季語を重んじ平明で余韻があるべきだとし、客観写生を旨とすることを主張し、「守旧派」として碧梧桐と激しく対立し、俳句こそは「花鳥諷詠」「客観写生」の詩であるという理念を掲げた。(Wikipediaより引用)

 高浜虚子は、俳句の創作だけでなく、俳句指導者としても大きな存在となり、俳句の入門書を著し、俳句作家を育成した。また俳句を詠む女性が少なかった時代に女性俳人の育成にも力を入れた。そうした功績により1954年、日本政府から、高浜虚子は俳人として初めて文化勲章を受章した。その5年後の1959年に85歳で亡くなった。

 遠山(とおやま)に日の当りたる枯野かな
 時ものを解決するや春を待つ
 一つ根に 離れ浮く葉や 春の水
 道のべに 阿波の遍路の 墓あはれ
 牛も馬も 人も橋下に 野の夕立
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高浜虚子 ↑

●河東 碧梧桐●
 さて問題は自由律俳句である。正岡子規の門下にあって高浜虚子は伝統の有季定型の俳句を世に広めて大いに威勢をふるった。一方、正岡子規に師事した河東碧梧桐は季題趣味の脱却を目指した自由律俳句を進めた俳人で季題と定型にとらわれない自由律俳句を提唱し実作していった。その意味で、日本の自由律俳句の創始者は河東碧梧桐と言えるだろう。
 河東 碧梧桐(かわひがし へきごとう。1873年~1937年)は、正岡子規の高弟として高浜虚子と並び称され、俳句革新運動の代表的人物として知られる。
従来の五七五調の形にとらわれない新傾向俳句を創案し『新興俳句への道』(春秋社)という著書を出版している。こうした河東碧梧桐の定形にとらわれない新傾向俳句運動に参加したひとりが、これまた無季自由律俳句で知られる荻原井泉水(1884~1976)だ。
河東碧梧桐の段階ではまだ季語を含む自由律俳句も混在していた。だが荻原井泉水は更に一歩進んだ俳句の革新を試み、俳句に必須とSれていた季語や季題にとらわれず生活感情を自由に詠い込む自由律俳句を提唱した。
 こうした俳句革新の旗印を掲げた俳句誌『層雲』を主宰する荻原井泉水のもとに自由律俳句の異彩、鬼才というべき、尾崎放哉、種田山頭火が出現するのである。
 
 ここで自由律俳句を提唱しながらも季語を捨てさることはしなかった河東碧梧桐の俳句をみてみよう。有季あり無季あり、俳句情緒の滲む句もあれば脱有季定型に徹して突き抜けた句もあり、その創作感性は多彩にして非凡であり自由奔放にして独自の味わいに満ちている。

冬枯や 墾き(ひらき)捨てたる このあたり 
一軒家も過ぎ 落葉する風のままに行く 
この道の 富士になり行く 芒(すすき)かな 
千編を 一律に飛ぶ 蜻蛉かな 
愕然として 昼寝覚めたる 一人かな 
赤い椿白い椿と落ちにけり
鳥渡る博物館の林かな
思はずもヒヨコ生れぬ冬薔薇
松葉牡丹のむき出しな茎がよれて倒れて
正月の日記 どうしても五行で足るのであつて
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河東碧梧桐 ↑

●荻原井泉水●
 
 正岡子規、その弟子の高浜虚子、河東碧梧桐、という俳句革新の流れの中から、河東碧梧桐が突破口を開いた有季定型俳句を打破する自由律俳句の世界。その流れを更に大きく切り開いたのが荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)である。
 荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい、1884年~ 1976年)は、東京の生まれの俳人で自由律俳句の俳人として知られる。自由律俳句に特化した俳句誌「層雲」を主宰して一時、河東碧梧桐も加わった。荻原井泉水は季語への未練を断ち切り、俳句には季語無用だと主張し、自然のリズムを尊重した無季自由律俳句を提唱した。この「層雲」に投稿する尾崎放哉や種田山頭火らを俳人として引き立て、育てたのは荻原井泉水の功労である。
 荻原井泉水の作風は、自由律俳句の中でも徹底している。
 季語を詠まないだけでなく、575音の韻律えも踏まないという徹底したものである。
 季語があってもなくても構わない、場合によっては言葉に韻律があってもよいとする緩やかな自由律俳句とは一線を画した。それが荻原井泉水の「無季自由律俳句」の特徴である。あとで尾崎放哉や種田山頭火の俳句を紹介するが、なんでこれが俳句?というような句のオンパレードに仰天される人もおられることだろう。だが、それこそ荻原井泉水の提唱した俳句革新の真骨頂なのである。
 荻原井泉水を師として、尾崎放哉(おざきほうさい)、種田山頭火(たねださんとうか)という奇才たちは俳句から季語を廃し十七音を無視して、口語で瞬間的な印象を読む無季自由律俳句を生み出していった。
 では荻原井泉水はどんな俳句を詠んだのであろうか。
 『論議の中につつましく柿をむく君よ』
 『 たんぽぽたんぽぽ 砂浜に春が 目を開く 』
 『 咲きいづるや 桜さくらと 咲きつらなり 』
 『 うちの蝶として とんでいるしばらく 』
 『 湯呑久しく こはさずに持ち 四十となる 』
 『 はつしと蚊を、おのれの血を打つ 』
 『 わらやふる ゆきつもる 』
 『 われ一口 犬一口の パンがおしまい 』
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荻原井泉水 ↑

●種田山頭火●

 さて、ここまでは書かずもがなの前置きである。いきなり、尾崎放哉の俳句から語りだしてもよかったのだが、それはあまりにもマニアックかもしれないと逡巡したのである。したがってわかっている人にはこれまでの説明はどうでもいい話ばかりで申し訳ない。そこで、ここでまたまた言い訳がましいのだが尾崎放哉の前に種田山頭火の句をどうしても紹介したい誘惑に駆られるのはしかたないことかもしれない。尾崎放哉は知らなくても、山頭火といえば何となく一度は名前を聞かれた人も少なくないだろう。それほど、自由律俳句は知らなくても山頭火は知っているというほど世間や俳句世界での山頭火の知名度は高い。
 
 早く放哉へ行け、とせかされるのは重々承知であるが、ほんのさわりだけ、山頭火の句についても触れておきたい。自由律俳句という山脈があるとすれば、山頭火という山はとんでもなく富士山のように高い巨峰なのだ。しかも今でも噴火している活火山なのである。まさに、山頭火なのだ。
 
 
 分け入っても 分け入っても 青い山
 後ろ姿のしぐれていくか
 ほろほろ ほろびゆく わたくしの秋
 焼き捨てて 日記の灰の これだけか
 どうしようも ないわたしが 歩いている
 まっすぐな道で さみしい
 生死の中 雪ふりしきる
 あるけばかつこう いそげばかつこう
 鉄鉢の中へも霰
 また見ることもない 山が遠ざかる
 この道しかない 春の雪ふる
 こころ疲れて 山が海が 美しすぎる
 生まれた家は あとかたもない ほうたる
 また一枚 脱ぎ捨てる 旅から旅
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 種田山頭火の俳句を初めて読んだのは、高校一年生のときで、どうしてその本が手元にあったのか記憶にない。たしか、山頭火の句集「草木塔」だった。その時受けた衝撃はいまもぼんやりとはしているが圧倒的なものだったことは記憶している。以来、折に触れては山頭火の句を読み返し読みかえししておりもう彼の俳句世界とは60年以上の長い付き合いとなる。それでも読むたびに新鮮で山頭火の紡いだ言葉の魅力にぞくぞくする。
 いまだに、山頭火の俳句は永遠の未踏峰のように燦然と高みに輝いていてその頂上は雲に霞んで見ることもできない。山頭火を追っかけても追いかけても、彼はいつもはるか先にいてその句境には近づくこともできない。
 そんな思いをする詩人が日本にもうひとりいる。それは日本語の文学表現を比類なき豊穣なものにしてくれた言葉の魔術師・北原白秋である。冗談だが、もし私がノーベル賞の選考委員なら、この二人にノーベル文学賞を贈りたい。
 どんどん脇道にそれていくのだが、本論は尾崎放哉である。
 
 尾崎放哉の人生や俳句について説明するのはやめる。山頭火と並んで自由律俳句の奇才と言う評価はすでに定まっている。私は枕元に放哉の句集をおいて寝る前に少しづつ読んでいるのだがなかなか進まない。その最大の理由は夜中の11時ころになると自然に眼が霞んで字が読めなくなるからだ。老化とはそういうものだ。若い頃には字が霞んで読めなくなるとは思ったことも感じたこともなかった。

 ぼうやりと字が遠ざかる
 
 自由律俳句を真似てみたがまことに駄句の極みだ。
 
 
 ここで少しだけ尾崎放哉の句をあげておこう。
 
 尾崎放哉は放浪の果に最後は小豆島に渡って最期を迎える。その僅かな時間の中でも多くの句を残している。一部をあげてみる。
 
咳をしても一人
いつしかついて来た犬と浜辺に居る
とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた
ビクともしない大松一本と残暑にはいる
障子あけて置く海も暮れ切る
足のうら洗へば白くなる
自分をなくしてしまつて探して居る
竹籔に夕陽吹きつけて居る
鳳仙花(ほうせんか)の実をはねさせて見ても淋しい
入れものが無い両手で受ける
雀が背のびして覗く俺だよ
月夜の葦が折れとる
墓のうらに廻る
あすは元日が来る仏とわたくし
夕空見てから夜食の箸とる
枯枝ほきほき折るによし
霜とけ鳥光る
お菓子のあき箱でおさい銭がたまつた
あついめしがたけた野茶屋
肉がやせてくる太い骨である
一つの湯呑を置いてむせている
白々あけて来る生きていた
これでもう外に動かないでも死なれる
大空のました 帽子かぶらず 
 
この中で、特に有名な句が「咳をしても一人」という句だ。
これほど人生の孤独、寂寥を表した文学表現を私は知らない。人間は生まれるも一人、死ぬも一人なのだ。咳をしても一人。さっきまで笑っていた人であっても、この句を読めば、涙が突然吹き出すほど寂しい俳句ではないか。
尾崎放哉が一生をかけて吐出したこの句の凄みは圧巻である。
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詩人とは何か問われれば、一生をかけて一つの詩を紡ぎ出した人のことだと言いたい。
一つの俳句、一つの詩、それを生み出すために、詩人は一生を費やすのである。
尾崎放哉はまさにこの句によって日本の詩に不滅の刻印を残したと言えるだろう。尾崎放哉という名前が忘れ去られても、「咳をしても一人」という俳句は永遠に残り人々に読まれ続けていくであろう。この句は不世出の俳人・尾崎放哉の俳人として生きた証なのである。

 もう一つ、誰も気になってしようがない放哉の句がある。それが次の句だ。これは尾崎放哉の代表作の一つと言われる。
 
 『墓のうらに廻る』
 
 なんとも不可解で奇妙な句だ。何を言いたいのか?なんでこんな句を作ったのか?おそらく、古今東西の世界中の詩人で、こんな詩を書いた詩人はいないだろう。無類の珍詩と言って良い。それだけにかなり難解であることは間違いない。書かれていることは明快で単純であるがその心は?と聞かれれば、謎だらけで言葉に詰まる。。
 墓のうらに、廻った、ということだけである。何も紛らわしいことはない。では、どういう意味が込められているのか?この句の意味、解釈は?と言われると答えに窮するのである。
 実は、この句の意味を探るというのがこの原稿を書き出した動機なのである。 
 長々と前段を書いてきたが、ようやく本論の核心に近づいてきた。私なりの解釈はあるのだが、その前に、いったいこの句を世間の人々はどのように解釈しているのかを見てみよう。
 誰が、どこに書いているのかは、あえて記さないことにする。
 ただ、この句をがどのように受け止められているのかがわかれば事足りると思う。
 以下、アトランダムに要点だけを列挙していく。
 
 
解釈①死にひきつけられる暗いイメージ

 墓石の裏側に廻るのは墓地で何気なくする行為であるが、「うしろ」でなく「うら」、「うらへ」ではなく「うらに」という表現に死にひきつけられる暗いイメージが漂っている。

解釈②この詠み味、余韻こそ芭蕉以来の俳句らしい俳句、俳句の中の俳句
 
 皆さんは墓の裏に廻ったことがありますか?私はあります。先日も廻ったばかりです。うろ覚えの道を辿って記憶も辿り「ここで良いはずだけど?」とぐるりと回って景色をみて思い出して。墓の裏に刻んである友人の戒名や俗名を確認します。ああ、ここで間違いない、と。血縁でない人の墓だと確認します。逆に、親族の墓だとそんなことはしません。表からお参りして、掃除をするときにまわるくらい。

ところで皆さんは古いお墓、放哉と同じ明治のお墓、江戸時代のお墓でも構いません。見たことがありますか?

その頃のお墓というのは今のようにピカピカの御影石ではなく、ざらついた緑褐色の脆い岩です。光るほど磨かれてもいません。

正面は今のお墓と大差なく家の名前が刻んであります。没年等の文字が刻んであるのは側面まで。裏に廻ると文字はなく、ノミのあとも生々しいざらりとした岩そのものがのっぺりとあるのです。平らにもしてありません。それが当時の普通のお墓です。放哉が見た墓はおそらくこのタイプです。

表から名前を見て故人を偲び手を合わせ、ふと裏に廻るとそこにはただののっぺりとした岩そのものの存在。表側が世俗的な儀式の場なら裏は即物的な、突き放したような無常観に包まれた世界です。放哉は、墓石を澪標として此岸から荒い岩肌のように冷たい彼岸を覗き見たのではないでしょうか。

「墓」という言葉は死に直結しどうしてもウェットになりがちです。そんな思いをたった9文字に凝縮し昇華することで、すっかりウエットさがなくなり、さらりとした詠み味にまでなっています。さらりとしていながら、深みを見つめる目があります。

自由律ではありますが、この詠み味、余韻こそ芭蕉以来の俳句らしい俳句、俳句の中の俳句だと思います。

解釈③裏に回って何か書いてないか?探してみた。

墓は人と見れば 表は立派かもしれない。
だがその人は、ほんとの姿はどんなものだったのか?
死んだ人の表の経歴には興味がない方際は、裏に回って何か書いてないか?探してみた。



解釈④どうにも、裏が気になる。放哉です。

人には表と裏と有る、
この人の裏に真の姿に興味がる。
けど、裏には何も書いてない。
墓場まで持っていった故人の秘密は誰も知らない。
墓を見ても、何も書かれてはいないだろうけど、どうにも、裏が気になる。放哉です。

解釈⑤すべてを捨て去ってなお残る感覚だけを本物の真実だと言いたい。

 俳句の三大要素といえば、「定型」「季語」「切れ字」が挙げられます。しかし掲句には三つとも存在しません。だからこの句を俳句ではないという人もいますが、一般的には自由律俳句と呼ばれています。
 放哉は現在の東京大学法学部を卒業して生命保険会社に就職しますが挫折。病気の悪化、妻子と別居と続き、後は各地の寺男を転々。妻子や家庭、仕事や名誉はいうに及ばず、俳句の三大要素まで捨て去った41歳の生涯でした。世の中の規則や規範に縛られることに堪えられなかったのかもしれません。
 掲句、不思議な臨場感があります。理屈でなく詩でもない力があります。墓はあの世とこの世の境界線上にあるといわれるが、どの墓も表から見るのと裏に廻って見るのでは全く異なった感じを受けます。表側にはその人の公式面が表れていて、裏側には隠そうとしている部分が垣間見えるのかも知れません。物事の裏側にある世界が表出しているのです。人間の文化は、たくさんの時間をかけて作られた虚構の世界であるとも言えます。放哉は保険会社に勤めていたときに表側の虚構に嫌気がさしたのかもしれません。寺男として墓守をしながら、たくさんの墓に接する中で裏側の世界に気付き、すべてを捨て去ってなお残る感覚だけを本物の真実だと言いたいのではないでしょうか。人生のすべてを懸けて追求した到着点がここだったのではないでしょうか。放哉の他の句からも同様な匂いがします。
  淋しいからだから爪がのび出す
  肉がやせて来る太い骨である
  せきをしてもひとり

解釈⑥墓石の裏を見て、みんなの息災を確認する。
「咳をしても一人」は晩年に小豆島で作った句です。病気で寝ていて咳をすれば、普通は、大丈夫ですか、とか言って家族が様子を見に来ます。しかし彼は一人なので誰も声をかけてくれません。咳をしても一人。

「墓の裏へ回る」久しぶりに故郷に帰ってきた。しかし実家の人々には今さら合わせる顔もない。それでも家族の安否が気になる。そこで墓に行って、墓石の裏を見て、みんなの息災を確認する。墓の裏に回る。

解釈⑦これは何を表現したいのかさっぱり分からない。
え?終わり?という感覚になる。
「三・三・三」。
「咳をしてもひとり」は、孤独を表したかったんだなという気持ちがなんとなく分かるが、これは何を表現したいのかさっぱり分からない。

ただ事実を述べているだけではないか。これがありなら「コンビニでタバコ買う」もありになりそうだ。
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 これくらいにしておこう。いま、あげた解釈の中に、うーん、そうだな、それだな、うん、と納得できる解釈はあったでしょうか。
 では、自分の解釈はこれだという感想はいかがでしょうか。俳句の解釈にこれが正しいというものはないようで、読んだ人が作者の当人でも思いもつかない解釈をしていると驚くこともあるらしい。
 そういうものだという俳句の解釈の常識はそれとして私は、この句について自分なりに納得できる解釈にたどり着いた。そこでそれを書いてこの論考を終えたいと思う。
 
 墓のうらに廻る。
 
この句の解釈は、文字とおりの、それだけである。
放哉は、墓のうらに廻ったのである。
そこで放哉は何をしたのだろうか。既存の解釈では墓石の裏に何が書いてあるのか見たというのもある。ほかはとくにないが、墓の裏で墓掃除をしたとか草を引いたとか昼寝したとかいろんな想像ができる。しかし、墓のうらへ廻る、というのは、墓石の裏側を見るとか、墓石の後ろを歩くとか、墓地のまわりを散歩するとか、そういう行動は連想しにくい。

 ごく普通に考えれば「墓のうらに廻る」というのは、墓石の後ろに廻って立っている、というのが自然である。墓石の裏に立てば、どうなるのか。墓石の前の方を見るのではないだろうか。つまり、墓石の前方のそこらの景色を見るためにわざわざ墓のうらに廻るのである。むしろ見ようとしなくても、墓の裏にまわれば墓の前方の風景が目に入るのは自然のなりゆきである。
「墓のうらに廻る」という俳句からは、放哉が意識して墓の裏に廻ったと読み取れる。
何のため廻ったのか。それは、極々単純に考えれば墓石の裏側から見える墓の在る墓地前方の景色を見るためだろう。
そのために墓のうらに廻った、というのがこの句である。墓の裏に廻って墓の前に広がっている景色をみたい。放哉はそう考えた。それは何のためなのか?

墓石の後ろから見える景色を見るために、墓のうらに廻りました。それはまあわかった。ではなぜ、墓の前の景色を見たかったのか。その理由や説明は、この句には書かれてはいない。
廻った理由を述べる件はこの句ではばっさりと省略されている。
俳句は説明ではないからだ。そこは読み手の想像に委ねられているのである。
ただ、これだけは想像できる。放哉は生きながらにして死者の視線をもって墓裏に廻っているのだと。

なぜ放哉は墓に行って、しかも、墓の裏にまで廻ってみたのだろうか。
墓には誰が入るのか。死んだ人が骨となって墓に入っているとすれば、骨となった人が見る墓石からの景色は、墓に向かって墓の表を見ていては見ることができない。
墓の裏に廻ってみれば、墓からどんな景色が見えるのか、わかる。否、後ろに回らないと前の景色は見えないのである。

放哉のこの視線の移動は、死者となり、骨となった自分の視線を自分の足を使って追っている。
放哉はこの墓に埋められたとする仮定の自分を想像をして、俺が死んでこの墓に入れば、どんな景色が見えるのか、と気になって墓のウラに廻って見たのだろう。
放哉は自分が死んでしまった気持ち、さらにいえば、お骨になりきって墓のうらに廻ったのである。まだ生きてはいるが、死後の骨となった己の視線さえも放哉の中では二重になって動いているような印象を受ける。
墓の後ろに立った放哉はここから、大好きな海が見えるのかな、と。この墓のある場所のような海の見えるような場所に、海に向かって墓を立ててほしいなと願っていたのだろう。

 もちろん、この解釈を押し付けるつもりはない。私の妄想である。

 放哉は死んだ気分になり、墓に入ったお骨の気分になって、墓のうらにまわり、そこから見える景色を見ていたのだ。もはや結核菌に全身を侵され、痩せ細り、死の影が取り憑いている。放哉は、自分の余命はいくばくもないことを痛感する日々である。そういう放哉にとって無条件に自分を許し、抱きしめてくれる穏やかな海の変わらぬ景色だけが救いであった。
放哉は自分が死んだつもりで、死者の気分となって墓から見える前の景色を確認したかったのだ。墓の裏から放哉はどんな景色を眼にしたのであろうか。
たぶん、そこには小豆島を取り巻く青い瀬戸内海の海原が輝きながら広がっていたに違いない。
 自分が骨となってしまったらもう何も見えない。だからせめてまだ命のあるうちに、墓から見える景色を眼に焼き付けてみたかったのだろう。それはいずれ骨片となるに違いない骨となった自分へ無一物の自分がせめても贈ることのできる精一杯の心尽くしだった。


 ここまで書いて私は芭蕉の有名な俳句「古池や蛙飛び込む水の音」を思い出す。
 この句にケチをつける人は誰もいない。しかし、放哉の「墓のうらに廻る」を知った今、この芭蕉の句が途端に色褪せるのを感じざるをえない。句の下五の「水の音」は言ってみれば説明であり句の想像派生、イメージを「水の音」に限定している。また蛙が池に勢いよく飛び込んだのだから、ボチャンと大きな水の音がするのは当たり前で、この連想は通にして俗であり、月にして並である。
 むしろ、この下五により句そのものが矮小化してしまったとさえ言えるのではないかと思えてくる。
 放哉は、どうかと言えば、この句において、芭蕉の句における「水の音」を付け加えていない。そこが芭蕉の句との大きな違いである。放哉の鍛えた自由律俳句の真骨頂がそこにある。
 つまり、一つの例をあげれば、「墓のうらに廻る青い海原だ」と書くこともできた。そう想像することもできるのだが放哉はそうは書いていない。青い海原、と書けばそのイメージに限定されてしまう。私は真昼の海原を連想したが、人によっては夕陽の沈む落日の海を連想するかもしれない。瀬戸内を真っ赤に染めて水平線に沈む夕陽に西方極楽浄土を重ね合わせることもできるだろう。その夕陽は空も海もまた小島の墓石も、その裏に立っている放哉までも夕焼けの赤に染め尽くしているだろう。
 
 放哉は、芭蕉の句で言うならば「古池や蛙飛び込む」で句を止めた。つまり「墓のうらに廻る」とだけ書いてあとは省略している。そこから見えた光景は読者に預けたのである。
そう思えば、この句において放哉は芭蕉を超えた、と言えば言いすぎだろうか。

 放哉は墓という骨となった自分の終末の居場所を見据え、しかも、その裏に廻るという陰の世界に身を置いて見せた。しかし墓の裏から振り向いた放哉は次の瞬間に、人の生死を超えて青く輝く悠久の瀬戸内の大海原の大パノラマが穏やかに広がっている光景を眼にしたのである。この鮮やかな陰から陽への大転換の恍惚の瞬間をたしかに放哉は痩せて骨と皮となった全身で味わったに違いない。その歓喜を言葉に結晶させたのがこの句であろうと思う。
 「咳をしても一人」という寂寞の極地を味わった放哉は、「墓のうらに廻る」ことによって眼前の海原に身を委ねることができた。放哉にとっての阿弥陀浄土ともいうべき海に抱かれて眠る死後の自分のいる光景を実感することによって永遠の救済を得たのではないだろうかと想像するのである。
 
 死期の迫っていた尾崎放哉は、大好きな海の見えるこんなお墓に入れたらいいなと思いつついつまでも墓の裏から立ち去りがたかったのではないだろうか。

 放哉は海を見ることを好んだ。
 海は母であった。
 放哉にとって厳父の存在はどうでもよかったが、自分を慈しんでくれた母の存在は絶対であり追慕の念を片時も忘れることはなかった。そして、母なき今は、母の慈愛を海に仮託して感じるのであった。放哉は海に母の無限の慈愛を思わずにはいられなかった。小豆島という瀬戸内海の海に四方を囲まれた島はまさに放哉にとって母の懐に還ってきたように心安らぐ安住の地であった。

「自分はあのやさしい海に抱いてもらへる、と云う満足が胸の底に常にあるからであらうと思ひます。丁度、慈愛の深い母親といっしょに居る時のやうな心持ちになって居るのであります。
 私は勿論、賢者でも無く、智者でも有りませんが、只、わけなしに海が好きなのです。つまり私は、人の慈愛・・・と云うものに飢ゑ、渇して居る人間なのでありませう。處(ところ)がです、この、個人主義の、この戦闘的の世の中に於いて、どこに人の慈愛が求められませうか、中々それは出来にくい事であります。そこで、勢い之を自然に求める事になってきます。私は現在に於いても、(中略)父の尊厳を思ひ出すことはありませんが、いつでも母の慈愛を思ひ起こすものであります。母の慈愛・・・母の私に対する慈愛は、それは如何なる場合に於いても、全力的であり、盲目的であり、且(か)つ、他の何者にもまけない強い強いものでありました。善人であらうが、悪人であらうが、一切衆生の成佛を・・・その大願をたてられた佛の慈悲、即ち、それは母の慈愛であります。そして、それを海がまた持っているやうに私には考えられるのであります。」
 (尾崎放哉 俳句集「大空」 入庵雑記 海 より)
 
 死の前にして放哉は海を眺めた。墓のうらに廻って、どこまでも広がる海原を見た。それは、海でありながら、母そのものだった。放哉にとっては、もっとも心安らぐ、母の無限抱擁そのものであった。
 この頃の放哉はまるで骨と皮になり食べ物も喉を通らなくなっていた。あと、何日、命が持つかわからない。自分に残された命はあと幾ばくもないないいことを自覚する中で、やっとの思いで外に出て海を眺めた。母の懐に抱かれているような安らかな思いに満たされている放哉の姿がそこにはあった。
 実際に尾崎放哉のお墓は海の見える小豆島の明るい墓地の高台にある。
 
 合掌。



  ★関連情報に尾崎放哉のリンク★
 
Posted at 2023/07/22 16:08:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | 読後感想文 | 日記
2022年09月16日 イイね!

「俳聖・芭蕉の二つの人生」

俳句と言えば芭蕉である。
昨今俳句ブームとかで芭蕉の名や俳句を知る人も多くなったかもしれない。
芭蕉は江戸時代中期の元禄文化を彩った俳人として知られている。
もともと日本の都は奈良、京都にあって宮廷を中心に文化芸術は上方が独占していた。それが徳川家康が江戸に幕府を開いてからだんだんと世の中の中心が武家社会の本拠地である江戸へと移ってきた。そして文化の主役も朝廷貴族から武家や庶民へと広がっていった。
元禄時代とはそのように京都や大阪という上方文化が江戸を中心とした町民文化へと移っていった時代であった。
そして元禄時代には三人の傑出した作家が生まれている。
まずは俳諧の巨匠・芭蕉である。そして芭蕉より2歳年長には井原西鶴、9歳下には近松門左衛門がいた。
そこでこの小文は芭蕉の生涯を簡単に紹介しようとするものだ。
何年か前になるが奈良からローカル電車で三重県の伊賀上野へ行ったことがある。伊賀上野の街を歩いているとたまたま芭蕉生家という案内看板がありこの街が俳聖芭蕉の生まれ故郷であることを知った。芭蕉の生まれたという家は中には入れなかったのだがなかなか立派な屋敷であった。
いまの三重県伊賀市に生まれた芭蕉がどのような人生を送り江戸で有名な俳句の宗匠にまでなったのだろうか。そのあたり私は何も知らなかった。
もう一つ芭蕉について何年か前に彼の直筆の短冊や色紙を見る機会があった。
これもたまたまであるが天理市の天理参考館という天理教の博物館に行った。このときは天理参考館のコレクションで日本書紀や古事記、群書類従、彩色の奈良絵本など稀覯本の展示会があったので見に行ったのである。そのとき会場の隅の方に芭蕉の色紙と短冊が数点ガラスケースに入って陳列されていた。芭蕉がしるした流麗な筆致のかな文字が並んでいた。まことに能筆である。
いま思い出したがかなり前になるが東京の新橋、出光美術館で芭蕉の短冊を見たことがある。その俳句の揮毫に名前として「はせを」と書かれていたのを記憶している。「はせを」?なんだろうか。
 芭蕉は漢字で署名するのではなく「はせを」と書いているのだということを芭蕉の短冊を見て初めて知った。
芭蕉についてはこんな断片的な知識と興味しかなかった。
手元に「芭蕉 二つの顔 俗人と俳聖と」(田中善信著)という講談社学術文庫がある。
 私はこの本の題で「俳聖」という言葉を初めて知った。俳句の聖人?聖人というのは儒学で知られる孔子のことを言うのではないか。あるいは宗教で崇拝される教祖などを聖人という。俳句において芭蕉は神様になったのか?という違和感がまずある。ところが実際に芭蕉は俳句の世界において神格化されており、『桃青霊神』(とうせいれいじん)また、『桃青大明神』と呼ばれていたらしい。その発端はよくわからないが寛政五(一七九三)年の芭蕉百回忌ころからのことらしいのである。『桃青』というのは芭蕉の俳号である。芭蕉も俳号であるがもともとは芭蕉は『桃青』という号で俳句を発表していたのである。
 俳句の神様と呼ばれて芭蕉は苦笑しているかもしれない。俳聖などと言う呼び名は一種の虚名ではあるがそれだけ芭蕉俳句が人口に膾炙され俳諧の世界に大きな影響を与えたということであり芭蕉の俳風を尊敬する俳人が多かったということであろう。
芭蕉は伊賀上野に生まれ29歳で江戸へ出た。その後俳句で名を上げ41歳以降は旅人として14年間の放浪の生活を続け51歳で没した。わたしたちが知るのは「野ざらし紀行」「奥の細道」といった俳聖芭蕉の放浪詩人としてのイメージである。だがそれ以前の芭蕉についてはあまり知るところがない。この本はそこに焦点をあてて人間芭蕉がどんな人物でありどんな生活を送っていたのかを今としては少ない資料をもとに推察、考察し芭蕉の実像に迫ろうとした芭蕉の伝記である。本のタイトルに興味を持って一通り読み終えた。読後に俳聖として知られる芭蕉の実際の人生に意外な一面のあることを知った。
そこでこの本の内容を踏まえて芭蕉とはどんな人生を送った人だったのかを紹介してみたい。もちろん芭蕉本人が詳しい自伝を残しているわけでもなく資料も限られている。芭蕉の人生については特にこれまで学者の研究対象になってきたわけでもなさそうなので未知の部分が多い。
全国あちこち歩き回っているから隠密だったかもという芭蕉スパイ説もある。これなどはかなり荒唐無稽だが推理、推論も含め「芭蕉 二つの顔 俗人と俳聖と」に書かれている著者の田中善信氏の論述をもとに簡単な芭蕉の伝記をまとめてみたい。
 松尾芭蕉の生まれたのは正保元年(1644年)である。この年は寛永21年にあたるのだが年末の12月16日に寛永から正保へと年号が変わった。芭蕉はいつの時代の人かと言えば、徳川第三代将軍・家光の時代、江戸時代の中期の人で、生国は伊賀国上野、現在の三重県伊賀市上野である。芭蕉の生まれた伊賀上野は江戸時代に藤堂藩の出城のあった城下町である。藤堂藩は藤堂高虎を藩祖として津に本城を構えた30万石の大名である。
 芭蕉の父は松尾与左衛門という。芭蕉の兄弟は上に兄と姉、下に妹が3人いた。父母を入れて松尾家は8人家族だった。芭蕉の生家は伊賀上野の農民の多く居住している赤坂町というところにあった。父は藤堂藩に仕える下級武士という説もあるが実際は専業農業のいわゆる百姓だったようだ。
 決して生家は経済的に裕福とは言えなかった。芭蕉は子供のころは金作といい長じて宗房と名のった。家は貧しかったのだがそれでも寺子屋で少しの勉学をしたようだ。財産のない松尾家としては子供を遊ばせて養育する余裕がなかった。
不幸なことに、父の与左衛門は芭蕉が13歳の時に亡くなった。一家を支えるべき長男の半左衛門はおそらく20歳にもなっていない。
 そこで芭蕉も10代前半ながら働き口を見つけて奉公に出ることになった。奉公先はたいがいが商家への丁稚奉公である。しかし芭蕉の場合はどいういう縁があってのことか奉公先は武家であった。しかも藤堂藩伊賀上野城付きの名家である藤堂新七郎家だった。この藤堂新七郎家は禄高は5000石あり藤堂藩の名門の家系である。想像だが芭蕉は子供ながらしっかり者で頭もよく「この子なら武家へ奉公しても立派に務まるはずだ」と見込まれたものであろう。運命という目に見えぬ星があるとするながば、幸運の星は貧しさから芭蕉を見捨てなかったのである。藤堂家への奉公が将来の俳人・芭蕉誕生の淵源になったのである。
 後にして言えることだがこの藤堂新七郎家への奉公が俳人・芭蕉の生まれる最初の土台になった。もし芭蕉が長男として家業の農家を継いでいたら、あるいは商人の家へ丁稚奉公に行っていたら、もしかしたら芭蕉は俳句と無縁の一生を送ることになったかもしれない。
 藤堂藩は藩風として文武両道を重んじる家風があり特に深い教養や文化が重んじられ俳諧など文学も盛んだったとも言われている。
 その意味では伊賀藤堂家の存在が俳聖・芭蕉を育んだ背景にあったと言えるだろう。
 伊賀上野の藤堂新七郎家というのは藩祖・藤堂高虎の従兄弟である藤堂良勝を家祖とする藤堂藩の大番頭である。藤堂良勝が大坂夏の陣において戦死し、その跡を継いだのが伊賀上野城付きの藤堂新七郎良精で五千石の番頭として幕末まで家督は存続した。
 芭蕉が身近に仕えた藤堂良忠は藤堂新七郎良精の三男であったが、兄ふたりの死により嗣子となった。
 先走って書くが良忠の俳号は藤堂蝉吟(せんぎん)と言う。25歳で身罷った。
 藤堂新七郎家で芭蕉は奉公人として最下級の小物中間であった。なかには芭蕉は藤堂藩の武士だったと述べられてもいるようだが実際の家柄は農家であり藤堂家の武士ではなく、農家出身の奉公人というのが正しいようだ。
 また一説に芭蕉は新七郎家の料理人だったとも言われている。だがそれは後のことらしく最初は厨房仕事は無縁だった。
 芭蕉の仕事はこの家の跡取りで自分より二歳年上の長男の藤堂主計(本名は良忠)に仕えることであった。良忠は生来病弱であったようで武芸や乗馬などとは無縁であり室内で過ごすことが多かった。そしてこの良忠が京都の俳諧師匠に入門し俳諧(俳句)を学んでいたのである。藤堂高虎を藩祖とする藤堂藩には武家の教養として文芸を重んじる藩風があった。
そのような家風から藤堂新七郎家でも京都の国文学者であり高名な俳人であった北村季吟(きたむら きぎん 1624~1705)を文芸の師範としていた。芭蕉の仕えた藤堂良忠はすでに京都の俳諧師である北村季吟の門人であり俳諧名を「蝉吟子」と言った。芭蕉はこの良忠に寵愛されたのである。芭蕉は蝉吟子の一番の俳諧の相手として文芸の世界に目覚めた。京都の俳句師匠の指導を受ける主君のお供として共に俳諧を学び実作し天性の文才に磨きをかけていったと思われる。
 だが好事魔多し、芭蕉を使用人ではなく得難い俳友として引き立ててくれた良忠が25歳の若さで早逝した。このとき芭蕉は23歳である。もし良忠が健康で成長し藤堂新七郎家の家督を継いでいたら芭蕉の人生も主君の最愛の家来として武家社会の中で立身出世していただろう。そうなれば俳諧は趣味として嗜む程度のものに終わり俳諧師・芭蕉は誕生しなかったかもしれない。
 主君の藤堂良忠亡き後途方に暮れた芭蕉だったがその後も藤堂新七郎家の奉公人を続けている。奉公している武家で芭蕉が料理人だったというのはこの時代のことだったのかもしれない。仕える主君を失った芭蕉に藤堂新七郎家は厨房の仕事を与えて雇い続けたものであろう。
 藤堂良忠が亡くなった後も芭蕉は奉公先で料理人を務めながらも俳諧をやめなかった。そのまま京都の俳諧師匠について作句を続けていた。
 このころは芭蕉は俳号を本名の「宗房」で発表していた。
 藤堂良忠が健在だった寛文7年(1667年)師匠の季吟一門が出した俳諧集をみると、蝉吟(良忠)が33句入選し宗房(芭蕉)は31句が入選し掲載されれいる。俳諧の世界も身分制度はもちろん反映されており伊賀藤堂藩の名門の惣領である良忠が優遇されるのはいわば当然である。俳諧師匠にとっては大事なお得意様である。しかしその下人、家来に過ぎない芭蕉がほとんど主人と同じくらいの数の俳句を採用されているのは破格と言えないだろうか。俳諧の才能があったというよりも生来賢い子供だったように思われる。たまたま俳諧に出会ったわけだが短い時間で俳諧のコツを会得して実作し専門家の俳諧宗匠に認められるというのは非凡な才能である。芭蕉は当然奉公する身であり雑用は山ほどあったと思われる。その中でおそらく芭蕉は入選句の何倍もの数の俳句を作り続けたのであろう。その目に見えない努力が才能を開花させる原動力となった。
 それだけに良忠の死は芭蕉にとって大きな衝撃だった。
 芭蕉が藤堂新七郎家に奉公している間にもう一つの変化があった。実家の松尾家は決して裕福ではなく芭蕉も含め6人の子供がいたことはすでに述べた。その一人で嫁いだ姉の子の面倒を芭蕉が見ることになった。詳しい経緯は不詳だがその子は桃印と言う名の男児であり一説には姉の子だったと言われている。
 この桃印は芭蕉がつけた俳号である。
 芭蕉は桃の字が好きだったようで弟子達に桃の字をつけた俳号を与えており、自らも桃青と名乗っている。
 おいおい明らかになるのだが、この芭蕉の姉の子供とも言われる甥の桃印が
後々の芭蕉の運命を大きく変えることになる。
 そのことにまだ伊賀上野時代の芭蕉は気がついていないし、桃印ももちろん自分の運命などわかろうはずがない。
 芭蕉は主人の藤堂良忠の亡き後6年間は新七郎家で奉公している。そして29歳のとき藤堂家に暇をもらい突然江戸へ出た。
 江戸へ出て2年後の31歳のときには俳号も桃青(とうせい)と変えている。
 このとき自分が面倒を見ている甥の桃印は連れて行っていない。単身で江戸へ下っている。江戸に誰か知人がいたわけではないが京都の俳諧師匠の北村季吟の伝手を辿って江戸での世話してくれる人を見つけたと思われている。 
 江戸へ出立するにあたり芭蕉は28歳の時(1672年)、初の俳句の自撰集『貝おほひ』を編んだ。その俳句集を自分を育ててくれた伊賀上野の地への感謝を込めて「伊賀天満宮」に奉納している。
 すでに上方の俳壇で名を知られた芭蕉にとって、町人文化の華やかな江戸は自身の俳人として飛躍の舞台に見えたのかもしれない。
 伊賀上野で新人俳諧師として名をあげた芭蕉が新天地を求めて江戸へ出た。こういうストーリーはいかにも、という後付の感じがして如何なものかと思われる。第一江戸へ出た29歳という年齢がいかにも遅すぎる。藤堂良忠が亡くなった時芭蕉は23歳である。そのとき、思い切って江戸へ出たと言うならまだ怖いもの知らず若気の至り野望の盛りと見ることもできる。だが江戸時代の29歳というのは一般的に隠居でもしようかという老境である。したがって芭蕉がその歳で江戸へ下ったのには何か釈然としないものがあり何か別の理由があったのかもしれない。
 ついでに戯言を言えば江戸時代もこおころは中期で元禄時代も間近いころである。諸国大名の参勤交代も盛んに行われと東海道の宿場や川の渡しも整備され庶民にとって日本中の街道往来もさほど珍しくはない時代になっていた。江戸からのお伊勢参りも流行していたほどである。そうして見ればやや老いてから伊賀上野から江戸へ出るというのもそんなにありえない話でもないのかもしれない。
ここでまた本筋から外れて余談の小道へ入ることをお許しねがいたい。藤堂藩の藩祖である藤堂高虎は徳川家康のお気に入りの武家であり当然のことながら江戸に広大な藩邸を構えていた。
 東京に「上野」という場所がある。上野公園があり花見で毎年賑わっている。実はこの場所こそがかつて藤堂高虎の屋敷跡なのである。上野という地名は藤堂高虎が自分の領地であり、芭蕉の出身地でもある「伊賀上野」に似ているなと思ってつけた地名だという。
 芭蕉にとって将軍家お膝下の江戸はは元を辿れば自分の仕えたお殿様の藤堂家屋敷も上野にあるわけで身近な場所に思えたはずである。現在の東京の上野の地名は伊賀上野に由来する地名である、ということを書いて本筋に戻ることにする。
 芭蕉は51歳で没している。
 そう見れば30歳前の江戸行きは人生の残り少ない晩年に近くなってからの思い切った決断であった。何を考えての江戸行きだったのか。俳諧師として江戸で一旗上げたい。そう考えての決断だったのだろうか。芭蕉の心中を類推できるものは残っておらず、そこらは良くわかっていない。
 ただこういう見方は成り立つだろう。
 もし芭蕉が俳諧で身を立てるという目的で江戸を選んだのなら良い着眼だったということだ。伊賀上野に近い京都には俳諧師匠である北村季吟がいる。師匠を差し置いて俳諧師匠を目指すのはありえない。おこがましいにも程がある上に俳諧の新風として俳句業界を牛耳っている談林派の西山宗因の天下である。新参者の芭蕉が入り込む余地はない。
では大阪はどうか。ここも敷居が高い、と芭蕉は思ったのだろうか。
大阪には化け物のような鬼才として名を轟かせている井原西鶴がいる。大阪こそは西山宗因の弟子であり裕福な商家で談林派の旗手として知られる新進気鋭の井原西鶴の牙城であった。

 いまでこそ井原西鶴と言えば芭蕉と同じく俳句を詠んだ人で俳諧師だと思う人はいないかもしれない。しかし浮世草子の巨匠として知られる井原西鶴の作家としての出発は俳諧である。むしろその生涯の大半を俳諧師としておくっているのである。
 「好色一代男」とか「日本永代蔵」などの読み物が有名だが、それらは専門の俳句の余技、余興として筆を染めたものだ。それは言いすぎだが実際に井原西鶴は俳諧の合間に物語を書いていた。それでいながら浮世草子の名作を世に送り出し大ヒットを連発したというのだからまずは稀代の天才作家と言うしかない。
 西鶴が俳諧師として飯を食っていたのは約30年間である。その間に余技、いわば金稼ぎのアルバイトとして「好色一代男」などの読み物を書いた。それらは元禄時代の世相を活写し売れ行きが良かった。しかし井原西鶴が俳諧と並行して浮世草子を書いたのは通算で10年間であり、草子作家に専念したのはわずか6年間である。
 「好色一代男」のヒットを飛ばした二年後、1684年西鶴43歳の時に住吉社頭で一昼夜で2万3500句の俳句を独吟した。一人でそれだけの俳句を詠んだのである。これを矢数俳句といい自ら2万翁と自慢したという。24時間ぶっとおして一人で2万3500の俳句を詠んだというのだから、もはや人間業とは思えない。現代風に言えば、「神」である。
 「浮世草子作家はほんの俺のアルバイトでっせ。俺の本業はプロの俳諧師なんや、なんでそれを評価してくれんのや」
、と西鶴は草葉の陰でぼやいているのかもしれない。
 芭蕉の生涯を書くつもりがいきなり井原西鶴の話になって申し訳ないがついでにもう少し。
 西鶴は俳諧師の名を鶴永と称した。芭蕉より二年早く寛永19年(1642年)大阪に生まれ本名を平山藤五という裕福な町人であった。15、6歳ころから貞門俳諧を習いその後談林派に転向。21歳では俳諧では他の人の添削や評価をする俳諧宗匠(点者)の一人になっていた。西鶴は早熟の天才であった。
 芭蕉がまだ伊賀上野にいて藤堂新七郎家に奉公していた頃、井原西鶴は大阪で俳諧新旋風を巻き起こしていた西山宗因の談林俳諧の急先鋒として活躍する上方文壇の花形であった。
 西鶴にとって少し歳下の芭蕉はいわば遅れてきた田舎青年であった。
 西鶴が21歳でプロの俳諧師になったの対して芭蕉がそのポジションについたのは35歳である。同年代とはいえ、芭蕉から見れば西鶴は文壇のヒットメーカー、大作家であり続けた。
 しかも上方の西鶴と真っ向から勝負に挑むのではなく芭蕉の選んだのは江戸である。いわば文芸不毛の地である遠い江戸・武州に下った風変わりな文人と西鶴には見えていたのかもしれない。
 これは後の話になるのだが西鶴は「西鶴名残の友」と題する文人録の中に芭蕉の批評を書いている。
「又武州の桃青(注・芭蕉のこと)は我宿を出て諸国を執行、笠に「世にふるはさらに宗祇のやどりかな」と書付、何心なく見えける。これ又世の人の沙汰はかまふにもあらず、只俳諧に思ひ入て、心ざしふかし」
 俳諧の先輩としてまた文壇の第一人者としての余裕の貫禄を感じさせる芭蕉評ではある。「心ざしふかし」、などは褒め言葉に見えて芭蕉のどこを褒めているのかも判然としない。つまり、芭蕉の「風変わりさ」を褒めてはいるが、俳諧そのものは論評するにも値しないということとしか思えない。西鶴の目には芭蕉は、いわばその程度の存在感でしかなかったということだろう。
 さらに言えば「世の人の沙汰はかまふにもあらず」という評は意味深である。
世間の評判や人気を気にすることがない、と芭蕉を指して言っている。西鶴はまるで世捨て人、隠者のように芭蕉を見ている。これはまるで西鶴と正反対である。
 西鶴は俳諧におていても矢数俳句で人を集めたいわば俳句ライブを実演し1000句を超える俳句を連発して聴衆の度肝を抜いたりしている。そういう世評を背景にして俳諧師、宗匠としての実益を手に入れてきた。いわば俳諧は西鶴にとって飯の種、生活の手段、そのものであった。まさしくプロ作家なのである。
 その西鶴にとって、侘びさの寂びだのと俳句の境地を探究し世評にも世俗の栄誉栄達にも金銭欲にもめもくれず俳句放浪を続ける芭蕉の生き方はまことに対称的である。世俗人に徹していた西鶴にとって理解不能な変人としか思えなかったのかもしれない。
 この西鶴の目に移った芭蕉像は、俳句と旅を共にして生涯を漂泊の旅に暮らした風狂な「俳諧聖」としての芭蕉の真髄をよく言い当てている。
 西鶴は俳句の数は比類ないものを残している。
 だだ、西鶴の俳句を名句として論評する人はあまり見かけない。実際西鶴の俳句を読んでみても真似したくなるようなものではない。一言でいえば古典や教養を前提に詠んだ句も多く現代人には「難解」かつ「俗」にして「雑」である。
 ここに少し井原西鶴と芭蕉の名句と呼ばれるものをあげてみたい。
井原西鶴
「何と世に桜もさかず下戸ならば」
「あたご火のかはらけなげや伊丹坂」
「大晦日さだめなき世の定哉」
「長持に春かくれゆく衣がへ」
「鯛は花は見ぬ里もあり今日の月」
「大晦日定なき世の定かな」
「浮世の月見過しにけり末二年」
松尾芭蕉
「夏草や 兵どもが 夢の跡」
「旅に病んで 夢は枯野を かけ巡る」
「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」
「古池や 蛙飛び込む 水の音」
「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」
「山里は 万歳遅し 梅の花」
「山路きて 何やらゆかし すみれ草」
「草臥れて 宿借るころや 藤の花」
なんとなく芭蕉俳句のほうに馴染みを感じるだろう。おそらく日本の俳句が芭蕉の確立した俳句の風儀をもとに継承、発展して現代まで続いているという証左なのだろうと思う。現代人は和歌や歌学、古典などの教養や知識がない人でも誰でも平易な言葉で俳句が詠める。そういう俳句の原点となる俳句を創案し確立し普及してくれたのが芭蕉という人である。その意味で芭蕉はまことに有り難い「俳聖」だと言うことができる。

 芭蕉は井原西鶴とは反対に生涯に詠んだ俳句は多くはない。確認されているだけでも芭蕉が残した俳句の数は982句と言われる。井原西鶴が一日で詠んだ句の数よりも少ない。俳句の量の高さを積み上げ誰にも真似のできない金字塔を打ち立てたのが井原西鶴である。即興のライブ吟詠数で俳諧世界を圧倒した西鶴にくらべ、芭蕉は俳句の深さを生涯かけて追究した。この深さにおいて世人を圧倒したのが芭蕉である。まことに対象的な俳諧の奇才と天才であったと言えるのではなかろうか。

 さてこのように京都・大坂はすでに談林派西山宗因の一門で占められていた。そういう視点で日本を眺めると唯一談林派の俳諧宗匠のいなさそうな「空白域」が徳川幕府のお膝元、天下の江戸だったのである。  
 ともかく江戸へ出た芭蕉は日本橋本船町の名主・小沢太郎右衛門のもとに身を寄せた。この小沢は俳人であり俳号を得入といった。おそらく京都の北村季吟の弟子や知人が江戸の小沢太郎右衛門とつながりがあったものと思われる。その伝手で芭蕉は江戸に仕事の口を見つけたものだろう。このあたり、芸は身を助けるという諺もあるがその範疇の出来事であったろう。
人生において芸事や趣味、遊びなどは仕事の本筋とは無縁のように思われるが案外そうでもない。芭蕉がもし俳句を嗜んでいなければ季吟と知り合うこともなかった。まして江戸の名主の世話になることなぞありえなかった。人生どこでどうなるかわからないものである。

 芭蕉は小沢太郎左衛門のところで帳役という業務日記を書く仕事をした。文字の読み書きや計算などは伊賀での奉公時代に身に付けており芭蕉にとっては実務能力を活かせる得意とする仕事であった。
 現在の日本橋、室町一丁目にある三越本店の向かい側あたりが江戸地図で見る小田原町である。このあたりは当時は魚河岸と呼ばれていた。芭蕉は小田原町に家を構えた。そして伊賀上野から桃印を呼び寄せている。江戸に来て4年目の33歳のとき一旦郷里の伊賀上野へ戻った。これは藤堂藩に他郷へ出たものは4年目に帰郷せよという規則があったからである。他郷へ出かけたものが行方不明となり世間に迷惑をかけることを住民管理に厳格な藤堂藩は極力嫌っていた。芭蕉もそこで一旦は帰国しそのついでに甥の桃印を連れて江戸へ戻ったのである。  
 その翌年、伊賀上野から戻り二度目の江戸入をしたのが延宝5年である。芭蕉が34歳のとき小石川の水道工事に関わっている。
 この仕事は延宝5年から延宝8年まで三年間にわたって芭蕉が携わっている。読者のみなさんは呆れているかもしれない。俳聖・芭蕉の人生譚をお前は書いているのではないのか?そんな水道事業なんぞ俳人の芭蕉がやっていたなんぞ聞いたこともない。古池や・・・・というのが芭蕉の俳句であってお前は芭蕉を水道屋呼ばわりするのか、とお怒りかもしれない。だがこれは本当の話なのである。
 甥の桃印を連れて江戸へ戻った芭蕉はその翌年から神田上水の改修工事に関わり、浚渫作業を請け負うという人足稼業の請負を始めたのである。
 どういう経緯があったのか詳細は不明だ。
 だが芭蕉の郷里である伊賀上野の藤堂藩が幕府より神田上水の改修工事を命じられたことと関係があった。藤堂家は旧知の間柄であ李江戸で頑張っている同郷の芭蕉に対し神田上水の改修、整備工事を手伝うよう命じたものであろう。芭蕉にとっても多額の安定した現金収入の見込める藤堂藩の工事受注は願ったり叶ったりである。
 そこで芭蕉はこの3年間は現在の東京都文京区関口に作られた水番屋(神田川改修工事事務所兼宿舎)に住み込んで現場監督のような仕事に従事したのである。
 現在の新宿区山吹町にほど近い江戸川橋公園には芭蕉が住んでいたという旧跡があったのだがいまはどうなっているのだろう。
 
 江戸っ子の気概は水道で産湯を使い・・・・などと言われるが江戸は当時のロンドンを凌駕する世界一の水道都市だった。江戸の水道は上水と呼ばれ水道管は石や木で造られており石樋・木樋と呼ばれた。これによって江戸市中の上水井戸に導かれ、人々はこの上水井戸から水を汲みあげて飲料水や生活用水としていた。よく時代劇で長屋の女将さん連中が井戸端会議をしている光景がある。あれが上水井戸のイメージである。井戸に水道水が供給されていたのである。
 江戸における上水道の起源は、小石川上水である。
この井の頭の湧き水を水源とした上水道は天正18(1590)年、徳川家康の江戸入府時に開設された。これが後に神田上水へと発展した。だが急速に大都市に変貌した江戸は小石川上水だけでは到底飲料水が不足していた。
 当時の江戸は人口が増え続け、元禄のころには約70万人に達していた。
 その当時フランスのパリは53万人、英国のロンドンは55万人、オーストリアのウイーンは1,5万人であった。江戸は世界一の大都市であった。
 そこで幕府は、水量豊富な多摩川の水を江戸に引き入れることにした。
 この遠大な水道事業計画の総奉行には「老中松平伊豆守信綱」、水道奉行には「関東郡代伊奈半十郎忠治」が任命された。そして多摩川から取水する羽村の堰から江戸四谷までの水路掘削という大土木工事を担ったのが町人の玉川兄弟である。
 この多摩川からの取水水道は1653年に工事が始まり、わずか8か月に完工している。
 羽村取水口から四谷大木戸までの43キロメートルに達する素掘り水路の玉川上水が完成したのである。いまでも羽村の堰の取水口から玉川上水へは滔々と水が流れ込み、春には玉川上水の沿道は染井吉野の桜並木が満開となり武蔵野の花見の名所となっている。武蔵境あたりの光景はことに美しい。
 山林に自由存す、と詩に書いた国木田独歩の紀行文「武蔵野」には四季を問わず玉川上水を散策した光景が印象深く描写されている。

 話は横道に逸れたが、芭蕉が水道浚渫工事を請負ったのは新設された玉川上水ではなくもともとあった最初にできた小石川上水(神田上水)のほうである。
 神田上水は井の頭公園の湧き水を水源として水を引き小石川から水道管(樋)を地中に埋めて市中へ配水していた。その手前の目白下関口村(現在の文京区関口)にある分水のための大洗堰から地下へ潜る小石川の間が地上に露出した開渠となっていた。この部分を白堀と呼んでいた。白堀は水道とは言っても地上にある細い運河のようなものなので定期的に川底に溜まるゴミや泥などを浚渫する必要があった。最初は周辺の町民がこの人夫仕事をやっていた。これはけっこうな重労働だった。そこで白堀の浚渫作業を命じられた町では自分たちが働く代わりに相応の金を出して専門業者へ請負わせることにした。
 意外なことと言うべきだろう。その請負業者の初代が俳句三昧の日々を送っていた芭蕉だった。

 神田上水白堀の浚渫作業という言わばお上からの官業委託事業に関わるためにはそれなりの背景が必要になる。どこの馬の骨かわからない人物がそのような仕事に入り込むことはまず考えられない。まして芭蕉は江戸へ来て間もない上に生来人足稼業とは無縁の人間である。それが突然、人足調達の現場工事の請負業を始めたのである。そこには芭蕉出身地の伊賀藤堂藩の配慮があったと見るべきだ。
 先に述べたがこの神田川改修工事を担当したのが伊賀の藤堂藩江戸藩邸であった。もちろん、芭蕉とは同郷という強い人脈があった。そのことから芭蕉がこの事業に関わったものと思われる。工事の始まる前年の延宝4年に芭蕉は一度伊賀上野へ帰郷している。その折にかつて奉公した藤堂新七郎邸へ挨拶に上がったことは当然であろう。その際、藤堂藩江戸藩邸にいる江戸家老へ宛てて神田川改修工事でかつての奉公人だった芭蕉を引き立ててくれるようにという依頼状を書いてもらったとも想像できる。

 記録によると芭蕉は延宝5年から延宝8年まで4年間この請負業をやっている。芭蕉が集めた人足は何百人か何千人なのか不明だがこの白堀の浚渫作業請負事業はその後も継続されている。約100年ほど後の寛政年間には延べ3000人ほどが作業人夫として雇われている。そうすると芭蕉の時代でも少なくとも100人や200人は人足を集めたのではなかろうか。芭蕉の手掛けた請負事業の規模の大きさがわかろうというものである。こいいう現場を仕切る仕事の実務においても芭蕉の武家奉公の経験が存分に発揮されたのは言うまでもない。藤堂藩で鍛えられた芭蕉は他藩の下級武士に比しても決して遜色のない能吏であった。
 では芭蕉は江戸に出てから俳諧を忘れて実業家に変身したのか?
 
 わざわざ書くまでもない。そんなことはなかった。芭蕉は現場監督をこなしながらも俳句への情熱はいささかも衰えてはいなかった。
 白堀浚渫の請負を始めた翌年、芭蕉は俳諧師として名を江戸に轟かす快挙を達成している。それはなかなか普通ではできないことだが芭蕉は「万句興行」を挙行したのである。
 江戸へ出た芭蕉は俳諧を忘れてはいなかった。むしろ俳諧宗匠として名を上げることを目標に全力を投入していた。
 江戸には錚々たる俳諧師匠がいたのだが芭蕉は誰にも入門していない。独自に俳諧修行を重ねたもののようである。江戸で芭蕉はそれまでの伊賀上野時代から使っていた宗房という俳号を改め「桃青」と名乗った。

 そのころの俳諧は談林俳諧が一世を風靡していた。
 それまで俳諧の本流として俳諧界を担っていたのは貞門派であった。俳諧の貞門派は、江戸時代前期の歌人・俳人で連歌師でもあった松永貞徳(1571年-1654年)によって提唱された流派である。貞門派は古典の素養を重んじ、多くの貞門派の俳人は古典注釈書を著すなど深い教養を持っていた。その古典研究から生まれた俳諧は和歌や連歌の美を前提として知識偏重や言語遊戯をに偏る傾向の強い作風が特徴だった。

 主流派があれば必ず異端や新派が生まれるものである。 
 大阪天満宮の連歌宗宗匠の西山宗印が俳諧に転向したのをきっかけに滑稽、軽口、洒脱と自由奔放な流儀であり、さらには奇妙奇天烈な俳諧も新味と称して容認した。それまでの貞門派の古風な俳諧に飽き足らなかった俳壇の人々に西山宗因の発信した斬新な俳諧の作風が持て囃された。
 俳諧に新風を吹き込む談林俳諧を創出したのが連歌師の西山宗因であった。西山宗因は大坂天満宮の連歌所の宗匠であり門人には俳諧修行をしていた鶴永という俳号を持つ若い頃の井原西鶴もいた。
 芭蕉は俳諧の流行に敏感に反応した。芭蕉は江戸にいる西山宗因の門人である幽山、似春たちと交流し互いに俳諧を研鑽した。芭蕉は談林俳諧という新しい俳諧の奔流に乗ったのである。
 西山宗因は大阪にいたのだが延宝三年(1675年)に江戸へ下った。この年の5月に本所深川の大徳院で西山宗因歓迎の「俳諧百韻」という連句の会が行われた。この句会を契機として江戸にも談林派の新風が本格的に吹き始める。
 その発端となった句会のメンバーはわずかに10人でいずれも錚々たる俳諧師である。その中に俳号を宗房から「桃青」と名を改めた芭蕉の名が入っている。
 この百韻に参加した連衆は、宗因・磁画・幽山・桃青・信章(素堂)・木也・吟市・少才・似春・又吟である。
 このときの参加者の中で特筆すべきは山口信章である。
 この人物は現在の山梨県、甲斐国の出で延宝2年(1674年)、京都で北村季吟と会吟し和歌や茶道、書道、能楽なども修めた教養深い才人であった。しかも初対面とはいえ芭蕉にとっては同じ京都の俳諧師匠・北村季吟に教えを乞うた門人仲間である。
 延宝3年(1675年)、江戸で宗因歓迎の百韻の席において初めて顔を合わせたのだが芭蕉と山口素堂はお互いに旧知の間柄のように意気投合した。
 その後山口素堂は住所を深川の芭蕉庵に近い上野不忍池や葛飾安宅に移して芭蕉とは終生を友人として親しく交流した。
 山口素堂の代表句には「目には青葉山ほととぎす初鰹はつがつお」がある。
 江戸談林派の双璧として芭蕉と山口素堂は活躍しはじめたのである。談林派の空白域であった江戸へと芭蕉は出たのである。その後から上方で談林旋風を巻き起こした本家本元の西山宗因が新天地の江戸へと乗り込んできた。その中心に桃青と俳号を改名した芭蕉がいたのである。
 芭蕉は談林派の俳諧を普及する旗手となった。
 談林俳諧の俳風を担う新鋭の俳人として芭蕉の名は日増しに高まっていった。あくまで師匠を持たない一匹狼であったが逆に芭蕉を師と仰ぐ俳人が集まってきた。芭蕉最古参の弟子である其角、嵐雪、杉風は延宝三年(1675年)に芭蕉の門人になっている。
 
 先に芭蕉が「万句興行」をやったと書いた。
 「万句興行」とは何か?これは一種の俳句イベントで1万句の俳句を公開で作るという見世物の興行である。
 寛文十三年(1673)芭蕉より早く「万句興行」を打ったのは当時は井原鶴永と名乗っていた32歳の井原西鶴である。大阪の生玉神社南坊で行った井原西鶴の「万句興行」は参加した俳人は150人、12日間かって「百韻百巻」(1万句)を達成した。後に作家となる井原西鶴の文芸の最初は俳句であり、「生玉万句」の興行を打ったことで無名の俳人だった井原西鶴が世間に知られるきっかけとなった。だいたい挙行に大金もかかる万句興行を何のために行うのか?おそらく知名度の低い俳人が世間の注目を集めることで俳句宗匠の地位を世間にアピールすることを目的に行われていたものだろうと言われている。宗匠になった俳人がお披露目として万句興行を行ったという見方もある。だが同じ俳人が二度も万句興行をした例もあることから宗匠のお披露目説は根拠が薄いと思われる。また俳句宗匠になるには万句興行をしないと宗匠になれないというものでもない。ただ万句興行をやったというインパクトは大きなものがある。宗匠として弟子を集める上でも効果があったものであろう。芭蕉が江戸へ出た目的は俳句で身を立てるという大きな夢の実現のためである。
 白堀の浚渫請負事業という畑違いの仕事をしたのも万句興行に必要な資金を貯めるためだったと考えれば納得ができるというものである。そう考えていけば芭蕉にとっていかなる困難があろうとも「万句興行」をやらないという選択肢はほぼなかったと言えるだろう。  
 「西鶴め、やりおったな」と芭蕉が歯ぎしりしたかどうか知らないが、芭蕉が西鶴の生玉万句興行に刺激を受けたことは間違いない。同時に無名だった西鶴が世間の注目と関心を一手に集めているという上方から聞こえてくる噂に無関心ではいられなかったことであろう。
 芭蕉も万句興行を実行した。
 だが芭蕉がいつ万句興行を行ったかという正確な年月はわかっていない。
 様々な資料から現在では延宝6年(1678年)だろうと推測されている。井原西鶴が大阪生玉神社で万句興行を打ってから5年後のことである。
 なおこのときはまだ芭蕉とは名乗っていない。したがって資料には「桃青万句」としるされている。 
 ここから芭蕉の女性関係について書くことにしよう。
 妾という言葉は現代ではやや死語となりつつあるのかもしれない。
 一瞬、妾には「めかけ」とルビをふらないと読めない人もいるかもしれぬと心配したほどである。それはそれとして芭蕉には妾がいた。芭蕉は結婚していない。妻はいなかった。終生独り身ではあったのだが妾がいて家では妾と暮らしていたのである。妾もいたしその連れ子である子供もいたのである。
 妾というといわゆる二号さんであり本妻のほかに囲っている女性を妾という。これが普通のケースだろうがそうとばかりは言えない。江戸時代には独身であっても妾と暮らす男も格別珍しいことではなかった。
 世帯を持ち結婚して籍を入れて妻とする。それでもいいが正式に結婚すれば妻の実家との付き合いをせねばならず何かと煩わしい。それよりも身の回りの用を足してくれる常駐する家政婦のような妾と暮らしたほうが気が楽だ。そんな男もいたのである。芭蕉もおそらくそういう男の一人であったようだ。
 妾には一ヶ月単位の短期契約から一年契約の場合もあれば5年、6年という複数年契約、あるいはとくに期限を定めないという場合もあったようだ。
 妾は一種の年季奉公であった。
 中には年季奉公の年季が開ければ誰かの嫁に世話をしてやるという場合もあり、そのまま妾から正妻へという場合もあった。人によっては相当裕福な資産家の男の場合は、正妻のほかに何人もの妾を置いてそれぞれに子供もいてというような例もある。
 妾について「芭蕉二つの顔」にはこんな江戸時代の逸話が紹介されている。
 これは「鸚鵡籠中記」に出ている話だ。「鸚鵡籠中記」とは元禄時代の頃、尾張藩の尾張徳川家の家臣であった中級クラスの武士、朝日文左衛門重章が日常見聞きした事柄を書き綴った日記である。
 村尾伝右衛門という男がいた。村尾は津田新十郎家へ婿入りすることが決まった。そこで妾に暇を出した。独身の伝右衛門に妾がいたのである。これはさほど珍しい習慣ではない。すでにそのことは紹介した。だが婿入りするからと暇を出された妾がそれを承知しなかったのである。妾は主人の伝右衛門に未練があった。ゆくゆくは正妻になどと思い込んでいたのであろうか。いくら話をしても首を縦に振らない妾に伝右衛門が弱り果てたのであろう。伝右衛門は説得に応じない妾をなんとしても諦めさせようと一計を案じたのである。それが首吊りである。もちろん偽装である。
 「お前が承知してくれねば婿入りもできぬ。しからば、もはやこうするしかあるまい」
  と言ったかどうか実際のセリフはわからないが妾を呼んで「そこに居て良く見ろ」と一言。板の間に積まれた米俵の上に飛び乗った。そのまま紐を鴨居に架け渡すとぐいっと紐を引いて強さを確かめ、さらに自分の首に紐を巻いて首を吊る真似をした。ところがその途端、俵が転がって両足を忠に浮かせた伝右衛門はそのまま絶命した。という話を耳にしたと朝日文左衛門重章が日記に書いている。話はそれだけである。
 妾の目の前で伝右衛門は首縊りの真似をしたのは間違いない。その場にいたのは伝右衛門と妾の二人である。首吊りを始めた姿を見てびっくりした妾が「旦那様、おやめください!」と止めようとして伝右衛門の脚に抱きついた。そのはずみで米俵がころがり脚に縋り付いた妾が伝右衛門の体もろとも下から引っ張ることになり紐に首を巻き付けた伝右衛門が縊死してしまった。そんな情景だったのか。
 それとも乗り慣れない?俵に乗った伝右衛門が上を見て太い梁に紐を通したり首に括ったりしてしているうちに足元がふらついてバランスを崩し米俵を転がしてしまった、と見るべきか。それとも伝右衛門への未練がどうしても断ち切れない妾が心中を覚悟して首吊りを止めるふりをして伝右衛門に抱きつき体重をかけつつ米俵を蹴って滑ったのか。
 真相は藪の中である。
 その後妾がどうなったのか、はこの話の続きとして何も書かれてはいない。
 と、ここで連想されるのが太宰治の情死事件である。
 太宰治は昭和二十三年六月十三日、三十八歳の若さで愛人の山崎富栄と入水自殺している。
 腰をヒモで結びあい、相手の山崎富栄の手が太宰のクビに死後もかたく巻きついていたという。
 太宰は生前から「死ぬ」が口癖の情死マニア。太宰は5回以上の自殺企図を繰り返している。そのなかには偽装心中、狂言自殺、他殺説などもある。だからこのときも本気で死ぬつもりはなかったのだろうという太宰にとっては情死未遂失敗説もあり、山崎富栄側の太宰を抱き込んだ無理心中説すらある。
 伝右衛門と妾と偽装首吊り絶命は結局、物言わぬ。転がった米俵しか真相を知らないのかもしれない。太宰の心中死も真相は謎のままである。 
 話を江戸時代の妾話に戻そう。
 芭蕉が妾と暮らしていたということについて妾は格段に特異なことではないということを説明してきた。稀には正妻と妾と同居するといったことすらあった。
 現代は一夫一婦制となり江戸時代のような妾の姿はない。
 そのかわりというのはおかしいかもしれないが現代では戸籍とか結婚、婚姻制度を否定し非婚生活をする奇妙な風潮があるようだ。男女が結婚しないで同棲するのだがお互いを夫や妻と呼ばないでパートナーと呼ぶらしい。その上で同一の姓を拒否して旧姓のままで暮らすのだが子供ができたら子供の姓はどうするのだろうか?
 こういう法律婚でない事実婚をする男女が少なからずいる。この場合、男女というのもジェンダーフリーだとかなんとかで批判対象になるらしく男男とか女女というカップルもありとする一部の人々はとかく男女の括りを嫌悪している。ここから男女嫌悪病ともいうべき流行り病のLGBTQIAPK+へと話を広げていけば際限なく横道にそれてしまう。そのあたりの話題はここらで思考停止とする。 
 ともかく現代の非婚夫婦というのは江戸時代の人から見ればどう見ても「主人と妾」の関係である。妻になりたくない、妾がいい、とする現代的風潮が本当にあるのなら江戸時代の女性に到底理解不能というものだろう。
 何を勘違いしているのか知らないが婚姻制度に縛られない生き方がカッコイとか抜かしているが要は正妻よりも妾のほうが良いとアホらしいことを主張しているのと同じである。
 実はこれは日本では新しい風潮でもなんでもない。
 江戸時代から日本ではこういう非婚男女の同棲を一般には主人と妾と呼んだ。妾はまた正妻と比較して内縁の妻とか日陰者とか囲い者とか呼び習わしていたのである。今どき古臭い妾制度が世界の男女同権の風潮だといい日本でも持て囃されることになろうとは呆れたものである。
 
 本題に戻ろう。
 芭蕉の妾は名を「寿貞」という。寿貞というのは尼となって出家した法名なので本名はわかっていない。「寿貞」は「すて」と読む。想像だがこの女の本名は「すて」と言うのではなかろうか。それを芭蕉が漢字で佳字を選んで「寿貞」と書いてやったのかもしれない。
 寿貞は夫に死別し幼い男児一人を抱えて暮らしに困っていた。その寿貞を江戸へ出て日本橋で暮らしていた芭蕉が妾として面倒を見るようになった。子連れ妾というわけにはいかないので寿貞は実子を親元かどこかへ預けていたのであろう。この寿貞を妾にした時期ははっきりしない。
 芭蕉は延宝4年に郷里の伊賀上野から甥の桃印を連れて江戸へ戻ってきた。この年、芭蕉は33歳であり桃印は16歳であった。
 そして日本橋小田原町の芭蕉宅において芭蕉と妾の寿貞、桃印の三人が暮らすことになった。
 その後の芭蕉の簡単な出来事を年次を追って書くとこのようになる。
延宝5年(1677年) 芭蕉34歳 この年を最初に神田上水の浚渫工事を受注し実施する。桃印も芭蕉の片腕となって働いたものだろう。
延宝6年(1678年) 芭蕉35歳 「万句興行」を実施。芭蕉の俳諧師としての名声が高まる。 
延宝7年(1679年) 芭蕉36歳  俳諧宗匠として多くの俳句を俳句誌へ投句発表する。
延宝8年(1680年) 芭蕉37歳  10月21日芭蕉の暮らす日本橋小田原町の近隣から出火し十余町が類焼する。この歳の冬、芭蕉は住み慣れた日本橋を離れ深川へ転居する。

 この間の芭蕉は「万句興行」を打ち花のお江戸で俳諧宗匠として華々しくデビューを飾った。さらに神田川の水道浚渫請負事業も軌道に乗り経済的にも安定してきた。家庭的には寿貞が食事や家事一切を担ってくれ仕事の片腕として若い桃印が頼もしく育っている。
 このような順風満帆な芭蕉の日々が想像できる。
 だが事実はそのようなものではなかった。
 そう書くのは「芭蕉 二つの顔」の著者で芭蕉研究家の田中善信氏である。此の本には緻密な情報の検証や実証が積み重ねられているのだがそれらは割愛する。大まかにいかなることが芭蕉の身辺に起きていたかを述べることにする。
 よりにもよって芭蕉が何くれとなく面倒を見て親代わりになって世話をしてきたのが甥の桃印である。だがこの男が出奔つまり失踪してしまったのである。しかも単独ではなかった。芭蕉の妾の寿貞も同時に行方をくらました。有り体に言えば桃印と寿貞は不義密通の上、芭蕉のもとから失踪したのである。
 そこに何があったのか詮索しても虚しい。
 ともかくありえへん事態が起きたのである。
 これはとんでもない一大事であった。
 江戸時代において不義密通は正妻であれ妾であれ死罪である。とくに妾は主人の使用人であり密通は問答無用の死罪である。さらに桃印は叔父である芭蕉の妾と不義密通して駆け落ちするなどもってのほかである。恩義ある芭蕉に後ろ足で砂をかける背徳の徒輩と言わねばならない。
 さらに桃印の場合はもう一つやっかいなことがあった。伊賀上野の住人は出国して5年目には帰国し役所へ出頭しないとならない。さもなくば藩の掟を破った犯罪者として仕置は必定である。厳しい藤堂藩の藩法に従わなくてはならない桃印が行方をくらましたのである。そうなると桃印の叔父であり身元引受人の立場になる芭蕉も監督不行き届きとして連帯責任による処罰もくだされる可能性が高い。延宝8年が桃印の帰国と役所へ出頭すべき年であった。だが桃印も寿貞も広い江戸市中のどこに逼塞して暮らしているのか行方が皆目わからない。

 ようやく俳諧師として江戸で名前の売れ始めた芭蕉。弟子も増えてこれからという時に桃印と寿貞の密通駆け落ち事件が発生した。これが芭蕉を窮地に追い詰める。
 もし二人の駆け落ちが世間に知れたら芭蕉自身の身が危うくなりかねない。
 面倒を見たつもりの二人から逆に背中を押されて崖から突き落とされた。そんな気分だったのかもしれない。
 もはや俳諧どころの騒ぎではなかった。
 延宝8年の芭蕉は必死で二人の行方を追っていたはずである。なんとか二人を説得して密通の死罪からも藤堂藩の掟破りの仕置からも救済してやりたい。それが芭蕉にとっても致命的なスキャンダルに巻き込まれないで俳諧師としての地位を保つ唯一の方法であった。
 だが二人の行方はわからず木枯らしが吹き始める季節になった。
 そんな10月21日日本橋に突然の大火が起きた。
 芭蕉の家も近所も無事であったがけっこうな類焼があった。
 騒然とする火事騒ぎの現場で夜空を焦がす火の粉を見ながら芭蕉はある決断をした。
 江戸の日本橋はいわば江戸の中心地である。
 俳諧宗匠として一家を構えるのは江戸の中心を置いてほかにはない。だが桃印と寿貞という時限爆弾を抱えたまま日本橋にいるのはあまりにも危険すぎる。二人の失踪が世間の噂になるのは時間の問題だった。その前に江戸を離れることで世間の目を欺くしか策はなかった。
 それ以外に二人の密通と駆け落ちを世間から封印、隠蔽する名案は思い浮かばなかった。
 おそらく芭蕉はこのとき俳諧宗匠としての自分の未来を見限った、いや涙を飲んで葬ったのだろう。
 そして直接の被災はなかったももの日本橋大火を利用して深川へ転居を決めた。
 もはや世間のスポットライトの当たる江戸日本橋という一等地にいれば輝かしい俳諧新時代のリーダーといての人生は約束されていたであろう。それも可能だった。
 悪いのは芭蕉ではない。芭蕉を裏切った桃印と寿貞の二人である。俺には罪はない。そう割り切れば日本橋に居直り続けることもできなくはなかった。だが芭蕉はスキャンダルを避ける穏便な道を選択したと言えるだろう。
 そのために芭蕉の失ったものは大きかった。芭蕉は俳諧宗匠というまさに自分の手で掴めるはずの未来を掴むことを放棄したのである。
 俳諧は捨てるつもりはなかった。
 不義密通という罪を背負った二人は世間を欺いて息を潜めて暮らしているに違いない。それを不憫に思う心はあっても咎めるつもりは芭蕉にはなかったと想像する。二人を憎んでも憎みきれない。
 芭蕉には自分もまた同じ弱い人間の一人だという自覚があったのかもしれない。そのあたりに人間芭蕉の人としての誠実さのようなものが滲み出ている。
 もう一つ解決しないといけない難問があった。
 このままでは郷里の伊賀上野の藤堂藩から脱藩者として桃印はお咎めの身となる。そうなると江戸にいる親代わりの芭蕉にとっても犯罪の加担や共謀を疑われかねない事態となる。
 おそらくこういう決断を芭蕉はしたのではないだろうか。
 延宝8年10月21日の日本橋新小田原町の大火。それを見て芭蕉は心を決めた。これしか状況を打開する道はない。もちろん危険もある。虎穴にいらずんば虎子を得ず。
 芭蕉はルビコンを渡ったである。
 ひとつは自分自身が深川へ転居して隠棲する。同居していて姿を消した寿貞や桃印の記憶や形跡を世間の目から消すためである。
 もう一つは郷里の藤堂藩へは桃印が日本橋の大火で死亡したこととして届け出る。これにより藤堂藩では5年目に出頭する義務がなくなる。江戸で死人となった桃印はもはや帰郷することはかなわない。実際の故郷でのそうした工作は芭蕉の指示によって実兄に頼むしかない。窮余の一策だがほかに方法はない。桃印の所在が仮に見つかったとしても事の次第を言い含めれば否も応もないはずだ。
 桃印には死んでもらう。
 そう決断した芭蕉の動きは敏速だった。
 伊賀上野の実兄にもとへ芭蕉は早飛脚を送ったと想像される。
 日本橋で大火のあった火のあった延宝8年10月に伊賀上野の芭蕉の実兄が松尾家の菩提寺である愛染院に甥が死亡したと届け出ている。
 あわせて藤堂藩の役所へも甥が日本橋新小田原町での大火において死亡したと届け出ている。実兄は江戸の芭蕉が書き送った甥が日本橋大火にあって死亡したという「偽手紙」を持参して一世一代の芝居を打ったものと想像される。そう考えれば、芭蕉は実兄に事情を明かす手紙を一通、菩提寺や役所へ見せるための桃印死亡を伝える偽手紙一通、合計二通の手紙を送ったに違いない。

 芭蕉の言う通りに実兄は動くしかなかった。桃印が帰郷しないとなれば松尾家へ役所からきついお咎めが来るのは必至である。それを回避するには芭蕉の言うように桃印死亡を届けるしか方法はなかったのである。
 実兄にとっての甥は芭蕉にとっても甥である。
 松尾家の菩提寺の愛染院はいわば寺請制度による人別帖という戸籍台帳を保管している。ここに甥が死亡と届けられた。この甥は江戸へ出た後に大火で死んだ。この甥が実は行方をくらましている桃印だったのである。
 そうすれば全ては辻褄が合う。逆にそうでないと辻褄が合わない。
 「芭蕉二つの顔」の著者の田中氏は大胆にそう類推している。
 こうしてみると芭蕉が完璧を期して知恵を絞り桃印と寿貞の密通失踪事件の隠蔽工作に奔走したであろうことが伺える。しかも、それは偶然に起きた日本橋大火によって思いついたのである。
 そのうえで芭蕉にとって世間を欺くためには自分自身が絶対に世間の脚光を浴びないことが必要であった。
 深川への隠棲はそのために選ばれた芭蕉自身の逃避行であった。
 芭蕉は江戸を離れて草深い鄙びた深川へと身を潜めることにした。俳諧の世界でこれ以上の脚光を浴びないために深川で隠者となり隠遁暮らしをすることを芭蕉は選んだ。
 
 新進気鋭の人気俳諧宗匠という地位。勝負をかけていっときは確かに掴んだその栄光を芭蕉は自ら捨てたのである。いや捨てざるをえなかった。その悔しさ、不条理、懊悩は察して余りある。
 延宝8年の冬、関東のからっ風が吹きすさぶころ芭蕉は弟子達に荷車を引かせ隅田川を越え深川へと引っ越しをした。日本橋から隅田川対岸の深川へは永代橋を渡るのが一番近道である。だが此の年にはまだ永代橋も新大橋もできていない。このとき、隅田川にかかっている橋は両国橋ただ一つだけである。芭蕉は遠回りして両国橋を渡ったかあるいは近場を渡し船で渡ったか定かではない。
 渡し船をもし使ったとしたら江戸市中しか知らなかった芭蕉にしてみれば島流しで遠島される罪人の気分だったと言えば言い過ぎであろうか。決して心浮き立つ気分でなかったのは確かだろう。
 ここで江戸の俳諧世界から自分が忘れられ物見高い世間の目を欺き通すしか芭蕉の生きる道はなかった。
 そのことが結果として芭蕉が没するまでのその後の約14年間の旅から旅へさすらう漂白の詩人へと芭蕉を変貌させるスターとなった。
 弟子達は芭蕉が急に深川へ引っ越すと聞いて驚いたに違いない。何を好き好んであんな江戸から遠く離れた寒村へ行くのかと不審に思われたに違いない。せめて一冬越して季節の良い来年の春にでもすればいいのでは、などと引き留める弟子も多かったろう。だが芭蕉の決意は固かった。急なことで弟子達にも餞別を届けるにもお別れを惜しむにも余裕のない慌ただしさだった。
 芭蕉は逃げるように身の回りの物だけをまとめて日本橋を去った。
 深川の仮住まい。家とも呼べない簡単な草庵である。
 日本橋の住まいと違って畑や荒れ地しかないど田舎の深川は都落ちを実感させた。
 隙間風の吹き込む寒夜。冷え切った体を丸め手を火鉢の炭火で温めながら芭蕉は何を思っていたのであろうか。
 「もう終わったか」
 そんな気分だったのかもしれない。
 37歳とは言え当時、江戸時代の平均寿命は32~44歳くらいである。感覚としてはもはや老境であり老残の心境と言ってもおかしくはない。
 人生の盛りはとうに超えていた。
 しかも弟子の一人もいない荒涼とした深川での落魄の日々。人には絶対に明かせない訳ありの事情を背負っている。その上で世を憚っての隠遁生活に入ったのである。
 世捨て人となった芭蕉にとって人生の落日が間近に迫っていた。
 
 深川へ引っ越した翌年の天和元年の春に門人の李下が草庵の庭に芭蕉の一株を植えてくれた。これが立派に育った。芭蕉には李下の気持ちが嬉しかった。そこで芭蕉はそれまでの桃青(とうせい)という俳号のほかに「芭蕉」という新たな俳号を名乗ることにした。
 芭蕉は、この翌年天和2年3月『武蔵曲』に「芭蕉」を名乗っている。
 
 芭蕉が俳号として「芭蕉」を使った由来には諸説ある。
 芭蕉というのはもともとは俳号ではなく芭蕉が江戸深川に構えた庵の号であった。深川の家は当初は誰からとなく単に「草庵」と呼ばれていた。だが、李下が庭に植えた芭蕉の木が立派に生長して葉を茂らせ近所の名物となった。そこから、弟子たちがこの草庵を「芭蕉庵」と呼ぶようになったという。そこから「芭蕉庵桃青」と号を書いたということもあったらしい。
 当時、芭蕉の俳号は「桃青」であったことは既に述べた。
 この「桃青」という俳号のほかに芭蕉は趣によって「芭蕉」(はせを)という戯れの俳号を使う気分になったものらしい。
 天和2年(1682年)に「芭蕉」と号した俳句が初見される。最初は桃青のかたわらの戯れ、趣による別号であった「芭蕉」がいつしか人口に膾炙するようになったのだからわからないものである。
 ちなみに、芭蕉は唐の詩人の「李白」に憧れていたという。
 李白という名前は分解すれば「梨と白」になる。李白には遠く及ばないという意味を込めて「桃と青」で「桃青」と号したという説もあるようだ。
  
 もし李下が芭蕉を深川の草庵の庭に植えなかったら芭蕉という俳号は生まれなかった。その結果「桃青」という俳人のままだったかもしれない。なぜ李下がわざわざ芭蕉を持ってきて植えたのか?そのいきさつはなんだったのだろう。
 もしかして何かの折に芭蕉が李下の家を訪れ、庭の芭蕉を見て「芭蕉は青々として葉も茂って清々しい、なんともいいものだねえ」と呟いたことがあった。それを李下が覚えていて深川の殺風景な草庵に移った師匠の少しでも気慰めにでもなればと自宅の庭の芭蕉を一株掘り起こして深川へと担いできた。
 これはまったくの想像であり何の根拠もない作り話だがさもありなんと自分では思わないでもない。
 もし芭蕉が芭蕉が嫌いであったらわざわざ芭蕉を庭に植えるために持参するわけがない。おそらく李下は芭蕉が師匠の好みだということを知っていたに違いないと私は思っている。
 妄想をたくましくすれば若き日に芭蕉は伊賀上野で藤堂藩の名門、新七郎家に奉公していた。もちろん庭の掃除も手入れもしていただろう。もしかしてその庭の片隅にでも芭蕉があったのかもしれない。
 芭蕉に関する資料の精査ができる立場にはないが李下が深川の草庵に芭蕉を植えたことが俳号としての芭蕉誕生の発端になっているのは間違いないだろう。しかし、それ以前から芭蕉の心の中に芭蕉がなんらかの意味を持っていたのではないのだろうか。そう思えてならない。
 
  ともかく李下は俳聖「芭蕉」の「芭蕉」号を生んだ影の功労者であるのは間違いない。  
  「餅つきや内にもおらず酒くらひ 」(『あら野』) 
  「井の水のあたゝかになる寒哉 」 (『續猿蓑』) 
  李下の詠んだ代表句である。
  李下は芭蕉の門人だったが、その妻もまた門人だった。その李下の妻が元禄元年の秋に死去した。それを悼んで芭蕉は挽歌を送っている。  
  被(かずき)き伏す蒲団や寒き夜やすごき 
またこのとき門人の去来は李下に対して芭蕉の追悼句を踏まえて
 「寝られずやかたへ冷えゆく北おろし」(曠野)と詠んでいる。
  これらの句をみれば芭蕉一門の細やかなこころの通った付き合いが感じられてならない。
 深川の芭蕉庵は江戸の外れではあったが弟子達は遠路を問わず師匠である芭蕉を慕ってしばしば足を運んでくれた。
 深川の芭蕉庵は移って丸2年たった天和2年(1683年)12月江戸駒込の大円寺から出火したいわゆる振袖火事によって類焼した。それを翌年に弟子達が再建してくれた。これが
第二次芭蕉庵である。それから3年めの貞享3年(1686年)3月、再建された第二次芭蕉庵において蛙を織り込んで俳句をつくるという句会が弟子達を集めて開かれた。そこで43歳になった芭蕉が詠み弟子達の選考で第一席に押された句が次の句である。

古池や 蛙飛び込む 水の音

 この句は芭蕉の代表作とされ有名である。
 芭蕉庵には池もあって川魚の生け簀かわりに使っわれていた。そこには蛙もいて野趣あふれる様子であった。
ここで話が前後するが芭蕉が深川へ転居した際の裏話を書いておかねばならない。すでに書いておくべきところを失念して申し訳ない。
芭蕉庵の側には池があり云々というのはむしろ反対であって池の傍らに芭蕉庵があったというほうが正しい。
 芭蕉が深川に移ったのは芭蕉十哲の一人で最古参格の弟子である杉山(鯉屋)杉風(さんぷう 1647~17321)の世話によるものである。杉風は俗称を鯉屋藤左衛門とい言った。杉風は鯉屋という屋号の通りに祖父の代から鯉など川魚を扱う魚問屋であった。そのため深川に商品の鯉や川魚を飼う生け簀の池を持っていた。
 杉風は芭蕉の弟子としてまた師匠の後援者でもあった。
 杉山杉風は江戸日本橋小田原町の魚問屋・杉山賢永の長男として正保4年(1647年)に生まれた。芭蕉よりも3歳年下であった。杉風の祖父は摂津国今津の人であり父の杉山賢永の時に江戸へ出て鯉商いで成功を収めていた。杉風の父の賢永もまた仙風という俳号をもち俳諧を嗜んでいた。
 芭蕉は江戸へ出た最初にこの杉山杉風の家に旅装を解き世話になったとも言われている。
 杉風父子は、江戸へ出てきたばかりの芭蕉という新進気鋭の俳諧師と出会ってひと目で気に入った。それからは杉風親子は一家をあげて芭蕉の生活を助けるための経済的援助を惜しまなかったとようだ。
 深川の芭蕉庵は杉山家の稼業として深川六間堀にあった鯉を飼う生け簀池の番小屋を修繕して芭蕉の住まいに提供したものだったのである。
 
 鯉の生け簀池には蛙や水辺の生き物もいた。
 芭蕉はそうした池と蛙の情景を踏まえ俳句を詠んだものと思われる。
 だが蛙はなぜ池に飛び込んだのか。
 蛙の勝手でしょ、と言われればそれまでだが、そこには何らかの蛙の事情があったと思うのが普通だろう。
 何を好き好んで蛙は静まりかえっている古池に飛び込まなければならなかったのか。しかも大きな音まで立てて飛び込んでいる。これは何かに追い立てられ逃げ場を失った蛙が切羽詰まってあわてて飛び込んだと思うしかない。
 また古池とは死を思わせる沈黙枯淡の世界であるのに対して宙高く跳躍して水面へ頭から飛び込む蛙は生き生きした生命力の象徴である。
 死の世界に命の塊が飛び込んで飛沫を上げて水音を立てる。
 なんでもない光景を詠みながらこの生死のせめぎあう一瞬を活写した対象の妙により俳句に哲学的な思索の余韻と深みすら付加している。
 そこでこれはこじつけだと言われればあえてその科を受けようと思うのだがこんな解釈は成り立たないだろうか。
 当時の芭蕉は甥と妾という二人の咎人を極秘裏に隠匿するという後ろめたさを負い目に感じて生きていた。その罪悪感に苛まれながらも他方では生きていくために多くの弟子を抱える俳諧師匠という表の立場も維持していかねばならなかった。
 そういう苦しい心境を思えば、この俳句は追われて死にものぐるいになり「死中に活を求める」自分自身のことを諧謔味と開き直りも込めて詠んだと言えるかもしれない。古池に飛び込んだ追われた蛙。それは芭蕉自身の姿だったのかもしれない。

  37歳で深川へ転居したのち芭蕉は俳句行脚の放浪の旅を始める。
  そして元禄7年(1694年)51歳のとき旅先の大阪で客死する。
  その間14年である。芭蕉が生涯に詠んだ句は約900句と言われる。また紀行文はすべて死後に刊行された。ちなみに有名な「奥の細道」は芭蕉死後元禄15年(1702年)に刊行された。日本の古典における紀行文学の代表的存在である。
  このタイトルの「奥の細道」というのはそのまま奥州への旅という意味といわれている。もう一つ芭蕉の俳句は「細み」を大事にする俳風だと言う。それがこのタイトルにも象徴されている。
  芭蕉の考える俳句とはどういうものなのか。
  俳句において作者の心が対象に深く入り込みそれを繊細に表現する。それには、寂 (さび) 、 撓 (しおり) 、細み、 軽み、が大事だというのがいわゆる蕉風の俳句である。
 ●寂 (さび)   古びて趣のある美しさ。閑寂・枯淡な境地。
 ●撓(しおり) 細やかな感情が余情となり句く滲みでること。
 ●細み     句が幽玄で微妙な境地。
 ●軽み     身近な題材を美を見いだし平淡簡明な表現。
  まとめていえば、静寂の中の自然の美や人生観を詠みこんだ俳句、ということらしい。
  この芭蕉俳諧の奥義は正直なところ難しくてわかりません(笑)
  ただ「細み」というのは聞き慣れない言葉でインパクトがある。有名な「奥の細道」にも「細」という字がわざわざ使われている。
 芭蕉俳句を読み解くためには、この「細み」の世界がわからないと無理だとうことだけはわかる。繊細の細、細部の細・・・・太いではない、細い世界を芭蕉はどう考えていたのだろう。
 また「軽み」というのもいい言葉だ。あまり重苦しいのはよくない。これはあらゆることに通じるだろう。
  
  芭蕉俳句の世界はさておいて本稿の主題である芭蕉の実人生がどのような終末を迎えていったのか。
  芭蕉が亡くなる前年の元禄6年そしていよいよ芭蕉の寿命の尽きる元禄7年のことである。
  あの二人が再び芭蕉の前に姿を現すのである。
  いつのころから二人は芭蕉に消息を伝えていたのか。詳しいことはわからないが芭蕉と桃印、寿貞は再会したものと思われる。二人の間にはまさ、おふうという娘が生まれていた。寿貞の連れ子と言われる次郎兵衛なる男の子を含めて三人の子持ちとなっていた。言ってみれば二人の娘は芭蕉にとっては孫のようなものである。芭蕉は旅先からもこの二人を孫娘のように気遣っていたらしい。そんな手紙が残されている。
  では不義密通し駆け落ちした二人は子供三人と幸せになっていたのだろうか。どうも現実はそうではなかったようだ。
  
  元禄6年に桃印は33歳になっていた。彼は病を得てどうにもならない状態であった。この年の2月、芭蕉は哀れに思ったのか病の重い桃印を深川の芭蕉庵へ引き取っている。しかし介抱も虚しく3月下旬に桃印は身罷った。
  
  その翌年、元禄7年5月中旬、芭蕉が人生最後の旅へ出ていった後に、今度は寿貞が母子ともども芭蕉庵へ移り住んだ。そのままほどなく寿貞も亡くなった。
  6月8日、旅先の京都嵯峨野にある門人・去来の別邸の柿落舎で寿貞の死を知った。その衝撃を芭蕉はこう綴っている
  「寿貞無仕合せ者・・・何事も何事も夢まぼろしの世界。一言理屈はこれなく候」
  無常観漂う文面である。
また寿貞への追悼句を詠んでその霊へ手向けている。

数ならぬ 身となおもひそ 玉祭り

玉祭り、とは魂を祀ることであり芭蕉は寿貞の死を慰霊したのであろう。そこで芭蕉は寿貞の霊へ語りかけた。お前は不幸せな人生だったと思うかもしれない。しかし決して自分のことを取るに足りない身だったと思うものではないよ。私という者がおまえのことをしっかりと覚えているのだからね。
 
そして同じ年元禄7年10月11日芭蕉は大阪で客死した。
芭蕉は「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」という辞世の句を残して寿貞、桃印の待つ先へと旅立っていった。  
 ★余録★ 講談社文庫「芭蕉 二つの顔 俗人と俳聖と」(田中善信著)。
  この芭蕉の伝記本を読み終えて感じたのは人間芭蕉は実直であり律儀な人間であったということだ。人間として思いやりの深い、男気のある人物だったと感じている。芭蕉については俳句の話が世間に多いのは当然のことだが芸術は同時にその人の心の反映でもある。人物像とその人が生み出した芸術がまったく相反しているとは思えない。芸術にはやはりその人の人柄が滲み出ているものだ。
 芭蕉は若くして武家奉公に出た。そこで俳句とであって興味を覚え生来の生真面目さで創作に取り組んだのである。伊賀上野ではそこそこ若手の俳諧師として知られるまでになった。そして生涯の仕事として俳諧の道を志し勝負の舞台として選んだのが江戸であった。
 江戸へ出て俳諧宗匠として名を上げる。それこそが芭蕉の生き甲斐であった。 
 せっせと金を溜めて準備し「万句興行」という大花火も打ち上げて成功を収めた。得意絶頂にして順風満帆の芭蕉であったが好事魔多し。芭蕉は地獄に突き落とされた。
 伊賀上野時代から面倒を見て江戸へ連れてきた甥と縁あって家に置いていた妾。この二人が不義密通の末に駆け落ちして姿を眩ませたのである。 
 そのあたりの経緯や突然の深川移転の謎などについては本文に詳述したので割愛する。
 二人が失踪し芭蕉が深川の草庵へ転居する。そこから芭蕉は俳諧宗匠という世俗的栄華栄光には背を向けて俳句の求道者、探求者へと変貌する。亡くなるまでの14年間の半分は旅に暮らす。漂泊の詩人、俳句聖としての果てしない行脚に明け暮れる日々を送り遂には旅先で客死するのである。
 そうまとめればいかにも俳聖芭蕉の伝記っぽいが実際はどうだったのだろか。
 同居していた甥と妾は江戸の司法や藩法に照らして不義密通、伊賀上野藤堂藩の脱藩、など男も女も死罪を免れない重罪を犯している。しかもそれが世間に露見すれば芭蕉自身も何らかのお咎めも必至である。いわば芭蕉は失踪した二人と一蓮托生の関係に巻き込まれたといって良い。」
芭蕉は毒を喰わば皿まで、との言葉もあるがまさにそんな覚悟で二人の罪の隠蔽工作を行った。このあたりはこれまで誰も究明したことのない芭蕉研究の空白部分であり、半ば推論を重ねた上での解釈となろう。
 深川移転から芭蕉は俳人としての求道の旅と失踪した二人の隠蔽との二股人生を強いられていた。
 ネガとポジの同時進行でありいずれ運悪ければ芭蕉の人生そのものが破綻することも予見されていた。
 そういう綱渡りのような後半生を芭蕉は送らざるを得なかった。
 そこに芭蕉のなんとも言えない律儀さが滲み出ている。
 本来罪を犯し主人であり恩人である芭蕉を裏切ったのは甥と妾の二人の方なのである。おそれながらとお上へ訴えでないまでも開き直って日本橋での俳諧宗匠として羽振りの良い暮らしを続けることもできたのではないか。だが芭蕉はあくまで二人の失踪を表沙汰にせず隠し通した。
 芭蕉は二人への情愛を断ち切れなかったのである。
 あの二人はあまりにも愚かであり泣きたいほど純情で自分勝手で世間知らずである。だがそれを責めることができるだろうか。二人は苦悩した末に運命と言うう非情の波に抗いがたく押し流されたのである。
 芭蕉は二人の中に人間というものの性の哀しさを感じないではいられなかった。
 人は寂しく哀しいいきものだ。芭蕉の詩にはいつも荒涼とした風とともに啜り泣くようなそんな単一の音色が漂っている。 
野ざらしを心に風のしむ身かな
 此の俳句の無常観はほかの俳句にも共通する。春夏秋冬、喜怒哀楽、悲喜こもごもの芭蕉の詩からは、詠われている景色の背景や地底からこのモノトーンの音色が繰り返し流れている。
 最後に芭蕉は病を得て死期のせまった甥の桃印と妾の寿貞とその娘二人を深川の自宅へ引取っている。甥の場合は介抱し死を看取っている。
 芭蕉は自分を裏切ったにもかかわらず当事者の二人を決して見捨てなかった。それはなぜなのか、と問われても芭蕉は答えられなかったかもしれない。
 妾の死について芭蕉の書いた手紙の一節をもう一度引くと。
 「何事も何事も夢まぼろしの世界。一言理屈はこれなく候」
 人生は「理屈ではない」と断定した言葉に芭蕉の苦悩の末に辿り着いた境地が伺い知れるのである。人とはそういう哀しい生き物なのだという悟りの境地と書けば通俗に過ぎるであろうか。
 
「奥の細道」は芭蕉の代表作である。この表題の「細道」にこだわってみたい。
奥州への旅の紀行文であることからこの表題がついたと言われる。だがそれだけではないのだと思う。奥は奥州と解するのが一般的だろうが「人の奥へと続く細い道」と読めなくもない。
 人には表には見せない裏道がある。その裏道は表からは見えない奥まった部分に広がっている暗渠へ続く細い道なのである。
 人生とは残酷なものである。切なくて哀しくてやりきれないほど辛く非情なものである。そんな不条理の雨に濡れながら彷徨い漂いもがき苦しんでのたうちまわりながらも人は哀しみに耐えて生きていかねばならない。
 人はまさに人知れず我と我が身の心の奥底の誰にも気づかれない暗渠につづく細道に身を沈めうずくまって慟哭しているものなのだ。
 芭蕉の俳句には、人生の悲しみの美学が秘められている。
 芭蕉俳句の奥深く奥深く、言語を絶する煩悩業苦の絶唱とも言うべき人生の底深い奥の細道があてどもなく、果てしもなく続いているのではないだろうか。
Posted at 2022/09/16 14:59:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | 読後感想文 | 日記
2021年09月17日 イイね!

「心寂しい」、どう読みますか?

面はオモテ、心はウラ/心が表(面)に現れて来ぬように
 
 「心」の古訓に「ウラ」があり、「面」の訓に「オモ(テ)」がある。

 古人は、「心」を「ウラ」と読むことができた。そして「面」という漢字に「オモ(テ)」という訓(読み)を与えた。

「うらなふ」「うらむ」「うらやむ」というのは、みんなウラ(心)の動詞化であり、「おもふ」「おもねる」「おもむく」は、オモ(面)の動詞化である。

 「おもふ」「おもねる」「おもむく」は、オモ(面)の動詞化で、みな「現れたるオモ(面)」と関わりがある。

「おもふ」はもともと、むしろ思考よりも感情についてのコトバで、表情に(感情などが)現れることをいった。「面(オモ)」が「顔つき」や「面影」を意味するように、感情なんかがオモテに、つまり表情(面)に現れることを意味した。

 我々は、表情をコントロール可能なものだと思っている。
 すぐ顔に出すのは、あまり賞賛されない社会に生きている。
 けれども、表情はもともと意識的にはコントロールしにくいものだ。人間はそういう風にできている(そういう風に進化してきた)らしい。


 ところで、ある時「おもふ」の意味に一大革命が生じた。

 『万葉集』ってのは、やんごとなき連中の恋の歌がたくさん入ってるが、大体は不倫か何かで、結ばれるどころか、表沙汰になった時点でヤバい相手に恋慕してる。

 そのせいかどうか分からないが、『万葉集』に出て来る「おもふ」の半分が「念(おも)」を使って表記してある。

 「念」という漢字は、「今」、これは元の形からして「器の蓋」が元の意味だが、こいつで心(ウラ)を上から抑え込んでる文字だ。
 
 つまり『万葉集』の「おもふ」の半分は、心が表(面)に現れて来ないように抑えられた「おもふ」なのだ。

 『万葉集』で「おもふこころ」と言えば恋愛感情のことだし、「おもひびと」は今と同じ「恋しい相手」を指すけれど、それはそれまでの「おもふ」からすると、かなり違った意味だったのだろう。

 我々がもっともよく使う「思う」の「思」は、心の上に乗っかってるのは、アタマを描いた象形の成れの果てだ。「思」は知情意の全部を含む。だからいま「おもう」と書くとすれば、「思う」としか書きようがない。

 平安末期の漢和辞書『類聚名義抄』には、50の漢字に「おもふ」という訓があててある。
 逆に言えば、50種類の「おもふ」が登載されている。
 そこには「思う」も「念ふ」も「想ふ」も「懐ふ」も「憶ふ」もある。

 そのすべてが厳密に「棲み分け」している訳ではないだろう。
 しかし、常用漢字には「おもう」はただ「思う」一種類しかない。
 なんということだろう。
 常用漢字に従うなら、我々は「念願」し、「想像」し、「懐古」し、「追憶」することはできても、「念ふ」ことも「想ふ」ことも「懐ふ」ことも「憶ふ」こともできないことになる。


 「想ふ」は、「相」(姿、イメージ)を「心」に持つこと。IMAGINEは心象を創出する意味であるが、それに近い。その創出は自由であり(少なくともかなり融通がきく)、あり得ないもの(形象)を「おもう」=目の前におもいうかべるのも「想ふ」である。未だないもの(形象)を「おもう」=目の前におもいうかべるのも「想ふ」である。

 「懐ふ」は、逆に、死者、今はもうないものを「おもう」こと。かつて懐(ちか)しかった人を、懐(なつか)しく、懐(おも)ふこと。

 「憶ふ」は、過去を通じて未来を「憶測」すること。「懐ふ」はひたすら過去に向かうが、「憶ふ」には現在を挟んでの未来への折り返しがある。たとえばノスタルジーは、「かつてあったもの・ことに、再び相まみえることがないだろうこと」を巡って構成される。「失われたもの」への「おもい」ではなく、「失われたものが、今後永久に失われている」についての「おもい」なのだ。我々はもはやそこに帰ることはできない《だろう》、我々はもはやその人の会うことはない《だろう》と、人は「憶ふ」のである。
 
 https://readingmonkey.blog.fc2.com/blog-entry-254.html
 Author:くるぶし(読書猿)
 
 
平安歌人の恋歌に「心」の有り様を少し見てみよう。 
 
しのぶれど 色に出でにけり わが恋(こひ)は
ものや思ふと 人の問ふまで
alt

歌意
私の恋心は、誰にも知られまいと心に決め、耐え忍んできたが、とうとうこらえきれず顔に出てしまったのか。何か物思いがあるのですかと人が尋ねてくるほどに。 

この歌は小倉百人一首の歌で作者は平兼盛(たいらのかねもり。?~990)で平安時代の官人、歌人。三十六歌仙の一人。光孝天皇のひ孫・篤行王の3男で、臣籍に下って平氏を名乗り従五位上・駿河守となった。後撰集の頃の代表的歌人。赤染衛門の父という説もある。

私はこの歌は女性が詠んだ女心の歌だろうと長い間思っていましたが実はこの歌の作者は男性なのです。たしかに忍ぶ恋は男の恋であり女の恋の歌とは違う。隠さねばならぬ恋をしていながらそれが隠しきれずに顔に出てしまう。

心に押し包んで隠している恋。この心というのは「裏」の自分であり、顔(色)に出てしまうという顔は「表」の自分なのである。心というものは表面には出てこないで自分の中の奥深く沈んでいるのだ。だから「心が面に出てしまう」と言った表現になる。
 ここで漢字の読み方なのだが「心」は「うら」と読む。「面」は「おもて」と読むのである。「心」という言葉には「裏」と同じように「表に見えないもの」「隠されたもの」という意味を持っている。
 
 
 では「心寂しい」はどう読むのでしょうか。

  これまでの説明でおわかりと思いますが「こころさみしい」ではなく「うらさみしい」と読みます 
  裏の心が面に出てこないように耐えしのでする恋が「しのぶ恋」ということになります。辛いですが恋は病なので仕方ありません。でもそうまでしても恋しい人に出会えたことは幸せなことかもしれませんね。


 男の恋歌にくらべて女性の恋の歌は行動的だ。
 
 小野小町の恋の歌二首。
 
 思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば さめざらましを

 歌意
 あの人のことを思いながら寝たら夢であの人と会った。それが夢とわかれば目を覚まさなかったのに、(悔しい)。

 わびぬれば 身をうき草の 根をたえて 誘う水あらば いなむとぞ思う

<歌意>
 生きるのが辛くなった。私の身は根のない浮き草なの。根なし草が水に流されるように、私を誘う人がいたら、その人に流されて都を去ろうと思う。(誰か誘ってくれないかしら)
 

 恋多き歌人と言われた和泉式部「小倉百人一首」にある次の歌はどうだろうか。
 
 
 あらざらむ この世の外の 思ひ出に
                今ひとたびの 逢ふこともがな
                
 歌意
 もうすぐ私は死んでしまう。あの世へ持っていく思い出として、今生の思い出としてもう一度だけ、あなたに会いたい。
 alt
 そうか、もう一度だけ会いたいんだな、と思うのは女心を知らない朴念仁の言うことだ。
 この場合の「逢ふ」というのはそのものずばり「男女関係」であって「死ぬ前にもう一度抱かれたい、あの人に」という意味だ。
 
 もはや命尽きる死の床にあってあなたどこにいるの私を抱いて、と悶え苦しむ心の内を晒して絶唱しているというひたむきさを越えた、狂おしいほどの心の内の情念歌う激白の一首である。
 
 男の歌う気取ったしのぶ恋どころの騒ぎではない。
 
 
Posted at 2021/09/17 13:46:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | 読後感想文 | 日記
2021年09月15日 イイね!

幸せとは

占いの世界では、たとえば生まれた日時の星座の位置や、姓名、血液型などで、ある種の「宿命」を背負うものと考えているようだ。「宿命」の「宿」は「とまる」と訓よみ、いのちの全体性である「命」の流れまで予あらかじめ決まっていると考える。それが「宿命感」である。
 
 なるほど世の中には、自分の力ではどうにもできないことが確かに多い。男か女か、長男か次男かなども、完全に受け身で与えられれることだし、何より我々は生まれる環境も親も選べない。「宿命」という考え方が生まれるのも無理はんまいのかもしれない。
 
 しかし同じ境遇に生まれ育ち、似たような人々の間に暮らしたとしても、人はそれぞれじつにさまざまな人生を生きる。この認識から、おそらく「運命」という言葉が生まれたのだろう。
 
 「運命」の「運」は「うごく」と訓み、これは天と人との関かかわりが予定もなく変化し続けるという見方である。
 ただこの「運命」も、人がどの程度関わることができ、意図的に流れが変えられるのか、いや、せめてある程度の影響だけでも及ぼすことができるのか、などといった観点で、これまた考え方が分かれる。
 
 運命の全体には逆らいようがないとしても、やがて波のようなその変化に「乗る」こと(荘子そうじ)や、その波の上に「立つ」こと(孟子もうし)が勧められる。後者は「立命りつめい」で、日本では大学の名前にも使われた。

 それらに似た態度なのだが、日本の奈良時代には運命の流れに「為合しあわせる」意味から、「しあわせ(為合)」という和語が生まれる。室町時代になるとこの「しあわせ」に「仕合」の文字が当てられ、相手も天ではなく人を想定するようになる。人が刀を持って向き合うことを「仕合」(今は「試合」)と表記したことからもわかるように、「しあわせ」とは相手の出方に対してどう対応するか、というかなり技術的な問題だった。うまく「仕合わせ」られれば「しあわせ」の語源であり、明治以後に用いられた「幸」や「幸福」の意味合いとはまったく違う。

 そう考えると、世間でよく聞く「運がいい」とか「悪い」という判別は、結果論でしかないことがわかるだろう。波そのものには善意も悪意もなく、要はその波に乗るなり立つなりできたかどうか、つまりうまく「仕合わせ」られたかどうかなのだから、これは本人の心構えや技術に依よるところが極めて大きいはずである。

 さてそこで問題なのは、どうしたらうまく波に乗り、そこに立ち、不慮の波に仕合わせることができるか、ということだが、これは実際の波乗りと違って目に見えない波だから難しい。
 一つ言えるのは、人間の意識は極めて不自由で、一つしか掴めないということだ。思い込みが強い、という言い方もできる。
 流れの全体を把握できないのは勿論、意識というのは掴んだら放さず、それをすぐに名詞的に分別する。たとえば「運がいい」という証拠、あるいは「運が悪い」証拠、というように。
 そして意識は、たいていの場合、脳から何かを捜せという指令を受けており、それを求めてあちこち彷徨さまよった挙げ句、たいていはそれを見つける。まるで優秀な猟犬のような、脳の部下なのである。
 たとえば「今日の自分は運が悪い」と思い込んだ場合、意識は必死になってその証拠を捜す。むろん逆に「今日はツイテル」と思った場合も、その証拠を捜し、それはきっとたいてい必ず見つかるのである。
 一つ目の証拠が見つかれば、二つ目三つ目はもっとラクに見つかるだろう。松茸捜しと同じである。そうしてあっという間に「ツイテル一日」や「ツイテイナイ一週間」ができ上がるという仕組みなのだ。
 ならばまず、「運が悪い」という証拠はけっして捜さない、という強靭な意志こそ、運の重要な下支えになると気づくだろう。
 本当は、運がいいも運が悪いもないのだが、どうしてもそのような判断をしてしまう脳への、これは対抗措置である。

 同じことを、ユングは「希望の「元型げんけい」と言った。一つの出来事の価値は単独ではわからず、三つ四つと繋つながって初めて明確になるのだから、それまでは「希望」をもったまま判断を保留せよというのである。
 
 中国の故事成語「塞翁さいおうが馬」という話も聞いたことがあるだろう。これも「希望の元型」と同じで、吉凶を判断せずに受け流す強い翁おきなの物語だが、現実にはかなり大変なことだ。がんになっても、交通事故に遭っても、それだけでは不幸とは限らない……。そう思わなくてはならないのだ。
 しかし意識に捜させるものが明確であれば、それ以外を鷹揚おうように受け流すことも、いつしか上向きの運気に乗っている自分を発見することも、さほど難しくはないはずなのである。
「くらしラク~る♪」 2011年5月増刊号(PHP)


この一文を読んでなるほどと思う。

幸福、幸運など「幸せ」の元の意味はそれがどういう事態であっても直面している状況へうまく対応することだというわけです。
いまで言う「幸せ」という状態を指すのではなく、状況へ「仕合せる」ことを意味し、さらに語源を辿れば「為し合わす」とうことになる。
自ら能動的に「為す」「する」ことが「為し合わす」ということだ。
状況や相手の動きへどう動いて事態を収めるのか。この為し、合わせることが「しあわせ」の語源だという。その結果、うまくいけば現代使われている意味での「幸せ」ということになる。

そうしてみれば「幸せ」とは決して「状態」を指す言葉ではない。
際限なく押し寄せてくる現実という状況への波乗りをする人間の「行動」「営為」そのものなのだ。

いま国家レベルの大騒動になっている武漢肺炎コロナウイルス病毒についてもウイルスそのものは善でも悪でもない。このシナが撒き散らしているコロナという波に日本はどう「為し合わせて」いくべきなのか。その仕合わせ如何によっては結果として「幸せ」になれるかもしれない。

やはり幸せとは決断、行動の仕方など状況へどのように対応するかという人の心の動きによって決まるものなのだ。

水前寺清子の歌に「三百六十五歩のマーチ」がある。
この歌には、幸せを掴むために休まないで歩けと。



 
掴んだと思った幸せもたちまち壊れ指の間からさらさらと砂のようにこぼれて落ちていく。

この世は無常である。

幸せといい不幸といい限りある命の前にはそれらは束の間の幻想であり無情の徒花に過ぎない。
だが人の世は無常だからこそ人との出会いや人を愛することが限りなく美しく尊く思える。

さよならだけが人生だ。
諸行は無常である。

それだけに二度と巡り会えない今日という一日との出会いがその別れゆく時間の刹那がせつなくも輝いてみえる。
   
Posted at 2021/09/15 20:56:36 | コメント(0) | トラックバック(0) | 読後感想文 | 日記
2021年03月20日 イイね!

大阪大空襲と春日祭

奈良新聞の雑記帳という投稿随筆に掲載された一文を紹介します。

令和3年3月20日(土曜日)付。スマホ撮影なので見にくいかもしれません。字を大きく撮影するため4分割しました。

 3月13日は奈良市内では東大寺二月堂のお水取り行事が終わって春日

大社のお祭りがある。しかし大東亜戦争末期の昭和20年3月13日は米軍

爆撃機による大阪への民間人大虐殺包囲爆弾投下があった。

 爆撃は大阪住民が寝込み逃げることもままならない深夜から未明にかけ

て行われた。ここは戦場ではない。非武装の日本人を狙った皆殺しのため

の爆撃であった。

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大阪大空襲で廃墟となった大阪市内。

 卑劣なアメリカ人は戦うときに激戦の戦場ではなくその背後にある民間人虐殺を騙し討のように繰り返してきた。戦争においてそうした民間人虐殺行為の残忍な歴史を持つのがアメリカである。

アメリカ大陸侵略でも原住民の殺戮でこの手を使っている。まさに鬼畜である。

●サンドクリークの虐殺
1864年11月29日にアメリカのコロラド地方で、米軍が無抵抗のシャイアン
族とアラパホー族インディアンの村に対して行った、無差別虐殺。Wikipediaにも詳しい記述がありますので「サンドクリークの虐殺」で検索し関心のある方は御覧ください。

 大阪大空襲も現代版の「サンドクリークの虐殺」だ。深夜、大阪上空に274機の

B-29が襲来し約2,000メートルの低空からの一般家屋をねらった夜間の爆撃投下

を行った。米軍の落としたのは日本の木造家屋を

燃やすために開発された焼夷弾でいわば火のついた油を家屋へふりかけるようなものだ。

大阪市内は当然火の海となり難波や心斎橋は猛火に

包まれており、既に避難の術がなかった。真夜中だが真昼のような大火災

が起こり3時間半の爆撃で3987名の死者。負傷者8500人、678名の行

方不明者が出た。大阪大空襲の被災者は50万人といわれる。
その後の空襲爆撃も含め1万人以上の人が犠牲になった。痛ましい悲惨な

民間人無差別殺人という爆撃惨殺であり米軍のまぎれもない残虐な戦争犯

罪である。

この随筆は奈良にいた現在92歳になる女性が若き日に記憶していたその

日の出来事である。
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この92歳の方の文章を読んで絶句しました。3月13日、大阪大空襲、日本のメディアはもうこうした悲惨な出来事は忘れたかのように何も報道しない。戦時中とは言えアメリカが日本へ行ったこういう残忍な殺戮行為を忘れていいものだろうか。戦争の悲惨さ、平和の大切さを思うならば、日本が二度とこういう悲惨さを味わわないためにもあらゆる意味で国防強化を何にもまして推進すべきではないだろうか。残忍な殺戮者、侵略者は大東亜戦争のアメリカで終わりではないのだから。
 あらためて「人間が原因の災いは罪が重い」という玉井さんの思いを噛み締めました。


下のリンクは大阪大空襲の記録です。動画の証言もありますのでご覧ください。
Posted at 2021/03/20 13:13:39 | コメント(0) | トラックバック(0) | 読後感想文 | 日記

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