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2023年07月22日

尾崎放哉。「墓のうらに廻る。」


「大空」(たいくう)という俳句の本がある。手元に置いてときおり開いて読む。復刻本だが古い活字の俳句集だ。この俳句を詠んだのは尾崎放哉(おざきほうさい)。彼は明治の人で鳥取市に生まれ最期は瀬戸内海の小豆島で身罷った。本名は尾崎 秀雄〈おざき ひでお〉1885年~1926年)。放哉の俳句の著作は生前にはなく死後に編纂出版された。
尾崎放哉は種田山頭火とともに日本の自由律俳句の代表的俳人として知られる。この自由律俳句というのは俳句と言っても季語があり五七五の定型にならういわゆる有季定型俳句ではない。季語もなければ五音、七音の韻律も踏まない。自由奔放な俳句でありいわば異端の俳句と言えるだろう。定型を重んじ季語を大切にする俳人からみればとても俳句とは言えないと言われても仕方ないような俳句である。
見方を変えれば短い詩とも言える。この総称して自由律俳句と呼ばれる俳人として尾崎放哉は我が国の俳界に確固とした爪痕を残した俳界の奇才である。今回は自由律俳句の簡単な紹介と尾崎放哉という俳人について書こうと思う。

 後で自由律俳句については書くが、まずは、尾崎放哉の詠んだ俳句を紹介してみたい。こんな俳句をどう思われるだろうか。これが俳句なのか?と感じられる人もおられると思う。
 
 咳をしても一人
 
 墓のうらに廻る
 
 春の山のうしろから煙が出だした
 
 
 こういう俳句を詠んだ人である。
 またこんな俳句もある。
 
 入れ物はない両手でうける
 
 こんな良い月を一人で見て寝る
 
 肉が痩せて来る太い骨である
 
 大空のました帽子かぶらず
 
 漬物桶に塩ふれと母は産んだか

 何がたのしみに生きてると問はれて居る

 たった一人になり切って夕空

 
 尾崎放哉は鳥取一中時代から俳句に親しんでいた。文学的には早熟であったと言える。また学業でも秀才として知られ上京して一高から東京帝国大学に入り、法学部を卒業している。卒業後は有名な保険会社に入社してエリートサラリーマンとなった。彼の人生は順風満帆に見えた。
 しかし生来の自己中で我儘な性格は社会人となっても変わらなかった。当然、世間との折り合いがつけられず職場では孤立する。その鬱憤や不満のはけ口を酒に求めた。その程度なら並の酒飲みだが尾崎放哉の酒は癖が悪すぎた。
 過度の飲酒は酒乱であり酒癖は仕事にも支障をきたすようになり、とうとう会社に居られなくなる。自暴自棄の日々を過ごす尾崎の心を癒やすのはやはり酒と俳句であった。
 彼の一生をここで詳述しないが、仕事を得て渡った朝鮮や満州の寒さの中で病を得た上に満身創痍の状態で帰国してからは唯一の理解者であった妻にも愛想を尽かされてしまう。その後の尾崎はいっさいの社会的な関わりを捨て世捨て人なる。寺の堂守など雨露を凌ぐだけの隠遁の場を転々としながら吾と我が身は悪性の肋膜炎という持病に蝕まれながら俳句を詠み俳句投稿一筋の生活に入る。
 そんな困窮、貧窮の隠者姿の放浪俳人となった尾崎放哉を支えたのは自由律俳句の俳句誌「層雲」を主宰する荻原井泉水など若い頃からの先輩、同輩の俳人仲間であった。かろうじて生きながらえつつ俳句三昧だけの尾崎は生活能力をまったく欠いていた。俳句を詠むほかの一切を捨て去った尾崎放哉は、荻原井泉水のはからいで最期の命の捨て場としての小豆島へたどり着き、そこで短い生涯を終えた。享年41歳であった。
 
 人は誰しもが心も身も着飾って世間の眼を欺いて生きている。いい悪いではなく、それが人間の世渡りをする実態である。しかし尾崎放哉の生き方はその正反対であった。
 世間そのものを断捨離し、いっさいの関わりを絶って身も心も無一物となった尾崎放哉にとっては虚飾は無用の長物であった。尾崎放哉は金も名誉も学歴も家庭もみな投げ捨てた。ありのままの素のままの自分で生きたいというのが尾崎放哉の願望であった。しかし、そういう潔癖さやある種の純粋さが世渡りの不器用さと相まって放哉は世の中に受け入れられない。その結果、どこへ行っても世知辛い人間関係の柵の中で孤立していく。
 人並みに生きることに悪戦苦闘する放哉は、憂き世の辛さのはけ口を酒に求めた。酒に溺れることで傍目にも自覚でも放哉は自暴自棄、人間失格さながらの破滅の極地に追いやられ鬱々とした日々を過ごす。
 そのような生活の中でも、放哉は俳句をつくることをやめなかった。
 日記を書くように、放哉は心の呟き、独白を俳句の言葉に写し取っている。
 
 尾崎放哉の俳句は世間に背を向けた無一物生活をそのまま詠む孤高な心境そのものの表白であった。俳句というものはこういうものだ、という固定概念、知識や常識を破り捨てた。文字とおりの「型破り」俳句が、放哉の独自性、個性であり、俳句をつくる流儀であった。尾崎放哉の俳句からは、どの句一つとってもうまい俳句をつくって褒められたい、世評を得たいというような色気は微塵も感じられない。人の目は意に介せず、ただ己が信じる俳句の細道をひたすらに追究しつづけている。
 ただ、自らの心境を見つめ嘘偽りのない、作りものでない、俳句をつくる。それが世間から脱落し放浪する破戒僧となった放哉の俳句道である。晩年の俳句にはそうした虚飾を一切拒絶した研ぎ澄まされた心境、心象風景、心模様、心情が自由自在に表現されている。
 
 尾崎放哉の句を収載した「大空」の句を鑑賞すれば、そこには季語も韻律も問わない俳句の原石ともいうべき漂白する放哉の魂が露呈しているだけである。放哉の句には、飄々として世間を超越した句境がある。おかしみや悲しみのないまぜになった独特の世界がある。また生きる根源苦からの救いを感じさせる言葉が随所にころがっている。
 俳句から技巧も捨て俳趣味も捨てなにもかも捨て去った無一物の俳句。自分さえも世の中から捨て去り命さえも捨て去ろうとして生と死の間を彷徨いつつ懊悩する我と我が身を放哉は凝視し深掘りし続けている。
自分をとことん掘り下げ自分をみつめる。それはほとんど底の抜けた柄杓で水を汲む虚しい営みそのものである。放哉の句の悲しや寂しさの底には底のない柄杓で汲めない水を汲むその虚しさが通低音のように音のない音を出して流れる地下水のように存在しているからだ。。
 放哉は徹底して己にこだわり、己を見つめ、わが心の内を呟き続けた。それが放哉の俳句になった。極めて私小説のような、私俳句であるが、私つまり、個の深化は普遍に通じるのだ。
 それが放哉の俳句である。

 底がぬけた柄杓で水を呑まうとした 
 
 この放哉の句、それこそが放哉の人生そのものであった。柄杓の底、それは自らの本心を偽る自制と虚飾の板である。それがなければ、金も名誉も家族も円満な人間関係などの何もかもが得られないということは放哉にはわかってはいた。両親も家族も親戚も知人、友人もみなそれを放哉に求めたはずだ。
 放哉が酒で人生を破滅させたことは放哉を知る誰もが証言している。
 善意で好意で哀れみでまた俳人としての放哉への畏敬の念で、放哉に手を差し伸べてくれる人はあまたあった。だが一杯の酒が酒を呼び、泥酔の極みで手を差し伸べてくれる恩情の人たちに対し、放哉は凄まじい酔眼でなじり、罵倒し、冷笑の罵詈雑言を浴びせるのが常であった。これでは話にならない。

 放哉は酒の誘惑に負け、酒乱の泥沼に自らを投身自殺させるような破滅の道を歩んだ。いくら反省し自戒してはいても、酒の前には自制の心はいとも簡単に砕け散った。わが心の欲するままに生きる放哉にとって世間は放埒な心を閉じ込める牢獄そのものだったであろう。
 放哉は心を入れ替えて底のある柄杓を持ちたいと願うこともあった。だが世間は放哉をすでに見放していた。放哉の手には、もはや、底の抜けた壊れた柄杓しか残ってはいなかったのである。
 晩年、孤独な放浪の果にせめて別れた妻の写真一枚でも見たいと本心から思った。しかし、妻にそういう手紙を出すこともできなかった。無視されることがわかっていたのだろう。それでも放哉はその手紙を妻に送ったようだ。返事は来なかった。これまでのハチャメチャな生き方を見れば妻に愛想を尽かされてもしかたない放哉なのであった。

 底の抜けた柄杓。それが放哉の人生だった。柄杓についた水滴くらいはしゃぶってどうにかこうにか喉の乾きを抑えられたかもしれない。しかい、当たり前に人が飲んでいる、柄杓の水を尾崎放哉は遂に飲むことができなかったのである。そんな放哉にとって、唯一の救いが俳句であった。


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上が尾崎放哉。
下の笠の人が種田山頭火。


●正岡子規●

 近代の俳句の源流を素描すると、まず短歌や俳句の確立に貢献した正岡子規にたどり着く。それまであった発句や俳諧と言った江戸の文芸から俳句と言う文学を確立しようと一身をささげた文学者であり俳人として知られる、正岡子規(1867年~1902年)。本名は正岡常規(つねのり)といい、愛媛県松山市に生まれた。俳号の「子規」というのは、「ホトトギス」という鳥を指す言葉。子規は結核のため喀血を繰り返す闘病生活を送っていたことから、自分を「のどから血を流して鳴くと」と言い伝えられている鳥のホトトギスに例えたと言われている。正岡子規は21歳のときに結核を患い、以後34歳で亡くなった。闘病のなかで今に残る俳句を生み出した。亡くなる数時間前まで句を詠み続け、短い生涯に残した俳句の数は20万句ともいわれる。彼の俳句は命の絶唱といえる。
 正岡子規の代表的な俳句は多いが少し紹介する。
 『柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺』
 『柿くふも 今年ばかりと 思ひけり』
 『 故郷や どちらを見ても 山笑ふ 』
 『 島々に 灯をともしけり 春の海 』
 『 夏草や ベースボールの 人遠し 』
柿の俳句が多い。正岡子規は、柿が好物だったようだ。

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正岡子規の写真 ↑


●高浜虚子●

 次にこの偉大な正岡子規の弟子に高浜虚子と河東碧梧桐の二人がいる。
 師匠の後継者として俳句の興隆を担った逸材である。
 高浜 虚子(1874年~ 1959年〉は愛媛県松山市の人。本名は高浜 清(たかはま きよし)。
 高浜虚子は学校で1歳上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わった。高浜虚子と河東碧梧桐は大の親友であったが、俳句観においては相容れず対立相剋し世間を騒がせた。

 子規の没後、五七五調に囚われない新傾向俳句を唱えた碧梧桐に対して、虚子は俳句は伝統的な五七五調で詠まれるべきであると唱えた。また、季語を重んじ平明で余韻があるべきだとし、客観写生を旨とすることを主張し、「守旧派」として碧梧桐と激しく対立し、俳句こそは「花鳥諷詠」「客観写生」の詩であるという理念を掲げた。(Wikipediaより引用)

 高浜虚子は、俳句の創作だけでなく、俳句指導者としても大きな存在となり、俳句の入門書を著し、俳句作家を育成した。また俳句を詠む女性が少なかった時代に女性俳人の育成にも力を入れた。そうした功績により1954年、日本政府から、高浜虚子は俳人として初めて文化勲章を受章した。その5年後の1959年に85歳で亡くなった。

 遠山(とおやま)に日の当りたる枯野かな
 時ものを解決するや春を待つ
 一つ根に 離れ浮く葉や 春の水
 道のべに 阿波の遍路の 墓あはれ
 牛も馬も 人も橋下に 野の夕立
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高浜虚子 ↑

●河東 碧梧桐●
 さて問題は自由律俳句である。正岡子規の門下にあって高浜虚子は伝統の有季定型の俳句を世に広めて大いに威勢をふるった。一方、正岡子規に師事した河東碧梧桐は季題趣味の脱却を目指した自由律俳句を進めた俳人で季題と定型にとらわれない自由律俳句を提唱し実作していった。その意味で、日本の自由律俳句の創始者は河東碧梧桐と言えるだろう。
 河東 碧梧桐(かわひがし へきごとう。1873年~1937年)は、正岡子規の高弟として高浜虚子と並び称され、俳句革新運動の代表的人物として知られる。
従来の五七五調の形にとらわれない新傾向俳句を創案し『新興俳句への道』(春秋社)という著書を出版している。こうした河東碧梧桐の定形にとらわれない新傾向俳句運動に参加したひとりが、これまた無季自由律俳句で知られる荻原井泉水(1884~1976)だ。
河東碧梧桐の段階ではまだ季語を含む自由律俳句も混在していた。だが荻原井泉水は更に一歩進んだ俳句の革新を試み、俳句に必須とSれていた季語や季題にとらわれず生活感情を自由に詠い込む自由律俳句を提唱した。
 こうした俳句革新の旗印を掲げた俳句誌『層雲』を主宰する荻原井泉水のもとに自由律俳句の異彩、鬼才というべき、尾崎放哉、種田山頭火が出現するのである。
 
 ここで自由律俳句を提唱しながらも季語を捨てさることはしなかった河東碧梧桐の俳句をみてみよう。有季あり無季あり、俳句情緒の滲む句もあれば脱有季定型に徹して突き抜けた句もあり、その創作感性は多彩にして非凡であり自由奔放にして独自の味わいに満ちている。

冬枯や 墾き(ひらき)捨てたる このあたり 
一軒家も過ぎ 落葉する風のままに行く 
この道の 富士になり行く 芒(すすき)かな 
千編を 一律に飛ぶ 蜻蛉かな 
愕然として 昼寝覚めたる 一人かな 
赤い椿白い椿と落ちにけり
鳥渡る博物館の林かな
思はずもヒヨコ生れぬ冬薔薇
松葉牡丹のむき出しな茎がよれて倒れて
正月の日記 どうしても五行で足るのであつて
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河東碧梧桐 ↑

●荻原井泉水●
 
 正岡子規、その弟子の高浜虚子、河東碧梧桐、という俳句革新の流れの中から、河東碧梧桐が突破口を開いた有季定型俳句を打破する自由律俳句の世界。その流れを更に大きく切り開いたのが荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)である。
 荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい、1884年~ 1976年)は、東京の生まれの俳人で自由律俳句の俳人として知られる。自由律俳句に特化した俳句誌「層雲」を主宰して一時、河東碧梧桐も加わった。荻原井泉水は季語への未練を断ち切り、俳句には季語無用だと主張し、自然のリズムを尊重した無季自由律俳句を提唱した。この「層雲」に投稿する尾崎放哉や種田山頭火らを俳人として引き立て、育てたのは荻原井泉水の功労である。
 荻原井泉水の作風は、自由律俳句の中でも徹底している。
 季語を詠まないだけでなく、575音の韻律えも踏まないという徹底したものである。
 季語があってもなくても構わない、場合によっては言葉に韻律があってもよいとする緩やかな自由律俳句とは一線を画した。それが荻原井泉水の「無季自由律俳句」の特徴である。あとで尾崎放哉や種田山頭火の俳句を紹介するが、なんでこれが俳句?というような句のオンパレードに仰天される人もおられることだろう。だが、それこそ荻原井泉水の提唱した俳句革新の真骨頂なのである。
 荻原井泉水を師として、尾崎放哉(おざきほうさい)、種田山頭火(たねださんとうか)という奇才たちは俳句から季語を廃し十七音を無視して、口語で瞬間的な印象を読む無季自由律俳句を生み出していった。
 では荻原井泉水はどんな俳句を詠んだのであろうか。
 『論議の中につつましく柿をむく君よ』
 『 たんぽぽたんぽぽ 砂浜に春が 目を開く 』
 『 咲きいづるや 桜さくらと 咲きつらなり 』
 『 うちの蝶として とんでいるしばらく 』
 『 湯呑久しく こはさずに持ち 四十となる 』
 『 はつしと蚊を、おのれの血を打つ 』
 『 わらやふる ゆきつもる 』
 『 われ一口 犬一口の パンがおしまい 』
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荻原井泉水 ↑

●種田山頭火●

 さて、ここまでは書かずもがなの前置きである。いきなり、尾崎放哉の俳句から語りだしてもよかったのだが、それはあまりにもマニアックかもしれないと逡巡したのである。したがってわかっている人にはこれまでの説明はどうでもいい話ばかりで申し訳ない。そこで、ここでまたまた言い訳がましいのだが尾崎放哉の前に種田山頭火の句をどうしても紹介したい誘惑に駆られるのはしかたないことかもしれない。尾崎放哉は知らなくても、山頭火といえば何となく一度は名前を聞かれた人も少なくないだろう。それほど、自由律俳句は知らなくても山頭火は知っているというほど世間や俳句世界での山頭火の知名度は高い。
 
 早く放哉へ行け、とせかされるのは重々承知であるが、ほんのさわりだけ、山頭火の句についても触れておきたい。自由律俳句という山脈があるとすれば、山頭火という山はとんでもなく富士山のように高い巨峰なのだ。しかも今でも噴火している活火山なのである。まさに、山頭火なのだ。
 
 
 分け入っても 分け入っても 青い山
 後ろ姿のしぐれていくか
 ほろほろ ほろびゆく わたくしの秋
 焼き捨てて 日記の灰の これだけか
 どうしようも ないわたしが 歩いている
 まっすぐな道で さみしい
 生死の中 雪ふりしきる
 あるけばかつこう いそげばかつこう
 鉄鉢の中へも霰
 また見ることもない 山が遠ざかる
 この道しかない 春の雪ふる
 こころ疲れて 山が海が 美しすぎる
 生まれた家は あとかたもない ほうたる
 また一枚 脱ぎ捨てる 旅から旅
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 種田山頭火の俳句を初めて読んだのは、高校一年生のときで、どうしてその本が手元にあったのか記憶にない。たしか、山頭火の句集「草木塔」だった。その時受けた衝撃はいまもぼんやりとはしているが圧倒的なものだったことは記憶している。以来、折に触れては山頭火の句を読み返し読みかえししておりもう彼の俳句世界とは60年以上の長い付き合いとなる。それでも読むたびに新鮮で山頭火の紡いだ言葉の魅力にぞくぞくする。
 いまだに、山頭火の俳句は永遠の未踏峰のように燦然と高みに輝いていてその頂上は雲に霞んで見ることもできない。山頭火を追っかけても追いかけても、彼はいつもはるか先にいてその句境には近づくこともできない。
 そんな思いをする詩人が日本にもうひとりいる。それは日本語の文学表現を比類なき豊穣なものにしてくれた言葉の魔術師・北原白秋である。冗談だが、もし私がノーベル賞の選考委員なら、この二人にノーベル文学賞を贈りたい。
 どんどん脇道にそれていくのだが、本論は尾崎放哉である。
 
 尾崎放哉の人生や俳句について説明するのはやめる。山頭火と並んで自由律俳句の奇才と言う評価はすでに定まっている。私は枕元に放哉の句集をおいて寝る前に少しづつ読んでいるのだがなかなか進まない。その最大の理由は夜中の11時ころになると自然に眼が霞んで字が読めなくなるからだ。老化とはそういうものだ。若い頃には字が霞んで読めなくなるとは思ったことも感じたこともなかった。

 ぼうやりと字が遠ざかる
 
 自由律俳句を真似てみたがまことに駄句の極みだ。
 
 
 ここで少しだけ尾崎放哉の句をあげておこう。
 
 尾崎放哉は放浪の果に最後は小豆島に渡って最期を迎える。その僅かな時間の中でも多くの句を残している。一部をあげてみる。
 
咳をしても一人
いつしかついて来た犬と浜辺に居る
とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた
ビクともしない大松一本と残暑にはいる
障子あけて置く海も暮れ切る
足のうら洗へば白くなる
自分をなくしてしまつて探して居る
竹籔に夕陽吹きつけて居る
鳳仙花(ほうせんか)の実をはねさせて見ても淋しい
入れものが無い両手で受ける
雀が背のびして覗く俺だよ
月夜の葦が折れとる
墓のうらに廻る
あすは元日が来る仏とわたくし
夕空見てから夜食の箸とる
枯枝ほきほき折るによし
霜とけ鳥光る
お菓子のあき箱でおさい銭がたまつた
あついめしがたけた野茶屋
肉がやせてくる太い骨である
一つの湯呑を置いてむせている
白々あけて来る生きていた
これでもう外に動かないでも死なれる
大空のました 帽子かぶらず 
 
この中で、特に有名な句が「咳をしても一人」という句だ。
これほど人生の孤独、寂寥を表した文学表現を私は知らない。人間は生まれるも一人、死ぬも一人なのだ。咳をしても一人。さっきまで笑っていた人であっても、この句を読めば、涙が突然吹き出すほど寂しい俳句ではないか。
尾崎放哉が一生をかけて吐出したこの句の凄みは圧巻である。
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詩人とは何か問われれば、一生をかけて一つの詩を紡ぎ出した人のことだと言いたい。
一つの俳句、一つの詩、それを生み出すために、詩人は一生を費やすのである。
尾崎放哉はまさにこの句によって日本の詩に不滅の刻印を残したと言えるだろう。尾崎放哉という名前が忘れ去られても、「咳をしても一人」という俳句は永遠に残り人々に読まれ続けていくであろう。この句は不世出の俳人・尾崎放哉の俳人として生きた証なのである。

 もう一つ、誰も気になってしようがない放哉の句がある。それが次の句だ。これは尾崎放哉の代表作の一つと言われる。
 
 『墓のうらに廻る』
 
 なんとも不可解で奇妙な句だ。何を言いたいのか?なんでこんな句を作ったのか?おそらく、古今東西の世界中の詩人で、こんな詩を書いた詩人はいないだろう。無類の珍詩と言って良い。それだけにかなり難解であることは間違いない。書かれていることは明快で単純であるがその心は?と聞かれれば、謎だらけで言葉に詰まる。。
 墓のうらに、廻った、ということだけである。何も紛らわしいことはない。では、どういう意味が込められているのか?この句の意味、解釈は?と言われると答えに窮するのである。
 実は、この句の意味を探るというのがこの原稿を書き出した動機なのである。 
 長々と前段を書いてきたが、ようやく本論の核心に近づいてきた。私なりの解釈はあるのだが、その前に、いったいこの句を世間の人々はどのように解釈しているのかを見てみよう。
 誰が、どこに書いているのかは、あえて記さないことにする。
 ただ、この句をがどのように受け止められているのかがわかれば事足りると思う。
 以下、アトランダムに要点だけを列挙していく。
 
 
解釈①死にひきつけられる暗いイメージ

 墓石の裏側に廻るのは墓地で何気なくする行為であるが、「うしろ」でなく「うら」、「うらへ」ではなく「うらに」という表現に死にひきつけられる暗いイメージが漂っている。

解釈②この詠み味、余韻こそ芭蕉以来の俳句らしい俳句、俳句の中の俳句
 
 皆さんは墓の裏に廻ったことがありますか?私はあります。先日も廻ったばかりです。うろ覚えの道を辿って記憶も辿り「ここで良いはずだけど?」とぐるりと回って景色をみて思い出して。墓の裏に刻んである友人の戒名や俗名を確認します。ああ、ここで間違いない、と。血縁でない人の墓だと確認します。逆に、親族の墓だとそんなことはしません。表からお参りして、掃除をするときにまわるくらい。

ところで皆さんは古いお墓、放哉と同じ明治のお墓、江戸時代のお墓でも構いません。見たことがありますか?

その頃のお墓というのは今のようにピカピカの御影石ではなく、ざらついた緑褐色の脆い岩です。光るほど磨かれてもいません。

正面は今のお墓と大差なく家の名前が刻んであります。没年等の文字が刻んであるのは側面まで。裏に廻ると文字はなく、ノミのあとも生々しいざらりとした岩そのものがのっぺりとあるのです。平らにもしてありません。それが当時の普通のお墓です。放哉が見た墓はおそらくこのタイプです。

表から名前を見て故人を偲び手を合わせ、ふと裏に廻るとそこにはただののっぺりとした岩そのものの存在。表側が世俗的な儀式の場なら裏は即物的な、突き放したような無常観に包まれた世界です。放哉は、墓石を澪標として此岸から荒い岩肌のように冷たい彼岸を覗き見たのではないでしょうか。

「墓」という言葉は死に直結しどうしてもウェットになりがちです。そんな思いをたった9文字に凝縮し昇華することで、すっかりウエットさがなくなり、さらりとした詠み味にまでなっています。さらりとしていながら、深みを見つめる目があります。

自由律ではありますが、この詠み味、余韻こそ芭蕉以来の俳句らしい俳句、俳句の中の俳句だと思います。

解釈③裏に回って何か書いてないか?探してみた。

墓は人と見れば 表は立派かもしれない。
だがその人は、ほんとの姿はどんなものだったのか?
死んだ人の表の経歴には興味がない方際は、裏に回って何か書いてないか?探してみた。



解釈④どうにも、裏が気になる。放哉です。

人には表と裏と有る、
この人の裏に真の姿に興味がる。
けど、裏には何も書いてない。
墓場まで持っていった故人の秘密は誰も知らない。
墓を見ても、何も書かれてはいないだろうけど、どうにも、裏が気になる。放哉です。

解釈⑤すべてを捨て去ってなお残る感覚だけを本物の真実だと言いたい。

 俳句の三大要素といえば、「定型」「季語」「切れ字」が挙げられます。しかし掲句には三つとも存在しません。だからこの句を俳句ではないという人もいますが、一般的には自由律俳句と呼ばれています。
 放哉は現在の東京大学法学部を卒業して生命保険会社に就職しますが挫折。病気の悪化、妻子と別居と続き、後は各地の寺男を転々。妻子や家庭、仕事や名誉はいうに及ばず、俳句の三大要素まで捨て去った41歳の生涯でした。世の中の規則や規範に縛られることに堪えられなかったのかもしれません。
 掲句、不思議な臨場感があります。理屈でなく詩でもない力があります。墓はあの世とこの世の境界線上にあるといわれるが、どの墓も表から見るのと裏に廻って見るのでは全く異なった感じを受けます。表側にはその人の公式面が表れていて、裏側には隠そうとしている部分が垣間見えるのかも知れません。物事の裏側にある世界が表出しているのです。人間の文化は、たくさんの時間をかけて作られた虚構の世界であるとも言えます。放哉は保険会社に勤めていたときに表側の虚構に嫌気がさしたのかもしれません。寺男として墓守をしながら、たくさんの墓に接する中で裏側の世界に気付き、すべてを捨て去ってなお残る感覚だけを本物の真実だと言いたいのではないでしょうか。人生のすべてを懸けて追求した到着点がここだったのではないでしょうか。放哉の他の句からも同様な匂いがします。
  淋しいからだから爪がのび出す
  肉がやせて来る太い骨である
  せきをしてもひとり

解釈⑥墓石の裏を見て、みんなの息災を確認する。
「咳をしても一人」は晩年に小豆島で作った句です。病気で寝ていて咳をすれば、普通は、大丈夫ですか、とか言って家族が様子を見に来ます。しかし彼は一人なので誰も声をかけてくれません。咳をしても一人。

「墓の裏へ回る」久しぶりに故郷に帰ってきた。しかし実家の人々には今さら合わせる顔もない。それでも家族の安否が気になる。そこで墓に行って、墓石の裏を見て、みんなの息災を確認する。墓の裏に回る。

解釈⑦これは何を表現したいのかさっぱり分からない。
え?終わり?という感覚になる。
「三・三・三」。
「咳をしてもひとり」は、孤独を表したかったんだなという気持ちがなんとなく分かるが、これは何を表現したいのかさっぱり分からない。

ただ事実を述べているだけではないか。これがありなら「コンビニでタバコ買う」もありになりそうだ。
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 これくらいにしておこう。いま、あげた解釈の中に、うーん、そうだな、それだな、うん、と納得できる解釈はあったでしょうか。
 では、自分の解釈はこれだという感想はいかがでしょうか。俳句の解釈にこれが正しいというものはないようで、読んだ人が作者の当人でも思いもつかない解釈をしていると驚くこともあるらしい。
 そういうものだという俳句の解釈の常識はそれとして私は、この句について自分なりに納得できる解釈にたどり着いた。そこでそれを書いてこの論考を終えたいと思う。
 
 墓のうらに廻る。
 
この句の解釈は、文字とおりの、それだけである。
放哉は、墓のうらに廻ったのである。
そこで放哉は何をしたのだろうか。既存の解釈では墓石の裏に何が書いてあるのか見たというのもある。ほかはとくにないが、墓の裏で墓掃除をしたとか草を引いたとか昼寝したとかいろんな想像ができる。しかし、墓のうらへ廻る、というのは、墓石の裏側を見るとか、墓石の後ろを歩くとか、墓地のまわりを散歩するとか、そういう行動は連想しにくい。

 ごく普通に考えれば「墓のうらに廻る」というのは、墓石の後ろに廻って立っている、というのが自然である。墓石の裏に立てば、どうなるのか。墓石の前の方を見るのではないだろうか。つまり、墓石の前方のそこらの景色を見るためにわざわざ墓のうらに廻るのである。むしろ見ようとしなくても、墓の裏にまわれば墓の前方の風景が目に入るのは自然のなりゆきである。
「墓のうらに廻る」という俳句からは、放哉が意識して墓の裏に廻ったと読み取れる。
何のため廻ったのか。それは、極々単純に考えれば墓石の裏側から見える墓の在る墓地前方の景色を見るためだろう。
そのために墓のうらに廻った、というのがこの句である。墓の裏に廻って墓の前に広がっている景色をみたい。放哉はそう考えた。それは何のためなのか?

墓石の後ろから見える景色を見るために、墓のうらに廻りました。それはまあわかった。ではなぜ、墓の前の景色を見たかったのか。その理由や説明は、この句には書かれてはいない。
廻った理由を述べる件はこの句ではばっさりと省略されている。
俳句は説明ではないからだ。そこは読み手の想像に委ねられているのである。
ただ、これだけは想像できる。放哉は生きながらにして死者の視線をもって墓裏に廻っているのだと。

なぜ放哉は墓に行って、しかも、墓の裏にまで廻ってみたのだろうか。
墓には誰が入るのか。死んだ人が骨となって墓に入っているとすれば、骨となった人が見る墓石からの景色は、墓に向かって墓の表を見ていては見ることができない。
墓の裏に廻ってみれば、墓からどんな景色が見えるのか、わかる。否、後ろに回らないと前の景色は見えないのである。

放哉のこの視線の移動は、死者となり、骨となった自分の視線を自分の足を使って追っている。
放哉はこの墓に埋められたとする仮定の自分を想像をして、俺が死んでこの墓に入れば、どんな景色が見えるのか、と気になって墓のウラに廻って見たのだろう。
放哉は自分が死んでしまった気持ち、さらにいえば、お骨になりきって墓のうらに廻ったのである。まだ生きてはいるが、死後の骨となった己の視線さえも放哉の中では二重になって動いているような印象を受ける。
墓の後ろに立った放哉はここから、大好きな海が見えるのかな、と。この墓のある場所のような海の見えるような場所に、海に向かって墓を立ててほしいなと願っていたのだろう。

 もちろん、この解釈を押し付けるつもりはない。私の妄想である。

 放哉は死んだ気分になり、墓に入ったお骨の気分になって、墓のうらにまわり、そこから見える景色を見ていたのだ。もはや結核菌に全身を侵され、痩せ細り、死の影が取り憑いている。放哉は、自分の余命はいくばくもないことを痛感する日々である。そういう放哉にとって無条件に自分を許し、抱きしめてくれる穏やかな海の変わらぬ景色だけが救いであった。
放哉は自分が死んだつもりで、死者の気分となって墓から見える前の景色を確認したかったのだ。墓の裏から放哉はどんな景色を眼にしたのであろうか。
たぶん、そこには小豆島を取り巻く青い瀬戸内海の海原が輝きながら広がっていたに違いない。
 自分が骨となってしまったらもう何も見えない。だからせめてまだ命のあるうちに、墓から見える景色を眼に焼き付けてみたかったのだろう。それはいずれ骨片となるに違いない骨となった自分へ無一物の自分がせめても贈ることのできる精一杯の心尽くしだった。


 ここまで書いて私は芭蕉の有名な俳句「古池や蛙飛び込む水の音」を思い出す。
 この句にケチをつける人は誰もいない。しかし、放哉の「墓のうらに廻る」を知った今、この芭蕉の句が途端に色褪せるのを感じざるをえない。句の下五の「水の音」は言ってみれば説明であり句の想像派生、イメージを「水の音」に限定している。また蛙が池に勢いよく飛び込んだのだから、ボチャンと大きな水の音がするのは当たり前で、この連想は通にして俗であり、月にして並である。
 むしろ、この下五により句そのものが矮小化してしまったとさえ言えるのではないかと思えてくる。
 放哉は、どうかと言えば、この句において、芭蕉の句における「水の音」を付け加えていない。そこが芭蕉の句との大きな違いである。放哉の鍛えた自由律俳句の真骨頂がそこにある。
 つまり、一つの例をあげれば、「墓のうらに廻る青い海原だ」と書くこともできた。そう想像することもできるのだが放哉はそうは書いていない。青い海原、と書けばそのイメージに限定されてしまう。私は真昼の海原を連想したが、人によっては夕陽の沈む落日の海を連想するかもしれない。瀬戸内を真っ赤に染めて水平線に沈む夕陽に西方極楽浄土を重ね合わせることもできるだろう。その夕陽は空も海もまた小島の墓石も、その裏に立っている放哉までも夕焼けの赤に染め尽くしているだろう。
 
 放哉は、芭蕉の句で言うならば「古池や蛙飛び込む」で句を止めた。つまり「墓のうらに廻る」とだけ書いてあとは省略している。そこから見えた光景は読者に預けたのである。
そう思えば、この句において放哉は芭蕉を超えた、と言えば言いすぎだろうか。

 放哉は墓という骨となった自分の終末の居場所を見据え、しかも、その裏に廻るという陰の世界に身を置いて見せた。しかし墓の裏から振り向いた放哉は次の瞬間に、人の生死を超えて青く輝く悠久の瀬戸内の大海原の大パノラマが穏やかに広がっている光景を眼にしたのである。この鮮やかな陰から陽への大転換の恍惚の瞬間をたしかに放哉は痩せて骨と皮となった全身で味わったに違いない。その歓喜を言葉に結晶させたのがこの句であろうと思う。
 「咳をしても一人」という寂寞の極地を味わった放哉は、「墓のうらに廻る」ことによって眼前の海原に身を委ねることができた。放哉にとっての阿弥陀浄土ともいうべき海に抱かれて眠る死後の自分のいる光景を実感することによって永遠の救済を得たのではないだろうかと想像するのである。
 
 死期の迫っていた尾崎放哉は、大好きな海の見えるこんなお墓に入れたらいいなと思いつついつまでも墓の裏から立ち去りがたかったのではないだろうか。

 放哉は海を見ることを好んだ。
 海は母であった。
 放哉にとって厳父の存在はどうでもよかったが、自分を慈しんでくれた母の存在は絶対であり追慕の念を片時も忘れることはなかった。そして、母なき今は、母の慈愛を海に仮託して感じるのであった。放哉は海に母の無限の慈愛を思わずにはいられなかった。小豆島という瀬戸内海の海に四方を囲まれた島はまさに放哉にとって母の懐に還ってきたように心安らぐ安住の地であった。

「自分はあのやさしい海に抱いてもらへる、と云う満足が胸の底に常にあるからであらうと思ひます。丁度、慈愛の深い母親といっしょに居る時のやうな心持ちになって居るのであります。
 私は勿論、賢者でも無く、智者でも有りませんが、只、わけなしに海が好きなのです。つまり私は、人の慈愛・・・と云うものに飢ゑ、渇して居る人間なのでありませう。處(ところ)がです、この、個人主義の、この戦闘的の世の中に於いて、どこに人の慈愛が求められませうか、中々それは出来にくい事であります。そこで、勢い之を自然に求める事になってきます。私は現在に於いても、(中略)父の尊厳を思ひ出すことはありませんが、いつでも母の慈愛を思ひ起こすものであります。母の慈愛・・・母の私に対する慈愛は、それは如何なる場合に於いても、全力的であり、盲目的であり、且(か)つ、他の何者にもまけない強い強いものでありました。善人であらうが、悪人であらうが、一切衆生の成佛を・・・その大願をたてられた佛の慈悲、即ち、それは母の慈愛であります。そして、それを海がまた持っているやうに私には考えられるのであります。」
 (尾崎放哉 俳句集「大空」 入庵雑記 海 より)
 
 死の前にして放哉は海を眺めた。墓のうらに廻って、どこまでも広がる海原を見た。それは、海でありながら、母そのものだった。放哉にとっては、もっとも心安らぐ、母の無限抱擁そのものであった。
 この頃の放哉はまるで骨と皮になり食べ物も喉を通らなくなっていた。あと、何日、命が持つかわからない。自分に残された命はあと幾ばくもないないいことを自覚する中で、やっとの思いで外に出て海を眺めた。母の懐に抱かれているような安らかな思いに満たされている放哉の姿がそこにはあった。
 実際に尾崎放哉のお墓は海の見える小豆島の明るい墓地の高台にある。
 
 合掌。



  ★関連情報に尾崎放哉のリンク★
 
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Posted at 2023/07/22 16:08:27

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