面はオモテ、心はウラ/心が表(面)に現れて来ぬように
「心」の古訓に「ウラ」があり、「面」の訓に「オモ(テ)」がある。
古人は、「心」を「ウラ」と読むことができた。そして「面」という漢字に「オモ(テ)」という訓(読み)を与えた。
「うらなふ」「うらむ」「うらやむ」というのは、みんなウラ(心)の動詞化であり、「おもふ」「おもねる」「おもむく」は、オモ(面)の動詞化である。
「おもふ」「おもねる」「おもむく」は、オモ(面)の動詞化で、みな「現れたるオモ(面)」と関わりがある。
「おもふ」はもともと、むしろ思考よりも感情についてのコトバで、表情に(感情などが)現れることをいった。「面(オモ)」が「顔つき」や「面影」を意味するように、感情なんかがオモテに、つまり表情(面)に現れることを意味した。
我々は、表情をコントロール可能なものだと思っている。
すぐ顔に出すのは、あまり賞賛されない社会に生きている。
けれども、表情はもともと意識的にはコントロールしにくいものだ。人間はそういう風にできている(そういう風に進化してきた)らしい。
ところで、ある時「おもふ」の意味に一大革命が生じた。
『万葉集』ってのは、やんごとなき連中の恋の歌がたくさん入ってるが、大体は不倫か何かで、結ばれるどころか、表沙汰になった時点でヤバい相手に恋慕してる。
そのせいかどうか分からないが、『万葉集』に出て来る「おもふ」の半分が「念(おも)」を使って表記してある。
「念」という漢字は、「今」、これは元の形からして「器の蓋」が元の意味だが、こいつで心(ウラ)を上から抑え込んでる文字だ。
つまり『万葉集』の「おもふ」の半分は、心が表(面)に現れて来ないように抑えられた「おもふ」なのだ。
『万葉集』で「おもふこころ」と言えば恋愛感情のことだし、「おもひびと」は今と同じ「恋しい相手」を指すけれど、それはそれまでの「おもふ」からすると、かなり違った意味だったのだろう。
我々がもっともよく使う「思う」の「思」は、心の上に乗っかってるのは、アタマを描いた象形の成れの果てだ。「思」は知情意の全部を含む。だからいま「おもう」と書くとすれば、「思う」としか書きようがない。
平安末期の漢和辞書『類聚名義抄』には、50の漢字に「おもふ」という訓があててある。
逆に言えば、50種類の「おもふ」が登載されている。
そこには「思う」も「念ふ」も「想ふ」も「懐ふ」も「憶ふ」もある。
そのすべてが厳密に「棲み分け」している訳ではないだろう。
しかし、常用漢字には「おもう」はただ「思う」一種類しかない。
なんということだろう。
常用漢字に従うなら、我々は「念願」し、「想像」し、「懐古」し、「追憶」することはできても、「念ふ」ことも「想ふ」ことも「懐ふ」ことも「憶ふ」こともできないことになる。
「想ふ」は、「相」(姿、イメージ)を「心」に持つこと。IMAGINEは心象を創出する意味であるが、それに近い。その創出は自由であり(少なくともかなり融通がきく)、あり得ないもの(形象)を「おもう」=目の前におもいうかべるのも「想ふ」である。未だないもの(形象)を「おもう」=目の前におもいうかべるのも「想ふ」である。
「懐ふ」は、逆に、死者、今はもうないものを「おもう」こと。かつて懐(ちか)しかった人を、懐(なつか)しく、懐(おも)ふこと。
「憶ふ」は、過去を通じて未来を「憶測」すること。「懐ふ」はひたすら過去に向かうが、「憶ふ」には現在を挟んでの未来への折り返しがある。たとえばノスタルジーは、「かつてあったもの・ことに、再び相まみえることがないだろうこと」を巡って構成される。「失われたもの」への「おもい」ではなく、「失われたものが、今後永久に失われている」についての「おもい」なのだ。我々はもはやそこに帰ることはできない《だろう》、我々はもはやその人の会うことはない《だろう》と、人は「憶ふ」のである。
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Author:くるぶし(読書猿)
平安歌人の恋歌に「心」の有り様を少し見てみよう。
しのぶれど 色に出でにけり わが恋(こひ)は
ものや思ふと 人の問ふまで
歌意
私の恋心は、誰にも知られまいと心に決め、耐え忍んできたが、とうとうこらえきれず顔に出てしまったのか。何か物思いがあるのですかと人が尋ねてくるほどに。
この歌は小倉百人一首の歌で作者は平兼盛(たいらのかねもり。?~990)で平安時代の官人、歌人。三十六歌仙の一人。光孝天皇のひ孫・篤行王の3男で、臣籍に下って平氏を名乗り従五位上・駿河守となった。後撰集の頃の代表的歌人。赤染衛門の父という説もある。
私はこの歌は女性が詠んだ女心の歌だろうと長い間思っていましたが実はこの歌の作者は男性なのです。たしかに忍ぶ恋は男の恋であり女の恋の歌とは違う。隠さねばならぬ恋をしていながらそれが隠しきれずに顔に出てしまう。
心に押し包んで隠している恋。この心というのは「裏」の自分であり、顔(色)に出てしまうという顔は「表」の自分なのである。心というものは表面には出てこないで自分の中の奥深く沈んでいるのだ。だから「心が面に出てしまう」と言った表現になる。
ここで漢字の読み方なのだが「心」は「うら」と読む。「面」は「おもて」と読むのである。「心」という言葉には「裏」と同じように「表に見えないもの」「隠されたもの」という意味を持っている。
では「心寂しい」はどう読むのでしょうか。
これまでの説明でおわかりと思いますが「こころさみしい」ではなく「うらさみしい」と読みます
裏の心が面に出てこないように耐えしのでする恋が「しのぶ恋」ということになります。辛いですが恋は病なので仕方ありません。でもそうまでしても恋しい人に出会えたことは幸せなことかもしれませんね。
男の恋歌にくらべて女性の恋の歌は行動的だ。
小野小町の恋の歌二首。
思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば さめざらましを
歌意
あの人のことを思いながら寝たら夢であの人と会った。それが夢とわかれば目を覚まさなかったのに、(悔しい)。
わびぬれば 身をうき草の 根をたえて 誘う水あらば いなむとぞ思う
<歌意>
生きるのが辛くなった。私の身は根のない浮き草なの。根なし草が水に流されるように、私を誘う人がいたら、その人に流されて都を去ろうと思う。(誰か誘ってくれないかしら)
恋多き歌人と言われた和泉式部「小倉百人一首」にある次の歌はどうだろうか。
あらざらむ この世の外の 思ひ出に
今ひとたびの 逢ふこともがな
歌意
もうすぐ私は死んでしまう。あの世へ持っていく思い出として、今生の思い出としてもう一度だけ、あなたに会いたい。
そうか、もう一度だけ会いたいんだな、と思うのは女心を知らない朴念仁の言うことだ。
この場合の「逢ふ」というのはそのものずばり「男女関係」であって「死ぬ前にもう一度抱かれたい、あの人に」という意味だ。
もはや命尽きる死の床にあってあなたどこにいるの私を抱いて、と悶え苦しむ心の内を晒して絶唱しているというひたむきさを越えた、狂おしいほどの心の内の情念歌う激白の一首である。
男の歌う気取ったしのぶ恋どころの騒ぎではない。