ときどき不意に脳内にメロディーが蘇ることがある。
何の脈絡もなく音楽が蘇る。
それはコマーシャルの一節だったり何かの流行歌のさびだったりする。
そういう状態になるとのべつくまなくそのメロディーやら歌詞やらが蘇り一日になんどとなく脳内はその手の音楽で占領されてしまう。
ときにはクラシックも登場する。比較的よく出てくるのがドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」第4楽章の冒頭である。
じゃあぁーーじゃぁあじゃぁじゃーじゃあぁじゃじゃんぅーーーーじゃあぁーじゃぁじゃぁじゃあぁじゃああぁーーーー。
あの印象的な迫力満点の大音響が響きはじめると文句なく圧倒される。
しかもひとしきり区切りがつくまでつい聴き入ってしまうので端から見ている人にはこの人は少しおかしい人ではないだろうかと思われはしないかと少し心配である。
この曲を初めて聴いたのは中学二年生のときである。
音楽の女の先生がレコードを持ってきて「新世界より」という曲を聴かせてくれたのである。
あとで「なぜこの曲をかけたのか?」と聞いてみた。
先生は「この曲を二年生にはレコードで聴かせるということになっているから聴かせた」と実につまらない答えであった。「この曲はこれこれこうで素晴らしい」とか言うかと思ったがそうではなく聴かせることになっているから聴かせた、というのであった。
なぜそんな音楽教育の方針があったのだろう。
いまふっと思い出したが小学校の音楽では「はーるかなるスワニー河 そーのぉーしもぅー(下)・・・」などとアメリカの歌を歌わされた。
何でそんなアメリカの川の歌を日本の小学生に教えたのだろうか?
文部省が学校で教えるべき名曲だとして選定したのではあろうが・・・。
どんな基準で学校で教える歌を選んでいるのであろうか。
このあたりいまもってよくわからない。
世界の歌を教えて国際人に育てようという意図でもあったのだろうか?
学校ではそんなアメリカの歌も習ったのではあるが、家では春日八郎が調子よく歌う「お富さん」なんかを歌っていた。どこでもいつでも浮かれたように「お富さん」流行りだった。
「粋な黒塀見越しの松に仇な姿の洗い髪・・・・死んだはずだぜお富さん生きていたとはお釈迦様でも・・・・えぇさおううぅ玄冶店(げんやだな)ぁーー」
などとラジオに合わせて意味もわからず歌っていた。
この「お富さん」は日本中に大ヒットしていたのである。
調べてみるとこの歌は昭和29年8月にキングレコードから発売されている。
ということは私が8歳の時だ。まだ小学校の低学年だがそんな子供だったがこの歌を覚えているほど大ヒットした歌だったのだ。
とはいえ、まだ小学生の子供のことであり歌の意味はよくわからなかったが「玄冶店」(げんやだな)を「げん夜だな」と思い込んでいた。なにか「げん夜」という夜があるのだろうと思っていたのだ。「玄冶店」というのは日本橋あたりの屋敷や路地の総称だとわかったのはずいぶん後のことであった。
切られ与三郎とお富さんの噺は歌舞伎にもなりよく知られていた。それを歌謡曲にしたところ春日八郎の美声とともにあっという間に広まったのである。いまでは到底考えられないがチャンバラや時代劇はいまでこそ廃れた感があるものの当時は時代劇が娯楽の王道だったのである。

★市川雷蔵の与三郎、 淡路恵子のお富で映画化。大映映画。
富士真奈美や中村玉緒も出演している。「大映スコープ 総天然色」と右上に書いてある。
切られ与三郎といえば、歌舞伎でも与三郎・お富の流転の人生を描いた世話物『与話情浮名横櫛』として演じられ人気を博した。
映画でも「お富さん」がヒットした5年後の昭和35年、与三郎を市川雷蔵、お富を淡路恵子の両主演で上映されている。
江戸の大店の養子・色男の与三郎は身を持ち崩し木更津の藍染め屋に預けられているのだがそこでお富と出会う。まずいことにお富は地元の網元でヤクザの親分・赤間源左衛門の愛妾であった。この与三郎とお富は互いに一目惚れでいい仲に。だが二人のの濡れ事は赤間親分の知るところとなり親分は激怒。「やっちまえ!」と与三郎は子分どもに膾に切り刻まれ簀巻きにされて木更津の海へドブンと放り込まれてしまう。これで一巻の終わりと思いきや、漁師に助けられて一命を取り留めた与三郎、江戸へ出て全身の切り傷を売り物に悪名をはせる。一方お富も情事がばれて子分どもに追いかけられ逃げきれずもはやこれまでと海にザンブと飛び込んだ。それきりお富も死んだと思われていた。
ある日、与三郎はならず者の蝙蝠安とつるんで玄冶店にある質屋へ強請に入るがそこで与三郎は片時も忘れたことのない恋しいお富とばったり再会、なんとお富も一命をとりとめこの質屋の主の妾におさまっていた。この劇的な再会の場面が春日八郎の歌う「お富さん」の歌詞となっている。
この玄冶店で再会する場面が歌舞伎でも見せ場のひとつ。
三幕目、源氏店妾宅の場より与三郎の名科白がこれだ。
与三郎:え、御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、 いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ。
お 富:そういうお前は。
与三郎:与三郎だ。
お 富:えぇっ。
与三郎:お主(のし)ゃぁ、おれを見忘れたか。
お 富:えええ。
与三郎:しがねぇ恋の情けが仇(あだ) 命の綱の切れたのをどう取り留めてか
木更津からめぐる月日も三年(みとせ)越し江戸の親にやぁ勘当うけ拠所(よんどころ)なく鎌倉の谷七郷(やつしちごう)は喰い詰めても
面(つら)に受けたる看板の疵(きず)が勿怪(もっけ)の幸いに切られ与三と異名を取り押借(おしが)り強請(ゆす)りも習おうより慣れた時代(じでえ)の源氏店(げんじだな)
その白化(しらば)けか黒塀(くろべえ)に格子造りの囲いもの
死んだと思ったお富たぁお釈迦さまでも気がつくめぇ
よくまぁお主(のし)ゃぁ 達者でいたなぁ
安やいこれじゃぁ一分(いちぶ)じゃぁ帰(けぇ)られめぇじゃねぇか
映画「切られ与三郎」。与三郎とお富、玄冶店再会の場面。蝙蝠安が強請るがあとで与三郎が登場。
と・・・・歌舞伎芝居は展開するのであるがこれが実話を元にした噺であるというから驚きだ。与三郎は実は大網の紺屋職人であり、掘畑の網元である親分の妾といい仲になり切り刻まれて簀巻きにされて海へ叩き込まれ一命を取り留めるまではほぼ実話だという。その後、この与三郎の本物は改心し江戸へ出て長唄の名跡芳村伊三郎を継いで4代目となり名を上げたというからこれまた驚きである。芝居では切られ与三郎は悪党だが、実際の人物は悪党とは大違いで、まじめに稽古を重ねて長唄界の頂点を極めている。
ちなみに与三郎・お富は芝居で作られた名前であり与三郎の本名は大網白里町清名幸谷の藍染屋の次男・中村大吉という。長唄がうまく大網と東金の中ほどにある堀畑の茶屋へ長唄を唄うために足繁く通っているうちにお富とねんごろになる。お富の本名は「おきち」といい茂原の出である。おそらくは掘畑に棲む網元でヤクザの親分・山本源太左衛門に身売りされた妾の身であったと思われる。よくあるパターンとはいえ、若い二人の仲は悲劇に終わり、そこから波瀾万丈の切られ与三郎の憂き世渡世が始まるのである。
やはり当時江戸一流の芝居戯作者の手になると名前からして大吉・おきち、が与三郎・お富、と仇っぽい美男美女に変身してしまうからさすがである。映画、市川雷蔵の与三郎はさぞかしニヒルな凄みがあったであろう。いまだに見る機会がないがいつかは観たいものである。
さらにもうひとつこまかいことだが、この歌舞伎でもお富さんの歌詞でも「玄冶店」は「源氏店」となっている。これは、江戸時代は歌舞伎の狂言芝居において、江戸市中の実在の地名を舞台に乗せてはいけないという決まりがあったからである。
江戸時代は歌舞伎が大人気であり幕府もその江戸市中、江戸庶民への甚大な影響力を知悉していた。芝居で取り上げられると世間では心中が流行ったり、近松模様が流行ったり、庶民の悪風や着物柄の流行にいたるまで狂言芝居によって現実の民心が右往左往掻き乱されていくのである。
こういう歌舞伎芝居の興行は江戸幕府にとっては実にやっかいな存在であったに違いない。
いまでこそ歌舞伎のイメージはいいが江戸時代は遊郭とならぶ「二大悪所」と言われ風紀紊乱の源であるとお上に目をつけられ常に取り締まりの対象となっていた。したがって歌舞伎芝居はあくまで絵空事であるという建前を崩してはまかりならん、というお達しがあったのであろう。したがって芝居での源氏店は架空を装ったもので実在の玄冶店の謂であることは誰もがわかって芝居を見物していたものである。
★「美しき天然」
さて話を元に戻してレコードで聴かされたドヴォルザーク「新世界より」は曲は記憶に残らなかったがそのときの先生との会話はいまだに記憶している。
若いまだ独身の先生であり家もそう遠くないので知っていた。高校に入り通学路の関係でその先生の家の前を通ることがあったが、ときどき先生が自宅でピアノを弾いていることがあった。
一度高校の帰りに先生が自宅の前に出て来ていた。
挨拶すると、「●●君、これ見て」とまだ目も開かず毛も生えてないぐにゃっとした鳥のひなを見せてくれた。
なんでも雀の子なのだが巣から落ちて鳴いていたから拾ったのだそうだ。
「その辺の電柱の上に巣があると思うのでこの鳥を返しておいて」
とごみょごみょ動く黄色い嘴の雀の赤ん坊を渡されたことがある。
「じゃね」と先生は家へ戻っていったのだがそもそも雀の巣なんかどうして見つければいいのか?
しばらく電柱を見上げて巣を探してみた。どこに巣があるのかさっぱりわからない。
その後の記憶はないがあの雀はどうしたのだろうか?思い出そうとしてもその先は思い出せない。
またこの先生ではないのだが、やはりそのあたりを歩いていると家の中からおばさんに引きつった声で呼び止められたことがある。おばさんは窓を明けて身を乗り出していた。
「なんですか?」
「いま家の中に蛇がいたんだけど逃げ出してそこらにいるかもしれないので捕まえて」
という。蛇が逃げた?そこで家の前の花壇とか草むらを棒でつついたりして捜索したのだが蛇は見つからない。
「見つけてよ。その辺にいるから。また入ってくると嫌だから・・・」とおばさんは言うのだがいくら探してもいない。家の横のほうにも回ってみたが蛇の姿はなかった。
「もうどこか逃げてしまったんじゃないか・・・・」ということで捜索中止を許して貰ったことがある。
いま思えばなんでそういう面倒なことを見ず知らずの通りがかりの人に頼むのかほんとうに意味がわからない。けっこう身勝手な人が多いものである。
★「ちんどん屋」。大編成で演奏する「美しき天然」(天然の美)。
話が迷走しているが書こうとしたのは突如として脳内に浮かぶ音楽の話である。
サーカスの「ジンタ」もよく蘇る。
「ジンタ」という名前はジンタッタ、ジンタッタというワルツのリズム擬音から来たものだそうだ。
したがって「ジンタ」は三拍子のワルツ曲が多かった。
サーカスは子供の頃には数少ない娯楽の一つであった。
木下サーカス、矢野サーカスが来ると学校で揃って見物に行った。
サーカスの楽団が演奏する呼び込みの「ジンタ」に、誰もが心を踊らせたものだった。
あのジンタの音がいまでも記憶に残っている。
なぜか子供のころ悪さをして母親に怒られると「サーカス団に売るぞ」と言われたものだ。
子供の身売りなんかも実際にあったのだろうか?
なかでも「美しき天然」という曲がサーカスのジンタで有名だ。
子供のころから耳に馴染んだ「美しき天然」。
もともとこの曲はサーカスの曲として作られたものではない。
長崎県佐世保の九十九島などの光景を曲に描いた名曲である。
調べてみると明治時代に佐世保の海軍軍楽隊長・田中穂積氏が、作曲している。
「佐世保女学校」という当時のエリートだった女子教育の女学生のためにつくられた曲だという。
しかも日本で最初に作られたワルツ曲らしい。
たーラリララ・・・た~リラー・・・・たリラリーララー・・・・。ジンタッタ、ジンタッタ・・・・。
なんとなく哀愁に満ちたメロディーが何度聞いてもすばらしい。
「美しき天然」はサーカスだけでなく「ちんどん屋」の曲としても大ヒットした。
世間には楽しく明るい歌だけが受けるのではない。
日本人の心にはそこはかとなく侘びしさのある歌が好まれ傾向がある。
この「美しき天然」のメロディに漂う哀感がこの歌が巷の超ロングセラーズとなっている要因なのかもしれない。もともと長崎県佐世保の女学校の愛唱歌だったものがいまや全国区で堂々の日本の名曲の地位を不動のものにしているのである。
↑の、動画は、二胡がややたよりなさげにテキトーに旋律を弾いているように見えるが曲自体のよさに支えられ哀愁に満ちてどことなく放蕩的ないい味を出している。それにもまして、男性の鐘と太鼓の技が抜群にうまい。よく二胡を盛り立てて二胡をリードしている。やはり合いの手というのはとても大事なのである。
主旋律、メロディが車なら合いの手は車を走らせる道路なのである。
ドン、チチチン、ドンドン、チチチチ、ドンチチチン・・・・この切れの良い合いの手が二胡の旋律を巧みに乗せて二胡を励ましながら誘いながら先へ先へと運んでいく。
やはり「美しき天然」しみじみといい歌だと思う。
サーカスもちんどん屋もやや廃れたかもしれないが「美しき天然」の名曲は少しも色褪せてはいない。
日本人の心の琴線に触れる曲だと思う。
「お富さん」を大人から子供まで歌いまくった時代はもう二度とは戻らないだろう。
まさに戦争に負けて日本は絶命寸前、切られ与三郎のように満身創痍の時代であった。
そこから不撓不屈の精神で蘇った日本の姿はまさに切られ与三郎の流転人生、そのものであった。
「お富さん」の空前のヒットはそうした時代背景とは無縁ではないはずだ。
それはともかく、「美しき天然」はいまの小学校や中学校でもぜひ教えてほしい。
子供たちにも歌い継いでいって欲しい「日本の歌」である。
★おまけ★
●関連情報URL●
二木紘三のうた物語「お富さん」。