秋の味覚は桃、ぶどう、梨、柿、りんご・・・・・果物の美味しい季節だ。
そこで先日奈良県吉野郡の梨どころ大淀町の「大阿太高原」の梨農家へ梨を買いにいった。
秋になると奈良県近隣の人びとは大阿太高原に梨を買いに来る。
ここではあらゆる品種の梨が多くの農家で生産されており梨狩りもできる。
とくに二十世紀梨は最高品質でほんとうに美味しい。大阿太高原の栽培農家へ行けば多少の変形や皮があまり綺麗でない二級品を安く売っているので大変にお買い得だ。また地方発送もできるのでお遣い物にも最適である。なかには大きなぶどうを生産している農家もあって大阿太高原の梨農園めぐりは秋のドライブコースとしても絶好である。
日当たりの良い大阿太高原全体が梨栽培農園となっている。高原の一部には看護学校とかゴルフ場もある。
広大な高原で晴れていれば大台ケ原から大峰山など奈良県南部の山々が展望できる。
その数日後大淀町図書館に行ったところ「大阿太高原」の梨農家組合の本があり大阿太高原の二十世紀梨栽培の歴史が詳しく書いてあった。思わずメモを取りつつこの非売品の本を精読した。
そこで簡単に二十世紀梨の歴史を書いてみようと思う。

大阿太高原の梨ロード。

二十世紀梨の栽培状況。

ひろびろとした大阿太高原の光景。

地元 大淀町出身の作家「花岡大学」の記念碑。梨畑の中にある。
まず二十世紀梨は誰が最初の原木を開発、発明したのか?
結論から言えば場所は現在の千葉県松戸市(当時は大橋村、後に八柱村)で新芽をつけた梨の苗木が発見されたことがすべての始まりである。この苗木を見つけたのは当時13歳高等小学校二年の松戸覚之助(まつど かくのすけ、1875年5月24日 - 1934年6月21日)という少年であった。
明治21年(1888年)松戸覚之助はたまたま分家の石井佐平宅へ行ってこの家のゴミ捨て場に梨の苗木が生えているのを偶然に見つけた。
「この木はどこかふつうの梨の木とは違うなあ」
そう直感したのである。なぜそんなことを松戸覚之助が思ったのか。松戸という土地は江戸時代から梨の栽培が地場の産物であり梨の栽培に適した土地柄であった。
それに加えて松戸覚之助の家ではちょうど二年前から梨栽培を手がけはじめた。
一家、一族の未来を梨農園に託していこうとする大きな目標をいだき、これからさらに農園を大きくしていこうと熱心に梨栽培に取り組んでいた。そうした父の熱意や経営努力が自然と一家全員の気持ちになっていた。子供ではあっても松戸覚之助少年も父の姿を見ているうちに自然と梨や梨栽培にも興味を持っていたのである。
石井家の人にこの苗木の話をすると「さあいつからそんなところに梨の木がどうして生えたんかな。でも欲しかったらあげから持って帰りなよ。芽も出ているしうまく育てたらおいしい梨がなるかもしれんぞ」
そこで家に帰ると父親に「石井佐平の家で変わった梨の苗木を見た」と父親に告げた。
父親は息子の話を聞いて「それならば苗木を貰ってこい、家の農園に植えてやろう」と言ってくれた。
「じゃあ行ってくるよ」
「晩飯喰ってからにしろ」
「うん、でもすぐ戻ってくるから」
松戸覚之助少年は晩飯も喰わずに家を飛び出していった。
こうして当時の千葉県八柱村大字大橋字北大塚の松戸覚之助の父の農園にその苗木が移植されたのであった。
梨の苗木はなかなか大きくならなかった。
後で判明するが二十世紀梨の木は黒斑病に弱くなかなか健康に大きく育てるのは至難の技なのである。だが松戸覚之助は父の手助けを得ながらこの新種の苗木に心血を注いで育てていった。
自力で消毒液の成分や回数を工夫をするなど大敵の黒斑病を克服していった。
だがこの苗木が丹精込めて手入れをしてくれる松戸覚之助少年の期待に応えてくれる日がついにやってきた。ちょうど十年目の明治31年9月、初めて結実し梨の実をつけたのである。
「やった!」
しかもこの梨はほかの赤梨と違い果実は透き通るような薄緑色に輝いていた。
間違いなくこれまで見たこともない梨であった。さっそくもいで食べてみると果汁が多く酸味と甘味がほどよく充満しておりおいしいことこの上ない果実であった。
「こりゃあ魂消た」
父親はじめ家族、近所中の大評判となった。
評判が評判を呼び「松戸で新しい梨ができた。とてもうまいらしい」という情報が種苗商・東京興農園主の渡瀬寅次郎(農学士)の耳にも届いた。渡瀬はさっそく松戸へ出向いて松戸覚之助と面会しこの新品種の苗木や穂木をわけてもらい自分の興農園で栽培を始めた。
この渡瀬寅次郎こそが「二十世紀梨」という名前の命名者なのである。
渡瀬寅次郎は東京の生まれで北海道の幌農学校の第1期生である。同農学校教頭のW・S・クラーク博士の薫陶を受けている。キリスト教の牧師や教育者として活躍したのち家業の「東京興農園」を継ぐ。
そこで渡瀬は松戸覚之助の二十世紀梨に出会うのである。
当初、松戸覚之助は白い梨に「太白」という品種があったことから自分の育てた新品種の梨に「新太白」と名づけていた。
だが広瀬寅次郎は東京帝大農科大学助教授の池田伴親農学博士に相談の上、この新梨を「二十世紀梨」と命名することした。その理由は「この先、右に出るような品種もなく、20世紀時代を背負って立つに違いない」との思いから明治37年に「二十世紀梨」と命名したのである。
この二十世紀梨の命名は明治37年(西暦1904年)、ちょうど日露戦争が勃発した年でもあった。
またこの年に鳥取に二十世紀梨の木がもたらされている。
導入したのは鳥取の果樹園芸家の北脇永治である。北脇は千葉で購入した二十世紀梨の苗木を鳥取市の桂見、湖山地区に最初に植樹して栽培を開始した。
「二十世紀梨は松戸覚之助(千葉県松戸市)に発見され、「新世紀の王者になるだろう」という願いを込めて名づけられました。
その後、明治37(1904)年に北脇永治によって10本の苗木が鳥取県に導入されます。持ち帰った苗木をもとに鳥取県内の各地に広がり、全国に名をはせる二十世紀梨の産地に成長していきました。
北脇永治が鳥取へ持ち帰った苗木、つまり現在栽培されている二十世紀梨の祖先に当たる親木は、平成11(1999)年に開園した「とっとり出合いの森」(鳥取市桂見)でいまも元気に実をつけています。
鳥取県東伯郡湯梨浜町には、北脇永治から穂木を譲り受けて接木した「百年樹」が健在です。 」
「梨 鳥取県といえば梨。梨といえば鳥取県。
特に二十世紀梨は、明治37年(1904年)に千葉県から導入されて以来、100年以上の栽培される歴史がある代表品種となっています。
国内は関西方面を中心に出荷販売され、また約4%は台湾、香港、アメリカなど海外に輸出されています。
透きとおるような淡い黄緑色の肌、口に含めばさわやかな甘さの果汁がほとばしる。
その味覚の秘密は梨つくりの達人たちの丹精込めた栽培管理にあります。」
「鳥取の梨は二十世紀梨のほかに多くの新品種があります。
•二十世紀梨: 8月下旬から9月下旬
•秋栄(あきばえ): 8月中旬~下旬
•なつひめ: 8月下旬~9月上旬
•新甘泉(しんかんせん): 8月下旬~9月上旬
•王秋(おうしゅう): 10月下旬~11月下旬」
http://www.pref.tottori.lg.jp/178199.htm
「食のみやこ鳥取県」
一方奈良県の大阿太高原で最初に二十世紀梨栽培に成功した薬水園にもおそらくはこの年あるいはその数年前には松戸覚之助の栽培した二十世紀梨の苗木か穂木が持ち込まれているはずである。大阿太高原の二十世紀梨栽培は札幌農学校を卒業した大阪の奥徳平氏により始められた。その農園を「薬水園」といい明治35年には開園している。ただ奥徳平氏は松戸覚之助の育てた新梨が「二十世紀梨」と命名して発売されはじめた明治37年の翌年に薬水園は二十世紀梨ではなく「凱旋」(かちどき)という名称で売り出した。さらに明治43年には「凱旋」を商標登録し全国的に苗木の予約分譲を開始した。そこで問題が起きた。
二十世紀梨や凱旋梨が出まわると梨を買った人や梨栽培農家から「薬水園では「凱旋」という名前で梨を出しているがこれは二十世紀梨と同じものではないかという」クレームが起きてきた。
奥徳平は独自開発を主張し裁判まで起こしているが結局は同じ品種であり二十世紀梨であるという
判決が出ている。そのあたりについて「大阿太高原」梨組合の本では次のような説明がある。
「明治43年に奥徳平は「凱歌」の名を商標登録し、苗木の予約分譲を始め、分譲者以外にその名称の使用を禁じたのである。これを維持するため、薬水園では凱歌ナシの穂木が外部に出ることを警戒して、せん定した若枝は焼却し、農園の周囲には厳重な有刺鉄線を張りめぐらした。さらに接木の時期になると猛犬を放ち、とくに雨の強い日など実弾をこめた鉄砲を持って見まわり、穂木どろぼうを警戒したといわれている。このように苗木はすべて薬水園で養成して予約販売とし、正式に分譲されたもののみが「凱歌」の名称使用を許されていた。薬水園は、このような苗木の販売方法をとり、さらに梨の販売においては「日本紳士録」から、名士たちに直接梨を送り宣伝した。これにより凱歌梨の名は一躍有名になっていった。
凱歌梨が一般に出まわるようになると「なんだこれは二十世紀梨と同じではないか」との声があがってきた。それに対して奥徳平は「この品種は自分が苦心して作り出した新品種である。なのに二十世紀の苗木(穂木)を盗んだようにいわれることは心外である。むしろこの系統では二十世紀よりも先でこちらが本家である」と、二十世紀梨と凱歌梨の本家争いをめぐる訴訟を起こした。凱歌梨は二十世紀梨とは果形が異なり、とくに貯蔵輸送に耐えるものと称して異品種であることを訴えた。しかし、梨育種研究家の菊池秋雄は黒斑病に対する抵抗力が極端に弱いこと、花柱の基部に毛茸があることなどの特殊な形質が全部一致する点から推定して、凱歌梨と二十世紀梨はまったく同品種であると断定した。また、千葉高等園芸学校の三木泰治は「奥徳平の梨は自分が斡旋したものでよく知っている。千葉から二十世紀梨の穂木を取り寄せて接木しており、奈良でできたものではない。」と明言している。これにより凱歌梨は、千葉県にある二十世紀梨の原木からその系統を引いたものであり、二十世紀梨とは同一品種であると判決されたことが裁判の決着となった。」
さて話は当初の「新太白」あらため壮大なスケールの「二十世紀梨」と命名された千葉、東京へ戻る。
「興農園」では広く日本の農業啓蒙のために「興農雑誌」を出版し広く農業人に愛読されていた。明治38年(1905年)5月広瀬寅次郎はこの雑誌に「驚くべき優等新梨(新大白)の紹介」という記事を掲載した。
その記事では「其味の優等甘味にして漿液最も多く恰(あたか)も甘き西洋梨の如く且つ少しも口中は渣滓を止めず実に完全の梨果と称するを得べし…」と松戸覚之助の生み出した新梨を激賞している。
この渡瀬寅次郎の東京興農園の興農雑誌に二十世紀梨の優秀なことが掲載発表されたことも相まって二十世紀梨の名声は全国津々浦々につたわり二十世紀梨は一大ブームを巻き起こしていく。
このように二十世紀梨は日露戦争後の好景気とともに、全国各地で栽培面積を増やしていった。
梨の生産量日本一はどの県なのだろうか?二十世紀王国の鳥取県なのか?!
和梨全国合計
収穫量290,900 t 幸水 98,300 t 豊水87,300 t 二十世紀39,000 t 新高32,300 t
千葉県
収穫量34,900 t 12% 幸水14,500 t15% 豊水 12,300 t 14% 二十世紀217 t 1% 新高6,000 t 19%
茨城県
収穫量29,200 t 10% 幸水12,600 t 13% 豊水12,600 t 14% 二十世紀15 t 0% 新高3,000 t 9%
鳥取県
収穫量23,400 t 8% 幸水778 t 1% 豊水1,480 t 2% 二十世紀18,400 t 47% 新高360 t 1%
福島県
22,300 t 8% 9,000 t 9% 8,390 t 10% 2,620 t 7% 1,220 t 4%
長野県
19,400 t 7% 5,410 t 6% 4,500 t 5% 4,970 t 13% 201 t 1%
栃木県
19,200 t 7% 7,270 t 7% 8,710 t 10% 2 t 0% 1,380 t 4%
新潟県
15,500 t 5% 3,370 t 3% 2,480 t 3% 2,290 t 6% 3,130 t 10%
埼玉県
11,900 t 4% 6,600 t 7% 3,620 t 4% 2 t 0% 1,180 t 4%
熊本県
11,200 t 4% 2,600 t 3% 3,380 t 4% 227 t 1% 3,840 t 12%
福岡県
10,300 t 4% 4,970 t 5% 3,570 t 4% 303 t 1% 818 t 3%
((Wikipediaより抜粋)
梨生産量の第一位はやはり千葉県。
これをみれば、やはり和梨の総合計生産量は千葉県が圧倒的に多く第一位である。
ただ生産品種は幸水、豊水の赤梨系が主力で二十世紀はその発祥地であるにもかかわらず1%という状況だ。生産量第二位は茨城県だ。今週の大雨、大洪水で梨生産農家も大打撃を被ったと思われ心配である。茨城県も赤梨主体で二十世紀はなんと0%で統計にカウントできないほど少ない。自家消費程度の生産量なのかもしれない。
第三位は鳥取県で往年の梨王国に陰りが見えている。
やはり高齢化による生産農家の廃業が大きく響いているようだ。
ただし二十世紀梨の生産量はダントツの全国シェア47%を誇る。すべての品種において日本全国の約5割を占めるのは鳥取県の二十世紀だけである。
以下、和梨生産量ランキングは福島県、長野県、栃木県、新潟県、埼玉県・・・・・と続くのだがわが奈良県はなぜかランキングベスト10に入っていない。やや寂しいものがある。
奈良県の梨があれなら柿で勝負して見るか。
そこで梨の敵を柿で討つ、ではないのだが。だったら旧西吉野村の五条を中心とした柿の生産量は全国一位じゃないのだろうか?なんといっても柿は奈良県の名物である。「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」なんてまさに柿と奈良は最高の組み合わせじゃないか!
ということでじゃーん!奈良県は柿の生産量で全国ぅううううううううう、うっつ、第だあいいぃいいいいいいっつ、一位だと思ったら・・・・おっとととっとおおおおおおお・・・・・・二位。ありゃま、何たるチア・・・・・一位は隣の和歌山県なのだというとほほな結果なのだ。
和歌山ねえ、あそこには有田みかんがあるじゃないか。みかんだけじゃあ満足できないの?それに梅だって有名で南高梅なんか日本ブランドでしょう。みかんに梅さらに柿とは欲張りじゃない?ひとつくらいはそのぉ・・・・・・奈良県にねえ、隣県のよしみで、というわけにもいかないんだろうね。
そこで改めて奈良県の農産物について奈良県県庁の公式HPを見てみることにした。
Q1:奈良県の耕地(田や畑)の面積はどのくらい?
A1:奈良県の総土地面積369,100haのうち6.3%にあたる23,200haが耕地として利用されています。耕地面積は全国で44番目、耕地率は42番目です。奈良県は林野率が77%と全国で5番目に高く、県土に占める森林の割合が高い県です。山間部が多く農業に適した平坦な土地が少ないことが耕地率を低くしている要因の一つです。
Q2:全国からみて生産量の多い農産物は?
A2:ベストテン入りしているのは、小ギクの出荷量が33,400千本で沖縄についで第2位、柿の収穫量が28,300tで和歌山県についで第2位、ウメが2,870tで和歌山県、群馬県についで第3位、荒茶生産量が2,850tで第6位です。その他、イチゴが4,200tで第12位、輪ギクが13,400千本で第13位、ナスが7,940tで第17位、ホウレンソウが4,830tで第21位などとなっています。
耕地率は低いですが、山の傾斜をうまく利用して、五條・吉野地域では柿やウメなどの果樹が、奈良市東部(旧月ヶ瀬村、都祁村を含む)や山添村ではお茶の栽培が盛んにおこなわれています。また、県西部金剛生駒山麓の平群町では小ギクが、葛城市(旧新庄町、當麻町)では輪ギクの生産が盛んです。奈良盆地の平坦部ではイチゴ、ナス、トマトなどの施設園芸がおこなわれています。
Q3:奈良県内で作付面積の大きい作物は?
A3:水稲が9,850haで第1位、第2位は柿で1,870ha、第3位茶800ha、第4位ウメ394ha、第5位ホウレンソウ365haです。
http://www.pref.nara.jp/20320.htm
「 奈良県農業なんでもランキング 」2007年。
やっぱりな。奈良県は県の南部はほとんどが山また山で平地は極々わずかだ。
したがって県の半分ほどの平地で勝負しているんだからまあ最初からハンディがあるわな。ほんと平地だらけの県のみなさん、お幸せですね。でも山が多すぎるのは奈良県のせいではありません。それが自然の成り行きなのですね。地形に文句言ってもしかたないし、なぜ奈良県には海がないのだといってもしょうがないでしょう。そうなっているんだから。ま、諦めないとね。諦めにも前向きの諦めもあるのであってそれを「価値ある諦め」といいますね。こうだったら、ああだったらとないものねだり、未練を残していても何もはじまらない。「見切り千両」という。すなわち、未練を残さず割り切ることで前へ進んでいく。それが価値ある諦め、なのである。
梨の花を「県花」にしているのはドコの県でしょうか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B7
(Wikipedia 「梨」)
県の花
鳥取県 梨の花
千葉県 菜の花
茨城県 バラ
栃木県 やしおつつじ
福島県 ネモトシャクナゲ
長野県 りんどう
これを見ればいかに鳥取県が梨を愛し、梨を崇め、梨を大事にしているかがわかるでしょう。全国唯一でしょうね、「ナシの花」を県花にしているのは。鳥取県は空襲で枯れ死した千葉県の二十世紀原木をご神木にして二十世紀梨に感謝する「木乃実神社」という神社まで創設している。
「○木の実神社
昭和16(1941)年には、当時の鳥取県農事試験場津ノ井試験地内に千葉県松戸市から譲り受けた二十世紀梨の原木を御神体に祀って木之実神社が建立されました。
昭和48(1973)年に現在のJA鳥取いなば敷地内に遷宮され、静かに梨栽培の発展を見守っています。」(食のみやこ鳥取)
二十世紀梨は鳥取県の特産物と言っていいほどの実績があるにもかかわらず、鳥取県民はいまだに深く千葉県原産の二十世紀梨木の歴史と恵みに敬意と感謝を捧げているのである。千葉県は梨だけでなくあまりにも豊富な農産物が多いし赤梨が全国トップクラスの生産なので二十世紀梨にかまけていられないのかもしれない。だが鳥取県にとっては二十世紀梨がなくなれば売りものは砂丘だけになってしますので事は深刻だ。まさに鳥取にしてみれば千葉とくに松戸覚之助さまさまなのである。
鳥取県の幻のラッキョウチョコレートとは。
鳥取県の地元の人に言わせれば「まあ鳥取は砂丘と梨、ほかは何もない。あ、あとは豆腐ちくわと砂丘らっきょもあるか」というくらいのものだ。以前、なんとか地元の名物をつくろうとらっきょチョコレートを開発した人がいたらしいがあまりの不評ですぐにつくるのをやめたそうだ。
そこで実際に食べたという人は少なく幻のとっとり伝説になっている。一番の問題はらっきょにチョコレートをコーティングしたものなのか、あるいは板チョコに細かく刻んだらっきょを混ぜ込んだものなのか、などとどんなチョコレートだったのか議論が別れて結論がでていないということなのだ。
閑話休題(あだしごとはさておきまして)。
さらに平成13年には「鳥取二十世紀記念館」が倉吉市に開館した。そのとき二十世紀梨の発見者である千葉県松戸市の故松戸覚之助氏に感謝する碑を建立し除幕式を行なっている。たしか松戸覚之助の縁故者の方にも表彰状を贈呈しているはずです。
鳥取県にとっては千葉県は二十世紀梨をもたらしてくれた恩人県なのである。鳥取県だけでなく日本全国の二十世紀梨栽培農家にとって松戸覚之助はたいへんな大恩人だということを記憶しておきたいものである。
黒斑病とパラフィン紙の梨かけ袋の発明。
最後に二十世紀梨の大敵である黒斑病を克服する上で重大な役割を果たしているパラフィン紙のナシかけ袋の開発秘話について書いておきたい。
二十世紀梨の最大の問題点は「黒斑病」という二十世紀梨の木に特有の病害をいかに克服するかという大問題である。二十世紀梨栽培の歴史は、この黒斑病との戦いの歴史であるといってよい。
もちろん消毒も大事なのだが一個一個の梨の実に袋掛けをする手間ひまのかかる作業が黒斑病対策で欠かせないのである。いまでも梨農園にいくと梨の実には袋がかかっている。それも一回ではなく農家によっては三回も袋掛けを行なって足でいる農園もある。黒斑病や害虫からの被害を防ぎ同時に梨の地肌をきれいにする上で袋掛けは必須作業である。
この袋掛けの材質だが最初は新聞紙で袋を作ってかけていた。
ところが新聞紙の大きな見出しが日光を浴びて梨の地肌に写る現象が起きてきた。
たとえば「殺人」とか「地震」とか「被害」とか白く字の抜けた二十世紀梨ができると売り物にはならない。
そういう文字でなくても意味不明の字が抜けた梨などそれこそ台無しである。
何かもっといい袋の材質はないものか?
この試行錯誤の中で大正4年奈良県の大阿太高原の薬水園で奥徳平がいわゆる蝋紙をヒントにしてパラフィン紙のなしかけ袋を考案し実用化に成功した。
私は子供の頃に鳥取市内でナシ袋のパラフィン紙を見たことがある。どこかの家に行ったときミシンでパラフィン紙をガチャガチャと縫っていた。なんだろうかと思っていたがあれが梨のパラフィン袋だった。
当時のミシンはジューキミシンなど足で前後に踏むミシンで自動ミシンではなかった。
このパラフィン紙のナシかけ袋は鳥取に伝わり実用化されるのは大正14年である。
奈良の大阿太高原の薬水園で使用され始めてからなんと10年後のことだ。奈良から鳥取へ伝わるのになぜそんなに時間がかかったのか?
そこには同じ梨生産地同士の徹底した秘密主義があったのではないかと想像される。
次の論文は鳥取の農家がいかに二十世紀梨の黒斑病を克服してきたかという内容だがこのなかにパラフィンのナシかけ袋をめぐる奈良と鳥取の確執を説明した興味深い話がある。
「産官学提携による地域イノベーションの創出 鳥取県における二十世紀梨の導入・定着・普及
研究員 行 本 勢 基」
第三節:黒斑病の克服と販売拠点・ルートの確立(1919―1927)
前節では、二十世紀梨が鳥取県へ導入されて、県内各地に組合や果樹協会が設立された様子を考察した。栽培農家の大幅な増加には必ずしも至ってないが、導入前に引き続いて県と教育機関による支援があった。しかし、民間レベルでの活発な活動を停滞させる大きな問題がこの頃に起きている。それは、梨にカビの一種が生えてしまう黒斑病であった。
全国的な蔓延からは少し遅れたが、大正8年(1919年)には、鳥取県下約30%の被害が出ており、大正11年(1922)には全県的に蔓延するようになった。この時、北脇永治は県や国に猛烈な働きかけを行い、卜蔵梅之亟(ぼくらうめのじょう)博士を招いて黒斑病対策をたてたり、藤巻雪生を招いて復興資金を仰いだりしていた。まさに、二十世紀梨の危機に直面して、鳥取県の先駆者自らが立ち上がったのである。 卜蔵梅之亟博士は島根県出身で、農商務省農事試験場で農作物の病害研究と病害虫予防行政に携わっていた。大正6年(1917年)、「梨黒斑病」を命名して、病原菌がアルターナリア属の菌であることを発見した。パラフィン紙による袋かけ技術を考案して、奈良県の薬水園に試行を勧めて成功を収めている。大正15年(1926年)には鳥取県を訪れて、県下一斉防除を推進した。大正16年(1927年)には、黒斑病防除組合を結成させる一方で、農林省の助成金を三カ年にわたり2万円余を交付した。鳥取県は黒斑病に関する試験地として農林省に認定されたため、国の予算により研究を行うことが出来たxii。
したがって、大正13年(1924年)に高田豊四郎が鳥取県へ初めて導入したパラフィン紙袋の着想は、奈良県の薬水園から盗まれたものである可能性が高いという。
大正8年(1919年)に、このパラフィン紙袋が初めて使用され、効果が確認されたのは奈良県の薬水園であった。この薬水園は、奥徳平という人物によって経営されていた。彼は、札幌農学校出身で起業家精神旺盛な人物であったという。そのため、他地域から来た高田豊四郎を園内に受け入れることを決して許さなかったと言われている。高田は、園外に捨てられてあった袋から包装紙の着想を得たのであり、当時も現在も変わらない技術獲得の困難さを物語っているxiii。
県立農事試験場では、黒斑病の蔓延という事態に直面して、「病理部」を大正15年(1926年)に設立している。「病理部」の主任は人見隆技手であり、東京・国立にあった西ヶ原農事試験場から呼ばれた。この「病理部」の設置には、先の卜蔵梅之亟博士の示唆があったといわれている。彼は、黒斑病防除組合連合会において黒斑病に関する指導を行っているxiv。
司馬(1986)によると、黒斑病という農業問題を植物病理という基礎学的なところから解明しようとしたところに大きな特徴があるという。つまり、他府県と比べて、時間はかかるかもしれないが、根本的な課題から取り組む姿勢こそが鳥取県に二十世紀梨が定着・普及していった要因の一つであるというのであるxv。」
この論文では「高田豊四郎が鳥取県へ初めて導入したパラフィン紙袋の着想は、奈良県の薬水園から盗まれたものである可能性が高い」と書いているがそうだろうか?
大淀町果樹組合のHPを見れば次のような記述がある。
「ト蔵(梅之亟)は明治41年、和歌山においてミカンの腐敗防止にパラフィン袋が有効であったことを想起し、そのことを伝えた。薬水園に帰った奥徳平は凱歌梨にパラフィン袋を試用、こうして黒斑病防除に効果があることがわかり、日本で最初の新たな技術が生み出された。パラフィン袋の採用は、この佐名伝・薬水(大阿太高原)の大地から全国各地の二十世紀梨産地へと広まっていったのである。」
つまり和歌山県のミカン栽培で使われていたパラフィン紙を薬水園の奥徳平に梨かけ袋につかうようにアイディアを出したのは卜蔵農学博士である。この卜蔵農学博士を鳥取県は黒斑病対策で鳥取に招聘しているのであり同博士から奈良の薬水園で使っているパラフィン紙の梨かけ袋の話もアドバイスされている想像できる。だが実物はどんなものなのかは「僕もよく知らないが効果があたっと聞いている。薬水園に行って見せてもらえ」と言われたのかもしれない。
当時の学者はひょっとしたら研究者とは優秀であったのだろうが梨栽培産地同士の競合、競争といった世俗のことには無関心だったのかもしれない。
そう考えれば少年時代に二十世紀梨の苗木を発見し苦労して育てしかもその苗木や接ぎ木にする穂木をおしげもかく分配、分譲し二十世紀梨の普及に尽力した人生を送った松戸覚之助はほんとうに度量の大きい偉大な人物だったと思うのである。
昭和10年松戸覚之助の発見した二十世紀梨の原樹は国から天然記念物の指定を受けた。
だがその前年の昭和9年6月2日に松戸覚之助は59歳で他界していた。
さらに昭和20年の空襲で原樹も被害を受け翌昭和21年についに枯れ死してしまった。
松戸覚之助も二十世紀梨の原樹もいまはない。
だが二十世紀梨の命は日本全国各地で生き続けている。
おいしい二十世紀梨の果実は日本だけでなく世界各地へも輸出されている。
この恵みの源は松戸覚之助少年の発見したあの一本の苗木からもたらされたものなのである。
関連情報URL 二十世紀梨の発見者 松戸覚之助(松戸市出身)