多摩川の流れに接していながら意外なことに川崎は長い間飲水に不自由していたのです。
大師や田島地区ではなんとか飲める井戸水が汲めたのですが旧川崎町の井戸は組み上げてもしばらく置くと真っ赤なさびが出る状態でした。
「川崎市水道史」によれば大正4年の水質検査では六〇〇余りの井戸の内五百数十までが飲水としては不適当で残りの井戸も「濾せばなんとか飲める」程度だったようです。
多摩川の水も海水が交じるために飲料には適さず結局頼りになるのは「二ヶ領用水」(にかりょうようすい)ただひとつでした。この用水から水を汲んでは荷車に乗せ各家庭の水瓶に配達する「水屋」という商売があって水屋が人々の命を支えていたのです。江戸時代から町営水道が完成する大正一〇年まで水屋は川崎の名物でした。
ただ水屋が運んだ「二ヶ領用水」というのは農業用水でした。
市内北西部から今の川崎駅前あたりまではるばると流れてきた「二ヶ領用水」の水を汲み上げてはこれを売り歩く「水屋」という商売が川崎名物と言われた時代だったのです。
このように井戸の水質が悪いのに加えて農業用水を飲水にするとあっては伝染病にかかる者が一年中絶えなかったのも無理のないことです。中でも腸チフスは川崎の風土病のように思われていてそのころ腸チフスにかからない者は川崎っ子ではないなどとあまり自慢にもならないことが言われていたのでした。
大正五年ごろ川崎の工場で働く労働者の多くは東京や横浜方面から電車で通勤せざるをえませんでした。
あまりに急激に増加した労働者人口に川崎の住宅事情がついていけなかったというのがその原因ですがどうもそればかりではなかったという話もあります。いくらでも金を出して川崎に住宅を都合できた高級サラリーマンでさえわざわざ川崎を嫌って遠くから電車通勤していた例が多いからです。
嫌われた原因は当時の川崎にまだ水道がなかったことにあります。
海に近すぎるせいか井戸を掘っても飲むに適した水は得られず用水堀だけが頼りの町だったのです。
「フナやメダカじゃあるまいし用水堀の水が飲めるか」
そう言われてもしかたのないようなそのころの川崎でした。
大正五年当時でさえ川崎にはまだ水道がなく用水堀の水だけが人々の生活を支えていたのです。
中原地区の宮内で多摩川の伏流水をとり戸手の浄水場まで送ってそこから旧川崎町に配水をしようという計画がもちあがったのが大正五年のこと。そして大正十年には悲願の水道がついに完成。これが川崎における本格的な水道のスタートでした。
旧川崎町に水道の引かれる以前の大正九年の統計では赤痢、腸チフスなどの伝染病患者は年間一五九人の多さに達していました。それが水道施設後の大正一二年になるとわずか二四人に減っているのです。水に悩まされていた川崎の事情がいかにもよく現れている記録です。
(以上 「閑話雑記」よりの抜粋)
川崎市の位置。東京都と横浜市の間にある。東京都との境界が多摩川である。
東京湾の海に面した工業地帯の川崎区の拡大図。工場や倉庫などが立ち並び日本の昭和の高度成長を支えた。多くの労働者が働いた町である。
「閑話雑記」には水道についての話が多く掲載されている。
ここに紹介した「飲水に悩んだ川崎」はいくつかの話を併せて多少の手直しをしたものである。
農業用水の「二ヶ領用水」を飲水に使うしかなかった時代の苦労話がさまざまに語られている。
飲料には不敵なのだがもともとこの「二ヶ領用水」こそが川崎市の背骨なのである。
「閑話雑記」にも「「二ヶ領用水」」についての話が実に15回も連載されておりいかにこの人工の用水が川崎にとって重要な存在であったかがわかる。
川崎市を貫くこの二ヶ領用水はは多摩川を水源として主要部分の全長は32キロメートルにおよぶ。
川崎市というのは大雑把に言えば、上流の川崎市多摩区(上河原堰・宿河原堰)から下流の川崎市幸区まで「二ヶ領用水」を取り囲むように形成された細長い地形の地域である。
この用水は神奈川県でもっとも古い人工の運河水路であり一四年かけて江戸時代初期に作られたものだ。
「多摩川は洪水のたびに流路を変え、しばしば農民を悩ませていた。治水と農業用水の確保を目的として、江戸に入府した徳川家康の命により、代官の小泉次大夫吉次が二ヶ領用水の開削を指揮し、1611年(慶長16年)に完成した。」((Wikipediaより抜粋)
昭和19年10月市電が開通。44年3月廃止。川崎駅前(川崎区/昭和42年頃/市民ミュージアム所蔵)
「わが街・かわさき」
「川崎映画街で・映画看板と靴磨きのお婆さん。」
川崎区小川町付近 1956年6月10日
小串嘉男さんの撮影。
わが街・かわさき
「サンドイッチマン」
川崎区川崎駅前 1954年1月1日
小串嘉男さんの撮影。
近くにあるストリップ劇場の宣伝であろうか。
わが街・かわさき
「宝くじ当選番号を見る人」
川崎区小美屋デパート前 1954年1月1日
小串嘉男さんの撮影。
昭和14年に閉園した向ケ丘遊園。右上には豆電車に替わって導入されたモノレールが(多摩区/昭和42年/市民ミュージアム所蔵)
現在では下流の港湾沿岸を中心に工業地帯になっている川崎市だが江戸時代は多摩川に沿って貧しい農家が点在するさびれた村の連なりだった。
「崎」というのはもともと「細長い土地」という意味である。川崎というのは川のそばに細長く続く土地という意味であろう。じっさい多摩川にそって川崎市はうなぎのような形をしていると言われる。
江戸時代に現在の川崎市にあたる村々は多摩川の氾濫に悩まされた。せっかく開墾した痩せ地も多摩川の水が溢れればたちまち泥流に押し流されてしまう。この暴れ川を制御するにはまず氾濫する多摩川の縁に水量が増えても大丈夫なように堤防を築かないといけない。そして堤防の内側には農業用の水路を多摩川から引き込まないといけない。
この大土木事業を指揮したのは地元に赴任してきた徳川幕府の代官である小泉次太夫である。
小泉次太夫は大堤防を築き洪水を防ぐとともに、その内側に人工の水路である「二ヶ領用水」路を穿ったのである。この工事は慶長2年の測量からはじまり14年後の慶長16年に竣工した。
こうして川崎の農民は悲願だった安定した農作地を手に入れたのである。この用水路にそって農地開拓は進み海辺の干拓地までも農地に変えていくことができたのである。
歌川広重、川崎、六郷渡船の図。
樹木の茂る画面上部が川崎。右手遠方に富士が見える。
渡っている川は多摩川。江戸日本橋から東海道53次の最初の宿場は「品川」であり、二番目がこの六郷の渡しを渡った「川崎宿」であった。画面では近そうだが実際はもっと広い。ちょうど毎年箱根駅伝で一区区間の最後の勝負どころが多摩川を渡る「六郷橋」だが江戸時代の六郷の渡しもほぼ同じ辺を舟で渡ったのである。
「武州六郷渡船図」明治元年。 魁斎芳年画
明治天皇の東賀東幸は慶応4年(明治元年・1868年)の秋に行われた。一行総勢2800人は9月下旬に京都を発ち、川崎宿には10月12日に到着した。兵庫本陣で昼食をとった後、六郷川(多摩川)に特設された船橋を渡り、当日は品川宿へ泊まり、翌13日に東京城へ入った。この六郷川を渡った様子を魁斎芳年が浮世絵として残している。 多摩川に川崎側から江戸の六郷川岸までズラッと船を浮かべその上に板を敷いて架設の橋としたものである。画面の上が川崎。錦の御旗を掲げてトコトンヤレトンヤレナ・・・と隊列を組んで渡り江戸城へと向かったのであろう。
だがこの貴重な用水路「二ヶ領用水」は村々への給水は複雑多岐にわたる水路で行われた。その利用をめぐって農民の間に争いを生むことにもなった。とくに渇水の時期には農民の難儀は筆舌に尽くしがたいものがあり水争いが過激化し紛争も度重なった。用水下流の農家はなんども代官所へ水を回してくれるように嘆願書を出したという記録も残っている。
そうした水争いの中で最も大きな事件が文政4年に起こった。
この話を「閑話雑記」より引用してみよう。
今から150年ほど昔の文政4年この年は春から雨らしい雨が降らずこのままでは首をくくることになると用水下流の農民は代官に宛てて必死の嘆願書を出しなんとか水の割当を増やすことに成功したのでした。
しかしいくら待っても肝心の水が来なかったのです。調べたところ用水の差配を行っている溝の口の村名主の鈴木七右衛門が久地の分水地点で川崎堀口に筵をかけてそのぶんの水を自分の田に流していることがわかったのです。
堪忍袋の緒が切れた農民は七月六日真夏の太陽が照りつける中を手に手に鎌、鋤、鍬、槍、鉄砲まで持ちだして溝の口に殺到、その数なんと1万数千人と伝えられています。
鈴木七右衛門の屋敷をめちゃくちゃに打ち壊してしまうという時の幕府をびっくりさせた大騒動でした。
これがニヶ領用水の長い歴史のなかでも最も大きな事件と言われる「幕末の溝の口水騒動」です。
現在の「二ヶ領用水」。春は桜の名所として大勢の花見客で賑わう。
二ヶ領用水・船島鉄橋を走る205系1200番台電車
(2006年3月29日撮影、宿河原駅 - 登戸駅間)
農業用水であると同時に「二ヶ領用水」はまた周辺に生きる人々の飲水でもあった。
大正一〇年に旧川崎町へ水道が引かれるまでは川崎市は水質の悪い井戸かこの二ヶ領用水の農業用水を飲料水につかうほかない状況だった。そのころの川崎市はまだ市に水道を引く経済力がなかった。
そのために病気も蔓延した。
「川崎町では1921年(大正10年)6月に待望の水道が敷設された。それ以前は二ヶ領用水の水を生活用水として使用していた。そのため1886年(明治19年)のコレラ流行時には、川崎町で患者60人のうち40人が死亡、大師河原村で53人のうち43人が死亡、橘樹郡内では338人の患者が発生、そのうち254人が死亡していた。市の合併話はこの水道敷設から現実味を帯び、大正11年には大師河原村と御幸村への給水が開始されたことをきっかけに、3町村は合併、1924年(大正13年)に川崎市となった。」(Wikipediaより抜粋)
大正時代、水道をつくろうという話がきっかけになり近隣の市町村が合併して川崎市が生まれたのだ。
江戸時代には農業用水の「二ヶ領用水」で恩恵を受けてまとまり、近代においては水道架設においてひとつの市として生まれ変わった川崎市。
いずれも結束の絆は奇しくも「水」である。そして水はまた争いの元ともなり病気の元にもなった。
京浜工業地帯の一部になってからはニヶ領用水は農業用水ではなく川崎工業地帯の工場の工業用水へと利用先が変わり川崎市の発展へ寄与してきたが反対に農地は減っていった。
川崎に暮らす人々は昔から農業用水そして飲料水、工業用水と「二ヶ領用水」を通して多摩川の水を利用することで生きてきたのだ。
いまも川崎市を流れる「二ヶ領用水」はこの地で生きてきた人々の喜びも悲しみも苦しみもまた希望も夢も、それらすべての姿や時代の移ろいを水面に浮かべつつ今日も川崎の空の下を静かに流れているのである。
川崎区と千葉県木更津市を約15分で結ぶ東京湾
アクアライン。 (写真提供:NEXCO東日本)
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「二ヶ領せせらぎ館」
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