君が「徳が大事である。何とかして徳を高めたい」ということを考えれば、もうそのことが徳の道に入っていると言えます。「徳というものはこういうものだ。こんなふうにやりなさい」「なら、そうします」というようなものとは違う。もっとむずかしい複雑なものです。自分で悟るしかない。その悟る過程としてこういう話をかわすことはいいわけです。「お互い徳を高め合おう。しかし、徳ってどんなもんだろう」「さあ、どんなもんかな」というところから始まっていく。人間として一番尊いものは徳である。だから、徳を高めなくてはいかん、と。技術は教えることができるし、習うこともできる。けれども、徳は教えることも習うこともできない。自分で悟るしかない。
昨今あまり徳という言葉は耳にしないような気がする。徳を積むというのは人間性の練磨や精神修養と重なる言葉である。万事慎みを忘却し心なき現代世相においては徳という言葉は半死語化しつつあるのかもしれない。ときどき聞くのは、徳ではなく、不徳である。
仏教では布施を施すことが最も大切な仏道修行とされている。
「施しは無上の善根なり」と云う言葉もある。
仏道修行をする者はとして六波羅蜜を実践実行しないといけない。
六波羅蜜とは大乗仏教で説く悟るための六つの修行徳目のことで「六度」とも言う。この六項目は布施(ほどこし)・持戒(戒律を守る)・忍辱(耐え忍ぶ)・精進(努力する)・禅定(心を落ち着かせる)・智慧(学ぶ)である。
布施は六波羅蜜の冒頭にあげられているように特に重要である。
「布施」こそが仏道修行する菩薩であることの必須条件なのだ。
画像 量子禅縁
https://qtzen.com/giving/
「布施」の修行には、財施、法施、無畏施の三種類がある。
「財施」とは文字とおり人にお金や物を施すことだ。
「法施(ほうせ)」とは、仏教の教えを説いてきかせること。
「無畏施(むいせ)」とは、人の恐怖や不安を取り除き安心させることである。
布施についてお金を施すことだと思いがちだがそうではない。
たとえば法華第一の日蓮聖人は弟子への消息文の中で「蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり」と述べている。蔵の財であるお金を貢ぐより仏に尽し仏道修行することがより大事である。それよりもなお法華経の信心を全うする心を持つことが最高の布施であると信者に教えている。心というものはうつろいやすく頼りないものである。だが心ほど千金に勝って強いものはない。
「一切は心より転ず。」とは「華厳経」にある言葉だ。
扇で言えば、心は、扇の要である。扇は要が壊れれば骨も扇面もばらばらになって使い物にならない。心は一切の要である。
善行、美徳、徳行、篤行なども総じては徳と同じ意味だ。
「美徳のよろめき」は三島由紀夫の書いた長編小説だがこれはこの際何の関係もない。ただ徳という言葉を聞くと、三島由紀夫を思い出すのはこの「美徳のよろめき」という秀抜なタイトルの言葉の力のせいだ。閑話休題。あだしごとはさておきまして。閑話休題に、こういうしゃれた和名を与えたのは井伏鱒二である。それもまた無関係な雑談である。
陰徳あれば陽報あり、とも言う。
人に知られずひそかに善行をすれば、いずれ、よい報いを得られる、という諺である。
サントリー創業者の鳥井信治郎氏はこの言葉を座右の銘にしていたという。
「ある者がない者に施しをする。そんなんは当たり前や。いばることもないし黙ってしてやったらよろし。」と言っていたという。なかなかできそうでできないことだ。神仏の霊魂ともいうべき慈悲の心を体現して生きた御仁なんだろう。心から敬礼!
ふと思い出したが小学校三年か四年のころだと思うが国語の教科書にシュバイツアーの話が載っていた。恵まれた子供だったシュバイツアーは朝はふかふかのベッドで明るい朝日が差し込み小鳥の囀りで目覚めた。自分は幸せだと実感した彼はやがて貧しい人々のために貢献しようと考えはじめた云々。学校の授業でのこと。この文章を読ませて教師がどんな感想を持ったかを生徒に質問していた。たぶんシュバイツアーの伝記の一節だったのだろう。
私は「はい」と手をあげて「金持ちが貧乏人に施すのは当たり前のことであって偉人など持ち上げて褒めることではない。そうしない多くの金持ちの方がおかしい。貧乏なら人に施しをしたくてもできないのだ」と反論した。
先生は私の意見がおもしろいと思ったのか「今度PTAで父母の授業参観があるのでいまの意見を言ってほしい」と言った。そして「○○くんの意見はなるほどと思うけど貧乏人だから人に施しができない、と決めつけるのはどうだろうかな。人にはどんな人でも何かできることはあると思う」とも言った。
「なぜ自分だけが裕福なのか。同じ人間なのに他の貧乏な子供たちと違って恵まれた生活をしているのか」とシュバイツアーは子供心に苦悩したと伝記には書いてある。この子供の時の体験、人間の社会を支配する不条理な貧富の差を身をもって痛感したことがその後のシュバイツアーの人生を決定的に変えていく動機となった。
シュバイツアーをめぐる国語の時間がPTAの授業参観となった。それはまもなくあって私は先生に指されて同じような意見を述べた。それをもとに皆の意見を聞くというような授業があった。だが残念ながら父も母も仕事で来ることはなかった。それはいつものことなのだった。戦後まもないベビーブーム世代の当時は世の中ほとんどが貧しい時代でありPTAの授業参観に来られない親のほうがむしろ多かったのではないだろうかか。
徳を積む。これほど今の世相と乖離した心構えはないのかもしれない。昨今の金銭万能、金銭崇拝の世相にあっては「徳」ではなく、「得」を積む方に皆さんお忙がしいようだ。何か得する方法はないのかと鵜の目鷹の目。儲け話に飛びついて大金を投入し、挙げ句の結果に詐欺とわかって大損するというニュースが後を絶たない。寒々しい世相である。有り金、老後資金を失って「得」ではなく「求不得苦」に喘ぐとは洒落にもならない。
ちなみに求不得苦は仏教でいう八苦の一つである。
八苦とは生・老・病・死の四苦に加えて次の四苦を言う。
愛別離苦(愛する人と生き別れる苦)
怨憎会苦(おんぞうえく)(うらみ憎む人と会う苦)
求不得苦(ぐふとくく)(求めるものが得られない苦)
五陰盛苦(ごおんじょうく)(心身のはたらきに執着して起こる苦)
これらの苦を称してよく言う「四苦八苦」となる。
このなかで最後の五陰盛苦は少しわかりにくいかもしれない。
【五陰盛苦】(五蘊盛苦)
五陰盛苦とは肉体と精神が思うようにならない苦しみのことをいう。
「五陰」は「五蘊」と同じである。
色(物体、形あるものすべて)
受(五感による知覚、感覚)
想(受を心のなかでイメージすること)
行(イメージを意志に移行させること)
識(判断し認識すること)のこと。
この五要素は もともと人間に備わっている心や身体の機能でありそれ事態が苦なのではない。これらの五つの要素に「執着する」ことで苦が起こるのである。
煩悩は執着から起こる。だが欲しい物が得られたとしても物欲は絶えることがない。欲望は満たされれば満たされるほど飢餓感も増すものである。また最愛の人と巡り会えてもいつかは別離の宿命が待っている。
では執着しなかればいいではないかというのは屁理屈である。人はやはり物や心に執着する煩悩の塊のような生き物なのである。
そこで仏教的解決の知恵としては、「五蘊は皆空なり」と悟ってこそ一切の苦しみから解放されることになる。これは般若心経の最初に出てくる。歳を取り病み死にいたるすべてが悩みであり苦である。だがそれは誰も逃れられない人間の宿命である。したがって人生はすべてが苦ではあるが四苦八苦の五陰盛苦から救われるには五陰盛苦を五陰皆空と悟ることである。
人の肉体といい心といい永遠不変ではなくいつかは消えていく夢幻であり諸行無常なのである。
刹那への慕情。それが人生なのかもしれない。
一切皆苦・諸行無常・諸法無我・涅槃寂静。
仏教の悟りを示すこの四法印も言ってみれば、この世のすべては変化し実体がないものであると悟ればそこに執着する心が無くなり煩悩に悩まされなくなるという教えである。
人間が執着してやまない「五陰」というものの実態はすべて「空」であると悟ることが妄執による苦から逃れられる道なのである。
一切皆苦を一切皆空と悟ることができるかできないか。その辺が人生一切皆楽への転換ポイントであり仏教の奥底のように思われる。
最後に、というかこれを単に紹介したいと思っていたのだが前置きが長くなってしまった。毎度の前座の本番倒しみたいな文章で申し訳ないが次の画像を見てほしい。
これで簡単に「徳が積める」という漫画のようなオチが今回のブログである。

奈良県橿原市の会社が考えた商品だということである。
徳を積むという、日本人が古来大切にしてきた心が失われつつある昨今。せめてこのお手軽な徳積みで徳を積む経験をしてみられては如何だろうか。何ですか?それだと徳罪だろう、と?かもしれませんな。いずれにしても「徳」は遠くになりにけり、ということで。おあとがよろしいようで。
この徳積みブロックの商品情報のリンクは下の関連情報にあります。