産経新聞1月5日(関西版)朝刊の文芸欄はちょっと面白かった。
俳句選者二名、川柳選者一名、短歌選者二名が、新年に寄せた短い文章を書いている。
俳句選者の宮坂静生氏は昨年に隠岐の島へ行った話を書いている。歌人、俳人が集まり後鳥羽院遷幸八百年記念シンポジウムで隠岐の島へ行かれたのだという。後鳥羽天皇は後鳥羽上皇として3代23年間に亘り院政を敷いていたが隠岐の島へ配流される前に出家して後鳥羽法皇となり、身罷ったあとは朝廷は上皇に顕徳院の諡(おくりな)を贈った。その後、上皇の怨霊出現を封じるためかあらためて後鳥羽院と追号した。
よく知られるように後鳥羽上皇は承久の乱で破れ隠岐の島へ配流された。そのまま都へ還ることなく在島19年で配所で身罷った。勃興した新しい日本の権力者に成り上がった武士階級が天皇を軽視し好き勝手に振る舞う状況を見て「北条義時め許しがたい。ぶっ潰してやれ」と考えたのが後鳥羽院上皇である。
最初は北条氏と融和政策を取っていたが何があったのか後鳥羽上皇は鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたのだがあえなく敗れた。
後鳥羽上皇は北条義時を追討する院宣を出せば武士共が賛同して楽に勝てると楽観していたのかもしれない。だがあにはからんや、北条氏に味方する武士が続出し大軍が京都へ押し寄せた。挙げ句、天下の朝廷が関東のどこの馬の骨の集団かわからない幕府に大敗するという日本史上で空前の下克上が達成されてしまった。
その結果後鳥羽上皇は広大な荘園を没収された上で西海の孤島である隠岐の島へ流された。島の人々はびっくり魂消ただろうね。京都とも遠く離れた島で日本に天皇がいるということくらいは知っていただろうが実際は天皇や貴族とは縁もゆかりもない日本の果てのような絶海の孤島だ。そんな島へ突然元天皇の後鳥羽上皇が突然出現したのだからね。だがもっとも驚いたのは法皇となって出家した後鳥羽上皇自身だろう。それまでの華やかな都にいた殿上人が突然海鳥の鳴く絶海の孤島へ流されたのだから日夜の波の音にも我が身の不運を責め苛まれたことだろう。
後鳥羽院は中世屈指の歌人であり、藤原定家、藤原有家、源通具、藤原家隆、藤原雅経、寂蓮の6人に勅撰集の命を下し、『新古今和歌集』を編纂させた。実質的に後鳥羽院が撰者の一人であった。また蹴鞠・琵琶・秦箏・笛などの芸能もよくして、相撲・水練・射芸などの武技をもたしなみ、太刀を製作・鑑定するなど、文武にわたり多才多芸であった。太刀には好みの菊印を刻印させた。
ちなみに、皇室の御紋は菊であるが、御紋として正式に採用されたのは後鳥羽上皇の代になってからだ。後鳥羽上皇がとりわけ菊の花を好み、天皇家の調度品などに使用するようになり、そこから天皇家の御紋として使われるようになったといわれている。

八百年 揚げつづけたる 隠岐の凧
俳句選者の宮坂静生氏が隠岐の島での旅で詠まれた。隠岐の島の島人がいまも後鳥羽上皇を忘れず慕わしく思っている情景を象徴する意味で凧に託して創られた一句であろう。
天皇、上皇というだけでなく当代随一の文化人であった後鳥羽院の末路はあまりにも過酷であった。
北条氏も少しくらいは寛容さを示して最後は京都へ帰らせてやればいいものを決して許すことがなかった。それほど北条氏の恨みを買っていたのだろう。
隠岐に流され京に戻る夢は叶わないまま隠岐で崩御した後鳥羽院だった。
だがやっとその願いが叶えられた。それは火葬され荼毘に付されてお骨になってからだった。遺骨は願い通り京に運ばれた。だが御所からは遠避けられ京都大原三千院北隣の陵に安置されている。
父の後鳥羽上皇と行動を共にした「順徳上皇」は、佐渡に流されたがかの地で崩御。やはり佐渡で崩御され火葬された遺骨だけが京に戻った。
後鳥羽上皇と順徳上皇のお墓は二つ並んで、京都の中心部から離れた大原の里に並んで眠っている。
後鳥羽天皇・順徳天皇大原陵(おおはらのみささぎ)
順徳天皇は、後鳥羽天皇の第三皇子。
1221年(承久3年)恭天皇に譲位し上皇となる。
父の後鳥羽上皇とともに承久の乱を起こしたとして佐渡へ流された。
隠岐の島と一口に言うけど小さい岩礁みたいなものも合わせると180くらいの島が集まってできている群島国である。島根県の本土からは40kmほど沖合にあって一番大きい島は最も沖合にある「島後」という島で現在はその島一つで「隠岐の島町」という。
隠岐の島といえば所属する多くの島々の一つが現在朝鮮半島の泥棒国家である韓国により武力侵略され実効支配されている竹島であることを忘れてはいけない。竹島の正式の住所は隠岐の島の「島後」(隠岐の島町)にある。
島根県隠岐郡隠岐の島町竹島官有無番地。
これが竹島の正式の地番だ。
どうか竹島は島根県に所属しており、その住所は隠岐の島の最大の島である「隠岐の島町」にあることを覚えていてほしい。
もう一つ、竹島の関連して江戸時代に起きた鬱陵島の帰属をめぐる日朝の論争がある。
江戸時代にはこの島が朝鮮半島のそばにある鬱陵島へアワビ漁や木材、竹材を採取にいく遠洋漁業の起点港となっていた。遠洋航海を行ったのは隠岐の島の漁師ではなく、現在の鳥取県米子の裕福な漁業問屋である大谷家、村川家という船持ちの両家が江戸幕府の正式の許可を得て毎年鬱陵島往来の遠洋漁業に出漁していたのである。
その航海の中で目印となったのが現在の竹島である。
現在の竹島は隠岐の島の島後から船を出すと約160km北西にあって江戸時代には松島と呼ばれていた。ややこしいが当時は鬱陵島のことを日本漁民は「竹島」と呼んでいた。大きな竹材の宝庫だったからだ。
なぜ山陰の漁民が朝鮮半島のそばまで遠洋漁業を行っていたのか。だいたい鬱陵島は朝鮮の島ではないのか。その通りで今でも鬱陵島は韓国の領土である。だが江戸時代の朝鮮王朝は朝鮮王国の領土であるにもかかわらず鬱陵島を事実上放棄したと同然の「空島政策」をとっていたのである。
江戸時代の朝鮮は一握りの貴族階級の両班(ヤンパン)が横暴をふるい酷い政治によって庶民は食うや食わずの極貧生活を強いられていた。そこで朝鮮本土から逃げ出した連中が鬱陵島など島を拠点に屯して、そこを根城に、朝鮮半島へ押しかけて強盗を働いたり、近海の船を襲うなど島々は海賊島、犯罪島と化していた。
そこで朝鮮王朝は犯罪者の逃げ込んでいる鬱陵島への渡航を禁止したのである。この朝鮮王朝による空島政策は300年以上も続き鬱陵島は無人島となっていたのである。そこでたまたま漂流して鬱陵島に流れ着き朝鮮本土を経由して対馬に送還され、帰国した山陰の鳥取県(当時は伯耆)米子の漁師が再び鬱陵島へ遠洋渡航してアワビ漁や木材、竹材の採取を行いはじめたのである。
韓国が今大昔から竹島は鬱陵島の属島であったなどとほざいているが鬱陵島自体を放棄して空島にしていた朝鮮王朝にとって現在の竹島など日本海の彼方にある島でその存在すら把握していなかったのは明らかである。
余談だが江戸時代に江戸幕府と朝鮮王朝は米子漁民が出漁している鬱陵島の帰属をめぐって論争となり外交問題化したことがある。その時は、朝鮮外交を専門に行う対馬藩が矢面に立って釜山の倭館を交渉拠点として激烈な外交戦をやった。このときも論争は鬱陵島の帰属であり竹島はまったく問題になっていない。当たり前のことである。
米子の廻船問屋の鬱陵島渡航事業のほかに、隠岐の島の漁民も現在の竹島である松島へ出かけてはアシカ漁をやっていた。
韓国が「独島(日本領土の竹島)は歴史的にも国際法的にも我が国固有の領土である」というのは真っ赤な嘘である。この韓国の公式発言は歴史的にも国際法的にも韓国が泥棒国家、侵略国家であることを証明している。
この話は脇道なのでここで終わる。だが、後鳥羽院が一日千秋の思いで京都への帰還を祈り願われていたように我が国島根県の竹島も強盗国家韓国の朝鮮人に蹂躙されながら今日も日本国へ、島根県隠岐の島への復帰を願って日本海の荒波に耐えて慟哭していることをどうか知っていただきたい。
さて隠岐の島へ流された後鳥羽上皇はいつか都へと戻りたいと念じつつ和歌を詠んで無聊を慰めたと言われている。
後鳥羽上皇の配流された島は遠い「島後」ではない。隠岐の島には島後の手前にも大きな島が3つある。西ノ島、中ノ島、知夫里島がそれである。後鳥羽上皇が配流されたのはこの中の「中ノ島」である。現在は中ノ島は「海士(あま)町」と呼ばれている。
海士町には後鳥羽上皇を祭る隠岐神社があり、島人はいまでも後鳥羽上皇のことを「ごとばさん」と呼んでいるそうだ。
歌番号 99 百人一首の後鳥羽院の歌
人もをし 人も恨(うら)めし あぢきなく 世を思ふ故(ゆゑ)に もの思ふ身は
●現代語私(試)拙訳●
ある時は人を愛しくも思ひ、またある時は恨めしくも思ふ。この人の世はどうにもならないのだろうが、それゆえに悩み、物思いをする私である。人の世は愛憎の谷間で思い悩みつつわが心を持た余しながら悩みつつ生きるしかないのであろうか。そう思ふ我と我が身そのものが悩ましく嘆かれることであるよ。
;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
隠岐の島へ流された後鳥羽上皇は多くの歌を詠んだ。
その歌を二首紹介する。
我こそは 新島守よ隠岐の海の 荒き波風 心して吹け
自らを隠岐の新しい島守が来たのだ、と詠んでいる。これはさすがに政治に詳しい後鳥羽上皇だと思う。隠岐の島は地政学的に朝鮮半島に近い。新羅からいつ何時日本侵略の軍船が来るかもしれない。隠岐の島はしたがって日本にとって朝鮮半島からの軍事侵略を阻止する国防の重要な情報拠点になっていたのである。平安時代以前から日本にはそういう「災いは朝鮮半島から海を渡ってやってくる」という国防意識や海防意識が国防を担う天皇、貴族の共通認識としてあったのである。これは新しい武士政権の北条執権にも引き継がれ実際に高麗、元の連合軍である「元寇(蒙古)襲来」とその撃退につながっていくのだ。
もう一つ。後鳥羽上皇の隠岐の島での歌。
あれば 萱(かや)が軒端(のきは)の 月も見つ 知らぬは人の 行く末の空
まさか後鳥羽上皇は隠岐の島の粗末な小屋から月を見上げる身に落ちぶれようとは思わなかっただろう。まことに 「知らぬは人の 行く末の空」である。この心情は天皇だけでなく下々の民草であっても、しみじみとよくわかる。
俺は河原の枯れすすき おなじお前も枯れすすき・・・・・。
やはり日本人はものの哀れに共鳴する心情が昔からある。
産経新聞の新年の一言で宮坂静生氏はこう書いている。
「隠岐の人たちが後鳥羽院を八百年も慕い続けるのは人間の孤独な哀しみへの共感であろう」と。宮坂氏は隠岐の島を訪問されて、運命の非情さと同時に後鳥羽上皇の底知れない孤愁を実感として感じられたのであろう。
続いて俳句選者の寺井谷子氏である。
「あらたまの 濤(なみ)の上跳ぶ 白兎」と一句を詠まれている。下の画像は寺井氏の自筆の筆字である。オレンジのサインペンでマークしていて見苦しいのはお許しのほど。

うさぎ年にちなんだいい句である。ところで私が目を引いたのは自筆のこの句の筆字である。白兎の白という漢字が草書で書かれていた。
「ああ、この字を白と読むのだ」、というのが私の「感動」であった。
なぜ谷子筆の一句を見て感慨に浸ったのか。それまでの経緯を簡略に書いてみたい。
恥ずかしながら草書にはめっきり弱い。読めないくずし字が山ほどある。
昨年から気持ちを新たに晩学の手習いとして筆字をはじめた。
まず隷書、を自学自習をしつつ併せて草書を覚え始めた。隷書はシナの書店が発行した「曹全碑」の手本と解説つきの本を買った。説明文は短いが簡体字なのでよくわからない。わからない箇所は埃をかむっていた漢日字典を引く。
隷書を勉強してみると目からウロコの話が多い。
字体というのは素人的には楷書が最初にできてそれを崩して行書や草書になったと思うかもしれない。だが実際には、最初に亀甲獣骨文字ともいうが甲骨文字が生まれ、次に青銅器に刻まれた金文が出現した、これをもとに篆書ができた。だがまだ象形文字に近い篆書は複雑すぎるので簡略化されてやっと隷書ができあがった。
この隷書が今の漢字らしい書体であり、この隷書を早書きして一筆書きのような草書が生まれた。その一方で隷書を元として行書や楷書ができている。この系統では行書が先で楷書が後と言われるが行書も楷書もほぼ同時という説もある。少なくとも、楷書が先にあってそこから行書や草書が生まれたという時系列の流れではない。まず篆書から隷書ができて隷書から草書、一方で行書、楷書ができたとうのが書体の生まれた順番である。
小学校では楷書をまず教える。それはいいとしても極僅かにしても、漢字の成り立ちを教える意味で隷書や行書、草書も教えたほうがよいのではないか。いまのシナでは楷書をさらに簡略化した簡体字を使っているがもはやあれは漢字とはいえない。あんな字しか知らないでいてはシナの古典は読むことができない。おしらくシナから漢字文化が消滅するのは時間の問題でシナ古典を読めて解読できるのは日本人か、繁体字を今も使っている台湾人にしかできなくなるだろう。
またまた余談の脇道に入り込んだが元の細道に戻ろう。
私の晩学の話である。草書の勉強は、野ばら社の「書体字典」、秀峰堂の「文字の書き方くずし方」を手本としてキャンドウーで買った墨液、小筆で書いて覚えている。野ばら社の「書体字典」、は赤い表紙の分厚い本で筆字の見本帳のような本だ。一つの漢字について王羲之、空海、曹全碑、良寛など古今の名筆の字体がランダムに並んでいて見飽きることがない。現代シナの簡体字まで収録されているから驚く。
↑「白」という漢字のくずし字(草書体)
だがその中でどうしてもわからない字があった。その読めない草書の字に出会ったのは回りくどい話になるが、昭和38年、歌手の松山恵子さんのヒット曲の「別れの入場券」、そのYou Tube画像の中なのである。
実はこの曲は今の日本では歌う人も少ないし忘れ去られているが台湾で人気があって今でも台湾で盛んに歌われたり演奏されている。なかには日本でも好きな人は懐かしんで歌う人もいるだろうが、意外なことに、この歌は鉄道マニアの「撮り鉄」の人たちに人気があるようだ。撮り鉄の人たちが鉄道ホームでの切ない別れというこの歌に注目した。
懐メロっぽい曲で歌詞の内容も夜汽車の別れ、プラットフォームと入場券というシチュエーションで鉄道ファンの心情にぴったりだ。
撮り鉄の人たちは、日本各地だけでなく、わざわざ台湾まで出向いて各地の鉄道や駅舎を撮影し、そのの画像、動画を編集してこの歌に重ねてYou Tubeにアップされている。
台湾の蒸気機関車が白煙を上げて走る動画に日本演歌の切ない駅のプラットホームでの別れの歌が重なる。興味のある人はYou Tubeで 「別れの入場券」で検索して見てほしい。そのうまく編纂された映像画像はまるで短編小説のようだ。
またこの歌が台湾の人によって歌詞が台湾語に翻訳され台湾の人たちが歌っている。その歌の題名が「離別的月台票」(別れの入場券)となっている。これは何なのか?
「離別的」は文字とおりに「別れの」である。次の「月台票」とは何だ?入場券がなぜ月台の券なのか?いかにシナ語とはいえ、入場と月台は無関係だろう。この疑問を調べてみたら「月台」とは「入場」とは関係なく、「プラットフォーム」のシナ語だということがわかった。
台湾の駅で「第一月台」といった表示が出ていたら、それは1番ホームという意味である。
つまり「別れのプラットフォーム券(入場券)」という題名に翻訳されていたのである。月台というのは、漢日辞書では月見をする台、と出ている。月見をする台などというものがシナにはあるのか。ではなぜプラットフォームが月台なのか?この辺はなかなか連想ゲームにしても難しい。想像であるがシナ宮廷のような家にはおそらく広大な庭に突き出した広いテラスのような縁台があってそこにテーブルを並べて月見の宴をしたのではないだろうか。その形状は駅舎という家続きに外へ広がる「月台」のように見えたのでプラットフォームを月台と呼んだのだろう。
そこで本題に戻り私の読めない「謎の草書の字体」が出現したのは台湾の尺八演奏家が「離別的月台票」を吹いているYou Tubeの画面であった。
なかなか上手な演奏であるが演奏の動画の背景画像に歌詞とは無関係に台湾の書家が書いたと思われる漢詩が出てくる。その中にどうしても読めない草書の一文字があった。
それは「一片○雪」という漢詩らしき筆字の○の部分である。
この○の部分の草書が読めなかった。ところがたまたま産経新聞の新年の一句を筆で書かれた寺井谷子氏の俳句を書かれた筆字の一字がまさに、この○だったのである。
答えは白兎の「白」とう字のくずし字、草書体であった。
わかればなんということはないと思えるのだが知らなければ読めない。
草書を勉強する面白みはこういう謎解きのような愉しさもある。
とんでもなく回りくどい説明になった。
たぶん私はこの白の略字書体を一生忘れることはないだろう。
左から 登 夜 剣 声(聲) という漢字の草書(くずし字)です。こういう摩訶不思議な字がすらすら読めて書けたらかっこいいですね。
次は川柳である。
私は昨年から俳句に加えて川柳を作り始めた。川柳初心者である。産経新聞の選者は復本一郎氏(神奈川大学名誉教授)とある。この文章で川柳とは何か、ということが書かれている。
「私は川柳という文芸の特質は「穿(うが)ち」にあると思っています。」「(穿ち)を表現する段階では知が働きます」「俳句という文芸は芭蕉以来「知」の要素を嫌いましたので「穿ち」は川柳の土壇場、川柳の顕著な特質と言えるのであります」
なるほど納得である。
これは川柳について語っているが俳句の特質についても核心を突いている。二重に納得できた。ただ、この「土壇場」という言葉にはひっかかる。書くなら「独擅場」だろうと思う。
ここに「芭蕉以來」とあるのは重要なことで日本の俳句は大げさに言えば、芭蕉以前と芭蕉以後はがらりと俳句界の景色は様変わりしている。芭蕉だけでなく芭蕉の影響を受けた一茶、蕪村などの俳句も現代俳句のルーツになっている。
もともと俳句は淵源をたどれば和歌に行き着く。和歌から連歌が生まれ、高尚な歌論や知識がないと入れない文芸だった。それに反発して洒落(しゃれ)や奇知、または俗語を用いた諧謔味や軽口、軽妙さのある連歌が生まれた。これを俳諧連歌という。この俳諧連歌の巨匠が西山宗因で談林派と呼ばれて一世を風靡した。その弟子の井原西鶴は談林俳諧師として有名である。芭蕉も最初は談林派の影響を受けて俳諧師となったがやがて独自の世界観を打ち立てる。談林派の知識や博学を駆使し軽妙洒脱な俳句と一線を画すのである。
その一方で芭蕉の目指した侘び寂びではなく俳諧連歌の諧謔さを受け継ぐ文芸として川柳が生まれる。季語も問わない自由さがあり、規律に囚われない言葉遊びの要素も少なくない。芭蕉俳句とは真反対の世界と言って良い。
いわば俳諧連歌の内包していいた多彩な文芸要素が芭蕉俳句と川柳とに分裂し、分化したと言えるかもしれない。川柳人気を一躍高めたのが「柳樽」という川柳本で「川柳」という名前が定着した。
このころから川柳の要素としては、「うがち・おかしみ・かるみ」ということが言われはじめ現代にまで続いている。川柳では機知に富み人情の機微や心の動きを書いた句が今でも人気がある。
こうした川柳の流れや川柳の特質を踏まえて、選者の復本一郎氏は川柳を「穿ち」の文芸だと指摘されている。その通りだと思う。
ちなみに最近読んでなるほどと思った川柳をいくつかあげてみる。
延命は 不要と書いて 医者通い
三時間 待って病名 「加齢」です
起きたけど 寝るまでとくに 用もなし
誕生日 ロウソク吹いて 立ちくらみ
万歩計 半分以上は 探しもの
この頃は 話も入れ歯も 噛み合わず
いい夫婦 いまではどうでも いい夫婦
無農薬 こだわりながら 薬漬け
恋かなと 思っていたら 不整脈
婆さんよ 犬への愛を 少しくれ
まっすぐに 生きてきたのに 腰曲がる
「アーンして」 昔ラブラブ いま介護
名所より トイレはどこだ バスツアー
WEB予約 予約できたか 電話する
銭湯で 全裸の祖父が マスクつけ
ちなみに私は新聞二紙の川柳へ応募すべくはがきを買いだめして頑張っている。なかなか採用されないが、お題を見てあれこれ考えるのでボケ防止にはなっているかなとは思う。
あまり長いと読まれる方もお疲れと同情する。もう少しなので頑張ってお付き合い願いたい。あと短歌の選者のお二人である。
最初は伊藤一彦氏。
うるはしき さきはひ待つと 暁鐘は どこまでも鳴る しづかな街に
一彦
なんど読み返して見ても心にしみるいい歌である。

伊藤氏は「今年のうさぎ年は飛び跳ねるよりも、耳を長くしてじっくり他の人の声、花や鳥の声、山や川の声を聴きたい。それらの声に耳を澄ませば、自分が何をどうしたらいいのかわかるのではあるまいか」と書かれえいる。
たしかになぜ世の中に文学が存在するのか、必要とされているのか。食うことや金儲けすることが何のためなのかを己に問う心は文芸に接することで磨かれるのだろうと思う。
最後の短歌の選者小島ゆかり氏である。
これはおもしろい話が書いてある。七歳のお孫さんにうさぎの絵がついたパジャマを買ってあげたと。お孫さんはうさぎの絵が何匹あるのか気になってしかたない。とうとうパジャマを脱いで全部数えたとか。そういう話である。そしてご自身で歌をつくられて自筆の筆字で書かれている。
その歌がこれである。
七歳の うさぎと祝ふ お正月 まっしろしろの お餅を食べて ゆかり
最初この筆字の歌を読んだとき、「まっくろくろの」と読んでしまった。ひらかなの「し」を「く」と誤読したので、「ははあ、これはお餅を焼いたのだが、うっかりして7歳の孫が焦がしてしまい、真っ黒になったお餅を食べた」というほほえましい話かなと早とちりした。それから文章を読んだら黒焦げのお餅の話はどこにもなく、よくよく見たら「く」ではなく「し」であった。でも何度見ても「く」に見えるのはホントに目が悪くなっているせいかもしれない。
産経新聞の文芸欄をネタにして思いついた与太話でご機嫌を伺ってみました。これで令和五年の新年のご挨拶といたします。本年もよろしくお付き合いのほどお願い申しあげます。
下のリンクは、外務省の竹島についてのリンクです。
韓国に不法侵略支配されている我が国の竹島が一日も早く日本領土に名実ともに帰還することを願ってやみません。