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角鹿のブログ一覧

2016年03月23日 イイね!

「藻」について。

今日天気がよかったので近くの池まで散歩しました。
ここには鯉や金魚がいます。
冬の間は寒いので動きも少なかったのですが最近は活発に動き回る姿が見られます。
鯉にはインコの食べ残した食パンの耳を金魚には金魚の餌を持っていきました。
小さい池なのですがけっこうでかい鯉が5,6匹います。
池上には網がかけられています。
これは冬場に餌のない「アオサギ」がやってきて魚を狙うためにかけられているのです。
アオサギはいま繁殖期なのか木の上に大きな巣を作っています。
巣の上に卵を守っているのかアオサギがじっと乗っていますが相当にデカイ鳥です。
幸いにアオサギの犠牲になることもなく鯉も金魚も無事に越冬したようです。
水温も温んできたのか鯉がバッシャーと何度も跳ね上がっていました。
池の周辺にはフキノトウや土筆も伸びていました。
寒い中にも春の気配が濃密に漂っています。
でも気温も上がり水温も高くなったせいか冬の間は澄んでいた池の水が濁っています。
池の中には茶色い藻がおびただしく発生してわらわらと水中全面に浮遊して見た目も汚らしく印象もよくありません。
しかし人の池なので心の中ではたまには池の中も掃除しろよと思っていても言うわけにはいきません。
そこでしばし池の周りで藻の浮かぶ池を見ていたのですがそこに若いお母さんと小学校一年生くらいかもう少し小さいくらいの女の子がやってきました。
池を見に来たようで池のそばに寄って中を見ていました。
「この茶色いのはなんだろうね」
おかあさんがそういうようなことを言ったので思わず「それは藻ですよ」と言いました。
「ああ藻ですか」
とお母さん。
とそのとき小さい女の子が
「も、ってなあに?」
とお母さんに聞いたのです。
お母さんも「?」と考えて一息置いて
「水辺の・・・・、水の中に生える・・・・水草のようなもの」
と教えました。
女の子はそれ以上何も言いませんでした。
でも「藻?ってなんだろう」か?
私は藻とは言ったものの藻が何であるかをまったく説明できません。
しばらくしてお母さんと女の子は帰っていきました。
茶色く見るからに汚らしい藻が浮遊している池は見ていても面白くありませんからね。
私も餌をやって少し様子を見てから池を後にしました。
「藻ってなんだろうか?」
藻について教えてもらったこともないしこれが藻というものだとはなんとなく自然に覚えたような気がする。
子どもころにはよく池や川に魚釣りに行った。
そうしたとき釣り針がよく藻に絡まって往生したことがある。
そういうことから言えば私の藻についての知識は魚釣りと重なっている。
こういう藻のある場所には鮒がいる確率が高いとかこういう藻は針に絡みやすいので少し離しておこうとか藻は魚釣りの重要な要素の一つであった。
藻についての知識は魚釣りのハウツーであったが自然科学の対象としてのホワットの存在ではなかった。
あのお母さんも「ああ藻ですね」と言ったので藻については知っていたのでしょう。
でも漠然と藻だなあと思っているだけなのかもしれません。
世の中藻について非常に詳しい人のほうが珍しいでしょう。
誰もよくは知らないけど誰もが「藻だね」「そうだね」と言ってなんとなく分かった気になっているのが「藻」なのかもしれない。
もしあれが「藻」ではなく「カビ」だったり「苔」だったりしたらどうだろう。
「あれは何だろう」
「カビですね」
「ああカビね」
あるいは
「なんだろう?」
「苔の一種でしょうね」
「ああ苔ですか」
といった会話も成り立ったのかもしれません。
でも「カビ」とはなにか「苔」とはなにかについて誰もよく知っているとは思えません。
なんとなく曖昧なままに曖昧な感じで終わっていて何事もさして不都合が起こることもない言葉の一つに「藻」は属しているのかもしれません。
しかし世の中には「藻」について専門の研究者もいらっしゃることでしょう。
たぶん藻学の権威という大学教授もおられることでしょう。
ほんとうに申し訳ないことに私は藻について何も知らないばかりかいかにも知ったふうに「あれは藻でしょう」なんてことをほざいた挙句に小さい女の子の「藻ってなあに?」という問に一言も答えられないのでありました。
ほんとうに情けないし赤面の限りです。
せめて「あれは藻でしょう」と言うのならば「藻」についての正確な説明ができるくらいは当たり前のことなのかもしれません。
たとえば「あれば花崗岩でしょう」と言って「花崗岩って何ですか?」と聞かれて「・・・・ええそれはあのう・・・」と答えられないといいうのは余りにもみっともない話ではないか。
ひょっとしたらあの女の子にとって「も」という言葉は生まれて初めて聞いた言葉だったのかもしれません。
だから「も」ってなんだろうと疑問に思ったのかもしれません。
あの子は今日見たなんとなく茶色のもわもわしたものが「藻」というものでありお母さんの言ったように「水辺に生える水草のようなもの」だということを理解してくれたのでしょうか。
また「藻」ということの説明はこれでよかったものか?
何度かあf歌れこれ考えてみたけれども咄嗟のことながらあのお母さんの説明はなかなか上手な言い方だったのではないかと思う。
ほかに適切な意味も思い浮かばない。
自然科学というものはわかっているようでわかりません。
道端や野原にあるものを説明しろといわれても難しいことだらけです。
というわけで今日は「藻」について何も知らなかったというお粗末な話でした。


◯続編◯
 
3月24日(木) 10時半ごろ また池へ出かけて昨日の「藻」?を撮影してきました。
一晩経って浮かんでいた大量の「藻」は池の底へ沈んだのか水はかなり綺麗でした。
ちょうど係の人が餌を撒いていたので鯉も金魚も浮かんできて盛んに餌を食べていました。
去年にくらべて金魚の数は半減、いや3分の1以下に減ってました。なぜなんでしょう?アオサギに喰われたのかそれとも死んじゃったのか・・・・。
観察していると鯉が動くと池の底からわらわらと茶色い藻のようなものが浮いてきます。
上のネットにも藻の乾燥した部分が付着しています。
藻なのか苔なのか黴なのか判断つきません。
ともかく適当に撮影してみました。




この茶色ものです。何でしょう?


ネットにもついて乾燥してます。水の中でももやもやしてますが・・・・。


土ではありません。


一見水は澄んでいますが。


浮いている白いのは私がやったパンの耳です。
黒い鯉もいますが見難いですね。


このカメラの位置にアオサギがいてよく池の中を見ています。
最近は姿を見せません。


中央部分の水中に茶色の塊があります。



排水の金具にも茶色のものがついています。

こんなところです。

去年にはこれくらいいたんですけど・・・・・。
金魚かなり減ってますよね。
ちなみにこれは一番最初につくったGIFアニメです!




Posted at 2016/03/23 21:49:21 | コメント(1) | トラックバック(0) | 身辺雑記 | 日記
2016年03月21日 イイね!

吉野町喜佐谷「桜木神社」 後編。

屋根のある橋を渡って境内へ入る

































 吉野川の対岸に宮瀧を見て上流へ進むと右手に「象山」がある。その山麓を右折すると喜佐谷(象谷)に入っていく。喜佐谷は両側を高い山に挟まれた狭い谷筋である。谷底には谷川とゆるい勾配の道が続く。


 桜木神社へは「象(きさ)の小川」を見下ろすように山裾の小径を登って行くと見えてくる。遠目には境内を囲むこんもりとした林が先にみえてくる。
 神社境内へ入るには地続きの道はなく左手の「象の小川」にかかる屋形橋を渡る。小川と言ってもかなり傾斜の深い谷川である。
  いまは「喜佐谷」「喜佐谷川」と書いているが昔は「象(きさ)」という字を使っていたのである。奈良の地名にはこうした漢字を変えている地名が散見できるがどういう理由で変えたものかよくわからない。
 
  江戸前期の儒学者貝原益軒翁(1630-1714)は吉野を巡り歩き源義経の事績を探訪して『和州巡覧記』という書を残している。そのなかに桜木神社についてつぎのような一節がある。

「桜木宮滝より五町ばかり、芳野へ帰る道側也。左の橋を越えて行けば小山有り。
林あり。其内に小社あり。是桜木の宮なり、其前に流るゝ水を象の小川と云ふ。名所也」とある



また万葉集では山部赤人がこのあたりの光景を次の歌に詠んでいる。

「み吉野の象山(きさやま)の際(ま)の木末(こぬれ)には ここだも騒く鳥の声かも

万葉集には大伴旅人の歌もある。

「昔見し 象の小川を 今見れば いよよさやけく なりにけるかも」

大伴旅人は60歳で九州の大宰府へ赴任している。もう二度と戻ることはないであろう故郷の奈良を偲んで太宰府にて歌った望郷歌である。大伴旅人がふるさとを思い心に想い浮かべたのがこの「象谷(きさだに)」の光景であり「象の小川」なのであった。


桜木神社境内より「象の小川」を眺める。先の方の木々の間に屋形橋がある。

 それにしても見た目には吉野のあ山間ならばどこにでも流れているような極普通の何の変哲もないせせらぎのように見える。
 だが万葉歌人は吉野といえばこの「象の小川」の風景を想い浮かべている。
 この象谷のどこが万葉人たちの心を惹きつけたのであろうか? 
 両側からこんもりとした山が迫るのだが雨を蓄えた山のせいか空気はひんやりとして冷たい。自然にそこかしこに苔が生えている。
 「象の小川」は吉野山系の水を集めて谷間を下り吉野川に注ぐ。
 日陰にはいると夏でも涼しいだろうと思われる。
 まだ冬の風が吹き抜ける早春とあって歩く人もみかけない。
 鳥のさえずりも聞こえない。
 来る季節を間違えたのかもしれない。
 それでもここには昔からの自然がそのまま残っている。
 1300年ほども前に万葉歌人の詠んだ光景と今見る「象の小川」の印象はほとんど変わらないように見える。
 

桜木神社境内の全容。

桜木神社の前は「象の小川」と「象山」、後方も山だ。
このあたりは山と山とに圧迫されるように挟まれており境内はさして広くはない。
境内に上る短い階段を上がると朱の鳥居がありすぐ境内に入る。
写真中央は拝殿。後方に石段上に権現造三間社の神殿がある。
神殿は朱塗に極彩色が施され神門を立て玉垣で囲まれている。
石灯籠と狛犬も配置されており堂々とした構えだ。
精霊の宿る自然の谷間に鎮座する清々しい神殿の聖域である。


桜木神社
さくらぎじんじゃ










堅固な石積みがせり上がるように神殿を支えている。
この石垣も桜木神社のみどころである。




桜木神社は「桜木宮」とも称され吉野の名勝の一つである。
もともとは村社として創建されたといわれるが創祀・由緒は不詳でる。
古来医薬の神・疱瘡神と信仰をあつめている大穴牟知命(大己貴命)、少彦名命を御祭神とし、同時に吉野に縁の深い天智天皇も御祭神としている。
社殿は元禄15年(1702)の建立といわれ境内に万葉歌人、山部赤人の歌碑が在る。
神社の鎮座地は吉野郡吉野町喜佐谷字トチサ423。
万葉歌に歌われた「象の小川」の傍らの景勝地に鎮座している。
末社として稲荷社がある。倉稲魂命・奥津彦命・奥津姫命がお祀りされている。↓。

拝殿。↓。

















境内奥から参道の屋形橋と鳥居を見る。



境内にはひときわ目立つご神木の大杉。










春になると桜木神社を参拝したあとで喜佐谷から吉野山方面へ向かうハイキングの人達も多く訪れる。


飛鳥時代の史跡として名高い宮瀧は吉野離宮のあった場所として知られている。
その宮瀧から見て吉野川を挟んだ対岸の喜佐谷の入り口近くにあるのが桜木神社である。
万葉人の心に吉野を代表する光景として深い印象を残した象谷(喜佐谷)と象の小川。そのせせらぎも微かな瀬音も木漏れ日も谷を渡る風もすべてはるか遠い昔日のままに在る。


★続編★
  このブログは上で終わった。
  そのつもりだったのだがこのあと少し続編を追加したい。
  というのは吉野町の古い写真を見つけたのだ。
  そこには吉野離宮とすぐ向かい側にある象谷、象山、象の小川、桜木神社の貴重な写真があった。時代は昭和2年から8年とある。
  昔の桜木神社の姿を紹介しよう。

 
№974 象の小川の邊なる櫻木神社
 (天武帝を祭る)
 昭和2(1927)年~昭和8(1933)年

 ◯この写真を見ると現在はある前方の遥拝殿がない。石段の手前には何もない。だが狛犬、石灯籠、神門、神殿はいまも位置関係は同じである。たぶん昔のままなのだろうがその後に多少は改築とか補修の手入れがされている気もする。

 

№214 大和宮瀧 遺跡地附近の景觀 2.jpg

◯飛鳥時代に吉野にあった離宮の跡である。湾曲して流れる吉野川の向かって左岸上部一帯に宮殿のあった遺構が発見されこれが吉野離宮であるとされている。写真では人家のある広い台地のように見える。
 宮瀧離宮遺跡の発掘は長年にわたり橿原考古学研究所の手により実施されてきた。現在も吉野町教育委員会による発掘調査が継続しており今年度の吉野町の予算にも発掘調査費が計上されている。
 吉野川の流れは写真上部が上流である。左の吉野離宮の土地が円形に突出している先に黒くなった山の端が見える。この山が「象山」の先端であり「象谷」はこの「象山」の向こう側に続く谷筋である。



№217 大和宮瀧 遺跡より象山を望む 6.jpg

◯向かいの一部剥げた部分のある山が「象山」である。この「象山」の左側に奥に向かって「象谷」が続いている。手前の集落は宮瀧遺跡の上に形成された家屋などである。この宮瀧遺跡の家屋の家並みと向こうの「象山」の間に吉野川が左から右へと湾曲して流れ下っている。


 №973 象の中山
 (礎石はこの桑園中にあり)
 昭和2(1927)年~昭和8(1933)年

◯「象の中山」というのは向かい側の大きな山。「象山」のこと。「礎石は・・・」という説明文はわかりにくいが写真手前の畑が桑畑なのであろう。
この台地にある桑畑の中から宮瀧遺跡の離宮の礎石が発見されたという意味である。いまは桑畑はなく遺跡の発掘現場になっている。
家並みと向こうの象山の間には吉野川が流れている。この写真は宮瀧遺跡を見下ろす場所から象山を眺めた写真である。
 


№210 夢淵
 (象の小川此所に注ぐ)
 昭和2(1927)年~昭和8(1933)年

◯これは左岸が宮滝遺跡の台地であり右岸が象山の裾野であろう。
「象の小川」がこの「夢淵「」という吉野川本流の深い淵に注いでいるという写真であろう。いまよりもずっと水量が多いが当時は上流にはダムはなく大台ケ原を水源とする吉野川上流は激しい清流の渦巻く谷川であった。
現代人の感覚では物足りないかもしれないが自然の川、奇岩、枝振りの良い松の姿など吉野らしい深山幽谷の趣を湛える見事な景勝地の景観である。

これらの昔の写真をみると吉野川を挟んでいるとは言えども吉野離宮と象山や象谷、象の小川、は分離したものではないという印象が強い。離宮から見れば朝日も象山の向こうから上ってくるのだ。
古人は吉野といえば離宮だけでなく離宮と吉野川の清流を挟んで向かい合う象山や象谷、象の小川の精妙なる光景を愛でて心に刻んだのであろう。
象谷は吉野離宮を彩る自然庭園だったと言ってもいいかもしれない。

これらの昭和初期のモノクロ写真はそんなことを語りかけてくれるようだ。
Posted at 2016/03/21 14:54:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | 吉野見物 | 日記
2016年03月20日 イイね!

吉野町・喜佐谷(きさだに)にある桜木神社へ。前編。


 2月28日「日曜日) 
 吉野町喜佐谷(きさだに)にある「桜木神社」へ行ってみた。
 桜木神社には吉野に縁の深い天武天皇が祀られている。
 喜佐谷は吉野離宮跡のある宮瀧から見れば吉野川の対岸にある。
 このあたりは「御園(みその)」という集落の河原だ。
 かつて度々吉野離宮に行幸された持統天皇もこの清流の美しい河原を散策されたことであろう。
 山は吉野川の両岸に高く聳えているのだが川幅が広いのでむしろ開放感がある。




























冬枯れで水量は多くはないが水は澄み切って驚くほど透明だ。



川は人工の改修はされておらず流れも自然のままである。












「風水百珍」という看板がある。
吉野川上流の景観案内のようだ。


春になれば河原の草木にも花が咲くのだろうがいまは水の碧だけがただただ美しい。

川から分かれ谷筋に折れる。
喜佐谷の集落に入る。
この谷筋を登って行くと吉野山金峯山寺蔵王堂へ行くことができる。さらに尾根伝いに大峯山系に位置する山岳霊場山上ヶ岳(奈良県吉野郡天川村)、また熊野三山、高野山にも往来できる。
喜佐谷は古来より山岳信仰の聖地を巡る修験者が踏みしめた祈りの道でもある。



旅人を迎えてくれるかのように梅の古木に花が咲いている。


苔むした石垣と人家跡。
摩滅した石の階段が冬の木漏れ日に照らされて在る。




桜木神社の姿が木々の間に見えてきた。

次回の後編は桜木神社の境内を紹介します。
Posted at 2016/03/20 22:45:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | 吉野見物 | 日記
2016年03月16日 イイね!

「中華丼」。





中華丼を作ってみました。
でもご飯を炊くのを忘れていたので中華丼の具だけになりました。

豚肉こまぎれ

冷凍小エビ

イカ

白菜

人参

カマボコ

味付けは塩コショウ、日本酒、醤油、砂糖、ニンニク(チューブ入り)、オイスターソース、鶏ガラスープの素、片栗粉です。

野菜は電子レンジで加熱してからフライパンに投入しました。

食べてみた感じはまあまあでした。











Posted at 2016/03/16 19:12:23 | コメント(2) | トラックバック(0) | 身辺雑記 | 日記
2016年03月07日 イイね!

高取町。「町屋の雛めぐり」(第10回)を見物。

奈良県高市郡高取町★「町家の雛めぐり」(第10回)を見物。


3月2日(木曜日)高取町にお雛様の展示がしてあるというので見に行ってきました。高取町は城マニアの人ならご存知かもしれませんが日本でも有数の山城があった場所です。高取町の「町家の雛めぐり」の行われる「土佐街道」は高取城の山麓にある城下町です。また高取町は製薬会社が多くあって「薬の町」としても有名です。




近鉄吉野線の「壺阪山」駅が最寄りの鉄道駅です。駅前の近くに大きな内裏雛(男雛、女雛)のモニュメントがあります。お雛様には内裏雛の配置の違いによって江戸雛と京雛とがあると言われています。向かって左に男雛があるのが「江戸雛」、向かって右側に男雛があるのが「京雛」だそうです。


みなさん何していらっしゃるんですか?
内裏雛のモニュメントの隣に大勢の村人や山羊や牛、犬などが・・・・と思ったらこれはどうやらカカシのようですね。
高取町は春にはひな祭り、秋にはかかし祭りのイベントで盛り上がっているそうです。

壺阪山駅の駅前あたりから緩やかな坂道が始まります。
少しづつですが上り道です。これが土佐街道です。この坂道をずっと歩いていくと高取山が見えてきます。さらに行けば山城へと登っていきます。土佐街道は両側が水路になっており道の両側に敷石が続いています。この敷石は阪神淡路大震災のときに出た神戸の路面電車の敷石をここに移したということです。



歩き始めてはじめてのお雛様のお出迎え。道路脇のガラス戸の中に入っていました。色紙にはお雛様にまつわるエピソードが書かれています。見物にこられたご婦人が思わず足を止めてご覧になっている姿が写り込みました。観客はご婦人方の小グループが多かったですね。




 いかにも城下町らしい風格のある家の造りです。 
 漢方薬の販売店がありました。漢方薬も高取町で生産されています。こちらのお店もお雛様の展示をされているようです。ちょっと中へ失礼して・・・・・。




漢方薬店の座敷に飾られているお雛様です。
手前左に薬研、扱っている漢方薬の展示もありますね。見事なお雛様ですね。



右側にもお雛様が飾ってあります。柵に使ってある竹も見事です。高取町には竹林も多いそうです。


土佐街道を歩くと次々に雛飾りを展示されている家があります。
豆類を扱っておられる店なんでしょうか。
おばあちゃんが「どうぞ中へ」と案内してくれました。
どんなお雛様があるのでしょうか。
なんと豪華な二つのお雛様が飾ってありました。
ではご覧ください。

  なんでもない普通の雑穀販売店のような感じの店ですね。
  でもガラス戸を開けると店内は雅の世界に一変します。
  あの時代、あのころへの・・・・・タイムトラベル!!
  ちなみにこの家にはこのお婆さんよりもう少し高齢の女性もおられました。雛壇の横で椅子に座ってぢっとしておられました。最初店の中がよく見えないのでガラス戸越しに雛人形を撮影してみようかなとうろうろしていたらゆっくりと立ち上がってわざわざガラス戸を開けてくれました。
それまで中に人がいるとは思ってもみませんでしたので驚きました。
ほとんど寡黙で何もしゃべらないおばあさんでしたが後でこの表におられるおばあさんが奥から出てこられました。とても親切に撮影をさせていたけだけました。
  説明文を見るとごお二人の別々のお雛様を並べて飾られているようです。
  どうかお達者で!来年もまた高取へ来てお逢いしたいものと思いました。


最上段の家が天井につきそうなほどの豪華なお雛様ですね。
説明文を読むと日本の高度成長期の前、まだ日本が貧しい時代の昭和34年にこれだけ立派なお雛様を飾っておられたということです。高価なものではありません、と書いておられますが十分に高価なものだったと思います。大阪の松屋町筋というのはこういう人形などを扱う店が多かったのでしょうか。検索してみると大阪の松屋町(まっちゃまち)は人形店が多い商店街のようです。東京でいえば浅草橋のような感じでしょうか。


大阪で買われたお雛様のようです。ご両親の愛娘への想いが感じられます。火事で焼けなくてよかったですね。


左側にも豪華なお雛様があります。菱餅もあります。男の子だったけど子供の頃に母親が買ってくれて菱餅のお菓子を食べた記憶があります。



お雛様の思い出が紹介してあるのも高取町の「町家の雛めぐり」の特徴です。
親が娘に娘が結婚してまたわが娘に・・・・親子で代々娘の成長を祝って雛人形を送るという風習が続いてきたことがよくわかります。
奈良テレビで高取町の「町家の雛めぐり」を紹介するテレビ番組をたまたま見たのですが雛人形への親の愛情云々というレポートのあとでおばさんコメンテーターが「わたしは子供の頃に親が雛人形を買ってくれると言うので嫌だ刀を買ってくれと言いましてね、ほんと親不孝だったと思いますわ・・・・」と笑わせてました。


最後にこの媼二人が雛守りをされていた光景を詠んで一句。

酔うて春 雛(ひいな)媼の 万華鏡 

俳句は勉強したことも詠んだことがありませんので大変失礼しました。



赤ひげ?時代劇に出てきそうな風格のある家ですがれっきとした開業医のお医者さんです。
こちらの豪壮な家は皮膚科病院。アトピー性皮膚炎をはじめとした慢性皮膚疾患の治療実績で有名なお医者さんということです。石川医院は本日休診のようですね。ちなみにこの立派な石川医院の玄関の門は高取城にあった新御殿(藩主下屋敷)の表門を移築したもので高取城の遺産です。

さまざまな薬草の道。
土佐街道には薬の町らしく薬草の豆知識が埋め込まれています。歩きながら勉強できるとはありがたいですね。どくだみとかいろんな薬草のプレートがあります。こいういう細部までの目配り、気配りが目立たないけれどよく行き届いています。さすが元2万5000石高取藩の城下町ですね。



昔はきっとこんなふうな山城の光景だったんだろうなあ。
高取城の復元予想図。これは奈良産業大学がつくった力作です。
いまは石垣が残っているそうです。
こんな山城だったら攻める気にもなりません。まあ難攻不落でしょう。
でも守る武士も山暮らしで不便でしょうね。
そこで山から降りて山裾に武家屋敷を作って暮らしたんだしょうね。
取り壊しされたのは残念ですね。城郭や天守閣が残っていればとんでもない高取町の財産だったのに。
近かったら登ってみようと思ってましたが甘い!
ここからまだ5キロ、しかも山登りです。
高取城登山はまた次回に挑戦してみたいと思います。


ところで奈良県なのになぜ「土佐」街道?
その疑問に答えてくれるのがこの木製の高札。
飛鳥時代に高取町に来た土佐の人達が帰ることがでいなくなり居着いた名残だという。土佐町という町名もそれが由来だそうです。
土佐街道は土佐人の望郷街道でもあるんですね。


  城下町の雰囲気が漂う路地も多いですね。通りとか家とかでなくこの一帯が面として城下町の風情を漂わせています。やはり木造建築と黒い屋根瓦がいいですね。


  土佐街道の中頃にある中心地の会場にある雛人形。17段で500体あるそうです。圧巻ですね。でも見るのはいいんですが主催者方は飾り付け片付けだけでも大変そう。なんでもこの雛めぐりの催事は町でも観光協会でもなく地元の高齢者が企画してボランティアで実行されているそうです。いまではたくさんの協賛企業も増えてますがカンパも募ってます。

全国の変わり雛のコレクション。幟のようなものが4つぶら下がってますが何でしょう?これは鹿児島にあるお雛様だそうです。お雛様を二次元にしたらこんな形状になるんでしょうね。家に古い綺麗な端切れのある人はこれを参考に壁飾りのような雛人形を自分で作ってみるのも一興でしょうね。



だんだん高取山が近くなると武家屋敷も見えてきました。



白壁がきれいな武家屋敷の長屋門。田塩家。左の二つの窓の格子が横向きです。

角度を変えて横格子の窓をよく見えるように撮影。坂道はだいたいこのあたりで終わりです。


田塩家の庭の樹木はなんでしょうか。たぶんほかにもあったんでしょうがこれだけ残っているんでしょうね。



これは家老様の屋敷だそうです。立派。
調べてみましたら高取藩筆頭家老の植村家のなまこ壁のある屋敷です。
パンフレットには「中世の面影を残す古い町並み 土佐街道から高取城跡へ」と書いてありました。その通りですね。この先を行けば高取山への登山道になります。


これは酒造家のお雛様です。武家屋敷あたりで折り返しまして見落としていたお雛様や横道を見ながら坂道をくだっていきます。


上の雛の説明です。





竹人形のようなお雛様。というか竹雛ですね。竹の色が変わっているのでかなり古いものでしょう。越前竹人形と言いますけど竹雛も昔からあるんでしょうね。



現代創作風の手毬や人形です。



現代作家のさまざまな展示があります。ここは「夢創館」という高取町観光案内所で無料の休憩所です。
「夢創館」の二階にすばらしいお雛様がありました。
写真は撮影禁止でしたので紹介できませんが素人目にも圧倒される極上品でした。
もし行かれるかたがありましたらぜひご覧になってください。
ただ階段が急なので気をつけてください。


竹の籠を製造、販売しているお店がありました。どれも軽くて使いやすそうです。柿渋の竹籠もありました。

ここで何の脈絡もないのですが土佐街道の一角でずっと二三人のおばさんが井戸端会議を大きな声で延々とやってまして聞くともなく聞こえてきたのはこんな会話でした。
「若いころは二年なんて何もたいして変わらないけども歳取ってからの二年は大変わりだよねえ」「そうだね」
年寄りは見た目ずっといつまでも年寄りの印象かもしれませんが肉体の衰えは二年も経つととんでもなく進行していきます。去年元気出歩いていた人が少し見ないうちに入院していたなんてことはザラにあります。
どこでも高齢化の問題は深刻なようです。


花嫁衣装と雛人形。凝ってますね。



上のお雛様の説明。四人姉妹に可愛がられたお雛様だそうです。


電線がなければもっと雰囲気がいいんだけど。
景観を整えるにはお金がかかりますね。


小嶋神社。石畳の沿道が趣があります。実はここが最も気に入りました。そういえば少し中心の道からは離れているせいか街歩きしている人は誰も来ませんね。ここはなんといっても景観がすばらしい。



向こうの霞んだ山は金剛山でしょう。写真には写ってないですが金剛山の右手のほうには葛城山も見えるはずです。左手の手前の山は高取山へ連なります。
すばらしい景観です。一時間見ていても見飽きないですね。



小嶋神社の参道より高取山を望む。広々とした眺めがすばらしい。今度は高取山の上から四方を見渡してみたいものです。



小嶋神社。沿道と鳥居を望む。手前左は文化財の奉納絵馬を保管する建物の門です。



土佐街道にクロスして横切る幼稚園から続く道です。小学校、中学校の征服を仕立てている店があるんですね。ちょうど幼稚園の下校時間らしく自転車に子どもを乗せたヤングママさんたちがこの道を通っていました。


門から屋敷まで遠い大きな家です。雛人形はありませんが花飾りで観光の人たちをお迎えしています。戸口の格子がなんともいえずいい風情ですね。


竹製品を売っている店。全部100円から300円まで。手作り感150%です。
高取町は竹が多いんですね。よくみると竹の中に紙の内裏様のある雛人形がありました。一個買いまいた。一番大きかったので300円です。ついでに中へ入ってみました。




これは楽しい。それぞれの表情がとてもユニークですね。
Posted at 2016/03/08 09:46:59 | コメント(3) | トラックバック(0) | 四季の風物 | 日記

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「外国人の「外国免許切替(外免切替)」制度をめぐり短期滞在者がホテルの住所で日本の免許を取得することについて、ホテル滞在による「支障は把握していない」とする初の答弁書を閣議決定した。それで良いということだ。
日本保守党の竹上裕子衆院議員の質問主意書に25日付で答えた。無責任だろ。」
何シテル?   05/18 14:14
 趣味は囲碁、将棋、麻雀、釣り、旅行、俳句、木工、漆絵、尺八など。 奈良、京都、大阪、和歌山の神社仏閣の参拝。多すぎて回りきれません。  奈良では東大寺の大...
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