今日は朝からとなり町の図書館へ出かけ夕方まで本や資料を見ていた。
最近読んだ本の中で明智光秀の子孫の人が書いた「本能寺の変四二七年目の真実」という本がおもしろかった。
おもしろいというか、目からうろこの本だった。
この本は先週に2日連続してこの図書館へ出かけて読みきった。
今日も少し読み返してみた。
これまで明智光秀は謀反を起こし突然主君の織田信長を裏切ったということくらいの印象しかなかった。
なぜ裏切ったのかもよくわからなかった。
さらに最強の武将に思えた織田信長がなぜ簡単に殺されたのか・・・・・。
ところが真実は意外なものであった。
実は織田信長とその腹心の部下である明智光秀は事前に徳川家康暗殺の計略を練っていた。
まず徳川家康を京都におびき寄せ本能寺に宿泊させる。
織田信長は本能寺で家康を接待し油断をさせつつ座を外す。
そこを明智光秀の軍勢が討つ、という手はずを整えていたというのだ。
明智光秀の大軍は羽柴秀吉の中国・毛利攻めの援軍として出立しているという設定になっていた。
そのことは徳川家康の耳にも入っている。
本能寺の周辺に織田、明智の軍勢は皆無だった。明智光秀の軍勢は丹波国の亀山城(現在の亀岡市)にいてそこから秀吉の援軍として毛利攻めに参加するという指示を受けていた。だが織田信長は明智光秀に毛利攻めとみせかけ、京へ向かい本能寺の家康を暗殺せよとの指令を受けていた。

明智光秀の居城丹波の国・亀山城の石垣。
現在の京都府亀岡市にある。
「江戸時代初頭には近世城郭として整備された。大正時代に新宗教「大本」が購入、神殿を築いたが大本事件で日本政府により爆破・破却された。戦後再建され、大本の本部が置かれている。
小説家の司馬遼太郎は明智光秀と出口王仁三郎という2人の謀叛人を出したと評した。
(Wikipedia)
この二人、明智光秀と出口王仁三郎を「謀反人」と評したというのが本当ならば司馬遼太郎の歴史観、人間観は浅薄そのもの、そこらの講釈師にも劣るとしか言い様がない。
「敵は本能寺にあり」
明智光秀は配下の全軍にこう告げた。
それは間違いない。
だがその敵とは明智光秀の中で徳川家康から織田信長に入れ替わっていた。
一路、明智の大軍は京都本能寺をめざした。
家康を騙すために織田信長はほとんど独り身のような状態で無警戒、手勢はいない。
織田信長は前夜に本能寺に入った。
翌日明智光秀は家康が本能寺へ入り織田信長が席を外したところへ襲撃するはずであった。
だが徳川家康暗殺を決行する当日の明け方明智光秀は本能寺を襲った。
徳川家康はまだ堺にいた。
そして家康は本能寺の変を聞き伊賀越えをして三河へ逃げ帰った。
ところがこの徳川家康の伊賀越えはすでに計画され準備されていたものだった。
なぜなら徳川家康は事前に明智光秀と接触、密談し織田信長暗殺その後の明智幕府成立で手を握っていた。
すなわち本能寺での織田信長暗殺は事前に徳川家康と打ち合わせ済みだった。
明智光秀と談合しわざわざ織田信長の計略にひっかかったふりをして徳川家康は京都へ入ったというのだ。
命からがらの徳川家康の伊賀越えは後の作り話であり明智光秀と内通していた家康は逃走経路に伊賀の山道に詳しい手勢を待機させておりやすやすと逃げ帰った。明智憲三郎氏の著書にはそう記してある。
織田信長はいわば徳川家康暗殺というドッキリのし掛け人であったがそのドッキリの現場である本能寺で明智光秀と徳川家康に逆ドッキリを仕掛けられてあえなく絶命したというのだ。
さらになぜこういう真実が伝わっていないのかといえば明智光秀を討ち取った羽柴秀吉がすべての責任を明智光秀の理不尽な謀反の責任に押し付けたでっちあげ本を出版。それを広めて真相を覆い隠したからだと作者は説いている。
羽柴秀吉が明智光秀を討ったあと徳川家康も本能寺の変での明智光秀との密約は口外することなく本能寺の変の真相は闇の中に葬られた。
戦争でいろんな戦闘があるが世間の人には現場で何が起きたのか知る由もない。
早く「この戦闘の真実はこうだった」とジャーナリストとか当該国の情報作戦部門が事実を隠蔽捏造して情報を拡散すればその情報がいかにも真実であるかのように広まっていきいつしか事実になっていくこともある。
本能寺の変もこれと類似している。
ではなぜ明智光秀は主君に謀反心を抱いたのか?
このあたりの分析は複雑だが一つには織田信長が天下統一後の計画において織田一族による永続支配を考えていることがわかり明智光秀は結局その捨て駒にされることを悟ったことが原因となったと作者は考えているようだ。
これまで不勉強だったが織田信長の武将としてのスケールの大きさはあのアレキサンダー大王にも匹敵するもので本気で世界征服を狙っていたフシがある。だが明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康などなどは世界とは日本だけのものだった。つまり信長の世界観にほかの戦国大名はついてこれなかった、あるいはそれを拒否したのが本能寺の変の根本原因だったのかもしれない。
織田信長の野望はまずはシナ大陸の支配にあり、日本は信長の子供に支配させ、明智以下の諸大名には朝鮮半島やシナを分割して統治させさらに西方へ駒を進めるつもりだった。そのためキリシタンの宣教師なども拒否することなく情報を集めている。
明智光秀の抱いた土岐一族の再興なぞ世界征服を夢見る織田信長の目には見ることの不可能な小さすぎる景色だったのかもしれない。
のちに羽柴秀吉が天下をとり朝鮮出兵、シナ本土攻めを構想するがすべて織田信長の構想の後追いでしかない。信長がやったのならわからないが秀吉の二番煎じが成功するはずもない無謀な計画であった。
★画像説明。★
豊臣秀吉像。極端に手を小さく描かせているが秀吉には右の親指が二本あり右手は六本指であった。前田利家『国祖遺言』には「大閤様は右之手おやゆひ一ツ多六御座候」とある。指の小ささにあわせて顔も極端に小さく全体に人物像として違和感がある。
ルイス・フロイス『日本史』豊臣秀吉編 I 第16章
「優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた。身長が低く、醜悪な容貌の持ち主だった。片手には六本の指があった。眼がとび出ており、支那人のように鬚が少なかった。極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。抜け目なき策略家であった。」
ルイス・フロイスは秀吉に私怨があり悪く書いているが指六本は偽りではない。
卑怯者とか裏切り者との汚名を着せられてきた明智光秀の子孫が一矢報いたのかもしれない。
まさに事実は小説よりも奇なりというべきか。
この本は2009年に出版されていたのにまったく知らなかった。
この最初の本をさらに加筆修正したのが「本能寺の変 431年目の真実」(明智憲三郎著 文芸社文庫)だそうでこちらも売れているという。
興味のあるかたにおすすめの一冊です。
●注●コメント二件をいただき、返信コメントを書いた後で、本文の織田信長のアレキサンダー大王に匹敵云々の世界観についての記述と写真画像二葉とそのキャプションを追加しました。ご了解ください。
関連情報URL 『本能寺の変 四二七年目の真実』
株式会社第一情報システムズ 常務取締役 明智 憲三郎