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角鹿のブログ一覧

2015年08月19日 イイね!

岡寺。

前々から岡寺へ参詣したいと思っていたが今年のお盆に行くことができた。
岡寺への参道は駐車場前からいきなり急な坂道である。コンクリートで整備されているが年寄りには極めてきつい登り坂である。
やっとのことで坂を登り切ると左手に岡寺の仁王門が見えてくる。
その前にある受付で入場料一人300円を支払い仁王門を見学。左右の仁王像がいかにも古い木材であり風格もある。
仁王門をくぐると境内だが日本庭園風の庭の前は石垣のような壁になっており本堂はさらに石段を登った上にある。
猛暑の中夕方といえども西陽が射して暑さは半端ない。頑張って石段を折り返して登ると岡寺の本堂がそびえていた。
ここはもともとが岡山という山であり岡寺はこの山を切り開いて創られた山岳寺院なのである。
岡寺ははるか明日香の平野を見下ろす山の上にあるのだ。

岡寺(おかでら)は、奈良県高市郡明日香村にある真言宗豊山派の寺院。山号は東光山、寺号は龍蓋寺(りゅうがいじ)とも称し(寺号については後述)、詳しくは東光山真珠院龍蓋寺という[1]。本尊は如意輪観音。西国三十三所第7番札所。

『岡寺』と『龍蓋寺』
岡寺は奈良県明日香村の東、岡山の中腹に位置しています。
岡寺という名は地名に因る名で正式には、

山号は 東光山(とうこうさん)
院号は 真珠院(しんじゅいん)
法名は 龍蓋寺(りゅうがいじ)

『東大寺要録』「義淵伝」、『扶桑略記』等によれば、天武天皇の皇子で27歳で早世した草壁皇子の住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したとされる。史料上の初見は、天平12年(740年)7月の写経所啓(正倉院文書)である[2]。

現在の寺域は明日香村の東にある岡山の中腹に位置するが、寺の西に隣接する治田神社(はるたじんじゃ)境内からは奈良時代前期にさかのぼる古瓦が発掘されており、創建当時の岡寺は現在の治田神社の位置にあったものと推定されている。寺跡は平成17年(2005年)に「岡寺跡」として国の史跡に指定された。

現在では真言宗豊山派の寺院だが、義淵僧正は日本の法相宗の祖であり、その門下には東大寺創建に関わった良弁や行基などがいた。義淵僧正が法相宗の祖とされていたため、江戸時代までは興福寺の末寺であった。江戸時代以降は長谷寺の末寺となった。((Wikipediaより抜粋))


石段を登って一段高い位置に広がる岡寺の中心部へ足を踏み入れた。
本堂は見上げるほど巨大で古色蒼然としている。
その前にぼんやりと立っていたら作務衣を着て本堂の手入れをしている寺の人が「どうぞ中へ上がって・・・・」と言ってくれた。
これはご親切に、ありがたい。お礼を言って遠慮なく上がらせていただいた。
外から見上げててもご本尊の巨大な観音像が見えるのだが本堂の中からは目の前に白い観音像が間近に拝観できて圧倒された。
堂内は撮影禁止なので「岡寺」ホームページの写真をここに掲載させていただいた。木造のようにも見えるが塑像の観音仏であるという。
堂内にはほかにも貴重な古い仏像や西国三十三寺のご本尊像、江戸時代のお逗子などまるで博物館級の宝物が展示されており眼福至極であった。
ただこういう国宝級の品々がだれでも見学できると不心得者が傷つけたり盗んだりしないかと心配にもなった。
先に大問題になった寺社への油掛け事件だがこの岡寺にも仁王門などに油が撒かれて被害を受けている。
あの犯人は捕まったのか知らないがとんでもない罰当たりなやつである。
この日人は多くはなかったが三々五々という感じで参拝の人もいた。
境内には紅葉の木も多く秋にはさぞ紅葉で全山が染まり美しいことだろうと想われた。
弘法大師の像、祖師堂もあり三国三十三箇所の遍路も人びとの信仰を集めているのだろう。

参拝に登り上りで一汗かいたがいい雰囲気の岡寺であった。


★以下、写真はクリックしていただくと大きくなります。


仁王門
国指定の重要文化財。左右に木造の仁王像がある。
慶長17年(1612)建立。埋蔵文化財の宝庫といわれる明日香村において建造物で唯一、重要文化財に指定されているのは、岡寺のこの仁王門と書院だけであります。


仁王門を入ると日本庭園風の中庭が広がる。正面の石垣の上に本堂などがある。正面右にある石段を登っていく。

西国第七番
日本最初やくよけ霊場 岡 寺
〒634-0111
奈良県高市郡明日香村岡806
入山時間 : 8:00〜17:00(12月〜2月 8:00〜16:30)

          個人   団体(50名以上)
一般(大学生以上) 300円  240円
高校生       250円  200円
中学生       150円  120円


立派な金属製の灯籠が寄進されていた。


祖師堂と弘法大師石像。


本堂を中心に伽藍が広がる。



岡寺本堂。
現在の本堂は棟札などから、文化2年(1805)の上棟ですべての完成迄に30年以上かかった事が判明。4mを超えるご本尊さまが安置されているお堂であり境内の中でもひときわ目立つお堂。


鐘楼堂
正確な建立年代は不明ですが、梵鐘には文化5年(1808)と刻まれており、建築様式などから本堂と同時期に再建されたものと思われます。


重要文化財 塑造 如意輪観音座像
本尊の高さは4.85メートルにおよび、通常は平安時代以後に、密教の流入に伴って流布した六臂(六本の手)で、片膝を立てて思惟する像容が多いのですが、岡寺本尊は二臂(二本の手)で、右手は施無畏、左手は与願の印を結んで、結跏趺坐をする姿をしています。(岡寺HPより)。


本堂内部から厄除け観音を拝観する。(岡寺HPより)


龍蓋池。龍をこの池に閉じ込めたという伝説がある。


奥の院へつづく道。本堂前、龍蓋池の上手には十三重石塔がありさらにその上にいくと開祖 義淵僧正の廟塔と伝えられる宝篋印塔がある。


三重宝塔。
平成13年に復興、完成。


岡寺より明日香平野を望む。


日差しはまだ残暑だが空の雲はどことなく秋の気配を感じさせた。



関連情報URL 岡寺ホームページ。




Posted at 2015/08/19 12:25:07 | コメント(4) | トラックバック(0) | 飛鳥見物。 | 日記
2015年08月09日 イイね!

暑い一日図書館へ行きました。

 今日は朝からとなり町の図書館へ出かけ夕方まで本や資料を見ていた。
  
  最近読んだ本の中で明智光秀の子孫の人が書いた「本能寺の変四二七年目の真実」という本がおもしろかった。
  
  おもしろいというか、目からうろこの本だった。
  
  この本は先週に2日連続してこの図書館へ出かけて読みきった。
  
  今日も少し読み返してみた。


  
  これまで明智光秀は謀反を起こし突然主君の織田信長を裏切ったということくらいの印象しかなかった。
  
  なぜ裏切ったのかもよくわからなかった。
  
  さらに最強の武将に思えた織田信長がなぜ簡単に殺されたのか・・・・・。
  
  ところが真実は意外なものであった。
  
  実は織田信長とその腹心の部下である明智光秀は事前に徳川家康暗殺の計略を練っていた。
  
  まず徳川家康を京都におびき寄せ本能寺に宿泊させる。
  
  織田信長は本能寺で家康を接待し油断をさせつつ座を外す。
  
  そこを明智光秀の軍勢が討つ、という手はずを整えていたというのだ。
  
  明智光秀の大軍は羽柴秀吉の中国・毛利攻めの援軍として出立しているという設定になっていた。
  
  そのことは徳川家康の耳にも入っている。  
  本能寺の周辺に織田、明智の軍勢は皆無だった。明智光秀の軍勢は丹波国の亀山城(現在の亀岡市)にいてそこから秀吉の援軍として毛利攻めに参加するという指示を受けていた。だが織田信長は明智光秀に毛利攻めとみせかけ、京へ向かい本能寺の家康を暗殺せよとの指令を受けていた。



  明智光秀の居城丹波の国・亀山城の石垣。
  現在の京都府亀岡市にある。
  「江戸時代初頭には近世城郭として整備された。大正時代に新宗教「大本」が購入、神殿を築いたが大本事件で日本政府により爆破・破却された。戦後再建され、大本の本部が置かれている。
  小説家の司馬遼太郎は明智光秀と出口王仁三郎という2人の謀叛人を出したと評した。
  (Wikipedia)


  この二人、明智光秀と出口王仁三郎を「謀反人」と評したというのが本当ならば司馬遼太郎の歴史観、人間観は浅薄そのもの、そこらの講釈師にも劣るとしか言い様がない。

  
 「敵は本能寺にあり」
  明智光秀は配下の全軍にこう告げた。
  それは間違いない。
  だがその敵とは明智光秀の中で徳川家康から織田信長に入れ替わっていた。
  一路、明智の大軍は京都本能寺をめざした。  

  家康を騙すために織田信長はほとんど独り身のような状態で無警戒、手勢はいない。
  
  織田信長は前夜に本能寺に入った。
  
  翌日明智光秀は家康が本能寺へ入り織田信長が席を外したところへ襲撃するはずであった。
  
  だが徳川家康暗殺を決行する当日の明け方明智光秀は本能寺を襲った。
  
  徳川家康はまだ堺にいた。
  
  そして家康は本能寺の変を聞き伊賀越えをして三河へ逃げ帰った。
  
  ところがこの徳川家康の伊賀越えはすでに計画され準備されていたものだった。
  
  なぜなら徳川家康は事前に明智光秀と接触、密談し織田信長暗殺その後の明智幕府成立で手を握っていた。
  
  すなわち本能寺での織田信長暗殺は事前に徳川家康と打ち合わせ済みだった。
  
  明智光秀と談合しわざわざ織田信長の計略にひっかかったふりをして徳川家康は京都へ入ったというのだ。

  命からがらの徳川家康の伊賀越えは後の作り話であり明智光秀と内通していた家康は逃走経路に伊賀の山道に詳しい手勢を待機させておりやすやすと逃げ帰った。明智憲三郎氏の著書にはそう記してある。

  織田信長はいわば徳川家康暗殺というドッキリのし掛け人であったがそのドッキリの現場である本能寺で明智光秀と徳川家康に逆ドッキリを仕掛けられてあえなく絶命したというのだ。 
  
  さらになぜこういう真実が伝わっていないのかといえば明智光秀を討ち取った羽柴秀吉がすべての責任を明智光秀の理不尽な謀反の責任に押し付けたでっちあげ本を出版。それを広めて真相を覆い隠したからだと作者は説いている。

  羽柴秀吉が明智光秀を討ったあと徳川家康も本能寺の変での明智光秀との密約は口外することなく本能寺の変の真相は闇の中に葬られた。
  
  戦争でいろんな戦闘があるが世間の人には現場で何が起きたのか知る由もない。
  
  早く「この戦闘の真実はこうだった」とジャーナリストとか当該国の情報作戦部門が事実を隠蔽捏造して情報を拡散すればその情報がいかにも真実であるかのように広まっていきいつしか事実になっていくこともある。

  本能寺の変もこれと類似している。
  
  ではなぜ明智光秀は主君に謀反心を抱いたのか?
  
  このあたりの分析は複雑だが一つには織田信長が天下統一後の計画において織田一族による永続支配を考えていることがわかり明智光秀は結局その捨て駒にされることを悟ったことが原因となったと作者は考えているようだ。

  これまで不勉強だったが織田信長の武将としてのスケールの大きさはあのアレキサンダー大王にも匹敵するもので本気で世界征服を狙っていたフシがある。だが明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康などなどは世界とは日本だけのものだった。つまり信長の世界観にほかの戦国大名はついてこれなかった、あるいはそれを拒否したのが本能寺の変の根本原因だったのかもしれない。

  織田信長の野望はまずはシナ大陸の支配にあり、日本は信長の子供に支配させ、明智以下の諸大名には朝鮮半島やシナを分割して統治させさらに西方へ駒を進めるつもりだった。そのためキリシタンの宣教師なども拒否することなく情報を集めている。

  明智光秀の抱いた土岐一族の再興なぞ世界征服を夢見る織田信長の目には見ることの不可能な小さすぎる景色だったのかもしれない。 

  のちに羽柴秀吉が天下をとり朝鮮出兵、シナ本土攻めを構想するがすべて織田信長の構想の後追いでしかない。信長がやったのならわからないが秀吉の二番煎じが成功するはずもない無謀な計画であった。




★画像説明。★
豊臣秀吉像。極端に手を小さく描かせているが秀吉には右の親指が二本あり右手は六本指であった。前田利家『国祖遺言』には「大閤様は右之手おやゆひ一ツ多六御座候」とある。指の小ささにあわせて顔も極端に小さく全体に人物像として違和感がある。
 ルイス・フロイス『日本史』豊臣秀吉編 I 第16章
「優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた。身長が低く、醜悪な容貌の持ち主だった。片手には六本の指があった。眼がとび出ており、支那人のように鬚が少なかった。極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。抜け目なき策略家であった。」
 ルイス・フロイスは秀吉に私怨があり悪く書いているが指六本は偽りではない。


  卑怯者とか裏切り者との汚名を着せられてきた明智光秀の子孫が一矢報いたのかもしれない。
  
  まさに事実は小説よりも奇なりというべきか。
  
  この本は2009年に出版されていたのにまったく知らなかった。

  この最初の本をさらに加筆修正したのが「本能寺の変 431年目の真実」(明智憲三郎著  文芸社文庫)だそうでこちらも売れているという。
  
  興味のあるかたにおすすめの一冊です。


  

●注●コメント二件をいただき、返信コメントを書いた後で、本文の織田信長のアレキサンダー大王に匹敵云々の世界観についての記述と写真画像二葉とそのキャプションを追加しました。ご了解ください。
    
  関連情報URL 『本能寺の変 四二七年目の真実』
  株式会社第一情報システムズ 常務取締役 明智 憲三郎
Posted at 2015/08/09 19:32:43 | コメント(2) | トラックバック(0) | 身辺雑記 | 日記
2015年08月07日 イイね!

夏の甲子園野球大会・雑記。

いま夏の高校野球・甲子園大会が開幕し熱戦が連日真夏の甲子園で繰り広げられている。
わが母校・鳥取西高校は残念ながら県大会の決勝戦で敗れて出場はならなかった。
しかしなんとサプライズというのであろうか100年記念大会ということで第一回の全国中等野球大会出場の特別出演で開会式に記念のプレートを持つ役割で代表一名が出場を果たした。
テレビを見ていたらなぜか一番前で行進(当時は鳥取中学)しているではないか。
あれっつユニフォームが少し違うな?という感じはしたが間違いなく母校のユニフォームなのでたので嬉しく思った。あとでわかったのだが、入場行進のユニフォームが少し見慣れない感じがするのは第一回大会の復刻ユニフォームで揃えたということである。当時から横文字だったんだなあ!
ちなみに鳥取中学のユニフォームは字体が少し太くなっているだけでほとんどいまと同じである。白と臙脂色のいわゆる「早稲田カラー」である。
おそらく鳥取中学には早稲田大学で野球をやったOBの指導者が多かったのだろうと思われる。



個人的なことだが私の兄は高校で応援団長をやっていたが夏休みに東京へ行くというので「何しに行くのか?」と聞いたところ「早稲田大学に行き早稲田大学の応援団合宿に参加して応援の指導を受けに行くのだ」と言っていた。当時は鳥取西高校の応援団は三本線白線の学帽、学生服に白手袋というスタイルであった。
  実際は学生服の中は水泳パンツ一枚だけで試合が終わると黒い学生服には吹き出した汗の塩が幾重にも真っ白についていたことを記憶している。
いまはバンカラ風の破れ羽織袴みたいなスタイルのようだがあんなのは見たことがない。最近の流行なのだろうか。伝統といい歴史といいうっっかりしているとわけがわからなくなるようだ。
ただ自分の経験を通して言えることは、高校野球の普及において野球だけでなく応援スタイルも早稲田大学の影響が地方のすみずみの高校に及んでいたのだと思う。
高校野球というのはそういう意味で言えば単に野球という世界だけのことではなく一年に一回の高校野球を通した日本全国の文化交流の役割も果たしているのだろうと思う。
だいたい昔はプロ野球なんか目じゃない、東京六大学の野球中継のほうが日本全国津々浦々大人気でラジオ実況中継されていたのである。
全国の中等野球の地元選手が東京六大学野球で活躍するのを地元ファンは大応援していたのだと思いますね。だいたいがプロ野球の名選手は六大学出身でした。
アマチュア野球と言ったが六大学野球の人気は今の比ではない。嘘じゃないですよ。
とくに早稲田と慶應の試合、いわゆる「早慶戦」なんてどれほどラジオでの中継で熱狂していたか。
「神宮球場の森の夕空にカラスが一羽二羽三羽・・・・・」
ここまで書いてうーん記憶だけじゃなあと検索してみたら、こんなの↓でました。

「夕暮れ時の早慶戦を伝えるアナウンサーの名セリフがいまだに語り継がれているのであります。
1929年秋季の六大学野球・早慶戦中継の終わりで、「夕闇迫る神宮球場、ねぐらへ急ぐカラスが一羽、二羽、三羽……」と球場の風景を描写した[1][2]。このアナウンスは評判となり、再録[2]のSPレコード盤が15万枚の売り上げとなった。松内は毎回、ゲームセットの際にこのアナウンスで終えることを恒例とした[1]。」(Wikipedia 松内則三 アナウンサー)
この実況中継を漫才でやって大受けしたのがエンタツ・アチャコの野球漫才でありました。
ますます意味不明の深みにハマりそうなのでここらで軌道修正します。

それはさておき、甲子園の高校野球大会が戦時中の中断があたっとはいえ100年も続いているということはたいへんな偉業である。

なお大正7年には富山で発生した米騒動が全国に波及し地方予選も終わり選手が甲子園に集まっていたが兵庫県でも米騒動の大暴動が起きたため中止になったそうである。

「全国中等学校優勝野球大会として始まった1915年の第1回、73校が地方大会に出場し、10校が全国大会に。そのうち、鳥羽(京都)と早稲田実(西東京)が100年前と同じ全国の舞台を踏んだ」
(Wikipedia)。

その第一回大会出場校は次の通りだ。

秋田中(東北・秋田)
早稲田実(東京)
三重四中(東海・三重)]
京都二中(京津・京都)
神戸二中(兵庫)

和歌山中(関西・和歌山)
鳥取中(山陰・鳥取)
広島中(山陽・広島)
高松中(四国・香川)
久留米商(九州・福岡)

  これを見ると最初から全国での予選がありその代表が甲子園大会に出場したことがわかる。
大会は京都二中が優勝した。鳥取中学は広島中に勝ったが二回戦で和歌山中に負けている。

ところで100年の間には甲子園大会に台湾、朝鮮、満州の高校も出場を果たしている。
朝鮮・台湾・満州の代表校全成績
参加期間:大正10年夏~昭和15年夏
朝鮮=通算8勝20敗(夏8勝20敗)/ 台湾=通算12勝21敗(春1勝3敗/夏11勝18敗)/ 満州=通算12勝20敗(夏12勝20敗)

外地のの高校で強かったのは満州代表の大連商業高校と台湾の嘉義農林高校でなんと決勝戦まで駒を進め惜しくも破れたがそれぞれ一回づつ、準優勝という立派な成績を残している。
このうち台湾の嘉義農林高校の甲子園大会での活躍は今年1月封切りの映画になり大きな話題を呼んだ。







 100年の高校野球。まさに日本の歴史を映す鏡でもある


●関連情報URL●
台湾、朝鮮、満州からの甲子園大会出場の記録。
Posted at 2015/08/07 23:12:45 | コメント(1) | トラックバック(0) | 身辺雑記 | 日記
2015年07月30日 イイね!

何の役にもたたない中国語の話。

いまはどうかわかりませんが昔は大学では第二外国語というものがありました。
第一?は英語ですが、もう一つ外国語を学ぶのが必須でありまあドイツ語とかフランス語とか中国語というようなものの単位を取るようなことになってました。
私は中国語を選びました。
先生は日本大学の教授でこちらの大学にはアルバイト?の出張教授のような形でした。たぶん・・・。
最初の授業でその先生はいきなり中国語の歌を唄ってくれました。
たぶん・・・・・「草原情歌」か、「王(ワン)さん待っててちょうだいな・・・」なんかそんな歌だったと思います。中国語のメロディの美しい曲でしたがおっさんの教授が中国語唄うのでまあそんなに優艶には聞こえなにのですが、私は大学教授が歌を唄うということに驚愕しました。中国語へこの歌を聞いて惚れたんだよ、という情念のよいうなものを感じました。
その歌を聞いたことがその教授の中国語を学びたいという動機になった、という話を聞いてさらにびっくりしました。しかし言語というにはかなりアナログなので十分に歌が言語習得の動機になることはあり得ることです。
歌が終わると中国語を勉強された人なら「だよね・・・・・」と言われる思いますが「四声」の基礎を教えてくれました。
「マー、マー、マー、マア」というもので同じ「マー」でも発音の高低などで意味の違う言葉になるという中国語の特徴です。
「みなさん、バカみたいですが恥ずかしいという気持ちを捨てて大きな口をあけて発音してください。この四声を覚えないと中国語は発音できませんよ」と、その教授の口を見ながら教室にいた何十名かが「マー、マー、マー、マア」と大きな口を開けて「マー・・・・」を繰り返して最初の授業は終わったのであります。
ほんとは四声の間に半三声とか、ありますがそれはややこしいのでカット。
二年目はこんどは東洋大学で中国語を教えているという先生が一年間担当してくれました。
思うに私の学んだ大学には中国語の専任教授はおらずアルバイ教員で第二外国語中国語コースの授業は間に合わせるというでたらめな教育をやっていたのであります。それでもまあ授業があっただけはまともな大学だったのでしょう。
この先生は正直言って中国語はあまり上手ではありませんでした。もともと語学教師ではなくなんでも前職は外交官だったと自己紹介してくれました。授業は中国文化に関する余談のようなものが多かったですね。試験問題も「中国の四大奇書」とはなにか?というようなオタク的な問題が出ました。
 ともかく二年間の第二外国語の中国語は二年ともなぜかA(甲)でした。
 しかし単位は取れましたが、それで中国語が喋れるわけでもなくあとは自己研鑚しかないわけです。
 まだ日中国交回復の前でしたので東京には台湾の大使館がありました。
 いわゆる中国共産党の大陸中国とは国交がないので中国に旅行することもできない時代でした。
 たまたま六本木駅から地下鉄に乗ったところ中国語の新聞を読んでいる人を発見。話かけてみたらその新聞の発行人であり台湾の日本大使館を紹介してくれました。何度か台湾大使館にも出かけて中国語の教材を入手できないか相談した記憶があります。今と違い中国語の教材や本もあまりない時代でした。
 さらに銀座三越の裏あたりで日本在住の台湾人の子供に中国語を教える夜間教室があるのでそこで勉強してみなさいと教えられました。東京には台湾人のラーメン屋とか支那料理やとかたくさんあり親は仕事に忙しく台湾語を子供に教える暇もない。そこでそういう台湾人の子供を教えるボランティアの台湾語語学教室があったのです。
 そこで夜の銀座、暗い階段を登った三越デパート裏の古いビルの一室で中国語の教室に通い始めたのです。
 昼間は仕事があり、週に一回夜にその教室に通う。
 ところが私が二年間習ったのは北京語であり台湾語ではありません。台湾語講師の先生の中国語は北京語とはどこか違う中国語であり違和感がありました。講師は台湾人なので自分の習った北京語とは「なんか、違うよね」という気持ちが強く半年ほど通いましたが続きませんでした。
語学の専門家でもないのになぜそんな些細な違いが気になったのかよくわかりません。
しかし、台湾人の子供たちは元気で日本人の年上の青年が来ているのを何とも思わず仲間のように思ってくれていたのは嬉しい気持ちでした。授業が終わると「再見(ツァイチエン!)」と口々に言葉を交わして急なビルの階段を一緒にだだっと下って別れていくのでした。
 狭い階段を降りると、そこはまさに高度成長期まっただ中の夜の銀座の裏通りなのですが台湾語学教室に通っている子供や私にとって銀座のネオン街は無縁の存在でした。
 その後日中国交回復となり上海、南京、揚州、蘇州、また北京など中国へ旅する機会が何度もありました。
 しかしなぜか台湾には一度も行っていません。
 いまはもうありませんが新宿の朝日町に台湾屋台風飲み屋があって飲んだくれてよく行きました。
 しじみのニンニク醤油炒め?あの香ばしい味が蘇ります。サラミのような甘いソーセージ。スライスネギがよくサラミにマッチしていた。
 お酒は老酒だったかなあ。夏でなくてももう暑くて暑くて扇風機が回っていても半分は露天なのでただ暑い。しかも次々に人が来るので路上は人だらけで・・・・。
 いまは朝日町界隈はすっかりきれいな町になり当時の面影もありません。新宿朝日町と言っても「はあ?」という人の方が多いでしょう。
 思い出の中に残るのは若き日の追憶の町、時の忘れ人その面影ばかりです。
 なお私のお気にいりの中国の歌は「草原情歌」よりも「何日君再来」ですね。
 



Posted at 2015/07/30 01:21:01 | コメント(3) | トラックバック(0) | 四方山話。 | 日記
2015年07月27日 イイね!

なんの役にも立たない英語の話。

  英語は普段使うこともないし英会話はできなくても暮らしに困ることはないので特に勉強していない。
仕事柄英語を必要とする人は大変でしょうがしっかり英語を勉強、習得して頑張ってほしい。
そこで何の役にも立たない英語にまつわる思い出話を書いてみたい。

中学校で初めて習った英語の教科書は「ジャック&ベティー」だった。
英国風の制服を来た男女の学生が表紙、イラストに描かれていた。
そのころは「ハブ動詞」というものを教えられた。
「ハブ ユー ア ペン?」
ところが中学校3年生になったころ英語の教師が「ハブ動詞も正解だが、ドゥー動詞もあるので覚えてください」と言った。これはどういうことかといえば、「ハブ ユー・・・・?」でもいいが、「ドゥー ユー ハブ ア ペン?」でもいいよということだった。
なぜそうなったのか?英文法が変わったのか?いまだにわからない。
いまはどうなんだろう?
また中学校のときに英語のテストで「ガラス」の英語を書けという問題が出た。
「ガラス?そりゃ、これだよな」
と自信満々で「ギヤマン」とローマ字風に書いたが☓だった。


話はいきなりワープして30年くらい前、アメリカに仕事で行き帰りのJFケネディ空港でのことである。
朝早い時間でありなぜか無料で朝食のサービスがあった。
これはありがたいとプレートを持って列に並んだ。
私の前にスーツの上にコートを着てカバンをもったいかにも日本のビジネスマンという風体の若者がいた。で列がだんだん進んでそのビジネスマンの番になった。
如何様に注文するのか?と前の男の言うことをそれとなく聞いていた。
すると流暢とも思える英語のスピーキングでペラペラと喋りだした。
しかも何を言っているのかまったくわからない。
やべえ!・・・・・・これは何かややこしい料理かなにかを注文しなくちゃならんらしい。
でその英語ペラペラのジャパニーズビジネスマンがプレートを捧げ持って退場した。
いささか緊張してカウンターの前に進み出てみるとそこには黒人のおばちゃんがいた。
一瞬黙っていると、眠そうな顔をしてまったくやる気のなさそーな態度でそれでもこちらの目を見て
「ソー・・・・・アー・・・・・エー・・・・・・」
とかったるそうな声で言った。
「はあ?ソー?アー?エー?」てなんだ?
と考えるまでもなく、黒人おばちゃんの顔ではなく視線を下に下げるとそこには2つのアルミ箱があって一つにはソーセージのボイルしたもの、もう一つにはゆでたまごが入っていた。
ははあ・・・・・そうゆーことかい。
まあ英会話本風に言えば「ソーセージ オア エッグ?」と言っていたのだろう。
そこで「ソー」と一言うと案の定、ソーセージを一個トングで摘んでプレートに乗せてくれた。
それで終わりであった。
「ソー」あるいは「エー」とだけ言えば用は足りたのだが、あの生真面目風のジャパニーズビジネスマンは何を長々と喋っていたのだろうかとその内容が気になったが後の祭りであった。

このときはニューヨークに行ったので滞在中にも似たような経験をした。
朝飯を食べようと思ってピザ屋へ入った。
アメリカというとハンバーグが多いかと思うがそうではなくピザの店が非常に多い。
店のスタイルはハンバーガー屋と似ている。
そこでカウンターのお嬢さんの前に行くと何やら流暢な英語で話しかけてきた。
買うピザの種類を質問しているのか?
ドリンクは何にするかと聞いているのか?
それとも現金払いかカード払いかを聞いているのか?

さっぱりわkらないがそんなに難しいことは言うはずがない。
もし日本だったらどうなんだろうと考えてみた。
「ここでお食べになりますか?それともお持ち帰りになりますか?」
と言うのは日本のハンバーガーショップの決まり文句だ。
そう思ったらいまお嬢さんがペラペラと喋った英語の中に「ステイ」という単語らしき響きがあったよなあ、と気がついた。
おもむろに「ステイ」というとにっこり笑って「何にいたしますか?」と注文を聞いてくれた。
たぶん、彼女は日本でもマニュアルにあるとおりに「ツー ステイ?オア ツー ゴー?」と聞いてくれたのだろう。ただこんな簡単な言葉も速く言われるとなかなか聞き取れないものだ。
言っていることは単純に「ソー オアー エー」と似たような二者択一を問うものである。
アメリカ式のマニュアル応対は世界共通であり画一的なものなのでこういうときには便利なものである。

 
  
Posted at 2015/07/27 21:44:42 | コメント(3) | トラックバック(0) | 四方山話。 | 日記

プロフィール

「外国人の「外国免許切替(外免切替)」制度をめぐり短期滞在者がホテルの住所で日本の免許を取得することについて、ホテル滞在による「支障は把握していない」とする初の答弁書を閣議決定した。それで良いということだ。
日本保守党の竹上裕子衆院議員の質問主意書に25日付で答えた。無責任だろ。」
何シテル?   05/18 14:14
 趣味は囲碁、将棋、麻雀、釣り、旅行、俳句、木工、漆絵、尺八など。 奈良、京都、大阪、和歌山の神社仏閣の参拝。多すぎて回りきれません。  奈良では東大寺の大...
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