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角鹿のブログ一覧

2015年06月22日 イイね!

難しい?!幼稚園の入試問題。




(  )の中に入るのはなんでしょう。





(  )の中に入るのはなんでしょう。



 いずれも慶應義塾付属幼稚舎の入試問題です。
 前回の問題は香港の小学校の入試問題でしたがこれは「幼稚園」の入試問題。
 私はまたしても惨敗でございました。
 

 解答は関連情報URLで御覧ください。↓。




関連情報URL : https://nanapi.jp/105800
Posted at 2015/06/22 16:16:19 | コメント(3) | トラックバック(0) | 四方山話。 | 日記
2015年06月21日 イイね!

香港の小学校入試問題が難しすぎる。





この図の問題は、香港の小学校一年生の入学試験問題だということです。
小学校の入学試験問題とあなどるなかれ。けっこう難しいというか難問じゃないか。
問題はこの駐車場の図で車で隠れている番号は何番か、という問題です。
何かの法則性があるはずなのだがそれが何か?
ちなみに香港の子供はこの問題を20秒で解くという解説がついています。
小学校一年生の入試問題ということは幼稚園卒業レベルということですが・・・・。



この問題の解答は↓の「関連情報URLにリンク」が張ってありますので御覧ください。
Posted at 2015/06/21 11:47:33 | コメント(4) | トラックバック(0) | 四方山話。 | 日記
2015年06月15日 イイね!

巨大なナメクジを掴んだ話。

前回、市営球場の思い出としてテントに煽られて危なかったという話を書いた。
球場のある同じ城山の山の方に登ったことがある。
年代はやはりり小学校の3、4年生くらいだったろうか。
兄弟も入れて三人くらいで遊びにいった。しばらく城山の道を登っていくと自然の山のような場所があった。その一角が崩れており赤土がむき出しに露出していた。
なぜそう思ったのかはわからないのだが、だれからともなく「ここを登ってみようか」という話になった。
かなり急な山肌でありしかも赤土が崩れている。
いちばん先に誰が登るかということになった。
誰も希望しなかったので「じゃあ、僕が行く」と言って登り始めた。
登り始めてわかったのだが、赤土なのでつかまる木の枝がない。周辺は山の樹木がありいくらでもつかまる場所はある。だが幅一メートルくらいの赤土があり、高さは10メートル位のものだったろうか。
で、おそるおそる足場を固めて上がっていった。
後ろには次の者が続いて登ってきた。
さらに三番目が下で見上げつつ登攀の状況をみていた。
そのとき、左手上方に黄色い木の根がアーム状に赤土に突き出しているのが見えた。
ああ、あそこに左手で掴まれば大丈夫だ。
見た目大きなバナナくらいの黄色い枝が赤土の上に横たわるように出ている。
木の根っこだ。
そう確信して左手を伸ばしむんずと掴んだ。
途端に??????????。
左手の手のひらはなにかぐんにゃりしたものを感じていた。
「うげーーーひゃあーーーー」
わけもわからない悲鳴を発してのけぞってしまった。
当然、赤土からずり落ちた。
すぐ下まで登っていた弟か誰か、下のものの頭に尻もちをついた。
下のものも支えきれず崩れてしまった。
そこでずずずず・・・・・と二人が落下した。
三番目はまだ登ってはいなかったが、上の二人が落下したのであおりを受けて転んだ。
赤土の崩れた下にしばし三人が折り重なっていた。
私が掴んだ木の根っ子と思ったものは、なんと巨大なナメクジであった。
黄色い肌に黒い線が入った不気味なものであった。
大きさはほんとうに巨大なバナナのようであった。
この気味悪さにもう山登りをする気力もなくなり帰ることにした。
そこらにあった板切れにこの巨大なナメクジを乗せて交互に交代しながら家まで持ち帰ることにした。
だがこのナメクジはだんだん小さくなり板から何度も落ちてしまう。
その都度乗せるのが面倒くさくなりとうとう諦めて捨ててしまった。
結局手ぶらで家には帰ることとなった。
城山でこんな巨大ななめくじがいたんだという話も夕飯時の両親にはまったく理解されなかった。
なおも、いろいろと言ってみたが
「そんなもんおるかいや」
「かばち垂れんないや」
 とおやじに怒られてオシマイになった。
 まあそれはいいのだが、あんな気持ちの悪いものを掴んだことはアレが最初で最後である。
 掴んだとたんにふっと宙に浮いた当て外れ感が半端なかった。
 自分を支えてくれる木の根と思ってチカラを入れた途端にふうわっと浮いたあの虚しさ。
 しかも見たこともない巨大なナメクジとは・・・・。
 でもいまふっと思ったがあれはほんとにナメクジだったのだろうか?
 
 


Posted at 2015/06/15 23:18:01 | コメント(2) | トラックバック(0) | 四方山話。 | 日記
2015年06月11日 イイね!

市営球場の思い出。

 あれはたぶん小学校4、5年生くらいの時だった。
山陰の城下町T市に市営球場という名前の野球場があった。
昔の城山の一部につくられた野球場で高校野球の大会やときにはプロ野球の巡業試合なども行われていた。
夏の熱い盛りであった。
城山の茂った樹木は緑濃くこんもりとしていた。青空にまぶしい日差しが照りつけていた。
その日この市営球場に近所の子供達と遊びにきていた。小学生が5、6人くらいはいたと思う。
市営球場では高校野球の試合が行われていた。大勢の観客が詰めかけてその試合を見ていた。この球場はグラウンドを挟んで城山の山側にはセメントで作られた固定式のスタンドがある。だいたい十段くらいはあっただろうか。そこが満席になると一段と高い城山に登る道があるのでそこに座って見る人もいた。またよく見えるようにその道の脇にある太い樹木に登って見る人もいた。言葉で言えば鈴なりの人だかりという光景である。

あまり娯楽のない昭和30年ころである。高校野球は一般の市民にとっても大きな楽しみの一つであった。見物客は試合をする高校の生徒だけでなく町の大人たちも大勢詰めかけていた。
バックネット、ホームベースから見ると正面にグラウンドが広がっておりその左側つまり三塁側は城山の斜面を利用したセメントの固定式スタンドがある。では一塁側のほうはどうなっていたのか。そこには固定式のスタンドはなく、そのかわりに鉄骨を組み立ててつくられた観客席があった。客席はやはり十段くらいはあったように思う。子供の視線からみて、最上段は見上げるほど高かった。正確には覚えてはいないが最上段までの高さは5、6メートルはあっただろう。幅は二十メートルくらいだったろうか。座る部分は鉄骨に板が貼り付けてあった。
もう試合は始まっており三塁側も、一塁側の鉄骨式の架設スタンドも超満員であった。
前後の脈絡は記憶していないのだがわれわれ小学生のガキどもは鉄骨で組み立てられた架設スタンドへ登っていった。下から見上げれば満員ではあったがそれでも上へ登る隙間はあり最上段へ来てみると以外にも人は少なかった。というか最上段のいち列しか空席はなかったと言ったほうがいいだろう。そこで5、6人の仲間は最上段にそろそろと上り思い思いに席を取った。

だがそこで問題が起きた。
正確には問題が起きたのはその5,6分後のことである。
架設スタンドの上には客席の日除けに白い布のテントがかけられていた。ほんらいは最上段の後ろにある背もたれというか鉄柵の上部に紐かなんかで固定されていたものであろう。しかしその日はテントが強風に煽られて舞い上がっていた。スタンドの前部に四角い枠のようになっている鉄骨に長方形の日除けのテントの前部が固定されていた。しかしテントの後部は空中に舞っていたのである。かなりの風が吹いていた。
最上段にあがった子供の目から見ると目の前にテントの端がひらひらと動いている。風が強く吹くと上空高く舞い上がり風が少し弱まると目の前にテントの端が下がってくる。手を伸ばせばその端をつかむことができそうな距離である。
 そのとき誰かが言った。
 「おい、テントの端を掴もうや。掴んだら絶対に離すなよ」
 もう僕たちは野球なんか見てはいなかった。空中にはためくテントを掴むことに夢中になった。

 バタバタと音立てて空中に舞い上がったテントの端がふわっと降りてきた。
 いまが掴むチャンスだった。
 誰もがおもいっきり手を伸ばしテントの端を掴んだ。間隔を置いて5,6人の子供が端を掴んだテントは前方からの風を受けて大きく膨らんだ。
 私はちょうど一列になった子供たちの真ん中あたりにいた。
 テントの端はただの布の端であり掴むと言っても布を指先で丸め込み力いっぱい握っているだけのことであった。
 「絶対に手を離すなよ」
 その一言が私のテントを握る手に一層の力を加えていた。
 そのとき強い風が前方から吹き上げた。誰もが一瞬頑張った。だがそのとき風の力に負けたのか皆が一斉に手を離したのである。
 ただ馬鹿正直に思いっきりテントの端を握りしめていた私を除いて。
 次の瞬間、私の体は空中高く舞い上がっていた。

 上空から架設スタンドの後ろのグラウンドの土が見えた。仮設スタンドいっぱいに座っている観客のぎっしりと並んでいる頭が見えた。
 ここで手を離したらスタンドの後ろの地面に落下する。
 私は必死で掴みにくいテントの端を握りしめていた。そのままの姿勢であと二、三秒もいたら持たなかったかもしれない。  
 テントの端は私の体重の重みで空中からしだいに沈みはじめ満員のスタンドの上に落下を始めた。だが上から見ると真下は人の頭ばかりがぎっしりと並んでいる。そこへテントを握った私がゆっくりとスローモーションのように落下していくのである。
 もうスタンドの中段くらいまで見下ろす位置に下がってきた。
 そのときスタンドに座っていた何人かが私を見上げ異常事態に気づいてくれた。
 あのときの大人の人達のびっくり仰天した表情をいまも覚えている。
 誰かが手を差し伸べて脚を掴んでくれた。
 見ると偶然だが席が一人分だけ空いていた。左右から誰かにつかまれた形でその空いた席へストンと座ることができた。空中から落下したのではなくテントは最後まで離すことなく席につくと同時に両手を開いた。
 助かったと思った。
 記憶はそこで途切れている。

 その後も野球を見物したのか、仲間の子供たちとその後どんな話をしたのか、どのように家に帰ったのか、まったく覚えていない。
 ただ空中から満員のスタンドに無事に降り立つまでの数秒間のことだけはいまも鮮明に記憶している。体が空中に浮いた時の浮揚感も微かに記憶している。
 「絶対に手を離すなよ」
 そう言いながら全員がパッと一斉に手を離し、その瞬間にぐわっと全身が空中に浮かんだときの騙された感、なんで!と思ったことも覚えている。
 だが一緒に市営球場へ遊びに行った子供たちの名前も顔も覚えてはいない。
 これだけの危機一髪の体験だったが別に怪我の一つもしなかった。
 幸運だったと言えるだろう。
 だがこのことを思い出すたびに、ホントはかなりやばかったよなあ、と思う。
 夏が来て高校野球の季節になるとそういえばこんなこともあったよな、とときたま思い出すことがある。
 たぶんあの市営球場はいまは取り壊されて姿形もないだろう。
 蝉が煩いほど鳴いていた。
 蝉しぐれの中で青い空に舞い上がっていた白いテントをいまでも記憶している。
Posted at 2015/06/11 00:08:32 | コメント(3) | トラックバック(0) | 四方山話。 | 日記
2015年06月01日 イイね!

箱根駅伝、大丈夫?

このところ日本列島は地震と噴火に見舞われておりどうも落ち着かない。
 ゴールデンウイークのときにすわ噴火か注目を集めた箱根の大涌谷もいまだに沈静化していない。
 このまま箱根の噴火危険度が長引けば、状況次第で来年の「箱根駅伝」はどうなるのだろうかと不安がよぎる。最悪、噴火となったら規模にもよるだろうが中止も早めに決断しないといけないかもしれない。
 もともと箱根は標高2700メートルくらいの富士山のような噴火火山だったが噴火と陥没でいまのような形状になったと言われている。これは箱根火山研究の基礎をつくった久野久氏が唱えた説で、箱根山は約50万年前から25万年前にかけて標高2700㍍の富士山のような形をした成層火山だったが噴火で上が吹っ飛びさらに中心部が陥没して現在の姿になった、という学説だ。
 その後の研究では久野説ではうまく説明できないとして諸説出ているがまだまだすべては解明されていない。やはり謎が多い火山である。
  
 万が一ということを想定すれば箱根山一帯で何が起きても不思議ではない。
 これまで大噴火がなかったことが幸いだったのかもしれない。もともと箱根駅伝が企画されたとき、東京↔日光の学生駅伝も有力候補だった。いまさらながらの話だが、箱根が危険となればその変更もありうる話なのかもしれない。 実際にはいまからでは来年はむつかしいだろう。また箱根の関係者には箱根以外での開催はとんでもないという話ではある。
 
 箱根駅伝の開催について関東学生陸上競技連盟が大涌谷噴火との関係で何かを検討しているという情報は伝えられていない。しかし大会関係者は気をもんでいることだろう。
 ただ相手は予測不能の火山である。したがって中止の可能性もゼロではない。大会の安全を考えればどうするかいまから何らかの対策を考えておくべきだろう。このまま終息すればいいが見通しはなんとも言えない。
 ただ悩ましいのは共催の読売新聞社はじめ箱根のホテル、旅館、レストランからおみやげ店などこのビッグイベントの経済効果はかなりのものとなる。それだけに中止となれば影響は甚大となる。箱根に挑む大学も陸上選手も一年の修練がふいになる最悪の事態である。とくに箱根のホテルや旅館は常連校や常連客からは一年前から予約が入っているのが普通だ。箱根出場が決まっている大学は予約しているのは当然だが、予選会で出場が決まったとしてもそこから大人数の予約はまず無理というものだ。
 そうした駅伝大会の開催をめぐるいろんな事情もあり当然のことながらなんとしても開催してほしいのが関係者共通の心情である。
 かといって、もし開催を前提に事を進めていて年末になって箱根で大噴火の兆候ということになった場合、果たして強行できるのだろうか?
 
 余談だが駅伝は京都から東京遷都(明治2年)から50年後の大正6年(1918年)4月27日から三日間「奠都50年」記念マラソンリレーとして京都~東京へのリレー形式のマラソンを行なった。この大会は日本の長距離陸上選手を育成しようという「日本のマラソンの父」といわれる故・金栗四三氏の発案で実現したものである。
 これが今日の日本の「駅伝競走」の始まりである。

「競技としての最初の駅伝は、東京奠都50周年記念として讀賣新聞社会部長・土岐善麿[1] の発案で同社が主催し1917年4月27日に行われた「東海道駅伝徒歩競走」とされる[2]。京都の三条大橋を午後2時に出発し、東京の上野不忍池(しのばずのいけ)までの23区間、約508kmを走り抜き、三日間、昼夜兼行で走り継ぐ壮大なたすきリレーだった。到着したのは翌々日の午前11時34分であった。三条大橋と不忍池のほとりにはそれぞれ「駅伝発祥の地」の碑が現存する。」(Wikipedia)


京都・三条大橋たもとにある「駅伝発祥の碑」。

 その後、東京の大学が駅伝競争を考えて、最初は日光までの往復が有力でしたが早稲田大学陸上部在籍中の河野一郎(河野洋平の親父)が将来政治家をめざしており箱根になれば自分の選挙区を通ると考えて強引に箱根駅伝コースを決めたと言われている。実際河野一郎は箱根駅伝に出場しているし、代議士になってからも選挙区を通る選手を毎年応援している。
 箱根駅伝第一回大会は、、1917年(大正6)に早大、慶大、明大、東京高師(現筑波大)の四校が参加して実施された。
  
 私はかつて10年間毎年正月は箱根へ行き1月2,3日は箱根駅伝を現場で見てきた。
 箱根駅では大学最高峰のレースであり日本一を決めるチャンピオンシップの激闘の場である。同時に東京から箱根までの往路、復路は選手にとっては走る道路ではなくまさに栄光の花道である。手に手に旗を持って振り続ける応援の人垣が二重、三重に途切れることがない。勝ち負けは関係なくここを走ることができた選手には一生忘れられない最高の思い出となる。またその影には4年間黙々と練習をしても一度も箱根を走ることのできない選手もいる。
 各大学での選手発表の瞬間は選ばれた選手、エントリーされなかった選手と明暗がはっきりと別れる。
 天国と地獄はそこだけではない。
 復路の芦ノ湖のスタート地点は、あらかじめエントリーされていた選手が当日の朝になって大学側の選手交代、交代申し込みにより大きく張り出された大学ごとの選手名簿欄に次々に名前を書き換えられていく光景を見ることができる。あらかじめ選手には前もって告げられてはいるだろうが突然変えられることももちろんある。
 子供の晴れ姿をひと目見て応援しようと遠くから駆けつけてきた両親や家族の落胆は見てはいられない。一秒の勝敗を争う箱根駅伝に勝つために監督はそういう非情な決断をしなくてはならない。
 優勝の栄冠の影には血の涙を流すような苦しい練習の積み重ねがあり、また惜しくも敗れたチームには忘れることのできない屈辱の涙もある。
 箱根駅伝はチームスポーツであり、一本のたすきをつないで最期まで諦めずに走り切るという団結の大切さを学ぶよい機会でもある。
 同時に箱根駅伝はそういう勝負の非情さ、厳しさを学ぶ場所でもある。
 だが勝者にも敗者にも「箱根を走った」ということは人生の最高の財産となることは間違いない。
 そういう特別なドラマの大舞台が箱根駅伝往復10区間217・1㎞なのである。
 いまこの初夏のような猛暑の中でも各大学の選手たちは一日20㎞くらいは朝晩走る猛烈な練習をしていることと思う。これから夏になれば本格的な夏合宿に入る。秋になればいくつかの大きなレースが待っている。また予選会から本大会をめざすチームにはまずは選考レーズを突破しないといけない。
 来年の大会まで時間はあるようでほとんどない。
 箱根駅伝中止という最悪の事態にだけはならないことを、なんとか無事に来年も開催できることを今から祈るような気持ちで願っている。
 
 ちなみに今年11月29日に、全国14大学の女子学生チームがエントリーし、23・4㎞、6区間、標高差875メートル(箱根は標高差864メートル)で第二回「日光いろは坂女子駅伝」大会が実施決定している。ちなみに昨年の第一回大会は、優勝は「東京農業大学A」、二位は「大東文化大学」、三位は「大阪芸術大学」という結果であった。
 今年も男子学生が箱根の山登りなら、女子学生は日光いろは坂を登るわよ!とばかり、箱根より高い標高差、紅葉に彩られた秋の日光いろは坂を女子学生が果敢に走りぬく。
 
Posted at 2015/06/01 22:06:48 | コメント(3) | トラックバック(0) | 四方山話。 | 日記

プロフィール

「外国人の「外国免許切替(外免切替)」制度をめぐり短期滞在者がホテルの住所で日本の免許を取得することについて、ホテル滞在による「支障は把握していない」とする初の答弁書を閣議決定した。それで良いということだ。
日本保守党の竹上裕子衆院議員の質問主意書に25日付で答えた。無責任だろ。」
何シテル?   05/18 14:14
 趣味は囲碁、将棋、麻雀、釣り、旅行、俳句、木工、漆絵、尺八など。 奈良、京都、大阪、和歌山の神社仏閣の参拝。多すぎて回りきれません。  奈良では東大寺の大...
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