このところ日本列島は地震と噴火に見舞われておりどうも落ち着かない。
ゴールデンウイークのときにすわ噴火か注目を集めた箱根の大涌谷もいまだに沈静化していない。
このまま箱根の噴火危険度が長引けば、状況次第で来年の「箱根駅伝」はどうなるのだろうかと不安がよぎる。最悪、噴火となったら規模にもよるだろうが中止も早めに決断しないといけないかもしれない。
もともと箱根は標高2700メートルくらいの富士山のような噴火火山だったが噴火と陥没でいまのような形状になったと言われている。これは箱根火山研究の基礎をつくった久野久氏が唱えた説で、箱根山は約50万年前から25万年前にかけて標高2700㍍の富士山のような形をした成層火山だったが噴火で上が吹っ飛びさらに中心部が陥没して現在の姿になった、という学説だ。
その後の研究では久野説ではうまく説明できないとして諸説出ているがまだまだすべては解明されていない。やはり謎が多い火山である。
万が一ということを想定すれば箱根山一帯で何が起きても不思議ではない。
これまで大噴火がなかったことが幸いだったのかもしれない。もともと箱根駅伝が企画されたとき、東京↔日光の学生駅伝も有力候補だった。いまさらながらの話だが、箱根が危険となればその変更もありうる話なのかもしれない。 実際にはいまからでは来年はむつかしいだろう。また箱根の関係者には箱根以外での開催はとんでもないという話ではある。
箱根駅伝の開催について関東学生陸上競技連盟が大涌谷噴火との関係で何かを検討しているという情報は伝えられていない。しかし大会関係者は気をもんでいることだろう。
ただ相手は予測不能の火山である。したがって中止の可能性もゼロではない。大会の安全を考えればどうするかいまから何らかの対策を考えておくべきだろう。このまま終息すればいいが見通しはなんとも言えない。
ただ悩ましいのは共催の読売新聞社はじめ箱根のホテル、旅館、レストランからおみやげ店などこのビッグイベントの経済効果はかなりのものとなる。それだけに中止となれば影響は甚大となる。箱根に挑む大学も陸上選手も一年の修練がふいになる最悪の事態である。とくに箱根のホテルや旅館は常連校や常連客からは一年前から予約が入っているのが普通だ。箱根出場が決まっている大学は予約しているのは当然だが、予選会で出場が決まったとしてもそこから大人数の予約はまず無理というものだ。
そうした駅伝大会の開催をめぐるいろんな事情もあり当然のことながらなんとしても開催してほしいのが関係者共通の心情である。
かといって、もし開催を前提に事を進めていて年末になって箱根で大噴火の兆候ということになった場合、果たして強行できるのだろうか?
余談だが駅伝は京都から東京遷都(明治2年)から50年後の大正6年(1918年)4月27日から三日間「奠都50年」記念マラソンリレーとして京都~東京へのリレー形式のマラソンを行なった。この大会は日本の長距離陸上選手を育成しようという「日本のマラソンの父」といわれる故・金栗四三氏の発案で実現したものである。
これが今日の日本の「駅伝競走」の始まりである。
「競技としての最初の駅伝は、東京奠都50周年記念として讀賣新聞社会部長・土岐善麿[1] の発案で同社が主催し1917年4月27日に行われた「東海道駅伝徒歩競走」とされる[2]。京都の三条大橋を午後2時に出発し、東京の上野不忍池(しのばずのいけ)までの23区間、約508kmを走り抜き、三日間、昼夜兼行で走り継ぐ壮大なたすきリレーだった。到着したのは翌々日の午前11時34分であった。三条大橋と不忍池のほとりにはそれぞれ「駅伝発祥の地」の碑が現存する。」(Wikipedia)

京都・三条大橋たもとにある「駅伝発祥の碑」。
その後、東京の大学が駅伝競争を考えて、最初は日光までの往復が有力でしたが早稲田大学陸上部在籍中の河野一郎(河野洋平の親父)が将来政治家をめざしており箱根になれば自分の選挙区を通ると考えて強引に箱根駅伝コースを決めたと言われている。実際河野一郎は箱根駅伝に出場しているし、代議士になってからも選挙区を通る選手を毎年応援している。
箱根駅伝第一回大会は、、1917年(大正6)に早大、慶大、明大、東京高師(現筑波大)の四校が参加して実施された。
私はかつて10年間毎年正月は箱根へ行き1月2,3日は箱根駅伝を現場で見てきた。
箱根駅では大学最高峰のレースであり日本一を決めるチャンピオンシップの激闘の場である。同時に東京から箱根までの往路、復路は選手にとっては走る道路ではなくまさに栄光の花道である。手に手に旗を持って振り続ける応援の人垣が二重、三重に途切れることがない。勝ち負けは関係なくここを走ることができた選手には一生忘れられない最高の思い出となる。またその影には4年間黙々と練習をしても一度も箱根を走ることのできない選手もいる。
各大学での選手発表の瞬間は選ばれた選手、エントリーされなかった選手と明暗がはっきりと別れる。
天国と地獄はそこだけではない。
復路の芦ノ湖のスタート地点は、あらかじめエントリーされていた選手が当日の朝になって大学側の選手交代、交代申し込みにより大きく張り出された大学ごとの選手名簿欄に次々に名前を書き換えられていく光景を見ることができる。あらかじめ選手には前もって告げられてはいるだろうが突然変えられることももちろんある。
子供の晴れ姿をひと目見て応援しようと遠くから駆けつけてきた両親や家族の落胆は見てはいられない。一秒の勝敗を争う箱根駅伝に勝つために監督はそういう非情な決断をしなくてはならない。
優勝の栄冠の影には血の涙を流すような苦しい練習の積み重ねがあり、また惜しくも敗れたチームには忘れることのできない屈辱の涙もある。
箱根駅伝はチームスポーツであり、一本のたすきをつないで最期まで諦めずに走り切るという団結の大切さを学ぶよい機会でもある。
同時に箱根駅伝はそういう勝負の非情さ、厳しさを学ぶ場所でもある。
だが勝者にも敗者にも「箱根を走った」ということは人生の最高の財産となることは間違いない。
そういう特別なドラマの大舞台が箱根駅伝往復10区間217・1㎞なのである。
いまこの初夏のような猛暑の中でも各大学の選手たちは一日20㎞くらいは朝晩走る猛烈な練習をしていることと思う。これから夏になれば本格的な夏合宿に入る。秋になればいくつかの大きなレースが待っている。また予選会から本大会をめざすチームにはまずは選考レーズを突破しないといけない。
来年の大会まで時間はあるようでほとんどない。
箱根駅伝中止という最悪の事態にだけはならないことを、なんとか無事に来年も開催できることを今から祈るような気持ちで願っている。
ちなみに今年11月29日に、全国14大学の女子学生チームがエントリーし、23・4㎞、6区間、標高差875メートル(箱根は標高差864メートル)で第二回「日光いろは坂女子駅伝」大会が実施決定している。ちなみに昨年の第一回大会は、優勝は「東京農業大学A」、二位は「大東文化大学」、三位は「大阪芸術大学」という結果であった。
今年も男子学生が箱根の山登りなら、女子学生は日光いろは坂を登るわよ!とばかり、箱根より高い標高差、紅葉に彩られた秋の日光いろは坂を女子学生が果敢に走りぬく。