奈良のほぼ中央部に位置する吉野町から和歌山県熊野方面へ深山幽谷の目もくらむ断崖絶壁を縫うように走る国道169号線。ここを走ろうと思う人は、必ず前もって道路状況や工事情報を入手されてから計画されることをおすすめする。年がら年中、土砂崩れや補修など工事をしてない日はないというほどで冬季は積雪や凍結があり最悪通行止め状態になることもある。
4月1日、「東熊野街道」という愛称で呼ばれる169号線を走り和歌山県との県境ちかい下北山村にある「きなりの湯」に行ってきた。
車でほぼ一時間ほどの距離である。
このルートは緑の多い断崖絶壁、トンネル、断崖絶壁、トンネル、断崖絶壁、トンネルの繰り返しであり、道は山肌にそってカーヴ、カーヴ、大きいカーヴ、橋、またカーヴ、大きいカーヴ、たまに対向車とすれ違う、けっこう大きいトラックとすれ違う、またカーヴ、郵便の小さく赤い車とすれ違う、土日や休日はバイクのツーリングとすれ違うこと多し、といった走行風景なのである。
国道169号線は日本一の蛇行性峡谷である北山川に沿ってうねいうねと急カーヴを描いて走る。この北山川を堰き止めてつくられたのが池原ダムである。真上の上空から見ればまるで長大な大蛇が左右に脚を伸ばしながら峻険な山岳地帯に身を潜めているようなすさまじい光景を目にすることができるだろう。
国道169号線はさながらこの大蛇がうねる胴体や手足の縁にそって急カーブを繰り返しながら続く山岳道路である。

山肌の急斜面ぞいを走る国道169号線。落石や土砂崩れ防止のコンクリート壁やら網やらが張り巡らされている。

この日も数カ所で片側交互通行だった。沿道にも桜が植えてあり目が和む。

正面のアーチ型コンクリート壁が池原ダムの貯水壁。もしこの壁が崩れたら一瞬にしてスポーツ公園はダム湖の底に沈む。いわば「きなりの湯」は日本唯一、ダム湖の湖底の気分を味わえる秘境の天然温泉といえるだろう。

池原ダムの貯水湖のコンクリート壁。間近で見るとその巨大さを実感できる。総貯水量は日本にあるダムの中で最も多いダムである。
国道169号線ぞいには人家のある集落は極めて少ない。
切り立った山と渓谷の底に見える谷底の川筋ばかりであり平坦な土地はない。
「きなりの湯」から三重県尾鷲市、熊野市までそれぞれ50㎞、30㎞ほど。
瀞峡から新宮市への和歌山県へ至るのルートもこの道筋の先にある。
奈良方面から紀伊半島東海岸へ至るには最短の距離である。そのためこの「東熊野街道」169号線は奈良に住む人々が夏場の海水浴とか海釣りの好きな人が海へと往復する主要な道筋となっている。
その昔は熊野から塩蔵した鯖が奈良の吉野地方へ運ばれ貴重なタンパク源となった。この鯖が鮨に加工され吉野名産の「柿の葉寿司」になり今日まで続いている。吉野は柿が多く栽培されており殺菌作用にも優れた地元の柿の葉がふんだんにある。それと熊野の塩蔵鯖が合体して生まれた「柿の葉寿司」はいまでも吉野の郷土食として愛好者が多い。いまでは、吉野町はもとより五條市、御所市、大阪市など広範囲で生産される「柿の葉寿司」は奈良県を代表する名物の一つとなっている。
吉野町はまだ桜は5分咲き程度で蕾のところも多かった。しかし、なぜか川上村から上北山村へ入るにつれて桜がぱっと咲いているのが目に入り始め、さらに和歌山に近い下北山村へ入るともう沿道は山桜やソメイヨシノが満開となっていた。例年、「きなりの湯」のある「下北山スポーツ公園」は満開の桜のトンネル状態だった。この公園では明後日の4月4日(土)と5日(日)と毎年恒例の「さくら祭り」が予定されている。このパンフレットに「奈良の桜はここから始まる」と書いてあったがまさにその通りである。
このスポーツ公園にはサッカーグラウンド、テニスコートなどがあり合宿設備も完備している。
おまけに温泉まであるのだからスポーツ合宿にくる団体も多い。
この日もジャージ姿の多くのサッカー少年たちの姿があった。

もう桜満開の下北山スポーツ公園。ここは例年、吉野山よりも早く桜が咲くことで知られている。

駐車場から「きなりの湯」の巨大な看板を見上げる。ここは谷底だが、向かいの山の中腹を走る車からよく見えるように看板が設置されている。

古民家の田舎屋ふうの落ち着いたつくりになっている。「きなりの湯」の建物を駐車場からみる。ピンク色のしだれ桜も少し開きかけている。
169号線はいくつもの長いトンネルを抜けて、目的地に近づいた。沿道の左手に水量の多い川が続く。これは先にあるアーチ式の池原ダムの貯水池なのだ。
この池原ダム(いけはらダム)は奈良県吉野郡下北山村、一級河川・熊野川(新宮川)水系北山川に建設されたダムである。
「電源開発(J-POWER)が管理する発電用ダムで、高さ110.0メートルのアーチ式コンクリートダム。アーチダムとしては国内最大の総貯水容量と湛水(たんすい)面積を誇り、日本における大規模なダムの一つである。下流にある七色ダムとの間で揚水発電を行い、最大35万キロワットの電力を生み出す。ダムによって形成される人造湖は池原貯水池(いけはらちょすいち)または池原湖(いけはらこ)と呼ばれ、ブラックバス釣りのメッカで日本における代表的なバス釣りスポットでもある。2005年(平成17年)には財団法人ダム水源地環境整備センターが選定するダム湖百選の一つにも選ばれている。吉野熊野国立公園に指定されている。」(Wikipedia)

池原ダムの近く道路脇の展望台にある絵図面。吉野熊野の剱岳地帯が描かれている。
池原ダム建設の発端は戦前にさかのぼる。
熊野川水系における河川開発計画が1937年(昭和12年)に持ち上がり、それから大東亜戦争をはさみ計画は難航を極めたが、遂に1966年(昭和41年)10月に発電所が全面稼動を開始、完成した。
北山川に沿った旧道はもっと谷底に近い場所を通っていたのだが、池原ダムの建設により高度の高い現在の場所に付け替えられたことでダムの建設が可能になったということである。開発を拒む天然の要塞のような吉野熊野の剱岳地帯になんとしてもダム建設を実現させたいとして挑んだ男たちの半世紀にわたる池原ダム建設への情熱はよく知られる富山の黒四ダムを上回る苦闘に満ちたものであったと言えるだろう。
池原ダムは大きな貯水機能を持ち下流の七色ダムとの間で揚水発電を行い最大で35万キロワットを発電し主に関西と中部の夏季電力ピーク時の調節電力供給に役だっている。
「きなりの湯」のある「下北山スポーツ公園」は、この池原ダムのそばにある。
上から見下ろすと谷底に幾重もの桜の雲海がたなびきその合間に公園が垣間見えてくる。雨上がりであり雨に濡れて色鮮かな緑の山肌をうっすらともやった雲海が浮かび、さらにあちこちに固まりになって咲き誇る桜の花が谷底を彩り、まさに俯瞰すると奈良奥吉野の「桃源郷」の感がある。
「きなりの湯」の味わいの一つは断崖絶壁の道から俯瞰するこの絶景にあると言っても過言ではあるまい。

「きなりの湯」玄関を入ったところから内部を眺める。ここでアクシデント発生、カメラの電池が切れた。単3二本で動くのがこのカメラの利便性の高さ。あとで公園のコンビニで単3電池を買い求めて桜を撮影した。

公園は満開の桜につつまれていた。道路の上から桜を撮影してみた。わかりにくいが道路の向こうには池があり鯉がいた。

「さくら祭」ののぼりも立ち並ぶ。右上に道路標識があるので写真をクリックして拡大画面で御覧ください。

公園の向かい側のヤマザキデイリーさん。熊野の柑橘類を売っていた。「清見オレンジ」「せとか」「八朔」など。みな熊野で採れたものだ。「せとか」は味も濃くおいしかった。また店内では熊野で獲れたサンマの干物も売られていた。ここまで来ると周囲は険しい山の中だが空は明るい。熊野灘の強い太陽と紺碧の海の香りが漂う。「味はどう?」と訊いたら「味見してね」とお姉さんが「せとか」の皮をむいて試食させてくれた。
大人入浴料金は600円。休憩所やレストランもある。
サウナや露天風呂もあり泉質はナトリウム-炭酸水素塩・塩化物泉でなかなかいい。
無色透明ですべすべとしてこれぞ「THE 温泉」と言いたいほどの良質のお湯だ。
のんびりと「きなりの湯」につかると湯気の立ち上る大きな窓ガラスの外に満開の桜が微風に揺らいでいた。
だんだんぼんやりと視界が薄れていった。
外の桜を窓ガラス越しにながめつつまったりとしているように見えたことだろう。
だが、そうではなかった。
「ああもう今年の3月も終わった。この三ヶ月、俺は何をやっていたんだろうか・・・」
と忸怩たる思いで悔やんでいたことを桜は知らない。
「なんで春になると桜は咲くんだろう。我が人生に桜花爛漫の春なんてあったのだろうか?」
意味不明の喪失感が温泉の湯の底を抜く。
「なぜ朝になれば太陽は昇り、鳥達はさえずるの・・・・・」
と、歌っていたブレンダ・リーのハスキーな歌声が突如蘇ってきた。
シングル盤レコードのこの歌を何度も聴いた日々の自分の姿が漠然と思い出されてきた。
その途端にもう「世界の果てまで」も哀しみで満ちてくるような気がするのであった。
桜を見ると憂鬱になる。
満開の桜を見ていると春の愁いが花の散るように心の中に降りしきる。
「巷に雨の降るごとく 我が心にも涙降る・・・・」
ヴェルレーヌの心境のほうがしっくりとくるなあ。
満開の桜が眩しすぎていささか落ち着かず逃げ場がなくなる気がしてくる。
「きなりの湯」につかりながら桃源郷にしばし憩うふりをして目を瞑って湯に沈んでいた情けないおっさんがそこにはいたのであった。
4月2日(木曜日)朝からまぶしい陽気である。
昨日は雨模様の中で五分咲だった桜も一気に満開になった。

町役場分室の横にある桜。写真には写せていないが向かいの山、民家、土手の手前に吉野川が左側を下流として流れており、左の水路は吉野川に注いでいる谷川の水である。写真に写っていない部分を文字で説明するとは情けない限りだ。満開の桜に免じてご容赦くだされ。

近所の県立高校の校舎の中にある桜。この桜はここらで一番早く咲く。

同じく県立高校の別棟の校舎へ上る坂道から見た桜。この坂道をずっと歩いて上がっていくと一時間くらいで吉野山の入り口にある如意輪寺に到達する。そのあたりからも吉野千本桜の絶景を見ることができる。
このぶんでは吉野山の桜も下千本、中千本あたりは今週末が見頃かもしれない。
週末から雨模様だが桜のシーズンはほかにはとくに何もない吉野が唯一脚光をあびて賑わうとき。多くの観光客をがっかりさせないよう桜も頑張って咲いていて欲しいと願うばかりだ。
●関連情報URL●
「奈良に住んでみました」
2009-03-22
ダム直下にある温泉施設『きなりの湯』@下北山村
16年前の情報ですが、今年書いた情報として読んでも立派に通用します。
「きなりの湯」の温泉情報は、ほとんど変わってません。
このプログの下の方には十津川温泉などほかの奈良奥地の温泉場についての情報もあります。
この人の「奈良に住んでみました」プログはほかの記事も正確で奈良へ旅したい人には第一級の資料ですので、ぜひご覧になってください。