「国栖奏」(くずそう)を見に。

◯吉野川の上流。南国栖附近。大台が原の源流から流れ下る。
平成28年2月21日(日曜日)前日までの雨もあがって薄曇りにときどき冬陽のさす天候であった。吉野離宮のある吉野町宮滝から車で10分足らずで国栖集落に入る。
道は大雑把に言えば宮滝から行くと国栖で東吉野村を抜けて伊勢方面へ行く道と川上村から熊野へ行く道とにわかれる。

◯高見川。三重県と奈良県との境界にある高見山を源流として東吉野村を流れ下ってくる。南国栖の少し下流の窪垣内で大台ケ原からの流れと合流し「紀の川」となって和歌山県へと流れ下る。
その分岐点になる辻を右に折れて高見川の急流にかかる短い橋をわたると大きなトンネルが見えてくる。ここを潜ると南国栖の集落である。

◯南国栖の入り口のトンネル。南国栖側より撮影。
地元の男性二人が道端で所在なさそうに駐車場の案内をしていた。
まだ2月であり風は冷たく寒そうであった。
トンネルそばの石材店の脇を曲がり梅の花が咲き誇る畑の脇道につづくなだらかな斜面を下っていくと小広い場所へ出る。周囲は山なのだが吉野川と周りの河原の上に空が広がり視界が一気に広がる。

◯トンネルを出るとすぐに国栖奏の案内看板がある。

◯梅の花も国栖奏を寿ぐように咲き始めていた。
地元の南国栖のご婦人がたであろうか野宴の雰囲気で机、椅子を並べて葛湯など茶菓の接待をしている。

◯地元のご婦人方による葛湯などが振る舞われる。大勢の観光客のお出迎え。
目の前の雑木林の向こう側に広々とした清流が左から右へと流れている。
「これは吉野川の上流です。水は大台ケ原、大滝ダムから流れてくるんですよ」
親切にご婦人の一人が説明してくれた。

◯2月の陽光をあびて光る川面にまだ冷たい風が吹き渡っていく。
吉野川の上流には大きな支流が二つある。
一つは吉野川の本流ともいうべき支流で吉野川の水源である大台ケ原から流れ下り大迫ダム、大滝ダムを経て国栖地域へと下る流れである。もうひとつは高見山から東吉野村を流れ下り大台ケ原からの本流に合流する高見川である。
この二つの流れが大きく湾曲する地点で合流するのだがその合流点が国栖地区の窪垣内(くぼがいと)という集落地域である。
自然の山裾を湾曲する広々とした真っ白い砂浜の河原と岩の間を合流した吉野川が窪垣内集落の前を滔々と流れ下る光景は吉野観光の中でも人気のある景観と言えるだろう。
このあたりでは吉野川と呼ぶのだがそれは通称であり国土交通省によって定められた河川法による正式名称は「紀の川」である。「紀の川」の始まる場所は窪垣内の2つの支流の合流点でありそこから下流が紀の川である。国栖は河川法による「紀の川」が正式に始まる場所でもある。
最終的に紀の川は和歌山県の紀伊水道に注ぐ河口まで全長は136キロメートルになる。
浄見原神社のある南国栖は吉野川の合流地点の窪垣内よりも少し上流部に位置している。そのため合流地点は見ることができないが合流する少し手前の高見川の流れと大台ケ原からの流れとの双方を近くで見ることができる。こちらの景観もまことに興味深い。
国栖奏を見学に来た観光客の団体であろうか案内の旗を掲げた一団も歩いている。
険しい山の崖の下部を切り開いた細い道を歩く。左手は雑木や枯れ草の生い茂る斜面の下に緑色をして澄み切った吉野川が蛇行している。
この吉野川の渕を地元の人々は「天皇渕」と呼んでいる。

◯天皇渕。かつて天武天皇を地元の村人がこのあたりで歓待の宴を開いたのであろうか。
かつては深い渕であり地元の子どもたちは夏場はここで泳いで遊んでいた。また国栖小学校の水泳大会もこの天皇渕で行われたという。
昭和34年の伊勢湾台風により渕は土砂や砂利で埋まった。それ以来昔日の深い渕の面影は失われている。だが往古の天皇渕の様子を知らない私にとっては深さも透明度もある神秘的な渕のように思えた。
「このあたりは渕も山もみな天皇さんと呼んでおります」
さきほど受付テントの横で炭火で暖をとっていた地元の古老がそう教えてくれた。

◯地面に薪や炭を燃やして暖をとる地元の世話役方々。
南国栖の人々にとってはこの浄見原神社のある一体は「天皇さん」という村の聖域として大切に守られてきたのであろう。
この古老をはじめ村の人々はみなきちんと背広にネクタイを締めて正装をしている。この日の国栖奏という一年に一度の儀式の重みが村人のそうした雰囲気にもひしひしと感じられる。
◯参拝者の受付をするテント。村の人が集まって手作りの神事を行う。
やがて道がより狭まってくるあたりに小屋がありその前に一丁の白いテントが張られていた。
国栖奏の式典の受付所のようだ。
テントの中にある長机で名簿に記帳する。
お祓いをしていただく場合は1000円、そうでない場合は500円を納める。
記帳をすると国栖奏の資料と記念の品をいただいた。
袋には吉野町の観光資料と国栖奏についての小冊子、お供え餅2つと吉野杉の割り箸二膳が入っていた。
開式は午後一時からである。
まだ少し時間に余裕があるがあたりはかなりの人で賑わっていた。
受付テントの側では地面に直接炭がおこされて寒さでかじかむ手をかざしてあぶる人が二三人いた。村の人々が寒い中まだ暗いうちから国栖奏の式典の準備をされていたのだろう。

◯浄見原神社へと上がる石段。自然の立木や岩石がまわりを装飾する。
そのまま歩いて行くと道幅はさらに狭くなり右は崖左も崖という急峻な岩場の道となりその先に急勾配の石段があった。下から見上げると石段の上に石の鳥居があり大きな国旗が交差して配置されていた。その奥に浄見原神社があるようだ。
石段を慎重に登って行くともう大勢の人がいた。

◯開式を待つ神社の境内。境内と言っても崖を切り開いた狭い場所だ。

◯鳥居の間に国旗を交差させて鈴を吊り下げてある。
境内の正面に舞殿がある。
ざっと見で奥行き4間ほど幅2間ほどの吹き抜けの木造の建物だ。
屋根と柱と床の簡素な造りである。左に右も崖ぎりぎりに造られており舞殿の奥はにさらに短い石段がある。その上に小さな社があってそこが清見原神社の祭壇ようだ。
舞殿のある境内にあたる部分は崖を掘削して切り開いたような感じでありぎっしりと人が詰めれば100人ほどは立ち見で入るかもしれない。
ざっと見ですでに60人ほどの人が集まっていた。
私もそのうちの一人となってしばし開式を待つことにした。
◯拝殿をかねる舞殿のさらに奥、石段が伸びて崖の間に小さな本殿が鎮座する。
舞殿の上部には注連縄による結界が結ばれていた。
さらに四方の木の横柱には緑色の植物が巻き付いている。あれはなんだろうか。

◯注連縄と「ひかげのかつら」、で結界をつくる舞殿。
たまたま隣に地元の宮守の方がおられたので訊いてみた。
「あれはひかげのかつらと言いまして霊力が強いと言われております。最近はなかなか取れなくなっておりますが北向きの山の湿気のある場所に生えております」
「それを取ってこられて祭壇などに巻かれるのですか」
「そうです。帰るときには余ったものを差し上げますのでお持ち帰りください。きつねの襟巻きとも言います」
こういう山の植物を祭壇や舞殿に巻いて結界とする風習があるのだ。こういうところになんとなく古式を感じるのは私だけだろうか。これも実際にここへ来てみないとわからないことだ。
この日は警備のための警察官も5人から6人ほど境内に入っていた。
なにしろ石段をあがった境内の横は切り立った崖でありその下は吉野川の天皇渕となっている。
誤って落下したら大怪我は間違いない。
「もしこっちへ寄りすぎて崖に落ちそうになられても私らには受け止める気力体力ありませんので足元には気をつけてくださいね」
と崖側に並んだ警察官がそんな注意をして笑わせてくれた。
そうこうしているうちに境内へ上がる石段の下に国栖奏の翁役の方々が集合しはじめた。

◯宮司のお祓いを受けた後石段を登ってくる。

◯天皇渕を見下ろす自然石の階段を上る。

◯先頭を上るのは紙森宮司。
全部で10人が集合し終わり紙森神主によるお祓いを受けている。
それが終わると順番に石段を上がってきた。
みな烏帽子、涼やかな狩衣、白足袋に下駄履きである。
笛を吹く役の翁は横笛を吹き鳴らしつつ軽々と石段を登る。

◯笛を吹きながら石段を上る。なかなかに難しい技だ。
なかには相当に高齢の方もおられるが決して足元を見たり崖に掴まったりすることなく急な石段を登ってくる。しかも下駄履きである。
日頃からの心身の鍛錬のほどがしのばれる。
神主さんたちの登場であたりにはまことに神々しい雰囲気が漂い始めた。
国栖奏を担当する翁方の着衣する狩衣には緑色で桐竹鳳凰紋が鮮やかに染め抜かれている。あまり見かけない模様だけに集まった人々から盛んに撮影のカメラが向けられた。

◯古式そのままの狩衣の文様。
翁全員がつつがなく舞殿に入り終わるとまもなく国栖奏の儀式が始まった。
私は後ろの方に立ている。前には大勢の見物客が舞殿を取り巻いているので舞殿の中の様子はあまりよくは見えない。
だが笛の音や鼓の音、歌声などは断崖の谷を吹き渡る川風にもまけず虚空に響き渡る。
高い樹木の間から差し込む冬のまぶしい陽射が崖にびっしりと生えている緑の苔を明るく照らしている。神社をつくる多少なりとも広い土地は南国栖にもあるはずだ。それにも関わらずこのような吉野川のほとりの険しい崖下に神殿を造営されたのにはどんな意味があるのだろうか。
緑色の天皇渕と崖と神殿とが相まって古式ゆかしい独特の聖域感が漂う。
神主の祝詞に続いて歌翁の朗詠する古歌や鈴と榊を手にした翁の舞が順次式次第に則って奉納されていく。

◯観客も儀式と一体になって神前にお辞儀し礼拝する。
ときおり「エンエイ」という囃子詞が入る。区切り区切りに「エンエイ!」と囃す。
どういう意味があるのかはわからないが素朴で明快で力強い響が耳に残った。
関係者の玉串奉納、つづいて氏子と奉賽者の名前を読み上げる。
その都度名前を読み上げた後に「エンエイ!」の囃子言葉が続く。
かなり長い間名前の読み上げが続いた。
これを最後として国栖奏はおよそ一時間ほどで終了した。

◯儀式を終えて演奏をした翁が石段を下る。警官の足元の後ろはすぐ切り立った崖である。よろけたらオシマイだ。背後に天皇渕が見える。
神主さん翁役の方々が手に神饌を乗せた三宝を捧げ持ちながら石段を下っていった。
続いて式典を見守った参加者も三々五々石段を降りて神社を後にした。
私も続いて降りてみると石段の階段下にはいま祭壇に神饌として供えられた五品がすべて陳列台に披露されていた。

◯神前より下げられたお供えものが展示されていた。その豪華さにびっくり。
「山菓(栗)、醴酒(こざけ=一夜酒)、腹赤の魚(ウグイ)、土毛(くにつもの=根芹)、毛瀰(もみ=ヤマアカガエル)の五品である。この五品は古式の通りのものである。

◯大きな栗の実。おいしそうだ。

◯お酒。ふるまいを受けて飲んだ人が「ひー、甘い甘いぃ!」と言っていた。

◯神饌のひとつ「赤蛙」。
アカガエルは今年は捕獲できなかったのであろうか。陶器の模造であったが逃げないように金網のざるがかぶせてあった。
なぜ蛙が神饌に供えられているのだろうか。
いまではカエルは食用にすることはあまりない。だがアカガエルは昔は食用でありこの地方の最高の珍味として献上されたのだという。
なかでも見事だったのは「腹赤の魚」である。
30センチほどもあろうかという見事なウグイが三匹あり確かにお腹は赤かった。こういうものをどうして揃えることができたのだろう。

◯赤腹の魚。大きなうぐいである。
そうそう簡単に揃えられる品々ではない。
想像だがこの見事なこの五品を揃えるために南国栖の人をはじめ国栖地区の人たちの並々ならぬ一年間の努力があったに違いない。
そうおもう時、1300年もの時を経ていまもって天武天皇とのつながりを示す国栖奏の儀式が連綿として行われている理由がわかる気がした。
国栖奏とそれにまつわる伝承は国栖の村の先祖とつらなる思い出であり村の魂そのものであるに違いない。
村の伝承に参加し儀式に参加して暮らすということは国栖人がわれ国栖人として在る所以なのだ。
浄見原神社と国栖奏はおそらく国栖集落が続くは限りは聖霊の宿る天皇渕とともに永久に途絶えることはないだろう。そして国栖の窪垣内の人達はこれからも誰一人犬を飼う人はいないだろう。
それにしてもなぜ国栖の人々は奥まった南国栖に浄見原神社を造営したのだろうか。
先ほど沸いた疑問が再び蘇った。
ほかにも適地はあったはずである。
天皇渕のあるこの場所は古来から国栖の中心地である新子集落からはかなり遠い。
ここまで来た道筋を頭の中で反芻しながら一つの推論を組み立ててみた。
それは次のようなものである。
いま浄見原神社のある天皇渕の岩場は実はかつて大海人皇子が国栖へ逃げてきたときに国栖人が皇子をかくまった場所そのものだったのではないだろうか。というのは宮滝からの吉野川に沿った街道筋を通り追手が国栖の谷に来た場合天皇渕はまったく詮索できない山の向こう側にある。道筋からは狭い谷底に流れるのは急流の高見川である。その向こうには山が累々と連なっている。天皇渕はその山並みの向こう側なのであり山を超える道は獣道以外にはない。皇子を探索する追っ手は国栖に来ても手がかりはなく道筋をさらに奥へと通り過ぎるほかはない。
そう思えば天皇渕は天然の要塞であり皇子を匿う絶好の地なのである。
いまでこそ国栖と南国栖の天皇渕を隔てる高い山にはトンネルが穿たれて通行は容易である。
だがこのトンネルがなければ山越えは難儀というほかはない。

◯謡曲「国栖」の由来を伝える看板。
「くず」という地名は、吉野川の沿岸附近に二カ所ある。下流の方のは「葛」の字を充て上流の方のは「国栖」の字を充てて、あの飛鳥浄御原天皇(あすかのきよみはらのすめらみこと)ー天武天皇にゆかりのある謡曲で有名なのは後者のほうである。
(小説「吉野葛」 谷崎潤一郎作 の一節)
昔の国栖人は天武天皇の御廟所として慰霊の社を造営するにあたって古来からの村の伝承をもとに天武天皇をかくまったとされる有縁の断崖こそがその地にふさわしいとして衆議一決したのではなかろうか。
そうおもえば「天皇渕」という名は後の命名ではなく大海人皇子を匿った場所として当時から国栖人のそう呼ばれていたのだと思われる。そうでなければこのような人跡未踏の切り立った崖のある渕や山に突然「天皇」の名が冠されることは考えられない。
天武天皇が即位したことを知った国栖人たちはこの天皇渕の岩場で喜びの舞を踊い祝の酒を汲み交わしたことであろう。そういう天武天皇を称える村の祝祭がこの場所で毎年開かれたことだろう。その伝承と記憶が後にこの地への清見原神社の造営に繋がってきたと推測してもさして不自然には思われない。
あれこれと土地の記憶へと思いをめぐらしているうちに日も陰りだんだん冷気が足元に忍び寄ってきた。
天皇渕を彩るかのような梅の花を眺めつつ来年の国栖奏にも来てみたいと思った。
とくにあの村人の心のこもった神饌の五品をもう一度見たいと思う。
陽射しが少し陰り少し冷たい風が流れ始めた。
三々五々観光の人達も去り地元の人々もトンネルを抜けて自宅へと帰って行く。高齢の人が目立つ。今年の国栖奏に参加できたことを喜びとしながら来年もまた、と思いつつ神儀の渕を後にする。
駐車場案内役の二人はまだ寒そうにして同じ道路脇に立っていた。
「エンエイ!」
ふいにあの国栖奏の囃子詞の響きが脳裏に蘇ってきた。
以下は国栖奏とは直接関係はありませんが、大化の改新とか壬申の乱などについて天武天皇の事績と国栖人の関係について読み物風に書いてみたものです。お時間がありましたらご覧ください。
「天武天皇秘話を伝承する村。吉野国栖人の誇り」
7世紀のはじめの日本は聖徳太子(622年没)の亡き後の飛鳥において大豪族の蘇我氏は隆盛を極め天皇さながらの権勢を極めていた。飛鳥の人々は宮廷に出仕するのをやめて甘樫丘の蘇我氏の大邸宅へ日参する始末であった。蘇我氏は実質的な天皇であり蘇我氏のいる甘樫の丘が朝廷さながらの様相を呈していた。
そのころ日本を取り巻く東アジアの政治情勢は厳しさを増していた。
「史記」の「朝鮮列伝」をみれば中国の春秋戦国時代の紀元前4~3世紀のころにはいまの北京あたりを支配していた燕国は朝鮮半島にも手を伸ばし朝鮮半島の要所要所に城郭都市の砦を築き、官吏を常駐させ倭国と交易する中国商人の権益を確保している。いまで言えば最南端は釜山のあたりまで燕国の拠点があり対馬、壱岐をはさんで倭人の住む日本列島の眼と鼻の先まで中国の支配が及んでいたのである。
そのころは日本は弥生時代であり米作が盛んに行われた。燕国の商人は日本列島で生産される米を盛んに買い付けて中国へ持ち帰ったと言われる。そのころの中国人は商人として朝鮮半島での産品の買い付けや日本との交易を目的に朝鮮半島の南端まで進出していたのである。それと同時に中国商品の日本への売りつけも盛んに行い倭人の中国化がそれなりに進んでいくことになる。
やがて秦が中国を統一すると朝鮮半島も秦の支配下には入るのだが直接統治ではなく燕国時代とあまりかわりはなかった。
その後に漢が興り起源前202年から紀元後220年まで約400年間にわたり前漢、新、後漢と中国を支配する。
すると漢軍は紀元前108年に朝鮮半島を征服し燕国、秦時代に構築されてきた朝鮮半島を縦断する交易ルートの城郭都市を完全に直接支配下に置いた。紀元前3~4世紀頃から朝鮮半島を支配した中国人により倭国は中国の影響を受けてきた。しかし漢という中国の強大な都市文明の烈風が押し寄せてくる大きな変化に倭国は直面することになった。
日本列島は島国であるため中国や朝鮮半島とは隔絶した独自の文明、文化をもつ独立国であったと考えがちであるが実はそうではない。つねに中国に勃興した新しい権力や朝鮮半島での権力構造の変化の影響を受けてきた。
そのなかでも最も強烈なインパクトを日本列島に与えたのが隋を打倒した唐の出現であった。
日本列島にもっとも直接に影響のあるのは朝鮮半島情勢であることは昔も今も変わらない。
唐が生まれたとき朝鮮半島は北方の大部分を支配する強国の高句麗があり南部に小国の新羅と百済があって三国時代を形成していた。この構図は中国にとってはおもしろくない。隋は6世紀から7世紀前半にかけて4度にわたる高句麗に戦争をしかけたが失敗した。
隋の次に出現した新興の強大国・唐も隋と同様に高句麗遠征を行うがやはり失敗におわる。
その後唐は手強い高句麗ではなく高句麗の南にある新羅に着目した。新羅と手を結んで高句麗を挟み撃ちにできないかと模索し始めたのだ。
このように唐の出現により朝鮮半島の動きが混沌としてきはじめた。
もし唐と新羅が手を組んだら強大な高句麗を攻めるまえに南部で隣接している百済を攻略するかもしれない。
そうなれば日本も一大事である。
唐の動き次第では朝鮮半島での友好国の百済の命運も潰えるかもしれない。百済が唐に滅亡させられたら次は大和朝廷がターゲットになるだろう。つまり日本は滅亡の危機に瀕するのは必至の情勢である。
こうした東アジア、朝鮮半島での覇権争いの影響は確実に日本列島へも及んでくるのだ。
そのようなときに日本では天皇の力は削がれ強大な豪族である蘇我氏による国政私物化が止められない状況にあった。
天皇をないがしろにして栄華を極める蘇我氏一族の横暴を許していては日本の滅亡につながる。
強大な唐の圧力に対抗するためには天皇を中心として強力な央集権国家体制の樹立が急務である。
それまでの倭国というのは大和の大豪族が朝廷のもとで勢力圏を保って存在していた。こうした一大勢力である倭人豪族の支配する倭人地域のほかにも日本へ渡ってきた渡来系の秦人、漢人、高句麗人、百済人、新羅人、加羅人などさまざまな背景をもつ人々が私領を形成していた。
この姿は政治的にも人々の意識的にも決して強力な国家と言える統一性を持つものではない。
もし唐のような領土、領民の統一性をもつ国家が大和朝廷を攻撃してくればとうてい抵抗できないだろう。
そこではじめて倭国という自然発生的な権力の集合体ではなく日本列島も唐のような一つの国家、一つの民族、一つの文化に統合されたいわば抽象的な人工国家という概念のもとに国土、国民を再構築しなくてはならない。
そのように考えたのが稀有の賢人政治家、中臣鎌足のちの藤原鎌足であった。
中臣鎌足には東アジア情勢に精通した師匠がいた。
その人物とは学僧であり漢人系帰化人である南渕請安であった。
南渕請安は遣隋使として派遣されてより32年間中国に滞在し隋から唐への政変をつぶさに見てきた。帰国した南淵請安は東アジア情勢を講じる塾を開いた。中臣鎌足はその塾で南渕請安の教えを受け大いに目を開かされついに「大化の改新」による日本再建を思案したと言われている。
彼は極秘裏にこの人こそと見極めた中大兄皇子(のちの天智天皇)に接触し心の中を打ち明けた。
中大兄皇子もまた南渕請安の講ずる塾の門下生の一人であった。
二人の憂国の気持ちと日本国建設への思いは同じであった。
ある夜、中臣鎌足は周囲にひとがいないことを確かめるとこう切りだした。
「日本の再生を実現するにはどうしても・・・・・」
「わかっておるわ。一人とてつもなく邪魔な奴がいるよのう」
中大兄皇子は即座にそう返した。
「皇子殿もそう思われるか」
「もちろんそうだ。そいつと其奴の一族を滅亡させねば事は何一つ進まない」
「蘇我氏討つべし。だが万に一つも失敗は許されない」
中臣鎌足の言葉に中大兄皇子は黙って頷いた。
やがて二人は共謀して蘇我蝦夷、蘇我入鹿を打倒するクーデター計画を練っていった。

◯藤原鎌足の肖像を入れた100円札。明治24年「改造兌換銀券」として発行された。凹版彫刻者はキヨッソーネ。
謀議をめぐらす密会の場所は飛鳥の東にある深い山の中だったという。
現在多武峰で吉野と境を接するその場所に毎年恒例の蹴鞠神事で知られる「談山神社」が建てられている。談山神社の御祭神は藤原(中臣)鎌足である。
この「談山」というのは中臣鎌足と中大兄皇子の密談の場所であるということに由来する命名だと言われる。
余談になるのだが奈良の奥深さとおもしろさはこのような日本史の歴史転換の現場がそこにもあそこにも無造作に?ころがっていることだ。
そしてついに645年蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした蘇我氏打倒の政変=「乙巳の変」が実行に移された。その後「大化の改新」と呼ばれる朝廷政治の刷新、税制改革など中央集権国家体制の確立が断交されていく。
大化の改新で幾つもの国家の基本が制定されていった。
668年正月天智天皇は天皇に即位し「近江令」もこの年に制定されている。
この年が実質的な「日本国」という国号の制定の年すなわち日本の建国年であろう。
さらにこの年に初めて倭王ではなく「天皇」の号が使われたと推定できる。
つまり天智天皇が即位した668年正月に「日本国」「天皇」の言葉が初めて使われたのであろう。
ということは唐の出現こそが日本列島に律令国家体制をつくる「大化の改新」を起こさせ日本という国家と天皇を誕生させたとみることができる。
日本人は強大な軍備をもつ唐の侵略から日本列島を防衛するために国家というものを意識せざるをえなくなった。
そこで唐に対抗する日本という国号をつくり唐の皇帝に対抗して国の主権者たる天皇を確立した。日本という国家ができたのもきっかけは大陸の唐の存在であったと言えるだろう。

◯伝 飛鳥板蓋宮跡。蘇我入鹿が中大兄皇子に撃たれた「乙巳の変」のあった宮殿とされる。
強大な蘇我氏を打倒し政権を朝廷に奪い返したクーデター、さらに天皇を中心とする律令国家日本の建設、中臣鎌足とともに生涯を日本国に捧げつねにその中心的役割を担った天智天皇もついに身罷る時がきた。
671年近江(滋賀県)大津京において病床にあった天智天皇は弟の大海人皇子に後継を託した。
だが天智天皇の譲位の言葉をそのまま信用はできなかった。本心は我にあらずと身の危険を察知していた大海人皇子はこれを強く辞退する。
そして天智天皇の実子の大友皇子を皇位に推挙すると同時に自らは即日剃髪して都の大津京を離れ一路山深い吉野へと下り隠棲の旅路に出た。つき従う供は少なく后の鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ=後に藤原京で政治を行った持統天皇)と幼い子供ら、警護の兵士らであった。
その年の暮れ671年12月天智天皇が46歳で没する。
大友皇子は父の天智天皇の遺志を受け皇位継承すべく政権を担うのだがこれに反感を抱いたのがもともと近江に都を移されて天智天皇に冷遇されていた古都飛鳥の豪族たちであったと言われている。
反大友皇子で意志を通じ結束を固めた豪族たちは吉野の大海人皇子に使いを次々に送り打倒大友皇子の決起を促したのである。
これを察知した大友皇子の勢力も皇位継承の邪魔になる大海人皇子はいずれ除かねばならない宿敵であった。
大友皇子も若いながらも叔父にあたる大海人皇子との決戦やむなしとの覚悟を固めるにいたる。
近江と吉野の間に沸いた叢雲はやがて怪しく巻き上がりついには風雲急を告げることとなる。
かくして近江の大友皇子と吉野で隠棲する大海人皇子との権力争奪の対立は避けられないものとなった。
大海人皇子は672年6月24日ついに挙兵の意を決ししばし身を潜めた山深い吉野を後にした。
まずは吉野から宇陀を経由して味方の待つ美濃(岐阜県)へと移動して大友皇子の軍勢との決戦の体制を整え馳せ参じる豪族を結集することにした。吉野人、国栖人も皇子に付き従って参戦。吉野から宇陀、美濃への道案内や道中の警護をつとめるとともに敵との戦にあたっては獅子奮迅の戦いをしたという。
美濃は大友皇子の陣取る近江と東国の豪族との連絡を分断する交通の要所に位置していた。
大海人皇子は東国軍勢の大友皇子への加勢を食い止めると近江の朝廷軍である大友皇子軍へと決戦を挑んだ。
その後一ヶ月におよんだ大友皇子と大海人皇子の戦いを我が国古代の最大の内乱・「壬申の乱」と呼ぶ。
結果は大海人皇子軍の勝利となった。
武運つたなく敗戦した大友皇子は25歳にして自刃。
大海人皇子は近江の大津京を引き払い飛鳥浄御原宮を造営して都を古都飛鳥へ復活させ即位して673年天武天皇となる。
ここまで長い前段となったのだがここで紹介したいのは大海人皇子が近江から吉野へと逃れたときに生まれた山深い吉野の人々なかでも山深い国栖の杣人(そまびと)との物語である。
近江から遠路吉野に逃れた大海人皇子は人跡未踏の秘境に暮らす地元の人々と深い縁を結ぶこととなった。まずは吉野離宮のある宮瀧の人々の歓待を受けたのは言うまでもない。
吉野には1340年ほど前の大海人皇子の吉野隠棲にまつわる興味深い伝承がさまざまに残されている。
大海人皇子が吉野に来て間もないころおそらく近江朝廷の意を受けたのであろうかか密かに大海人皇子を追跡する手勢が吉野に潜入してきた。
大海人皇子の一行は出家による聖霊の地・吉野への隠棲であり戦闘用の騎馬の一騎とて持ちあわせてはいなかった。 ほとんどが家族であり警護の兵も少なくとても追手の軍勢と戦える状況ではない。
ほとんど武力的には無力だった大海人皇子の命を守ったのは吉野の自然と村人であった。
吉野は山深く天然の要塞と言ってよい。
よそ者が吉野に入ってきても峨峨たる山塊渓谷連なる吉野の秘境で大海人皇子を見つけ出すことは難しい。
さらに大海人皇子には吉野の山岳渓谷の地理を知悉する吉野人が味方についていた。
朝廷軍の追手が迫るという知らせが入ってきた。
これを受けて大海人皇子の一行は山道に精通した地元の杣人の手引を得て何よりも目立つ宮瀧の吉野離宮を離れることにした。
宮瀧から奥地は大蛇のようにうねる急流の吉野川源流への切り立った山岳地帯である。
激しく飛沫を上げる深い谷底の急流に沿って崖道をたどり南大野、窪垣内、新子、国栖・・・・点在する山深い集落をたどり奥へ奥へと逃れていった。
だが敵もどこからか案内人を雇って追跡してきた。
一行が窪垣内(くぼがいと)という集落へ差し掛かったとき近道をした追手が思いがけず間近まで迫ってきた。
そこで逃げ場を失った大海人皇子を村人が吉野川の渕へといざなった。そこには一艘の小舟があった。
村人は大海人皇子を首だけ出して川に沈めその上から小舟を逆さまにして覆い被せて追手の目をくらましたのである。
こうして窪垣内の村人のおかげで大海人皇子はあわやの難を逃れたという。
そのおりどこからか一匹の犬が現れ小舟の周りで吠えて止まなかった。このままでは小舟の下に隠れている大海人皇子が発見されてしまう。村人がやむなく咄嗟に吠える犬を殺してしまった。そのことでやっと追手の探索を逃れたという。
犬の亡骸は村に埋められ懇ろに弔われたという。
この話は国栖の人々がいまだに語り伝えている話である。
いまとなっては真偽を確かめる術もないのではあるが、ただこの伝承についてはさらにこういう話もある。
というのは窪垣内という集落は現在は70戸ほどあるのだが昔から一軒として犬を飼ってはいないのだという。これはいまだに守られている。窪垣内で犬を飼うことは禁じられてはいないのだが誰一人飼う人はいない。
まさかと思って先日窪垣内に住んでいるというご婦人にたまたまお会いした折に「其の話は本当でしょうか」とわざわざ直接確かめてみた。そのご婦人はこれまでもおなじ質問をなんども受けたことがあると前置きし「誰も犬を飼う人はいない」と苦笑しながら断言した。
「窪垣内では犬を飼うのは祟りが恐ろしくてとても飼えません。犬は可愛いので嫌いじゃありませんがとてもとても・・・・」
噂ではなく窪垣内には犬を飼うと祟りがあるというたしかな言い伝えがあるようだ。
それは伝承とはいえども実質的な村の掟となっており単なる迷信以上の重みがあるのだろう。
その由来はまさに1340年ほど前の大海人皇子を小舟の下にかくまった伝承にまで遡るのである。
まことに驚くべきことであるがこれは窪垣内という村のしきたりとして厳然として守られていることなのである。
国栖の小さな集落に連綿としてして残る伝承と犬飼の禁という滅多にない奇なる習俗。これを聞くがままに書き残して置くのも意味のあることであろうと思う。
窪垣内から国栖地区の中心地である新子(あたらし地区の先に国栖、南国栖集落がある。
この地に伝承されているのが「浄見原神社」と「国栖奏」(翁の舞)である。
これは壬申の乱を前に八ヶ月にわたって吉野に隠棲しした大海人皇子と国栖人との出会いと絆の物語である。
先に述べたように朝廷からの追手から逃れて吉野人の助けを受けつつ大海人皇子の一行は国栖へと入り難を逃れたのである。そのとき国栖の人々は食べ物を供し舞を舞って皇子を慰めたという。皇子はこれを愛でられて国栖の村人へ「国栖の翁」の名を与えられたのだという。
その後吉野を出て近江朝廷軍との決戦に臨みついに勝利した大海人皇子は飛鳥浄見原宮に即位し天武天皇となる。
「国栖の翁」と呼ばれた人々は国栖からはるばると飛鳥の浄御原宮へかけつけてお祝いの舞を奏したという。
これに対して天武天皇も吉野に逃れたときの国栖人の真心やその後の献身的な働きを忘れることなく大いに喜ばれたという。
そして国栖人に対して「壬申の乱」での功績をたたえ「権の正」(ごんのかみ)の位を与え国栖舞を宮中の大嘗祭はじめ諸式典に奉奏することを制定され国栖奏を「翁の舞」と命名された。
そして舞に用いる冠、桐竹鳳凰紋入りの装束、鈴、鼓、笛などの楽器、黄金の幡(のぼり)を下賜されたのである。
以来国栖人は天武天皇のご下命を継承し宮中での国栖奏を行ってきたが時のいつしかこの宮中行事への参加も途絶えてしまった。
そこで国栖人たちは天武天皇への尊崇の念を忘れがたく、天武天皇から賜った多大な恩恵への感謝と感激の発露として1185年国栖地域の中でもっとも清浄な吉野川のほとりを選び川を見下ろす断崖絶壁の上に天武天皇をご祭神としてお祀りする小さな祠を造営しこれを「浄見原神社」と名付けた。そして毎年旧正月14日を祭礼日と定め古式通りの「翁の舞」を奉納し村人こぞって参列し天武帝の御神霊を慰霊してきたのである。
ところで国栖人が吉野へ身を潜めた天武天皇を慰めた「国栖奏」という歌や踊りはそのときに初めて行われたのではない。
国栖奏の発祥はさらに時代を遡る。
国栖や国栖人と天皇とのゆかりは驚くほど古くからある。
「日本書紀」「古事記」にも「国栖」の文字が出ているのだ。
神武天皇が熊野から大和へ入る「神武東征」のおり吉野川のほとりで岩穴から尾のある人が出てきた。そこで神武天皇が「お前は誰か?」と尋ねると「私は「国つ神」で名は岩押分神の子でございます」と答えた。そこで神武天皇は「お前に国栖の名を与えよう」と言いそれが「国栖」のおこりであるとしるされている。
国栖の字は古くは国主、国首、国樔などとも記されており国栖人というのは離宮のあった宮滝から蛇行する吉野川に沿って奥まった山深い地域に昔から住んでいた杣人、先住の人々であった。
その後も天皇との縁は深く第八代天皇である孝元天皇の38年には南国栖大倉に石押分命を祭神とする「大蔵神社」が創建されている。
国栖奏の始まりは第15代天皇の応神天皇が吉野離宮に行幸されたとき国栖人が離宮に来て貢物として「醴酒(一夜酒)と土毛(くにつもの)」を献じて歌舞を奏して天皇をお慰めした。これが国栖奏の始まりである。このことは古事記と日本書紀の応神天皇の項目に記されている。
天武天皇と国栖人との逸話も詳しく古事記に記されている。
吉野町のなかでも国栖地域というのはとりわけ高い山と切り立った蛇行する渓谷で知られている。そのような奥地にとりわけ天皇と親しい人々の集落があった。
吉野という地はいまだに紀伊半島の秘境の面影を湛えている。
だがそこにははるか1300年余り昔の歴史秘話と天皇の足跡が刻み込まれている。
それだけでも驚嘆に値するのだがその遠い昔の天皇秘話の伝承を儀式として今に留めている人々がいる。それが国栖集落にひっそりと暮らしている人々である。
吉野に生きる人々にとってこういうことはさして驚くべきことではないようだ。
これは吉野だけのことではない。奈良県には飛鳥をはじめ藤原京、平城京などいまから1300年以上も前の都跡やそれ以前の遺跡や天皇の古墳などがいたるところにある。
山も川も道もみな1300年以上も前にあったものでその位置関係にはさして変化はない。
したがって奈良県の人も吉野の人も当たり前のように「日本書紀」とか「古事記」に記述された世界、景観の上で暮らしているのだ。
そのなかでも往時の出来事を忘れることなく連綿と今に伝えている集落があり人々がいるということが国栖に来てはじめて実感できた。まことに驚くべきことである。