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角鹿のブログ一覧

2015年08月27日 イイね!

飛鳥川の結界。

飛鳥川の奥地に「結界」を見た。
かなり珍しい光景だった。
結界についてWikipediaには次のような説明がある。

「結界(けっかい、Skt:Siimaabandha)とは、聖なる領域と俗なる領域を分け、秩序を維持するために区域を限ること。本来は仏教用語であるが、古神道や神道における神社なども、同様の概念があることから、言葉として用いられている。大和言葉では端境(はざかい)や「たんに境」」ともいう。」

仏教では修行の場所などには結界があり、神道でも神の依代となる磐座や鳥居や注連縄、囲いのある境内などは聖と俗との境界を示す結界となっている。
茶道においては茶室などは結界であるし商売においては店先の暖簾なども一種の結界である。

飛鳥川の結界というのは集落の入り口にあたるあたりに川をまたいで空中に注連縄を張りそれが結界となっていた。ぼんやりと見ていれば見過ごすようなものだがよくみれば紛れもない結界なのである。
まず明日香村の石舞台から飛鳥川に沿って県道15号線を南に進んでいった。
稲穂の伸びている棚田が美しい。のどかな里山の風景が広がる。
この県道15号線は高取川の谷を飛鳥川にそって南北に通る狭隘な山道であり吉野と明日香をつなぐ古い峠道である。

石舞台のある明日香村の中心地からだいたい4㎞ほどの地点に稲渕集落がある。
最初の結界は稲渕集落の入り口に架かっていた。
ここに立派な橋があってこの橋をまたぐかたちで長い注連縄が天空に張られていた。知らない人が見たら「なんだろうな?」で終わってしまうだろうが、この結界の中心に吊るされているのはなんと男性のシンボルだそうな。そう言われてみれば、まあそんなかたちをしているようにも見える。
この男綱結界は長さは80m、重さは300kgにもなる。
毎年1月に稲渕集落の行事として結界を作成し結界を張る神事が執り行われるという。











この結界を少し登って行くと「飛鳥川の飛び石」というものがあった。
これは昔の橋がわりに設置されたものである。飛鳥川はさほど川幅が広くないために石を並べて浅瀬を渡るという簡単な橋なのである。

飛鳥川(あすかがわ)は、奈良県中西部を流れる大和川水系の一級河川。奈良盆地西部を多く北流する大和川の支流の一つである。
 明日香川とも綴る。流域は古代より開けた地で、古歌にもしばしば詠まれた。飛鳥川の延長は22 kmでありそう長くはない。高取山北東麓に発して明日香村中央部を北に向かって流れ下り、橿原市、田原本町などを経て川西町保田で大和川に注ぐ。
 飛鳥の岩橋、飛び石とも。昔はこういう石が橋の代わりだった。浅瀬ならこれでまあ十分なんだろう。







 大水で石が流されればまた元に戻して何度でも使える。場合によってはこういう石に丸太を渡せば少々深い場所でも大丈夫。
 飛鳥の岩橋は「日本百名橋」の番外となっているそうだ。
 まあ橋というには橋らしくもないので番外で十分か。
ただこういう石もいつからあったとはわからないのだがそれこそ飛鳥時代からあたっと言ってもいい。このあたりの地形や風景はほとんど変化していないので往古の姿そのままに現代の生活遺跡とも言える昔風がそのままに残っているのだ。
この結界もまたその一つなのである。

稲渕集落から飛鳥川にそってさらに緩やかな坂道を2㎞ほど登っていくと栢森(かやのもり)集落になる。
ここにもまた結界がある。




空中に注連縄が張られているのは稲渕集落の男綱結界と同じではあるが、中央に吊り下がっているものがなんとなく丸い。これは女性器を象徴したもので女綱結界と呼ばれているそうだ。
「綱掛け神事」が行われるのは、稲渕では毎年1月第2月曜、栢森では旧正月である。
 稲渕の男綱は神式で行われるがこちらの女綱は仏式での儀式が行われるのだという。








 
 飛鳥川の結界は古来から五穀豊穣子孫繁栄悪霊退散を願い行われているものだ。
 しかもいまも集落総出の行事として毎年張り替えられている。
 こうした伝統行事があるのも古代空間そのものの飛鳥川流域らしい風習である。
 
 
 関連情報URL 奈良、明日香村栢森(かやのもり)の棚田
  
Posted at 2015/08/27 22:01:51 | コメント(3) | トラックバック(0) | 飛鳥見物。 | 日記
2015年08月23日 イイね!

石舞台。

飛鳥石舞台古墳は飛鳥を代表する古墳のひとつである。
飛鳥巡りでは欠かせない観光スポットだ。





築造は7世紀の初め頃と推定され、元々は1辺約55メートルの方墳だったとされている。
早い時期に古墳上部の盛土が失われ、現在は巨大な石室が露出した姿となっている。
 石舞台古墳は、天井席の上面が広く平らで舞台のように見えるその形状から古くから「石舞台」と呼ばれてきた。1933年(昭和8)~35年(昭和10)の発掘調査で方形の墳丘、堀、外堀が存在すること、6世紀代の小古墳を壊して築造されていたことなどが確認されており、その上で築造は7世紀初め頃と推定されている。



 飛鳥歴史公園のパンフレットをみると「大小約30個の花崗岩が使用されており、一番大きな石で約77トン、総重量は2,300トンと推定されています。かなりの重量で、造られた当時の優れた土木・運搬技術の高さがうかがわれます。」と書かれている。
 どこからどのようにして運んできたのか知らないがともかく巨大な石であることは間違いない。
 名も無き庶民の墓がこんな巨大なものであるはずもないので天皇かそれに準ずるほどの権力者の墓所であることは間違いないだろう。



 この石舞台古墳に埋葬された人物は不明だ。
 だが『日本書紀』の記述から6世紀後半にこの地で政権を握っていたという蘇我馬子(551年~626年)の墓の可能性が高いと言われている。


 
  なんといっても珍しいのは墳丘の盛土が全く残っていないことだ。
巨大な両袖式の横穴式石室が露呈しているという独特の形状である。
たまたま観光客を案内していた観光タクシーの運転手さんがいたので「ここはもともとは土盛があったんですかね?」と聞いてみた。するとその運転手さんは「そうとも言われてますが・・・・一説には、作りかけでやめてしまったという話もあります」と。たしかに、石室がこんなに出たままの古墳は珍しいので途中で古墳造営をやめた、という説ももっともだ。いろんな古墳を見てきたがこんな石室だけが露出している古墳はみたことがない。



また古墳の周りには濠が掘られているがあるはずの水がない。古墳の周囲には満々と水量をもつ濠のあるのが普通である。この点をみてもまだ濠を十分に掘っていないのではなかろうかという推定もなりたつ。




 古墳というのはどこからか盛り土を持ってくるのではない。たいていの場合は古墳の形状を決めたらその周りの地面を大きく掘り下げて古墳に土を盛りどんどん掘り下げるので地下水が湧きだして自然に堀割となる。つまり周囲を掘り下げたぶんの土の量が古墳の上に積み上がるというわけだ。
  現代の古墳の形状はほとんど森のように樹木で覆われているが出来上がったときは樹木はなくただ濠で囲まれた大きな土の山があるだけである。そこに自然に草木、樹木が茂り始めていまのような森みたいになるのである。


石舞台の石室にあった石棺。模造してつくられたもの。古墳内の別の場所においてあった。




たまたま居合わせた地元の人に聞くと「昔は見物なんかお金いらへんで。なんぼでも入ってあの石の上に登って弁当たべたこともあるで。いつからこないに金とりよるねん」と憮然としていた。
たしかにいろんな古墳を見物したが料金を払ったのはここだけである。

Posted at 2015/08/23 19:06:18 | コメント(3) | トラックバック(0) | 飛鳥見物。 | 日記
2015年08月19日 イイね!

岡寺。

前々から岡寺へ参詣したいと思っていたが今年のお盆に行くことができた。
岡寺への参道は駐車場前からいきなり急な坂道である。コンクリートで整備されているが年寄りには極めてきつい登り坂である。
やっとのことで坂を登り切ると左手に岡寺の仁王門が見えてくる。
その前にある受付で入場料一人300円を支払い仁王門を見学。左右の仁王像がいかにも古い木材であり風格もある。
仁王門をくぐると境内だが日本庭園風の庭の前は石垣のような壁になっており本堂はさらに石段を登った上にある。
猛暑の中夕方といえども西陽が射して暑さは半端ない。頑張って石段を折り返して登ると岡寺の本堂がそびえていた。
ここはもともとが岡山という山であり岡寺はこの山を切り開いて創られた山岳寺院なのである。
岡寺ははるか明日香の平野を見下ろす山の上にあるのだ。

岡寺(おかでら)は、奈良県高市郡明日香村にある真言宗豊山派の寺院。山号は東光山、寺号は龍蓋寺(りゅうがいじ)とも称し(寺号については後述)、詳しくは東光山真珠院龍蓋寺という[1]。本尊は如意輪観音。西国三十三所第7番札所。

『岡寺』と『龍蓋寺』
岡寺は奈良県明日香村の東、岡山の中腹に位置しています。
岡寺という名は地名に因る名で正式には、

山号は 東光山(とうこうさん)
院号は 真珠院(しんじゅいん)
法名は 龍蓋寺(りゅうがいじ)

『東大寺要録』「義淵伝」、『扶桑略記』等によれば、天武天皇の皇子で27歳で早世した草壁皇子の住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したとされる。史料上の初見は、天平12年(740年)7月の写経所啓(正倉院文書)である[2]。

現在の寺域は明日香村の東にある岡山の中腹に位置するが、寺の西に隣接する治田神社(はるたじんじゃ)境内からは奈良時代前期にさかのぼる古瓦が発掘されており、創建当時の岡寺は現在の治田神社の位置にあったものと推定されている。寺跡は平成17年(2005年)に「岡寺跡」として国の史跡に指定された。

現在では真言宗豊山派の寺院だが、義淵僧正は日本の法相宗の祖であり、その門下には東大寺創建に関わった良弁や行基などがいた。義淵僧正が法相宗の祖とされていたため、江戸時代までは興福寺の末寺であった。江戸時代以降は長谷寺の末寺となった。((Wikipediaより抜粋))


石段を登って一段高い位置に広がる岡寺の中心部へ足を踏み入れた。
本堂は見上げるほど巨大で古色蒼然としている。
その前にぼんやりと立っていたら作務衣を着て本堂の手入れをしている寺の人が「どうぞ中へ上がって・・・・」と言ってくれた。
これはご親切に、ありがたい。お礼を言って遠慮なく上がらせていただいた。
外から見上げててもご本尊の巨大な観音像が見えるのだが本堂の中からは目の前に白い観音像が間近に拝観できて圧倒された。
堂内は撮影禁止なので「岡寺」ホームページの写真をここに掲載させていただいた。木造のようにも見えるが塑像の観音仏であるという。
堂内にはほかにも貴重な古い仏像や西国三十三寺のご本尊像、江戸時代のお逗子などまるで博物館級の宝物が展示されており眼福至極であった。
ただこういう国宝級の品々がだれでも見学できると不心得者が傷つけたり盗んだりしないかと心配にもなった。
先に大問題になった寺社への油掛け事件だがこの岡寺にも仁王門などに油が撒かれて被害を受けている。
あの犯人は捕まったのか知らないがとんでもない罰当たりなやつである。
この日人は多くはなかったが三々五々という感じで参拝の人もいた。
境内には紅葉の木も多く秋にはさぞ紅葉で全山が染まり美しいことだろうと想われた。
弘法大師の像、祖師堂もあり三国三十三箇所の遍路も人びとの信仰を集めているのだろう。

参拝に登り上りで一汗かいたがいい雰囲気の岡寺であった。


★以下、写真はクリックしていただくと大きくなります。


仁王門
国指定の重要文化財。左右に木造の仁王像がある。
慶長17年(1612)建立。埋蔵文化財の宝庫といわれる明日香村において建造物で唯一、重要文化財に指定されているのは、岡寺のこの仁王門と書院だけであります。


仁王門を入ると日本庭園風の中庭が広がる。正面の石垣の上に本堂などがある。正面右にある石段を登っていく。

西国第七番
日本最初やくよけ霊場 岡 寺
〒634-0111
奈良県高市郡明日香村岡806
入山時間 : 8:00〜17:00(12月〜2月 8:00〜16:30)

          個人   団体(50名以上)
一般(大学生以上) 300円  240円
高校生       250円  200円
中学生       150円  120円


立派な金属製の灯籠が寄進されていた。


祖師堂と弘法大師石像。


本堂を中心に伽藍が広がる。



岡寺本堂。
現在の本堂は棟札などから、文化2年(1805)の上棟ですべての完成迄に30年以上かかった事が判明。4mを超えるご本尊さまが安置されているお堂であり境内の中でもひときわ目立つお堂。


鐘楼堂
正確な建立年代は不明ですが、梵鐘には文化5年(1808)と刻まれており、建築様式などから本堂と同時期に再建されたものと思われます。


重要文化財 塑造 如意輪観音座像
本尊の高さは4.85メートルにおよび、通常は平安時代以後に、密教の流入に伴って流布した六臂(六本の手)で、片膝を立てて思惟する像容が多いのですが、岡寺本尊は二臂(二本の手)で、右手は施無畏、左手は与願の印を結んで、結跏趺坐をする姿をしています。(岡寺HPより)。


本堂内部から厄除け観音を拝観する。(岡寺HPより)


龍蓋池。龍をこの池に閉じ込めたという伝説がある。


奥の院へつづく道。本堂前、龍蓋池の上手には十三重石塔がありさらにその上にいくと開祖 義淵僧正の廟塔と伝えられる宝篋印塔がある。


三重宝塔。
平成13年に復興、完成。


岡寺より明日香平野を望む。


日差しはまだ残暑だが空の雲はどことなく秋の気配を感じさせた。



関連情報URL 岡寺ホームページ。




Posted at 2015/08/19 12:25:07 | コメント(4) | トラックバック(0) | 飛鳥見物。 | 日記
2015年02月06日 イイね!

折口信夫と「飛鳥坐神社」。

 「飛鳥坐神社」には、「御田(おんだ)祭」のほかに歌碑などがある。
 今回は「飛鳥坐神社」にある歌碑の紹介をしてみる。







万葉歌碑。
斎串(いぐし)立て 神酒据ゑ奉る 神主の うずの玉陰 見ればともしも  (巻13-3229)





会津八一の字を集める形でつくられた万葉歌碑。
みもろは 人の守る山 もとへは あしひ花さき すゑへは 椿花さく うらくはし 山そ 泣く子守る山 (巻13-3229)





飛鳥古京を守る会記念之碑。
結成40年を記念して建てられた。歌碑の書は地元の書家である鈴木葩光(はこう)氏。







釈超空(折口信夫)の歌碑。
国学者で民俗学者の折口信夫(おりぐちしのぶ)は歌人でもあり歌人としては釈超空の名を用いた。

ほすヽきに 夕くもひくき 明日香のや わがふるさとは 灯をともしけり  釈 超空



 折口信夫の祖父である酒造ノ介(1826-79)は、大和の明日香村岡寺前の岡本善右衛門の8男に生まれた。この祖父は、いったん「飛鳥坐神社」の累代の神主家である81代宮司・飛鳥助信(1781-1859)の養子となった上で、嘉永5(1852)年3月に折口家へと入った。
 したがって折口信夫にとっては、養子縁組ではあるが祖父の父となる曽祖父が「飛鳥坐神社」81代宮司・飛鳥助信ということになる。祖父酒造ノ介の亡き後、折口家と「飛鳥坐神社」の間は疎遠になっていたが、折口信夫は明治33年13歳の時、初めて一人で「飛鳥坐神社」に参詣した。
  折口信夫は現在の大阪市浪速区に医者の父のもとに生まれるのであるが、家庭環境は非常に複雑であった。
その後も、明治37年にも祖母つた(酒造ノ介夫人)や叔母えいと共に再び「飛鳥坐神社」に参詣し旧交を復すこととなった。
長じて折口信夫は明日香村の出身であること、また「飛鳥坐神社」と縁深きことを誇りに思い家族友人また慶應義塾の教え子らとたびたび「飛鳥坐神社」を訪れている。

 歌碑の歌のほか次のような歌も残している。

事代主 古代の神を祖とする
いとおほらかなる 系図を伝ふ


なつかしき故家の里の 飛鳥には
千鳥なくらむ このゆふべかも


ほのぼのと 雑木にまじる 夕桜
古き社は 山の上にあり


旧里の飛鳥の村に しづかなる年は 来たりて、 咳ふ老いびともなし。
喜びの黙を深めて をとめ等は、春を装はむ。(「古代感愛集」)


 先に折口信夫が13歳で「飛鳥坐神社」に参詣したと書いた。
 実はここで衝撃的な出会いがあった。
 折口信夫は明日香の地で9歳年上の浄土真宗の僧侶で仏教改革運動家の藤無染(ふじむぜん)と出会って初恋をした。1905(明治38)年、國學院大學の予科に入学した折口信夫は藤無染と同居。約500首の短歌を詠む。
 折口の師匠である民俗学者の柳田國男は、このような折口の同性愛という性的嗜好を強く否定しており、折口と対立し終生折合うことはなかった。
 「飛鳥坐神社」は五穀豊穣、子孫繁栄を祈念する神社である。
 同性愛者だった折口信夫は男女交会の秘技を神事とする「おんだ祭」をどう思っていたのだろうか。



●折口信夫と「飛鳥坐神社」についての説明は、関連URLにリンクしたプログ「飛鳥坐神」と折口信夫」を参考にした
Posted at 2015/02/06 19:20:45 | コメント(2) | トラックバック(0) | 飛鳥見物。 | 日記
2015年02月05日 イイね!

「飛鳥坐神社」③。

  「おんだ祭」というのは「御田植祭」から来ている呼び名だ。
   最初私は「ホンダ祭」と勘違いしていた。
   したがって車の「ホンダ祭」とは関係ない伝統的な祭である。
   五穀豊穣と子孫繁栄を祈る神事なのである。
   最初にお田植えの神事が第一部、ついで第二部で子孫繁栄の神事すなわち祝言と夫婦交会の神事が執り行われるという趣向なのだ。
   第一部の御田植神事だけならば多くの神社で行われている。
   しかしこの第二部の場面があるのが奇祭と言われる所以である。
   お多福と天狗による夫婦和合の儀式で、翁の介添えを受けながら子種をつける秘事を一切無言で執り行うのである。
   登場する演者は無言である。
   ほんとうに一言も発しない。
   この沈黙すぎる無言劇のほうが奇祭のようにも思われる。









   
   だが「飛鳥坐神社」の見どころはこれだけではない。
   神社全体が子宝関係のパワースポットになっているのだ。
   神事だけでなく境内には社がたくさんある。
 いずれも子宝神社にふさわしくご神体は男女の陰陽石である。
 人工のものはなく天然石だという。
 境内を一周りして社に手をあわせ陰陽石を眺める。
 若い女性が「すごーい」と声をあげる。
 そばを通りながら、
 「ひとつもろうとこか」
 とおばさんが一言。
 さすがに年期の入り方が違う。 

















いっぽう境内ではササラを手にした翁、天狗、お多福、牛が参列者のお尻を叩きながら暴れまくる。そこらにいる人を誰彼構わずささら竹で尻叩きをして廻るのだ。
しかも一言も発しない。
無言で尻叩きをするのがお約束だ。
逃げ惑う人、悲鳴を上げる人、それを青竹のササラを振りかざして追いかける牛や天狗。
逃げる人ばかりではない。
むしろ喜んで叩かれるのがご利益なのだ。












叩かれると縁起がいいというので老若男女関係なく尻を突き出す。
子宝祈願の若い男女はとくに頑張って叩かれている。
女子供には手加減するが男には容赦無いササラの一撃がお見舞いされる。
「ぎゃーーー」
と悲鳴をあげてぶっ倒れる若者もいる。
痛かったぶんだけ励めばきっと子宝に恵まれることだろう。













牛はけっこう人気がある。
地面を叩いて脅かすのだがいつしか女性や子供に取り囲まれている。
  若い女性に頼まれ記念撮影に加わる回数がとても多い。
  牛はけっこうもてもてなのだ。
お多福は堂々とした体躯で腕も筋肉もりもりで太い。
本気で尻を叩かれて悲鳴をあげる人もいる。
一番叩かれて痛そうなのがお多福である。
ほかの天狗、翁もそうだが明日香村の青年たちが演じているそうだ。
よく見るとお面はけっこう傷ついたり色が変色したりしている。
「昔のものをそのまま使っているからなあ」
「新しくしたり色を塗りなおしたりはしないんですか」
「やっていないなあ昔のままのものをそのまま使っているんですよ」










 


祭り保存会の法被を着たおじさんに話を聞いてみた。
「今日は人が少ないほうだなあ」
「去年はもっと多かった?」
「いやあ7,8年前からだんだん減っているな」
明日香村自体が人口減少に悩んでいるらしいのだ。
「日本で唯一全域が古都保存法対象地域の自治体である。また、村全体の世界遺産登録に向けた計画が具体化している。明日香村特別措置法によって村内全域が歴史的風土保存の対象となっている。遺跡・景観保全のためやむを得ないが、この厳しい開発規制のため人口は減少している。」(Wikipedia)
村の人口は平生2年をピークに1500人ほど減少しいま5800人ほどだ。
近隣の市や町と比較しても人口の減少率は非常に高い。
少子高齢化が村の深刻な問題となっているのだ。
そうしてみれば参加者の子宝祈願もさることながら、「飛鳥坐神社」にとっては、村内男女の子宝祈願こそ大事な問題なのである。













明日香村飛鳥の「飛鳥坐神社」を後にしたのはもう夕方4時を過ぎていた。
空は暗く粉雪が舞い始めた。
参道でおみやげの日本酒4合瓶一本を買った。
  銘柄は「純米酒 うねび」。
製造元は橿原市今井町の河合酒造だ。
あまりに寒いので水落遺跡の柱に座って一杯飲んでみた。
いやあすっきりして芳醇な味わいでいい酒でした。
飛鳥寺見物はまた次のこととして待っていた橿原神宮駅ヘ行く臨時バスに乗り込んだのである。


●関連URL●
「飛鳥坐神社」(あすかにいますじんじゃ)で行われた天下の奇祭「おんだ祭」
 神社についての解説が詳しく載っています。




●動画●
「おんだ祭」


Posted at 2015/02/05 13:50:13 | コメント(0) | トラックバック(0) | 飛鳥見物。 | 日記

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「外国人の「外国免許切替(外免切替)」制度をめぐり短期滞在者がホテルの住所で日本の免許を取得することについて、ホテル滞在による「支障は把握していない」とする初の答弁書を閣議決定した。それで良いということだ。
日本保守党の竹上裕子衆院議員の質問主意書に25日付で答えた。無責任だろ。」
何シテル?   05/18 14:14
 趣味は囲碁、将棋、麻雀、釣り、旅行、俳句、木工、漆絵、尺八など。 奈良、京都、大阪、和歌山の神社仏閣の参拝。多すぎて回りきれません。  奈良では東大寺の大...
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