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角鹿のブログ一覧

2015年02月04日 イイね!

「飛鳥坐神社」②

天下の奇祭といわれる「おんだ祭」。

午後2時いよいよ神事が始まった。
宮司の祝詞、お田植え神事、浦安という巫女舞いが奉納される。
お田植えというのは五穀豊穣を願うどこにでもある神事である。
苗に見立てられた松枝は演じられたあとで参加者へ放り投げられて配られる。
続いて第二部が始まる。
ここでは、お多福と天狗が登場し翁の介添えで最初に祝言をとり行う。
次に夫婦和合の儀式が面白おかしく演じられる。
御座が敷かれ、恥ずかしがるお多福が御座の上に転がされ着物の裾がめくられると天狗がその上に・・・・。腰使いが足りないと翁が天狗の尻を押しながら飛び上がる。
一仕事終わると白い紙で後始末。
この紙がもう一つの主役なのである。
お多福、天狗の股間を拭いた紙は、「福の紙」と呼ばれて参拝者に撒かれる。
これこそが子宝に恵まれる秘宝の紙なのだ。
数少ないこの紙を手に入れようと観客は激しい争奪戦を演じる。
紙がゲットできれば子宝に恵まれるとあって参加者必死だ。
残念ながら紙をゲットできなかった。
だが諦めるのは早い。
第二ラウンドの夫婦和合の神事が続いて行われるのだ。
もう観客は大拍手。
今度はお多福が御座にどっかりと座って天狗を手招き。
近寄ってきた天狗を腹の上に乗せてどたtんばったんの激しい腰使いに観客大興奮。
で後始末の紙が翁の手から投げられる。
これが最後のチャンスだ。
「ちょーだーーい」
「こっちだよ
「投げてーー」
「ちょうだーーい」
騒然とした呼声の中をちり紙が舞う。
「福の紙」をつかもうと伸びる手、また手。
境内は興奮の坩堝と化した。
ほんとに子宝を欲しいと願う気持ちがひしひしと伝わってきた。
一連の神事が終わったあと「ご供撒き」(ごくまき)が行われた。
お餅やお菓子などが2000個、投げられた。
日本固有の神道は五穀豊穣と子孫繁栄を願うものである。
その意味において子宝を得るための夫婦和合を神事として伝承することは氏神の役目でもある。 少子化対策の一貫としてこういう伝統神事の見直しも大事なことである。
子宝神社の復興や活性化が日本の未来を救う。
あえてこう訴えたくなる思いである。




★奉納された絵馬。子宝のお願いが多い。



★絵馬。



★絵馬。



★絵馬。




★午後二時近くなると参加者は続々と結集してくる。




★どこもかしこも「おんだ祭」だ。




★「飛鳥坐神社」鳥居の前。



★本殿(左高い部分)の前から観客があふれている。




★本殿の中で子宝祈願の儀式が執り行われていた。


★神楽殿の後ろからみた光景。


★境内は人で埋め尽くされている。




★宮司の祝詞。




★田植え神事のあとで牛が苗に見立てた松葉を配る。



★お多福と天狗が登場した。


★婚約の後天狗は一モツに見立てた竹筒でアピールする。



★同じくイチモツを振り回す。巧みな竹筒さばきに笑いが起きる。熟練の技の見せ所。



★第二回戦の主役はお多福。下で寝転び、上に天狗がのしかかり、翁がその尻を押す。


★夫婦和合の福の紙(拭くの紙)を投げる。



★紙を投げる。また投げる。参列者の手があがり「こっち」「ちょーだいっ」の声が飛ぶ。




★福の神(紙)をなんとしてもゲットすべく立ち上がって翁に接近し直談判。手を出している。




★翁も振り向き紙の残り枚数を確かめつつ何枚かを手にとった。




★ついにゲットしたぞ、福の紙。この後、彼女はガッツポーズをした。





★最後の「ご供撒き」。縁起モノの2000個のお餅が参列者の頭上に飛んだ。






●「おんだ祭」動画。

Posted at 2015/02/04 22:31:14 | コメント(1) | トラックバック(0) | 飛鳥見物。 | 日記
2015年02月03日 イイね!

「飛鳥坐神社」①

 ★写真★クリックで拡大します。

 近鉄線橿原神宮駅に着いたのは昼の12時ころだった。
これから、明日香村にある「飛鳥坐神社」まで歩こうと思う。
バスも出ているようだがゆっくりと歩いていくほうが見物の楽しみが倍増する。
明日香村へは、これまで行ったことはない。
だが、だいたいの方向だけはわかる。
橿原神宮駅はよく来る場所だ。たいがいは奈良や京都方面への乗り換え、あるいは大阪へ行くための通過駅だ。駅構内にはおいしいコロッケなどの揚げ物屋、パン屋、うどん屋などがあり薬店、コンビニもある。
なにかと便利な駅である。

駅名にもなっている「橿原神宮」は初代天皇である神武天皇をお祀りする神社である。
民間の請願を受けられた明治天皇により、明治23年に官幣大社として創建された。
私は正月の初詣と2月11日の「紀元祭」には、橿原神宮に詣でる。
とくにいろんな意味で盛り上がるのは2月11日の「紀元祭」だ。
御祭神である神武天皇の御即位の日を記念して執り行われる橿原神宮の最も重要な例祭だ。
「紀元祭」は全国から右翼の街宣車が総結集するため橿原神宮一帯は一種騒然とした異様な雰囲気に包まれる。境内は国旗を掲げた右翼団体の行進やあまたの参列者で埋め尽くされる。
  宮内庁からは天皇陛下の勅使の御参向もあり紀元祭の儀式は荘厳に執り行われる。

ただひとつだけ厳しいのは寒さだ。
  参列場所は全員が屋外である。
2月の寒風すさぶ玉砂利の上なのでテントが張られ、ところどころに石油ストーブが置かれホッカイロが配られても寒さは半端ない。
神社というのはだいたいが質素、素朴である。
ほとんど何もない。
仏教はそれに対して絢爛豪華である。
建物にしても金堂、講堂、五重塔など七堂伽藍で木彫やら石灯籠やら天井壁画やら見るだけで有り難そうなものが多い。やはり信者に金持ちが多いんだろうか。
もともとインド仏教は釈迦の時代は寺も仏像も葬式もなかった。
人が修行するだけでなにもないようなものだった。
いまの仏教を釈迦が見たら別の宗教だと想うかもしれない。
これから行く「飛鳥坐神社」は日本の神道である。
日本の神道には教祖も教典もない。
神道は簡素の極みである。




★丈六交差点。


今回は、橿原神宮へ向かうのと反対側の東口から外へ出た。
空は暗く冷え込んでいる。寒いというより冷え冷えとした感じである。
今日は2月の第一日曜日、この日、「天下の奇祭」と言われる「おんだ祭」が「飛鳥坐神社」で行われるのだ。それを見物に行こうというわけだ。同行者なしの一人旅だ。
まあ旅というほど大げさなものではない。昼時なので食事をしてから行こうか迷ったがそのまま明日香村の方向へ歩き始めた。
するとすぐに信号のある交差点があった。
「丈六」という交差点の看板があった。これは珍しいネーミングだ。
釈迦の身長が1丈6尺だったので「丈六」が仏像の高さの標準とされている。それと同時に「丈六」というのは仏像をさす言葉ともなっている。
丈六交差点のある橿原神宮駅の東口あたりは、古代には厩阪(うまさか)と呼ばれていた。藤原氏の氏寺である厩阪寺がこのあたりにあったのだが、平城京遷都で厩阪寺は移転され現在の興福寺になっている。
ちなみに同じくこの地にあった蘇我氏の氏寺である法興寺も平城京遷都の際に平城京に移転して元興寺となった。だが移転したにもかかわらず法興寺はそのまま残り、飛鳥大仏をまつる飛鳥寺と名を変えて存続している。
今日これから見物にいく「飛鳥坐神社」のすぐ近くにある。
時間があれば飛鳥寺のほうも見に行きたいものだ。

丈六交差点についての解説を見ると、「飛鳥時代、このあたりは南北に貫く下つ道と東西に走る山田道が交わる交通の要衝で、「軽の巷」と呼ばれた。近くに軽の市が開かれ、たいそうな賑わいを見せたという。」
つまり、「下つ道」は現在、丈六交差点を南北に走る国道169号線となり、東西に貫いていた「山田道」は、ここから明日香村へ行く道で県道124号線とよばれている。
ということは、時代は移っても飛鳥時代の道がそのまま交通路として現役だということになる。もうここは街全体が古代にタイムスリップしてしまった感がある。
ともかく、橿原神宮駅を出れば、もうそこはどこもかしこも飛鳥時代の今昔物語の現場なのだ。歴史好きには古代ロマンにワクワクしないではいられない聖地である。
ともかく橿原神宮駅東口から100メートルほどの「丈六」交差点であまり長居するわけにはいかない。
丈六交差点を渡って先を急ごう。


★この道を車が交差して通り抜ける。家の塀にそって反射板がつけられている。

ここから明日香村へ至る昔の「山田道」、すなわち県道124号線は大混雑であった。明日香村方向から橿原神宮へ向かう車が非常に多い。もちろん反対に明日香村へ行く車も多い上に奈良交通のバスも走っている。なによりも道幅の狭さは半端ない。バスはもとより乗用車二台もほとんどすれ違えない。ものすごく狭い道なので対向車同士が自発的に片側交互通行をしながらやっとこさ通り抜けている塩梅なのだ。こちらは歩いているのだが歩道スペースもあるようなないような道なのでまるで忍者のように家の塀に真横にへばりついて寄ってくる車を除けないと前進できない場所も少なくない。たぶん道の拡張が常に課題になっているのだろうがそれができない事情があるのだろうと想像した。



★古いが凝った青い屋根のある住宅が県道ぞいに建っていた。


なにしろここは車のなかった飛鳥時代の道をそのまま使っている古代ロマンの道なのだ。
やっぱり飛鳥路は歩くに限る。
こう嘯くのだが、実は帰りは特別に走っていた奈良交通の臨時バスに乗ってこの道を抜けて橿原神宮駅までもどったのだ。
車の渋滞が続く道をしばらく歩いて行くと坂道が見えてきた。
その手前にセブンイレブンがあった。
おにぎりを一個買い明日香村にある「飛鳥坐神社」への道を尋ねてみた。
ただ「飛鳥坐神社」と言ってもわかりにくかろうと、神社の近くにある「飛鳥寺」の方向を問うてみた。
やや面倒くさそうに視線を泳がせたうら若きバイトの女の子は黙ってもう一人の女の子に聞きに行った。
戻ってきて「明日香村はあっちのほうですから・・・」と指す指を見るが「あっち」が「どっち」なのか判別不能であった。若い女子は古代ロマンの世界はあまりご興味がなさげなのであった。
ともかく「あっち」の方へ少し歩くと二股に出くわした。
「あっち」とは、この二股の「どっち」なのであろうか?
道が直進する細い坂道と右へ折れるやや広い道と二股になっているのだ。
そこで見渡すと目の前にかなり高い堤防があることがわかった。
その堤防の佇まいを眺めてはっと思った。
「ここは古墳だ」
「古墳の周りには必ず池がある」
 そう思って目を凝らすと堤防の上に大きな石碑と堤防へ上がる階段があった。予感は的中の感があった。
 ここは堤防へ上って古墳を見物するしかあるまい。
 堤防へ上がると見事な古墳が溜池の向こうにある。溜池というか、貯水池というか、けっこう広い。



★孝元天皇陵と剣池。手前に水路への水量を調節する水門がある。


 水面の向こうに樹木でこんもりと覆われた古墳がある。
 古墳としてはこぶりだが、なかなかいい趣だ。
 ここらで一休みするかな。そばに立つ石碑をながめた。
 石碑は文字が薄くて判読できなかった。そこで、石碑の基壇の石に腰掛けてセブンイレブンの130円のおにぎりを食べた。
 時刻は12時30分ころ。空は灰色と黒色、青色とが混濁した冴えない色合いをしており、吹き渡る風は薄ら寒く水面にさざなみを立てている。
 
 
 橿原神宮駅に着いてから30分くらい経過している。遅くもなし、早くもない。
 「飛鳥坐神社」での天下の奇祭という神事は、午後2時からと聞いている。
 古墳といえばこれまで堺の百舌鳥古墳群を見物してきた。
 仁徳天皇稜をはじめとして付近の古墳群を足が痛くなるほどめぐり歩いて眺めてきた。
 たかがそれくらいのことで自称古墳マニアと思っている。
 人間とは、浅墓にも思い上がるものだ。
 堤防の上には「剣池」という説明書きがあった。
 この場所は橿原市石川町というところで池は石川池という。
 池が出来たのは「応神天皇11年冬10月に剣池を作る」と記録に残っており、その記録とは、「日本書紀」の記述だという。
 なんなんだろうこの橿原市という土地は。
 駅からちょっと歩けば「この丈六交差点は飛鳥時代からある辻で、そのころから交通の要衝で賑わっていた」、さらに歩くと池があっていつ頃出来たかといえば、「日本書紀に書いてありますよ」、とは。
 もう時代感覚が麻痺してきた。
   はっきりと言いましょう。ここらは昔のまんまじゃないか!
 もう辛抱たまらん!!
 歴史は過去じゃない、過去が今じゃないか、ここいらは。
 平成なんて世の中は橿原市のほんの薄皮であり1300年前ごろの姿そのままが当たり前なのだ。
 そこの人、そう、俺かいって顔をしたおじさん、そうあんた。
   あんたに言いたい。いまだに飛鳥時代かい、ここいらは!!
  世界の皆さあん、日本の歴史を知りたければ橿原市へおいでください。どこもかしこも昔のまんまですよお!
  過去の時間がここでは今現在の時間を刻んでおりますよ。
  まさにこのあたりすべてのものが「飛鳥学」というべき学問研究の一ジャンルでありましょうホントに。
  


 

  この石川池(剣池)の古墳は第八代の「孝元天皇陵」(正式名称「剣池嶋上陵(つるぎのいけのしまのえのみささぎ)」だという。「日本書紀」には、孝元天皇は治世57年目の秋9月に崩御されたが、皇位を継いだ開化天皇により、即位5年後に、孝元天皇の遺骸を劔池嶋上陵に埋葬したと記録されている。同様の記述は、平安時代初期の「延喜式」にもある。   
  しかし、孝元天皇は実在が証明されていないため陵の存在そのものを疑う説もある。
  また、この陵自体が、4~5世紀頃の3基の古墳と自然の丘陵を取りこんだものではないかとも言われている。。
  そこでいったいこの陵に誰が葬られているかいまだに不明であり真相は謎のままだ。
  
  この真偽はさておくとして、もう一つの謎は稜を三方から取り囲む池である。
  さきにも少し紹介したが、「日本書紀」には、孝元天皇を奉葬した後、310余年経った応神天皇11年10月にこの池を開削して剣池と名づけたという記録がある。そのことから、この剣池は孝元天皇の陵とは関係なく、あとで掘られた溜池だという話が伝わっている。
  専門家がそう言われているのであるから反論するつもりはない。
  だが、ほんとにそうかのかという疑問が残る。
  もし最初から周濠がなかったとするならば、この古墳をつくる盛り土はどこから持ってきたのか?という疑問だ。
  古墳とは形はともかく大量の土を人工的に盛り上げて作るものだ。それには盛り土がいる。ふつう古墳は必要な盛り土を古墳の周りの土地を掘り下げて調達する。つまり古墳を盛り上げるぶんだけ周りの土地は掘り下げられて深くなるのだ。土を深く掘ればどうなるか。水が湧くのだ。それが自然に貯水池、溜池となり地下水脈が途絶えない限り永久的な環濠貯水池となる。
  この古墳環濠用水こそが天皇陵墓の古墳を守り、同時に天皇陵周辺地域の農業や人々の生活に欠かせない用水となって地域を潤してきたのだ。
  日本の古代天皇の陵墓は環濠貯水池を伴って造営されている。
  古代天皇は自身が身罷っても後のちまで民を見守り、民の暮らしをを潤す存在なのである。
  大和朝廷の最高権力者だった天皇と民の関係はそのような麗しい関係だったことを古墳は明確に物語っている。
  堺市周辺の仁徳天皇陵や履中天皇陵、いたすけ古墳、御廟山古墳、ニサンザイ古墳などの百舌鳥古墳群ををめぐり歩いたとき古墳の周りに必ず周濠があり水門があった。その水門から周囲へ水路が張り巡らされいまも水路として機能しているのである。
  天皇の古墳とは別の見方をすれば巨大な農業用の灌漑用貯水池だった。
  しかも深く掘られた露天掘り井戸であるため水は枯れることがない。
  だからこそ周辺の民は天皇の崩御を悼みつつも農業用水ともなる古墳造営にこぞって自ら進んで労働奉仕したのではないだろうか。
  同じ最高権力を持った王の墓であってもエジプトのプラミッドや明十三陵、兵馬俑を埋めた秦の始皇帝稜などシナ皇帝の墓は、ただ支配者の権力を誇示するためだけの墓である。
  私は北京郊外の明十三陵を見学したが石棺のある広大な地下石室にはなぜか石材が散乱していた。案内してくれた北京大学の学生に聞くと、「工事人夫は最後には生き埋めにされることを知って途中で逃げ出したんだ」と言っていた。散乱した石材は造営された当時のままだということであった。
  さて剣池の場合も最初は環濠貯水池であったと推定するのが自然だろう。
  だが何らかの理由で応神天皇11年に再工事し拡大したと言えるのではないか。たとえば、水が枯れていたものを再掘削して元に戻したとか、単純に大容量の貯水池に作り替えた、などの推測ができる。
  堺の古代天皇の古墳を具に見てきた経験で言えば、そのほうが自然で合理的な説明がつきそうだ。
  




  堤には歌碑があった。
  紀皇女(きのひめみこ)の歌とあった。
  
  軽の池の 浦廻行き廻る 鴨すらに 玉藻のうへに 独り宿なくに
  (かるのいけの うらみゆきみる かもすらに たまものうへに ひとりねなくに)
  
  軽の池の浦を泳ぎまわる鴨のようなものでさえ、
  藻の上で妻と一緒に寝て、独りでは寝ないのに、私はどうしたことでしょう。
  こうして寂しく独り寝をしています。
  
  また剣池には昔からきれいな蓮が咲いていたという。剣池といえば明日香の蓮池として知られていた。
  皇極天皇3年(644)の6月、剣池で一本の茎から二つの花を咲かせた珍しい蓮が開花した。
  この地に住まい繁栄の絶頂期にあった蘇我蝦夷(えみし)は、
  「これは、蘇我臣が栄えるという吉兆に違いない」
   と受け止め、金泥で描いた蓮の花を法興寺(現在の飛鳥寺)に寄進した。
   だが、 それから一年後に大化の改新が起き、蘇我蝦夷・入鹿親子は一命を落とすことになる。
   いま剣池には蓮の花はなく沈黙の水面はただ流れる雲の影を映しているばかりである。
   
     
 さて剣池に別れを告げて明日香村への細道をさらにたどる。
 ひろびろとした田圃、竹林など田園風景が広がる。
 雀の鳴き声が激しい。
 梅の木におびただしい雀が止まっていた。カメラを向けると一斉に飛び立ってそばの電線に止まった。
 「わりいなあ。邪魔をして」
 心で詫びてまた歩きだした。



 このあたりの光景も飛鳥時代のままのなだらかな丘稜地形なのだろう。
 道の横に白い乗用車が停車していた。
 なんでこんなところに止まっているのか??
 道の傍らに人家がありお孫さんらしき赤ん坊を抱いたおじさんの姿が見えた。
 少し距離があった。
 「あの・・・飛鳥寺のほうに行きたいんですが・・・」
  大きな声で聞いてみた。
 「ここを・・・まあっすぐ・・・行ってぇ、突き当りますからぁ右にぃ行けばいいですよ」
 「突き当り、右ですかあ、右ですねえ、ありがとうございます」
  後ろに止まってこの様子を見ていた乗用車から若い女性が降りてきた。
  女性二人連れだった。その女性もおじさんに道を聞いてた。
  おじさんは孫を抱き直しながら身振り手振りで教えていた。
  しばらく歩いていると、後ろからその車がさあーっと追い越して行った。
  あのおじさんに聞いたのは賢明な判断であった。
  このあたりもう車も人もほとんどいない。
  明日香村の鄙びた中心部へと近づいているのかもしれない。
  孫を抱いたおじさんに感謝だ。突き当りを右へ行くの左へ行くのとは大違いである。
  旅は道連れ世は情けという。行きずりの人間が道を聞いて親切に教えていただけるのは有り難いものである。


  
  突き当りを右へ曲がると小川が流れその両側になだらかな曲線を描いて道が続いていた。
  一直線川筋でないのでおのずと自然のままの流れだということがわかる。
  このあたりの地形は丘も川もおそらくは飛鳥時代のままなのだろう。人工の手の加わっていない景色というものはどこか心に馴染むたおやかさが感じられる。
  「国立飛鳥歴史公園」というものがあった。
  「国立」という文字が重いですな。
  なぜ「飛鳥歴史国立公園」としなかったのか?
  国立の公園と、国立公園とは、どう違うのか?同じものなのか、そのあたりはわからない。
  ここは「甘樫丘地区」と言われる場所で蘇我蝦夷、入鹿の親子の邸宅があったといわれるなだらかな丘陵地帯である。あとでパンフレットを見ると展望台があって飛鳥古京、藤原京、大和三山が一望できると書いてあった。先に読んでいたらちょっと展望台まで行ったのになあ、と思ったが後悔先に立たず、である。
  



  その先で民家が連なり途切れたあたりに小さな橋があった。
  この橋の親柱に「飛鳥橋」と書いてあった。この小川は飛鳥川というらしい。
  橋のたもとに道標がある。
  おそらく散在していたものを一箇所に集めたのではないか。
  道標がこのように一箇所に集まって存在するものなのだろうか?
  「左 岡寺」と刻まれている。
  吉野町にも伊勢街道の石の道標があって「おかでら」の名が刻まれていた。
  昔から「岡寺」は知名度の高い寺だったのだろう。
  飛鳥橋を渡ると広い道路が横切っており、その向かいに道の駅のような販売所と駐車場があった。
  

  




  舗道で交通誘導をしていた警備員に聞いてみた。
  「あのう、飛鳥いすわり神社へ行くには・・・・」
  「居座りじゃあない。飛鳥にいます神社です」
  「居座るんじゃなくて・・・」
  「飛鳥に、います、神社です」
  「飛鳥に居ます神社?」
  「あすかにいますじんじゃ!」
  「はい」
  「駐車場の中へ入って橋を渡れば行けます」
  親切に怒りもせず道を教えてくれた。
  
  橋を渡れという警備員の言葉を信じで赤い橋を渡った。
  でもなにか気になる。
  引き返して見れば、この橋を渡るあたりに木の切り株のようなもんが並んでいた。
  看板を見るとこれが重要な遺跡だとわかった。
  「水落遺跡」というのだそうだ。





  ここは中大兄皇子がつくった水時計のあった建物跡だということだ。
  水時計で時を測り二階の鐘楼で鐘をついて時を知らせたものらしい。
  昔は時計といえば鐘をついて知らせたもので鐘楼は時計台だった。
  北京で「時計博物館」があるというので見物に行った。
  その建物の中にあったのは大小無数の釣り鐘であった。
  ここでまたまた登場するのが「日本書紀」だ。もう明日香村を歩くと「日本書紀」と友達になったような気分である。なにがあってもに「日本書記」である。
  ええ、なになに・・・・水落遺跡についての説明を読んでみよう。
  「この場所が『日本書紀』に登場する天智天皇10年4月25日(辛卯:671年6月7日)条に記された漏刻とその付属施設であることが確認された。」(Wikipedia)
  ということであります。
  それにしてもなんでも記録に残してあるということは大事なことですな。
  もし「日本書紀」がなければ、ここがなんだったのか?
  さっぱりわからないままなのだから。
  多少の推測はできても、いまのように詳細な復元図まで書けるのは「日本書紀」があったおかげである。
  明日香に来てほんと「日本書紀」の大事さがよーくわかります。



  
  と、いよいよ目的地の「飛鳥坐神社」は目の前だ。
  参道ともいうべき民家の間を歩いていけば突き当りのこんもりとした丘が「飛鳥坐神社」である。
  そぞろ歩くと「おんだ祭」の張り紙もあったりしてだんだんと祭り気分が盛り上がってくる。
  民家も二階建てのような高い建物がなくましてマンションとか●●ビルなどは見当たらない。
  色彩もけばけばしいものはない。建築物の姿形など景観がよく保存されていることがわかる。
   たぶん景観保存のための規制などがあるのだろう。 



  歩いて行くと人の数も増えてきた。
  酒屋があり一杯ひっかけているおじさんもいた。
  おみやげの酒は重いので帰りに買うことにしよう。
  時計を見ると1時であった。







  ここまであっちこっちと寄り道しながら休んだ時間を引けば30分あまりで着いた計算になる。
  「飛鳥坐神社」の鳥居の前に来た。
  「このあたりの住所はなんですか?」
  祭りの法被を着ている地元のおじさんに聞いてみた。
  「ここは明日香村の飛鳥という場所です」
   なるほど明日香村飛鳥かあ・・・・聞いただけで飛鳥ロマンがじわっと湧いてくるような住所だ。
  鳥居の前あたりにはもう屋台店も出ており人で賑わっている。







  鳥居の奥に急な石の階段がある。
  神社の拝殿はこの階段の上のほうにあるようだ。
    
  
  (つづく)
   次回は階段を上って境内の奥へと潜入?します。
   たぶんもう「日本書紀」は登場しないでしょう。




●関連情報URL●
「動乱の古代史の舞台 古京・明日香を歩く」
 
  
Posted at 2015/02/03 17:20:51 | コメント(1) | トラックバック(0) | 飛鳥見物。 | 日記

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「外国人の「外国免許切替(外免切替)」制度をめぐり短期滞在者がホテルの住所で日本の免許を取得することについて、ホテル滞在による「支障は把握していない」とする初の答弁書を閣議決定した。それで良いということだ。
日本保守党の竹上裕子衆院議員の質問主意書に25日付で答えた。無責任だろ。」
何シテル?   05/18 14:14
 趣味は囲碁、将棋、麻雀、釣り、旅行、俳句、木工、漆絵、尺八など。 奈良、京都、大阪、和歌山の神社仏閣の参拝。多すぎて回りきれません。  奈良では東大寺の大...
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