「第67回正倉院展」(主催・奈良国立博物館、特別協力・読売新聞社)が24日、奈良市の奈良国立博物館で開幕した。初日には約1万人が来場している。開催は11月9日までで休館日はない。
正倉院展は戦後二年目の昭和21年から開催されている。
1200年以上も保存されてきた正倉院の宝物は敗戦で打ちひしがれた日本人の傷心を癒やし日本文化や歴史への誇りと自信を保つ拠り所となってきた。平成9年には正倉院は国宝に指定され、翌1998年(平成10年)には「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている。
11月1日飛び石連休の初日の日曜日に正倉院展を見物してきた。
この日は天候もまずまずで会場のある奈良公園は人出が多く鹿ものんびりとしていた。
正倉院展の会場は外国人の姿はほとんどなく中年以上の女性の見物客が多かった。若い男女や男性の関心はさほど高くないという印象を受けた。たまたまこの日がそうだったのかもしれないが・・・。
拝観料は大人1100円。昨年は2時間半待ちが最高だった。今年はタイミングよくすんなりと入場できた。珍しや。
奈良国立博物館。玄関前には池があって鯉が泳いでいる。
入り口前の列にならんで池を撮影してみた。
今回の展示で印象に残ったものを何点があげてみたい。
★「彫石尺八(ちょうせきのしゃくはち)」
蛇紋岩という石でできた短めの尺八。表に穴が5個あり(現代尺八は4個)内径も細い。竹を模した形状をしているが石製だけに重く演奏には適していないので装飾用に製作されたのではないだろうか。またどこで作られたものかも説明文にはなかったのでまだ謎が多い。
この「彫石尺八」は光明皇后が夫の聖武天皇没後、東大寺大仏に献納した遺愛品覚えの「国家珍宝帳」に記されているという。
同様の意匠で「彫石横笛」も展示されていた。これは一対の品と考えてもいいだろう。

「石彫尺八」。同じ大きさの竹製にくらべて約5倍の重さの250gもある。

「石彫横笛」 吹口のほかに指で抑える穴が7個開いている。
★花氈(かせん)
いまでいう絨毯である。フェルトと書いてあったので羊毛製だろう。素晴らしいのは文様である。蓮華唐草文に見事な蓮華があしらわれている。唐草文様は葡萄屋柘榴のツルを意匠化したものであり葡萄や柘榴の原産地は現在のカスピ海沿岸地域のペルシャ(メソポタミア)であるのでいわゆるシルクロードを渡ってきたペルシャ古代文様と言えるだろう。それがはるばると1200年前の聖武天皇時代には奈良の都にもたらされていたということになる。しかも色褪せることなく往古のままに現存しているということに驚嘆を禁じ得ない。これはほとんどの正倉院御物について言えることでもある。
この西方伝来の唐草模様が日本で独自に発展して現在までの多様な日本風唐草文様になっている。泥棒が荷物を担ぐ絵の大きな風呂敷がこの唐草模様であるがこのごろああいう緑に白抜きの唐草模様はあまり見かけることがない。
数枚展示されていた正倉院御物の花氈(かせん)に改めて唐草模様の古代意匠の鮮やかさを教えられた。

蓮華唐草文様の花氈(かせん) 。
このほかに当時の毛筆とか猪の毛を使った仏具、象牙に彫刻をほどこした物差しなど珍品も数多く見ることができた。最後のコーナー出口のある部屋には大きな針や糸玉などが展示されていた。大きさから見て実用ではなく何かの儀式に使われた祭具であるらしい。
今回の展示物の最後のこの部屋には「乞巧奠」(きこうでん)という宮中七夕儀式の展示物があった。 糸布のついた大きな銀の針や物差しなど珍しいものであった。
またすでに文書の書かれた紙の上に太い筆で何度も字を練習した習字の跡のある文書紙も展示されていた。

七夕の漢詩が反古文書の上に何度も練習された習字紙文書。紙は貴重品だったことがわかる。昔は半紙を買うお金も潤沢になく習字は新聞紙に書いて練習した経験をもつ人も多いはずだ。当時はさらに紙は貴重なものだったはずである。紙が貴重なため木を薄く削った「木の紙」で代用していた。これを「木簡」といい平城宮跡からはさまざまな木簡が大量に発見されており当時の生活や政治、経済を知る貴重な手がかりになっている。
私はここで耳慣れないというか不勉強にして「「乞巧奠」(きこうでん)という文字をはじめて見た。
これは何なのか?たまたまそう疑問に思っていたらすぐ前で声がした。
お父さんと一緒に来たらしい大学生くらいの女の子が「乞巧奠に使われた・・・・」という鉄針、銅針の展示物の説明文を見て側にいるお父さんに
「きこうでん、て何なん?」
と訊いた。 だがお父さんは無言のままだった。どきっとした。
もし私に聞かれても答えられないし・・・・。裁縫道具が多く展示してあるので、それとなんか関係のあるのは確かだろうけど・・・・。
そこでこの親子が疑問を残したまま先へ行った後で、そこらに立っていた会場係の年配の女性に「この「乞巧奠」とは何ですか?」と質問してみた。
するとすらすらと次のようなことを答えてくれた。
「七夕の日に裁縫が上達するようにお願いをする儀式があります。それが「乞巧奠」というんですよ。ここに展示してあるのはそういう宮中儀式に使われたものです」
なるほどなるほど、それで裁縫が「巧み」になるように願いをこめて七夕の織姫彦星様に「乞う」ために針や糸や習字紙やいろんな供え物を、「奠」( 供え、まつる)儀式を行うということなのか。
それにしても七夕(たなばた)と書くが、なぜ「七夕」を「たなばた」と読むのだろうか?
ここで七夕と乞巧奠について簡単にまとめてみたい。
「たなばた」は「棚機津女」(たなばため)に由来する言葉である。
もともと日本にはお盆の一環として神様をお迎えして禊の儀式を行う風習があった。
7月6日の夜に水辺に出て少女(棚機津女)が機織りをしながら神様が降臨するのを待つ。そこへ神が降りてくると機織女は織り上げた布を神のお召し物として差し上げる。
そして翌日の7日には神は再び天へ戻っていくのだが、それに合わせて水辺の小屋から再び機織女が現れてお供え物などを川や海に流すことで穢れを流し去るための「七夕送り」という禊の儀式を行う。このような一種の祖霊神を迎える神事が日本には古来から行われていた。
後になって中国から7月7日の牽牛織姫の物語を持つ節句の儀式が入ってきた。
さらには裁縫の上達や習字上達など手仕事の向上を願い竹を立てて供え物をする「乞巧奠」の儀式も入ってきて、それらすべてが日本古来の七夕と融合、習合して今日の七夕の風習の原型が生まれいまに続いているということである。
このような裁縫の上達を願う宮中での乞巧奠の祭具が正倉院に保存されていることは七夕の変遷や成立過程を知るうえで貴重な学術的資料とも言えるのではなかろうか。
いまでも七夕では竹に願い事を書く短冊を吊るすがこれは神に願いをかけるという古来からの神事そのままの姿であり飾り物として菱型の紙細工を吊るすがこれも元々は布や飾り糸を竹に括りつけて裁縫や織物の上達を願ったのが元々の形である。
二三年前に東京の私立高校の七夕を見たことがある。
いまどきの男女高校生の願い事を見ると「大学進学」「受験合格」「クラブ活動」などもあるが「結婚できますように」「リア充」とか「金持ちになりたい」などなど様々であった。もちろん「裁縫が上手に」というのはほかの七夕の願いも含めて一度も見たことがない。
またかなり前だが真冬の函館に行った時、五稜郭を見下ろす五稜郭タワーに登ってみた。一面の深い雪の原で五稜郭は雪に埋もれていた。
ここでなぜか真冬なのに七夕の願いを書くコーナーがあった。
そこでこんな願いの短冊があった。
「総務課のA君、とにかく早く私にプロポーズしてみて。絶対に後悔させないから、A君を絶対に幸福にしてあげるから。プロポーズ早くして、待ってるから」
こんな文言だった。
うーん、単刀直入だ。
その後A君のプロポーズはあったのだろうか。いまだに思い出してはときおりその短冊の行方が気になっている。
札幌が恋の街なら、函館は恋人たちの街なのかもしれないな、と一つ頷いて五稜郭タワーを後にした。

「紫檀木画槽琵琶」

琵琶の模様の拡大。これは、なんとかビトンではない。
ところで今回の最大の目玉とされポスターにもなっている紫檀木画技法(木と象牙)を使った花模様の「紫檀木画槽琵琶」だが会場を出たあと思い出しても見た記憶がない。人が多いせいもあってなんとなく見落としたのかもしれない。まことに残念である。
最初、今回の正倉院展のポスター写真を見た時、閃くものがあった。
ひょっとしてなんとかビトンはこの模様をヒントに発想したのかもしれないな、と。
ご婦人がたの下げているビトンのバッグを見てその類似性に驚く。
色調といい柄といい配置といいそっくりである。
その本物を自分の目で確かめる絶好のチャンスを逃してしまった。この次、この琵琶が展覧されるのはいつのことになるのかわからない。
何しろ正倉院の宝物数は9000件にものぼり、毎年展示されるのはわずか60点ほどである。
もしこれから正倉院展へ行かれる方はぜひこのあたりも見物してみていただきたい。
●興福寺散策●
正倉院展の帰りに興福寺へ足を運んだ。紅葉もちらほらと染め始めており家族連れや観光客で賑わっていた。
奈良公園に近い「興福寺」の本堂と五重塔。ここは高台となっており昔は興福寺のある高みから眼下はるかに平城京の甍を見下ろすことができた。興福寺はいわば平城京の守護神とも言える寺院である。
同じく興福寺の光景。この境内の広さと五重塔の威容に圧倒される。興福寺はもともと飛鳥にあった藤原氏の氏寺なのだが平城遷都とともに現在地に移された。
ここで興福寺の由来について少し説明してみたい。
興福寺のはじまりは京都の山科に邸宅を構えた藤原(中臣)鎌足の持仏堂とされている。
藤原鎌足は英才の誉れ高い飛鳥時代の政治家であるが出生地は 『藤氏家伝』によれば大和国高市郡藤原(現在の奈良県橿原市)である。
飛鳥時代の当時の世相をみれば物部氏滅亡(587年)後、これまた藤原鎌足に遜色ない天賦の才能と政治的な嗅覚と力量に恵まれた蘇我入鹿を頂点にして、蘇我氏一族は支配階級に強大な権力を持ち権勢を極めていた。
歴代天皇后妃に蘇我氏の女性を入れるなど形式上は「天皇家の家臣」ではあるが、実質的には準天皇あるいは天皇に匹敵する権勢を誇っていた。蘇我氏は蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたり政権を掌握していた。
時の天皇は皇極女帝であり蘇我入鹿は公私共に皇極天皇の唯一無二、最大のパトロンというのが実態であった。もしこのまま推移し皇極女帝と蘇我入鹿の間に「皇子」が誕生すれば中大兄皇子ら「天皇家の正統な皇子の血脈」は途絶える可能性すらあった。まさに国家存亡、天皇家の危機であった。これは極端な推論であろうが多分に信ぴょう性のある「悪夢」といえる。
また目を世界に転ずれば強大な武力をもつ唐による高句麗征伐が決行されるなど東アジアには唐周辺国家の国家存亡の危機感が迫っていた。日本もまた東アジアの戦乱とは無縁ではない。このなかで時の最高権力者として蘇我氏一族の栄華の実現しか眼中にない蘇我入鹿と蘇我氏支配体制は藤原鎌足の目には天皇家の危機であると同時に国家滅亡の危機であった。
蘇我氏体制を崩壊させいまこそ天皇を中心とした強力な中央集権国家を確立しないと日本の存立は危うい。
我が一命を賭して藤原鎌足はこの難局を乗り切る礎にならん!
蘇我入鹿、断じて討つべし。
藤原鎌足は遂にこう決心した。そして蘇我氏打倒を発願して釈迦三尊像と四天王像を造立し持仏堂に安置し請願の祈りを捧げたのである。

興福寺では中金堂の再建工事が行われている。

興福寺中金堂のそばにある「南円堂」。華やかな建造物だ。

南円堂の前にある仏像。網で囲まれており小さい窓があいておりそこから手を入れて仏像を撫でるというつくりになっている。
藤原鎌足は極秘裏にかつ大胆に行動を起こした。まず初めは軽皇子(孝徳天皇)に接近し、ついで中大兄皇子とも血盟を結んだ。さらに蘇我一族内部で入鹿と対立する蘇我倉山田石川麻呂をも陣営に引き込んだ。そして645年、飛鳥板蓋宮にて蘇我入鹿を暗殺、さらに入鹿の父の蘇我蝦夷も襲撃して自刃させるに至った。
大化の改新を成し遂げ軽皇子(孝徳天皇)を擁立。
さらに藤原鎌足は天皇の宮を飛鳥から難波宮(現在の大阪市中央区)に移すといいう大英断を下した。同時に機運一新のため新たに元号を制定し「大化」とした。この「大化」は日本最初の元号であり6年間続いている。大化の改新で実施された諸政策は飛鳥ではなく難波の宮で策定施行されたのである。
藤原鎌足は天皇が蘇我氏の本拠地である飛鳥の地を一旦離れることで蘇我氏の息のかかった人脈をすべて断ち切ろうとしたのだと想像する。いまでも企業の人事異動は定期的に実施される。
人事異動の目的の一つは職場や顧客、取引先などの属人的人脈、関係を一新し、新任者によるチェック機能を働かせるためだ。流れの淀むところには腐敗が生じる。本人の意思に関わらず権力は自ずと腐敗するのだ。
飛鳥はすでに蘇我一族の陰謀と欲望で淀んでおり新国家建設の都にはふさわしくなかった。
藤原鎌足はのちに「大化の改新」と呼ばれるようになる一大改革により従来の蘇我氏をはじめとする飛鳥豪族を中心とした政治の私物化を廃し天皇を中心とした中央集権国家の建設に着手していった。
『国郡里制』を実施しとして全国を統治する国の骨格を定め中央の役人を地方へ派遣、戸籍法を定めて6歳になると田んぼを天皇から与える『班田収授の法』を実施、収穫したら天皇へ税金を納めよと『租庸調制』の税制を発布した。などなど諸制度、法令、税制、外交を進めていった。特にアジア外交では強大な唐へは遣唐使を派遣して宥和関係を進め唐の諸制度や先進文化を輸入、朝鮮三国との関係を整理して緊張を緩和した。
さらに藤原鎌足は中大兄皇子のちの天智天皇を支えて新たな国家建設に一生を捧げた。だが藤原鎌足は最晩年、重篤な病に伏した。
夫人の鏡大王は藤原鎌足の病気平癒を祈願し山背国山階陶原(やましろのくにやましなすえはら)持仏堂を病気平癒を祈願する仏閣に建造しなおした。これを山階寺(やましなでら)と呼び、山階寺が現在の興福寺の起源とされている。興福寺はその後も山階寺とも称されることがある。
藤原鎌足と命運を共にした天智天皇も崩御され、その後、いわゆる「壬申の乱」が勃発。現在の奈良県吉野の奥深い剱岳に立てこもって天の時を待った天智天皇の弟の大海人皇子が決起、天智天皇の皇子の大友皇子を打ち破った。672年に「壬申の乱」に勝利した天武天皇の時代が開幕すると都は天智天皇・弘文天皇の都であった近江国(滋賀県)の近江大津宮から大和の飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に遷都した。これにともない山階寺も山科の地よりは飛鳥に移された。その場所が大和国高市郡厩坂だったため、この地名をとって「厩坂寺(うまやさかでら)」と称されたという。
「厩坂寺」は飛鳥の地のどのあたりにあったのだろうか?
奈良県を走る近鉄線の「橿原神宮駅」の橿原神宮と反対側の改札を出ると目の前に「丈六」の交差点がある。

「丈六」交差点。駅を背にして歩いてくるとすぐだ。前方マンションの前に「丈六」の表示がある。この信号を横断歩道でわたり山田道をまっすぐ行けば蘇我氏邸のあった甘樫の丘に至る。「厩坂寺」跡地は信号を渡ってすぐ左手に見えてくる。
ここは飛鳥の中心地のある東に向かう阿倍山田道と南北に走る国道169号線が交わる場所だ。この十字路と交差する道筋はほぼ飛鳥時代の道と同じである。
この「丈六」という交差点の名は、仏像の高さの寸法を指して「丈六の釈迦」などという場合の「丈六」と思われる。そして「丈六」交差点から阿部山田道を歩いて50メートルほど行った左手にこんもりした小型の古墳を思わせる栗林の土壇のような場所が見える。これが当時「「厩坂寺」の建っていた場所すなわち大和国高市郡厩坂とされている。
いまは周辺にマンション、アパートなどが密集しており栗林の横手は田んぼになっている。
ここに厩坂寺があったとすれば交差点の「丈六」とは厩坂寺のご本尊である藤原鎌足請願、造粒の釈迦三尊像に由来する地名なのかもしれない。
710年に都が藤原京から平城京に遷ると、鎌足の子の不比等(ふひと)は平城京左京に厩坂寺を移し、名も興福寺と改めた。つまり、厩坂寺は藤原氏の氏寺だった興福寺の前身なのだ。
京都山階陶原にあった藤原鎌足の持仏堂→山階寺→飛鳥の厩坂寺と数奇の運命を辿った末に飛鳥から奈良の平城京への遷都に伴い厩坂寺も平城京に移って「興福寺」と名を改め法相宗の大本山としてまた藤原氏の氏寺として都の甍をはるか眼下に見下ろす高台から国家安泰を祈願しつつ今日に至っている。

興福寺境内の片隅にある三重塔。小ぶりだが丹精で美しい。
また京都の「山階寺」の跡地は山科にある京都薬科大学の近くではないかと言われており石碑も建っている。この写真と解説が「みんカラ」ブログにあったのでご紹介する。
「山階寺は七世紀後半、藤原鎌足により創建された寺院です。鎌足の「山階陶原家付属の持仏堂」が始まりと推定されます。
奈良時代の興福寺に関する史料(『興福寺流記』所引「宝字記」)には、「鎌足は改新の成功を祈って、釈迦三尊像・四天王像を造ることを発願した。事が成就した後、山階の地で造像を行った。やがて重病になり、妻の鏡女王の勧めで伽藍を建て仏像を安置した。これが山階寺の始まりである」と記されています。
その所在地は大宅廃寺説や中臣遺跡説もあるが、山科駅西南、御陵大津畑町を中心とした地域にあったとする説が有力です。付近から有力な遺跡は見つかっていませんが、この辺りは大槻里と呼ばれ、西隣の陶田里にかけてが陶原であったと推定されています。鎌足の子の不比等が育った「山科の田辺史大隅らの家」も近くにありました。
山階寺はその後、大和に移り厩坂寺と呼ばれ、更に平城京に移り興福寺となります。このため興福寺は山階寺とも呼ばれました。天智天皇の腹心であり、藤原氏の始祖となる鎌足は、山科と深い関係があったのです。(説明看板より)
京都薬科大学の南東角、国道1号沿いに石碑と説明看板が建っています。」
https://minkara.carview.co.jp/userid/157690/spot/570801/
みんカラ「不楽是如何 史跡めぐりドライブ」さんのブログ。↑。
山階寺跡(京都市山科区)藤原鎌足が創建した山階寺跡
興福寺境内にも鹿がいる。角を切られたオスの鹿が二頭自分の居場所を居心地がいいのか動こうとしない。
ものぐさ太郎君の鹿なのかな?観光客が鹿せんべいを与えても座ったまま食べている。
★関連情報URL★
「正倉院展2015」