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角鹿のブログ一覧

2016年05月06日 イイね!

「頭塔」


「頭塔」(ずとう)。奈良市高畑町。

 奈良市にある神社仏閣は大仏様のおわします東大寺、藤の花で彩られた春日大社、五重塔で有名な興福寺、鑑真和尚で知られる唐招提寺などなどいずれも観光スポットとして有名なものが多い。
 そのなかであまり知られていないがひときわ特異な存在として異彩を放っているのが「頭塔」という極めて珍しい仏塔である。
  「頭塔」は「ずとう」と読む。
  なにやらネーミングだけでも怪しげな雰囲気が漂う。
  
  
 高畑町の家並みの向こうに何やらこんもりとした丘が。文字とおり住宅街の真ん中にあるのが頭塔だ。


  
 かつての頭塔への入り口の門(右側)。いまは閉鎖されている。

 
 かつての入り口の門の真ん前にある「仲村表具店」さん。こちらが少し前まで頭塔の鍵を管理され案内もされていた。

 
 頭塔の下は小広い駐車場になっている。
  
  現在のインドやパキスタン、アフガニススタンの仏教遺跡には釈迦の仏舎利を収めた仏塔(ストぅーパ)が残されている。ただ古代インドはその後イスラム教徒の侵略を受けているので仏教遺跡は多くは破壊されてしまった。仏塔も残って入るが仏像の頭部が損傷したり喪失したりして完璧なものは数少ない。現在でも他宗教や偶像崇拝を敵視するイスラム教徒過激派による仏教遺跡破壊は続いており古代インド地域の仏教遺跡も悲惨な状況である。
  

現在、頭塔の入り口は「ホテルウエルネス飛鳥路」の脇から入る。同ホテルさんが普段は管理人役をされている。この広い路を左へ行けばじきに春日大社や奈良公園浮御堂につながっている。ホテルの向かい側にある老舗の蕎麦やさん。

    
  それはさておいて古代インドの仏塔は土とか石で造営されているがまた支那へ入ると仏塔はストゥーパの音が漢訳されて「卒塔婆」また「塔婆」となった。支那の卒塔婆は石造の大建築で巨大な塔建築物が多く見られる。
 さらにそれが朝鮮、日本へ入ると高層の木造建築の塔に変わる。
 日本の仏教寺院にある五重塔、三重塔、また多宝塔などはみなインド式仏塔にならった日本式の仏塔なのである。
 

瓦屋根の下には釈迦像などの石彫刻のレリースがある。
まさに古代インドの仏塔を彷彿とさせる仏塔構造になっている。
 
 
お寺にある五重塔などの塔の原点はインドの仏塔すなわち仏舎利を収めた仏塔(ストゥーパ)である。
 インドにある仏塔をイメージして日本では五重塔などの塔が造られているのだ。
 形は変わっていても仏教信奉者にとっては釈迦の仏舎利あるいはその代用品を収めてある仏塔に込められた釈尊への尊崇の念や仏教信仰の精神は国が変わり形が変わってもいささかも変わるものではない。
  この頭塔の珍しいところは木造の五重塔といった形式ではなく土を土台としたピラミッド形状をしているところである。しかも七段の矩形の階段状になった角層に石積みがなされ釈迦の石彫レリーフが嵌めこまれインド風のストゥーパを想わせる雰囲気を湛えている。このような仏塔はおそらくは日本に唯一と言っていいのではなかろうか。
  

頭塔の後ろ側へ回る区切りあたり。樹木のあるのが一応後ろ側ということになる。


  この頭塔は東大寺からも春日大社からもそう遠くはない高畑町の住宅街のなかにある。
  このあたりもともとは住宅街ではない。
  春日大社の原生林の森の隣にあってこんもりした森のなかに頭塔は造営されたものだったろう。
  だが時代が移り変わるうちに宅地開発が進みこの頭塔の小山だけが取り残された形で周りをびっしりと住宅が埋め尽くしていったものであろう。
  この頭塔も昔は単なるこんもりとした木に覆われた古墳のような小山であった。
  もしかしたら取り潰され平坦にならされて住宅地の一部分になっていたかもしれない。


「頭塔復元想像図」

  しかし頭塔の秘められていたこの場所は破壊されることはなかった。
  寺院もなにもないただのこんもりと雑木の茂るだけの丘、にも関わらずである。
  では何が1300年あまりの長きにわたって単なる小さな円形の丘だった頭塔を守ったのか?
  想像だがこの土地に住む人々の伝承によるものではなかろうか。
  「ここは古くから聖霊の宿る場所だ」
  「玄昉和尚の頭が埋められており軽々しく壊すと祟があるぞ」
   といった伝承が代々言い伝えられてきたものなのだろう。
   びっしりと立ち並ぶ人家に取り囲まれ残された円形の小さな森。
   頭塔はまるでタイムマシンに切り取られた異空間であり化石のように存在している場所なのだ。
  特異な形状から頭塔は「謎のピラミッド」と話題になった。
  頭塔と呼ばれる階段状の土塔は、基壇裾から最上壇までは7段の階層となっており約10メートルの高さである。
  一辺32mの矩形でまさにピラミッドさながらの形をしており、仏教的には立体曼荼羅のように多数の石彫仏(重文)が四面に配されている。
  
  
  木々の茂る後ろ側へ回り込む。

  頭塔は大正11年に国の史跡に指定された。
  昭和61年から発掘調査が行われ頭塔の概要が判明した。
  平成3年から復元整備が始められ平成12年度に今日の姿となった。
  頭塔は現在国史跡の重要文化財に指定されている。
  
 
 春のGWには保存会の方々が総出で見学者のために説明や案内をしておられた。おかげで楽しく見物できた。黄色い服の人が保存会の人。この日、4月30日は見物に来る人がひっきりなしだった。私は春日大社で藤の花を見物したあとで奈良町で昼食をとりその後陽射しの強い二時から三時ころにかけて頭塔を見物した。


 頭塔ができたのは奈良時代のことだ。
 そのことは 『東大寺要録』の記録にあり「奈良時代の僧、実忠によって造営された」と書いてあるということだ。
  この古文書では頭塔は「土塔」(どとう)と表記されているという。
  土塔には違いないが石彫や石積みもあるので正確には土だけではない。最初は土塔だったものが時間をかけて次第に石を積むなどしてだんだん堅固なものになっていったのであろうか。古文書の文字記録だけを根拠としているため仔細については明らかにはなっていないのだろう。
  その一方で、平安時代の『七大寺巡礼私記』にはこの頭塔は僧・玄昉の首塚であるという伝承が記録されている。
  東大寺の記録では「土塔」だが、僧・玄昉首塚説という平安時代の記録が出てきたことにより首塚説を根拠として「頭塔」という呼び方が定着していたものかもしれない。
  いずれにしても奈良時代末期においてインド仏塔様式を取り入れたストゥーパでありそれまでの日本にはなかった極めて特異な仏塔であることにはまちがいない。


石積みの階層のある表側と違いこちらは発掘前の様子がそのまま保存されている。こちら側はお寺の墓地として利用されてきたようだ。

  
  なぜこの頭塔が玄昉の首塚とされているのかは定かではない。
  玄昉は奈良時代の法相宗の僧。養老元年(717年)遣唐使に学問僧として随行、阿倍仲麻呂、吉備真備とともに入唐して智周に法相を学ぶ、在唐は18年に及び、その間当時の皇帝であった玄宗に才能を認められ、三品に準じて紫の袈裟の下賜を受けた。
  阿部仲麻呂、吉備真備とともに奈良時代を代表する国際人にして天才だった。
  約20年後の天平7年(735年)次回の遣唐使に随い経論5000巻の一切経と諸々の仏像を携えて帰国した。吉備真備とともに藤原氏に代わって権勢を振るったが人々の憎しみを買いのち失脚。
  天平17年(745年)筑紫観世音寺別当に左遷、封物も没収され、翌天平18年(746年)不遇のうちに任地で没した。
 
 
 墓標として五輪塔が並んでいる。
 
 ではこの仏塔をつくった実忠とはどんな人物だったのか。
 頭塔をつくたっとされる「実忠」は、奈良時代の僧である。
 「良弁に師事して華厳を学び、760年(天平宝字4年)目代となる。東大寺を始め奈良西大寺・西隆寺の造営に参画し、東大寺大仏光背の造作や、百万塔を収める小塔殿・頭塔(土でできた塔)の造営を行った。その後、東大寺少鎮・三綱のうちの寺主及び上座・造寺所知事などを歴任し、東大寺の実務面で大いに活躍した。東大寺二月堂の十一面悔過会(けかえ)(通称お水取り)は実忠が始めたものとされる。著書には、815年(弘仁6年)一生のうちに自らがたずさわった事業を列記した「東大寺権別当実忠二十九ヶ条」がある。」
  (Wikipedia「実忠」より抜粋)


頭塔の周りには見学者のための木製の回廊がめぐらされている。
  
 おもしろいことに実忠は日本人ではなくインドの婆羅門僧という説がある。
 最初いまの福井県の若狭に渡来し小浜の神願寺(今の神宮寺)で数年の修行を行ったあと都の奈良へ上り東大寺の良弁の弟子となった。実忠は大仏仏開眼供養を行ったほか、西大寺 や西隆寺の造営に造営技術者として関わった。師良弁の没後には東大寺の造営、財政を担当し、修理別当となり東大寺の発展に大いに寄与したとされる。
  また実忠は753年に二月堂を創建して修二会を始めたという。
  3月2日まだ厳寒の若狭神宮寺から神人と寺僧で鵜の瀬へお水送り神事が執り行われる。
  この若狭から地下水脈を通して二月堂へ水を送る儀式を行うと10日後の3月12日深夜に二月堂の「若狭井」から送られた水が湧き出すという。このお香水を若狭井から汲み上げ観音様に御供えする儀式が修二会である。
 この実忠が頭塔を建設したとされているのだが、先に述べたように実忠はインド人僧だったという説がある。そこに頭塔がインド風の仏塔そっくりという秘密を解く鍵がありそうだ。
 頭塔がまさにほかの木製の五重塔などとまったく違い土塔であり古代インドに多く見られる仏塔形式にそっくりであることも実忠がインド僧であったとしたらうなずける。


入場料金は300円だった、この日は特別なのか頭塔の写真入りのクリアファイルがいただけた。よい記念になった。


  また寺院の造営に関わった匠の技術を持っていたことを考えると頭塔の設計や建築も実忠が行ったという説には信ぴょう性がある。実忠はインド渡来僧であり同時に寺院建築の専門家であったと言えるかもしれない。実忠がインドからの渡来僧であるという根拠はわからないがさもありなんと思われる。  
 そのあたりも含めて頭塔は考古学的には判明しているのだろうが文化的な背景についてはいまだ多くのミステリーに包まれている。


後ろ側の墓標群。頭塔とは関係ない後世のものだ。

 奈良時代にはるばると遠いインドから日本へ僧が来ていたのか?
 と思われるのももっともだがこの時代の奈良は国際都市である。
 唐僧ももちろんいたがインド婆羅門僧もいたのである。
 もっとも有名なのはインドから来た婆羅門(バラモン)僧の「菩提僊那」(ぼだいせんな)である。
 菩提僊那は唐の都長安でたまたま日本から来た第10回の遣唐使の日本人と出会う。おそらく日本の留学生たちは菩提僊那の経歴を知り「ぜひ日本へ来て本場天竺の仏教を伝えて欲しい」と懇請したものであろう。
 天平八年(736年)5月菩提僊那はベトナム僧仏哲(ぶってつ)を弟子に連れ渤海(ぼっかい)国から船出し、難波津(大阪港)に上陸したのである。平城京では、行基(ぎょうき)に迎えられ新設の大安寺に僧坊を与えらる。
 やがて、天平勝宝3年(751年)に、日本での僧としての最高位である僧正(そうじょう)を贈られる。
 その翌年に東大寺大仏が完成し晴れやかな入仏開眼供養法要を執り行われた。


地理的に言えば今は後ろ側のようだがこっちに入り口の門があった。
したがってかつてはこちらが見物の表側であっただろう。

 聖武天皇の臨席を得て行われた国家最大のイベントにおいて僧侶代表として開眼の導師を務めたのが誰あろうインド婆羅門僧の菩提僊那だった。
  東大寺の大仏すなわち盧遮那仏は聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われた。
開眼の導師を務めるのはインド僧の菩提僊那、華厳経を講ずる講師は大安寺の隆尊律師、華厳経を読み上げる読師は元興寺の延福法師である。大仏の瞳を描き入れる儀式は、聖武太上天皇が体調不良のため、菩提僧正が担当した。
  仏開眼会に列席した僧は「1万数千人」におよんだ。とんでもない人数だが事実である。
  正倉院御物として保管されている文書に万僧の交名(名簿)があり参列者の尊名がすべて記されている。


実にユニークな姿形をした頭塔である。
インドやパキスタン、アフガニスタンの仏教遺跡に来た錯覚にとらわれてしまう。
いま戦場となって久しい中央アジアの仏教遺跡はどうなっているのだろうか。


  松明の火の勇壮さで知られる東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)だが儀式の最初には東大寺大仏殿と大仏の造営に関わった人々の名前を読み上げられる。
 そのとき読み上げる名簿の「過去帳」の初めの部分には次のように記されている。
  
大伽藍本願聖武皇帝
聖母皇大后宮 光明皇后
行基菩薩
本願孝謙天皇
不比等右大臣 諸兄左大臣
根本良弁僧正 当院本願実忠和尚
大仏開眼導師天竺菩提僧正 供養講師隆尊律師
大仏脇士観音願主尼信勝 同脇士虚空蔵願主尼善光

造寺知識功課人

大仏師国公麻呂(だいぶっしくにのきみまろ)
大鋳師真国(おおいもじさねくに)
高市真麿(たけちのさねまろ)
鋳師柿本男玉(いもじかきのもとのおだま)
大工猪名部百世(だいくいなべのももよ)
小工益田縄手(しょうくますだのただて)
材木知識(ざいもくのちしき)五万一千五百九十人
役夫知識(やくぶのちしき)一百六十六万五千七十一人

金知識(こがねのちしき)三十七万二千七十五人
役夫(やくぶ)五十一万四千九百二人



夏草に覆われた頭塔。
ここは天平時代に渡来したインド婆羅門僧たちの布教に殉じた崇高な魂の墓標でもある。



 この「当院本願実忠和尚」というのが「二月堂」「頭塔」をつくった「実忠」であり、その後に記されている「 大仏開眼導師天竺菩提僧正」というのはインド、唐を経て奈良へ来た婆羅門僧の「菩提僊那」なのである。この儀式で聖武天皇に代わって長さ57cm、直径4cmの特大の筆で大仏に眼を入れたのは菩提僊那でありそのときに使用した実物の筆も正倉院に保存されている。
ちなみに菩提僊那の墓は奈良市中町の「霊山寺」にある。
 
 東大寺大仏殿の造営や開眼法要で重大な役割を担ったインド渡来の婆羅門僧たち。
 ついには異国日本の土となった彼らにとって「頭塔」は故郷天竺を偲ぶ望郷の塔、であったのかもしれない。
 いま新緑の5月、頭塔は四方の後半部分を森だった補修前の姿をそのまま残すという粋な設計により若草や樹木の緑が燃え上がるように青空に映えて美しい。天平時代のインド渡来僧たちもこの緑と青の色彩の中に遠い故郷の風景を偲んだのであろうか。



参考情報
◯頭塔を知るために◯



  「ホテル ウエルネス飛鳥路 から眺めた頭塔」



  「頭塔」



  「頭塔 福智院」





★関連情報URL★
 「不思議な奈良のピラミッド『史跡 頭塔』@奈良市高畑」

  ↑。地図がリンクしてありますので現地への行き方がわかります。
Posted at 2016/05/06 17:59:56 | コメント(3) | トラックバック(0) | 奈良見物 | 日記
2016年05月01日 イイね!

春日大社の藤を見物。


「猿沢の池。」

みんカラSHARAKUさんのブログで「春日大社」の下がり藤を見物という記事があった。美しい藤棚の写真があった。昔見た亀戸天神の藤の花を思い出した。
そこで4月30日(土)に外国人観光客で賑わう奈良の春日大社へ藤見物にでかけた。近鉄奈良駅から歩いて行くことに。まずは小学校のときに修学旅行で奈良に来た時宿泊したのが「猿沢の池」の前にあった「魚佐旅館別館」。ちょうど向かい側あたりにあったのだが残念なことに時代の流れには抗しきれず先年、廃業された。修学旅行の写真を見ると東大寺大仏殿や若草山で写した写真があるのだが春日大社の写真はない。とすると今回が初めての訪問になるのだろう。期待が高まる。



「興福寺の五重塔」
猿沢の池に沿った緩やかな坂道を登って行くと興福寺の五重塔が見えてくる。
明治維新の廃仏毀釈で南都奈良の仏教寺院も壊滅的な打撃を受けた。真偽の程は不明だがこの興福寺の五重塔も50円で売りに出されあやうく解体されてしまうところだったが買い手がつかず免れたという逸話が残っている。現在、この塔は国宝となっている。


歩道の街灯柱には鹿の絵が。



春日大社の鳥居が見えてきた。
大型のトラックが前を横切る。
奈良公園の周りはこうした大型トラックの通行が多い。


鳥居を潜ると別世界だ。
都会の喧騒と隔絶された森が広がっている。土道の参道が樹林帯のなかを延々と続いている。


奈良名物の鹿もあちこちに散策している。
春日大社の鹿は数は多くないがみなおとなしく礼儀正しい。
観光客が近づいても静かに佇んでいる。



子鹿が愛くるしい眼をして人間を物珍しそうに見つめている。
この季節の春日大社の参道と鹿苑はバンビの森である。
今年生まれたての子鹿は7月ころに鹿苑にデビューする予定だ。




写真撮影をされてもあまり嫌な顔をしないし逃げることもない。
鹿の餌として「鹿せんべい」が10枚150円で売られている。


やがて「萬葉植物園」の横断幕が見えてきた。


植物園入り口の看板。



入園料500円を払って中へ入ると広大な敷地にさまざまな植物が植えてある。
万葉集に出てくる植物が説明つきで植栽展示してある。
もちろんこの時期の目玉は「藤」である。


藤棚を前に記念撮影。手前は麦畑だ。雑穀類も植えられている。
藤棚の左手には小さく浅い池があるがここには縄文時代に咲いていた「大賀蓮」が植えられている。


盛大に咲いている白い花は「だいこんの花」。
大根は神前のお供え物になるのだろうか。



ここには20種類約200本の「藤の花」が栽培されている。
今日はちょうど見頃だった。

























植物園の中にはいくつか池もあり菖蒲なども植えられている。




カメラを趣味とするグループもたくさん見かけた。






朽ちて倒れた巨大な倒木。そこに木の種が根を張って若木が育っている。樹木の輪廻のサイクルともいうべき植物の命の営みを見ることができる。


「万葉植物園」を出て再び参道を歩く。
やがて遠くに鳥居が見えてくる。
春日大社の敷地は広大で参道はかなり長い。



「春日大社」鳥居前の左側にある巨大な自然石の表示。


快晴の空に鳥居の朱がはえる。


ここはまだ社殿の入り口附近。回廊。







拝殿前の賑わい。写真の正面には「砂ずりの藤」という藤棚がある。




なんといつも拝見させていただいている奈良の小仏さんが一日早い4月29日に春日大社の藤見物のブログをアップされておりました。奈良の小仏さんの写真をご覧ください。私は拝殿まででUターンしましたがさらににそこから特別拝観されている春日大社の本殿まで紹介されております。春日大社はまさに藤に彩られた神殿ですね。


◯関連情報URL◯
 
 「春日大社」

Posted at 2016/05/01 22:22:34 | コメント(0) | トラックバック(0) | 奈良見物 | 日記
2016年03月30日 イイね!

大和郡山市「お城まつり」と金魚。後編。


近鉄「郡山駅」そばにある「交番」。郡山城と間違えないでくださいね、これは交番です。お城型交番とは珍百景でしょうね。午前中に市内見物を終えたのでこれから大和郡山城をめざします。と言っても近鉄「郡山駅」から歩いて5分、10分の距離です。


近鉄線の線路を渡るのが郡山城のエントランス、入り口です。お城の内堀のすぐ脇を近鉄線が通っているのは珍しいように思う。
ふつうの城下町の場合城は旧市内中心部にあるため民家が密集している。そのため鉄道は城から離れた田んぼなどに駅がつくられるのが普通だ。大和郡山の場合もJRの駅はたしかに外堀の外側に設置されJRの鉄道も旧市内の外郭を走っている。しかし近鉄線はお城のま下を通っている。このあたりの経緯はわからないが城下町の私鉄としては珍しいのではあるまいか。
城郭の中には奈良県立郡山高校のキャンパスがある。通学の生徒たちもこの線路を渡って学校へと坂道を登っていく。今年も難関を見事に突破して郡山高校に合格し晴れて入学式を迎えた新入生たちを郡山城の満開の桜並木が出迎えてくれることだろう。
戦国時代から江戸時代にかけてこの地域を統治する拠点となったのが郡山城である。時は移りいま郡山城からは日本の未来を担うべき次世代の人材が陸続と羽ばたいている。


満々と水をたたえた郡山城の内堀。遠くに見えるシダレ桜は開花しているが他の桜はまだつぼみのままである。


坂道を登って行くと追手門との分岐がある。道の正面に追手門の櫓が遠望できる。この櫓は近鉄線の電車内からも石垣の上に見上げることができる。城郭内部は広大な敷地が広がっている。この城は江戸時代後期いまの奈良県一帯を統括する柳沢家の居城であった。


向かいの石垣が見えているが実に見事である。この石垣の向こう側(内側)に天守閣のある城の中心が置かれている。城は外堀、内堀と二重、三重の防御構造になっており平地の城だが難攻不落である。


多くの屋台が店開きをしている。ふだんは車も通る道だけに花見客が集中しても歩行者の通行にはゆとりがある。


郡山城はいまから400年ほど前に筒井順慶が筒井から郡山に移り築城を始めたものである。
「筒井順慶は安土桃山時代の武将。茶人としても知られる。代々興福寺一乗院の衆徒として勢力をもった土豪の出身。寺領を侵略して勢力を拡大。松永久秀に敗れたが,織田信長に属して大和(やまと)一国を与えられ,1580年郡山城を築く。(1549-1584) 」(百科事典マイペディア)。



筒井順慶により築城された郡山城だが天正13年(1585年)8月に豊臣秀吉の実弟である秀長が入城。秀長は紀伊、和泉、大和の三カ国百万石の太守、大納言として統治しその居城にふさわしい郡山城とすべく大拡張工事を敢行した。荒々しくも壮大な高い石垣は野面積みという技法で構築されている。



秀長の亡き後には増田長盛が20万石で入城。城下町の周囲に全長5・5kmの外堀を完成させた。このように筒井順慶以来代々の城主が連綿と工事を継続して郡山城を完成させていったのである。郡山城は黙してなにも語ることはないがこの石垣もこの城郭もみな強者達の夢の跡でありその名残なのである。


正面に柳沢神社の拝殿が見える。いまはない天守閣はその背後にあった。


柳沢神社の前では金魚の品評会、金魚の販売が行われていた。地元の金魚養殖業者が協賛している。




柳沢神社。拝殿より奥の神殿を望む。



見事な金魚が説明額とともに展示されている。


水槽は拝殿の周りに並べられ近くで見られるようになっている。


柳沢神社の前の金魚販売所で買った金魚。とても元気よく色形も綺麗だ。金魚の飼育は難しいかもしれないが楽しみでもある。


珍しい金魚水槽があります。ぜひ御覧ください。↓。
★関連情報URL★
「燈籠に金魚を泳がせた大和郡山市の新戦略」
Posted at 2016/03/30 14:16:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | 奈良見物 | 日記
2016年03月29日 イイね!

大和郡山市「お城まつり」と金魚。前編。


◯近鉄線「郡山駅」の駅前風景。

「金魚の町」として全国的に有名な大和郡山城の城下町・大和郡山市。
いま恒例の春の「お城まつり」が行われています。郡山城の桜見物と地域をあげてのお祭りイベントで賑わいます。
少し桜に早いのですが3月26日(土曜日)に大和郡山市に遊びに行きました。
金魚と同時に大和郡山市は昔の奈良県一帯の総称である「大和」の政治経済文化の中心地です。
とくに大和郡山城城主の柳沢家は江戸時代に柳原吉保、吉里をはじめ六代にわたって大和郡山を発展させた功労者です。
柳沢吉里は、大和郡山に養蚕を持ち込んで奨励し、経済を振興させました。また、趣味で飼っていた金魚も運んだことから、この地での金魚養殖が始められるようになり今日の金魚養殖日本一の礎となりました。



◯駅前にボランティアガイドのおじさんがいて親切に案内してくれます。
市内地図など情報もたくさんあってさすがに観光都市です。
そこに金魚のゆるキャラ?くんが登場したので記念撮影をしました。



◯観光案内所のそばにある「大和郡山市まちなか案内」板。地図の中の周辺部の青く塗られた部分は金魚の養殖池です。



◯近鉄駅前の風景。正面のお城のような建物はなんだと思われますか。あれは警察の派出所です。城下町らしい建物です。


◯道を歩いてみればマンホールの蓋にも金魚が。



◯柳町通りを歩いて行くと窓の中に猫がいました。猫窓。全部で5、6匹いるみたいです。



◯猫窓。通りすがりの人に大人気。地元の人が「猫は台の下にいるんだけど全部はなかなか上がってこないよね」と言ってました。



◯柳町の突き当り附近にフリーマーケットがありました。郡山八幡神社の入り口附近です。


◯旧大門のあった場所に電話ボックスの金魚鉢があります。この小さい広場もフリマになっていました。


◯水もきれいです。中には本物の公衆電話もありますね。
この柳町はじめ大和郡山の旧市内で町家の雛祭りが2月末から3月上旬に行われました。それを取材された奈良の小仏さんの写真がありますのでリンクしました。城下町に伝承されてきた趣向を凝らした雛人形が、町家の屋内の様子とともに観覧できます。
大和な雛まつり”  大和郡山市内は雛祭り真っ最中! 「奈良の小仏さん」ブログ。


◯柳町の大手門附近。郡山八幡神社の参道。



◯神社の境内では子どもが遊んでいました。開放的な神社です。


◯正面、昔は旅館だった「花内屋」。旅籠といった感じの古い建物です。


◯旧花内屋旅館のあたりに残る外堀の跡。



◯少し歩いて金魚養殖池を見物に行きました。ここは池の淵に家が建っています。家の中から釣りができそう。水上家屋の雰囲気が気に入りました。


◯金魚の養殖池の広がる風景。金魚田というそうです。こういう広い金魚養殖池が大和郡山市一帯に数多く広がっています。



◯金魚田を見晴らす土手道の上には地蔵尊がありました。



◯一面の金魚養殖池。水深は浅いです。



◯再び柳町へ戻り金魚の電話ボックスあたり。かつてはここに郡山城の大門があった場所です。いまは銭湯がありました。



◯少し歩くと町家が広がっています。


◯昔風情の残る路地。


◯この家は民家を利用したレストランです。



◯洞泉寺。この付近はお寺が多くかつては外堀の内ではあっても人家から少し離れた寂しい場所だったと想像されます。ここにかつては花街いわゆる遊郭がありました。


◯洞泉寺のすぐ門前にある遊郭の建物。二階屋で大きな構えです。


◯洞泉寺の門前通りには遊郭が並んでいた。壊さないで残されています。


◯三階建て遊郭の美しい格子窓。立派な建物である。



◯ここも遊郭の建物が残っている。洞泉寺遊郭は1956年の売春防止法施行とともに営業廃止となった。



◯遊郭は廃止されたが建物はいまも保存されている。貴重な風俗文化遺産と言えるだろう。



◯この路地の突き当りが「洞泉寺」。昼間はお寺参りに行く人が多かっただろうが夜ともなれば艶めかしい灯りに脂粉の香漂う花街に一変したことだろう。二階から三味線を爪弾く音色も暗い提灯灯りの路地にこぼれ落ちたのであろうか。

◯町の案内が貼られている。


◯いまでは見かけることもない家の前にあるゴミ箱。





◯格子戸の木造三階建ての遊郭。



◯突き当りは洞泉寺とは別のお寺である。大和郡山の花街はここから歩いて10分ほど離れた東岡町にも残されている。今回は郡山城のお城まつり見物が主なのでそちらへ急ぐことにした。


◯洞泉寺の裏手にスーパーの「オークワ」がある。ここでお昼の弁当を買った。「オークワ」は和歌山県に本社のある和歌山、奈良ではよく知られた大型のスーパーマーケットである。オークワ駐車場の前に牢屋跡と外堀があった。大和郡山城の城下は非常に広大なものである。


★関連情報URL★
 大和郡山市のホームページ

Posted at 2016/03/29 16:47:06 | コメント(2) | トラックバック(0) | 奈良見物 | 日記
2015年11月02日 イイね!

第67回正倉院展の見物。

「第67回正倉院展」(主催・奈良国立博物館、特別協力・読売新聞社)が24日、奈良市の奈良国立博物館で開幕した。初日には約1万人が来場している。開催は11月9日までで休館日はない。
  
  正倉院展は戦後二年目の昭和21年から開催されている。
  1200年以上も保存されてきた正倉院の宝物は敗戦で打ちひしがれた日本人の傷心を癒やし日本文化や歴史への誇りと自信を保つ拠り所となってきた。平成9年には正倉院は国宝に指定され、翌1998年(平成10年)には「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている。
  11月1日飛び石連休の初日の日曜日に正倉院展を見物してきた。
  この日は天候もまずまずで会場のある奈良公園は人出が多く鹿ものんびりとしていた。
  正倉院展の会場は外国人の姿はほとんどなく中年以上の女性の見物客が多かった。若い男女や男性の関心はさほど高くないという印象を受けた。たまたまこの日がそうだったのかもしれないが・・・。




拝観料は大人1100円。昨年は2時間半待ちが最高だった。今年はタイミングよくすんなりと入場できた。珍しや。



奈良国立博物館。玄関前には池があって鯉が泳いでいる。



入り口前の列にならんで池を撮影してみた。


  
  今回の展示で印象に残ったものを何点があげてみたい。 

★「彫石尺八(ちょうせきのしゃくはち)」
 蛇紋岩という石でできた短めの尺八。表に穴が5個あり(現代尺八は4個)内径も細い。竹を模した形状をしているが石製だけに重く演奏には適していないので装飾用に製作されたのではないだろうか。またどこで作られたものかも説明文にはなかったのでまだ謎が多い。
 この「彫石尺八」は光明皇后が夫の聖武天皇没後、東大寺大仏に献納した遺愛品覚えの「国家珍宝帳」に記されているという。
 同様の意匠で「彫石横笛」も展示されていた。これは一対の品と考えてもいいだろう。


「石彫尺八」。同じ大きさの竹製にくらべて約5倍の重さの250gもある。



「石彫横笛」 吹口のほかに指で抑える穴が7個開いている。



★花氈(かせん)
  いまでいう絨毯である。フェルトと書いてあったので羊毛製だろう。素晴らしいのは文様である。蓮華唐草文に見事な蓮華があしらわれている。唐草文様は葡萄屋柘榴のツルを意匠化したものであり葡萄や柘榴の原産地は現在のカスピ海沿岸地域のペルシャ(メソポタミア)であるのでいわゆるシルクロードを渡ってきたペルシャ古代文様と言えるだろう。それがはるばると1200年前の聖武天皇時代には奈良の都にもたらされていたということになる。しかも色褪せることなく往古のままに現存しているということに驚嘆を禁じ得ない。これはほとんどの正倉院御物について言えることでもある。
  この西方伝来の唐草模様が日本で独自に発展して現在までの多様な日本風唐草文様になっている。泥棒が荷物を担ぐ絵の大きな風呂敷がこの唐草模様であるがこのごろああいう緑に白抜きの唐草模様はあまり見かけることがない。
  数枚展示されていた正倉院御物の花氈(かせん)に改めて唐草模様の古代意匠の鮮やかさを教えられた。


蓮華唐草文様の花氈(かせん) 。
  
 このほかに当時の毛筆とか猪の毛を使った仏具、象牙に彫刻をほどこした物差しなど珍品も数多く見ることができた。最後のコーナー出口のある部屋には大きな針や糸玉などが展示されていた。大きさから見て実用ではなく何かの儀式に使われた祭具であるらしい。
 今回の展示物の最後のこの部屋には「乞巧奠」(きこうでん)という宮中七夕儀式の展示物があった。 糸布のついた大きな銀の針や物差しなど珍しいものであった。
 またすでに文書の書かれた紙の上に太い筆で何度も字を練習した習字の跡のある文書紙も展示されていた。


七夕の漢詩が反古文書の上に何度も練習された習字紙文書。紙は貴重品だったことがわかる。昔は半紙を買うお金も潤沢になく習字は新聞紙に書いて練習した経験をもつ人も多いはずだ。当時はさらに紙は貴重なものだったはずである。紙が貴重なため木を薄く削った「木の紙」で代用していた。これを「木簡」といい平城宮跡からはさまざまな木簡が大量に発見されており当時の生活や政治、経済を知る貴重な手がかりになっている。

 私はここで耳慣れないというか不勉強にして「「乞巧奠」(きこうでん)という文字をはじめて見た。
 これは何なのか?たまたまそう疑問に思っていたらすぐ前で声がした。
 お父さんと一緒に来たらしい大学生くらいの女の子が「乞巧奠に使われた・・・・」という鉄針、銅針の展示物の説明文を見て側にいるお父さんに
 「きこうでん、て何なん?」
  と訊いた。 だがお父さんは無言のままだった。どきっとした。
  もし私に聞かれても答えられないし・・・・。裁縫道具が多く展示してあるので、それとなんか関係のあるのは確かだろうけど・・・・。
 そこでこの親子が疑問を残したまま先へ行った後で、そこらに立っていた会場係の年配の女性に「この「乞巧奠」とは何ですか?」と質問してみた。
 するとすらすらと次のようなことを答えてくれた。
 「七夕の日に裁縫が上達するようにお願いをする儀式があります。それが「乞巧奠」というんですよ。ここに展示してあるのはそういう宮中儀式に使われたものです」
 なるほどなるほど、それで裁縫が「巧み」になるように願いをこめて七夕の織姫彦星様に「乞う」ために針や糸や習字紙やいろんな供え物を、「奠」( 供え、まつる)儀式を行うということなのか。
 
  それにしても七夕(たなばた)と書くが、なぜ「七夕」を「たなばた」と読むのだろうか?
    ここで七夕と乞巧奠について簡単にまとめてみたい。
 「たなばた」は「棚機津女」(たなばため)に由来する言葉である。
 もともと日本にはお盆の一環として神様をお迎えして禊の儀式を行う風習があった。
 7月6日の夜に水辺に出て少女(棚機津女)が機織りをしながら神様が降臨するのを待つ。そこへ神が降りてくると機織女は織り上げた布を神のお召し物として差し上げる。
  そして翌日の7日には神は再び天へ戻っていくのだが、それに合わせて水辺の小屋から再び機織女が現れてお供え物などを川や海に流すことで穢れを流し去るための「七夕送り」という禊の儀式を行う。このような一種の祖霊神を迎える神事が日本には古来から行われていた。
  後になって中国から7月7日の牽牛織姫の物語を持つ節句の儀式が入ってきた。
  さらには裁縫の上達や習字上達など手仕事の向上を願い竹を立てて供え物をする「乞巧奠」の儀式も入ってきて、それらすべてが日本古来の七夕と融合、習合して今日の七夕の風習の原型が生まれいまに続いているということである。
  
  このような裁縫の上達を願う宮中での乞巧奠の祭具が正倉院に保存されていることは七夕の変遷や成立過程を知るうえで貴重な学術的資料とも言えるのではなかろうか。
  いまでも七夕では竹に願い事を書く短冊を吊るすがこれは神に願いをかけるという古来からの神事そのままの姿であり飾り物として菱型の紙細工を吊るすがこれも元々は布や飾り糸を竹に括りつけて裁縫や織物の上達を願ったのが元々の形である。
  
  二三年前に東京の私立高校の七夕を見たことがある。
  いまどきの男女高校生の願い事を見ると「大学進学」「受験合格」「クラブ活動」などもあるが「結婚できますように」「リア充」とか「金持ちになりたい」などなど様々であった。もちろん「裁縫が上手に」というのはほかの七夕の願いも含めて一度も見たことがない。
  またかなり前だが真冬の函館に行った時、五稜郭を見下ろす五稜郭タワーに登ってみた。一面の深い雪の原で五稜郭は雪に埋もれていた。
  ここでなぜか真冬なのに七夕の願いを書くコーナーがあった。
  そこでこんな願いの短冊があった。
  「総務課のA君、とにかく早く私にプロポーズしてみて。絶対に後悔させないから、A君を絶対に幸福にしてあげるから。プロポーズ早くして、待ってるから」
  こんな文言だった。
  うーん、単刀直入だ。
  その後A君のプロポーズはあったのだろうか。いまだに思い出してはときおりその短冊の行方が気になっている。
  札幌が恋の街なら、函館は恋人たちの街なのかもしれないな、と一つ頷いて五稜郭タワーを後にした。


「紫檀木画槽琵琶」



琵琶の模様の拡大。これは、なんとかビトンではない。
  
 ところで今回の最大の目玉とされポスターにもなっている紫檀木画技法(木と象牙)を使った花模様の「紫檀木画槽琵琶」だが会場を出たあと思い出しても見た記憶がない。人が多いせいもあってなんとなく見落としたのかもしれない。まことに残念である。
 最初、今回の正倉院展のポスター写真を見た時、閃くものがあった。
 ひょっとしてなんとかビトンはこの模様をヒントに発想したのかもしれないな、と。
 ご婦人がたの下げているビトンのバッグを見てその類似性に驚く。
 色調といい柄といい配置といいそっくりである。
 その本物を自分の目で確かめる絶好のチャンスを逃してしまった。この次、この琵琶が展覧されるのはいつのことになるのかわからない。
 何しろ正倉院の宝物数は9000件にものぼり、毎年展示されるのはわずか60点ほどである。
 もしこれから正倉院展へ行かれる方はぜひこのあたりも見物してみていただきたい。

●興福寺散策●



正倉院展の帰りに興福寺へ足を運んだ。紅葉もちらほらと染め始めており家族連れや観光客で賑わっていた。
奈良公園に近い「興福寺」の本堂と五重塔。ここは高台となっており昔は興福寺のある高みから眼下はるかに平城京の甍を見下ろすことができた。興福寺はいわば平城京の守護神とも言える寺院である。





同じく興福寺の光景。この境内の広さと五重塔の威容に圧倒される。興福寺はもともと飛鳥にあった藤原氏の氏寺なのだが平城遷都とともに現在地に移された。

 ここで興福寺の由来について少し説明してみたい。
 

 興福寺のはじまりは京都の山科に邸宅を構えた藤原(中臣)鎌足の持仏堂とされている。
 藤原鎌足は英才の誉れ高い飛鳥時代の政治家であるが出生地は 『藤氏家伝』によれば大和国高市郡藤原(現在の奈良県橿原市)である。
 飛鳥時代の当時の世相をみれば物部氏滅亡(587年)後、これまた藤原鎌足に遜色ない天賦の才能と政治的な嗅覚と力量に恵まれた蘇我入鹿を頂点にして、蘇我氏一族は支配階級に強大な権力を持ち権勢を極めていた。
 歴代天皇后妃に蘇我氏の女性を入れるなど形式上は「天皇家の家臣」ではあるが、実質的には準天皇あるいは天皇に匹敵する権勢を誇っていた。蘇我氏は蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたり政権を掌握していた。
時の天皇は皇極女帝であり蘇我入鹿は公私共に皇極天皇の唯一無二、最大のパトロンというのが実態であった。もしこのまま推移し皇極女帝と蘇我入鹿の間に「皇子」が誕生すれば中大兄皇子ら「天皇家の正統な皇子の血脈」は途絶える可能性すらあった。まさに国家存亡、天皇家の危機であった。これは極端な推論であろうが多分に信ぴょう性のある「悪夢」といえる。
  また目を世界に転ずれば強大な武力をもつ唐による高句麗征伐が決行されるなど東アジアには唐周辺国家の国家存亡の危機感が迫っていた。日本もまた東アジアの戦乱とは無縁ではない。このなかで時の最高権力者として蘇我氏一族の栄華の実現しか眼中にない蘇我入鹿と蘇我氏支配体制は藤原鎌足の目には天皇家の危機であると同時に国家滅亡の危機であった。
  蘇我氏体制を崩壊させいまこそ天皇を中心とした強力な中央集権国家を確立しないと日本の存立は危うい。
  我が一命を賭して藤原鎌足はこの難局を乗り切る礎にならん!
  蘇我入鹿、断じて討つべし。
  藤原鎌足は遂にこう決心した。そして蘇我氏打倒を発願して釈迦三尊像と四天王像を造立し持仏堂に安置し請願の祈りを捧げたのである。 



興福寺では中金堂の再建工事が行われている。


興福寺中金堂のそばにある「南円堂」。華やかな建造物だ。


南円堂の前にある仏像。網で囲まれており小さい窓があいておりそこから手を入れて仏像を撫でるというつくりになっている。


  藤原鎌足は極秘裏にかつ大胆に行動を起こした。まず初めは軽皇子(孝徳天皇)に接近し、ついで中大兄皇子とも血盟を結んだ。さらに蘇我一族内部で入鹿と対立する蘇我倉山田石川麻呂をも陣営に引き込んだ。そして645年、飛鳥板蓋宮にて蘇我入鹿を暗殺、さらに入鹿の父の蘇我蝦夷も襲撃して自刃させるに至った。
 大化の改新を成し遂げ軽皇子(孝徳天皇)を擁立。
さらに藤原鎌足は天皇の宮を飛鳥から難波宮(現在の大阪市中央区)に移すといいう大英断を下した。同時に機運一新のため新たに元号を制定し「大化」とした。この「大化」は日本最初の元号であり6年間続いている。大化の改新で実施された諸政策は飛鳥ではなく難波の宮で策定施行されたのである。
 藤原鎌足は天皇が蘇我氏の本拠地である飛鳥の地を一旦離れることで蘇我氏の息のかかった人脈をすべて断ち切ろうとしたのだと想像する。いまでも企業の人事異動は定期的に実施される。
 人事異動の目的の一つは職場や顧客、取引先などの属人的人脈、関係を一新し、新任者によるチェック機能を働かせるためだ。流れの淀むところには腐敗が生じる。本人の意思に関わらず権力は自ずと腐敗するのだ。
 飛鳥はすでに蘇我一族の陰謀と欲望で淀んでおり新国家建設の都にはふさわしくなかった。
 藤原鎌足はのちに「大化の改新」と呼ばれるようになる一大改革により従来の蘇我氏をはじめとする飛鳥豪族を中心とした政治の私物化を廃し天皇を中心とした中央集権国家の建設に着手していった。
 『国郡里制』を実施しとして全国を統治する国の骨格を定め中央の役人を地方へ派遣、戸籍法を定めて6歳になると田んぼを天皇から与える『班田収授の法』を実施、収穫したら天皇へ税金を納めよと『租庸調制』の税制を発布した。などなど諸制度、法令、税制、外交を進めていった。特にアジア外交では強大な唐へは遣唐使を派遣して宥和関係を進め唐の諸制度や先進文化を輸入、朝鮮三国との関係を整理して緊張を緩和した。
さらに藤原鎌足は中大兄皇子のちの天智天皇を支えて新たな国家建設に一生を捧げた。だが藤原鎌足は最晩年、重篤な病に伏した。
 夫人の鏡大王は藤原鎌足の病気平癒を祈願し山背国山階陶原(やましろのくにやましなすえはら)持仏堂を病気平癒を祈願する仏閣に建造しなおした。これを山階寺(やましなでら)と呼び、山階寺が現在の興福寺の起源とされている。興福寺はその後も山階寺とも称されることがある。

  藤原鎌足と命運を共にした天智天皇も崩御され、その後、いわゆる「壬申の乱」が勃発。現在の奈良県吉野の奥深い剱岳に立てこもって天の時を待った天智天皇の弟の大海人皇子が決起、天智天皇の皇子の大友皇子を打ち破った。672年に「壬申の乱」に勝利した天武天皇の時代が開幕すると都は天智天皇・弘文天皇の都であった近江国(滋賀県)の近江大津宮から大和の飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に遷都した。これにともない山階寺も山科の地よりは飛鳥に移された。その場所が大和国高市郡厩坂だったため、この地名をとって「厩坂寺(うまやさかでら)」と称されたという。

  「厩坂寺」は飛鳥の地のどのあたりにあったのだろうか?
  奈良県を走る近鉄線の「橿原神宮駅」の橿原神宮と反対側の改札を出ると目の前に「丈六」の交差点がある。


「丈六」交差点。駅を背にして歩いてくるとすぐだ。前方マンションの前に「丈六」の表示がある。この信号を横断歩道でわたり山田道をまっすぐ行けば蘇我氏邸のあった甘樫の丘に至る。「厩坂寺」跡地は信号を渡ってすぐ左手に見えてくる。

  ここは飛鳥の中心地のある東に向かう阿倍山田道と南北に走る国道169号線が交わる場所だ。この十字路と交差する道筋はほぼ飛鳥時代の道と同じである。
  この「丈六」という交差点の名は、仏像の高さの寸法を指して「丈六の釈迦」などという場合の「丈六」と思われる。そして「丈六」交差点から阿部山田道を歩いて50メートルほど行った左手にこんもりした小型の古墳を思わせる栗林の土壇のような場所が見える。これが当時「「厩坂寺」の建っていた場所すなわち大和国高市郡厩坂とされている。
  いまは周辺にマンション、アパートなどが密集しており栗林の横手は田んぼになっている。
  ここに厩坂寺があったとすれば交差点の「丈六」とは厩坂寺のご本尊である藤原鎌足請願、造粒の釈迦三尊像に由来する地名なのかもしれない。
  710年に都が藤原京から平城京に遷ると、鎌足の子の不比等(ふひと)は平城京左京に厩坂寺を移し、名も興福寺と改めた。つまり、厩坂寺は藤原氏の氏寺だった興福寺の前身なのだ。
 京都山階陶原にあった藤原鎌足の持仏堂→山階寺→飛鳥の厩坂寺と数奇の運命を辿った末に飛鳥から奈良の平城京への遷都に伴い厩坂寺も平城京に移って「興福寺」と名を改め法相宗の大本山としてまた藤原氏の氏寺として都の甍をはるか眼下に見下ろす高台から国家安泰を祈願しつつ今日に至っている。


興福寺境内の片隅にある三重塔。小ぶりだが丹精で美しい。

 
 また京都の「山階寺」の跡地は山科にある京都薬科大学の近くではないかと言われており石碑も建っている。この写真と解説が「みんカラ」ブログにあったのでご紹介する。

「山階寺は七世紀後半、藤原鎌足により創建された寺院です。鎌足の「山階陶原家付属の持仏堂」が始まりと推定されます。
奈良時代の興福寺に関する史料(『興福寺流記』所引「宝字記」)には、「鎌足は改新の成功を祈って、釈迦三尊像・四天王像を造ることを発願した。事が成就した後、山階の地で造像を行った。やがて重病になり、妻の鏡女王の勧めで伽藍を建て仏像を安置した。これが山階寺の始まりである」と記されています。
その所在地は大宅廃寺説や中臣遺跡説もあるが、山科駅西南、御陵大津畑町を中心とした地域にあったとする説が有力です。付近から有力な遺跡は見つかっていませんが、この辺りは大槻里と呼ばれ、西隣の陶田里にかけてが陶原であったと推定されています。鎌足の子の不比等が育った「山科の田辺史大隅らの家」も近くにありました。
山階寺はその後、大和に移り厩坂寺と呼ばれ、更に平城京に移り興福寺となります。このため興福寺は山階寺とも呼ばれました。天智天皇の腹心であり、藤原氏の始祖となる鎌足は、山科と深い関係があったのです。(説明看板より)
京都薬科大学の南東角、国道1号沿いに石碑と説明看板が建っています。」

https://minkara.carview.co.jp/userid/157690/spot/570801/


みんカラ「不楽是如何 史跡めぐりドライブ」さんのブログ。↑。
山階寺跡(京都市山科区)藤原鎌足が創建した山階寺跡




興福寺境内にも鹿がいる。角を切られたオスの鹿が二頭自分の居場所を居心地がいいのか動こうとしない。



ものぐさ太郎君の鹿なのかな?観光客が鹿せんべいを与えても座ったまま食べている。



★関連情報URL★
 「正倉院展2015」
Posted at 2015/11/02 14:52:04 | コメント(5) | トラックバック(0) | 奈良見物 | 日記

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「外国人の「外国免許切替(外免切替)」制度をめぐり短期滞在者がホテルの住所で日本の免許を取得することについて、ホテル滞在による「支障は把握していない」とする初の答弁書を閣議決定した。それで良いということだ。
日本保守党の竹上裕子衆院議員の質問主意書に25日付で答えた。無責任だろ。」
何シテル?   05/18 14:14
 趣味は囲碁、将棋、麻雀、釣り、旅行、俳句、木工、漆絵、尺八など。 奈良、京都、大阪、和歌山の神社仏閣の参拝。多すぎて回りきれません。  奈良では東大寺の大...
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