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角鹿のブログ一覧

2015年09月30日 イイね!

十津川村谷瀬の吊橋。



十津川村谷瀬の吊り橋です。祈念写真を撮る場所がありました。この左手から吊橋に入っていきます。観光客は「たにせ」とか「たにぜ」の吊橋と呼びますが以前来た時地元の人は「たんぜ」と読んでいたような気がします。長さはやく300メートル、高さは54メートルあります。写真はクリックで拡大できます。



記念撮影のそばにある説明標識。この吊橋は橋の向かい側の集落の人が大金を出して架設した吊橋です。私はここに過去二回きていますがこの架橋費用の捻出がどうしてできたのか村人に聞いてみたことがあります。すると「向かいの集落は松茸が採れる。それでこういう吊橋をつくる金も出したのだ」と吊り橋のたもとで見張り番をしているおじさんに聞いたことがあります。


一度に渡る人数は二十人と制限されています。しかし実際には二十人が何組も入るので橋の上には100人以上の人が歩いているような気がします。


中央部には板が渡してありますがかなり止めが甘くてガタガタしています。無人のときはいいですが大勢が渡ると横揺れが激しく船酔いしたような気になります。
「ふつうの日曜日にはだいたい1000人、5月のGWやこの日のような大型連休には一日で3000人が来るね」と整理のおじさんが教えてくれました。谷瀬の村人が作った生活のための吊り橋がいまや貴重な十津川村の観光資源になっています。


下を流れているのが十津川です。下って本宮で熊野川に合流して新宮へ流れ下ります。かつてはこの川を吉野杉をつないだ筏が新宮まで下っていったのですが今は水量が極めて少なくなっています。


下の河原はバーベキューをしたりキャンプをしたりする絶好の川遊び場です。時間があれば河原に降りて吊橋を見上げてみるのも一興です。


十津川村平谷にあるホテル「昴」で温泉に入りました。十津川村の温泉はすべて源泉掛け流しとなっており泉質の良さで観光客が伸びています。以前来た時にくらべて五条から十津川村へ入る道がすばらしく拡張されておりトンネルも随所に貫通し快適なドライブコースになっています。これには以前との変わりように驚きました。


ここは那智勝浦漁港です。本宮から熊野川に沿って新宮へ、さらに那智勝浦へやってきました。午前中ならマグロがたくさんあがる魚市場です。


湾の向かい側の山のように見える上と手前にある大きなビルがテレビCMでよく流されている勝浦温泉ホテル浦島がああります。


魚市場の上で魚釣りをしているおじさんがいました。これは平たいですがアジの一種だそうです。ここで釣ったアジを活餌にして大型のヒラメもこれまで8枚上げたと言っていました。

「まあここで釣りをしているほうが健康にもいいしね。もうパチンコで大損こいて・・・・・いまは釣りしているんですわ」とおじさんは話していました。

時間があればしばしければここで釣り糸を垂らしてみたいものですがもう夕方です。帰りは熊野市へ出て上北山村の山道を抜けて吉野町へと帰り着きました。シルバーウイークの一日の小旅行でした。





Posted at 2015/09/30 21:10:30 | コメント(3) | トラックバック(0) | 奈良見物 | 日記
2015年09月30日 イイね!

奈良公園へ散歩に。



9月19日 奈良公園へ行ってみました。9月の連休前日とあってけっこうにぎやかでした。




この日は奈良のいろんな食材を使った料理を食べさせてくれるお店が出ていました。芝生のような公園の広場には家族連れなどが思い思いの料理を買い求めテント張りのテーブルで食べていました。



「大仏サイダー」を飲んでみました。はちみつが入っており味はまあまあです。



ベトナム料理のフォーを使った麺を食べました。香辛料が独特でアジアンテイスト、という感じでした。写真を縦向きにとってしまったので変な感じですね。



これが目的の「白鳳仏像展」です。国立博物館で開催中でした。最終日直前で人が少なくゆっくりと見物できました。なかなか見応えのある内容でした。
Posted at 2015/09/30 15:25:33 | コメント(1) | トラックバック(0) | 奈良見物 | 日記
2015年07月14日 イイね!

「大和郡山城」を見物。

 桜の花の美しいお城として知られる奈良県大和郡山市にある郡山城を見物した。
 近鉄線で京都へいくとき線路脇にちらっと城郭や櫓が見えるのだが実際に歩いて見物するのはこれが初めてである。
  大和郡山城は安土桃山時代に筒井順慶によって築かれた城である。天正8年、筒井順慶が織田信長より大和一国20万石を与えられ筒井城から郡山城に移り砦くらいの規模だった城を本格的な戦国城郭へと修築を開始した。
 1581年(天正9年)から明智光秀が普請目付として着任。大規模な近世城郭として工事を開始して奈良の大工衆を集めたことが記録されている。
京都の本能寺に主君織田信長を襲撃した「本能寺の変」は、明智光秀が郡山城に来てから一年後の天正10年6月2日(1582年6月21日)のこと。
ひょっとして明智光秀、この郡山城で築城の指揮を取りつつ「おのれ信長・・・・」と京の方角を睨みつつ謀反の計画を練っていたのかも・・・・?

 その後豊臣政権の中初期には秀吉の実弟である羽柴秀長の居城となり秀長の領国である大和・紀伊・和泉100万石の中心拠点となった。
 羽柴秀長は「秀長なくしては秀吉の天下もない」とまで言われたほどの秀才でいまも「学問の智将」と呼ばれ市民に尊敬されている。 
 豊臣秀長 は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名である。
 豊臣秀長は豊臣秀吉の異父弟であり豊臣秀吉の信頼厚くその片腕として辣腕をふるった逸材である。豊臣政権において内外の政務および軍事の両面で活躍を見せおおいに天下統一に貢献した。秀吉は秀長を隣に配して重用しまた秀長も秀吉に異を唱え制御できる唯一の人物であった。豊臣秀吉政権で徳川家康という最大の爆弾を抱えた中での政権運営の調整役であり、政権の安定には欠かせぬ人物だった。
 最終的には大和・紀伊・和泉の3ヶ国に河内国の一部を加え、約110余万石の大大名となるに至る。また官位も徳川家康と時をおなじくして従二位権大納言に栄進したことから「大和大納言」と尊称された。

 大和郡山城と豊臣秀長の関係は極めて深い。
 天正13(1585)年に豊臣秀長は大和・和泉・紀伊三ヶ国の天守として郡山城に入城し城主となる。
 「豊臣秀長の施策によりまちはおおきな発展を遂げる
  豊臣秀吉の弟である豊臣秀長は、筒井家の後を引き継ぎ、天正十三年(一五八五)に郡山城に入城しました。秀長は、優秀な実務派であり、秀吉の参謀役として数々の功績を立て、郡山に入ったときは、大和・和泉・紀伊の三国、百万石を領有しました。
 秀長の入城後、郡山は政治的、経済的に大きな意義をもつようになります。百万石の領主にふさわしい城郭を構築するとともに、箱本十三町といわれる新しい自治制度を始めました。奈良での商売を一切禁止し、近隣の町からも商人・職人を呼び寄せるなどして商業を郡山へ集積させました。そして様々な大事業を成し遂げたものの、秀長は五十一歳で死去し、在任期間は六年余りという短い期間でした。」(大和郡山市HP)
 1591年1月22日 豊臣秀長は大和郡山城内で病死。享年52歳。
 なお奈良県大和郡山市箕山町14 には豊臣秀長のお墓、大納言塚(五輪塔)がある。昭和50年に大和郡山市の指定文化財 になっている。

 このように筒井順慶と羽柴秀長らによって郡山城の基礎が築かれたと言って良い。
 郡山城の歴史について大和郡山市の「解説板」には次のように説明がある。

 筒井順慶が織田信長の後援によって、松永弾正久秀を破り、宿願の大和統一をなし遂げて、天正8(1580)年に郡山に入り、築城に着手している。しかし、本格的な郡山築城は、天正13(1585)年に大和・和泉・紀伊三ヶ国の天守として豊臣秀長(秀吉の弟)が入城してからのことである。
 慶長5(1600)年に関ヶ原の戦いが起き、西軍の敗北とともに郡山城は徳川方に接収されて取り壊しとなり、建物の全ては伏見城に移された。
 元和4(1618)年に松平下総守忠明が城主となったが、その時点で城には十分な建物とてなく、家康の命によって多くの建物を伏見城から再び郡山にもどし、近世郡山城の偉容は整った。
 享保9(1724)年甲府城から郡山に移封なった柳澤甲斐守吉里から、5代に渡り受け継がれた郡山城も、明治維新を迎えて廃城となり全ての建物は取り払われてしまった。
 

郡山城外堀のすぐ脇を走る近鉄電車。電車の中からも草に覆われた石垣や黒い瓦屋根の美しい追手門東隅櫓が見える。石垣には「郡山金すくい全国大会」の横断幕が張られていた。


郡山城へはなんと近鉄線の線路の踏切を越えて入らないといけない。どうしてこんなお城のエントランス構造になっているのかよくわからない。城の入り口に線路が横断しているのは珍しいのではないだろうか。この石垣は線路からすぐ入った場所にある。


城内の道路はよく整備されている。城郭への入口付近。突き当りを左折すると旧二の丸で郡山高校のキャンパスがある。この坂道を下校の女子高生が自転車で次々に軽快に下っていった。登校時はさすがに押して上がるのかな?


大和郡山城の威容を示すのがこの大規模な石垣である。高さ10メートルを超える本丸の高石垣が天守台を囲んでめぐらされその周りは内堀で囲われている。


郡山城の全体図。図の右下、踏切があるあたりが城への入り口となる。

 郡山城で有名なのが「逆さ地蔵」である。
 「奈良は良質な石材が乏しかったため、奈良一帯の各戸に築城に必要な石の提供を義務付け、接収した。天守台周辺の野面積みの石垣には、平城京羅城門の礎石や、石地蔵、寺院の五輪塔、墓石、仏塔などがおしげもなく積み込まれている。なかには、平城京羅城門のものであるといわれる礎石が使われていたり、8世紀ごろの仏教遺跡である「頭塔」(奈良市)の石仏が郡山城の石垣の中から見つかっている。」「転用石のなかでも「さかさ地蔵」と呼ばれる、石地蔵が逆向きに置かれたものが有名で、天守台の裏手、北側の石垣にある。 石組みの間から奥を覗き込むと、逆さになった状態で石の間に埋もれている石地蔵を確認することができる。」(Wikipedia)
  関連情報URLに逆さ地蔵の詳細が出ているので御覧ください。
  全国の城のなかでこれほど転用石に石仏、仏塔や墓石などが使われて石垣がつくられているのは京都の福知山城とこの郡山城の二城だけだといわれる。

   
これは修復されたきれいな石積み。逆さ地蔵のある石垣はいまは入って見ることができないようだ。

  
郡山城二の丸跡に位置する奈良県立郡山高等学校。奈良県屈指の進学校である。歴史は古く明治26年の奈良県尋常中学校の創設にはじまり今年で120年目、卒業生は5万人を超える。私の通った高校も郡山高校と同じように藩校と旧制中学校の系譜のある学校でやはり石垣や掘割のある城郭跡の中にあったので懐かしい光景だった。


「誠実・剛毅・雄大」の校訓の下に旧制中学時代からの文武両道の精神が特徴だという。体育会系のクラブなのだろうかランニングしていた。またブラスバンドの楽器吹奏の音が城内にずっと響いていた。甲子園大会の予選もはじまるのでその応援練習だったのかな。ちなみに奈良県の甲子園常連校は智弁学園と天理高校。今年もこの二強の実力が突出しているという下馬評だ。郡山高校も頑張ってほしい。

●郡山高校野球部甲子園で勝利●

★動画説明★
1993年夏 75回記念大会の1回戦 郡山高校が勝利し、校歌斉唱するシーンです。
森本監督が率いた郡山高校の夏の勝利はこれが最後です。
□郡山高校野球部 - 旧制中学校時代を含め、夏の甲子園大会に6回、春のセンバツ甲子園大会に6回出場経験がある。 夏の甲子園大会 - 第19回・第48回・第53回・第56回・第75回・第82回
春のセンバツ甲子園大会 - 第43回・第50回・第54回・第67回・第69回・第70回



郡山高校の向かい側にある柳沢神社への入り口。内堀を越えて天守台のある城郭の中心部に入ると柳沢神社がある。

 柳沢吉里(郡山城第19代当主)は父である柳沢吉保の家督を継ぎ甲府城主となっていたが、享保9年(1724)、将軍吉宗の命を受け甲斐の国・甲府から大和、近江、河内、伊勢の4カ国、15万石余りの大名として郡山へ転封された。柳沢吉里は将軍綱吉の側近・元禄時代の幕政を主導した柳沢吉保の長男であり明治まで続く柳沢郡山藩主の初代藩主となった。以後代々の柳沢家が郡山の藩主・城主として郡山城と城下町の整備をすすめながら大和全域の経済・文化を発展させていった。したがって郡山城と郡山の繁栄は藩主の柳沢家と切っても切れない関係にある。

 柳沢吉里は郡山に養蚕を持ち込み奨励し経済を振興させた。また趣味で飼っていた高価な金魚も郡山へ運び込んだことからこの地での金魚養殖が始められるようになった。
幕末の頃には下級藩士の副業として明治維新後には職録を失った藩士や農家の副業として金魚養殖が盛んに行われた、この営みには郡山藩最後の藩主、柳沢保申の惜しみない援助があった。そして現在、大和郡山の金魚養殖は今や全国の40%のシェアを誇る郡山の一大産業となった。日本で最大の金魚産地として発展を遂げている。


柳沢神社の境内と拝殿。


石灯籠。彫刻が凝っている。


柳沢神社の社殿。大きなご神木の脇、左手奥に整備中の天守台の石垣が見える。


現在、天守閣のあった天守台は発掘調査が終わり展望台の建設を含め改修中のため入ることができない。写真パネルで整備の様子が展示されている


天守閣のあった石垣や天守閣を支えた基礎のようすが立体的に再現されている。

●郡山城を上空より撮影。

天守台の石垣の上に天守閣を支えた柱を建てるための木組を乗せる基礎石が並んでいるのが見える。


1580年(天正8年)頃の筒井順慶の時代には望楼型3重の天守があったが、1585年(天正13年)に伊賀上野城に移築された。その後、豊臣秀保によって高さ約15~20m、5重6階または5重5階の2代目天守が築かれたが、この天守も徳川二条城へ移築されたと伝えられる。なお、この5重の天守については建築学的には否定されてきたが、2014年(平成26年)の調査で天守台に礎石が発見され、存在がほぼ確実となった。

 柳沢神社と天守台石垣の一部を見た後、柳沢文庫のある方へ歩いていった。城全体が夏草に覆われてこれだけの巨大な城郭を整備し手入れするのは予算的にも大変だろうなという気がする。草むらの中の細い道をたどって天守台の東側の高台に出た。


(財)柳沢文庫。柳沢家に保存されていた旧郡山藩主の公用日記類をはじめ大和郡山市指定文化財の書画など数万点に登る古文書類を収蔵。地方史誌専門の図書館として市民や研究者に幅広く公開されている。たまたま開催されていた「郡山城の歴史」企画展を見学。入館料300円。展示のほか天守台の発掘調査映像を録画でテレビ画面で上映しており畳敷きの展示室に座って40分間視聴した。天守台で金装飾の瓦が発見されたことや天守閣の実在したことなどが確認されたという。入館者はほかにはなかったが落ち着いた雰囲気のいい資料館である。


柳沢文庫の図書閲覧室。


美しい石積みのある追手門の櫓。


復元された追手門。追手門は豊臣秀長が入城した際に築かれたといわれる。1873年(明治6年)に建物を取り壊されましたが、築城400年を記念して1980年(昭和55年)に復元された。


追手門から櫓を見る。小雨が降ってきてしっとりと風情が漂う。


追手門の脇にあった巨木の輪切り。直径は二メートルほどもある。木の裏に書いてあった説明によると「台湾で採取された樹齢1400年の檜の大木。追手門新築記念に昭和58年、浅沼組から贈られたもの。貴重な珍品なのにホコリを被っていてもったいない。


追手門東隅櫓。近鉄線電車からチラッと見えるのがこの一角である。

 いま日本は城郭ブームである。郡山城も天守台の修復が終わり城内の整備も進めば今以上に観光人気が出るかもしれない。この次は来年の花見のころに夜桜見物にでも訪れたい。これほどの大規模な城がそのまま残っているのは貴重な文化遺産である。
  これから草刈りとかお堀の清掃とか大変な作業があるだろう。
  きれいになった内堀、外堀にはせひ大和郡山名物の金魚を泳がせてほしいものだ。

★関連情報URL 「鈴鹿タウンガイド」
大和郡山城の写真と動画 詳しい解説があります。
Posted at 2015/07/14 01:40:29 | コメント(3) | トラックバック(0) | 奈良見物 | 日記
2015年07月11日 イイね!

「稗田の環濠集落」



京都行きの近鉄線。大和郡山市に入ると沿線には金魚養殖池の光景が続く。電車内より撮影。


大和郡山市は全国一の金魚生産地だ。走る電車の中から撮影。



「賣太」と書いて「めた」と読む。大和郡山市の稗田町には珍しい「稗田の環濠集落」がある。以前、みんからの「奈良の小仏」さんのブログで見ていつか見物したいと思っていた。それが今日実現した。この集落の解説は「奈良の小仏」さんのページが詳しいのでぜひごらんください。
このページの左にある「リンク・クリップ」にアウディの写真がありますのでそこをクリックしてください。
環濠集落の入り口に小さい橋があり「賣太(めた)橋」といいます。



「賣太神社」。稗田の環濠集落の入り口にある神社。賣太神社は「古事記」編纂に深く関わった稗田阿礼を祀る。


「賣太神社」のいわれが書いてある。


「賣太神社」境内。夕方のいっとき激しく雨が降りその後晴れて虹も出た。その後だったので境内にも水が溜まっている。


夏みかんのような大きな柑橘系の実がなっている。


ご神木のようだ。本殿の前。


稗田の環濠集落の掘割。水郷の趣だ。堀の中にはたくさんの亀がいて泳いでいる。外来種の亀がここにも繁殖している。



環濠集落の中を歩く。


奈良らしい土塀の通りがあった。
家々をこのように水路がぐるっと囲んでいる。


道路はきれいに整備されておりところどころに花壇もある。


雨上がり。水路のある風景はのどかだ。


田植えも終わり稲が育っている。昔は地名のように稗しか獲れなかった稗田だったのだろうが稲作がはじまって豊かな農村になった。


日本の環濠集落は稲作のはじまった弥生時代から作られたといわれる。この稗田もずいぶんと古い時代からの人間の営みをいまに伝えているのかもしれない。



Posted at 2015/07/11 02:29:23 | コメント(3) | トラックバック(0) | 奈良見物 | 日記
2015年03月09日 イイね!

奈良見物⑫「「石切劔箭神社」下之社。

今回は生駒山編の最終回となる。
「石切劔箭(いしきりつるぎや)神社」下之社の見物編である。


「石切劔箭(いしきつるぎや)神社」下之社の境内。

石切は行政区域的には大阪府東大阪市になるということで、ちょっと東大阪市出身の芸能人・有名人・著名人を探してみた。なんと、まっさきに見つかったのが超大物だった。

山中伸弥
1962年9月4日生
医学者 京都大学iPS細胞研究所所長。2012年 ノーベル生理学・医学賞受賞。

なかなかノーベル賞受賞者を産んだ「市町村」なんて少ないよ。東大阪市の誇りだね。まだお若いのでもう一回くらいノーベル賞が受賞できるような大発見をされるかもしれない。たしか、キュリー夫人も二回、ノーベル賞を受賞しているはずだ。で、ここでふと疑問。なんでキュリー夫人なんだろう?調べてみたらなんと夫のピエール・キュリーとマリ・キュリー(夫人)は夫婦で1903年に同時に放射能の研究でノーベル物理学賞を受賞していたのだった。さらに、キュリー夫人は今度は単独で1911年にノーベル化学賞を受賞。さらにさらに、彼女の娘も、その夫と同時に1935年「人工放射性元素の研究」で共にノーベル化学賞を受賞。 一家一族あわせて5個のノーベル賞をゲットしている天才一族だった。いやあそんなことも知らずによくいままで生きてきたもんだと冷や汗が出る。それはともかく、山中伸弥先生もどうか新たな発見に頑張ってノーベル賞二個目をゲットしていただきたい。まだ日本人で二度のノーベル賞を受賞した人はいないからね。

さて、東大阪市にはいろいろと有名人がいることがわかった。

平井堅
1972年1月17日生
ミュージシャン 代表曲 『楽園』『大きな古時計』『瞳をとじて』

つんく♂
1968年10月29日生
ミュージシャン 音楽プロデューサー
シャ乱Qのボーカル テレビのオーディション番組から生まれたモーニング娘。のプロデューサーとして脚光を浴びる。代表曲『シングルベッド』『ズルい女』『いいわけ』。

大倉忠義
1985年5月16日生
アイドル 関ジャニ∞のメンバー
代表曲 『浪花いろは節』『ズッコケ男道』『無責任ヒーロー』

室加奈子
1996年11月20日生
アイドル NMB48のメンバー

大沢あかね
1985年8月16日生
タレント 子役モデルとして活動。祖父は元プロ野球選手の大沢啓二氏。

吉岡美穂
1980年2月3日生
元グラビアアイドル
タレント 2006年にSHAZNAのIZAMと結婚。

池脇千鶴
1981年11月21日生
女優 代表作『大阪物語』『猫の恩返し』『ジョゼと虎と魚たち』

谷佳知
1973年2月9日生
プロ野球選手 外野手、内野手。1996年 ドラフト2位でオリックス・ブルーウェーブに入団。
2006年シーズンオフに読売ジャイアンツに移籍。1996年・2004年オリンピック野球日本代表。2003年にオリンピック柔道金メダリスト田村亮子と結婚し、話題を集めた

松井稼頭央
1975年10月23日生
プロ野球選手 内野手
1993年 ドラフト3位で西武ライオンズに入団。2004年からはニューヨーク・メッツなどメジャーリーグでプレー。2011年に国内復帰し、2013年には東北楽天ゴールデンイーグルスのキャプテンとしてチーム初の日本一に貢献。

松嶋尚美
1971年12月2日生
コメディアン 相方・中島知子のトラブルにより解散したオセロの元メンバー。

西森洋一
1979年1月21日生
コメディアン モンスターエンジンのボケ担当
「暇を持て余した神々の遊び」ネタで一躍脚光を浴びる。実家は鉄工所


彦摩呂
1966年9月15日生
元アイドル タレント グルメリポーター
アイドルからタレントに転身後、旅番組や情報番組のリポーター。

エハラマサヒロ
1982年5月29日生
コメディアン 2009年・2010年R-1ぐらんぷり準優勝
モノマネネタでピン芸人として活動する他、歌の上手さを活かしてミュージカルにも出演している

黒田有
1970年1月29日生
コメディアン メッセンジャーのボケ担当

未知やすえ
1963年8月7日生
コメディアン吉本新喜劇で活動
出演番組『よしもと新喜劇』『ちちんぷいぷい』『せやねん!』など。
(以上 情報はNAVERを参考にした)

司馬遼太郎もたしか東大阪市に住んでいたと思ったので調べてみた。司馬遼太郎は生まれは大阪市浪速区だが、昭和39年に当時の布施市下小阪に移転している。現在の東大阪市の住民であったが惜しくも平成8年、72歳で他界された。その後、東大阪市名誉市民の称号を追号されている。




「石切劔箭神社」の神職を代々司ってきた木積家の墓所。「石切劔箭神社」の社家の木積氏は、『古事記』『日本書紀』『姓氏録』などに饒速日命・可美真手命の後裔とされる物部氏族穂積臣の末裔を称している。
 こういう経緯から、物部氏の祖先である饒速日尊と可美真手命を石切の祭神として祀られている。
 神武天皇の治世二年、可美真手命が生駒山系に天下ったとされる亡父・饒速日尊を生駒山腹の宮山に祀ったことが「石切劔箭神社」の創祀とされている。ここ下之社には、崇神朝になり可美真手命が祀られたといわれている。
 


「石切劔箭(いしきりつるぎや)神社」本殿。文字とおり「石を切る」「石に刺さる」ほどの強靭な劔や矢のように抜群の霊力ある神社として民間信仰を集めたのがこの神社である。とくに、石をも切るというところから出物、腫れ物をスパッと切り落としてくれる「でんぼの神様」(おでき、腫れ物)として霊験あらたかだと信じられてきた。いまでは、さらにその延長線上に癌にも効くとされて病気平癒の祈願で訪れる人も少なくない。治ったら治ったでお礼参りにも参上するというわけで閑散とした神社が多い中で例外的に参拝者が多く見られた。


この日も御百度参りをする人がかなり見受けられた。高校生も熱心に歩いている。時期的に受験シーズンでもあり大学合格祈願なのだろうか。実際にこういうお百度参りをする光景を目撃したのは初めてであった。紙こよりを手に黙々と歩いている姿には声をかけるのも憚られるほどの真剣さが漲っていた。



本殿の向かって左前にある巨木はクスノキである。樹齢500年ほどと言われ「ご神木」とされている。


神楽殿といいう大きな建物がある。本殿の向かって左隣に位置している。



稲荷神社。五社明神も祀られている。民間信仰の集大成という感じがしないでもない。



五社明神の説明書き。老若男女を問わず石切さんのご利益を求めて集まる人は半端なく多い。



水神社。水商売にもおご利益があると書いてあった。


馬の像もあった。馬の供養なのだろうが、競馬や馬券の必勝祈願にもいいかもしれない。


上社にもあった親子連れの牛の像。このあたりは牧畜業が盛んだったのかもしれない。


鳥居を出ると石切上之社への石切参道。ここからずっとう生駒西山麓への坂道が続く。


小さな占いの店。今なら「手相あるいはタロット占い」サービス、と書いてある。石切参道では占いも気軽におまけやサービス付きで提供されるものらしい。


 「絵馬殿」という大きな建造物がある。仁王像が二体左右にある。屋根の上には剣が天を向き、矢が六本地に向かっている。剣と矢が象徴として屋根上に飾られているのは、古代最大の軍事貴族集団また武器の製造や管理迄も管理していた軍産複合体的集団だったと推定されている物部氏の先祖を祀神とする神社の由来を象徴するものとしてふさわしい感じがしないでもない。



 この鳥居の鳥居でなさ感は半端ではない。このフォルムと極ホワイトのユニークさはさながら宇宙信仰的未来オーラ炸裂で日本の神社の固定概念をぶち壊すに足る迫力を放っている。石切神社は天皇家の系譜に連なる神社本庁には所属していない。つまり、伊勢神宮を頂点とす る「皇室」を頂点とする日本最大の宗教団体組織には属していないということになる。そういう立場の独自性を活かし神社ではあってもこの石切神社は独自の民間信仰を基盤として庶民の願望を叶えるご利益霊験に特化した独自路線を貫いていると言えるだろう。神様に救いを求める庶民の願望に直結したサービスを提供するというある意味では信仰の原点に位置していると言えるだろう。石切参道に密集している巷の神々とも手を携えて「どんな悩みでも晴らしてあげまっせ、どんな願いでも叶えてあげまっせ。頑張りや」と庶民の不安を払拭してくれるスピリチュアルな生駒石切信仰ワンダーランドなのかもしれない。また神社はじめ霊験サービスを提供する側にとっては人々の宗教離れが加速する現代において信者の減少、寄付金の激減、深刻な財政難に陥っている。自主財源には限りがありそのため新たな収入源の確保と多角化が神社存続の死活問題になっているのだ。
 さらに何を考えているのか、日本政府の神社仏閣や伝統文化への保護、保全の予算措置などあって無きが如きものでお寒い限りである。日本各地の神社仏閣はいま造ろうと思っても造ることのできない貴重な文化遺産であり国家国民の貴重な共有財産とも言えるものである。地方創世もいいが伝統文化、文化財保護にもう少し気を配ってくれてもいいのではないか。
 世界遺産の京都下鴨神社でさえも神社行事の莫大な費用捻出のために境内の一画にマンションを建設するとして大きな問題になっている。それほど神社仏閣はじめもももろの信仰業界も経営に苦しんでいるのが実情である。そういう中で徹底的ご利益信仰をうたって参拝者の信仰心を集め参道商店街とも共存共栄を図る「石切劔箭神社」はある意味で最先端を行く現代の信仰ビジネスモデルなのかもしれない。このような身も蓋もない分析をしている私にとって石切さんに何を願ってもご利益は水の一滴ほども天から降ってはこないと覚悟せねばなるまい。さらば石切また来る日まで。妙に印象に残って仕方ないサイケな鳥居を眺めつつかくして生駒石切神社下之社を後にしたのであった。


「東石切公園」。もう夕方で高台の公園には夕日がまぶしく差し込んでいたもはや朝からの歩き尽くめで足の痛さは限界に達していたが、まだ石切駅までは遠い。坂道を登り登り、やっと辿り着いた公園。ここからは大阪平野が一望できる。公園では犬を連れた近所のママさんたちが犬といっしょに集まって世間話に興じていた。最近よく見かける光景である。こういうのも犬のママ友というのだろうか。
生駒山から広がる西麓はかって「正興寺山」と呼ばれる独立した低い山だった。
この山は大阪層群といい第三記鮮新から第四記最新世(洪積世)にかけて形成された地層の露頭であり、発掘調査をしたところ二上山に産するサヌカイトを使用した「ナイフ形石器」という約二万年前の石器が出土した。



平成12年に「東石切公園」となったこの地は、縄文時代を5000年ほどもさかのぼる約2万年前の旧石器時代から旧日本人が住み始めたことを立証している。いまは公園となっているこの正興寺山遺跡だけではなく、生駒山山腹の草香山遺跡・千手寺山遺跡、山裾にある神並遺跡・鬼虎川遺跡などから二上山のサヌカイトを使った打製石器がみつかっており大昔から生駒山西山麓やその裾野が深い森に覆われ食べ物豊富で安全で暮らしやすい場所だったことを物語っている。






●関連情報URL●
「日本列島のなりたち」
 日本列島は大昔は列島ではなく大陸の一番端だった。それが地殻変動により断層が拡大して約500万年前くらいに日本海が生まれしだいに日本列島は大陸から分離していった。
 その後も日本列島は大陸から分離を続け、約15万年前には一部が大陸とつながっているがだいたい現在の日本列島が姿をあらわしている。さらに約一万年前にはほぼいまの日本列島の形となり大陸からは完全に離れてしまった。
 したがって日本人の先祖は陸続きで移動してきて大陸の一部だった時代から日本列島に住み着いた人々といえる。 関連情報のサイトには、この経過を示す地図が載っている。
Posted at 2015/03/09 22:15:00 | コメント(1) | トラックバック(0) | 奈良見物 | 日記

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「外国人の「外国免許切替(外免切替)」制度をめぐり短期滞在者がホテルの住所で日本の免許を取得することについて、ホテル滞在による「支障は把握していない」とする初の答弁書を閣議決定した。それで良いということだ。
日本保守党の竹上裕子衆院議員の質問主意書に25日付で答えた。無責任だろ。」
何シテル?   05/18 14:14
 趣味は囲碁、将棋、麻雀、釣り、旅行、俳句、木工、漆絵、尺八など。 奈良、京都、大阪、和歌山の神社仏閣の参拝。多すぎて回りきれません。  奈良では東大寺の大...
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