桜の花の美しいお城として知られる奈良県大和郡山市にある郡山城を見物した。
近鉄線で京都へいくとき線路脇にちらっと城郭や櫓が見えるのだが実際に歩いて見物するのはこれが初めてである。
大和郡山城は安土桃山時代に筒井順慶によって築かれた城である。天正8年、筒井順慶が織田信長より大和一国20万石を与えられ筒井城から郡山城に移り砦くらいの規模だった城を本格的な戦国城郭へと修築を開始した。
1581年(天正9年)から明智光秀が普請目付として着任。大規模な近世城郭として工事を開始して奈良の大工衆を集めたことが記録されている。
京都の本能寺に主君織田信長を襲撃した「本能寺の変」は、明智光秀が郡山城に来てから一年後の天正10年6月2日(1582年6月21日)のこと。
ひょっとして明智光秀、この郡山城で築城の指揮を取りつつ「おのれ信長・・・・」と京の方角を睨みつつ謀反の計画を練っていたのかも・・・・?
その後豊臣政権の中初期には秀吉の実弟である羽柴秀長の居城となり秀長の領国である大和・紀伊・和泉100万石の中心拠点となった。
羽柴秀長は「秀長なくしては秀吉の天下もない」とまで言われたほどの秀才でいまも「学問の智将」と呼ばれ市民に尊敬されている。
豊臣秀長 は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名である。
豊臣秀長は豊臣秀吉の異父弟であり豊臣秀吉の信頼厚くその片腕として辣腕をふるった逸材である。豊臣政権において内外の政務および軍事の両面で活躍を見せおおいに天下統一に貢献した。秀吉は秀長を隣に配して重用しまた秀長も秀吉に異を唱え制御できる唯一の人物であった。豊臣秀吉政権で徳川家康という最大の爆弾を抱えた中での政権運営の調整役であり、政権の安定には欠かせぬ人物だった。
最終的には大和・紀伊・和泉の3ヶ国に河内国の一部を加え、約110余万石の大大名となるに至る。また官位も徳川家康と時をおなじくして従二位権大納言に栄進したことから「大和大納言」と尊称された。
大和郡山城と豊臣秀長の関係は極めて深い。
天正13(1585)年に豊臣秀長は大和・和泉・紀伊三ヶ国の天守として郡山城に入城し城主となる。
「豊臣秀長の施策によりまちはおおきな発展を遂げる
豊臣秀吉の弟である豊臣秀長は、筒井家の後を引き継ぎ、天正十三年(一五八五)に郡山城に入城しました。秀長は、優秀な実務派であり、秀吉の参謀役として数々の功績を立て、郡山に入ったときは、大和・和泉・紀伊の三国、百万石を領有しました。
秀長の入城後、郡山は政治的、経済的に大きな意義をもつようになります。百万石の領主にふさわしい城郭を構築するとともに、箱本十三町といわれる新しい自治制度を始めました。奈良での商売を一切禁止し、近隣の町からも商人・職人を呼び寄せるなどして商業を郡山へ集積させました。そして様々な大事業を成し遂げたものの、秀長は五十一歳で死去し、在任期間は六年余りという短い期間でした。」(大和郡山市HP)
1591年1月22日 豊臣秀長は大和郡山城内で病死。享年52歳。
なお奈良県大和郡山市箕山町14 には豊臣秀長のお墓、大納言塚(五輪塔)がある。昭和50年に大和郡山市の指定文化財 になっている。
このように筒井順慶と羽柴秀長らによって郡山城の基礎が築かれたと言って良い。
郡山城の歴史について大和郡山市の「解説板」には次のように説明がある。
筒井順慶が織田信長の後援によって、松永弾正久秀を破り、宿願の大和統一をなし遂げて、天正8(1580)年に郡山に入り、築城に着手している。しかし、本格的な郡山築城は、天正13(1585)年に大和・和泉・紀伊三ヶ国の天守として豊臣秀長(秀吉の弟)が入城してからのことである。
慶長5(1600)年に関ヶ原の戦いが起き、西軍の敗北とともに郡山城は徳川方に接収されて取り壊しとなり、建物の全ては伏見城に移された。
元和4(1618)年に松平下総守忠明が城主となったが、その時点で城には十分な建物とてなく、家康の命によって多くの建物を伏見城から再び郡山にもどし、近世郡山城の偉容は整った。
享保9(1724)年甲府城から郡山に移封なった柳澤甲斐守吉里から、5代に渡り受け継がれた郡山城も、明治維新を迎えて廃城となり全ての建物は取り払われてしまった。

郡山城外堀のすぐ脇を走る近鉄電車。電車の中からも草に覆われた石垣や黒い瓦屋根の美しい追手門東隅櫓が見える。石垣には「郡山金すくい全国大会」の横断幕が張られていた。

郡山城へはなんと近鉄線の線路の踏切を越えて入らないといけない。どうしてこんなお城のエントランス構造になっているのかよくわからない。城の入り口に線路が横断しているのは珍しいのではないだろうか。この石垣は線路からすぐ入った場所にある。

城内の道路はよく整備されている。城郭への入口付近。突き当りを左折すると旧二の丸で郡山高校のキャンパスがある。この坂道を下校の女子高生が自転車で次々に軽快に下っていった。登校時はさすがに押して上がるのかな?

大和郡山城の威容を示すのがこの大規模な石垣である。高さ10メートルを超える本丸の高石垣が天守台を囲んでめぐらされその周りは内堀で囲われている。

郡山城の全体図。図の右下、踏切があるあたりが城への入り口となる。
郡山城で有名なのが「逆さ地蔵」である。
「奈良は良質な石材が乏しかったため、奈良一帯の各戸に築城に必要な石の提供を義務付け、接収した。天守台周辺の野面積みの石垣には、平城京羅城門の礎石や、石地蔵、寺院の五輪塔、墓石、仏塔などがおしげもなく積み込まれている。なかには、平城京羅城門のものであるといわれる礎石が使われていたり、8世紀ごろの仏教遺跡である「頭塔」(奈良市)の石仏が郡山城の石垣の中から見つかっている。」「転用石のなかでも「さかさ地蔵」と呼ばれる、石地蔵が逆向きに置かれたものが有名で、天守台の裏手、北側の石垣にある。 石組みの間から奥を覗き込むと、逆さになった状態で石の間に埋もれている石地蔵を確認することができる。」(Wikipedia)
関連情報URLに逆さ地蔵の詳細が出ているので御覧ください。
全国の城のなかでこれほど転用石に石仏、仏塔や墓石などが使われて石垣がつくられているのは京都の福知山城とこの郡山城の二城だけだといわれる。

これは修復されたきれいな石積み。逆さ地蔵のある石垣はいまは入って見ることができないようだ。

郡山城二の丸跡に位置する奈良県立郡山高等学校。奈良県屈指の進学校である。歴史は古く明治26年の奈良県尋常中学校の創設にはじまり今年で120年目、卒業生は5万人を超える。私の通った高校も郡山高校と同じように藩校と旧制中学校の系譜のある学校でやはり石垣や掘割のある城郭跡の中にあったので懐かしい光景だった。

「誠実・剛毅・雄大」の校訓の下に旧制中学時代からの文武両道の精神が特徴だという。体育会系のクラブなのだろうかランニングしていた。またブラスバンドの楽器吹奏の音が城内にずっと響いていた。甲子園大会の予選もはじまるのでその応援練習だったのかな。ちなみに奈良県の甲子園常連校は智弁学園と天理高校。今年もこの二強の実力が突出しているという下馬評だ。郡山高校も頑張ってほしい。
●郡山高校野球部甲子園で勝利●
★動画説明★
1993年夏 75回記念大会の1回戦 郡山高校が勝利し、校歌斉唱するシーンです。
森本監督が率いた郡山高校の夏の勝利はこれが最後です。
□郡山高校野球部 - 旧制中学校時代を含め、夏の甲子園大会に6回、春のセンバツ甲子園大会に6回出場経験がある。 夏の甲子園大会 - 第19回・第48回・第53回・第56回・第75回・第82回
春のセンバツ甲子園大会 - 第43回・第50回・第54回・第67回・第69回・第70回

郡山高校の向かい側にある柳沢神社への入り口。内堀を越えて天守台のある城郭の中心部に入ると柳沢神社がある。
柳沢吉里(郡山城第19代当主)は父である柳沢吉保の家督を継ぎ甲府城主となっていたが、享保9年(1724)、将軍吉宗の命を受け甲斐の国・甲府から大和、近江、河内、伊勢の4カ国、15万石余りの大名として郡山へ転封された。柳沢吉里は将軍綱吉の側近・元禄時代の幕政を主導した柳沢吉保の長男であり明治まで続く柳沢郡山藩主の初代藩主となった。以後代々の柳沢家が郡山の藩主・城主として郡山城と城下町の整備をすすめながら大和全域の経済・文化を発展させていった。したがって郡山城と郡山の繁栄は藩主の柳沢家と切っても切れない関係にある。
柳沢吉里は郡山に養蚕を持ち込み奨励し経済を振興させた。また趣味で飼っていた高価な金魚も郡山へ運び込んだことからこの地での金魚養殖が始められるようになった。
幕末の頃には下級藩士の副業として明治維新後には職録を失った藩士や農家の副業として金魚養殖が盛んに行われた、この営みには郡山藩最後の藩主、柳沢保申の惜しみない援助があった。そして現在、大和郡山の金魚養殖は今や全国の40%のシェアを誇る郡山の一大産業となった。日本で最大の金魚産地として発展を遂げている。

柳沢神社の境内と拝殿。

石灯籠。彫刻が凝っている。

柳沢神社の社殿。大きなご神木の脇、左手奥に整備中の天守台の石垣が見える。

現在、天守閣のあった天守台は発掘調査が終わり展望台の建設を含め改修中のため入ることができない。写真パネルで整備の様子が展示されている

天守閣のあった石垣や天守閣を支えた基礎のようすが立体的に再現されている。
●郡山城を上空より撮影。
天守台の石垣の上に天守閣を支えた柱を建てるための木組を乗せる基礎石が並んでいるのが見える。
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1580年(天正8年)頃の筒井順慶の時代には望楼型3重の天守があったが、1585年(天正13年)に伊賀上野城に移築された。その後、豊臣秀保によって高さ約15~20m、5重6階または5重5階の2代目天守が築かれたが、この天守も徳川二条城へ移築されたと伝えられる。なお、この5重の天守については建築学的には否定されてきたが、2014年(平成26年)の調査で天守台に礎石が発見され、存在がほぼ確実となった。
柳沢神社と天守台石垣の一部を見た後、柳沢文庫のある方へ歩いていった。城全体が夏草に覆われてこれだけの巨大な城郭を整備し手入れするのは予算的にも大変だろうなという気がする。草むらの中の細い道をたどって天守台の東側の高台に出た。

(財)柳沢文庫。柳沢家に保存されていた旧郡山藩主の公用日記類をはじめ大和郡山市指定文化財の書画など数万点に登る古文書類を収蔵。地方史誌専門の図書館として市民や研究者に幅広く公開されている。たまたま開催されていた「郡山城の歴史」企画展を見学。入館料300円。展示のほか天守台の発掘調査映像を録画でテレビ画面で上映しており畳敷きの展示室に座って40分間視聴した。天守台で金装飾の瓦が発見されたことや天守閣の実在したことなどが確認されたという。入館者はほかにはなかったが落ち着いた雰囲気のいい資料館である。

柳沢文庫の図書閲覧室。

美しい石積みのある追手門の櫓。

復元された追手門。追手門は豊臣秀長が入城した際に築かれたといわれる。1873年(明治6年)に建物を取り壊されましたが、築城400年を記念して1980年(昭和55年)に復元された。

追手門から櫓を見る。小雨が降ってきてしっとりと風情が漂う。

追手門の脇にあった巨木の輪切り。直径は二メートルほどもある。木の裏に書いてあった説明によると「台湾で採取された樹齢1400年の檜の大木。追手門新築記念に昭和58年、浅沼組から贈られたもの。貴重な珍品なのにホコリを被っていてもったいない。

追手門東隅櫓。近鉄線電車からチラッと見えるのがこの一角である。
いま日本は城郭ブームである。郡山城も天守台の修復が終わり城内の整備も進めば今以上に観光人気が出るかもしれない。この次は来年の花見のころに夜桜見物にでも訪れたい。これほどの大規模な城がそのまま残っているのは貴重な文化遺産である。
これから草刈りとかお堀の清掃とか大変な作業があるだろう。
きれいになった内堀、外堀にはせひ大和郡山名物の金魚を泳がせてほしいものだ。
★関連情報URL 「鈴鹿タウンガイド」
大和郡山城の写真と動画 詳しい解説があります。