今回は石切神社下社の長い参道を下っていく。
午前中に生駒山へ鳥居前駅から日本最古のケーブルカーで宝山寺駅下車。昭和レトロな風情漂う哀愁の宝山寺新地を抜けて聖天さんご利益の宝庫・インド渡来真言密教の天部の諸尊が群雄割拠する宝山寺を見学。さらにケーブルカーで寒風荒ぶ生駒山山頂へ至る。野良猫数匹がうずくまりながら出迎えてくれたものの遊具は不動明王さながらに不動の構え。やむなく冬季休業中の生駒山山上遊園地を迂回しつつ関西テレビ各局の大阪向け奈良向けの電波塔の林立する孤峰を眺め遠くに大阪の市街地が広がる茫漠たる景色を眺めつつ急勾配の辻子谷を下った。途中、朝鮮寺などの探訪しつつ精霊の宿る生駒山西麓の谷筋を下ると名高い「石切劔箭神社」の上社があった。なぜか神社なのに仏教が鎮座している現代的神仏混交の空間。参拝者不足のゆえか何故か巨費を投じて建設されたが廃業閉館したという「石切観音堂」のサイケデリックな建物なども興味深く見物した。さらに奈良の土塀文化の影響を色濃く受け継いでいる生駒山西麓の町家をそぞろ歩きつつ奈良と大阪を結ぶ近鉄線の線路をくぐっていよいよ石切神社下社へとつながる参道ワールドへと足を踏み入れた。

線路際にある古い石の道標(大正10年3月建設)には興法寺と千手寺の名前があり石切神社の名前はない。また石切に大正3年に電車が開通した時、駅名は石切ではなく「千手寺前駅」であった。当時はいまの石切参道は「千手寺参道」であったと思われる。
「石切劔箭(いしきりつるぎや)神社」上社から坂道を下り近鉄線の線路をくぐると下社への参道が始まる。
線路脇には時代を感じさせる石柱が出迎えてくれる。よく見ると「右大聖歓喜天鷲尾山興法寺」「左 大悲觀世音光堂 千手寺」と石柱に彫り込まれている。石切神社の文字はどこにもない。
ということは生駒山西麓一帯は本来は辻子谷中腹にある聖天さんの興法寺また山越えをして宝山寺への登山参道入口として栄え、現在の石切参道は参道にある真言宗大本山「千手寺」の西国巡礼の門前町として栄えてきた、というのが本来の姿ではないだろうか。
と思いつつ石柱道標の向かい側を眺めると・・・・・。

石柱道標の向かい側には石切神社の看板があった。
ここには向かいの石柱に対抗してモダンな造りの道しるべが。見れば「歓迎 ようこそ石切へ 石切劔箭神社 →総本宮・穂積殿 上ノ社・夢観音」としるされている。
なるほどなるほど本来あった興法寺、千手寺の参道門前町に大阪という大商業都市を背景にして渦巻く人々の欲望と絶望を双璧の求心力として古式ゆかしい石切神社をはじめとするもろもろの新興信仰集積地としてニュースピリチュアルワンダーランドに衣替えをして盛り上がっているのが現在の石切界隈の実相のようにも思えてくる。
ただこの看板、「上ノ社」の「上」文字が左に転んでおり判読しがたい上、夢観音は廃業しているのだから折を見て手直しされたほうがいいだろう。

道路にカラーコーンを並べて占いの待合椅子が二、三脚。衝立の囲いもある。これが公道の上に常設されているようなのだ。家の中で鑑定、悩み事の相談に乗ると書いてある。他所では到底見られない光景である。自販機でジュースを買ったついでに手相でも見ていただこうかという気軽な雰囲気も漂っている。考えてみれば悩み事の多い現代人にとって悩み事を相談する場合ドコに行けばいいのだろうか?警察、病院、市役所?それとも新聞の人生相談?テレビやラジオの悩み相談?親兄弟とも疎遠になりがちな世の中で人の心の闇は深くなる一方である。

歓迎石切参道のアーチ。昔は昔、今は今というのが世の習いである。いま参道風景は古景を留めず石切一色である。いま近鉄「石切駅」となっているがかつてこの地に鉄道開通以来50年間ほど「千手寺前駅」だったのである。大正3年(1914年)大阪電気軌道の開通によりできたのは「千手寺前駅」であった。その後、昭和39年「新生駒トンネル」の開通に合わせ、なぜか千手寺前駅は廃止され、現在の石切駅となった。この駅名の変更にどんな事情があったものかわからないが、石切駅周辺の今昔物語と深い関わりがあると言えるだろう。

「豊八」という衣料店だが近づいてみると占いもやっている。こういう兼業占いの店を始めいろんな占いの店が随所に密集しているのも石切参道の特徴である。

日差しよけなのだろうか錆びた鉄板がなんとも言えない雰囲気を醸し出している雑貨店があった。ここは坂道なので足元をしっかりせよとばかり草履、下駄、スリッパ類が全面に並べられている。

ローソク、線香、仏壇花瓶、バケツ、仏具、木の升、ひしゃく、熊手、洗剤、ぬか漬け壺などなど神仏関係の雑貨がなんでも揃っている。「ABCマッチ」大箱なんて知る人には懐かしいマッチである。使い道もないのに思わず買いたくなってしまうレアな一品だ。

たわし各種、湯たんぽ、卸し金、眺めていて飽きない。これで商いになるというのはさすがに信仰深い人の通い道だということがわかる。手前の柱に吊るされているのは昔の手水のタンク。これを見て使われていた光景を記憶している人はもう少数派になっているのかもしれない。ただいまだに製造され販売されているということに感慨を禁じ得ない。通り過ぎ際に視線の端に映ったこの手洗器を捉え思わず振り返って撮影した一枚である。「豊八」あなどるべからずだ。

またあった占いの「豊八」。なぜか「豊八」系の占いや大黒などが参道には多く見受けられる。でも「豊八」っていったいなんなのだろう。まあなんとなくめでたいようなネーミングなのだが。「世界で二番目に大きい一角獣の牙 展示中 ご覧ください」と書いてあるのがなんとなく気になるなあ。

かつて石切参道の主であったであろう真言宗の古刹・千手寺(せんじゅうじ)。門前には「開運厄除 河内西国巡礼十番霊場 宝印の寺」また「弘法大師 在原業平旧蹟」の文字がある。
千手寺は、白鳳時代に役行者によって開創されたが平安初期に焼失。それを在原業平(ありわらのなりひら)によって復興されたと伝えられている。
いまは参道の脇にひっそりと佇んでいる。千手寺の本尊は西国随一の観音信仰を集めた「木造千手観音立像」だという。この観音立像は正平十二年(1357)に奈良興福寺の大仏師康成(こうせい)が造立したもので、190センチにも達する大きなものだ。

格式と歴史を感じさせる千手寺の境内。立派な鐘楼もあった。だれでも拝観できるように境内は開放されている。生駒山宝山寺との関係も深かったようで宝山寺開山の湛海律師が彫った木造の不動明王二体も千手寺に保存されており大阪府の文化財に指定されている。このことからもこの生駒山西山麓の千手寺が、辻子谷の興法寺、生駒山東の宝山寺と深いつながりのあったことが推測される。

「千手寺」の光堂と呼ばれる本堂に手を合わせる近所の子供達。幼稚園のお迎えの帰りなのだろうか。西方に夕日をのぞみ西方極楽浄土への往生を願う迎接堂(光堂)として信仰を集めてきた。この日も夕日が暖かく美しく差し込んで光堂を照らしていた。生駒山西麓は広々とした大阪平野を前にして残照夕景の美しいことで知られている。

石切大佛。「世界平和国家安泰開運厄除就学病気退散河内石切山大佛寺」。この大佛さん日本で三番目に大きいと自慢しているが仏像はそもそも大きさを自慢するものではあるまい。それに自分で「名所」と断定しているがふつうそんなこと言うかねえ。背に薄曇りでおぼろな夕日を受けている自称大佛がだんだん小さく見えてくるのは気のせいか。

大佛を発願建設した坂本昌胤なる人物の業績をこれでもかと称える石碑が大佛の周りに建てられている。「交通事故防止道路敷地 一〇三〇平方メートル(三百十二坪)土地時価約壹億圓 東大阪市へ個人寄付 昭和四十七年九月六日 旧和歌山藩士勲五等正六位 四世 阪本昌胤」。
信仰というものを個人の虚栄心や売名の道具にされては大佛自身が泣くというものではあるまいか。だがそういうことは一切意に介さない押しの強さ、独特の空気が濃密に漂ってる。これもまた現世利益オンパレードの石切ワールドなのだろうか?

女性の守り神として有名な民族神「淡島大神」を祀る礼拝所。
淡島神というのは「婦人病治癒を始めとして安産・子授け、裁縫の上達、人形供養など、女性に関するあらゆることに霊験のある神とされ、江戸時代には淡島願人と呼ばれる人々が淡島神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻った事から信仰が全国に広がった。」(Wikipedia)というものである。

「神道大教」の大阪府教区庁。神道大教(しんとうたいきょう)は、「教派神道の一つ。 明治政府が明治5年に神道の総本山とすべく設けた大教院が元であり、神道の総本山として皇道発揚に歴史的な役割を果した」(Wikipedia)という。神道大教の御祭神は、天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊弉那岐命、伊弉那美命、天照大神、天神八百萬神、地祇八百萬神である。まさに神道のオールマイティーである。このようにうっかりすれば見過ごすようなこぢんまりとした社にさえも全地球を司るような物凄い神々が静かに潜んでいるのが石切参道の恐ろしさなのである。

日本推理易学学会会長の檀幸叡の占い。あらゆる占いがひと通り揃っている。

石切参道商店街の案内看板。「神話と夢と信仰の街・・・」と書いてある。「いしきりん」という石切参道商店街のマスコットキャラクターのきりんの絵も描いてある。ぬいぐるみでもあるのだろうか。きりんのような鹿のようなユニークなゆるキャラがなんともぬるい。ゆるキャラからぬるキャラへと時代は移行しつつあるのか。

石切不動明王。石像などは奥の石垣の前にあり屋根はなく野ざらしになっている。雨降らば降れ風吹けば吹け、されど我は不動なり!かなりワイルドな石切の不動明王様である。

陰陽師占い。黄色い提灯というのも異色である。赤ちょうちんだと一杯飲み屋と間違われそうなのでこれでいいのかもしれない。

赤い「卍」は朝鮮半島のシャーマニズム「ムーダン(巫堂)」寺院の礼拝所の印。石切参道にも朝鮮シャーマニズムが潜んでいる。辻子谷、額田谷には朝鮮寺が多くあり生駒山自体がそういう朝鮮半島系の霊場となっている。これは大阪に在日朝鮮人が多く住んでいることと関係があると言われている。

大黒殿。狛犬が二頭出入口を守っている。これも「豊八」である。礼拝施設でもあるような占いの館でもあり神仏諸尊の彫刻仏販売所でもあるような複合施設となっている。

売り物なのだろうか。大黒像や七福神の像などがある。なかなか見事な彫り物で値段はわからないが高価な感じがする。

占いの部屋があるほかに真っ赤な鳥居と大黒さんをはじめ石像木像などが多数陳列されている。

参道には「漬物店」が多い。「ひろうす」というものが石切名物と書いてある。ほかでも「ひろうす」を売る店があった。どんなものなんだろう。広くて薄いものなんだろうか。単なる知識不足で申し訳ない。

石切大佛を作った阪本昌胤氏は、別の場所に「石切大天狗」も作っていた。大佛と大天狗と何の関係があるのだろう。この大天狗を祀る空間も阪本スピリッツ全開である。「大阪府へ二千万円を寄附」などの石碑もある。近くに寄って見られないのが心残りだ。

「個人の生命は短く民族の歴史は永い」という石碑。まあそりゃそうだけどそれがどうした的なもので特になんということのないような言葉を残して石に刻むことにいかほどの意味がありやなしや。それに、この言葉はギリシャの医者・ヒポクラテスの名言「人生は短く芸術は長し」とそっくりなのもなんとなく哀しい。

「無名之名 無功之功」内閣総理大臣吉田茂書という石碑がある。その拝受者が坂本昌胤と彫ってある。してみると吉田茂からこの書を坂本昌胤氏が貰ったということなのだろうか。この書の意味と石切坂本昌胤ワールドの現実とにはいささかの乖離があるように思われるのだが。
大天狗の隣は坂本氏が社長をしていた「赤まむしドリンク」を売る薬局となっている。坂本昌胤氏は赤まむしドリンクなどの精力剤で財をなした強壮剤製薬会社の社長だった人のようだ。
そして会社創業の石切の地に自分の業績を顕彰する大佛や大天狗を自らつくりこの地に魂魄をとどめているのだ。なぜか大天狗にはシャッターが降りており中を拝観できなかったのが残念である。次回はぜひ中を見物させていただきたいものだ。

沈む夕日を光背として石切参道を行き交う善男善女を見守る石切大佛の姿。
神社仏閣の参道といえばふつうはおみやげ屋とか参拝の道具とか食事処とかまあそうしたものを売る店が並んでいるものである。あくまでも主体は参道の先にある神社仏閣であり参道は文字とおり参道なのである。ところによっては参道の手前に精進落としをする遊郭があったりして聖俗渾然とした日本独特の性風俗があったりした。しかしそれとても参拝者をあてこんだ遊興施設であり神社仏閣の神仏とは無関係な存在である。
しかしながら「石切劔箭(いしきりつるぎや)神社」下社に至る参道は神仏占いなどご利益系のものが目白押しに連なっている。もしかしたらこの参道だけでも我々悩み多き下々の凍った願望を溶かしてくれるかもしれるのではなかろかと錯覚するほどのスピルチュアルで極彩色の空間が広がっているのだ。うーん、これはいったいどうしたことなのだろうか。石切さんへ行けばあらゆる方面のお悩みが一気に雲散霧消するのではないのかとさえ錯覚してしまうほどである。
他に類を見ない「ご利益参道」となっているのが石切参道の異色なところだろう。
生駒山の東、奈良県側にはご利益絶大な聖天さんの「宝山寺」、西の大阪側には「石切劔箭神社」と
ご利益参道がある。勿体なや有り難やどっちにころんでも生駒山界隈は悩める現代人にとっての煩悩苦界の悩みの捨場であり、霊験あらたかな現世利益祈願の聖地となっているのである。
それをどう思いどう楽しみどう活用するかはあなた次第、ということになる。合掌。