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角鹿のブログ一覧

2015年03月05日 イイね!

奈良見物⑪「石切参道」。

 今回は石切神社下社の長い参道を下っていく。
 午前中に生駒山へ鳥居前駅から日本最古のケーブルカーで宝山寺駅下車。昭和レトロな風情漂う哀愁の宝山寺新地を抜けて聖天さんご利益の宝庫・インド渡来真言密教の天部の諸尊が群雄割拠する宝山寺を見学。さらにケーブルカーで寒風荒ぶ生駒山山頂へ至る。野良猫数匹がうずくまりながら出迎えてくれたものの遊具は不動明王さながらに不動の構え。やむなく冬季休業中の生駒山山上遊園地を迂回しつつ関西テレビ各局の大阪向け奈良向けの電波塔の林立する孤峰を眺め遠くに大阪の市街地が広がる茫漠たる景色を眺めつつ急勾配の辻子谷を下った。途中、朝鮮寺などの探訪しつつ精霊の宿る生駒山西麓の谷筋を下ると名高い「石切劔箭神社」の上社があった。なぜか神社なのに仏教が鎮座している現代的神仏混交の空間。参拝者不足のゆえか何故か巨費を投じて建設されたが廃業閉館したという「石切観音堂」のサイケデリックな建物なども興味深く見物した。さらに奈良の土塀文化の影響を色濃く受け継いでいる生駒山西麓の町家をそぞろ歩きつつ奈良と大阪を結ぶ近鉄線の線路をくぐっていよいよ石切神社下社へとつながる参道ワールドへと足を踏み入れた。
 
 
  
 線路際にある古い石の道標(大正10年3月建設)には興法寺と千手寺の名前があり石切神社の名前はない。また石切に大正3年に電車が開通した時、駅名は石切ではなく「千手寺前駅」であった。当時はいまの石切参道は「千手寺参道」であったと思われる。


 「石切劔箭(いしきりつるぎや)神社」上社から坂道を下り近鉄線の線路をくぐると下社への参道が始まる。
 線路脇には時代を感じさせる石柱が出迎えてくれる。よく見ると「右大聖歓喜天鷲尾山興法寺」「左 大悲觀世音光堂 千手寺」と石柱に彫り込まれている。石切神社の文字はどこにもない。
 ということは生駒山西麓一帯は本来は辻子谷中腹にある聖天さんの興法寺また山越えをして宝山寺への登山参道入口として栄え、現在の石切参道は参道にある真言宗大本山「千手寺」の西国巡礼の門前町として栄えてきた、というのが本来の姿ではないだろうか。
 と思いつつ石柱道標の向かい側を眺めると・・・・・。


 石柱道標の向かい側には石切神社の看板があった。

 ここには向かいの石柱に対抗してモダンな造りの道しるべが。見れば「歓迎 ようこそ石切へ 石切劔箭神社 →総本宮・穂積殿 上ノ社・夢観音」としるされている。
 なるほどなるほど本来あった興法寺、千手寺の参道門前町に大阪という大商業都市を背景にして渦巻く人々の欲望と絶望を双璧の求心力として古式ゆかしい石切神社をはじめとするもろもろの新興信仰集積地としてニュースピリチュアルワンダーランドに衣替えをして盛り上がっているのが現在の石切界隈の実相のようにも思えてくる。
 ただこの看板、「上ノ社」の「上」文字が左に転んでおり判読しがたい上、夢観音は廃業しているのだから折を見て手直しされたほうがいいだろう。


 
道路にカラーコーンを並べて占いの待合椅子が二、三脚。衝立の囲いもある。これが公道の上に常設されているようなのだ。家の中で鑑定、悩み事の相談に乗ると書いてある。他所では到底見られない光景である。自販機でジュースを買ったついでに手相でも見ていただこうかという気軽な雰囲気も漂っている。考えてみれば悩み事の多い現代人にとって悩み事を相談する場合ドコに行けばいいのだろうか?警察、病院、市役所?それとも新聞の人生相談?テレビやラジオの悩み相談?親兄弟とも疎遠になりがちな世の中で人の心の闇は深くなる一方である。



 歓迎石切参道のアーチ。昔は昔、今は今というのが世の習いである。いま参道風景は古景を留めず石切一色である。いま近鉄「石切駅」となっているがかつてこの地に鉄道開通以来50年間ほど「千手寺前駅」だったのである。大正3年(1914年)大阪電気軌道の開通によりできたのは「千手寺前駅」であった。その後、昭和39年「新生駒トンネル」の開通に合わせ、なぜか千手寺前駅は廃止され、現在の石切駅となった。この駅名の変更にどんな事情があったものかわからないが、石切駅周辺の今昔物語と深い関わりがあると言えるだろう。


「豊八」という衣料店だが近づいてみると占いもやっている。こういう兼業占いの店を始めいろんな占いの店が随所に密集しているのも石切参道の特徴である。



日差しよけなのだろうか錆びた鉄板がなんとも言えない雰囲気を醸し出している雑貨店があった。ここは坂道なので足元をしっかりせよとばかり草履、下駄、スリッパ類が全面に並べられている。


ローソク、線香、仏壇花瓶、バケツ、仏具、木の升、ひしゃく、熊手、洗剤、ぬか漬け壺などなど神仏関係の雑貨がなんでも揃っている。「ABCマッチ」大箱なんて知る人には懐かしいマッチである。使い道もないのに思わず買いたくなってしまうレアな一品だ。


たわし各種、湯たんぽ、卸し金、眺めていて飽きない。これで商いになるというのはさすがに信仰深い人の通い道だということがわかる。手前の柱に吊るされているのは昔の手水のタンク。これを見て使われていた光景を記憶している人はもう少数派になっているのかもしれない。ただいまだに製造され販売されているということに感慨を禁じ得ない。通り過ぎ際に視線の端に映ったこの手洗器を捉え思わず振り返って撮影した一枚である。「豊八」あなどるべからずだ。


またあった占いの「豊八」。なぜか「豊八」系の占いや大黒などが参道には多く見受けられる。でも「豊八」っていったいなんなのだろう。まあなんとなくめでたいようなネーミングなのだが。「世界で二番目に大きい一角獣の牙 展示中 ご覧ください」と書いてあるのがなんとなく気になるなあ。



かつて石切参道の主であったであろう真言宗の古刹・千手寺(せんじゅうじ)。門前には「開運厄除 河内西国巡礼十番霊場 宝印の寺」また「弘法大師 在原業平旧蹟」の文字がある。
 千手寺は、白鳳時代に役行者によって開創されたが平安初期に焼失。それを在原業平(ありわらのなりひら)によって復興されたと伝えられている。
 いまは参道の脇にひっそりと佇んでいる。千手寺の本尊は西国随一の観音信仰を集めた「木造千手観音立像」だという。この観音立像は正平十二年(1357)に奈良興福寺の大仏師康成(こうせい)が造立したもので、190センチにも達する大きなものだ。


格式と歴史を感じさせる千手寺の境内。立派な鐘楼もあった。だれでも拝観できるように境内は開放されている。生駒山宝山寺との関係も深かったようで宝山寺開山の湛海律師が彫った木造の不動明王二体も千手寺に保存されており大阪府の文化財に指定されている。このことからもこの生駒山西山麓の千手寺が、辻子谷の興法寺、生駒山東の宝山寺と深いつながりのあったことが推測される。


「千手寺」の光堂と呼ばれる本堂に手を合わせる近所の子供達。幼稚園のお迎えの帰りなのだろうか。西方に夕日をのぞみ西方極楽浄土への往生を願う迎接堂(光堂)として信仰を集めてきた。この日も夕日が暖かく美しく差し込んで光堂を照らしていた。生駒山西麓は広々とした大阪平野を前にして残照夕景の美しいことで知られている。


石切大佛。「世界平和国家安泰開運厄除就学病気退散河内石切山大佛寺」。この大佛さん日本で三番目に大きいと自慢しているが仏像はそもそも大きさを自慢するものではあるまい。それに自分で「名所」と断定しているがふつうそんなこと言うかねえ。背に薄曇りでおぼろな夕日を受けている自称大佛がだんだん小さく見えてくるのは気のせいか。


大佛を発願建設した坂本昌胤なる人物の業績をこれでもかと称える石碑が大佛の周りに建てられている。「交通事故防止道路敷地 一〇三〇平方メートル(三百十二坪)土地時価約壹億圓 東大阪市へ個人寄付 昭和四十七年九月六日 旧和歌山藩士勲五等正六位 四世 阪本昌胤」。
信仰というものを個人の虚栄心や売名の道具にされては大佛自身が泣くというものではあるまいか。だがそういうことは一切意に介さない押しの強さ、独特の空気が濃密に漂ってる。これもまた現世利益オンパレードの石切ワールドなのだろうか?


女性の守り神として有名な民族神「淡島大神」を祀る礼拝所。
淡島神というのは「婦人病治癒を始めとして安産・子授け、裁縫の上達、人形供養など、女性に関するあらゆることに霊験のある神とされ、江戸時代には淡島願人と呼ばれる人々が淡島神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻った事から信仰が全国に広がった。」(Wikipedia)というものである。


「神道大教」の大阪府教区庁。神道大教(しんとうたいきょう)は、「教派神道の一つ。 明治政府が明治5年に神道の総本山とすべく設けた大教院が元であり、神道の総本山として皇道発揚に歴史的な役割を果した」(Wikipedia)という。神道大教の御祭神は、天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊弉那岐命、伊弉那美命、天照大神、天神八百萬神、地祇八百萬神である。まさに神道のオールマイティーである。このようにうっかりすれば見過ごすようなこぢんまりとした社にさえも全地球を司るような物凄い神々が静かに潜んでいるのが石切参道の恐ろしさなのである。



日本推理易学学会会長の檀幸叡の占い。あらゆる占いがひと通り揃っている。


石切参道商店街の案内看板。「神話と夢と信仰の街・・・」と書いてある。「いしきりん」という石切参道商店街のマスコットキャラクターのきりんの絵も描いてある。ぬいぐるみでもあるのだろうか。きりんのような鹿のようなユニークなゆるキャラがなんともぬるい。ゆるキャラからぬるキャラへと時代は移行しつつあるのか。




石切不動明王。石像などは奥の石垣の前にあり屋根はなく野ざらしになっている。雨降らば降れ風吹けば吹け、されど我は不動なり!かなりワイルドな石切の不動明王様である。



陰陽師占い。黄色い提灯というのも異色である。赤ちょうちんだと一杯飲み屋と間違われそうなのでこれでいいのかもしれない。



 赤い「卍」は朝鮮半島のシャーマニズム「ムーダン(巫堂)」寺院の礼拝所の印。石切参道にも朝鮮シャーマニズムが潜んでいる。辻子谷、額田谷には朝鮮寺が多くあり生駒山自体がそういう朝鮮半島系の霊場となっている。これは大阪に在日朝鮮人が多く住んでいることと関係があると言われている。


大黒殿。狛犬が二頭出入口を守っている。これも「豊八」である。礼拝施設でもあるような占いの館でもあり神仏諸尊の彫刻仏販売所でもあるような複合施設となっている。



売り物なのだろうか。大黒像や七福神の像などがある。なかなか見事な彫り物で値段はわからないが高価な感じがする。



占いの部屋があるほかに真っ赤な鳥居と大黒さんをはじめ石像木像などが多数陳列されている。



参道には「漬物店」が多い。「ひろうす」というものが石切名物と書いてある。ほかでも「ひろうす」を売る店があった。どんなものなんだろう。広くて薄いものなんだろうか。単なる知識不足で申し訳ない。



石切大佛を作った阪本昌胤氏は、別の場所に「石切大天狗」も作っていた。大佛と大天狗と何の関係があるのだろう。この大天狗を祀る空間も阪本スピリッツ全開である。「大阪府へ二千万円を寄附」などの石碑もある。近くに寄って見られないのが心残りだ。



「個人の生命は短く民族の歴史は永い」という石碑。まあそりゃそうだけどそれがどうした的なもので特になんということのないような言葉を残して石に刻むことにいかほどの意味がありやなしや。それに、この言葉はギリシャの医者・ヒポクラテスの名言「人生は短く芸術は長し」とそっくりなのもなんとなく哀しい。



「無名之名 無功之功」内閣総理大臣吉田茂書という石碑がある。その拝受者が坂本昌胤と彫ってある。してみると吉田茂からこの書を坂本昌胤氏が貰ったということなのだろうか。この書の意味と石切坂本昌胤ワールドの現実とにはいささかの乖離があるように思われるのだが。
 大天狗の隣は坂本氏が社長をしていた「赤まむしドリンク」を売る薬局となっている。坂本昌胤氏は赤まむしドリンクなどの精力剤で財をなした強壮剤製薬会社の社長だった人のようだ。
 そして会社創業の石切の地に自分の業績を顕彰する大佛や大天狗を自らつくりこの地に魂魄をとどめているのだ。なぜか大天狗にはシャッターが降りており中を拝観できなかったのが残念である。次回はぜひ中を見物させていただきたいものだ。


沈む夕日を光背として石切参道を行き交う善男善女を見守る石切大佛の姿。


  神社仏閣の参道といえばふつうはおみやげ屋とか参拝の道具とか食事処とかまあそうしたものを売る店が並んでいるものである。あくまでも主体は参道の先にある神社仏閣であり参道は文字とおり参道なのである。ところによっては参道の手前に精進落としをする遊郭があったりして聖俗渾然とした日本独特の性風俗があったりした。しかしそれとても参拝者をあてこんだ遊興施設であり神社仏閣の神仏とは無関係な存在である。
 しかしながら「石切劔箭(いしきりつるぎや)神社」下社に至る参道は神仏占いなどご利益系のものが目白押しに連なっている。もしかしたらこの参道だけでも我々悩み多き下々の凍った願望を溶かしてくれるかもしれるのではなかろかと錯覚するほどのスピルチュアルで極彩色の空間が広がっているのだ。うーん、これはいったいどうしたことなのだろうか。石切さんへ行けばあらゆる方面のお悩みが一気に雲散霧消するのではないのかとさえ錯覚してしまうほどである。
 他に類を見ない「ご利益参道」となっているのが石切参道の異色なところだろう。
 生駒山の東、奈良県側にはご利益絶大な聖天さんの「宝山寺」、西の大阪側には「石切劔箭神社」と
ご利益参道がある。勿体なや有り難やどっちにころんでも生駒山界隈は悩める現代人にとっての煩悩苦界の悩みの捨場であり、霊験あらたかな現世利益祈願の聖地となっているのである。
  それをどう思いどう楽しみどう活用するかはあなた次第、ということになる。合掌。
Posted at 2015/03/05 15:59:13 | コメント(0) | トラックバック(0) | 奈良見物 | 日記
2015年02月28日 イイね!

奈良見物⑩「土塀のある風景」。

土塀のある風景


石切駅へ向かう途中で古い町並みを通り抜けた。
家並みが途切れたあたりに長い土塀が見えた。
石切駅の線路下のくぐり道へ行く前に少し寄り道をして土塀の家を見に行った。
住所は上石切町一丁目あたりだと思う。
広大な屋敷であるがいまは誰も住んでいないような雰囲気である。
屋敷の中には防風を兼ねた屋敷林だろうか巨木がたくさん見えた。
塀の角が半ば崩れかけているがそれも趣がある。








土塀に続いて瓦屋根に土壁のある長屋風の家があった。
おそらく道路に面した屋敷の一部なのだろう。
土壁の柱には天然の木がそのまま使われておりその歪みのある形や木目がまたいい味を出している。
その土壁には斜めに蔦が這っていた。
蔦は枯れてまるで花のように赤い色をしていた。
自然の意匠はまことに巧みで土壁の壁画のように思えた。
この土塀と土壁に心惹かれしばし見とれていた。










奈良は土塀の似合う風景がある。
奈良の魅力は土塀だなと思う。
私が実際に歩いてみた場所としては西大寺、法隆寺、奈良町などに土塀があった。
奈良の独特の雰囲気は土塀が醸し出す素朴さにある。
ほかにも東大寺、二月堂など随所に土塀のある風景がみられるようだ。
奈良を歩いてみて他の土地にない雰囲気が感じられるのは他所にはあまりない土塀がいろんなところにあるからだと思う。
白壁にはない素朴な土塀は奈良の味わいのひとつだ。










この土塀のある屋敷の向かい側には狭い路地を挟んで赤いレンガ壁のある大きな建物があった。
倉庫か工場の跡地なのだろうか。
土塀と赤レンガ壁にはさまれた静かな路地は時の流れに取り残されたように過去の時間をたたえて静まり返っていた。
ここは確かに東大阪市であり奈良ではない。
だがこのあたりには奈良の土塀、土壁文化が色濃く投影されているようである。
石切駅周辺でここは隠れた見どころの一つである。

Posted at 2015/02/28 15:00:48 | コメント(2) | トラックバック(0) | 奈良見物 | 日記
2015年02月26日 イイね!

奈良見物⑨「「石切劔箭(いしきりつるぎや)神社」上ノ宮社。

  辻子谷を下ると「石切劔箭(いしきりつるぎや)神社」の上ノ宮社がある。山の斜面を利用した敷地にいくつもの神社などが建っている。いまはここが上ノ宮社となり近鉄石切駅の北側に参道商店街の続く石切劔箭神社が下ノ宮社となっている。
  しかしたまたま出会った地元の人に話を聞くといまの上ノ宮社のさらに山の上のほうにもともとの上社があるのだという。
  「石切劔箭神社」の代々の社家である木積家には「皇紀2年に生駒山中の宮山に可美真手命が饒速日尊を奉祀されたのを神社の起源とし」(Wikipedia)とあるので生駒山中に「石切劔箭神社」の起源となる聖地があったものと思われる。
 「いまここを上社といっていますがもとはこの境内が中社です。石切駅の下のほうにあるのは下社ですね。ですがもともとの生駒山中の上社はもうどこにあるのか定かでないような獣道の奥にあるので実際には行くことが難しいようです」
 あとで神社社務所の方に伺ってみても「その場所は実在していると聞いてはおりますがとても軽装で簡単に行けるような場所ではありません」と言われてしまった。
 実際には上社が存在したという言い伝えはあるもののいまはもう荒廃しており道すらない生駒山中の故地のようなものと理解したほうがよさそうだ。


★生駒山山中にあたっという「石切劔箭(いしきりつるぎや)神社」の上社の記念碑。

 この生駒山中の精霊の地のあった神社原点の上社は現在の上ノ宮社に合祀されていたのだが1907年(明治40年)に下之宮社に合祀された。そして現在の上ノ宮社の地には記念石が建てられ実質的な礼拝施設はなくなり「奥の院」と称されていた。
 その後1972年(昭和47年)に上之宮社として新興され現在に至っているのだという。
 したがって万事が現代風でありこの「石切劔箭(いしきり つるぎや)神社」上ノ宮社の境内空間は日本古来の神社とはかなり趣を異にしている印象を受けた。
 現代風というのか新興神社というのか奇抜な社があったり閉鎖されたというが神社のなかになぜか新興宗教のようなサイケデリックな建築物「「石切夢観音堂」があったりする。
 ご利益信仰を集める神道系信仰アミューズメントパークのような奇抜な神社である。
 ここには現代人の魂にヒットする新しい古さを追究しているかのような独特の雰囲気が漂っていた。
 石切劔箭神社自体は全国約8万の神社と47の神社庁を包括している「神社本庁」の傘下には入っていない。「石切劔箭神社」は神社本庁など全国に15ある文部省所轄の神社系包括宗教法人の一つであり「神道石切教」という独自の宗教団体として経営されている。
 現世利益で信仰を集めている新興宗教色の強い神社と言えるのかもしれない。


 
★石切神社の周辺にはたくさんの神社が密集している。 


★石切神社隣にある「白光大神神社」の鳥居から本殿を望む。 


★上之宮の鳥居と石段の参道。


★参道脇に牛が奉納されて祀られている。



★「石切劔箭(いしきりつるぎや)神社」上ノ宮社本殿への石段。


★円形の穴の空いた特徴のある奉納石柱。


★「石切劔箭(いしきりつるぎや)神社」上ノ宮社本殿。


★社務所。おみくじ、お守りなどもおいてある。


★本殿前の「お百度参り石」。向こうは参道の階段。


★「お百度紐の納め箱」。


★絵馬の納所。


★法華経(序品)に登場し、仏法を守護する龍神を祀る「八大龍王」社。水を司るところから「雨乞いの神様」でもある。



★いろんな社がある。


★境内の道の脇にある社。


★「婦道神社」。祭神は日本の婦道の鑑とされる「弟橘姫命」(おとたちばなひめのみこと)である。「日本武尊」(やまとたけるのみこと)の妃である。日本武尊が国土平定のため東へ遠征の途中相模湾で海難に遭遇したが海に身を投じて海神の怒りを鎮め夫である日本武尊の志の成功祈願したことが婦道の鑑とされている。



★「登美霊社」。三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)命こと登美夜毘売(トミヤヒメ)を祭神とする社である。社殿は前方後円墳と竪穴式住居を模す縄文式家屋をイメージした古いのか新しいのかよくわからない奇抜な建築となっている。さらに驚くのがここは自我霊を祀ることができるらしい。「登美霊社」の説明文には(三炊屋媛命を)「生駒霊峰の守護神としてまたわれわれの御母君としておまつりしその磐座(いわくら)に自我霊をまつる自己研鑚の鎮魂道場であります」とある。つまりこの社はだれでも申しこめば生きながらにして自分の魂を「自我霊尊」として祀ることができるという極めて珍しい生霊供養のできる自我霊尊社なのである。
  「石切劔箭(いしきりつるぎや)神社」の最もオンリーワンのスピリチュアル慰霊スポットは実はこの「登美霊社」であるのは間違いない。他に類をみないコンセプトに果たしてどれだけ人心の吸引力があるのか今後を注目してみたいと思う。


★「登美霊社」内部。祭壇に青い炎があがっている。この青い炎が自分の魂の分身である自我霊尊になるのだろうか。室内の照明も工夫が凝らされている。


★「登美霊社」の内部から外を見る。ガラスに合掌の加工レリーフが浮かぶ。衒学的かつシュールな空間演出はモダンと言えばモダンではあるのだが・・・・。


★竹林のある日本庭園があり散策には最適な雰囲気である。


★道も綺麗に整備され竹林がいい感じ。


★上之宮社の鳥居の横にある「石切夢観音」。階段左右に狛犬ならぬペガサスの彫像が出迎えてくれたというがいまは撤去されて姿形もない。ただ円形の建物の上では往時の名残だろう金色の天女がいまも青空に舞っている。我が国のバブル経済絶頂期の高揚感をそこはかとなく感じさせる贅を尽くした建築物であるが現在は閉鎖中。だが実質的に廃止されているようだ。関連情報URLにいまは幻となった「石切夢観音」を実際に見物された人のプログをリンクしておきました。黄金色に輝く夢観音の写真もありますのでしばし石切夢観音とのご対面をお楽しみいただきたいと思います。
 それにしてもこの石切教ドリームランドを開館中に見物できなかったことが残念である。




●関連情報リンク●
「石切夢観音参拝記」
Posted at 2015/02/26 16:23:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | 奈良見物 | 日記
2015年02月23日 イイね!

奈良見物⑧「辻子谷下り」。

辻子谷と書いて「ずしだに」と読む。
生駒山の山頂から東大阪氏側に下る谷道の中で代表的な谷である。
かつては大阪から生駒山を超えて宝山寺へお参りする山道だった。いまでも健康や運動を兼ねて麓の石切駅からこの辻子谷を登り降りする人も多い。
今日は宝山寺見物のあとケーブルカーで生駒山山頂駅へ行き冬季休業中の遊園地を迂回して辻子谷を下ることにした。
生駒山山頂遊園地はかなり広い。開園していれば何かレストランなどもあるのだろうが冬場はただ寒風が吹き抜けているだけの寂しい場所だ。まあ仕方ないよね。
遊園地を半周すると広い道路が下に見えた。
これは「信貴生駒スカイライン」である。夜景の美しいことで知られている。遮るものが何もないドライブコースだけに大阪と奈良の夜景を思う存分満喫できる。
だがこの日は黒い雲が空を多いいまにも雨が降って来そうな気配である。とりあえず早く降らねばと道路脇のガードレールを跨いで辻子谷の谷筋へ降った。
けっこう急な下り道で足が痛いのなんの。普段の不摂生が祟りもう筋肉痛を通り越して下半身麻痺状態でともかく転ばないように気をつけて体重を下へ下へと移動するばかりである。ときおりこの道を上ってくる人に出会うがみな苦しげな雰囲気は微塵もない。いかに自分が運動不足かを思い知らされる辻子谷下りであった。




★なぜか生駒山山頂駅の前に猫が屯していた。



★生駒山にはアンテナが多い。単独峰で生駒山と似ている地形の筑波山にもアンテナが多かった。周囲に高い山がなく電波を受信しやすいのだろう。階段下の道路が信貴生駒スカイライン。辻子谷へはほぼ階段を下ったあたりから道路を超えて山を下る。


★石畳の険しい下り道。



★夜景ではないが昼でも大阪の景色が一望できる。写真には写ってないが肉眼では「アベノハルカス」がはっきりと見えた。


★ 鷲尾山「興法寺」(わしおやまこうほうじ)。辻子谷の中腹にある。



★ここも宝山寺と同じく「大聖歓喜天」を祀っている。


★本堂の額には「歓喜天」と書かれている。


★境内の左には護摩堂があり烏枢沙摩(うすさま)明王を祀る。宝山寺にも祀ってあったがウスサマ明王は火の神、厠の神様である。左右に不動明王と役行者を奉祀してある。


★谷筋にはいたるところに地蔵が祀られている。


★辻子谷は地蔵谷でもある。


★あちこちに地蔵を祀る祠がある。


★なにやら脇道の奥に寺院がある。そこへ入ってみた。


★生駒山の東大阪側の辻子谷、額田谷などには朝鮮寺が多いと言われている。この寺院もその一つだ。


★本堂と思われる。廃寺ではないだろうが人の気配がない。


★建物内部は朝鮮シャーマニズムの「ムーダン(巫堂)」の祭式場そのものである。生駒山山麓が朝鮮シャーマニズムの修行霊場となっているのかもしれない。


★寺の脇にある礼拝石像。前には何かを燃やした形跡がある。


★石像の下には朝鮮式の名前が彫られている。なぜ生駒山麓の大阪側に朝鮮寺が密集しているのかは謎である。


★音川ぞいの辻子谷にはかつて水車を利用した産業が活発だった。電気の普及で衰えた。だが今もその伝統を引き継ぐ製薬・製粉業が健在だ。かつては生駒西麓には100輌以上の水車が回っていたそうだ。


★この水車は再現されたもの。勢い良く回っていた。このあたりはすでに東大阪市である。



★かなり下った場所に神社があった。


★石碑がたくさんあり祀られていた。辻子谷は神社も寺もたくさんある独特の世界である。


★「明正教本部」という神道系の施設があった。とりあえず見物してみた。とにかく何でも見てみるというのが野次馬見物の精神なのである。



★本部の庭には看板があっていろんなことが書いてあった。


★「明正教本部」の庭にある神社。


 辻子谷は精霊の宿る谷である。
 これが初めて辻子谷を歩いた素直な感想である。
Posted at 2015/02/23 21:24:20 | コメント(1) | トラックバック(0) | 奈良見物 | 日記
2015年02月20日 イイね!

奈良見物⑦「宝山寺」下。

 宝山寺最終回として宝山寺境内から石段を上って奥の院までの堂宇をみていくことにする。境内まで上がるのさえ息切れするがさらに上へ上へと行くので息切れに加えて足がとても痛い。距離は短いがこれは一種の登山である。いまさらながら修行不適応な自分を再確認させられた生駒山山岳寺院・宝山寺見物であった。
 今後高齢化時代を迎えて足の弱体化した人足の悪い人も多く参詣されることになる。そうした参拝者のために下の方に登らないでも参拝できる代参所のような施設を作って貰えれば有り難いと感じた次第である。そんな安易な参拝でご利益を願おうという不信心者は到底聖天様のお怒りを買い見捨てられても仕方ないのであろう。


★「文殊堂」。智慧第一の文殊信仰により受験合格のご利益を願うお参りが多い。


★石段左の白い壁の建物が「常楽殿」。如意輪観音像と毘沙門天・吉祥天を祀る。正面の火炎宝珠の瓦屋根が「観音堂」。その裏手には「遥拝所」「ウスサマ明王」などがある。その背後の岩山に「弥勒菩薩像」が見える。


★上から見下ろす聖天堂の屋根。火焔宝珠があり桧皮葺きの屋根が特徴である。青いシートは中拝殿の屋根修復工事。境内の堂がひしめき合っている様子がわかる。


★「観音堂」。天和4年(1864年)建立で宝山寺では最も早い時期の建物。本尊の観世音菩薩像は現本尊旧本尊と二体がご安置されている。


★「遥拝所」。崖上の弥勒菩薩を遥拝するためのお堂。中には虚空蔵菩薩などが安置されている。この建物の脇には「ウスサマ明王」がある。


★稲荷社。きつねも祀ってある。



★般若窟の説明。生駒山を霊場として役行者、空海が修行したと言われる。56億7000万年後にこの世に下生して仏陀となり人々を救う未来仏と言われている。中国・唐代に実在した禅僧の「布袋」(ほてい)は死に際して「弥勒真弥勒 分身百千億 時時示時人 時人自不識」という詩を残した。この詩は「弥勒は様々な姿で人の世に時時出現するが誰も弥勒だとは気がつかない」という意味である。もしかして弥勒はあなたの隣にいるのかもしれない。いまも弥勒信仰は根強く絶えない。


★断崖絶壁の「般若窟」に「弥勒菩薩像」があり宝山寺を見下ろしている。役行者の修行場だったここに湛海律師がこの像を祀ったといわれる。この写真を見ると弥勒菩薩の光背をマントにした冠をかむったヒゲの尊者が上に顔を出しているように見えるが・・・・目の錯覚だろうか。


★岩山の上には磨崖仏としての弥勒菩薩像のほかに祠が2つある。向かって左が「荒神」右が「弁天」だという。ほかに下からは見にくいが「役行者」の坐像もある。


★般若窟へは危険なため上がることは禁止されている。


★烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)。炎の世界に住し、人間界の煩悩が仏の世界へ波及しないよう聖なる炎によって煩悩や欲望を焼き尽くす反面、仏の教えを素直に信じない民衆を何としても救わんとする慈悲の怒りを以て人々を目覚めさせようとする明王の一尊。「烈火で不浄を清浄と化す」神力を持つことから火神・厠の神として信仰される。明王にはこのような怒りの憤怒相が多い。


★「遥拝所」の近くにある「水神」。


★多宝塔への参道。石段が続く。

★石段の脇に立つ観音像。


★石段の脇に立つ弘法大師。


★「多宝塔」。昭和32年建立。塔の様式は鎌倉時代、建築細部の様式は桃山時代、内陣須弥壇と四天柱は中尊寺にみられる藤原様式によって建築されている。湛海律師自作の愛染明王画像(重要文化財)が祀られている。「仏塔古寺十八尊霊場」の十五番札所にもなっている。

★さらに上へ。石段が続く。


★「大師堂」。昭和四二年に篤信者により寄進建立された。弘法大師を祀る。石を回して願いをかける装置がある。



★「五社明神」。「大師堂」の手前にある。




★水子地蔵。箱におもちゃがお供えされている。


★奥の院に至る石段の坂道。左右に献納された地蔵尊などが並んでいる。



★「開山堂」。明和六年(1769年)に建立された。その後改修を重ねて今日に至る。


★「開山堂」の中に湛海律師の像が安置されている。この像は湛海律師自らが刻んだ自刻像であり六〇歳ころの姿といわれている。


★「開山廟」。開山湛海律師の墓所(廟)であり五輪塔が建てられている。


★「奥の院本堂」。永宝2年(1705年)京都の篤信者が檀主となり護摩道場として建立された。
湛海律師作の不動尊、八大童子、太明明王、毘沙門天、常倶利天、大威徳明王、地蔵尊、薬師如来、大黒天の16尊が安置されていた。しかし嘉永6年(1853年)本堂から出火して仏像もろとも灰燼に帰した。3年後の安政3年(1856年)に建物、仏像ともに復旧された。


★奥の院本堂内部。本尊の不動明王が睨みを効かせている。


★奥の院境内にある弁財天。その名も「金集弁財天」と蓄財間違いなしのありがたさ。



★「大黒堂」へ上がる石段と奉納石柱。


★奥の院境内にある鳥居。石が積まれている。


★代々の山主の墓地。


★古い墓地。

 三回に分けての「宝山寺」見物はこれで終わるのだが最後に蛇足を一言。
 宝山寺で「歓喜宝歴」という暦を買い求めた。これを見ると毎月1日と16日に「歓喜天御縁日」というものが開催されているようだ。どのような御縁日かわからないが紹介させていただく。また12月1日の御縁日には「聖天厄除大根炊き」という行事も行われると書いてある。
 宝山寺でお寺が発行している「歓喜」という雑誌をいただいた。平成27年新春号(通巻132号)。
 この中に「津島市 身代山 弘法寺副住職 山田寛明」という人の文章があった。
 一部を抜粋する。
 「(プロ野球の)ドラフト会議のドラフトとは、元々は徴兵=選抜をさし、対して志願兵をさす言葉としてボランティアという言葉があります。」
 「日本では、ボランティアを当たり前のように行われてきた歴史があります。「隣組」「お講組」等で行われていた活動、奉仕活動、それこそがボランティアの原点であります」
 「本年は、高野山開創一千二百年の記念すべき年を迎えたわけであります。お大師様の書物の中に「菩薩の用心はみな慈悲を以って本とし利他を持って先とす」と説かれています」
 「慈悲とは如来、菩薩、聖天さまの御心でもあります。慈は他の人の喜びを自分の喜びとする慈しみの心であり、悲は他の人の悲しみを自分の悲しみとする心であります。私達のこころの中にも本来「慈悲の心」で満ち溢れていることと信じ、御仏の大きな心と私達自身の心が同じものであると悟り進むことが第一歩です。利他、他の人、社会の皆に先ず利を与え施す実践を行うことによって、私達自身が菩薩となって苦しみを離れ幸せを実現していけるのです」
 この文章を読みなるほどそうだと思った。

 いま世界にはイスラム過激派など私利私欲が充満し、憎悪と対立、差別と侵略、人命を手段化し弄ぶ鬼畜のような人間や組織思想が跳梁跋扈している。イスラム圏だけでなくアジアにも人命を拉致したり武力侵略を何とも思わないならず者もいる。
 まさにテロリストとの戦いはすでに世界中を巻き込んでおりテロリストという敵との第三次世界大戦に突入しているとさえ思われる。何もしないでいれば敵は攻めてこないという一国平和主義はもう通用しない時代になっている。
 こういう時代だからこそ日本の役割が重要なのだろうと思う。

 山田氏の文章に書かれている「慈悲の心 奉仕の心 利他の実践」を日本だけでなく「世界思想」とすべく日本からあらゆる機会にあらゆるチャンネルを通してメッセージを発信していくことが大事なんだろうと思う。
 迂遠かもしれないが日本の諺では「急がばまわれ」ともいう。
 「宝山寺」中のコメントには「奈良の小仏」さんに「正に Asia is one でしょうか。」と書いていただいた。一神教徒の世界は異教徒異文化への「否定と侵略」を繰り返している。それに対してアジア多神教の世界は「肯定と共存」の思想と実践を基調とした多元論を軸としている。
 「 Asia is one 」の仏教文化の歴史を踏まえて日本からアジアへアジアから世界へと「慈悲の心 利他の実践」を「世界の心 人類の実践」へと広めていく時が来ていると思う。

 まさに生駒山大聖歓喜天の双身歓喜天像は、悪の化身であり世界の破壊王である大自在天を十一面観世音菩薩が慈悲の心で抱きしめて改心させ足を踏みつけて悪心を封じ悪鬼調伏現世極楽浄土の姿を示しているのである。この生駒聖天すなわち「歓喜天」の御姿こそが「慈悲の心 利他の実践」にほかならない。
 高野山開創1200年の節目の年でもあるそうで今年を「破壊から歓喜」へとの世界的価値観の大転換の第一歩にしていきたいと念願する。合掌。



●関連情報URL●
「生駒市デジタルミュージアム」
宝山寺の所蔵する文化財が紹介されている。湛海作の「不動明王」「湛海律師坐像」などフラッシュムービーで一回転して前後左右から見ることができる。参拝しても実際にはよく見えないほかの仏像仏画なども写真と説明文でよくわかるようになっている。必見で
Posted at 2015/02/20 19:17:35 | コメント(0) | トラックバック(0) | 奈良見物 | 日記

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「外国人の「外国免許切替(外免切替)」制度をめぐり短期滞在者がホテルの住所で日本の免許を取得することについて、ホテル滞在による「支障は把握していない」とする初の答弁書を閣議決定した。それで良いということだ。
日本保守党の竹上裕子衆院議員の質問主意書に25日付で答えた。無責任だろ。」
何シテル?   05/18 14:14
 趣味は囲碁、将棋、麻雀、釣り、旅行、俳句、木工、漆絵、尺八など。 奈良、京都、大阪、和歌山の神社仏閣の参拝。多すぎて回りきれません。  奈良では東大寺の大...
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