日本唯一の宗教都市である天理市へ行った。
天理教のいわば総本山でありいまも天理教でいう人類創造の地である「おぢば」を中心とした天理教会本部がある。天理市へ行くのは今回が初めてだ。天理教信者ではないがいささか緊張をする。

天理市は信者の方々のふるさとである。「おぢばがえり」というようだ。したがって「おかえり」の言葉が各所にあって出迎えてくれる。
着いたのは午後7時ころだったが天理駅前は閑散としていた。
ともかくだだっ広い駅前広場だが人の姿がほとんどない。
なんか拍子抜けした。
なんとなく人で賑わっている駅前を想像していたがまるで違っていた。
体育会系のジャージー姿の女子大学生らしい集団がときおり駅へやってくる。
「天理本通り」という商店街のあるアーケードのほうへ行ってみたがやはり人気がない。
ときおり女子高生が自転車に乗って通り抜けている。
100円ショップ、本屋、レストランなどもあるが人が入っている感じはしない。
このアーケード商店街は非常に長いのだがこの時間にかなりの店がシャッターをおろしていた。というよりも開いている店のほうが少ない。天理市駅前は夜の店じまいが早いのだろうか。
★天理駅。JRと近鉄と二社が乗入れている。駅前の超広いスペースで月一回「天理マルシェ」という物産市場が開かれる。旬の野菜や果物がずらりと並ぶ。この日は何もなかった。
★「天理本通り」という商店街。人通りが少なかった。この商店街は非常に長い。
★天理駅から伸びる主要道。店舗はあまりない。天理名物の天理スタミナラーメンの屋台があり車で食べに来る常連客も少なくない。
JRの線路を挟んだ駅の反対側へ行ってみた。
こちらは街全体が真っ暗で灯りがほとんどない。
食事をしようと考えていたのだが開いている飲食店を探すのも難しいほどだ。
宗教の町ということはわかるが普通は駅前と言えば立ち食いそばや牛丼チェーン店があったりするものだがそういうものは見当たらない。駅の改札を出た構内のようなところにコンビニが二軒あるだけである。
ふだんは天理駅一帯は天理大学を頂点にしたカレッジタウンなのかもしれない。
ただ天理教の年間行事の中で重要な儀式のあるときは天理市の様相は一変するに違いない。何十万人もの人が世界から信仰の聖地へ集まるのだろう。そういう収容能力の大きさは十分に感じることができる。

巨大な天理教の詰所。全国からやってくる信者の宿泊施設である。
翌日は天理教会本部へ見学に行くことにした。
似たような特徴のあるどでかい高層建築が道路沿いにいくつも建てられている。これは詰所というもので全国の信者が天理市に来るときのための宿舎である。それにしても詰所の数が半端ではない。おそらく何千、何万人が来ても収容できるのではないかと思われる規模の詰所書建築群である。和風でもない反ったフォルムの屋根、窓枠は真っ赤に塗られ、ベランダの柵は特徴ある宮造りのような特徴ある形で統一されている。カーテンも白で統一されている。ほとんどどの詰所が同じ形をしているため詰所の建物には目立つ場所に詰所名が大きな看板となって書かれている。また詰所の敷地内はなぜかみな高い煙突が建てられている。想像だが、廃棄物を燃焼させるセントラルヒーティングをやっているのではないだろうか。
黒い法被姿の人が歩いている。この法被は天理教の信者の着るものだがここでは普通に見ることができる。まさに宗教と生活が一体化した宗教都市なのである。若い黒法被の女の子が仲良くコンビニで買い物をしていたりする。それも日常風景なのである。
★ここも「詰所」のひとつ。日本全国からはもとより海外からも来る信者を受け入れる。またいろんな研修などがあり天理教本部を囲むように詰所が林立してる。
天理教教会本部に着いた。
その敷地の広さは想像もつかないほど広い。一箇所に立って全体を見渡すことは不可能である。しかも広すぎて歩いても歩いてもなかなか神殿へ近づくことができない。本部の敷地に入ると一部が柵で囲われパワーショベルなど重機が持ち込まれ掘削工事が行われていた。
あとで関係者に聞くと神殿では現在でもエレベーターを設置するなどバリアフリー対策をしている。しかしよりそういう参拝者への利便向上とサービス機能を充実させるための工事だということであった。
天理教教会本部の中心施設となる神殿は公開されている。そこで信者でない私であるが靴を脱いで入り見学させていただくことにした。
★天理教教会本部には広大な敷地内に幾つもの建物がありたくさんの信者が「ひのきしん」として掃除や警備、案内また場内整理などをしている。その場で申しこめばだれでも本部を説明付きで30分ほど案内してくれる見学サービスもある。
信者ではないが天理教とは多少の縁はある。
母方の祖母が山陰の山間部で暮らしていたが天理教信者であった。子供の頃に夏休みになると長逗留で遊びに行き天理教の神棚も眺めお祀りの日になると儀式にも参加した。
どこからか老年女性の幹部が家にやってきた。夜になると一家をあげてその幹部を中心として天理教の歌のような経文を読んだ。大きく広い神棚の前に整列して大人は黒い羽織袴、着物姿で手踊を交えて回りつつ決められた踊りを踊った。着物の背の部分には天理教の紋が白くついていたように思う。
暑い夏の夜に天理教の歌が一番二番三番と続き踊りも途絶えることがなかった。
「あしきをはらうて たすけたまへ てんりんわうの みこと」
「あしきをはらうて たすけせきこむ いちれつすまして かんろうだい」
子供のころ何度も唱和して歌ったのでいまでも歌の文句や節回しをよく覚えている。
独特の節回しで歌にあわせて両手を胸の前で回しつつ独特の手踊を繰り返す。
襖を外して広くした座敷の中で傘のついた裸電球をすべて灯して儀式は続いた。
山深い田舎のことで蚊によく喰われた。
馴れない正座をして脚が痛くても膝を崩す程度で我慢した。
外は真っ暗な山の中の一軒家である。天理教の祭事に飽きたからと言ってもどこにも逃げ出す場所がなかった。
長いお勤めが終わるとようやくお開きとなり蚊帳の中に寝た。
天理教の幹部も一泊して翌日に帰っていった。
こういう祭事を月に一回はやるのであった。
★教会本部の敷地は非常に広くいくつもの建築物が点在している。庭には砂利が敷き詰められゴミ一つ落ちていない。
私の母は天理教の信者ではなかった。しかし祖母つまり実家の実母や婿養子を貰って家を継いだ妹などに誘われて一度か二度奈良の天理教教会本部へ参詣したことがあった。神殿の前で実家の祖母や姉妹たちと記念撮影した小さい白黒写真を見た記憶がある。
この祖母の山深い家の鴨居には軍服で軍帽を被り軍刀を持った若い男の肖像画が架かっていた。これは誰なのか祖母に聞いてみたら戦死した息子のつまり私の母の兄弟の肖像画なのであった。涼し気な目元とふっくらとした口元が私の母と似ていた。
祖父は寡黙な人であったが祖母は口うるさい人であった。
いくら孫であっても祖母には夏場の長逗留は面倒見が大変だったらしくよく嫌味を言われたりした。
★工事中の敷地と建物。かなり大掛かりな工事であった。この教会本部も最初の建設中に土を掘ったところ縄文時代中期末ごろの遺跡が発見された。この天理市一円に広がりを持つ縄文遺跡は「布留(ふる)遺跡」と呼ばれ出土品は天理大学参考館に展示されている。
町の子であった私達兄弟にとって山家の暮らしは珍しくもあり面白くもあった。
村の同じ年頃の子どもたちと谷川で泳いだり釣りをしたり遊びには事欠かなかった。
一度本家という家に行ったことがある。家の敷地の前の小川で鯉が飼われていた。その家にはよても太ったおばさんがいて大歓迎してくれた。
食事を出されご飯を一杯食べるとまた二杯目が山盛りだされた。それを頑張って食べ終わるとまた三杯目を山盛り出された。もう苦し紛れになんとか食べきったがなんであんなにご飯を出されたものか子供ごころに理解できなかった。
その家の大人が大きな蜂の巣を取ってきた。町の子に見せてやろうと思ったのだろう。その家の子供に呼ばれて行くと大きな蜂の巣があり蜂蜜が黄金色に輝いていた。
その蜂蜜の垂れる蜂の巣をごぼっと取り分けると食べろと言う。
おそるおそる子どもたちが蜜を舐めていると大人たちは
「甘いだらーがな」
と言いながら無精髭の顔で満足そうに笑っていた。
おそらく町の子たちが大勢村に来ていることを知り、わざわざ取りに行ってくれたものであっただろう。その当時は子供だけに何も知らないでいた。それがわかるころになればあの人たちとはもう二度と会えないのだ。時は非情なものであるが恨むことはできない。
★天理教教会本部の正面。重要行事のある儀式のときには紫色の幕を中央から左右に張る。
家に牛を買っている家へ牛を見に行ったりもした。
ときには別の従兄弟たちが遊びに来ることもあり一緒に花火をしたりした。
町の子は全部で多い時は8人ほどになり、村の子はもっと多かった。
ここでは夏場は町の子たちがやってきて村の子たちと一緒に暮らして遊ぶという交流行事が毎夏繰り返されていた。祖母の家はさながらその合宿所でありそりゃあ祖母の愚痴も聞かされるはずであった、と今にして思うが当時はなにもわからなかった。知らぬが仏とはこのことである。
「たまには遠慮はするもんだが」
などという祖母の言葉は右から左だった。当時の私は平気で悪さばかりしているクソガキだったことだろうと思う。
今思えば戦後のベビーブームの時代の話であり町にも山の村にも子どもたちがあふれるほどたくさんひしめいていたのである。
思い出話はそれくらいにして天理教教会本部の見学に戻る。
★黒門から天理教教会本部を望む。
おおここが天理教の神殿なのか。
建物の荘厳さに圧倒されながら階段の前にあるスノコ板の前で靴を脱いで上がる。
階段を上がると神殿の回廊がある。すべて板敷きであるが磨きに磨きぬかれている。回廊から中へ入る。そこはどこまでも広い畳敷きの世界であった。部屋というにはあまりにも広く四面は解放されていた。その中心部に「おぢば」がある。そこが天理教の教えでは人類創造の場所なのである。したがって人がそこへ行くことは自らの発祥地の故郷へ戻ることになるので「おぢばがえり(帰り)」と呼ばれている。
少しづつ歩いて行くと信者の方々が四角い「おぢば」を囲んで四方からお祈りをされていた。
よく見ると四角い穴が開いており、その下が広がっている。下を覗くと木の柱のような物が見える。その前には祭壇があって供え物がされている。この木の柱が「甘露台」(かんろだい)と呼ばれるものである。
本来は石で作られるものだというがいまは仮の甘露台として木製のものが据えられている。
甘露台がどういうものかはよくわからないが次のような解説があるので紹介しておくことにする。
■「甘露(かんろ)」とは、インドのサンスクリット語のアミルタ(amrta)の漢訳で、神々(諸天)の常用する飲料で、これを飲むと不老不死になり、死者をも蘇らせるという霊薬を云う。その味は密のように甘い、と云われる。これが中国語に翻訳されて「甘露」となった。仏教にも取り入れられて、不死・永遠の生を意味する涅槃の妙薬とされ、甘露王如来は阿弥陀様の別名とされている。
「甘露台(かんろだい)」とは、「天の与えたる直食(ぢきもつ)=甘露を受ける台」であり、その「ぢきもつ」を頂くと、いつも十八才の心で、病まず弱らずの無病息災のお陰と百十五才定命の自由自在のめずらしい守護が約束されていた。この世の陽気暮らし世界への立て替えの芯になるものでもあった。
史実的には、「甘露台(かんろだい)」は二段積みの普請状態で警察に破壊されたが、完成した暁には、台の上に五升入りの平鉢を乗せて、その中に麦粉を備える。やがて天の与えとして「かんろ(甘露)」が下がり、道人はその「ぢきもつ」を授かることにより115歳まで生きられる、とお諭しされていたと伝えられている。
(「お道の理論」「かんろだいの理」)
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mikiron/omitinoriron_kanrodai.htm
★神殿の正面から入る場所にある「黒門」。非常に大きな門だ。
神殿の中では甘露台を囲んで東西南北の四方から「あしきをはらうてたすけたまえてんりのうのみこと」というう歌が繰り返され天理教信者のおつとめが絶え間なく続いていた。この神殿でのおつとめは一日24時間昼夜通して続けられており一年365日絶えることがない。つまり永遠につづく天理教の祈りの中心なのである。
天理教は人びとが明るく勇んで暮らす「陽気ぐらし」「喜びの日々」をめざしており信者はその実現のために自らの修行と人助けのための「ひのきしん」を大切な実践目標にしている。いわば天理教は世直しの教えなのでありそれは同時にいまもっとも世界が必要としているものだと思われる。
世界の人々が自らの煩悩を克服し、暴力や非道、狂気や悪意、貧困や病気から開放され真に「陽気ぐらし」ができるようになればこんな素晴らしいことはない。今の世の中は拝金主義や暴力と差別がはびこり人心は精神荒廃の狂気に支配されている。宗教心を基にした人直し世直しこそ待望されている。
皮相的なことを言うのではないが「陽気」というのはいいね。
陽気は一般名詞で宗教用語じゃないが「陽気」を取り上げた宗教は天理教だけだと、思う。
「陰気」と「陽気」と比べれば、だれでも「陽気」を選ぶでしょう。
ただ陽は陰を二者択一で否定はしない。
陰はダメなんて言う奴がダメだ。
陰と陽は一対でありどちらかを比較優位にするものではない。
私の勝手な解釈で言えば陰もなければ陽もないすなわち陰もあれば陽でもある。
「陰陽不ニ不離」の世界こそが現実である。
だからこそ陰であっても笑い飛ばして陽気に生きようというのが「陽気」なんじゃないのかな。
「禍福はあざなえる縄のごとし」
半々の禍福のどっちに眼をつけるかという問題だ。
いやはや勝手な解釈はこの辺で。
★天理教教会本部を出て黒門に向かう。参道の左右にある植え込みなどを信者の若い女性たちが長靴履きで丁寧に手入れをしていた。
ぜひ天理市から狂乱の世界へそういう人類幸福へのメッセージを発信していただきたいものである。天理教教会本部を見学しそう願わないではいられなかった。
また天理教教会本部を見学しながら亡き母を思い出した。
あの小さな写真に実の母や姉妹とともに写っていた母の姿。
きっと母はここで一家の幸福、なかでも三人の子供の健康と幸せをきっと祈ってくれたに違いない。まるで苦労するために生まれてきたような人生を送った母だった。
そう思えば何一つ親孝行らしきことをしなかった情けなさがまた込み上げてきた。
教会本部の神殿を背景に母が写真を撮ったであろう庭を歩いた。
若き日の母と再会できたような気がした。