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角鹿のブログ一覧

2015年12月15日 イイね!

「閑話雑記(かわさき)」より再録おもしろ話①

かなり前のことになるがヤフーオークションで古書出品を眺めていた時、川崎市が発行した文庫本があるのが目に入った。タイトルが「閑話雑記」と書いて「かわさき」と読ませるダジャレめいた題の小冊子だった。中味はわからなかったがなんとなく興味を覚えて落札し送ってもらった。発行者は川崎市市民局広報部広報課となっており昭和52年3月に発行されている。さらに昭和53年、54年と三回も増刷発行されているのも驚きだ。よほど人気があったのだろう。読んでみるとたしかに面白い話がたくさん載っている。そこでこの小冊子の中から何回かにわけて興味深そうな話をここに再録し紹介してみたい。










「5円の国宝」

   古墳の研究史に大きな一ページを加えた加瀬の白山古墳発掘。その発掘調査が終わってしばらくたった昭和17年4月白山古墳の地主・仁藤市太郎さんから一つのニュースが慶応大学に伝えられたのです。道路の拡張工事をしていたところ、古墳の後円部近くから壺が出てきたという知らせでした。
  さっそく調べた結果、古墳とは関係なく、12世紀頃埋められた骨壷だということになったのですが、近所の人が気味悪がっていたこともあり。中にあった人骨は慶応大学が供養料5円を出して近くの寺に葬り、壺は大学が引き取ったのです。
   この壺こそ、現在東京の国立博物館に展示され、世界的にも有名な「秋草文壺」なのです。国立博物館の説明書きには「国宝 秋草文壺 慶応大学所蔵」とあります。わずか5円の供養料と引き換えにこの壺は川崎を離れたのでした。




2009 01/30


福澤門下の美術品コレクション

秋草文壺 国宝 【作品番号7-139】
7139 【慶應義塾所蔵】

作品番号7-139 秋草文壺 国宝
 平安時代 12世紀 慶應義塾所蔵
昭和28年に陶磁部門での国宝指定第一号の日本陶磁を代表する名品の一つ。昭和17年日吉キャンパス東方約600mの台地の裾で発見され、一帯の考古学調査を進めていた慶應義塾の所蔵となった。


     
◯関連情報URL◯
   「慶應義塾」
   [慶應義塾豆百科] No.84 国宝・秋草文壺
   
   ここには秋草文壺の詳しい解説が乗っているが、「閑話雑記」にあるような発見の経緯はいっさい説明されていない。見る人によっては慶応義塾大学が発掘したものと勘違いするかもしれない。
   おそらくこの壺を見た慶応大学の研究者は12世紀ころの壺だと正確に鑑定しておりただならぬ壺であると壺の価値は十分に認識していたことだろう。慶応大学は5円の供養料と引き換えにこの壺を手に入れたのである。
   ただ詳しい経緯を知らないのであまりうがった憶測や差し出がましい解釈は差し控えたい。
   ただこうも思うのである。
   「この壺はひょっとしたら非常に価値のあるものかもしれない。発掘された土地も発見したのも仁藤さんなので私どもが優先的に研究させていただきますがもし価値あるものだった場合は所有者である仁藤さんにお返ししますのでひとまず預からせてください」
  もしこうした対応を慶応大学が取っていれば「秋草文壺」は仁藤家の家宝あるいは川崎市の誇るすばらしい文化財となったことだろう。なにしろ国宝認定されるほどの名品なのである。
  なぜ突然慶応大学が出てくるかと言えば「白山古墳(しろやまこふん)」を発掘したのが慶応大学であったからだ。この古墳は4世紀後半のもので全長87メートル、前方後円墳である。
  壺を発見した仁藤市太郎さんは古墳との関連あるものかもしれないと、所有地の白山古墳発掘で顔見知りだった慶応大学の研究者にまず連絡を入れたのであろう。
   
  大阪や奈良など機内には古墳はたくさんあるがもちろん関東地方にも古墳はたくさんある。
  ただこの古墳から発掘された埋葬品のなかに、京都府椿井大塚山古墳と同じ鋳型で造られた三角縁神獣鏡出土があるのが珍しい点だ。
  もしかすると白山古墳の埋葬者が近畿と関連があるのではいだろうかと推測されている。
Posted at 2015/12/15 19:04:05 | コメント(2) | トラックバック(0) | 四方山話。 | 日記
2015年11月28日 イイね!

囲碁の大会に出場したこと。

囲碁、将棋、麻雀・・・・・うまくはないですが全部、できます。
思えば私の親父が道楽もので子供のころに親父が囲碁、将棋、麻雀、魚釣り・・・・などやっていたので見よう見まねで自然と覚えたわけです。
ただいずれも上達するというわけではなく漫然とできるという程度です。
囲碁は子供のころに新聞の囲碁欄をみてその通りに並べてみたら親父が帰宅してしばらく碁盤を眺めていて「これはおまえが打ったのか・・・・わしでもこれは打てん」と言っておりました。
高校時代に囲碁の強いという友人に出会った。
そこで彼の家に行き囲碁を打ったのだがまるっきりダメだった。
「なんでここに打つのか?」
「・・・・・」
「石を打つには意味がないといけない。君がここに石を打つわけがわからない・・・・」
「・・・・・」
まあ初心者のうちは高段者からみればこんなものである。
まるっきり棋理もなにもわからない状態だった。
それでもなぜか囲碁を打つのに興味を覚え独学で勉強した。
おりしも私と同年代の石田芳夫本因坊が「置碁大全」とかいう本を出版していたのでそれを買って勉強したことを覚えている。石田芳夫本因坊はコンピュータと言われて終盤の読みの正確さで無類の強さを誇っていた。
昭和30年代には囲碁界は坂田栄男、藤沢秀行、橋本宇太郎などのベテランをはじめまだ高川秀格(格)、呉清源も健在だったように思う。若手というか中堅というか加藤正夫、 趙治勲、林海峰、大竹英雄、竹宮正樹など個性派棋士が活躍していた。
若手の棋士も好きだったが私は高川秀格と呉清源のケレン味のない棋風が好きだた。

たまたま東京で仕事をしていた業界の囲碁大会というものがあった。
その会社でよく囲碁を打っていた相手にけっこう強い人がいた。
その人から「いっしょに囲碁大会に出ないか」と誘われた。
そこで市ヶ谷の日本棋院で行われた東京●●業界の囲碁大会なるものに出場することになった。
大会は有段者の部、級の部というものに分かれていた。
そこで級の部に出ることにした。実力は自己申告であった。
会社の囲碁好きで私を誘ってくれた有段者の部に出る人が「まあこういう場合は実力は弱く申告したほうが勝つ確率が高い。だいたい誰もがそんなふうに下げてくるんだよ。で君はまあ一級か二級だろうが五級にして申告しておいたから頑張れよ」と言ってくれた。
そこころ自分の実力は自分で判断できなかったのでそんなものかと思ったくらいだった。
会場は日本棋院の「幽玄の間」だった。参加者は三〇人くらいだったろうか。
プロ棋士のタイトル戦も行われる部屋である。いささか緊張したが出場した以上戦うしかない。 
最初の対局者は私に対して黒石をもった。
ということは六級の申告者である。
打ち始めてみるととても六級の打ち手ではない。同じ会社から有段者の部に初段自己申告で出ている実力二段の人と同じくらいかあるいはそれ以上の技量であることはすぐにわかった。
じりじりと押されて形勢は不利になった。
相手はもう鼻歌交じりで周りの対局をちらちらよそ見しながら楽々と打っている。
こういう場合には起死回生の勝負を仕掛けるしかない。
たまたま相手の囲っている隅に飛び込めばなんとかなるのではないかと目をつけた。
相手はもう隅を囲って安心しているがその中に眼をつくる余地がありそうな気がした。そこで果敢に打ち込み相手の意表をついたこともあったのか相手の陣地の中で生きることに成功した。ということは囲碁の分かる人にはわかると思うのだが隅を囲っていた相手の石が全滅してしまい逆転で辛勝した。
相手は本当に強い人だったがなんとか第一回戦を勝利したのである。
相手は六級とはとても思えない実力だと思ったのだが大会はすでに始まっているのでともかく対局者と申告された手合で戦うしかない。
ついで第二局が始まった。
いまこれはまったくどんな囲碁だったか記憶にないが勝利した。
ここで昼食になった。
囲碁会館の一階にはレストランがある。そこで同じ会社の有段者の出場者といっしょに食事した。
「どうでしたか?」
「いや負けたよ」
「・・・・」
「昼から君しか残ってないから頑張ってくれよな」
「はい」
午後の対局が始まった。
第三局も勝った。
この対局中に気分が悪くなった。
極度の緊張で昼ごはんを食べたのだが吐き気がしてきた。
そこで対局中にトイレに駆け込んでゲゲーーと吐き戻してしまった。
素人でもこういう緊張する勝負になると胃が痙攣してくるのである。
胃が痛くなるという経験はこのとき初めて味わった。
最後は決勝戦であった。
もうこのころには有段者の決勝戦も終わり「幽玄の間」はざわざわとしていた。
私の打つ最後の級の部の決勝戦だけが行われていたのである。
そこかしこで自由に対局する参加者もいて談笑の声がしていた。
それでも大会の主催者はじめ大勢の人々が私の対局を囲んで見守っていた。
いまでも覚えているがどういうわけかこの決勝の相手は拍子抜けするほど弱かった。
決勝戦まで出てくるのだから弱いはずがない。
しかし極度の緊張で実力が発揮できないこともある。
だが油断大敵、真剣勝負であるからには自分は精一杯戦うだけである。
対局がはじまりしばらくしてどうみても私の勝ちが揺るがない形勢になった。
すると対局中の碁盤を囲んで立って見ている人から
「力が違いすぎるわ」
「こりゃあとても級の部の手合じゃない」
「こんど出てもらうときは二段ででてもらわにゃあ」
とかわざわざ揶揄する無責任な声が聞こえてきた。
この決勝戦の対局中、いっしょに有段者の部に出場した会社の人がいつの間にかわざわざ私の隣に碁盤を持ってきて誰かと碁を打っていた。
しかもときどき咳払いしながら下手な冗談をいいつつ碁を打つのである。
自分は負けたが後輩の私を隣でさりげなく激励してリラックスさせてくれていたのである。その気遣いには対局中からわかって知らん顔して対局に集中していたがほんとうに力強く思えて有り難い気がした。
周りはもうこの対局で終わりだという騒々しさでいろんな声を聞きつつ勝負は終わりつつあった。
自分は周りの声のように有段者ほどの実力があるとは思えなかった。
しかしそういう雑音に惑わされないようにしながら最後まで丁寧に打って勝利し思いがけず優勝ということになった。
繰り返しになるが終わった後に感じたのは最初の対局者が一番強かったということである。
十中八九負けていたので起死回生の一手を放たなければ私は一回戦負けでおそらくは相手が優勝していてもおかしくはない実力だったと思う。
勝負のアヤとは不可思議なものである。
決勝戦が終わりふと周りを見ると先に帰った人も多く人は少なかった。
表彰式で優勝盾と賞品をいただいた。
賞品は銀座松坂屋の仕立券つきのワイシャツ生地であった。
暮れなずむ市ヶ谷の駅でお堀に映るネオンサインを見ながら先輩と分かれて中央線に乗ったことを覚えている。
今思い出してもこれほど真剣に緊張して囲碁を打った経験はこのときだけである。






Posted at 2015/11/28 23:58:46 | コメント(2) | トラックバック(0) | 四方山話。 | 日記
2015年10月21日 イイね!

和歌山県限定の「運動会の歌」

 関西地方だけの放送かもしれないが「関西テレビ」(関東ではフジテレビ系列)の夕方5時から7時まで「ゆうがたLIVEワンダー」という番組が放送されている。以前は青山繁晴さんの水曜アンカーが放送されており毎回視聴していた番組である。
 その中で和歌山県だけかもしれない「運動会の歌」、というものがあると紹介されていた。
 
 いま秋の運動会シーズンですが私の記憶では「運動会の歌」というものを特別に歌ったことはない。いわゆるご当地ソングとしては有名なのが長野県民の愛してやまない県歌「信濃の国」。「信濃の国は 十州に境連ぬる国にして聳(そび)ゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し・・・・・」という歌を県民愛唱歌として何かあれば歌いまくっている。この歌を知らなければ長野県民とは認められないというほどの熱の入れようである。

 それにくらべて和歌山県の「運動会の歌」とは・・・・。
 正直あまり聴いたことのないような・・・。 
 関西人の方も和歌山県民以外の人でご存知の方はいらっしゃるのであろうか。
 興味をそそられてテレビ画面をカメラで撮影したので順番に御覧ください。
 
 





 そこで実地調査に和歌山県へ向かった。







やはり歌を知っている県民続出。しかも「この歌、全国区じゃないの?」とも。



和歌山県限定と聞かされて「・・・・・・ショックぅ・・・・」。



いざ小学校の運動会へ突撃取材を。



運動会のプログラムにも、あったあ「運動会の歌」。


















 日本の未来は当時戦後のベビーブームと呼ばれた子供たちに託さてれいた。当時の小学生は中学校に進学するのだが卒業前には就職組と進学組とに分けられ、中卒就職者は「金の卵」と呼ばれていた。中卒者は全国から集団就職で東京や大阪など大都会の工場に就職したものも多く、戦後日本の高度経済成長を支える貴重な労働力となった。工場の生産は当時は人力に負う部分が多くたとえば電球生産工場では最後の検品はずらっと並んだ女工が一個一個電気プラグに電球をねじ込んで光るかどうかを確認するという塩梅であった。
 この歌詞にあるように昭和世代はいろんな意味で日本の未来を背負って激動の時代を生き抜いてきた。


昭和28年、「紀州大水害」が起きた。








この「運動会の歌」がつくられたのは昭和31年。
 昭和28年に和歌山県は大洪水(紀州大水害)に襲われて大きな被害を受けた。
 それから3年後、戦後の復興と大災害からの復旧とを重ねあわせて県民が一致団結し未来へ進もうと言う意味を込めて「運動会の歌」が公募されたのだという。


  この歌を作詞した伊藤孝夫氏を訪問したのだが・・・・。
  作詞者は伊藤孝文氏。5年前に88歳で逝去されていた。作曲者は和歌山市に在住の音楽教師の秦野和夫氏。
 伊藤氏の娘さんにインタビューして話を聞いた。
 娘さんは伊藤氏から聞いた話として歌詞の中で「明日の日本を背負うのだ」というフレーズが特に言いたかったメッセージだったように思うと語っている。








当時、中学校の音楽教師だった秦野和夫氏が作曲した。



番組スタッフや出演者も「ええっつ、そんな話があったんですかぁ」と「運動会の歌」のエピソードにびっくり。





 和歌山県の「運動会の歌」には実は戦前から歌い継がれてきた歌があった。昭和31年からは新しい運動会の歌を歌うようになった。その境目は昭和22年、23年生まれ以降が新「運動会の歌」であり、それ以前の子どもは旧「運動会の歌」を歌ったという。
 その歌詞は

「待ちに待ちたる運動会 来たれり来たれり ああ愉快 

吹く風涼しく 日はうららか 鍛えし技術 練りたる手練 

正々堂々 今こそ 競わめ 健児の意気は 山をもぬかん」

というような歌詞であった。


















  和歌山県だけではなくほかの地域でも運動会の歌はあったようだという。しかしいまだに歌い継がれているのはどうも和歌山県だけらしい。これはぜひとも絶やすことなく続けてほしいものだ。 
 
 明治時代、全国に小学校を作れという政府の命令が出されたのが1872年(明治5年)8月3日の学制発布である。これにより始まった「日本の近代教育制度において、初等教育は当初、小学校尋常科という名称の学校で行われ、1873年(明治6年)1月15日に設置された官立の東京師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)を皮切りに、1875年には、ほぼ現在並みの約2万4千校の小学校が全国各地に設置された。」(Wikipedia)。

たった二年間で全国に現在と同じだけの小学校が建設されたのである。しかも政府に小学校建設予算があるわけもなく小学校は市町村が自費で建設したのである。おそらく地元の寄付や親御さんの勤労奉仕など地域ぐるみで新時代の人材を担う小学校建設という熱気が全国津々浦々に充満していたのだろうと想像する。
 その真新しい校舎の初めて見る校庭と言う場所で、地域住民も子どもも皆が集って晴々しい運動会が開催されたのであろう。
  運動会は小学校がはじまった当初から行われており日本の小学校の歴史はそのまま運動会の歴史と言ってもよい。
 
 
 実はこの和歌山県の「運動会の歌」の動画がみんカラの「以心伝心」さんのブログに掲載されている。関連情報URLでリンクしておきますのでぜひ動画でお聞きください。昨日20日にこの「運動会の歌」を聴いて「いやあいい歌だなあ」と思って感想をコメントしたばかりだった。
 
♪ いざ友よ
 
希望明るく手を組んで
 
明日の日本を背負うのだ ♪

 いいですねえ、この気概と覇気!
 運動会というだけでなくすばらしい歌ですね。


★参考情報★
2014 年 9 月 30 日 (火) 放送 NHK“運動会の歌”に込められた思い
http://www.nhk.or.jp/wakayama/asunowa/wanda/1409.html


関連情報URL 「以心伝心」さんのブログ
「和歌山限定だったなんて…初耳でした! 」

「運動会の歌」の動画があります!!

↓。
Posted at 2015/10/21 20:47:17 | コメント(2) | トラックバック(0) | 四方山話。 | 日記
2015年07月30日 イイね!

何の役にもたたない中国語の話。

いまはどうかわかりませんが昔は大学では第二外国語というものがありました。
第一?は英語ですが、もう一つ外国語を学ぶのが必須でありまあドイツ語とかフランス語とか中国語というようなものの単位を取るようなことになってました。
私は中国語を選びました。
先生は日本大学の教授でこちらの大学にはアルバイト?の出張教授のような形でした。たぶん・・・。
最初の授業でその先生はいきなり中国語の歌を唄ってくれました。
たぶん・・・・・「草原情歌」か、「王(ワン)さん待っててちょうだいな・・・」なんかそんな歌だったと思います。中国語のメロディの美しい曲でしたがおっさんの教授が中国語唄うのでまあそんなに優艶には聞こえなにのですが、私は大学教授が歌を唄うということに驚愕しました。中国語へこの歌を聞いて惚れたんだよ、という情念のよいうなものを感じました。
その歌を聞いたことがその教授の中国語を学びたいという動機になった、という話を聞いてさらにびっくりしました。しかし言語というにはかなりアナログなので十分に歌が言語習得の動機になることはあり得ることです。
歌が終わると中国語を勉強された人なら「だよね・・・・・」と言われる思いますが「四声」の基礎を教えてくれました。
「マー、マー、マー、マア」というもので同じ「マー」でも発音の高低などで意味の違う言葉になるという中国語の特徴です。
「みなさん、バカみたいですが恥ずかしいという気持ちを捨てて大きな口をあけて発音してください。この四声を覚えないと中国語は発音できませんよ」と、その教授の口を見ながら教室にいた何十名かが「マー、マー、マー、マア」と大きな口を開けて「マー・・・・」を繰り返して最初の授業は終わったのであります。
ほんとは四声の間に半三声とか、ありますがそれはややこしいのでカット。
二年目はこんどは東洋大学で中国語を教えているという先生が一年間担当してくれました。
思うに私の学んだ大学には中国語の専任教授はおらずアルバイ教員で第二外国語中国語コースの授業は間に合わせるというでたらめな教育をやっていたのであります。それでもまあ授業があっただけはまともな大学だったのでしょう。
この先生は正直言って中国語はあまり上手ではありませんでした。もともと語学教師ではなくなんでも前職は外交官だったと自己紹介してくれました。授業は中国文化に関する余談のようなものが多かったですね。試験問題も「中国の四大奇書」とはなにか?というようなオタク的な問題が出ました。
 ともかく二年間の第二外国語の中国語は二年ともなぜかA(甲)でした。
 しかし単位は取れましたが、それで中国語が喋れるわけでもなくあとは自己研鑚しかないわけです。
 まだ日中国交回復の前でしたので東京には台湾の大使館がありました。
 いわゆる中国共産党の大陸中国とは国交がないので中国に旅行することもできない時代でした。
 たまたま六本木駅から地下鉄に乗ったところ中国語の新聞を読んでいる人を発見。話かけてみたらその新聞の発行人であり台湾の日本大使館を紹介してくれました。何度か台湾大使館にも出かけて中国語の教材を入手できないか相談した記憶があります。今と違い中国語の教材や本もあまりない時代でした。
 さらに銀座三越の裏あたりで日本在住の台湾人の子供に中国語を教える夜間教室があるのでそこで勉強してみなさいと教えられました。東京には台湾人のラーメン屋とか支那料理やとかたくさんあり親は仕事に忙しく台湾語を子供に教える暇もない。そこでそういう台湾人の子供を教えるボランティアの台湾語語学教室があったのです。
 そこで夜の銀座、暗い階段を登った三越デパート裏の古いビルの一室で中国語の教室に通い始めたのです。
 昼間は仕事があり、週に一回夜にその教室に通う。
 ところが私が二年間習ったのは北京語であり台湾語ではありません。台湾語講師の先生の中国語は北京語とはどこか違う中国語であり違和感がありました。講師は台湾人なので自分の習った北京語とは「なんか、違うよね」という気持ちが強く半年ほど通いましたが続きませんでした。
語学の専門家でもないのになぜそんな些細な違いが気になったのかよくわかりません。
しかし、台湾人の子供たちは元気で日本人の年上の青年が来ているのを何とも思わず仲間のように思ってくれていたのは嬉しい気持ちでした。授業が終わると「再見(ツァイチエン!)」と口々に言葉を交わして急なビルの階段を一緒にだだっと下って別れていくのでした。
 狭い階段を降りると、そこはまさに高度成長期まっただ中の夜の銀座の裏通りなのですが台湾語学教室に通っている子供や私にとって銀座のネオン街は無縁の存在でした。
 その後日中国交回復となり上海、南京、揚州、蘇州、また北京など中国へ旅する機会が何度もありました。
 しかしなぜか台湾には一度も行っていません。
 いまはもうありませんが新宿の朝日町に台湾屋台風飲み屋があって飲んだくれてよく行きました。
 しじみのニンニク醤油炒め?あの香ばしい味が蘇ります。サラミのような甘いソーセージ。スライスネギがよくサラミにマッチしていた。
 お酒は老酒だったかなあ。夏でなくてももう暑くて暑くて扇風機が回っていても半分は露天なのでただ暑い。しかも次々に人が来るので路上は人だらけで・・・・。
 いまは朝日町界隈はすっかりきれいな町になり当時の面影もありません。新宿朝日町と言っても「はあ?」という人の方が多いでしょう。
 思い出の中に残るのは若き日の追憶の町、時の忘れ人その面影ばかりです。
 なお私のお気にいりの中国の歌は「草原情歌」よりも「何日君再来」ですね。
 



Posted at 2015/07/30 01:21:01 | コメント(3) | トラックバック(0) | 四方山話。 | 日記
2015年07月27日 イイね!

なんの役にも立たない英語の話。

  英語は普段使うこともないし英会話はできなくても暮らしに困ることはないので特に勉強していない。
仕事柄英語を必要とする人は大変でしょうがしっかり英語を勉強、習得して頑張ってほしい。
そこで何の役にも立たない英語にまつわる思い出話を書いてみたい。

中学校で初めて習った英語の教科書は「ジャック&ベティー」だった。
英国風の制服を来た男女の学生が表紙、イラストに描かれていた。
そのころは「ハブ動詞」というものを教えられた。
「ハブ ユー ア ペン?」
ところが中学校3年生になったころ英語の教師が「ハブ動詞も正解だが、ドゥー動詞もあるので覚えてください」と言った。これはどういうことかといえば、「ハブ ユー・・・・?」でもいいが、「ドゥー ユー ハブ ア ペン?」でもいいよということだった。
なぜそうなったのか?英文法が変わったのか?いまだにわからない。
いまはどうなんだろう?
また中学校のときに英語のテストで「ガラス」の英語を書けという問題が出た。
「ガラス?そりゃ、これだよな」
と自信満々で「ギヤマン」とローマ字風に書いたが☓だった。


話はいきなりワープして30年くらい前、アメリカに仕事で行き帰りのJFケネディ空港でのことである。
朝早い時間でありなぜか無料で朝食のサービスがあった。
これはありがたいとプレートを持って列に並んだ。
私の前にスーツの上にコートを着てカバンをもったいかにも日本のビジネスマンという風体の若者がいた。で列がだんだん進んでそのビジネスマンの番になった。
如何様に注文するのか?と前の男の言うことをそれとなく聞いていた。
すると流暢とも思える英語のスピーキングでペラペラと喋りだした。
しかも何を言っているのかまったくわからない。
やべえ!・・・・・・これは何かややこしい料理かなにかを注文しなくちゃならんらしい。
でその英語ペラペラのジャパニーズビジネスマンがプレートを捧げ持って退場した。
いささか緊張してカウンターの前に進み出てみるとそこには黒人のおばちゃんがいた。
一瞬黙っていると、眠そうな顔をしてまったくやる気のなさそーな態度でそれでもこちらの目を見て
「ソー・・・・・アー・・・・・エー・・・・・・」
とかったるそうな声で言った。
「はあ?ソー?アー?エー?」てなんだ?
と考えるまでもなく、黒人おばちゃんの顔ではなく視線を下に下げるとそこには2つのアルミ箱があって一つにはソーセージのボイルしたもの、もう一つにはゆでたまごが入っていた。
ははあ・・・・・そうゆーことかい。
まあ英会話本風に言えば「ソーセージ オア エッグ?」と言っていたのだろう。
そこで「ソー」と一言うと案の定、ソーセージを一個トングで摘んでプレートに乗せてくれた。
それで終わりであった。
「ソー」あるいは「エー」とだけ言えば用は足りたのだが、あの生真面目風のジャパニーズビジネスマンは何を長々と喋っていたのだろうかとその内容が気になったが後の祭りであった。

このときはニューヨークに行ったので滞在中にも似たような経験をした。
朝飯を食べようと思ってピザ屋へ入った。
アメリカというとハンバーグが多いかと思うがそうではなくピザの店が非常に多い。
店のスタイルはハンバーガー屋と似ている。
そこでカウンターのお嬢さんの前に行くと何やら流暢な英語で話しかけてきた。
買うピザの種類を質問しているのか?
ドリンクは何にするかと聞いているのか?
それとも現金払いかカード払いかを聞いているのか?

さっぱりわkらないがそんなに難しいことは言うはずがない。
もし日本だったらどうなんだろうと考えてみた。
「ここでお食べになりますか?それともお持ち帰りになりますか?」
と言うのは日本のハンバーガーショップの決まり文句だ。
そう思ったらいまお嬢さんがペラペラと喋った英語の中に「ステイ」という単語らしき響きがあったよなあ、と気がついた。
おもむろに「ステイ」というとにっこり笑って「何にいたしますか?」と注文を聞いてくれた。
たぶん、彼女は日本でもマニュアルにあるとおりに「ツー ステイ?オア ツー ゴー?」と聞いてくれたのだろう。ただこんな簡単な言葉も速く言われるとなかなか聞き取れないものだ。
言っていることは単純に「ソー オアー エー」と似たような二者択一を問うものである。
アメリカ式のマニュアル応対は世界共通であり画一的なものなのでこういうときには便利なものである。

 
  
Posted at 2015/07/27 21:44:42 | コメント(3) | トラックバック(0) | 四方山話。 | 日記

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日本保守党の竹上裕子衆院議員の質問主意書に25日付で答えた。無責任だろ。」
何シテル?   05/18 14:14
 趣味は囲碁、将棋、麻雀、釣り、旅行、俳句、木工、漆絵、尺八など。 奈良、京都、大阪、和歌山の神社仏閣の参拝。多すぎて回りきれません。  奈良では東大寺の大...
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