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角鹿のブログ一覧

2015年06月21日 イイね!

香港の小学校入試問題が難しすぎる。





この図の問題は、香港の小学校一年生の入学試験問題だということです。
小学校の入学試験問題とあなどるなかれ。けっこう難しいというか難問じゃないか。
問題はこの駐車場の図で車で隠れている番号は何番か、という問題です。
何かの法則性があるはずなのだがそれが何か?
ちなみに香港の子供はこの問題を20秒で解くという解説がついています。
小学校一年生の入試問題ということは幼稚園卒業レベルということですが・・・・。



この問題の解答は↓の「関連情報URLにリンク」が張ってありますので御覧ください。
Posted at 2015/06/21 11:47:33 | コメント(4) | トラックバック(0) | 四方山話。 | 日記
2015年06月15日 イイね!

巨大なナメクジを掴んだ話。

前回、市営球場の思い出としてテントに煽られて危なかったという話を書いた。
球場のある同じ城山の山の方に登ったことがある。
年代はやはりり小学校の3、4年生くらいだったろうか。
兄弟も入れて三人くらいで遊びにいった。しばらく城山の道を登っていくと自然の山のような場所があった。その一角が崩れており赤土がむき出しに露出していた。
なぜそう思ったのかはわからないのだが、だれからともなく「ここを登ってみようか」という話になった。
かなり急な山肌でありしかも赤土が崩れている。
いちばん先に誰が登るかということになった。
誰も希望しなかったので「じゃあ、僕が行く」と言って登り始めた。
登り始めてわかったのだが、赤土なのでつかまる木の枝がない。周辺は山の樹木がありいくらでもつかまる場所はある。だが幅一メートルくらいの赤土があり、高さは10メートル位のものだったろうか。
で、おそるおそる足場を固めて上がっていった。
後ろには次の者が続いて登ってきた。
さらに三番目が下で見上げつつ登攀の状況をみていた。
そのとき、左手上方に黄色い木の根がアーム状に赤土に突き出しているのが見えた。
ああ、あそこに左手で掴まれば大丈夫だ。
見た目大きなバナナくらいの黄色い枝が赤土の上に横たわるように出ている。
木の根っこだ。
そう確信して左手を伸ばしむんずと掴んだ。
途端に??????????。
左手の手のひらはなにかぐんにゃりしたものを感じていた。
「うげーーーひゃあーーーー」
わけもわからない悲鳴を発してのけぞってしまった。
当然、赤土からずり落ちた。
すぐ下まで登っていた弟か誰か、下のものの頭に尻もちをついた。
下のものも支えきれず崩れてしまった。
そこでずずずず・・・・・と二人が落下した。
三番目はまだ登ってはいなかったが、上の二人が落下したのであおりを受けて転んだ。
赤土の崩れた下にしばし三人が折り重なっていた。
私が掴んだ木の根っ子と思ったものは、なんと巨大なナメクジであった。
黄色い肌に黒い線が入った不気味なものであった。
大きさはほんとうに巨大なバナナのようであった。
この気味悪さにもう山登りをする気力もなくなり帰ることにした。
そこらにあった板切れにこの巨大なナメクジを乗せて交互に交代しながら家まで持ち帰ることにした。
だがこのナメクジはだんだん小さくなり板から何度も落ちてしまう。
その都度乗せるのが面倒くさくなりとうとう諦めて捨ててしまった。
結局手ぶらで家には帰ることとなった。
城山でこんな巨大ななめくじがいたんだという話も夕飯時の両親にはまったく理解されなかった。
なおも、いろいろと言ってみたが
「そんなもんおるかいや」
「かばち垂れんないや」
 とおやじに怒られてオシマイになった。
 まあそれはいいのだが、あんな気持ちの悪いものを掴んだことはアレが最初で最後である。
 掴んだとたんにふっと宙に浮いた当て外れ感が半端なかった。
 自分を支えてくれる木の根と思ってチカラを入れた途端にふうわっと浮いたあの虚しさ。
 しかも見たこともない巨大なナメクジとは・・・・。
 でもいまふっと思ったがあれはほんとにナメクジだったのだろうか?
 
 


Posted at 2015/06/15 23:18:01 | コメント(2) | トラックバック(0) | 四方山話。 | 日記
2015年06月11日 イイね!

市営球場の思い出。

 あれはたぶん小学校4、5年生くらいの時だった。
山陰の城下町T市に市営球場という名前の野球場があった。
昔の城山の一部につくられた野球場で高校野球の大会やときにはプロ野球の巡業試合なども行われていた。
夏の熱い盛りであった。
城山の茂った樹木は緑濃くこんもりとしていた。青空にまぶしい日差しが照りつけていた。
その日この市営球場に近所の子供達と遊びにきていた。小学生が5、6人くらいはいたと思う。
市営球場では高校野球の試合が行われていた。大勢の観客が詰めかけてその試合を見ていた。この球場はグラウンドを挟んで城山の山側にはセメントで作られた固定式のスタンドがある。だいたい十段くらいはあっただろうか。そこが満席になると一段と高い城山に登る道があるのでそこに座って見る人もいた。またよく見えるようにその道の脇にある太い樹木に登って見る人もいた。言葉で言えば鈴なりの人だかりという光景である。

あまり娯楽のない昭和30年ころである。高校野球は一般の市民にとっても大きな楽しみの一つであった。見物客は試合をする高校の生徒だけでなく町の大人たちも大勢詰めかけていた。
バックネット、ホームベースから見ると正面にグラウンドが広がっておりその左側つまり三塁側は城山の斜面を利用したセメントの固定式スタンドがある。では一塁側のほうはどうなっていたのか。そこには固定式のスタンドはなく、そのかわりに鉄骨を組み立ててつくられた観客席があった。客席はやはり十段くらいはあったように思う。子供の視線からみて、最上段は見上げるほど高かった。正確には覚えてはいないが最上段までの高さは5、6メートルはあっただろう。幅は二十メートルくらいだったろうか。座る部分は鉄骨に板が貼り付けてあった。
もう試合は始まっており三塁側も、一塁側の鉄骨式の架設スタンドも超満員であった。
前後の脈絡は記憶していないのだがわれわれ小学生のガキどもは鉄骨で組み立てられた架設スタンドへ登っていった。下から見上げれば満員ではあったがそれでも上へ登る隙間はあり最上段へ来てみると以外にも人は少なかった。というか最上段のいち列しか空席はなかったと言ったほうがいいだろう。そこで5、6人の仲間は最上段にそろそろと上り思い思いに席を取った。

だがそこで問題が起きた。
正確には問題が起きたのはその5,6分後のことである。
架設スタンドの上には客席の日除けに白い布のテントがかけられていた。ほんらいは最上段の後ろにある背もたれというか鉄柵の上部に紐かなんかで固定されていたものであろう。しかしその日はテントが強風に煽られて舞い上がっていた。スタンドの前部に四角い枠のようになっている鉄骨に長方形の日除けのテントの前部が固定されていた。しかしテントの後部は空中に舞っていたのである。かなりの風が吹いていた。
最上段にあがった子供の目から見ると目の前にテントの端がひらひらと動いている。風が強く吹くと上空高く舞い上がり風が少し弱まると目の前にテントの端が下がってくる。手を伸ばせばその端をつかむことができそうな距離である。
 そのとき誰かが言った。
 「おい、テントの端を掴もうや。掴んだら絶対に離すなよ」
 もう僕たちは野球なんか見てはいなかった。空中にはためくテントを掴むことに夢中になった。

 バタバタと音立てて空中に舞い上がったテントの端がふわっと降りてきた。
 いまが掴むチャンスだった。
 誰もがおもいっきり手を伸ばしテントの端を掴んだ。間隔を置いて5,6人の子供が端を掴んだテントは前方からの風を受けて大きく膨らんだ。
 私はちょうど一列になった子供たちの真ん中あたりにいた。
 テントの端はただの布の端であり掴むと言っても布を指先で丸め込み力いっぱい握っているだけのことであった。
 「絶対に手を離すなよ」
 その一言が私のテントを握る手に一層の力を加えていた。
 そのとき強い風が前方から吹き上げた。誰もが一瞬頑張った。だがそのとき風の力に負けたのか皆が一斉に手を離したのである。
 ただ馬鹿正直に思いっきりテントの端を握りしめていた私を除いて。
 次の瞬間、私の体は空中高く舞い上がっていた。

 上空から架設スタンドの後ろのグラウンドの土が見えた。仮設スタンドいっぱいに座っている観客のぎっしりと並んでいる頭が見えた。
 ここで手を離したらスタンドの後ろの地面に落下する。
 私は必死で掴みにくいテントの端を握りしめていた。そのままの姿勢であと二、三秒もいたら持たなかったかもしれない。  
 テントの端は私の体重の重みで空中からしだいに沈みはじめ満員のスタンドの上に落下を始めた。だが上から見ると真下は人の頭ばかりがぎっしりと並んでいる。そこへテントを握った私がゆっくりとスローモーションのように落下していくのである。
 もうスタンドの中段くらいまで見下ろす位置に下がってきた。
 そのときスタンドに座っていた何人かが私を見上げ異常事態に気づいてくれた。
 あのときの大人の人達のびっくり仰天した表情をいまも覚えている。
 誰かが手を差し伸べて脚を掴んでくれた。
 見ると偶然だが席が一人分だけ空いていた。左右から誰かにつかまれた形でその空いた席へストンと座ることができた。空中から落下したのではなくテントは最後まで離すことなく席につくと同時に両手を開いた。
 助かったと思った。
 記憶はそこで途切れている。

 その後も野球を見物したのか、仲間の子供たちとその後どんな話をしたのか、どのように家に帰ったのか、まったく覚えていない。
 ただ空中から満員のスタンドに無事に降り立つまでの数秒間のことだけはいまも鮮明に記憶している。体が空中に浮いた時の浮揚感も微かに記憶している。
 「絶対に手を離すなよ」
 そう言いながら全員がパッと一斉に手を離し、その瞬間にぐわっと全身が空中に浮かんだときの騙された感、なんで!と思ったことも覚えている。
 だが一緒に市営球場へ遊びに行った子供たちの名前も顔も覚えてはいない。
 これだけの危機一髪の体験だったが別に怪我の一つもしなかった。
 幸運だったと言えるだろう。
 だがこのことを思い出すたびに、ホントはかなりやばかったよなあ、と思う。
 夏が来て高校野球の季節になるとそういえばこんなこともあったよな、とときたま思い出すことがある。
 たぶんあの市営球場はいまは取り壊されて姿形もないだろう。
 蝉が煩いほど鳴いていた。
 蝉しぐれの中で青い空に舞い上がっていた白いテントをいまでも記憶している。
Posted at 2015/06/11 00:08:32 | コメント(3) | トラックバック(0) | 四方山話。 | 日記
2015年06月01日 イイね!

箱根駅伝、大丈夫?

このところ日本列島は地震と噴火に見舞われておりどうも落ち着かない。
 ゴールデンウイークのときにすわ噴火か注目を集めた箱根の大涌谷もいまだに沈静化していない。
 このまま箱根の噴火危険度が長引けば、状況次第で来年の「箱根駅伝」はどうなるのだろうかと不安がよぎる。最悪、噴火となったら規模にもよるだろうが中止も早めに決断しないといけないかもしれない。
 もともと箱根は標高2700メートルくらいの富士山のような噴火火山だったが噴火と陥没でいまのような形状になったと言われている。これは箱根火山研究の基礎をつくった久野久氏が唱えた説で、箱根山は約50万年前から25万年前にかけて標高2700㍍の富士山のような形をした成層火山だったが噴火で上が吹っ飛びさらに中心部が陥没して現在の姿になった、という学説だ。
 その後の研究では久野説ではうまく説明できないとして諸説出ているがまだまだすべては解明されていない。やはり謎が多い火山である。
  
 万が一ということを想定すれば箱根山一帯で何が起きても不思議ではない。
 これまで大噴火がなかったことが幸いだったのかもしれない。もともと箱根駅伝が企画されたとき、東京↔日光の学生駅伝も有力候補だった。いまさらながらの話だが、箱根が危険となればその変更もありうる話なのかもしれない。 実際にはいまからでは来年はむつかしいだろう。また箱根の関係者には箱根以外での開催はとんでもないという話ではある。
 
 箱根駅伝の開催について関東学生陸上競技連盟が大涌谷噴火との関係で何かを検討しているという情報は伝えられていない。しかし大会関係者は気をもんでいることだろう。
 ただ相手は予測不能の火山である。したがって中止の可能性もゼロではない。大会の安全を考えればどうするかいまから何らかの対策を考えておくべきだろう。このまま終息すればいいが見通しはなんとも言えない。
 ただ悩ましいのは共催の読売新聞社はじめ箱根のホテル、旅館、レストランからおみやげ店などこのビッグイベントの経済効果はかなりのものとなる。それだけに中止となれば影響は甚大となる。箱根に挑む大学も陸上選手も一年の修練がふいになる最悪の事態である。とくに箱根のホテルや旅館は常連校や常連客からは一年前から予約が入っているのが普通だ。箱根出場が決まっている大学は予約しているのは当然だが、予選会で出場が決まったとしてもそこから大人数の予約はまず無理というものだ。
 そうした駅伝大会の開催をめぐるいろんな事情もあり当然のことながらなんとしても開催してほしいのが関係者共通の心情である。
 かといって、もし開催を前提に事を進めていて年末になって箱根で大噴火の兆候ということになった場合、果たして強行できるのだろうか?
 
 余談だが駅伝は京都から東京遷都(明治2年)から50年後の大正6年(1918年)4月27日から三日間「奠都50年」記念マラソンリレーとして京都~東京へのリレー形式のマラソンを行なった。この大会は日本の長距離陸上選手を育成しようという「日本のマラソンの父」といわれる故・金栗四三氏の発案で実現したものである。
 これが今日の日本の「駅伝競走」の始まりである。

「競技としての最初の駅伝は、東京奠都50周年記念として讀賣新聞社会部長・土岐善麿[1] の発案で同社が主催し1917年4月27日に行われた「東海道駅伝徒歩競走」とされる[2]。京都の三条大橋を午後2時に出発し、東京の上野不忍池(しのばずのいけ)までの23区間、約508kmを走り抜き、三日間、昼夜兼行で走り継ぐ壮大なたすきリレーだった。到着したのは翌々日の午前11時34分であった。三条大橋と不忍池のほとりにはそれぞれ「駅伝発祥の地」の碑が現存する。」(Wikipedia)


京都・三条大橋たもとにある「駅伝発祥の碑」。

 その後、東京の大学が駅伝競争を考えて、最初は日光までの往復が有力でしたが早稲田大学陸上部在籍中の河野一郎(河野洋平の親父)が将来政治家をめざしており箱根になれば自分の選挙区を通ると考えて強引に箱根駅伝コースを決めたと言われている。実際河野一郎は箱根駅伝に出場しているし、代議士になってからも選挙区を通る選手を毎年応援している。
 箱根駅伝第一回大会は、、1917年(大正6)に早大、慶大、明大、東京高師(現筑波大)の四校が参加して実施された。
  
 私はかつて10年間毎年正月は箱根へ行き1月2,3日は箱根駅伝を現場で見てきた。
 箱根駅では大学最高峰のレースであり日本一を決めるチャンピオンシップの激闘の場である。同時に東京から箱根までの往路、復路は選手にとっては走る道路ではなくまさに栄光の花道である。手に手に旗を持って振り続ける応援の人垣が二重、三重に途切れることがない。勝ち負けは関係なくここを走ることができた選手には一生忘れられない最高の思い出となる。またその影には4年間黙々と練習をしても一度も箱根を走ることのできない選手もいる。
 各大学での選手発表の瞬間は選ばれた選手、エントリーされなかった選手と明暗がはっきりと別れる。
 天国と地獄はそこだけではない。
 復路の芦ノ湖のスタート地点は、あらかじめエントリーされていた選手が当日の朝になって大学側の選手交代、交代申し込みにより大きく張り出された大学ごとの選手名簿欄に次々に名前を書き換えられていく光景を見ることができる。あらかじめ選手には前もって告げられてはいるだろうが突然変えられることももちろんある。
 子供の晴れ姿をひと目見て応援しようと遠くから駆けつけてきた両親や家族の落胆は見てはいられない。一秒の勝敗を争う箱根駅伝に勝つために監督はそういう非情な決断をしなくてはならない。
 優勝の栄冠の影には血の涙を流すような苦しい練習の積み重ねがあり、また惜しくも敗れたチームには忘れることのできない屈辱の涙もある。
 箱根駅伝はチームスポーツであり、一本のたすきをつないで最期まで諦めずに走り切るという団結の大切さを学ぶよい機会でもある。
 同時に箱根駅伝はそういう勝負の非情さ、厳しさを学ぶ場所でもある。
 だが勝者にも敗者にも「箱根を走った」ということは人生の最高の財産となることは間違いない。
 そういう特別なドラマの大舞台が箱根駅伝往復10区間217・1㎞なのである。
 いまこの初夏のような猛暑の中でも各大学の選手たちは一日20㎞くらいは朝晩走る猛烈な練習をしていることと思う。これから夏になれば本格的な夏合宿に入る。秋になればいくつかの大きなレースが待っている。また予選会から本大会をめざすチームにはまずは選考レーズを突破しないといけない。
 来年の大会まで時間はあるようでほとんどない。
 箱根駅伝中止という最悪の事態にだけはならないことを、なんとか無事に来年も開催できることを今から祈るような気持ちで願っている。
 
 ちなみに今年11月29日に、全国14大学の女子学生チームがエントリーし、23・4㎞、6区間、標高差875メートル(箱根は標高差864メートル)で第二回「日光いろは坂女子駅伝」大会が実施決定している。ちなみに昨年の第一回大会は、優勝は「東京農業大学A」、二位は「大東文化大学」、三位は「大阪芸術大学」という結果であった。
 今年も男子学生が箱根の山登りなら、女子学生は日光いろは坂を登るわよ!とばかり、箱根より高い標高差、紅葉に彩られた秋の日光いろは坂を女子学生が果敢に走りぬく。
 
Posted at 2015/06/01 22:06:48 | コメント(3) | トラックバック(0) | 四方山話。 | 日記
2015年05月29日 イイね!

「美しき天然」「お富さん」など。

ときどき不意に脳内にメロディーが蘇ることがある。
何の脈絡もなく音楽が蘇る。
それはコマーシャルの一節だったり何かの流行歌のさびだったりする。
そういう状態になるとのべつくまなくそのメロディーやら歌詞やらが蘇り一日になんどとなく脳内はその手の音楽で占領されてしまう。
ときにはクラシックも登場する。比較的よく出てくるのがドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」第4楽章の冒頭である。

じゃあぁーーじゃぁあじゃぁじゃーじゃあぁじゃじゃんぅーーーーじゃあぁーじゃぁじゃぁじゃあぁじゃああぁーーーー。

あの印象的な迫力満点の大音響が響きはじめると文句なく圧倒される。
しかもひとしきり区切りがつくまでつい聴き入ってしまうので端から見ている人にはこの人は少しおかしい人ではないだろうかと思われはしないかと少し心配である。
この曲を初めて聴いたのは中学二年生のときである。
音楽の女の先生がレコードを持ってきて「新世界より」という曲を聴かせてくれたのである。
あとで「なぜこの曲をかけたのか?」と聞いてみた。
先生は「この曲を二年生にはレコードで聴かせるということになっているから聴かせた」と実につまらない答えであった。「この曲はこれこれこうで素晴らしい」とか言うかと思ったがそうではなく聴かせることになっているから聴かせた、というのであった。
なぜそんな音楽教育の方針があったのだろう。

いまふっと思い出したが小学校の音楽では「はーるかなるスワニー河 そーのぉーしもぅー(下)・・・」などとアメリカの歌を歌わされた。
何でそんなアメリカの川の歌を日本の小学生に教えたのだろうか?
文部省が学校で教えるべき名曲だとして選定したのではあろうが・・・。
どんな基準で学校で教える歌を選んでいるのであろうか。
このあたりいまもってよくわからない。
世界の歌を教えて国際人に育てようという意図でもあったのだろうか?
学校ではそんなアメリカの歌も習ったのではあるが、家では春日八郎が調子よく歌う「お富さん」なんかを歌っていた。どこでもいつでも浮かれたように「お富さん」流行りだった。




「粋な黒塀見越しの松に仇な姿の洗い髪・・・・死んだはずだぜお富さん生きていたとはお釈迦様でも・・・・えぇさおううぅ玄冶店(げんやだな)ぁーー」
などとラジオに合わせて意味もわからず歌っていた。
この「お富さん」は日本中に大ヒットしていたのである。
調べてみるとこの歌は昭和29年8月にキングレコードから発売されている。
ということは私が8歳の時だ。まだ小学校の低学年だがそんな子供だったがこの歌を覚えているほど大ヒットした歌だったのだ。

とはいえ、まだ小学生の子供のことであり歌の意味はよくわからなかったが「玄冶店」(げんやだな)を「げん夜だな」と思い込んでいた。なにか「げん夜」という夜があるのだろうと思っていたのだ。「玄冶店」というのは日本橋あたりの屋敷や路地の総称だとわかったのはずいぶん後のことであった。
切られ与三郎とお富さんの噺は歌舞伎にもなりよく知られていた。それを歌謡曲にしたところ春日八郎の美声とともにあっという間に広まったのである。いまでは到底考えられないがチャンバラや時代劇はいまでこそ廃れた感があるものの当時は時代劇が娯楽の王道だったのである。


★市川雷蔵の与三郎、 淡路恵子のお富で映画化。大映映画。
富士真奈美や中村玉緒も出演している。「大映スコープ 総天然色」と右上に書いてある。


  切られ与三郎といえば、歌舞伎でも与三郎・お富の流転の人生を描いた世話物『与話情浮名横櫛』として演じられ人気を博した。
  映画でも「お富さん」がヒットした5年後の昭和35年、与三郎を市川雷蔵、お富を淡路恵子の両主演で上映されている。
  江戸の大店の養子・色男の与三郎は身を持ち崩し木更津の藍染め屋に預けられているのだがそこでお富と出会う。まずいことにお富は地元の網元でヤクザの親分・赤間源左衛門の愛妾であった。この与三郎とお富は互いに一目惚れでいい仲に。だが二人のの濡れ事は赤間親分の知るところとなり親分は激怒。「やっちまえ!」と与三郎は子分どもに膾に切り刻まれ簀巻きにされて木更津の海へドブンと放り込まれてしまう。これで一巻の終わりと思いきや、漁師に助けられて一命を取り留めた与三郎、江戸へ出て全身の切り傷を売り物に悪名をはせる。一方お富も情事がばれて子分どもに追いかけられ逃げきれずもはやこれまでと海にザンブと飛び込んだ。それきりお富も死んだと思われていた。
 ある日、与三郎はならず者の蝙蝠安とつるんで玄冶店にある質屋へ強請に入るがそこで与三郎は片時も忘れたことのない恋しいお富とばったり再会、なんとお富も一命をとりとめこの質屋の主の妾におさまっていた。この劇的な再会の場面が春日八郎の歌う「お富さん」の歌詞となっている。
  この玄冶店で再会する場面が歌舞伎でも見せ場のひとつ。
  三幕目、源氏店妾宅の場より与三郎の名科白がこれだ。
  
与三郎:え、御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、 いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ。
お 富:そういうお前は。
与三郎:与三郎だ。
お 富:えぇっ。
与三郎:お主(のし)ゃぁ、おれを見忘れたか。
お 富:えええ。
与三郎:しがねぇ恋の情けが仇(あだ) 命の綱の切れたのをどう取り留めてか
木更津からめぐる月日も三年(みとせ)越し江戸の親にやぁ勘当うけ拠所(よんどころ)なく鎌倉の谷七郷(やつしちごう)は喰い詰めても
面(つら)に受けたる看板の疵(きず)が勿怪(もっけ)の幸いに切られ与三と異名を取り押借(おしが)り強請(ゆす)りも習おうより慣れた時代(じでえ)の源氏店(げんじだな)
その白化(しらば)けか黒塀(くろべえ)に格子造りの囲いもの
死んだと思ったお富たぁお釈迦さまでも気がつくめぇ
よくまぁお主(のし)ゃぁ 達者でいたなぁ
安やいこれじゃぁ一分(いちぶ)じゃぁ帰(けぇ)られめぇじゃねぇか



映画「切られ与三郎」。与三郎とお富、玄冶店再会の場面。蝙蝠安が強請るがあとで与三郎が登場。

 と・・・・歌舞伎芝居は展開するのであるがこれが実話を元にした噺であるというから驚きだ。与三郎は実は大網の紺屋職人であり、掘畑の網元である親分の妾といい仲になり切り刻まれて簀巻きにされて海へ叩き込まれ一命を取り留めるまではほぼ実話だという。その後、この与三郎の本物は改心し江戸へ出て長唄の名跡芳村伊三郎を継いで4代目となり名を上げたというからこれまた驚きである。芝居では切られ与三郎は悪党だが、実際の人物は悪党とは大違いで、まじめに稽古を重ねて長唄界の頂点を極めている。
ちなみに与三郎・お富は芝居で作られた名前であり与三郎の本名は大網白里町清名幸谷の藍染屋の次男・中村大吉という。長唄がうまく大網と東金の中ほどにある堀畑の茶屋へ長唄を唄うために足繁く通っているうちにお富とねんごろになる。お富の本名は「おきち」といい茂原の出である。おそらくは掘畑に棲む網元でヤクザの親分・山本源太左衛門に身売りされた妾の身であったと思われる。よくあるパターンとはいえ、若い二人の仲は悲劇に終わり、そこから波瀾万丈の切られ与三郎の憂き世渡世が始まるのである。
 やはり当時江戸一流の芝居戯作者の手になると名前からして大吉・おきち、が与三郎・お富、と仇っぽい美男美女に変身してしまうからさすがである。映画、市川雷蔵の与三郎はさぞかしニヒルな凄みがあったであろう。いまだに見る機会がないがいつかは観たいものである。
  
 さらにもうひとつこまかいことだが、この歌舞伎でもお富さんの歌詞でも「玄冶店」は「源氏店」となっている。これは、江戸時代は歌舞伎の狂言芝居において、江戸市中の実在の地名を舞台に乗せてはいけないという決まりがあったからである。
 江戸時代は歌舞伎が大人気であり幕府もその江戸市中、江戸庶民への甚大な影響力を知悉していた。芝居で取り上げられると世間では心中が流行ったり、近松模様が流行ったり、庶民の悪風や着物柄の流行にいたるまで狂言芝居によって現実の民心が右往左往掻き乱されていくのである。
 こういう歌舞伎芝居の興行は江戸幕府にとっては実にやっかいな存在であったに違いない。
 いまでこそ歌舞伎のイメージはいいが江戸時代は遊郭とならぶ「二大悪所」と言われ風紀紊乱の源であるとお上に目をつけられ常に取り締まりの対象となっていた。したがって歌舞伎芝居はあくまで絵空事であるという建前を崩してはまかりならん、というお達しがあったのであろう。したがって芝居での源氏店は架空を装ったもので実在の玄冶店の謂であることは誰もがわかって芝居を見物していたものである。


★「美しき天然」
 
さて話を元に戻してレコードで聴かされたドヴォルザーク「新世界より」は曲は記憶に残らなかったがそのときの先生との会話はいまだに記憶している。
若いまだ独身の先生であり家もそう遠くないので知っていた。高校に入り通学路の関係でその先生の家の前を通ることがあったが、ときどき先生が自宅でピアノを弾いていることがあった。
一度高校の帰りに先生が自宅の前に出て来ていた。
挨拶すると、「●●君、これ見て」とまだ目も開かず毛も生えてないぐにゃっとした鳥のひなを見せてくれた。
なんでも雀の子なのだが巣から落ちて鳴いていたから拾ったのだそうだ。
「その辺の電柱の上に巣があると思うのでこの鳥を返しておいて」
 とごみょごみょ動く黄色い嘴の雀の赤ん坊を渡されたことがある。
「じゃね」と先生は家へ戻っていったのだがそもそも雀の巣なんかどうして見つければいいのか?
しばらく電柱を見上げて巣を探してみた。どこに巣があるのかさっぱりわからない。
その後の記憶はないがあの雀はどうしたのだろうか?思い出そうとしてもその先は思い出せない。

またこの先生ではないのだが、やはりそのあたりを歩いていると家の中からおばさんに引きつった声で呼び止められたことがある。おばさんは窓を明けて身を乗り出していた。
「なんですか?」
「いま家の中に蛇がいたんだけど逃げ出してそこらにいるかもしれないので捕まえて」
 という。蛇が逃げた?そこで家の前の花壇とか草むらを棒でつついたりして捜索したのだが蛇は見つからない。
「見つけてよ。その辺にいるから。また入ってくると嫌だから・・・」とおばさんは言うのだがいくら探してもいない。家の横のほうにも回ってみたが蛇の姿はなかった。
「もうどこか逃げてしまったんじゃないか・・・・」ということで捜索中止を許して貰ったことがある。
いま思えばなんでそういう面倒なことを見ず知らずの通りがかりの人に頼むのかほんとうに意味がわからない。けっこう身勝手な人が多いものである。


★「ちんどん屋」。大編成で演奏する「美しき天然」(天然の美)。

話が迷走しているが書こうとしたのは突如として脳内に浮かぶ音楽の話である。
サーカスの「ジンタ」もよく蘇る。
「ジンタ」という名前はジンタッタ、ジンタッタというワルツのリズム擬音から来たものだそうだ。
したがって「ジンタ」は三拍子のワルツ曲が多かった。
サーカスは子供の頃には数少ない娯楽の一つであった。
木下サーカス、矢野サーカスが来ると学校で揃って見物に行った。
サーカスの楽団が演奏する呼び込みの「ジンタ」に、誰もが心を踊らせたものだった。
あのジンタの音がいまでも記憶に残っている。
なぜか子供のころ悪さをして母親に怒られると「サーカス団に売るぞ」と言われたものだ。
子供の身売りなんかも実際にあったのだろうか?
なかでも「美しき天然」という曲がサーカスのジンタで有名だ。
子供のころから耳に馴染んだ「美しき天然」。
もともとこの曲はサーカスの曲として作られたものではない。
長崎県佐世保の九十九島などの光景を曲に描いた名曲である。

調べてみると明治時代に佐世保の海軍軍楽隊長・田中穂積氏が、作曲している。
「佐世保女学校」という当時のエリートだった女子教育の女学生のためにつくられた曲だという。
しかも日本で最初に作られたワルツ曲らしい。

たーラリララ・・・た~リラー・・・・たリラリーララー・・・・。ジンタッタ、ジンタッタ・・・・。

なんとなく哀愁に満ちたメロディーが何度聞いてもすばらしい。
「美しき天然」はサーカスだけでなく「ちんどん屋」の曲としても大ヒットした。
世間には楽しく明るい歌だけが受けるのではない。
日本人の心にはそこはかとなく侘びしさのある歌が好まれ傾向がある。
この「美しき天然」のメロディに漂う哀感がこの歌が巷の超ロングセラーズとなっている要因なのかもしれない。もともと長崎県佐世保の女学校の愛唱歌だったものがいまや全国区で堂々の日本の名曲の地位を不動のものにしているのである。




↑の、動画は、二胡がややたよりなさげにテキトーに旋律を弾いているように見えるが曲自体のよさに支えられ哀愁に満ちてどことなく放蕩的ないい味を出している。それにもまして、男性の鐘と太鼓の技が抜群にうまい。よく二胡を盛り立てて二胡をリードしている。やはり合いの手というのはとても大事なのである。
主旋律、メロディが車なら合いの手は車を走らせる道路なのである。
ドン、チチチン、ドンドン、チチチチ、ドンチチチン・・・・この切れの良い合いの手が二胡の旋律を巧みに乗せて二胡を励ましながら誘いながら先へ先へと運んでいく。

やはり「美しき天然」しみじみといい歌だと思う。
サーカスもちんどん屋もやや廃れたかもしれないが「美しき天然」の名曲は少しも色褪せてはいない。
日本人の心の琴線に触れる曲だと思う。
「お富さん」を大人から子供まで歌いまくった時代はもう二度とは戻らないだろう。
まさに戦争に負けて日本は絶命寸前、切られ与三郎のように満身創痍の時代であった。
そこから不撓不屈の精神で蘇った日本の姿はまさに切られ与三郎の流転人生、そのものであった。
「お富さん」の空前のヒットはそうした時代背景とは無縁ではないはずだ。
それはともかく、「美しき天然」はいまの小学校や中学校でもぜひ教えてほしい。
子供たちにも歌い継いでいって欲しい「日本の歌」である。


★おまけ★
 



●関連情報URL●
二木紘三のうた物語「お富さん」。
Posted at 2015/05/29 01:18:30 | コメント(2) | トラックバック(0) | 四方山話。 | 日記

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