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角鹿のブログ一覧

2015年01月25日 イイね!

山頭火。




 ときどき山頭火(さんとうか)の句を読む。
 もう山頭火とつきあって長い。
 最初の出会いは高校生のころだった。たまたま山頭火についての解説書のような伝記のような本を読んだ。上田 都史という人の書いた本で少し厚めの新書版サイズの本だった。出版社はあまり大手ではない潮文社だった。俳句といっても五七五にとらわれない自由律俳句というジャンルがあることを山頭火の句を読んではじめて知った。
  俳句に馴染みはなかったが山頭火の句は詩だった。
  句は一つひとつが「山頭火の世界」を彷徨するための入り口だった。
  山頭火は句をつくりながら全国を放浪して歩く。だが一文無しなので生活が苦しい。食事をまともにとれないこともざらだった。托鉢して少しお金が貰えると野宿しながら豆腐一丁、日本酒少しを飲み満足して月と語らう夜を過ごす。そんな山頭火を、数少ない友人や支援者や俳句仲間などが金銭援助しながら支えていく。そんな山頭火の生活を紹介しながら随所に山頭火の句を織り込んでいく。そんな本だった。
 当時はまだ高校生であったがなぜか山頭火の放浪人生に強く惹かれた。
 それから折にふれて山頭火の句を読んできた。

 山頭火に興味を持つ人は多い。
 句が好きな人もいれば山頭火の放浪人生に共鳴する人もまた多い。
 上田都史は自由律俳句の尾崎放哉、種田山頭火、荻原井泉水に私淑した人で俳人でもある。とくに、山頭火について多くの本を書いている。山頭火の人と句に上田はぞっこん惚れ込んだ。
 上田がいなければ山頭火はいまだに埋もれたままで知る人もいなかっただろうと思う。
 山頭火の句を愛でる人は昨今非常に多いが、その存在を世に知らしめた上田のことを知る人は少ない。作家は作品だけで評価されることももちろんある。しかし、その作家に心底惚れ込んだ人間がいたからこそ作家たりえた、という例も少なくない。

  
  山頭火は句を読むことに真剣だったが自分の句がその後どうなろうと無頓着だった。
  山頭火が今日有名になった陰には、上田都史だけでなく大山澄太など山頭火の熱心な研究者の存在が大きい。彼らがいなければ山頭火の句集も伝記も存在しなかった。
  山頭火という俳人も誕生しなかっただろう。
  山口県に生まれた山頭火は終生を酒と放浪で過ごし四国遍路を経て松山で没した。
  実際の山頭火は傍目にはホームレスとさして変わらない奇人変人の類だったろう。
  山頭火の句は放浪の旅路で泥酔した乞食坊主のたわごとかもしれない。だがその人生がなければ生み出せない一句一句だった。
  詩人は生涯をかけて一冊の詩集を書いただけかもしれない。
  だが数行の詩を生む、ただそれだけのために詩人の生涯が必要になるのだ。
  山頭火に惚れ込んだ上田にしても大山にしても山頭火とは対極の誠実で真面目な人たちだった。おそらく人は自分にないものを持っている人に惹かれるのかもしれない。
  作家に限らずよき理解者を得ることの難しさと大切さを山頭火を読むたびにしみじみと思う。




 
 
 
  いくつか山頭火の句を紹介したい。




何を求めて風の中ゆく

空へ若竹のなやみなし

酔うてこうろぎと寝ていたよ

生死の中の雪ふりしきる

まっすぐな道でさみしい

どうしようもないわたしが歩いている

捨てきれない荷物の重さまへうしろ

こんなにうまい水があふれている

咳がやまない背中をたたく手がない

窓あけて窓いっぱいの春

しみじみ食べる飯ばかりの飯である

月夜、あるだけの米をとぐ

うれしいこともかなしいことも草しげる

笠にとんぼをとまらせてあるく

だまって今日の草鞋をはく

ほとほととして木の葉なる

すわれば風がある秋の雑草

年とれば故郷こひしいつくつくぼうし

風の中声はりあげて南無観世音

風ふいて一文もない

人のなさけが身にしみる火鉢をなでる

分け入っても 分け入っても 青い山

うしろ姿の しぐれて行くか

ほろりとぬけた歯ではある

まっすぐな道でさみしい

秋風の石を拾う


●関連情報URL
 「山頭火の人生」
  写真も豊富で解説も詳しいです。
このサイトには作家、詩人、歌人また世界の有名人の伝記が紹介されています。
 山頭火の先輩格の自由律俳人である尾崎放哉の伝記もあります。 


★音楽★
Shakuhachi master Riley Lee performs San'an
尺八古典曲 「産安」
演奏しているのは外国人ですばらしく上手です。


 
 
 山頭火の句集や随筆集など入手できる本は多い。
 そのなかで、手軽に読むなら「ちくま文庫」の「山頭火句集」がよいかもしれない。
Posted at 2015/01/25 21:46:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | 身辺雑記 | 日記
2015年01月25日 イイね!

三島由紀夫とコクヨ。

 奈良もちいどのセンター街を抜けるあたりにレトロな文房具店がある。
「コクヨ」という看板がいかにも昭和風だ。
「コクヨ」と言えば原稿用紙を思う。
  もちろん、いまもあるはずだ。
  だが文章を書くといえば原稿用紙が当たり前の100%だった時代がもう過去のものになった。
  これはとんでもない大事件なのだが誰も何もいわない。
みな鈍感なのか超越しているのか何のか?

自分のことをいえばワープロが出始めたころから買い求めて使った。
いまではとても信じては貰えないだろうがシャープの「書院」というワープロを買った。
これは、液晶一行で50字ほど書ける画面だった。
  液晶の表示枠がたった一行だった。
ついに発売、50万円のワープロ、という広告が日経新聞の一ページ全面広告に載った。
それでも本当に、へえ、すごいなと思ったのだ。



大塚商会に電話したらすぐに営業マンが飛んできて契約した。
5年間のリースでリース料を入れて60万円だった。
品物が届きさっそく使ってみた。
これが実は大失敗だった。このシャープの書院第一号機はペンタッチ式で実に使いにくかった。
一行の文字を打つのにえらく時間がかかった。
一時間ほどやって、「こりゃだめだ。使い物にならない」とわかった。
原稿用紙に鉛筆で文字を書いたほうがはるかに早かった。
しばらくしたら東芝がやってくれました。
初期ワープロの名機「RUPO」の第一号を発売したのだ。
これはペンタッチ式ではなくキーボード方式だった。
最初は5行ほどの文章が見える枠がついていた。青い文字だった。すぐに飛びついて買い込んだ。RUPOは新モデルを矢継ぎ早に開発した。

そのころ空前のワープロブームがあり、シャープの書院、東芝のRUPO、富士通のOASYS、NECの文豪と出揃ってシェア争いが激烈になった。
私はシャープ書院を1号機で諦め、東芝RUPOを次々に買い替えていった。記憶では3台買い替えたと思う。

しかし実際にはワープロ戦争の勝者は富士通OASYSだった。とくにキーボードの親指シフトは一世を風靡しもてはやされたが、なぜかそれほど普及はしなかった。
機能はすぐれていたが、たぶん使いにくかったのだろう。

東芝RUPOを諦めたのも早かった。
というかワープロそのものの限界を知ったのである。
ワープロはプリンターも付いている一体成型でソフトだけを買い換えることができなかった。
新しい機能のついたワープロが出れば機械ごとそっくり買い換えるしかなかった。
その出費はばかにならない。

また、当時は各社個別のシステムなので、たとえば東芝RUPOで作成した文章をフロッピーディスクに保存した場合、それを、富士通のOASYSで読み込むことができなかった。各社ごとに別々で互換性が皆無だった。これはワープロユーザー共通の悩みだった。
自分の使っているワープロと出版社や新聞社のワープロが違うばあいフロッピーでそのまま原稿を渡すことはできなかった。仕事の多い相手先に合わせたワープロを買って使うしかなかった。ただもうひとつの方法があった。それは、ワープロ互換ソフトというものが販売されていた。
それを買って相手の使うワープロに変換作業をしてからフロッピーに保存して渡すこともできた。
だがこれは変化にかなりの時間が喰う上に変換ソフトが高価だった。
こういう初期ワープロ戦国時代を経て、何年間か後にワープロはダメだと諦めてパソコンに乗り換えた。
そのころパソコンはNECのPCー9801シリーズが市場を圧倒していた。
プリンターはドットプリンターでキーコキーコと音を立てて両端に穴の空いた専用紙に印刷をしてくれた。
最初、パソコン本体とプリンター、マウス、紙などの付属品全部そろえて100万円ほどかかった。いまから見れば低機能高価格で誰も買わないだろうが当時はそれが最先端であり価格もそれくらいは普通だった。その意味ではワープロから始まって多少は日本の情報機器の開発にユーザーとして貢献?したかもしれない。
  PCー9801を5年リースで払ったのだが払い終えるより早く、富士通に乗り換えた。
そのころのパソコンの進化はめざましく富士通のFMVシリーズの発売は衝撃的だった。
本体価格40万円くらいしたが機能はPC98シリーズの比ではなかった。
以後、富士通を使い続いけた。
ウインドウズの出る何年も前のころでありもっぱら操作はMS-DOSを使っていた。
このMS-DOSが難しくパソコンを使うよりもMS-DOSの勉強にかかる時間と専門解説書を買う費用が馬鹿にならなかった。秋葉原のパソコンショップは店の半分ほどがパソコンソフトの解説書やMS-DOS関連の解説書で埋まっていた。
そのころ、「MS-DOSってなんどすか?」という解説書を書った。わかりやすく書いてあり非常に参考になったがさすがにそんなタイトルが恥ずかしくて本にカバーをして電車の中で熟読した覚えがある。
やがてマイクロソフト社からウインドウズが発売され「MS-DOS」を知らなくてもパソコンを使える時代になった。
私が原稿用紙からワープロ、パソコンへとシフトしていった流れをざっとたどってみた。細部には思い込みや思い違いもあるかもしれないが、だいたいの流れはこうしたものだ。

ワープロやパソコンのほうが費用は高いようだがそうでもない。
原稿用紙を使っていたころもコストはかかった。原稿用紙そのものにまずこだわった。

銀座四丁目の鳩居堂の原稿用紙を買い込んだり、神楽坂の相馬屋源四郎商店の字を書く枠がやや扁平な独特の原稿用紙を好んで買い込んだりした。最終的には、自分でデザインした個人用の原稿用紙を知り合いの印刷屋に数千枚印刷してもらった。
  それも値段が張ったが万年筆にも凝った。
  日本製のパイロットやセーラーも使ったが、やはりプロ仕様はパーカー、モンブラン、ウオーターマンだということになる。
  その先入観で何本もの輸入ものが机上に並んだ。
  最低でも一本3万円から5万円はくだらない。
  アメ横に通っては原稿料を万年筆につぎ込んだ。
私はペン先の柔らかいモンブランが好きだった。
インクもモンブランが好みだった。
あるとき原稿を書きすぎてペン先が熱を持ったのか、字を書こうとした途端にくるっとペン先が丸まって反転してしまったことがあった。このときには、一回転したペン先を眺めながら唖然とした。おもむろに、反転したペン先をつまんでゆっくりと戻すと折れることはなく元通りになって事なきを得た。
ただ過熱したペン先を休ませるために、その夜は原稿を書くのをやめたことを記憶している。
 ペン先が原稿用紙との摩擦熱で反転して捻れたのを目撃したのはそのときだけである。
 元に戻ったペン先はその後も問題なく使い続けることができた。さすがにモンブランであった。  

「コクヨ」の話を書こうと思ったのだが横道にそれ続けた。
三島由紀夫は意外に思われるかもしれないが原稿用紙は「コクヨ」を使っていた。どこでも売っている決して高級品でもないコクヨを三島はなぜ使ったのか。
その理由を三島はこう言っていた。
「もし特定の原稿用紙を使っていれば旅行先で原稿を書くときに原稿用紙がなくて書けないことがある。コクヨなら全国どこでも売っている」
三島は非常に合理的な考えの持ち主だった。
最近はなにかと「こだわり」を持ち上げて見せる風潮があるがおかしいことだ。
こだわるというのは見方を変えれば融通の効かない唐変木のすることでもある。状況に応じて柔軟に対応できる変化対応能力、適応能力こそ大事なのだ。
これでなければできない、だめだ、というのではいざというときに対応不能になるのではないか。
三島由紀夫は「コクヨ」を愛用していた。
それは、彼が物書きとしても自分の生き方としても「常在戦場」を旨としていたのではないかと想像される。
にもかかわらず、人はなかなか、 あるがまま、おのずから、という自然体で生きることが難しい。
まさに愚かさそのものである。
「コクヨ」の看板を見ると、三島由紀夫のエピソードを思い出す。
三島由紀夫がこだわったのは、どうでもいい原稿用紙なんかじゃなかったんだ。
大事なのは書いている内容であり紙や筆記用具といった道具が大事なのではない。
目的と手段を間違えてはいけない。
つまらないものにこだわることの愚を三島に教えられる思いである。
Posted at 2015/01/25 01:06:16 | コメント(1) | トラックバック(0) | 身辺雑記 | 日記
2015年01月23日 イイね!

吉野川・大和上市付近。

吉野町大和上市あたりを吉野川沿いに歩いてみた。
雨上がりの午後で空にはまだ黒い雲が垂れこめていた。
視界全体が寒気に支配されており、気温も低く吹き抜ける風は冷たい。

川辺の斜面に巨木が何本か無表情に立っている。いったい樹齢はどのくらいなのか。
樹の幹は太いところで直径一メートルほどもある。この巨木は枯れてはおらず春になると芽吹いて枝には新緑の若葉をつける。いまは、脳の神経細胞のように無数の枝ばかりが冬空に広がり寒風に吹きさらされて震えている。

川の水量は少ない。
大雨のときなど、ときには上流の大滝ダムの水を放流する。そんなときには水量は一気に増えてほとんど橋桁を埋めて道路冠水まで数メートルにまで迫る。茶色い濁流が音立てて流れ下る様は眠れる大河が目を覚まし怒りまくっているようで誰にもれ手がつけられない。
いまは歩いてでも渡れそうなほど水も枯れて砂利の多い河川敷が広がっている。

どこから来たのか渡り鳥が川の中で越冬をしている。子作りをしたのか幼鳥を何匹もつれた親鳥が流に逆らって泳いでいる。餌を探すにも一苦労であろう。川の中の岩場や草陰で強い川風を避けながらじっとしている鳥の群れもいる。それでも川も土も凍らないぶんだけ日本は過ごしやすい冬の環境なのかもしれない。

河川敷というか川の土手斜面というか・・・・そんなところに車が一列に並んでいる。
たぶんそこは駐車場なのだ。吉野町には平坦地が少ない。駐車場をつくるに十分なスペースがないため道路と川の間の狭い斜面を切り開いて駐車場にしているのだろうと思う。これでは突然の増水にあえば車は水にさらわれて流てしまう。まことに危険な駐車場である。地元の人の話では車が流されるのを見たことがあるという。

吉野川の土手を通る人はあまりいない。
ときどき犬を散歩させる人が歩いているのを見かけるくらいだ。
土手道が桜橋の下をくぐる部分にボックスカルバートがある。
ここを通るときはいつも下を見ないではいられない。
セメントの道路に犬の足跡が点々とついているのだ。それもかなり蛇行している。たぶんまだセメントが生乾きのときにどこかの犬が迷いこんだのだろう。犬にしても変な感触にとまどって斜行してしまったのではないだろうか。その犬の焦った気持ちがそのまま足跡の軌跡となって残ってしまった。よく見ると犬の足型といおうか手形といおうか見事に模様となって残されている。

そこを抜けるとお地蔵さんの祠がある。
吉野町にはいくつもお地蔵さんが祀られている。
いつ見ても花が備えられ祠も綺麗に掃除されている。
吉野町の人は花が好きで家の前にはたいてい花の鉢が置かれている。
  鄙びた狭い家並みの間を歩くとそこかしこで花と出会う。 

土手道の突き当りに吉野川漁業組合がある。
  ここでは季節になると鮎が養殖されている。
  いまは門扉が閉められているが、その入口に大きな鮎の絵が描かれている。
今日改めてその前まで行ってみた。
あまりにも立派な鮎が跳ねていた。
「うーん、こりゃあ鮎というよりでっかい鮭だなあ」
心の中で一言つぶやいて散歩終了とした。








★何本も巨木の枝が天空に広がる。川べりの路は散歩道でもあり通学路でもある。







★吉野川から対岸の大和上市の集落をのぞむ。川沿いの道は新しい道であり旧道は集落の中を通っている。







★吉野川の土手の斜面を利用して車を止めている。川べりの駐車場である。









★渡り鳥の親子がが水面に憩う。水は冷たいがやがて水温む頃にはひな鳥も成長して飛び去っていく。






★犬が足型をつけたセメントの道。桜橋の下のボックスカルバート。



★お地蔵さんの祠。千羽鶴が吊り下げられていた。








★吉野川の川岸には杉や桧など木材の市場がある。貯木場には山から伐り出された材木が並ぶ。




★巨大な鮎の絵。

Posted at 2015/01/23 20:56:35 | コメント(2) | トラックバック(0) | 身辺雑記 | 旅行/地域
2015年01月22日 イイね!

民宿「ますもと」。


 
 夏なら川遊びや釣り人などで土日ともなれば大賑わいの吉野川。
 鮎をねらって夏場は真っ黒な川鵜と白鷺の姿を川辺に見ない日はない。
 だが冬の吉野川は訪れる人もなく寂しい。
 ときどき一羽の青鷺が水が枯れた浅瀬の脇にぢっと立っている姿をみかけるくらいだ。

 
 吉野川の上流にある高見川は大きな支流のひとつだ。
 二年前の夏、高見川沿いにある民宿「ますもと」という店に行ったことがある。
 店の目の前が高見川だ。
 「ほんまにきれいな川です。ここの鮎は最高ですよ」
  いま川から上って濡れたままの着衣を乾かしながら煙草を吸っていた釣り人の話だ。
  
  釣り師が高見川をめざす一番の理由は、ここがいまも極め付きの清流であるからなのだろう。
  関西方面各地からも鮎釣りに来る釣り人が多い。
  ここは知る人ぞ知る鮎釣りのメッカのようなところだと思われる。
  鮎は一見どの鮎もおなじに見えるだろうがそうではない。
  川が違えば鮎の姿形、香りすべて違う。
  その微妙な違いがわかるのが川を熟知した釣り師なのである。

  この高見川で釣れた鮎を使った料理が店の看板メニューである。
  鮎の釜飯を食べた。
  鮎が一匹入っており、炊きあがると鮎の身をほぐし生卵とご飯と混ぜて少し蒸らしてから食べる。  なんとも贅沢な釜飯で、高見川の天然鮎をまるごと味わえる。鮎の香りや風味も抜群だった。



★鮎の釜飯定食。↑。店の目の前を流れる高見川で釣れた天然鮎を使っている。


  
 
 吉野町から伊勢へ行く道は古くから伊勢街道と呼ばれており、吉野町の道の脇には道しるべに「いせ」と彫った道標の石柱がよく立っている。
 その反対に伊勢方面から吉野を抜けて高野山へ行くにも伊勢街道を通る。
 いわば吉野町は高野山と伊勢の往還道の中心に位置するといえるだろう。 
 この高見川沿いの道も昔から人々が往来した伊勢街道の主要な脇道のひとつである。
 時代は変わっても休日にはひろく京阪神からのバイクのツーリングやドライブ、サイクリングで訪れる人の姿をよく見かける。

 
 吉野は夏場もいいが道がけっこう混雑する。
 人の少ない冬場に温泉もかねて吉野町から東吉野村に遊びにくるのもいいかもしれない。
 冬枯れの吉野路もまた趣のあるものである。


  
 二年前の夏に、「ますもと」で撮影した写真を紹介します。
 犬と猫の写真です。写真をクリックするとかなり大きくなります。





 
 ★この店の看板犬?器用にブロック塀に登っている。猫的な犬だなあ。
 


 
 ★地面よりも少しでも高い方が涼しいのだろうか?狛犬のようだ。



 
 ★さすがに暑いのでぐったりしている。向こうにいる口を開けた茶色の犬の顔がおもしろい。


 
 ★涼しい店の中では真っ白い猫が気楽にしている。やや肥満気味かな。



 
 ★この猫は人に慣れていて勝手にじゃれてくる。かまってやってもじっとしている。


 
 ★メニューはさすがに「鮎」づくしだ。左下のチラシに「鮎解禁6月8日」と書いてある。


●関連情報●
 「東吉野村観光協会」
  この近辺のさまざまな観光情報が地図入りで紹介されています。
 
Posted at 2015/01/22 23:10:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | 温泉・グルメ・穴場。 | 旅行/地域
2015年01月21日 イイね!

たかすみ温泉。

  寒いから温泉に行ってみないか。
  行くか。

で、友人と行ってきました。
吉野の山奥と言ってもいいでしょうね。
吉野郡東吉野村平野にある「たかすみの里」の「たかすみ温泉」です。
三重県との県境にある東吉野村からは、「高見山」が見えます。
今日は、雪で白かったですね。


「たかすみ温泉」につくと、 駐車場にマイクロバスが止まっていました。
これは、大阪からの高見山登山のツアー観光のお客さんを乗せてきたバスです。
東吉野村には、年中通して高見山登山の団体ツアーが多く訪れます。



★駐車場風景。




★男女の入り口。
今日の女性風呂は檜風呂です。男性は槇風呂。ときどき、男女の風呂が入れ替わります。





  ★露天風呂も男女にあります。 冬でもあり寒空の下なので殺風景です。それでも露天風呂ならではの開放感がありますね。



★入浴料は大人500円でした。泉質は、無色透明ですっきりしています。
 



 ★隣に、料理屋さんがあります。その、メニューが貼ってありました。




 ★「たかすみ温泉」の外観。入り口あたり。

 たかすに温泉には、「槇風呂」があります。
槇風呂、の「槇」といえば、「高野槇」を連想します。

高野槇は、現在、日本のみに自生する木であり、秋篠宮文仁親王と同妃紀子の第一男子で、皇位継承順位で第三位の「悠仁親王殿下」のお印です。
もし、将来、悠仁親王殿下が奈良県に来られる機会があれば、ぜひ、「たかすみ温泉」の槇風呂に立ち寄られて、汗を流していただきたいものと、思います。




 
●関連情報URLで「たかすみ温泉」はじめ東吉野村の案内情報を載せておきました。四季を通した東吉野村の見どころ、交通地図などもわかりやすく表示されているので便利です。↓。
Posted at 2015/01/21 21:04:50 | コメント(2) | トラックバック(0) | 温泉・グルメ・穴場。 | 日記

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「外国人の「外国免許切替(外免切替)」制度をめぐり短期滞在者がホテルの住所で日本の免許を取得することについて、ホテル滞在による「支障は把握していない」とする初の答弁書を閣議決定した。それで良いということだ。
日本保守党の竹上裕子衆院議員の質問主意書に25日付で答えた。無責任だろ。」
何シテル?   05/18 14:14
 趣味は囲碁、将棋、麻雀、釣り、旅行、俳句、木工、漆絵、尺八など。 奈良、京都、大阪、和歌山の神社仏閣の参拝。多すぎて回りきれません。  奈良では東大寺の大...
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