奈良もちいどのセンター街を抜けるあたりにレトロな文房具店がある。
「コクヨ」という看板がいかにも昭和風だ。
「コクヨ」と言えば原稿用紙を思う。
もちろん、いまもあるはずだ。
だが文章を書くといえば原稿用紙が当たり前の100%だった時代がもう過去のものになった。
これはとんでもない大事件なのだが誰も何もいわない。
みな鈍感なのか超越しているのか何のか?
自分のことをいえばワープロが出始めたころから買い求めて使った。
いまではとても信じては貰えないだろうがシャープの「書院」というワープロを買った。
これは、液晶一行で50字ほど書ける画面だった。
液晶の表示枠がたった一行だった。
ついに発売、50万円のワープロ、という広告が日経新聞の一ページ全面広告に載った。
それでも本当に、へえ、すごいなと思ったのだ。
大塚商会に電話したらすぐに営業マンが飛んできて契約した。
5年間のリースでリース料を入れて60万円だった。
品物が届きさっそく使ってみた。
これが実は大失敗だった。このシャープの書院第一号機はペンタッチ式で実に使いにくかった。
一行の文字を打つのにえらく時間がかかった。
一時間ほどやって、「こりゃだめだ。使い物にならない」とわかった。
原稿用紙に鉛筆で文字を書いたほうがはるかに早かった。
しばらくしたら東芝がやってくれました。
初期ワープロの名機「RUPO」の第一号を発売したのだ。
これはペンタッチ式ではなくキーボード方式だった。
最初は5行ほどの文章が見える枠がついていた。青い文字だった。すぐに飛びついて買い込んだ。RUPOは新モデルを矢継ぎ早に開発した。
そのころ空前のワープロブームがあり、シャープの書院、東芝のRUPO、富士通のOASYS、NECの文豪と出揃ってシェア争いが激烈になった。
私はシャープ書院を1号機で諦め、東芝RUPOを次々に買い替えていった。記憶では3台買い替えたと思う。
しかし実際にはワープロ戦争の勝者は富士通OASYSだった。とくにキーボードの親指シフトは一世を風靡しもてはやされたが、なぜかそれほど普及はしなかった。
機能はすぐれていたが、たぶん使いにくかったのだろう。
東芝RUPOを諦めたのも早かった。
というかワープロそのものの限界を知ったのである。
ワープロはプリンターも付いている一体成型でソフトだけを買い換えることができなかった。
新しい機能のついたワープロが出れば機械ごとそっくり買い換えるしかなかった。
その出費はばかにならない。
また、当時は各社個別のシステムなので、たとえば東芝RUPOで作成した文章をフロッピーディスクに保存した場合、それを、富士通のOASYSで読み込むことができなかった。各社ごとに別々で互換性が皆無だった。これはワープロユーザー共通の悩みだった。
自分の使っているワープロと出版社や新聞社のワープロが違うばあいフロッピーでそのまま原稿を渡すことはできなかった。仕事の多い相手先に合わせたワープロを買って使うしかなかった。ただもうひとつの方法があった。それは、ワープロ互換ソフトというものが販売されていた。
それを買って相手の使うワープロに変換作業をしてからフロッピーに保存して渡すこともできた。
だがこれは変化にかなりの時間が喰う上に変換ソフトが高価だった。
こういう初期ワープロ戦国時代を経て、何年間か後にワープロはダメだと諦めてパソコンに乗り換えた。
そのころパソコンはNECのPCー9801シリーズが市場を圧倒していた。
プリンターはドットプリンターでキーコキーコと音を立てて両端に穴の空いた専用紙に印刷をしてくれた。
最初、パソコン本体とプリンター、マウス、紙などの付属品全部そろえて100万円ほどかかった。いまから見れば低機能高価格で誰も買わないだろうが当時はそれが最先端であり価格もそれくらいは普通だった。その意味ではワープロから始まって多少は日本の情報機器の開発にユーザーとして貢献?したかもしれない。
PCー9801を5年リースで払ったのだが払い終えるより早く、富士通に乗り換えた。
そのころのパソコンの進化はめざましく富士通のFMVシリーズの発売は衝撃的だった。
本体価格40万円くらいしたが機能はPC98シリーズの比ではなかった。
以後、富士通を使い続いけた。
ウインドウズの出る何年も前のころでありもっぱら操作はMS-DOSを使っていた。
このMS-DOSが難しくパソコンを使うよりもMS-DOSの勉強にかかる時間と専門解説書を買う費用が馬鹿にならなかった。秋葉原のパソコンショップは店の半分ほどがパソコンソフトの解説書やMS-DOS関連の解説書で埋まっていた。
そのころ、「MS-DOSってなんどすか?」という解説書を書った。わかりやすく書いてあり非常に参考になったがさすがにそんなタイトルが恥ずかしくて本にカバーをして電車の中で熟読した覚えがある。
やがてマイクロソフト社からウインドウズが発売され「MS-DOS」を知らなくてもパソコンを使える時代になった。
私が原稿用紙からワープロ、パソコンへとシフトしていった流れをざっとたどってみた。細部には思い込みや思い違いもあるかもしれないが、だいたいの流れはこうしたものだ。
ワープロやパソコンのほうが費用は高いようだがそうでもない。
原稿用紙を使っていたころもコストはかかった。原稿用紙そのものにまずこだわった。
銀座四丁目の鳩居堂の原稿用紙を買い込んだり、神楽坂の相馬屋源四郎商店の字を書く枠がやや扁平な独特の原稿用紙を好んで買い込んだりした。最終的には、自分でデザインした個人用の原稿用紙を知り合いの印刷屋に数千枚印刷してもらった。
それも値段が張ったが万年筆にも凝った。
日本製のパイロットやセーラーも使ったが、やはりプロ仕様はパーカー、モンブラン、ウオーターマンだということになる。
その先入観で何本もの輸入ものが机上に並んだ。
最低でも一本3万円から5万円はくだらない。
アメ横に通っては原稿料を万年筆につぎ込んだ。
私はペン先の柔らかいモンブランが好きだった。
インクもモンブランが好みだった。
あるとき原稿を書きすぎてペン先が熱を持ったのか、字を書こうとした途端にくるっとペン先が丸まって反転してしまったことがあった。このときには、一回転したペン先を眺めながら唖然とした。おもむろに、反転したペン先をつまんでゆっくりと戻すと折れることはなく元通りになって事なきを得た。
ただ過熱したペン先を休ませるために、その夜は原稿を書くのをやめたことを記憶している。
ペン先が原稿用紙との摩擦熱で反転して捻れたのを目撃したのはそのときだけである。
元に戻ったペン先はその後も問題なく使い続けることができた。さすがにモンブランであった。
「コクヨ」の話を書こうと思ったのだが横道にそれ続けた。
三島由紀夫は意外に思われるかもしれないが原稿用紙は「コクヨ」を使っていた。どこでも売っている決して高級品でもないコクヨを三島はなぜ使ったのか。
その理由を三島はこう言っていた。
「もし特定の原稿用紙を使っていれば旅行先で原稿を書くときに原稿用紙がなくて書けないことがある。コクヨなら全国どこでも売っている」
三島は非常に合理的な考えの持ち主だった。
最近はなにかと「こだわり」を持ち上げて見せる風潮があるがおかしいことだ。
こだわるというのは見方を変えれば融通の効かない唐変木のすることでもある。状況に応じて柔軟に対応できる変化対応能力、適応能力こそ大事なのだ。
これでなければできない、だめだ、というのではいざというときに対応不能になるのではないか。
三島由紀夫は「コクヨ」を愛用していた。
それは、彼が物書きとしても自分の生き方としても「常在戦場」を旨としていたのではないかと想像される。
にもかかわらず、人はなかなか、 あるがまま、おのずから、という自然体で生きることが難しい。
まさに愚かさそのものである。
「コクヨ」の看板を見ると、三島由紀夫のエピソードを思い出す。
三島由紀夫がこだわったのは、どうでもいい原稿用紙なんかじゃなかったんだ。
大事なのは書いている内容であり紙や筆記用具といった道具が大事なのではない。
目的と手段を間違えてはいけない。
つまらないものにこだわることの愚を三島に教えられる思いである。