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2015年01月05日 イイね!

釣瓶鮓屋と、「いがみの権太」。

  「義経千本桜 鮓屋」は、人形浄瑠璃、また、歌舞伎の演目として、人気の高い作品である。昨年、この芝居の舞台となった、奈良県吉野郡下市町にある、「つるべすし弥助」という古い料亭に、立ち寄った。そこの、若主人と、玄関先で立ち話をしているうちに、この、料亭が、あの「義経千本桜」の「鮓屋」の段の、舞台となった店であることがわかった。そこから、話が弾んで、料亭内を見学させてもらい、最後には、店から二、三キロ離れた「いがみの権太」の墓まで、見学したのである。

谷崎潤一郎が、吉野町を訪れたときの探訪をもとに書いた小説「吉野葛」にも、この、店の話が、出てくる。
確かにあったはずの本が、室内行方不明になり、仕方なく、先月、奈良市内の古書店で買った文庫本が、手元にある。これを、パラっとめくってみると、谷崎潤一郎にとって、吉野は、幼い頃から来ていた想い出深い土地のようだ。それだけに、吉野川に沿った下市、上市の町の様子、また、義経千本桜についての知識も詳しかったらしく、次のようなことが書かれている。

「君、妹背山の次には義経千本桜があるんだよ」
と、津村がふとそんなことをいった。
「千本桜なら下市だろう。彼処(あそこ)の釣瓶鮨屋というのは聞いているが、・・・・・」
 維盛が鮨屋の養子になって隠れていたという浄瑠璃のねなし事が元になって、下市の町にその子孫と称する者が住んでいるのを、私は訪ねたことはないが、噂には聞いていた。何でもその屋では、いがみの権太こそいないけれど、いまだに娘の名前をお里と付けて、釣瓶鮨を売っているという話がある。」
 岩波文庫の「吉野葛・蘆刈」には、当時の店の写真が二枚、収載されており、玄関の看板と暖簾が写されている。
 
 ちなみに、歌舞伎の義経千本桜「釣瓶鮓屋」とは、次のような、話である。
 
 大和国(今の奈良県)吉野山の山麓、下市村にある「釣瓶鮓屋」。ここの、下男の弥助と、店の娘のお里、とは、まもなく祝言をあげようかという深い仲である。だが、この弥助は、いまでいうイケメンの優男。何を隠そう、この弥助、平家の落人平維盛なのだが、以前、平家に恩義のある釣瓶鮓屋の主人、弥左衛門が、密かにかくまい、世間の眼をあざむくために、お里との仲をつくろい、下男の弥助として、使っているのだ。それを知っているのはこの屋の主、ただ一人。
 この、下市村から少し離れた河原に近い茶屋。ここに、釣瓶鮓屋の長男で、勘当された、いがみの権太、がいる。そこに、やってきたのが、平惟盛を探す妻と子、家来の主馬小金吾の3人連れ。
 これを見て、親に勘当されるほどの悪党の、いがみの権太は、小金吾に難癖をつけて、20両を巻き上げる。そこに、平家残党狩りの源氏方の追手がやってきた。小金吾は、主君の妻と息子を逃し、自分は、追手に討たれて果てる。
 この現場へやってきたのが、釣瓶鮓屋の主、弥右衛門。小金吾の首を、持ち去る。
  一方、下市村の、釣瓶鮓屋では、「いがみの権太」がやってきた。親父の留守をいいことに、お袋を騙して、大金をせしめるが、そこへ親父の帰ってくる気配を察し、金を釣瓶鮓の桶にかくして、店の奥へと身を潜める。
 弥右衛門は、家に戻ると、釣瓶鮓の桶に小金吾の首を入れて隠す。
 そして、平維盛の弥助に、源氏の捕手が迫ってきたことを教え、隠居処へと、逃がれなさいと忠告。お里は、弥助との祝言を楽しみにしているのだが、弥助が煮え切らない。 
  それやこれやしているところへ、偶然、維盛の妻と子供が釣瓶鮓屋へ訪ねてくる。これで、ようやくすべての事情を悟ったお里は、維盛と妻子の三人を、隠居処へと案内し、隠れさせる。
  この様子を家の奥で聞いていた、「いがみの権太」は、これ幸い、奉行所へ密告して褒美を貰うのだと、金を隠した鮓桶を引っさげて出て行く。
  やがて、源氏の追手が、釣瓶鮓屋へ現れる。
  弥右衛門は、小金吾の首の入ったはずの鮨桶を差し出し、「これが、維盛の首だ」と言う。そこへ、維盛の妻子を縛ったまま、「いがみの権太」が入ってくる。そして、鮓桶を出して、「これが、討ち取った維盛の首だ」と、言う。首を見て、追手の者は、頼朝の陣羽織を置いて去る。
  弥右衛門は、「いがみの権太」が、維盛を殺害したと思い、短刀で「いがみの権太」を突き刺す。
  「実は、あの鮓桶は、おやじが、小金吾の首を入れた鮓桶だ。縛ってきたのは、俺のカカアと倅だ・・・」と、告白。維盛と妻子は、無事であり、鮓屋へ現れる。頼朝の陣羽織を裂くと、数珠と袈裟が出てくる。
  かつて、維盛の父重盛は昔頼朝の命を助けてやったことがある。頼朝は、それを忘れず、維盛を出家させて、命を助けようと考えていたのだ。
  そんなこととは、露知らず、「いがみの権太」は息絶え、弥右衛門は悲嘆にくれ、維盛は出家の心を決める。
  
  youtubeに、「釣瓶鮓屋」の歌舞伎動画が、①から⑥まで、六分割で、アップされていた。下の関連情報に、URLを入れてあるので、ぜひ、その一端でも、ご覧になれば、「いがみの権太」の面白みがわかると、思います。
    
  これは、お芝居なので、実際に、下市町の「釣瓶鮓屋」を舞台にして、こういう実話があたっとは、信じがたい。もちろん、創作であるが、しかし、実際に、「釣瓶鮓屋」のモデルとなった料亭は、いまもある店であり、その当時も、もちろん、あったのである。
  そこで、想像ではあるが、この芝居の作者が、実際に、下市村へ来たことがあり、この店の様子や、人物像などをもとに、作り上げたストーリーだろうと、思うのである。
  しかも、「いがみの権太」の墓も、実際にあり、そこらに、芝居にも出てくる茶店があったのは、たしかだろうと、思われた。これは、実際に、「いがみの権太」の墓を探し当て、そのあたりを、歩きまわってみた実感である。
  昔は、ここに、「椿の渡し」という、吉野川の渡し場があった。渡船場の土手には、たいがい、茶店がつきもので、そういう連想から、ここらに、茶店があっても、おかしくはないと、連想したのである。
  
  吉野山、大峰山への登山道として、吉野川には、下流から「柳の渡し」「椿の渡し」「桜の渡し」の、三渡津があった。ここで、吉野川を渡るのは、もちろん、川を渡らないと、山がある対岸へ行けないからではあるが、それだけではない。山岳修行へ行くからには、吉野川へ入り、ここで、身を清めて、それから山岳聖地へと、向かっていくという、身の汚れを落とす儀式の意味合いがあったのである。
  これは、富士山へ登山する富士講でも同じである。
  江戸から甲州街道を通り、大月あたりで、左折し富士川に沿って登っていくのだが、ここで、いったん富士川で身を清めるのが習わしであった。
  この芝居に出てくる、釣瓶鮓とは、「鮎の熟鮓(なれずし)」のことで、昔は、この店の名物であったが、いまは、もう作っていないということだ。この、下市村から、山へ入ると、その奥にある大峯山(山上ヶ岳)は山伏信仰の聖地である。宗教上の理由から今なお女人禁制を守る山だ。
  江戸時代には、奈良、大阪などから、吉野を目指してきた修験者や山伏信仰の講中の団体などは、下市で宿泊し、次は、一日がかりで、大峰山直下の、天川・洞川集落まで、上がっていく。そこから、大峰山での修業に入っていくのだ。
  下市は、この、大峰信仰の登山道の最後の宿場町であり、信仰登山で、繁栄した歴史を持っている。同時に、かつては、下市には、遊郭があり、これから精進に入る男衆、あるいは、精進開けの下山泊客を相手にした色街として、賑わっていた。
  そうした、遊郭が、何軒も軒を連ねていたのだが、何度も火災にあって、いまでは、そうした家々も残ってはいない。大峰山の登山の起点となる、天川村洞川温泉郷にも、遊郭があった。
  洞川温泉郷には、いまも、かつての遊郭のあった風情が残されている。
Posted at 2015/01/05 20:16:54 | コメント(0) | トラックバック(0) | 身辺雑記 | 日記
2015年01月04日 イイね!

山里の雪景色。

 年末から、元旦のかけて、粉雪が吹雪いては止み、吹雪いては止むの、繰り返しで、山も川も、白と灰色の濃淡に染まり、墨絵の世界のような薄化粧だった。
 なんでもない景色でも、粉雪が吹雪くと、別世界のような趣のある光景に、一変してしまう。
 雪景色は、日本の自然に、よく似合う。
 「雪国」は、川端康成の名作と言われている小説だが、あの書き出しは、ことに、有名である。たしかに、冒頭の一節は、印象に残る。

 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が 止まった。」
  この、「国境」を、「くにざかい」と読むか、「こっきょう」と読むかで、議論がある。
  
  
◆山里の雪景色 その1  
  
 この小説は、越後湯沢温泉の温泉旅館で芸者をしていた駒子と、主人公の出合と、思い出を綴ったもの。冒頭部分は、列車に乗って、上越国境の清水トンネルを抜けたときの情景を描いたものだ。この、清水トンネルが、上野国(群馬県)と越後国(新潟県)の境という意味であるので、「国境」)(くにざかい)と、読むべきだという意見がある。
 そうではなく、一般的に、越後国境は、「えちごこっきょう」と、言うから、わざわざ、「くにざかい」と言うのは、おかしいと言う、意見もある。
 作者の川端康成自身が、はっきりと、ルビでも、つけておけば、はっきりしたんだろうが、いまだに、この、読み方論争には、決着がついていないようだ。
 それよりも、最初の一行の、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」には、主語がない。もし、主語を「私」として、普通に書けば、「夜汽車に乗った私が国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」となるだろう。あるいは、「夜汽車」が、主語なら、「私の乗った夜汽車が、国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」となるだろう。
 それでは、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」は、主語の欠落した不完全な文章だろうか?
 そうではない。日本語は、この文章のように、主語がなくても、立派な文章として、文法的に成立する。
 川端康成も、文法論として、自覺していたか、どうかは、別として、この日本語の特徴を巧みに、使いこなして文章を書いている。
 このあたりが、作家の筆法として、実にうまいと、思う。日本語には、主語はない。主語がなくても、成立するのが、日本語である。これを、文法論として主張し、「主語」という文法用語を廃止すべきと、説いたのが、文法学者の三上章である。
 
 
 ◆山里の雪景色 その2
 日本語の文は、主語+述語という構造とは別に、「題目‐述部」からなる「題述構造」を採ることがきわめて多い。しかも、主語がなくても文章としてきちんと成立している。つまり、日本語の文章は、述部に中心を置き、主語がなくても完全な文章となる。
 たとえば、「ハマチの成長したものをブリという。」も、主語はないが、主語はなくても、完成した文章であり、何の問題もない。
「お前に、惚れたぜ」
 なんていうセリフも、主語はないが、立派な文章である。
 もっと言えば、「惚れたぜ」だけでも、文章としては、成立する。
 もし、これに、無理やり主語をつけて、
「俺はお前に、惚れたぜ」
などという文章のほうが、よほどおかしいし、違和感があるだろう。
「惚れたぜ」
「うれしいわ」
 という、省略の世界こそ、和語の粋、なのである。
 そういう感覚で言えば、英語で、「I love you 」(私はあなたを愛する)なんて、なんとも、野暮でどうしようもない。
 三上章は、日本語は、助詞「は」を伴う「題目」と、それ以下の「述部」で成り立つ「題述構造」をしている、と、説いた。


◆山里の雪景色 その3 

 「象は鼻が長い」
 この文章の、「象は」は、主語ではなく、「象について、これから述べますよ」という「題目」を示すものであり、「鼻が長い」は、「象は」を受けた「述部」である。しかも、この、「題目」は、文章を超えても、有効だと、説いた。
 つまり、日本語は、主語+述語、という構造ではなく、主題を示す題目と述部からなる構造をもっていると、説いたのである。
 したがって、次のような文章も、題述構造を理解していれば、文章として過不足ない文章となる。
「象は、鼻が長い。大きくて、力も強い。日本では、動物園に行けば、見ることができる」。
 この文章で、大きくて以下の文章に、いちいち、「象は」と、入れた文章は、それこそ、間違いではないが、稚拙で、違和感がある。助詞の「は」は、別格の助詞であり、文章の主題、題目を示すのである。
 もともと、日本の国語文法というものは、明治になって、西洋にある文法を取り入れて出来上がったもので、西洋式の主語、述語という概念を、無理やり日本語にあてはめて作ったものだ。そこには、なんでも、西洋化することが近代化で、いいことだという、西洋崇拝があったのだろう。


◆山里の雪景色 その4

 だが、主語のない文章など、ありえないという西洋の文法と、述部に重きを置く日本語とでは、文の構造があまりにも、違い過ぎる。西洋では、主語がないものでも、主語のない文章はありえないために、形式主語などを考案して、無理やりに、主語をつくる。いわば、偽者の主語「it」で、時刻を言うときでも、主語として、itをつける。いわば、西洋は、絶対的な主語信仰の世界で主語の明確化がないと、何もはじまらない。いわば、主語、主体という自己の責任を明確にする世界観で成立している。
 これに対して、日本では、主語よりも、述部が重要で、何を考え、何を言うのか、するのか、どんなものなのか、どういう常態なのかという、展開部が重要になる。「誰が」よりも、「何を」「どうする」というほうに、重きをおくのが、日本人なのだろうと、思う。
 
 逆に、「誰が」という行為の主体を明確にしないことで、万事に婉曲さを好み、あえて自己主張を避ける謙遜さ、遠慮深い人間性、また、それを否定的にみれば、どうにでもとれる、うやむやな曖昧さ、自己隠蔽による責任回避、が強いと言えるかもしれない。
 「家庭の主婦が、夕食の準備をすませて、家族を食卓に来るように呼ぶ時、普通、「ごはんができました」と言う。「ごはんを作りました」とか、「ごはんを作ってあげました」という表現は、文法的には正しいが、決して使わない。つまり、「私」が主語になる文ではなく、「ごはん」が主語になる文を用いるのである。このような無意識のうちに行われている表現の選択にも、実は日本人の考え方が反映されていると考えると興味深い。」
(みんなの教材 読解「日本語の特徴」)

  つまり、米を研いで、水加減し、炊飯器のスイッチをいれたのは、自分かもしれないが、それで、「私がご飯を作りました」というのは、あまりにも、おこがましいという気持ちが、無意識に働いているのだろう。
 米を作ったのは、お百姓さんであり、運送してくれた人、販売してくれた人、お父さんが働いてくれてお金を稼いでくれるから米が買えるという主人への感謝、などなど、自分以外の恵みにより、初めてご飯が炊けるのである。
 また、お日様や、水や大地のすべてがあって、米ができるのであって、すべては、自然の神様のお恵みである。そういう、自然への感謝、飢えることなくおいしい食べ物が食べられる暮らしへの感謝、など、日本人の根底にある「万物への感謝の気持ち」が、あるからこそ、私という主語を控え、ごはんを主語にした「ごはんができましたよ」という言い方が自然に出てくるのだろう。
 日本語の文章での、述部に重きを置くというのは、自分を主語にするのではなく、あらゆるものごとが、「神様の恵み」という主語であり、我が身は述語であるという発想があるように思われる。よく言われるが、私が「生きている」のではなくて、「生かされている」のだ、という言い方にも似ている。
 主語をあえて主張しない「感謝する心」が、日本人の文章には、宿っているように思われる。
 どっちがいい、悪いということではなく、東西の間には、イギリスの詩人キプリングの書いたように、「西は西、東は東、両者永遠に相逢うことなし」という本質的な違いがあるものなのかもしれない。


◆柿の葉寿司 下市町「やま十」。

 東西問題を、取り上げれば、じゃあ、南北問題は、ほおっておいていいのか、という人がいるから、国際問題に、首を突っ込むのは、ややこしい。
 日本人で、この、西洋と東洋という問題について、よく考えていた人がいる。江戸末期、盛岡に生まれた思想家の新渡戸稲造で、英文で「武士道」という本を書き、いまだに、よく読まれている。5000円札の肖像になったので、知る人も多い。たまたま、彼の書いた一文を、「青空文庫」で目にした。そこには、洋の東西について論じたあとで、大和民族の役割について、こう、書いている。
 「殊に昔より日本人は国外の思想や文化を鑑識する事を以て得意としている。現に我国の今日あるは外国に負うこと多きに見ても明あきらかである。近頃メーソンという米国人が『東方の光』の題の下に一小冊を公にした。その中に印度は宗教霊的の天恵に富み、支那は礼儀芸術の道に篤あついけれども、両民族とも功利活用の才能に乏しい。独り日本人のみが人類に欠くべからざる三徳と称すべき、霊妙の作用と美的観念と応用の能力を平等に兼備すると歎賞している。ウッカリ人の誉詞ほめことばには乗れないが、同氏の言は確かに我民族の特長を挙あげたものと思わるる。この活力と才能を有すればこそ、メーソン氏のいう西洋の功利的文化を咀嚼そしゃくし得る東洋人は同胞のみなのだ。西洋人は到底日本人ほど印度の霊妙、支那の技芸の蘊奥うんおうを研きわめ得ぬから、結局東西の文化を悉く咀嚼し世界的完全なる発達を遂げる者は大和民族ならんか。」
 (「東西相触れて」新渡戸稲造 1928年・昭和3年。)
 たしかに、日本は、アジアの中にあり、東洋世界を最もよく理解している。それと、同時に、西洋の考え方も、生活スタイルもよく理解している。東洋には、太陰暦の旧正月を依然として固持している国もあるが、日本は、西洋文化の、太陽暦、新暦にいち早く切り替えている。
  東西を比較して弁証法的に新しい価値観を生み出すという発想だけでなく、日本は、これから、世界にはない日本文化を、これからの世界標準として打ち出していくことも、新たな役割と、言えるかもしれない。
  外国から日本へ来る人々が、日本では当たり前のことに、驚いたり、感心したりする光景を見ることがあるが、案外、日本人は日本のよさを、知らないのかもしれない。
 円安も手伝って、外国人観光客が、いま、日本発見の旅、ディスカバージャパンを、やって楽しんでいる。
 せっかく、関西に暮らすことになったのだから、今年は、地元の奈良をはじめ、ディスカバー関西、の年にしたい。
Posted at 2015/01/04 20:54:04 | コメント(0) | トラックバック(0) | 身辺雑記 | 日記

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「外国人の「外国免許切替(外免切替)」制度をめぐり短期滞在者がホテルの住所で日本の免許を取得することについて、ホテル滞在による「支障は把握していない」とする初の答弁書を閣議決定した。それで良いということだ。
日本保守党の竹上裕子衆院議員の質問主意書に25日付で答えた。無責任だろ。」
何シテル?   05/18 14:14
 趣味は囲碁、将棋、麻雀、釣り、旅行、俳句、木工、漆絵、尺八など。 奈良、京都、大阪、和歌山の神社仏閣の参拝。多すぎて回りきれません。  奈良では東大寺の大...
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