2022年09月16日
俳句と言えば芭蕉である。
昨今俳句ブームとかで芭蕉の名や俳句を知る人も多くなったかもしれない。
芭蕉は江戸時代中期の元禄文化を彩った俳人として知られている。
もともと日本の都は奈良、京都にあって宮廷を中心に文化芸術は上方が独占していた。それが徳川家康が江戸に幕府を開いてからだんだんと世の中の中心が武家社会の本拠地である江戸へと移ってきた。そして文化の主役も朝廷貴族から武家や庶民へと広がっていった。
元禄時代とはそのように京都や大阪という上方文化が江戸を中心とした町民文化へと移っていった時代であった。
そして元禄時代には三人の傑出した作家が生まれている。
まずは俳諧の巨匠・芭蕉である。そして芭蕉より2歳年長には井原西鶴、9歳下には近松門左衛門がいた。
そこでこの小文は芭蕉の生涯を簡単に紹介しようとするものだ。
何年か前になるが奈良からローカル電車で三重県の伊賀上野へ行ったことがある。伊賀上野の街を歩いているとたまたま芭蕉生家という案内看板がありこの街が俳聖芭蕉の生まれ故郷であることを知った。芭蕉の生まれたという家は中には入れなかったのだがなかなか立派な屋敷であった。
いまの三重県伊賀市に生まれた芭蕉がどのような人生を送り江戸で有名な俳句の宗匠にまでなったのだろうか。そのあたり私は何も知らなかった。
もう一つ芭蕉について何年か前に彼の直筆の短冊や色紙を見る機会があった。
これもたまたまであるが天理市の天理参考館という天理教の博物館に行った。このときは天理参考館のコレクションで日本書紀や古事記、群書類従、彩色の奈良絵本など稀覯本の展示会があったので見に行ったのである。そのとき会場の隅の方に芭蕉の色紙と短冊が数点ガラスケースに入って陳列されていた。芭蕉がしるした流麗な筆致のかな文字が並んでいた。まことに能筆である。
いま思い出したがかなり前になるが東京の新橋、出光美術館で芭蕉の短冊を見たことがある。その俳句の揮毫に名前として「はせを」と書かれていたのを記憶している。「はせを」?なんだろうか。
芭蕉は漢字で署名するのではなく「はせを」と書いているのだということを芭蕉の短冊を見て初めて知った。
芭蕉についてはこんな断片的な知識と興味しかなかった。
手元に「芭蕉 二つの顔 俗人と俳聖と」(田中善信著)という講談社学術文庫がある。
私はこの本の題で「俳聖」という言葉を初めて知った。俳句の聖人?聖人というのは儒学で知られる孔子のことを言うのではないか。あるいは宗教で崇拝される教祖などを聖人という。俳句において芭蕉は神様になったのか?という違和感がまずある。ところが実際に芭蕉は俳句の世界において神格化されており、『桃青霊神』(とうせいれいじん)また、『桃青大明神』と呼ばれていたらしい。その発端はよくわからないが寛政五(一七九三)年の芭蕉百回忌ころからのことらしいのである。『桃青』というのは芭蕉の俳号である。芭蕉も俳号であるがもともとは芭蕉は『桃青』という号で俳句を発表していたのである。
俳句の神様と呼ばれて芭蕉は苦笑しているかもしれない。俳聖などと言う呼び名は一種の虚名ではあるがそれだけ芭蕉俳句が人口に膾炙され俳諧の世界に大きな影響を与えたということであり芭蕉の俳風を尊敬する俳人が多かったということであろう。
芭蕉は伊賀上野に生まれ29歳で江戸へ出た。その後俳句で名を上げ41歳以降は旅人として14年間の放浪の生活を続け51歳で没した。わたしたちが知るのは「野ざらし紀行」「奥の細道」といった俳聖芭蕉の放浪詩人としてのイメージである。だがそれ以前の芭蕉についてはあまり知るところがない。この本はそこに焦点をあてて人間芭蕉がどんな人物でありどんな生活を送っていたのかを今としては少ない資料をもとに推察、考察し芭蕉の実像に迫ろうとした芭蕉の伝記である。本のタイトルに興味を持って一通り読み終えた。読後に俳聖として知られる芭蕉の実際の人生に意外な一面のあることを知った。
そこでこの本の内容を踏まえて芭蕉とはどんな人生を送った人だったのかを紹介してみたい。もちろん芭蕉本人が詳しい自伝を残しているわけでもなく資料も限られている。芭蕉の人生については特にこれまで学者の研究対象になってきたわけでもなさそうなので未知の部分が多い。
全国あちこち歩き回っているから隠密だったかもという芭蕉スパイ説もある。これなどはかなり荒唐無稽だが推理、推論も含め「芭蕉 二つの顔 俗人と俳聖と」に書かれている著者の田中善信氏の論述をもとに簡単な芭蕉の伝記をまとめてみたい。
松尾芭蕉の生まれたのは正保元年(1644年)である。この年は寛永21年にあたるのだが年末の12月16日に寛永から正保へと年号が変わった。芭蕉はいつの時代の人かと言えば、徳川第三代将軍・家光の時代、江戸時代の中期の人で、生国は伊賀国上野、現在の三重県伊賀市上野である。芭蕉の生まれた伊賀上野は江戸時代に藤堂藩の出城のあった城下町である。藤堂藩は藤堂高虎を藩祖として津に本城を構えた30万石の大名である。
芭蕉の父は松尾与左衛門という。芭蕉の兄弟は上に兄と姉、下に妹が3人いた。父母を入れて松尾家は8人家族だった。芭蕉の生家は伊賀上野の農民の多く居住している赤坂町というところにあった。父は藤堂藩に仕える下級武士という説もあるが実際は専業農業のいわゆる百姓だったようだ。
決して生家は経済的に裕福とは言えなかった。芭蕉は子供のころは金作といい長じて宗房と名のった。家は貧しかったのだがそれでも寺子屋で少しの勉学をしたようだ。財産のない松尾家としては子供を遊ばせて養育する余裕がなかった。
不幸なことに、父の与左衛門は芭蕉が13歳の時に亡くなった。一家を支えるべき長男の半左衛門はおそらく20歳にもなっていない。
そこで芭蕉も10代前半ながら働き口を見つけて奉公に出ることになった。奉公先はたいがいが商家への丁稚奉公である。しかし芭蕉の場合はどいういう縁があってのことか奉公先は武家であった。しかも藤堂藩伊賀上野城付きの名家である藤堂新七郎家だった。この藤堂新七郎家は禄高は5000石あり藤堂藩の名門の家系である。想像だが芭蕉は子供ながらしっかり者で頭もよく「この子なら武家へ奉公しても立派に務まるはずだ」と見込まれたものであろう。運命という目に見えぬ星があるとするながば、幸運の星は貧しさから芭蕉を見捨てなかったのである。藤堂家への奉公が将来の俳人・芭蕉誕生の淵源になったのである。
後にして言えることだがこの藤堂新七郎家への奉公が俳人・芭蕉の生まれる最初の土台になった。もし芭蕉が長男として家業の農家を継いでいたら、あるいは商人の家へ丁稚奉公に行っていたら、もしかしたら芭蕉は俳句と無縁の一生を送ることになったかもしれない。
藤堂藩は藩風として文武両道を重んじる家風があり特に深い教養や文化が重んじられ俳諧など文学も盛んだったとも言われている。
その意味では伊賀藤堂家の存在が俳聖・芭蕉を育んだ背景にあったと言えるだろう。
伊賀上野の藤堂新七郎家というのは藩祖・藤堂高虎の従兄弟である藤堂良勝を家祖とする藤堂藩の大番頭である。藤堂良勝が大坂夏の陣において戦死し、その跡を継いだのが伊賀上野城付きの藤堂新七郎良精で五千石の番頭として幕末まで家督は存続した。
芭蕉が身近に仕えた藤堂良忠は藤堂新七郎良精の三男であったが、兄ふたりの死により嗣子となった。
先走って書くが良忠の俳号は藤堂蝉吟(せんぎん)と言う。25歳で身罷った。
藤堂新七郎家で芭蕉は奉公人として最下級の小物中間であった。なかには芭蕉は藤堂藩の武士だったと述べられてもいるようだが実際の家柄は農家であり藤堂家の武士ではなく、農家出身の奉公人というのが正しいようだ。
また一説に芭蕉は新七郎家の料理人だったとも言われている。だがそれは後のことらしく最初は厨房仕事は無縁だった。
芭蕉の仕事はこの家の跡取りで自分より二歳年上の長男の藤堂主計(本名は良忠)に仕えることであった。良忠は生来病弱であったようで武芸や乗馬などとは無縁であり室内で過ごすことが多かった。そしてこの良忠が京都の俳諧師匠に入門し俳諧(俳句)を学んでいたのである。藤堂高虎を藩祖とする藤堂藩には武家の教養として文芸を重んじる藩風があった。
そのような家風から藤堂新七郎家でも京都の国文学者であり高名な俳人であった北村季吟(きたむら きぎん 1624~1705)を文芸の師範としていた。芭蕉の仕えた藤堂良忠はすでに京都の俳諧師である北村季吟の門人であり俳諧名を「蝉吟子」と言った。芭蕉はこの良忠に寵愛されたのである。芭蕉は蝉吟子の一番の俳諧の相手として文芸の世界に目覚めた。京都の俳句師匠の指導を受ける主君のお供として共に俳諧を学び実作し天性の文才に磨きをかけていったと思われる。
だが好事魔多し、芭蕉を使用人ではなく得難い俳友として引き立ててくれた良忠が25歳の若さで早逝した。このとき芭蕉は23歳である。もし良忠が健康で成長し藤堂新七郎家の家督を継いでいたら芭蕉の人生も主君の最愛の家来として武家社会の中で立身出世していただろう。そうなれば俳諧は趣味として嗜む程度のものに終わり俳諧師・芭蕉は誕生しなかったかもしれない。
主君の藤堂良忠亡き後途方に暮れた芭蕉だったがその後も藤堂新七郎家の奉公人を続けている。奉公している武家で芭蕉が料理人だったというのはこの時代のことだったのかもしれない。仕える主君を失った芭蕉に藤堂新七郎家は厨房の仕事を与えて雇い続けたものであろう。
藤堂良忠が亡くなった後も芭蕉は奉公先で料理人を務めながらも俳諧をやめなかった。そのまま京都の俳諧師匠について作句を続けていた。
このころは芭蕉は俳号を本名の「宗房」で発表していた。
藤堂良忠が健在だった寛文7年(1667年)師匠の季吟一門が出した俳諧集をみると、蝉吟(良忠)が33句入選し宗房(芭蕉)は31句が入選し掲載されれいる。俳諧の世界も身分制度はもちろん反映されており伊賀藤堂藩の名門の惣領である良忠が優遇されるのはいわば当然である。俳諧師匠にとっては大事なお得意様である。しかしその下人、家来に過ぎない芭蕉がほとんど主人と同じくらいの数の俳句を採用されているのは破格と言えないだろうか。俳諧の才能があったというよりも生来賢い子供だったように思われる。たまたま俳諧に出会ったわけだが短い時間で俳諧のコツを会得して実作し専門家の俳諧宗匠に認められるというのは非凡な才能である。芭蕉は当然奉公する身であり雑用は山ほどあったと思われる。その中でおそらく芭蕉は入選句の何倍もの数の俳句を作り続けたのであろう。その目に見えない努力が才能を開花させる原動力となった。
それだけに良忠の死は芭蕉にとって大きな衝撃だった。
芭蕉が藤堂新七郎家に奉公している間にもう一つの変化があった。実家の松尾家は決して裕福ではなく芭蕉も含め6人の子供がいたことはすでに述べた。その一人で嫁いだ姉の子の面倒を芭蕉が見ることになった。詳しい経緯は不詳だがその子は桃印と言う名の男児であり一説には姉の子だったと言われている。
この桃印は芭蕉がつけた俳号である。
芭蕉は桃の字が好きだったようで弟子達に桃の字をつけた俳号を与えており、自らも桃青と名乗っている。
おいおい明らかになるのだが、この芭蕉の姉の子供とも言われる甥の桃印が
後々の芭蕉の運命を大きく変えることになる。
そのことにまだ伊賀上野時代の芭蕉は気がついていないし、桃印ももちろん自分の運命などわかろうはずがない。
芭蕉は主人の藤堂良忠の亡き後6年間は新七郎家で奉公している。そして29歳のとき藤堂家に暇をもらい突然江戸へ出た。
江戸へ出て2年後の31歳のときには俳号も桃青(とうせい)と変えている。
このとき自分が面倒を見ている甥の桃印は連れて行っていない。単身で江戸へ下っている。江戸に誰か知人がいたわけではないが京都の俳諧師匠の北村季吟の伝手を辿って江戸での世話してくれる人を見つけたと思われている。
江戸へ出立するにあたり芭蕉は28歳の時(1672年)、初の俳句の自撰集『貝おほひ』を編んだ。その俳句集を自分を育ててくれた伊賀上野の地への感謝を込めて「伊賀天満宮」に奉納している。
すでに上方の俳壇で名を知られた芭蕉にとって、町人文化の華やかな江戸は自身の俳人として飛躍の舞台に見えたのかもしれない。
伊賀上野で新人俳諧師として名をあげた芭蕉が新天地を求めて江戸へ出た。こういうストーリーはいかにも、という後付の感じがして如何なものかと思われる。第一江戸へ出た29歳という年齢がいかにも遅すぎる。藤堂良忠が亡くなった時芭蕉は23歳である。そのとき、思い切って江戸へ出たと言うならまだ怖いもの知らず若気の至り野望の盛りと見ることもできる。だが江戸時代の29歳というのは一般的に隠居でもしようかという老境である。したがって芭蕉がその歳で江戸へ下ったのには何か釈然としないものがあり何か別の理由があったのかもしれない。
ついでに戯言を言えば江戸時代もこおころは中期で元禄時代も間近いころである。諸国大名の参勤交代も盛んに行われと東海道の宿場や川の渡しも整備され庶民にとって日本中の街道往来もさほど珍しくはない時代になっていた。江戸からのお伊勢参りも流行していたほどである。そうして見ればやや老いてから伊賀上野から江戸へ出るというのもそんなにありえない話でもないのかもしれない。
ここでまた本筋から外れて余談の小道へ入ることをお許しねがいたい。藤堂藩の藩祖である藤堂高虎は徳川家康のお気に入りの武家であり当然のことながら江戸に広大な藩邸を構えていた。
東京に「上野」という場所がある。上野公園があり花見で毎年賑わっている。実はこの場所こそがかつて藤堂高虎の屋敷跡なのである。上野という地名は藤堂高虎が自分の領地であり、芭蕉の出身地でもある「伊賀上野」に似ているなと思ってつけた地名だという。
芭蕉にとって将軍家お膝下の江戸はは元を辿れば自分の仕えたお殿様の藤堂家屋敷も上野にあるわけで身近な場所に思えたはずである。現在の東京の上野の地名は伊賀上野に由来する地名である、ということを書いて本筋に戻ることにする。
芭蕉は51歳で没している。
そう見れば30歳前の江戸行きは人生の残り少ない晩年に近くなってからの思い切った決断であった。何を考えての江戸行きだったのか。俳諧師として江戸で一旗上げたい。そう考えての決断だったのだろうか。芭蕉の心中を類推できるものは残っておらず、そこらは良くわかっていない。
ただこういう見方は成り立つだろう。
もし芭蕉が俳諧で身を立てるという目的で江戸を選んだのなら良い着眼だったということだ。伊賀上野に近い京都には俳諧師匠である北村季吟がいる。師匠を差し置いて俳諧師匠を目指すのはありえない。おこがましいにも程がある上に俳諧の新風として俳句業界を牛耳っている談林派の西山宗因の天下である。新参者の芭蕉が入り込む余地はない。
では大阪はどうか。ここも敷居が高い、と芭蕉は思ったのだろうか。
大阪には化け物のような鬼才として名を轟かせている井原西鶴がいる。大阪こそは西山宗因の弟子であり裕福な商家で談林派の旗手として知られる新進気鋭の井原西鶴の牙城であった。
いまでこそ井原西鶴と言えば芭蕉と同じく俳句を詠んだ人で俳諧師だと思う人はいないかもしれない。しかし浮世草子の巨匠として知られる井原西鶴の作家としての出発は俳諧である。むしろその生涯の大半を俳諧師としておくっているのである。
「好色一代男」とか「日本永代蔵」などの読み物が有名だが、それらは専門の俳句の余技、余興として筆を染めたものだ。それは言いすぎだが実際に井原西鶴は俳諧の合間に物語を書いていた。それでいながら浮世草子の名作を世に送り出し大ヒットを連発したというのだからまずは稀代の天才作家と言うしかない。
西鶴が俳諧師として飯を食っていたのは約30年間である。その間に余技、いわば金稼ぎのアルバイトとして「好色一代男」などの読み物を書いた。それらは元禄時代の世相を活写し売れ行きが良かった。しかし井原西鶴が俳諧と並行して浮世草子を書いたのは通算で10年間であり、草子作家に専念したのはわずか6年間である。
「好色一代男」のヒットを飛ばした二年後、1684年西鶴43歳の時に住吉社頭で一昼夜で2万3500句の俳句を独吟した。一人でそれだけの俳句を詠んだのである。これを矢数俳句といい自ら2万翁と自慢したという。24時間ぶっとおして一人で2万3500の俳句を詠んだというのだから、もはや人間業とは思えない。現代風に言えば、「神」である。
「浮世草子作家はほんの俺のアルバイトでっせ。俺の本業はプロの俳諧師なんや、なんでそれを評価してくれんのや」
、と西鶴は草葉の陰でぼやいているのかもしれない。
芭蕉の生涯を書くつもりがいきなり井原西鶴の話になって申し訳ないがついでにもう少し。
西鶴は俳諧師の名を鶴永と称した。芭蕉より二年早く寛永19年(1642年)大阪に生まれ本名を平山藤五という裕福な町人であった。15、6歳ころから貞門俳諧を習いその後談林派に転向。21歳では俳諧では他の人の添削や評価をする俳諧宗匠(点者)の一人になっていた。西鶴は早熟の天才であった。
芭蕉がまだ伊賀上野にいて藤堂新七郎家に奉公していた頃、井原西鶴は大阪で俳諧新旋風を巻き起こしていた西山宗因の談林俳諧の急先鋒として活躍する上方文壇の花形であった。
西鶴にとって少し歳下の芭蕉はいわば遅れてきた田舎青年であった。
西鶴が21歳でプロの俳諧師になったの対して芭蕉がそのポジションについたのは35歳である。同年代とはいえ、芭蕉から見れば西鶴は文壇のヒットメーカー、大作家であり続けた。
しかも上方の西鶴と真っ向から勝負に挑むのではなく芭蕉の選んだのは江戸である。いわば文芸不毛の地である遠い江戸・武州に下った風変わりな文人と西鶴には見えていたのかもしれない。
これは後の話になるのだが西鶴は「西鶴名残の友」と題する文人録の中に芭蕉の批評を書いている。
「又武州の桃青(注・芭蕉のこと)は我宿を出て諸国を執行、笠に「世にふるはさらに宗祇のやどりかな」と書付、何心なく見えける。これ又世の人の沙汰はかまふにもあらず、只俳諧に思ひ入て、心ざしふかし」
俳諧の先輩としてまた文壇の第一人者としての余裕の貫禄を感じさせる芭蕉評ではある。「心ざしふかし」、などは褒め言葉に見えて芭蕉のどこを褒めているのかも判然としない。つまり、芭蕉の「風変わりさ」を褒めてはいるが、俳諧そのものは論評するにも値しないということとしか思えない。西鶴の目には芭蕉は、いわばその程度の存在感でしかなかったということだろう。
さらに言えば「世の人の沙汰はかまふにもあらず」という評は意味深である。
世間の評判や人気を気にすることがない、と芭蕉を指して言っている。西鶴はまるで世捨て人、隠者のように芭蕉を見ている。これはまるで西鶴と正反対である。
西鶴は俳諧におていても矢数俳句で人を集めたいわば俳句ライブを実演し1000句を超える俳句を連発して聴衆の度肝を抜いたりしている。そういう世評を背景にして俳諧師、宗匠としての実益を手に入れてきた。いわば俳諧は西鶴にとって飯の種、生活の手段、そのものであった。まさしくプロ作家なのである。
その西鶴にとって、侘びさの寂びだのと俳句の境地を探究し世評にも世俗の栄誉栄達にも金銭欲にもめもくれず俳句放浪を続ける芭蕉の生き方はまことに対称的である。世俗人に徹していた西鶴にとって理解不能な変人としか思えなかったのかもしれない。
この西鶴の目に移った芭蕉像は、俳句と旅を共にして生涯を漂泊の旅に暮らした風狂な「俳諧聖」としての芭蕉の真髄をよく言い当てている。
西鶴は俳句の数は比類ないものを残している。
だだ、西鶴の俳句を名句として論評する人はあまり見かけない。実際西鶴の俳句を読んでみても真似したくなるようなものではない。一言でいえば古典や教養を前提に詠んだ句も多く現代人には「難解」かつ「俗」にして「雑」である。
ここに少し井原西鶴と芭蕉の名句と呼ばれるものをあげてみたい。
井原西鶴
「何と世に桜もさかず下戸ならば」
「あたご火のかはらけなげや伊丹坂」
「大晦日さだめなき世の定哉」
「長持に春かくれゆく衣がへ」
「鯛は花は見ぬ里もあり今日の月」
「大晦日定なき世の定かな」
「浮世の月見過しにけり末二年」
松尾芭蕉
「夏草や 兵どもが 夢の跡」
「旅に病んで 夢は枯野を かけ巡る」
「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」
「古池や 蛙飛び込む 水の音」
「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」
「山里は 万歳遅し 梅の花」
「山路きて 何やらゆかし すみれ草」
「草臥れて 宿借るころや 藤の花」
なんとなく芭蕉俳句のほうに馴染みを感じるだろう。おそらく日本の俳句が芭蕉の確立した俳句の風儀をもとに継承、発展して現代まで続いているという証左なのだろうと思う。現代人は和歌や歌学、古典などの教養や知識がない人でも誰でも平易な言葉で俳句が詠める。そういう俳句の原点となる俳句を創案し確立し普及してくれたのが芭蕉という人である。その意味で芭蕉はまことに有り難い「俳聖」だと言うことができる。
芭蕉は井原西鶴とは反対に生涯に詠んだ俳句は多くはない。確認されているだけでも芭蕉が残した俳句の数は982句と言われる。井原西鶴が一日で詠んだ句の数よりも少ない。俳句の量の高さを積み上げ誰にも真似のできない金字塔を打ち立てたのが井原西鶴である。即興のライブ吟詠数で俳諧世界を圧倒した西鶴にくらべ、芭蕉は俳句の深さを生涯かけて追究した。この深さにおいて世人を圧倒したのが芭蕉である。まことに対象的な俳諧の奇才と天才であったと言えるのではなかろうか。
さてこのように京都・大坂はすでに談林派西山宗因の一門で占められていた。そういう視点で日本を眺めると唯一談林派の俳諧宗匠のいなさそうな「空白域」が徳川幕府のお膝元、天下の江戸だったのである。
ともかく江戸へ出た芭蕉は日本橋本船町の名主・小沢太郎右衛門のもとに身を寄せた。この小沢は俳人であり俳号を得入といった。おそらく京都の北村季吟の弟子や知人が江戸の小沢太郎右衛門とつながりがあったものと思われる。その伝手で芭蕉は江戸に仕事の口を見つけたものだろう。このあたり、芸は身を助けるという諺もあるがその範疇の出来事であったろう。
人生において芸事や趣味、遊びなどは仕事の本筋とは無縁のように思われるが案外そうでもない。芭蕉がもし俳句を嗜んでいなければ季吟と知り合うこともなかった。まして江戸の名主の世話になることなぞありえなかった。人生どこでどうなるかわからないものである。
芭蕉は小沢太郎左衛門のところで帳役という業務日記を書く仕事をした。文字の読み書きや計算などは伊賀での奉公時代に身に付けており芭蕉にとっては実務能力を活かせる得意とする仕事であった。
現在の日本橋、室町一丁目にある三越本店の向かい側あたりが江戸地図で見る小田原町である。このあたりは当時は魚河岸と呼ばれていた。芭蕉は小田原町に家を構えた。そして伊賀上野から桃印を呼び寄せている。江戸に来て4年目の33歳のとき一旦郷里の伊賀上野へ戻った。これは藤堂藩に他郷へ出たものは4年目に帰郷せよという規則があったからである。他郷へ出かけたものが行方不明となり世間に迷惑をかけることを住民管理に厳格な藤堂藩は極力嫌っていた。芭蕉もそこで一旦は帰国しそのついでに甥の桃印を連れて江戸へ戻ったのである。
その翌年、伊賀上野から戻り二度目の江戸入をしたのが延宝5年である。芭蕉が34歳のとき小石川の水道工事に関わっている。
この仕事は延宝5年から延宝8年まで三年間にわたって芭蕉が携わっている。読者のみなさんは呆れているかもしれない。俳聖・芭蕉の人生譚をお前は書いているのではないのか?そんな水道事業なんぞ俳人の芭蕉がやっていたなんぞ聞いたこともない。古池や・・・・というのが芭蕉の俳句であってお前は芭蕉を水道屋呼ばわりするのか、とお怒りかもしれない。だがこれは本当の話なのである。
甥の桃印を連れて江戸へ戻った芭蕉はその翌年から神田上水の改修工事に関わり、浚渫作業を請け負うという人足稼業の請負を始めたのである。
どういう経緯があったのか詳細は不明だ。
だが芭蕉の郷里である伊賀上野の藤堂藩が幕府より神田上水の改修工事を命じられたことと関係があった。藤堂家は旧知の間柄であ李江戸で頑張っている同郷の芭蕉に対し神田上水の改修、整備工事を手伝うよう命じたものであろう。芭蕉にとっても多額の安定した現金収入の見込める藤堂藩の工事受注は願ったり叶ったりである。
そこで芭蕉はこの3年間は現在の東京都文京区関口に作られた水番屋(神田川改修工事事務所兼宿舎)に住み込んで現場監督のような仕事に従事したのである。
現在の新宿区山吹町にほど近い江戸川橋公園には芭蕉が住んでいたという旧跡があったのだがいまはどうなっているのだろう。
江戸っ子の気概は水道で産湯を使い・・・・などと言われるが江戸は当時のロンドンを凌駕する世界一の水道都市だった。江戸の水道は上水と呼ばれ水道管は石や木で造られており石樋・木樋と呼ばれた。これによって江戸市中の上水井戸に導かれ、人々はこの上水井戸から水を汲みあげて飲料水や生活用水としていた。よく時代劇で長屋の女将さん連中が井戸端会議をしている光景がある。あれが上水井戸のイメージである。井戸に水道水が供給されていたのである。
江戸における上水道の起源は、小石川上水である。
この井の頭の湧き水を水源とした上水道は天正18(1590)年、徳川家康の江戸入府時に開設された。これが後に神田上水へと発展した。だが急速に大都市に変貌した江戸は小石川上水だけでは到底飲料水が不足していた。
当時の江戸は人口が増え続け、元禄のころには約70万人に達していた。
その当時フランスのパリは53万人、英国のロンドンは55万人、オーストリアのウイーンは1,5万人であった。江戸は世界一の大都市であった。
そこで幕府は、水量豊富な多摩川の水を江戸に引き入れることにした。
この遠大な水道事業計画の総奉行には「老中松平伊豆守信綱」、水道奉行には「関東郡代伊奈半十郎忠治」が任命された。そして多摩川から取水する羽村の堰から江戸四谷までの水路掘削という大土木工事を担ったのが町人の玉川兄弟である。
この多摩川からの取水水道は1653年に工事が始まり、わずか8か月に完工している。
羽村取水口から四谷大木戸までの43キロメートルに達する素掘り水路の玉川上水が完成したのである。いまでも羽村の堰の取水口から玉川上水へは滔々と水が流れ込み、春には玉川上水の沿道は染井吉野の桜並木が満開となり武蔵野の花見の名所となっている。武蔵境あたりの光景はことに美しい。
山林に自由存す、と詩に書いた国木田独歩の紀行文「武蔵野」には四季を問わず玉川上水を散策した光景が印象深く描写されている。
話は横道に逸れたが、芭蕉が水道浚渫工事を請負ったのは新設された玉川上水ではなくもともとあった最初にできた小石川上水(神田上水)のほうである。
神田上水は井の頭公園の湧き水を水源として水を引き小石川から水道管(樋)を地中に埋めて市中へ配水していた。その手前の目白下関口村(現在の文京区関口)にある分水のための大洗堰から地下へ潜る小石川の間が地上に露出した開渠となっていた。この部分を白堀と呼んでいた。白堀は水道とは言っても地上にある細い運河のようなものなので定期的に川底に溜まるゴミや泥などを浚渫する必要があった。最初は周辺の町民がこの人夫仕事をやっていた。これはけっこうな重労働だった。そこで白堀の浚渫作業を命じられた町では自分たちが働く代わりに相応の金を出して専門業者へ請負わせることにした。
意外なことと言うべきだろう。その請負業者の初代が俳句三昧の日々を送っていた芭蕉だった。
神田上水白堀の浚渫作業という言わばお上からの官業委託事業に関わるためにはそれなりの背景が必要になる。どこの馬の骨かわからない人物がそのような仕事に入り込むことはまず考えられない。まして芭蕉は江戸へ来て間もない上に生来人足稼業とは無縁の人間である。それが突然、人足調達の現場工事の請負業を始めたのである。そこには芭蕉出身地の伊賀藤堂藩の配慮があったと見るべきだ。
先に述べたがこの神田川改修工事を担当したのが伊賀の藤堂藩江戸藩邸であった。もちろん、芭蕉とは同郷という強い人脈があった。そのことから芭蕉がこの事業に関わったものと思われる。工事の始まる前年の延宝4年に芭蕉は一度伊賀上野へ帰郷している。その折にかつて奉公した藤堂新七郎邸へ挨拶に上がったことは当然であろう。その際、藤堂藩江戸藩邸にいる江戸家老へ宛てて神田川改修工事でかつての奉公人だった芭蕉を引き立ててくれるようにという依頼状を書いてもらったとも想像できる。
記録によると芭蕉は延宝5年から延宝8年まで4年間この請負業をやっている。芭蕉が集めた人足は何百人か何千人なのか不明だがこの白堀の浚渫作業請負事業はその後も継続されている。約100年ほど後の寛政年間には延べ3000人ほどが作業人夫として雇われている。そうすると芭蕉の時代でも少なくとも100人や200人は人足を集めたのではなかろうか。芭蕉の手掛けた請負事業の規模の大きさがわかろうというものである。こいいう現場を仕切る仕事の実務においても芭蕉の武家奉公の経験が存分に発揮されたのは言うまでもない。藤堂藩で鍛えられた芭蕉は他藩の下級武士に比しても決して遜色のない能吏であった。
では芭蕉は江戸に出てから俳諧を忘れて実業家に変身したのか?
わざわざ書くまでもない。そんなことはなかった。芭蕉は現場監督をこなしながらも俳句への情熱はいささかも衰えてはいなかった。
白堀浚渫の請負を始めた翌年、芭蕉は俳諧師として名を江戸に轟かす快挙を達成している。それはなかなか普通ではできないことだが芭蕉は「万句興行」を挙行したのである。
江戸へ出た芭蕉は俳諧を忘れてはいなかった。むしろ俳諧宗匠として名を上げることを目標に全力を投入していた。
江戸には錚々たる俳諧師匠がいたのだが芭蕉は誰にも入門していない。独自に俳諧修行を重ねたもののようである。江戸で芭蕉はそれまでの伊賀上野時代から使っていた宗房という俳号を改め「桃青」と名乗った。
そのころの俳諧は談林俳諧が一世を風靡していた。
それまで俳諧の本流として俳諧界を担っていたのは貞門派であった。俳諧の貞門派は、江戸時代前期の歌人・俳人で連歌師でもあった松永貞徳(1571年-1654年)によって提唱された流派である。貞門派は古典の素養を重んじ、多くの貞門派の俳人は古典注釈書を著すなど深い教養を持っていた。その古典研究から生まれた俳諧は和歌や連歌の美を前提として知識偏重や言語遊戯をに偏る傾向の強い作風が特徴だった。
主流派があれば必ず異端や新派が生まれるものである。
大阪天満宮の連歌宗宗匠の西山宗印が俳諧に転向したのをきっかけに滑稽、軽口、洒脱と自由奔放な流儀であり、さらには奇妙奇天烈な俳諧も新味と称して容認した。それまでの貞門派の古風な俳諧に飽き足らなかった俳壇の人々に西山宗因の発信した斬新な俳諧の作風が持て囃された。
俳諧に新風を吹き込む談林俳諧を創出したのが連歌師の西山宗因であった。西山宗因は大坂天満宮の連歌所の宗匠であり門人には俳諧修行をしていた鶴永という俳号を持つ若い頃の井原西鶴もいた。
芭蕉は俳諧の流行に敏感に反応した。芭蕉は江戸にいる西山宗因の門人である幽山、似春たちと交流し互いに俳諧を研鑽した。芭蕉は談林俳諧という新しい俳諧の奔流に乗ったのである。
西山宗因は大阪にいたのだが延宝三年(1675年)に江戸へ下った。この年の5月に本所深川の大徳院で西山宗因歓迎の「俳諧百韻」という連句の会が行われた。この句会を契機として江戸にも談林派の新風が本格的に吹き始める。
その発端となった句会のメンバーはわずかに10人でいずれも錚々たる俳諧師である。その中に俳号を宗房から「桃青」と名を改めた芭蕉の名が入っている。
この百韻に参加した連衆は、宗因・磁画・幽山・桃青・信章(素堂)・木也・吟市・少才・似春・又吟である。
このときの参加者の中で特筆すべきは山口信章である。
この人物は現在の山梨県、甲斐国の出で延宝2年(1674年)、京都で北村季吟と会吟し和歌や茶道、書道、能楽なども修めた教養深い才人であった。しかも初対面とはいえ芭蕉にとっては同じ京都の俳諧師匠・北村季吟に教えを乞うた門人仲間である。
延宝3年(1675年)、江戸で宗因歓迎の百韻の席において初めて顔を合わせたのだが芭蕉と山口素堂はお互いに旧知の間柄のように意気投合した。
その後山口素堂は住所を深川の芭蕉庵に近い上野不忍池や葛飾安宅に移して芭蕉とは終生を友人として親しく交流した。
山口素堂の代表句には「目には青葉山ほととぎす初鰹はつがつお」がある。
江戸談林派の双璧として芭蕉と山口素堂は活躍しはじめたのである。談林派の空白域であった江戸へと芭蕉は出たのである。その後から上方で談林旋風を巻き起こした本家本元の西山宗因が新天地の江戸へと乗り込んできた。その中心に桃青と俳号を改名した芭蕉がいたのである。
芭蕉は談林派の俳諧を普及する旗手となった。
談林俳諧の俳風を担う新鋭の俳人として芭蕉の名は日増しに高まっていった。あくまで師匠を持たない一匹狼であったが逆に芭蕉を師と仰ぐ俳人が集まってきた。芭蕉最古参の弟子である其角、嵐雪、杉風は延宝三年(1675年)に芭蕉の門人になっている。
先に芭蕉が「万句興行」をやったと書いた。
「万句興行」とは何か?これは一種の俳句イベントで1万句の俳句を公開で作るという見世物の興行である。
寛文十三年(1673)芭蕉より早く「万句興行」を打ったのは当時は井原鶴永と名乗っていた32歳の井原西鶴である。大阪の生玉神社南坊で行った井原西鶴の「万句興行」は参加した俳人は150人、12日間かって「百韻百巻」(1万句)を達成した。後に作家となる井原西鶴の文芸の最初は俳句であり、「生玉万句」の興行を打ったことで無名の俳人だった井原西鶴が世間に知られるきっかけとなった。だいたい挙行に大金もかかる万句興行を何のために行うのか?おそらく知名度の低い俳人が世間の注目を集めることで俳句宗匠の地位を世間にアピールすることを目的に行われていたものだろうと言われている。宗匠になった俳人がお披露目として万句興行を行ったという見方もある。だが同じ俳人が二度も万句興行をした例もあることから宗匠のお披露目説は根拠が薄いと思われる。また俳句宗匠になるには万句興行をしないと宗匠になれないというものでもない。ただ万句興行をやったというインパクトは大きなものがある。宗匠として弟子を集める上でも効果があったものであろう。芭蕉が江戸へ出た目的は俳句で身を立てるという大きな夢の実現のためである。
白堀の浚渫請負事業という畑違いの仕事をしたのも万句興行に必要な資金を貯めるためだったと考えれば納得ができるというものである。そう考えていけば芭蕉にとっていかなる困難があろうとも「万句興行」をやらないという選択肢はほぼなかったと言えるだろう。
「西鶴め、やりおったな」と芭蕉が歯ぎしりしたかどうか知らないが、芭蕉が西鶴の生玉万句興行に刺激を受けたことは間違いない。同時に無名だった西鶴が世間の注目と関心を一手に集めているという上方から聞こえてくる噂に無関心ではいられなかったことであろう。
芭蕉も万句興行を実行した。
だが芭蕉がいつ万句興行を行ったかという正確な年月はわかっていない。
様々な資料から現在では延宝6年(1678年)だろうと推測されている。井原西鶴が大阪生玉神社で万句興行を打ってから5年後のことである。
なおこのときはまだ芭蕉とは名乗っていない。したがって資料には「桃青万句」としるされている。
ここから芭蕉の女性関係について書くことにしよう。
妾という言葉は現代ではやや死語となりつつあるのかもしれない。
一瞬、妾には「めかけ」とルビをふらないと読めない人もいるかもしれぬと心配したほどである。それはそれとして芭蕉には妾がいた。芭蕉は結婚していない。妻はいなかった。終生独り身ではあったのだが妾がいて家では妾と暮らしていたのである。妾もいたしその連れ子である子供もいたのである。
妾というといわゆる二号さんであり本妻のほかに囲っている女性を妾という。これが普通のケースだろうがそうとばかりは言えない。江戸時代には独身であっても妾と暮らす男も格別珍しいことではなかった。
世帯を持ち結婚して籍を入れて妻とする。それでもいいが正式に結婚すれば妻の実家との付き合いをせねばならず何かと煩わしい。それよりも身の回りの用を足してくれる常駐する家政婦のような妾と暮らしたほうが気が楽だ。そんな男もいたのである。芭蕉もおそらくそういう男の一人であったようだ。
妾には一ヶ月単位の短期契約から一年契約の場合もあれば5年、6年という複数年契約、あるいはとくに期限を定めないという場合もあったようだ。
妾は一種の年季奉公であった。
中には年季奉公の年季が開ければ誰かの嫁に世話をしてやるという場合もあり、そのまま妾から正妻へという場合もあった。人によっては相当裕福な資産家の男の場合は、正妻のほかに何人もの妾を置いてそれぞれに子供もいてというような例もある。
妾について「芭蕉二つの顔」にはこんな江戸時代の逸話が紹介されている。
これは「鸚鵡籠中記」に出ている話だ。「鸚鵡籠中記」とは元禄時代の頃、尾張藩の尾張徳川家の家臣であった中級クラスの武士、朝日文左衛門重章が日常見聞きした事柄を書き綴った日記である。
村尾伝右衛門という男がいた。村尾は津田新十郎家へ婿入りすることが決まった。そこで妾に暇を出した。独身の伝右衛門に妾がいたのである。これはさほど珍しい習慣ではない。すでにそのことは紹介した。だが婿入りするからと暇を出された妾がそれを承知しなかったのである。妾は主人の伝右衛門に未練があった。ゆくゆくは正妻になどと思い込んでいたのであろうか。いくら話をしても首を縦に振らない妾に伝右衛門が弱り果てたのであろう。伝右衛門は説得に応じない妾をなんとしても諦めさせようと一計を案じたのである。それが首吊りである。もちろん偽装である。
「お前が承知してくれねば婿入りもできぬ。しからば、もはやこうするしかあるまい」
と言ったかどうか実際のセリフはわからないが妾を呼んで「そこに居て良く見ろ」と一言。板の間に積まれた米俵の上に飛び乗った。そのまま紐を鴨居に架け渡すとぐいっと紐を引いて強さを確かめ、さらに自分の首に紐を巻いて首を吊る真似をした。ところがその途端、俵が転がって両足を忠に浮かせた伝右衛門はそのまま絶命した。という話を耳にしたと朝日文左衛門重章が日記に書いている。話はそれだけである。
妾の目の前で伝右衛門は首縊りの真似をしたのは間違いない。その場にいたのは伝右衛門と妾の二人である。首吊りを始めた姿を見てびっくりした妾が「旦那様、おやめください!」と止めようとして伝右衛門の脚に抱きついた。そのはずみで米俵がころがり脚に縋り付いた妾が伝右衛門の体もろとも下から引っ張ることになり紐に首を巻き付けた伝右衛門が縊死してしまった。そんな情景だったのか。
それとも乗り慣れない?俵に乗った伝右衛門が上を見て太い梁に紐を通したり首に括ったりしてしているうちに足元がふらついてバランスを崩し米俵を転がしてしまった、と見るべきか。それとも伝右衛門への未練がどうしても断ち切れない妾が心中を覚悟して首吊りを止めるふりをして伝右衛門に抱きつき体重をかけつつ米俵を蹴って滑ったのか。
真相は藪の中である。
その後妾がどうなったのか、はこの話の続きとして何も書かれてはいない。
と、ここで連想されるのが太宰治の情死事件である。
太宰治は昭和二十三年六月十三日、三十八歳の若さで愛人の山崎富栄と入水自殺している。
腰をヒモで結びあい、相手の山崎富栄の手が太宰のクビに死後もかたく巻きついていたという。
太宰は生前から「死ぬ」が口癖の情死マニア。太宰は5回以上の自殺企図を繰り返している。そのなかには偽装心中、狂言自殺、他殺説などもある。だからこのときも本気で死ぬつもりはなかったのだろうという太宰にとっては情死未遂失敗説もあり、山崎富栄側の太宰を抱き込んだ無理心中説すらある。
伝右衛門と妾と偽装首吊り絶命は結局、物言わぬ。転がった米俵しか真相を知らないのかもしれない。太宰の心中死も真相は謎のままである。
話を江戸時代の妾話に戻そう。
芭蕉が妾と暮らしていたということについて妾は格段に特異なことではないということを説明してきた。稀には正妻と妾と同居するといったことすらあった。
現代は一夫一婦制となり江戸時代のような妾の姿はない。
そのかわりというのはおかしいかもしれないが現代では戸籍とか結婚、婚姻制度を否定し非婚生活をする奇妙な風潮があるようだ。男女が結婚しないで同棲するのだがお互いを夫や妻と呼ばないでパートナーと呼ぶらしい。その上で同一の姓を拒否して旧姓のままで暮らすのだが子供ができたら子供の姓はどうするのだろうか?
こういう法律婚でない事実婚をする男女が少なからずいる。この場合、男女というのもジェンダーフリーだとかなんとかで批判対象になるらしく男男とか女女というカップルもありとする一部の人々はとかく男女の括りを嫌悪している。ここから男女嫌悪病ともいうべき流行り病のLGBTQIAPK+へと話を広げていけば際限なく横道にそれてしまう。そのあたりの話題はここらで思考停止とする。
ともかく現代の非婚夫婦というのは江戸時代の人から見ればどう見ても「主人と妾」の関係である。妻になりたくない、妾がいい、とする現代的風潮が本当にあるのなら江戸時代の女性に到底理解不能というものだろう。
何を勘違いしているのか知らないが婚姻制度に縛られない生き方がカッコイとか抜かしているが要は正妻よりも妾のほうが良いとアホらしいことを主張しているのと同じである。
実はこれは日本では新しい風潮でもなんでもない。
江戸時代から日本ではこういう非婚男女の同棲を一般には主人と妾と呼んだ。妾はまた正妻と比較して内縁の妻とか日陰者とか囲い者とか呼び習わしていたのである。今どき古臭い妾制度が世界の男女同権の風潮だといい日本でも持て囃されることになろうとは呆れたものである。
本題に戻ろう。
芭蕉の妾は名を「寿貞」という。寿貞というのは尼となって出家した法名なので本名はわかっていない。「寿貞」は「すて」と読む。想像だがこの女の本名は「すて」と言うのではなかろうか。それを芭蕉が漢字で佳字を選んで「寿貞」と書いてやったのかもしれない。
寿貞は夫に死別し幼い男児一人を抱えて暮らしに困っていた。その寿貞を江戸へ出て日本橋で暮らしていた芭蕉が妾として面倒を見るようになった。子連れ妾というわけにはいかないので寿貞は実子を親元かどこかへ預けていたのであろう。この寿貞を妾にした時期ははっきりしない。
芭蕉は延宝4年に郷里の伊賀上野から甥の桃印を連れて江戸へ戻ってきた。この年、芭蕉は33歳であり桃印は16歳であった。
そして日本橋小田原町の芭蕉宅において芭蕉と妾の寿貞、桃印の三人が暮らすことになった。
その後の芭蕉の簡単な出来事を年次を追って書くとこのようになる。
延宝5年(1677年) 芭蕉34歳 この年を最初に神田上水の浚渫工事を受注し実施する。桃印も芭蕉の片腕となって働いたものだろう。
延宝6年(1678年) 芭蕉35歳 「万句興行」を実施。芭蕉の俳諧師としての名声が高まる。
延宝7年(1679年) 芭蕉36歳 俳諧宗匠として多くの俳句を俳句誌へ投句発表する。
延宝8年(1680年) 芭蕉37歳 10月21日芭蕉の暮らす日本橋小田原町の近隣から出火し十余町が類焼する。この歳の冬、芭蕉は住み慣れた日本橋を離れ深川へ転居する。
この間の芭蕉は「万句興行」を打ち花のお江戸で俳諧宗匠として華々しくデビューを飾った。さらに神田川の水道浚渫請負事業も軌道に乗り経済的にも安定してきた。家庭的には寿貞が食事や家事一切を担ってくれ仕事の片腕として若い桃印が頼もしく育っている。
このような順風満帆な芭蕉の日々が想像できる。
だが事実はそのようなものではなかった。
そう書くのは「芭蕉 二つの顔」の著者で芭蕉研究家の田中善信氏である。此の本には緻密な情報の検証や実証が積み重ねられているのだがそれらは割愛する。大まかにいかなることが芭蕉の身辺に起きていたかを述べることにする。
よりにもよって芭蕉が何くれとなく面倒を見て親代わりになって世話をしてきたのが甥の桃印である。だがこの男が出奔つまり失踪してしまったのである。しかも単独ではなかった。芭蕉の妾の寿貞も同時に行方をくらました。有り体に言えば桃印と寿貞は不義密通の上、芭蕉のもとから失踪したのである。
そこに何があったのか詮索しても虚しい。
ともかくありえへん事態が起きたのである。
これはとんでもない一大事であった。
江戸時代において不義密通は正妻であれ妾であれ死罪である。とくに妾は主人の使用人であり密通は問答無用の死罪である。さらに桃印は叔父である芭蕉の妾と不義密通して駆け落ちするなどもってのほかである。恩義ある芭蕉に後ろ足で砂をかける背徳の徒輩と言わねばならない。
さらに桃印の場合はもう一つやっかいなことがあった。伊賀上野の住人は出国して5年目には帰国し役所へ出頭しないとならない。さもなくば藩の掟を破った犯罪者として仕置は必定である。厳しい藤堂藩の藩法に従わなくてはならない桃印が行方をくらましたのである。そうなると桃印の叔父であり身元引受人の立場になる芭蕉も監督不行き届きとして連帯責任による処罰もくだされる可能性が高い。延宝8年が桃印の帰国と役所へ出頭すべき年であった。だが桃印も寿貞も広い江戸市中のどこに逼塞して暮らしているのか行方が皆目わからない。
ようやく俳諧師として江戸で名前の売れ始めた芭蕉。弟子も増えてこれからという時に桃印と寿貞の密通駆け落ち事件が発生した。これが芭蕉を窮地に追い詰める。
もし二人の駆け落ちが世間に知れたら芭蕉自身の身が危うくなりかねない。
面倒を見たつもりの二人から逆に背中を押されて崖から突き落とされた。そんな気分だったのかもしれない。
もはや俳諧どころの騒ぎではなかった。
延宝8年の芭蕉は必死で二人の行方を追っていたはずである。なんとか二人を説得して密通の死罪からも藤堂藩の掟破りの仕置からも救済してやりたい。それが芭蕉にとっても致命的なスキャンダルに巻き込まれないで俳諧師としての地位を保つ唯一の方法であった。
だが二人の行方はわからず木枯らしが吹き始める季節になった。
そんな10月21日日本橋に突然の大火が起きた。
芭蕉の家も近所も無事であったがけっこうな類焼があった。
騒然とする火事騒ぎの現場で夜空を焦がす火の粉を見ながら芭蕉はある決断をした。
江戸の日本橋はいわば江戸の中心地である。
俳諧宗匠として一家を構えるのは江戸の中心を置いてほかにはない。だが桃印と寿貞という時限爆弾を抱えたまま日本橋にいるのはあまりにも危険すぎる。二人の失踪が世間の噂になるのは時間の問題だった。その前に江戸を離れることで世間の目を欺くしか策はなかった。
それ以外に二人の密通と駆け落ちを世間から封印、隠蔽する名案は思い浮かばなかった。
おそらく芭蕉はこのとき俳諧宗匠としての自分の未来を見限った、いや涙を飲んで葬ったのだろう。
そして直接の被災はなかったももの日本橋大火を利用して深川へ転居を決めた。
もはや世間のスポットライトの当たる江戸日本橋という一等地にいれば輝かしい俳諧新時代のリーダーといての人生は約束されていたであろう。それも可能だった。
悪いのは芭蕉ではない。芭蕉を裏切った桃印と寿貞の二人である。俺には罪はない。そう割り切れば日本橋に居直り続けることもできなくはなかった。だが芭蕉はスキャンダルを避ける穏便な道を選択したと言えるだろう。
そのために芭蕉の失ったものは大きかった。芭蕉は俳諧宗匠というまさに自分の手で掴めるはずの未来を掴むことを放棄したのである。
俳諧は捨てるつもりはなかった。
不義密通という罪を背負った二人は世間を欺いて息を潜めて暮らしているに違いない。それを不憫に思う心はあっても咎めるつもりは芭蕉にはなかったと想像する。二人を憎んでも憎みきれない。
芭蕉には自分もまた同じ弱い人間の一人だという自覚があったのかもしれない。そのあたりに人間芭蕉の人としての誠実さのようなものが滲み出ている。
もう一つ解決しないといけない難問があった。
このままでは郷里の伊賀上野の藤堂藩から脱藩者として桃印はお咎めの身となる。そうなると江戸にいる親代わりの芭蕉にとっても犯罪の加担や共謀を疑われかねない事態となる。
おそらくこういう決断を芭蕉はしたのではないだろうか。
延宝8年10月21日の日本橋新小田原町の大火。それを見て芭蕉は心を決めた。これしか状況を打開する道はない。もちろん危険もある。虎穴にいらずんば虎子を得ず。
芭蕉はルビコンを渡ったである。
ひとつは自分自身が深川へ転居して隠棲する。同居していて姿を消した寿貞や桃印の記憶や形跡を世間の目から消すためである。
もう一つは郷里の藤堂藩へは桃印が日本橋の大火で死亡したこととして届け出る。これにより藤堂藩では5年目に出頭する義務がなくなる。江戸で死人となった桃印はもはや帰郷することはかなわない。実際の故郷でのそうした工作は芭蕉の指示によって実兄に頼むしかない。窮余の一策だがほかに方法はない。桃印の所在が仮に見つかったとしても事の次第を言い含めれば否も応もないはずだ。
桃印には死んでもらう。
そう決断した芭蕉の動きは敏速だった。
伊賀上野の実兄にもとへ芭蕉は早飛脚を送ったと想像される。
日本橋で大火のあった火のあった延宝8年10月に伊賀上野の芭蕉の実兄が松尾家の菩提寺である愛染院に甥が死亡したと届け出ている。
あわせて藤堂藩の役所へも甥が日本橋新小田原町での大火において死亡したと届け出ている。実兄は江戸の芭蕉が書き送った甥が日本橋大火にあって死亡したという「偽手紙」を持参して一世一代の芝居を打ったものと想像される。そう考えれば、芭蕉は実兄に事情を明かす手紙を一通、菩提寺や役所へ見せるための桃印死亡を伝える偽手紙一通、合計二通の手紙を送ったに違いない。
芭蕉の言う通りに実兄は動くしかなかった。桃印が帰郷しないとなれば松尾家へ役所からきついお咎めが来るのは必至である。それを回避するには芭蕉の言うように桃印死亡を届けるしか方法はなかったのである。
実兄にとっての甥は芭蕉にとっても甥である。
松尾家の菩提寺の愛染院はいわば寺請制度による人別帖という戸籍台帳を保管している。ここに甥が死亡と届けられた。この甥は江戸へ出た後に大火で死んだ。この甥が実は行方をくらましている桃印だったのである。
そうすれば全ては辻褄が合う。逆にそうでないと辻褄が合わない。
「芭蕉二つの顔」の著者の田中氏は大胆にそう類推している。
こうしてみると芭蕉が完璧を期して知恵を絞り桃印と寿貞の密通失踪事件の隠蔽工作に奔走したであろうことが伺える。しかも、それは偶然に起きた日本橋大火によって思いついたのである。
そのうえで芭蕉にとって世間を欺くためには自分自身が絶対に世間の脚光を浴びないことが必要であった。
深川への隠棲はそのために選ばれた芭蕉自身の逃避行であった。
芭蕉は江戸を離れて草深い鄙びた深川へと身を潜めることにした。俳諧の世界でこれ以上の脚光を浴びないために深川で隠者となり隠遁暮らしをすることを芭蕉は選んだ。
新進気鋭の人気俳諧宗匠という地位。勝負をかけていっときは確かに掴んだその栄光を芭蕉は自ら捨てたのである。いや捨てざるをえなかった。その悔しさ、不条理、懊悩は察して余りある。
延宝8年の冬、関東のからっ風が吹きすさぶころ芭蕉は弟子達に荷車を引かせ隅田川を越え深川へと引っ越しをした。日本橋から隅田川対岸の深川へは永代橋を渡るのが一番近道である。だが此の年にはまだ永代橋も新大橋もできていない。このとき、隅田川にかかっている橋は両国橋ただ一つだけである。芭蕉は遠回りして両国橋を渡ったかあるいは近場を渡し船で渡ったか定かではない。
渡し船をもし使ったとしたら江戸市中しか知らなかった芭蕉にしてみれば島流しで遠島される罪人の気分だったと言えば言い過ぎであろうか。決して心浮き立つ気分でなかったのは確かだろう。
ここで江戸の俳諧世界から自分が忘れられ物見高い世間の目を欺き通すしか芭蕉の生きる道はなかった。
そのことが結果として芭蕉が没するまでのその後の約14年間の旅から旅へさすらう漂白の詩人へと芭蕉を変貌させるスターとなった。
弟子達は芭蕉が急に深川へ引っ越すと聞いて驚いたに違いない。何を好き好んであんな江戸から遠く離れた寒村へ行くのかと不審に思われたに違いない。せめて一冬越して季節の良い来年の春にでもすればいいのでは、などと引き留める弟子も多かったろう。だが芭蕉の決意は固かった。急なことで弟子達にも餞別を届けるにもお別れを惜しむにも余裕のない慌ただしさだった。
芭蕉は逃げるように身の回りの物だけをまとめて日本橋を去った。
深川の仮住まい。家とも呼べない簡単な草庵である。
日本橋の住まいと違って畑や荒れ地しかないど田舎の深川は都落ちを実感させた。
隙間風の吹き込む寒夜。冷え切った体を丸め手を火鉢の炭火で温めながら芭蕉は何を思っていたのであろうか。
「もう終わったか」
そんな気分だったのかもしれない。
37歳とは言え当時、江戸時代の平均寿命は32~44歳くらいである。感覚としてはもはや老境であり老残の心境と言ってもおかしくはない。
人生の盛りはとうに超えていた。
しかも弟子の一人もいない荒涼とした深川での落魄の日々。人には絶対に明かせない訳ありの事情を背負っている。その上で世を憚っての隠遁生活に入ったのである。
世捨て人となった芭蕉にとって人生の落日が間近に迫っていた。
深川へ引っ越した翌年の天和元年の春に門人の李下が草庵の庭に芭蕉の一株を植えてくれた。これが立派に育った。芭蕉には李下の気持ちが嬉しかった。そこで芭蕉はそれまでの桃青(とうせい)という俳号のほかに「芭蕉」という新たな俳号を名乗ることにした。
芭蕉は、この翌年天和2年3月『武蔵曲』に「芭蕉」を名乗っている。
芭蕉が俳号として「芭蕉」を使った由来には諸説ある。
芭蕉というのはもともとは俳号ではなく芭蕉が江戸深川に構えた庵の号であった。深川の家は当初は誰からとなく単に「草庵」と呼ばれていた。だが、李下が庭に植えた芭蕉の木が立派に生長して葉を茂らせ近所の名物となった。そこから、弟子たちがこの草庵を「芭蕉庵」と呼ぶようになったという。そこから「芭蕉庵桃青」と号を書いたということもあったらしい。
当時、芭蕉の俳号は「桃青」であったことは既に述べた。
この「桃青」という俳号のほかに芭蕉は趣によって「芭蕉」(はせを)という戯れの俳号を使う気分になったものらしい。
天和2年(1682年)に「芭蕉」と号した俳句が初見される。最初は桃青のかたわらの戯れ、趣による別号であった「芭蕉」がいつしか人口に膾炙するようになったのだからわからないものである。
ちなみに、芭蕉は唐の詩人の「李白」に憧れていたという。
李白という名前は分解すれば「梨と白」になる。李白には遠く及ばないという意味を込めて「桃と青」で「桃青」と号したという説もあるようだ。
もし李下が芭蕉を深川の草庵の庭に植えなかったら芭蕉という俳号は生まれなかった。その結果「桃青」という俳人のままだったかもしれない。なぜ李下がわざわざ芭蕉を持ってきて植えたのか?そのいきさつはなんだったのだろう。
もしかして何かの折に芭蕉が李下の家を訪れ、庭の芭蕉を見て「芭蕉は青々として葉も茂って清々しい、なんともいいものだねえ」と呟いたことがあった。それを李下が覚えていて深川の殺風景な草庵に移った師匠の少しでも気慰めにでもなればと自宅の庭の芭蕉を一株掘り起こして深川へと担いできた。
これはまったくの想像であり何の根拠もない作り話だがさもありなんと自分では思わないでもない。
もし芭蕉が芭蕉が嫌いであったらわざわざ芭蕉を庭に植えるために持参するわけがない。おそらく李下は芭蕉が師匠の好みだということを知っていたに違いないと私は思っている。
妄想をたくましくすれば若き日に芭蕉は伊賀上野で藤堂藩の名門、新七郎家に奉公していた。もちろん庭の掃除も手入れもしていただろう。もしかしてその庭の片隅にでも芭蕉があったのかもしれない。
芭蕉に関する資料の精査ができる立場にはないが李下が深川の草庵に芭蕉を植えたことが俳号としての芭蕉誕生の発端になっているのは間違いないだろう。しかし、それ以前から芭蕉の心の中に芭蕉がなんらかの意味を持っていたのではないのだろうか。そう思えてならない。
ともかく李下は俳聖「芭蕉」の「芭蕉」号を生んだ影の功労者であるのは間違いない。
「餅つきや内にもおらず酒くらひ 」(『あら野』)
「井の水のあたゝかになる寒哉 」 (『續猿蓑』)
李下の詠んだ代表句である。
李下は芭蕉の門人だったが、その妻もまた門人だった。その李下の妻が元禄元年の秋に死去した。それを悼んで芭蕉は挽歌を送っている。
被(かずき)き伏す蒲団や寒き夜やすごき
またこのとき門人の去来は李下に対して芭蕉の追悼句を踏まえて
「寝られずやかたへ冷えゆく北おろし」(曠野)と詠んでいる。
これらの句をみれば芭蕉一門の細やかなこころの通った付き合いが感じられてならない。
深川の芭蕉庵は江戸の外れではあったが弟子達は遠路を問わず師匠である芭蕉を慕ってしばしば足を運んでくれた。
深川の芭蕉庵は移って丸2年たった天和2年(1683年)12月江戸駒込の大円寺から出火したいわゆる振袖火事によって類焼した。それを翌年に弟子達が再建してくれた。これが
第二次芭蕉庵である。それから3年めの貞享3年(1686年)3月、再建された第二次芭蕉庵において蛙を織り込んで俳句をつくるという句会が弟子達を集めて開かれた。そこで43歳になった芭蕉が詠み弟子達の選考で第一席に押された句が次の句である。
古池や 蛙飛び込む 水の音
この句は芭蕉の代表作とされ有名である。
芭蕉庵には池もあって川魚の生け簀かわりに使っわれていた。そこには蛙もいて野趣あふれる様子であった。
ここで話が前後するが芭蕉が深川へ転居した際の裏話を書いておかねばならない。すでに書いておくべきところを失念して申し訳ない。
芭蕉庵の側には池があり云々というのはむしろ反対であって池の傍らに芭蕉庵があったというほうが正しい。
芭蕉が深川に移ったのは芭蕉十哲の一人で最古参格の弟子である杉山(鯉屋)杉風(さんぷう 1647~17321)の世話によるものである。杉風は俗称を鯉屋藤左衛門とい言った。杉風は鯉屋という屋号の通りに祖父の代から鯉など川魚を扱う魚問屋であった。そのため深川に商品の鯉や川魚を飼う生け簀の池を持っていた。
杉風は芭蕉の弟子としてまた師匠の後援者でもあった。
杉山杉風は江戸日本橋小田原町の魚問屋・杉山賢永の長男として正保4年(1647年)に生まれた。芭蕉よりも3歳年下であった。杉風の祖父は摂津国今津の人であり父の杉山賢永の時に江戸へ出て鯉商いで成功を収めていた。杉風の父の賢永もまた仙風という俳号をもち俳諧を嗜んでいた。
芭蕉は江戸へ出た最初にこの杉山杉風の家に旅装を解き世話になったとも言われている。
杉風父子は、江戸へ出てきたばかりの芭蕉という新進気鋭の俳諧師と出会ってひと目で気に入った。それからは杉風親子は一家をあげて芭蕉の生活を助けるための経済的援助を惜しまなかったとようだ。
深川の芭蕉庵は杉山家の稼業として深川六間堀にあった鯉を飼う生け簀池の番小屋を修繕して芭蕉の住まいに提供したものだったのである。
鯉の生け簀池には蛙や水辺の生き物もいた。
芭蕉はそうした池と蛙の情景を踏まえ俳句を詠んだものと思われる。
だが蛙はなぜ池に飛び込んだのか。
蛙の勝手でしょ、と言われればそれまでだが、そこには何らかの蛙の事情があったと思うのが普通だろう。
何を好き好んで蛙は静まりかえっている古池に飛び込まなければならなかったのか。しかも大きな音まで立てて飛び込んでいる。これは何かに追い立てられ逃げ場を失った蛙が切羽詰まってあわてて飛び込んだと思うしかない。
また古池とは死を思わせる沈黙枯淡の世界であるのに対して宙高く跳躍して水面へ頭から飛び込む蛙は生き生きした生命力の象徴である。
死の世界に命の塊が飛び込んで飛沫を上げて水音を立てる。
なんでもない光景を詠みながらこの生死のせめぎあう一瞬を活写した対象の妙により俳句に哲学的な思索の余韻と深みすら付加している。
そこでこれはこじつけだと言われればあえてその科を受けようと思うのだがこんな解釈は成り立たないだろうか。
当時の芭蕉は甥と妾という二人の咎人を極秘裏に隠匿するという後ろめたさを負い目に感じて生きていた。その罪悪感に苛まれながらも他方では生きていくために多くの弟子を抱える俳諧師匠という表の立場も維持していかねばならなかった。
そういう苦しい心境を思えば、この俳句は追われて死にものぐるいになり「死中に活を求める」自分自身のことを諧謔味と開き直りも込めて詠んだと言えるかもしれない。古池に飛び込んだ追われた蛙。それは芭蕉自身の姿だったのかもしれない。
37歳で深川へ転居したのち芭蕉は俳句行脚の放浪の旅を始める。
そして元禄7年(1694年)51歳のとき旅先の大阪で客死する。
その間14年である。芭蕉が生涯に詠んだ句は約900句と言われる。また紀行文はすべて死後に刊行された。ちなみに有名な「奥の細道」は芭蕉死後元禄15年(1702年)に刊行された。日本の古典における紀行文学の代表的存在である。
このタイトルの「奥の細道」というのはそのまま奥州への旅という意味といわれている。もう一つ芭蕉の俳句は「細み」を大事にする俳風だと言う。それがこのタイトルにも象徴されている。
芭蕉の考える俳句とはどういうものなのか。
俳句において作者の心が対象に深く入り込みそれを繊細に表現する。それには、寂 (さび) 、 撓 (しおり) 、細み、 軽み、が大事だというのがいわゆる蕉風の俳句である。
●寂 (さび) 古びて趣のある美しさ。閑寂・枯淡な境地。
●撓(しおり) 細やかな感情が余情となり句く滲みでること。
●細み 句が幽玄で微妙な境地。
●軽み 身近な題材を美を見いだし平淡簡明な表現。
まとめていえば、静寂の中の自然の美や人生観を詠みこんだ俳句、ということらしい。
この芭蕉俳諧の奥義は正直なところ難しくてわかりません(笑)
ただ「細み」というのは聞き慣れない言葉でインパクトがある。有名な「奥の細道」にも「細」という字がわざわざ使われている。
芭蕉俳句を読み解くためには、この「細み」の世界がわからないと無理だとうことだけはわかる。繊細の細、細部の細・・・・太いではない、細い世界を芭蕉はどう考えていたのだろう。
また「軽み」というのもいい言葉だ。あまり重苦しいのはよくない。これはあらゆることに通じるだろう。
芭蕉俳句の世界はさておいて本稿の主題である芭蕉の実人生がどのような終末を迎えていったのか。
芭蕉が亡くなる前年の元禄6年そしていよいよ芭蕉の寿命の尽きる元禄7年のことである。
あの二人が再び芭蕉の前に姿を現すのである。
いつのころから二人は芭蕉に消息を伝えていたのか。詳しいことはわからないが芭蕉と桃印、寿貞は再会したものと思われる。二人の間にはまさ、おふうという娘が生まれていた。寿貞の連れ子と言われる次郎兵衛なる男の子を含めて三人の子持ちとなっていた。言ってみれば二人の娘は芭蕉にとっては孫のようなものである。芭蕉は旅先からもこの二人を孫娘のように気遣っていたらしい。そんな手紙が残されている。
では不義密通し駆け落ちした二人は子供三人と幸せになっていたのだろうか。どうも現実はそうではなかったようだ。
元禄6年に桃印は33歳になっていた。彼は病を得てどうにもならない状態であった。この年の2月、芭蕉は哀れに思ったのか病の重い桃印を深川の芭蕉庵へ引き取っている。しかし介抱も虚しく3月下旬に桃印は身罷った。
その翌年、元禄7年5月中旬、芭蕉が人生最後の旅へ出ていった後に、今度は寿貞が母子ともども芭蕉庵へ移り住んだ。そのままほどなく寿貞も亡くなった。
6月8日、旅先の京都嵯峨野にある門人・去来の別邸の柿落舎で寿貞の死を知った。その衝撃を芭蕉はこう綴っている
「寿貞無仕合せ者・・・何事も何事も夢まぼろしの世界。一言理屈はこれなく候」
無常観漂う文面である。
また寿貞への追悼句を詠んでその霊へ手向けている。
数ならぬ 身となおもひそ 玉祭り
玉祭り、とは魂を祀ることであり芭蕉は寿貞の死を慰霊したのであろう。そこで芭蕉は寿貞の霊へ語りかけた。お前は不幸せな人生だったと思うかもしれない。しかし決して自分のことを取るに足りない身だったと思うものではないよ。私という者がおまえのことをしっかりと覚えているのだからね。
そして同じ年元禄7年10月11日芭蕉は大阪で客死した。
芭蕉は「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」という辞世の句を残して寿貞、桃印の待つ先へと旅立っていった。
★余録★ 講談社文庫「芭蕉 二つの顔 俗人と俳聖と」(田中善信著)。
この芭蕉の伝記本を読み終えて感じたのは人間芭蕉は実直であり律儀な人間であったということだ。人間として思いやりの深い、男気のある人物だったと感じている。芭蕉については俳句の話が世間に多いのは当然のことだが芸術は同時にその人の心の反映でもある。人物像とその人が生み出した芸術がまったく相反しているとは思えない。芸術にはやはりその人の人柄が滲み出ているものだ。
芭蕉は若くして武家奉公に出た。そこで俳句とであって興味を覚え生来の生真面目さで創作に取り組んだのである。伊賀上野ではそこそこ若手の俳諧師として知られるまでになった。そして生涯の仕事として俳諧の道を志し勝負の舞台として選んだのが江戸であった。
江戸へ出て俳諧宗匠として名を上げる。それこそが芭蕉の生き甲斐であった。
せっせと金を溜めて準備し「万句興行」という大花火も打ち上げて成功を収めた。得意絶頂にして順風満帆の芭蕉であったが好事魔多し。芭蕉は地獄に突き落とされた。
伊賀上野時代から面倒を見て江戸へ連れてきた甥と縁あって家に置いていた妾。この二人が不義密通の末に駆け落ちして姿を眩ませたのである。
そのあたりの経緯や突然の深川移転の謎などについては本文に詳述したので割愛する。
二人が失踪し芭蕉が深川の草庵へ転居する。そこから芭蕉は俳諧宗匠という世俗的栄華栄光には背を向けて俳句の求道者、探求者へと変貌する。亡くなるまでの14年間の半分は旅に暮らす。漂泊の詩人、俳句聖としての果てしない行脚に明け暮れる日々を送り遂には旅先で客死するのである。
そうまとめればいかにも俳聖芭蕉の伝記っぽいが実際はどうだったのだろか。
同居していた甥と妾は江戸の司法や藩法に照らして不義密通、伊賀上野藤堂藩の脱藩、など男も女も死罪を免れない重罪を犯している。しかもそれが世間に露見すれば芭蕉自身も何らかのお咎めも必至である。いわば芭蕉は失踪した二人と一蓮托生の関係に巻き込まれたといって良い。」
芭蕉は毒を喰わば皿まで、との言葉もあるがまさにそんな覚悟で二人の罪の隠蔽工作を行った。このあたりはこれまで誰も究明したことのない芭蕉研究の空白部分であり、半ば推論を重ねた上での解釈となろう。
深川移転から芭蕉は俳人としての求道の旅と失踪した二人の隠蔽との二股人生を強いられていた。
ネガとポジの同時進行でありいずれ運悪ければ芭蕉の人生そのものが破綻することも予見されていた。
そういう綱渡りのような後半生を芭蕉は送らざるを得なかった。
そこに芭蕉のなんとも言えない律儀さが滲み出ている。
本来罪を犯し主人であり恩人である芭蕉を裏切ったのは甥と妾の二人の方なのである。おそれながらとお上へ訴えでないまでも開き直って日本橋での俳諧宗匠として羽振りの良い暮らしを続けることもできたのではないか。だが芭蕉はあくまで二人の失踪を表沙汰にせず隠し通した。
芭蕉は二人への情愛を断ち切れなかったのである。
あの二人はあまりにも愚かであり泣きたいほど純情で自分勝手で世間知らずである。だがそれを責めることができるだろうか。二人は苦悩した末に運命と言うう非情の波に抗いがたく押し流されたのである。
芭蕉は二人の中に人間というものの性の哀しさを感じないではいられなかった。
人は寂しく哀しいいきものだ。芭蕉の詩にはいつも荒涼とした風とともに啜り泣くようなそんな単一の音色が漂っている。
野ざらしを心に風のしむ身かな
此の俳句の無常観はほかの俳句にも共通する。春夏秋冬、喜怒哀楽、悲喜こもごもの芭蕉の詩からは、詠われている景色の背景や地底からこのモノトーンの音色が繰り返し流れている。
最後に芭蕉は病を得て死期のせまった甥の桃印と妾の寿貞とその娘二人を深川の自宅へ引取っている。甥の場合は介抱し死を看取っている。
芭蕉は自分を裏切ったにもかかわらず当事者の二人を決して見捨てなかった。それはなぜなのか、と問われても芭蕉は答えられなかったかもしれない。
妾の死について芭蕉の書いた手紙の一節をもう一度引くと。
「何事も何事も夢まぼろしの世界。一言理屈はこれなく候」
人生は「理屈ではない」と断定した言葉に芭蕉の苦悩の末に辿り着いた境地が伺い知れるのである。人とはそういう哀しい生き物なのだという悟りの境地と書けば通俗に過ぎるであろうか。
「奥の細道」は芭蕉の代表作である。この表題の「細道」にこだわってみたい。
奥州への旅の紀行文であることからこの表題がついたと言われる。だがそれだけではないのだと思う。奥は奥州と解するのが一般的だろうが「人の奥へと続く細い道」と読めなくもない。
人には表には見せない裏道がある。その裏道は表からは見えない奥まった部分に広がっている暗渠へ続く細い道なのである。
人生とは残酷なものである。切なくて哀しくてやりきれないほど辛く非情なものである。そんな不条理の雨に濡れながら彷徨い漂いもがき苦しんでのたうちまわりながらも人は哀しみに耐えて生きていかねばならない。
人はまさに人知れず我と我が身の心の奥底の誰にも気づかれない暗渠につづく細道に身を沈めうずくまって慟哭しているものなのだ。
芭蕉の俳句には、人生の悲しみの美学が秘められている。
芭蕉俳句の奥深く奥深く、言語を絶する煩悩業苦の絶唱とも言うべき人生の底深い奥の細道があてどもなく、果てしもなく続いているのではないだろうか。
Posted at 2022/09/16 14:59:18 | |
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