2021年03月13日
難を逃れ無事だった友人は避難所生活を余儀なくされました。
最初は皆有難いと思うでしょうが、しばらく時間が経つと「あっちの避難所では
○○が支給されているらしい」「食料もこっちよりいいらしい」とか、そんな話も出てくるようです。
津波で流された自分の車を数日後見つけたが、既に窓ガラスが割られていたらしく、そのころ、窃盗団が荒らしまわっていたという話もあり、そういう警備で各県警の機動隊も応援に来ていたのでしょう。
営業で沿岸部を回っていた人が震災後数日して訪ねていくと「何も持って来なかったの?」と言われたり、こういう話は沢山あります。
沿岸で商売をしていて、津波で全て流され内陸へ来て再開した人がいました。
時々、そこで買い物をしていましたが、メーカーへ傷モノで構わないから支援をお願いできないか?と聞いても「検討してみます」で終わり。
県営アパートなどの空いている部屋にしばらく無料で住めないか?と聞いてもダメだった。
結局、軌道にに乗れず、また沿岸へ戻っていきました。
「何か違う仕事を探す」と言っていたけど、その後どうしているか時々思い出します。
その年のGW、被災地に来て家族でピースサインで写真を撮っている家族。
子供に何を教えるんですかね?
どこのサイトか忘れましたが、ネットのニュースに載ってました。
この家族、ロクな事が無いでしょう。
阪神淡路、新潟中越、北海道、生まれてから大きな地震が多々ありました。
みんカラの中にも経験した人がいるでしょう。
これからも何が起こるか分かりません。
車好きの集まるSNSなので、色んな考えで給油していると思いますが、ギリギリまで使って給油しているという人は、今一度「常に満タン」をご一考下さい。
何も備蓄していない人は、せめて乾電池、ラジオ、カセットコンロ、保存水、長期保存の可能な食糧等を準備された方が宜しいかと思います。
Posted at 2021/03/13 14:01:20 | |
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2021年03月13日
車のネタはありませんが、東日本大震災から10年。
当時、私は酒屋でワインを物色中。
手を伸ばしたその時、カタカタカタ…と揺れ始め、
次第に大きくなる揺れに「これはマズイ」と思って、外に出ると…
電柱は左右に大きく揺れ、電線は縄跳びのように、車はおもちゃのように左右に揺れ、地面はサーフィンでもしているかのように揺れ、抱き合って不安そうな高齢の女性。地震で恐怖を感じたのは初めて。
一旦揺れが収まった時、自宅は大丈夫か?と車に乗って戻る途中、何と停電で信号が全て消えている事に気が付く。
慌てる気持ちと前を走る車を追走する形だったので、気が付かなかったのである。
両親も外出先から同じタイミングで帰宅。
無事な事を確認後、私は休みであったが職場へ向かう。
行く道の国道は大渋滞、途中、ホンダディーラーの社員がボランティアで交通整理しているの見ながら、ラジオを聞こうとするもNHKが何も聞こえない。
ローカル局は生きていたので、聴いていると、続々入る沿岸部の悲惨な情報。
渋滞で止まっている間も数えきれないほどの余震で車が揺れる。
職場へ行くも、特に応援が必要な状況ではなく帰宅。
帰路は国道から外れて、遠回りを選択。
それから停電が2~3日続く。
沿岸部に仕事の関係で住んでいた高校時代からの友人へメールを送るも返信なし。
ダメだったかと愕然としていたら、1週間後に返信あり。
携帯の中継所が全滅で使えなかったそうだ。
この友人は4階建てのビルの3階に住んでおり、1階が事務所。
いつも津波注意報が出ると、車で避難していたそうだが、国道が渋滞しているのが見え、間に合わないと思い、事務所から自室へ駆け上がったそうだが、その後津波に襲われ、2階までは流され、一晩海の上にいたも同然だったと言っていた。
避難所へ行っても、おにぎり一個のみ。
内陸部も物資不足で、近所のコンビニも食料は板チョコも無い。
馴染みの店長に「これなら店休業にしたら?」と聞くと「本部が開けておけっていうのよ」
母親と連れ立ってスーパーまで徒歩で行ってみる。
私はリュックを背負って、ガソリン節約のため徒歩で。
入店は確か20人ずつの入れ替えの制限。
何故か野菜と魚はあるが、缶詰は高い「カニ」、ティッシュも「やわらか…」みたいなものだけ残っている。
菓子パンは「家族で一個のみ販売します」カゴに何個か入れたおばあちゃん、店員に言われ戻していたが気の毒だった。
ホカ弁に寄ったら、総菜だけでハンバーグが3個だけあったので買った。
「これで最後です」と言われ買って良いやら…
東北の3月はまだまだ寒い。
運よく反射型石油ストーブが2台あったので助かった。
ファンヒーターは停電で使えず。
幹線道路のスタンド渋滞も連日続く。
所々「ガス欠」と貼り紙をして放置している車も見かける。
並んでいる車は動く時以外はエンジンを切っている。
待っている間、練炭を使って一酸化炭素中毒で亡くなった方もいる。
私の地域の昔からのスタンドは給油待ちの最後尾で従業員が自転車で待機。
店舗と電話で連絡を取りながら、待ち車両がどの辺までいるか確認している。
「ガソリン入れられますか?」と尋ねると「大丈夫です、在庫が無くなったらこのプラカード出します(販売終了と書いたもの)途中で切る事はしません」
震災でよくあったのが、シッポ切りで散々待った挙句に給油出来ない車が続出した例が多々あったようで対策したのだろう。
もっとヒドイのはリッター300円ほどで売っていた市外のスタンド。
後でどこからか指導が入ったとか聞いたが、皆が困っている時にそんな事するとは信じられなかった。
実は地震発生の2時間前、2,000円分給油していた。
あの時満タンにしておけば…と思ったが、後にこの時の給油が助かった。
九死に一生を得た友人が後日言っていた。
「ガソリンさえあれば何とかなる、車で暖を取れるし携帯も充電できる」
それ以来、私はガソリンが1/4減った時に給油している。
ノートだと8~9リッターというところ。
公衆電話は次第に数が減っているが、自宅近くに電話ボックスがある。
非常時は災害用として使えると聞き、地震発生の当日、市内に住む妹宅へ電話するも通じず。
外へ出ると中年女性が一人待っていて「繋がりましたか?」と聞かれ「ダメです」と答えると「そうですか、私の実家が大船渡なので…」と返す言葉が無かった。
妹達は無事でその後会う事が出来た。
地元のラジオは「高齢者施設の○○は全員無事です」と毎日、戦時下のような放送が続き、関東や関西の県警のパトカーも走り回り、全国から警察、消防の応援が来た。
特に自衛隊は大変だったと思う。
元自衛隊の若者の話を聞いたが、彼もまた沿岸部へ行き、毎日津波で亡くなった方のご遺体を運んだそうだ。
「いつも元気で陽気なヤツも次第に無口になっていきました」
自衛隊は憲法違反だと騒いでいる連中。
何があっても彼らを頼らずに生きていけるんだな?
結構長くなってしまいました。
その2へ続きます。
Posted at 2021/03/13 13:12:40 | |
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