富士スピードウェイが今年で50周年を迎えました。
富士スピードウェイは1966年1月3日に営業を開始。
3月12, 13日にオープンイベントとして2輪レース
3月26, 27日には初の4輪レースが開催された。
そして5月2~3日には、第3回日本グランプリが開催。
1969年まで続いた日本グランプリは、今でも伝説として語り継がれている。
当初FSWのコースレイアウトは、アメリカのストックカーレースを持ち込むためにオーバルコースが計画されていた。
ところが、1964年に日本を視察しにきた当時F1でも活躍したスターリング・モスが
「日本ではオーバルコースのレースは適さない」との助言を受けて計画が大幅に見直された。
最終的には、アメリカのオーバルコースとヨーロッパのS字やヘアピンの要素が組み合わされ
以前の30°バンクがあったコースが出来上がったそうだ。
日本グランプリは、1963年に鈴鹿サーキットで始まり、1964年の第2回まで鈴鹿で開催された。
そして1年おいて
1966年に第3回日本グランプリがオープンしたばかりの富士スピードウェイで開催される。
決勝日には9万5千人という大観衆を集め、トヨタ、日産、プリンス、ポルシェなどが熱い戦いを繰り広げた。
しかし、日本グランプリは第6回大会で時の環境問題などを考慮して終焉となった。
最後の年の優勝車が写真の日産のR382で、元さんこと黒沢元治氏がドライブした。
FSWのレストランでは、月替えで往年のレーシングカーを展示
写真は7月に行った時に撮ったもので日産のR382です。
ニッサン R382 黒沢/砂子組
日産製 6リッター V12エンジンを搭載
迫力のリアビュー
他の年のは、以前趣味で収集していたミニカーで紹介
◆1963年 第1回日本グランプリ 鈴鹿サーキット
第1回のは持ってないです。たしかミニカーでも発売されていなかった。
メインレースでは、ポルシェ904が日本車を圧倒し優勝したとのこと。
◆1964年 第2回日本グランプリ 鈴鹿サーキット
プリンス スカイライン 2000 GT-B 2位 生沢 徹 (エブロ 1/43)
スカイラインの2L直4エンジンをグロリアの2L直6エンジンに乗せ換え、ボディも200mm延長
一見ノーマルと見える外観から「羊の皮を被った狼」と言われた。
優勝間違いなしとの前評判だったスカイラインGT-B
ところが急遽、式場 壮吉氏のポルシェ904(カレラ4)が参戦する。
ポルシェ904は生粋のレーシングカー
さすがにかなうわけもなく、念願の日本車の優勝は果たせなかった。
しかし生沢 徹氏のスカイラインGTが1周だけポルシェを抜いてトップを走行した。
その瞬間、大観衆は歓喜した。日本車でもポルシェの前を走れるのだと
これが後のスカイラインGT-Rが残した49連勝と通算50勝という金字塔
「スカイライン伝説」の序章となったである。
◆1966年 第3回日本グランプリ
プリンス R380 優勝 砂子 義一 (エブロ 1/43)
日本初のレーシングプロトタイプカー
エンジンは2L直6を積み、200PS以上を発生
車重は、わずか660kgしかなかった。
ポルシェ906を抑えて1-2フニッシュ、念願の日本車初の優勝を飾った。
◆1967年 第4回日本グランプリ
ニッサン R380Ⅱ 2位 高橋 国光 (エブロ 1/43)
この年から、前年に日産がプリンスを吸収合併したことで日産R380となった。
4台体制で挑んだこのレース、3台体制のポルシェ906(カレラ6)との接戦を繰り広げる。
しかし結果は、前年R380を運転した生沢 徹氏がプライべーターとして参戦した
ポルシェ906が優勝、R380は2,3,4位に甘んじたのであった。
◆1968年 第5回日本グランプリ
ニッサン R381 グループ6 プロトタイプ (エブロ 1/43)
ニッサン R381 優勝 北野 元 (エブロ 1/43)
シボレー製5.5L V8エンジンを搭載
リアウィングが左右独立で稼働する独走的な発想から「怪鳥」と呼ばれた。
ポルシェ910(カレラ10)を抑えて見事優勝する。
◆1969年 第6回日本グランプリ
ニッサン R382 優勝 黒沢 元治 (エブロ 1/43)
この年も、日産、ポルシェ、トヨタの三つ巴の戦いとなる。
レースはトップがトヨタ7、ポルシェ917と目まぐるしく入れ替わる展開
そして接戦を制したのは黒沢 元治氏が運転する日産のR382だった。
これが日本プランプリ最後の年となり、日産は貴重な優勝を手に入れたのである。