
今日は阪神淡路大震災の日
もう22年になります。しかし地震は常に日本のどこかに発生しています。
このブログは書いた日から震災の日に合わして毎年アップしてます震災を忘れない様に…と
過去に書いたブログですが震災の記憶を忘れない様に追記します。今年2018年で23年です。
~~~
当時は私のバアちゃんは交野ー天満橋まで清掃仕事で毎朝一番電車でしたので
バアちゃんは交野線から乗り換えで枚方からの本線の電車中で地震にあった。空がパパァァ

と光ったと思ったら激しい揺れが

電車は緊急停車したと聞きました。
母は父が朝早くに
明石の橋下の公園の工事に行くで、出掛けた後そのまま起きてまして
私と妹はそれぞれ別の部屋に寝てました。
当時は私は120羽ほど

がインコや鳥を飼っていて、たまに

猫やイタチが狙いに来るから鳥達が騒ぎ出したんで起きて、またかぁ

と起きた瞬間
空がカッ

光ったドーーンドドン

ダダダタガタガタ

少し収まり、また瞬時にダダダタガタガタ
うわぁぁ!!なんや地震かぁぁ

でかいヤバい思うが声にならなくて部屋にある水槽を押さえ水が溢れだそうとするのを止めるのが精一杯
鳥達は暴れに暴れジージギァギァ

収まるまで、ただ堪えるしかなく、揺れが収まり
母を見に行った妹は二階の部屋に居たので助けに行こうとした母は、腰が抜けて下から叫ぶ
ばかりやったみたい
妹はテレビが転がるやら有ったもの無事だった電気は消えたが、すぐ復活したからテレビを点けた
速報がボチボチ入る
どうも震源地は神戸方面
ヘリから見えるはアチコチから火煙が上がる街並み
脳裏によぎったは父である
とたんに電話が鳴る
父が携帯電話

から掛けて来たのだ、まだ今みたいに誰もが携帯電話を持ってると言うより仕事用に持つのが多かった時代。
お父さん大丈夫かぁ

かなり揺れたし神戸方面が震源地やて
と言うが父からは
「皆大丈夫か、車が跳ねてアチコチ打ったわ、周りが真っ白や、なんも見えん煙がスゴイ、明石の現場が心配やから見てから、とにかく大阪に帰るから、もうすぐ、たぶん携帯は

繋がらん様になるから必ず帰るから心配せんでええからな」と、
しばらくしたら
ホンマに繋がらなくなった通信が集中しすぎてNTTが一般回線を遮断したのだ、だから父からは一切連絡が出来ない来ない
それから父が家に帰ったのは震災から三日目に入ろうとした時だった
当時は父の車は三菱パジェロワゴン初めて三桁クラス価格での中古車、妹と私はアルミ色ツートンのパジェロを買うと見ていたら
父が買ったのは角形なマニュアル車のジープみたいなパジェロだった。娘の大ブーイングな中、父は気に入って乗ってた
震災でガレキ化した道路をコイツのお陰で乗り越え走る事が出来たと。それは今も言う…
父が遅くなったのは夜になり公園に被災した人が集まりテントを張ろうとしていたが停電で電気が無い暗闇で作業がはかどらない
見かねた父はパジェロのルーフに設置していたライトを全灯してテント張りを手伝い終わると再びパジェロに乗った
男の小学生を連れた親子に手を振られ、ありがとうございます。と言われ照れ臭かったそうな
今みたいに車にナビ

標準装備など無くナビは高価なのでパジェロにはナビは無かった。
父はガレキで埋もれ信号も傾いた帰り道を記憶から、かすかに形が解る部分を頼りに下道を走る
阪神高速は柱のアチコチが崩れていた。
潰れた家々燃える家々
頭の毛が真っ白に汚れ呆然と毛布をくるまる姿に火に向かい泣き叫ぶ人
父が明石の現場につき現場はなんとか大丈夫な様だったが
現場の近くで朝飯を食べたりしていた食堂がペシャンコに崩れてオバチャンが「家が、のう(無く)なってしまったぁぁ」と泣いてたとも聞いた。
明石から、次は、とにかく、なんとしても大阪に帰る!ただ、それだけが父の願いいだった。
見る風景が昔の戦争での
風景に見える爆弾が落ちたみたいやと
明石から走り須磨辺りになると道路の両側が燃え盛る中を走らなければ進めない
警察からは通るのは命の保証は無い、と言われながら通り
道路とは言えない位ガレキの道が続きアチコチのアスファルトが、割れて、めくれあがり。パジェロは車高が高いから、そうした段差は越せ走れた。
父が見た地震の発生時の様、私も父から話を聞いたが整理がつかず、文面がバラバラで申し訳ないです。
父の地震に遭う前と直後の話
ちょうど震災前、父は朝早くに大阪を出て阪神高速を降りて横に阪高高架が有る道…を走ってた、隣の車線には大型トラックが居た、冬なのに、時間的に朝日が昇る時間には遠いハズなのに、やけに空が明るく赤っぽい朝焼けみたいな感じの中
地震時、やはりピカ

と空が光った瞬間、ドン突き上げられた後はガッサガッサ!言葉に表せないな音と激しい揺れ、
ライト先に見えるアスファルト道路は波打ち蛇みたいなウネリの動きをしていて
重たいパジェロが上下に
50cmくらいか何度もバウンドし
揺れながら隣の大型トラックがパジェロに迫って来たのが見えた時…父は「死ぬんか」覚悟を決めたという。
揺れが収まりトラックはギリギリで止まったホッとし見るとトラックに運転手は居らず
運転手は側道の木にしがみついてた揺れに慌てトラックから降りたもの、あまりの揺れに、なすすべが無かったそうだ
火事がどんどん延焼し燃えさかるの真ん中に伸びる道路、他に回れる道は崩れた家に閉ざされ無くて、前に行くしかない
火事の現場を通過する際に車のドア内側が熱いガラスは、さらに触れない位熱い…車ごと燃えてしまうんではないかと思ったパジェロの外装に引火し燃える樹脂が少なくて良かったと
日が落ちると暗闇に見えるは燃える火のみ、沢山の人々が生き埋めになっている
助けて下さい

掘り起こしに参加するも、あまりの崩れた様に
重機があれば助けられるのに…
仕事柄、使える身でありながら我がの手しか無い、どうする事も出来ない自分が腹ただしかった
あるもので、なんとかせねば!
崩れた隙間に車載ジャッキを当て持ち上げる、車には仕事現場で使うバール等積んでたので、
良かったら使って下さい、とバラまいて帰って来たと父
人間がどれだけ技術を持ってして建てても、あの地面自体が波打つ様は人間は無力だ…と
さすが普段は気の強い父も命の危機の戦慄から寒気で何度か吐きそうになったと
傾いたビル下を潜って通過し三ノ宮駅辺りまで来た時に
パジェロに駆け寄る見知らぬ人達が、その中で若い男の人が
「伊丹に親が居るんですが家が崩れてるとか、だけど帰る電車が無くて乗せて欲しい」と言われ
どうも大阪ナンバーなんで来たみたい
あと、また女の子達が、2人も同じく「乗せて下さい」と
でも父は、渋滞してるし、いつ着くかは、わからんで、と言いきかせて乗せて
皆、冬の寒さか何かガタガタ震えてた、パジェロには仮眠用の毛布が有ったので渡した
飲み物などの自動販売機は略奪されて無惨な姿を晒してた。
食べ物をとコンビニを見ると有りとあらゆる食べ物が無かった
当時は大きな震災に対する構えなど皆無に等しく自衛隊を出すかどうかで揉め、食糧救援はなかなか来なかった。
パジェロの車内で寄った同士で互いに持つ食料を分けた
飲み物は父が妻(母)から渡された水筒のみ父が昼に食べる為だった弁当も乗り合わした皆で食べた。
しばらくして安心したのか父、以外、皆、寝てたそう。起こしたら可哀想やな、とそのまま寝かし父はひたすら大阪方面へとパジェロを走らせた
父は、たぶんワシ1人やったら気持ち保たんかったなぁと、寄り合い事に感謝していた、それだけ震災の状況は悲惨だった、
いよいよ橋を渡ると大阪なんだが橋が上下に繋ぎ目がズレて、そのままでは通行出来ず
なんで車を降り周りに居る人達と積んでる道具やら等アスファルトやらの破片やらで段差を埋めてた
そんな中、一台のタクシーが手伝いする人を脇目に橋を渡ろうとした!?皆でタクシーを捕まえ、説教を
皆渡れる様にやってるのになんて奴だと

引きずり下ろし埋める作業を手伝わす。
やっと段差が埋まり大阪に
男の人達を伊丹まで送り。女の子達は電車が動いてる駅の所で下ろして
んで交野の家まで帰って来た父、私はいつ夜中でも帰って来ても大丈夫な様に心配して連日徹夜したのに( ̄▽ ̄;)気が抜けた
でもパジェロのエンジン音が聞こえた時は、帰って来たでー

と夢中で家を裸足で飛び出した。
パジェロのタイヤは震災の火事の熱で溶けて溝無しボウズになり果てパンク寸前な有り様に
車体の塗装のクリヤーが
熱で変色してアチコチ艶無に
、車体が真っ白に家事での溶けたんが無数に着いてた
しかしガラガラとディゼルエンジンは元気に動いてた
よう、この車耐えてくれたわコレが普通の乗用車やったら段差は上がれ無かったしディーゼル車じゃ無かったら燃料保たんかったわ、と
体中ドロドロ服からはビニールを焼いたみたいな焦げ臭いがし煤汚れた顔から涙が落ちてた滅多に泣かない父が泣いた
のちにパジェロ16万キロまで乗り排ガスの規制から車検が難しくなり、やむなく海外輸出業者に手放しましたが
マニュアル車の四駆ワゴンだから海外に引き合いが多いそうで
まだクラッチも交換したばかりでアチラは30万キロ位は使い走るそうで
引き取ってくれた業者さんが震災の出来事に聞いて親切に船出時刻を教えてくれ
父を助けてくれたパジェロは海外の新しい地にて旅立ちました
震災から22年…父が工事した明石の公園も今や釣り人が並び
イイ遊び場になりました。
父は76になりました歳からか記憶がおぼろげがちになり震災の事を、あまり話さなくなりましたが、毎年、父から聞いた震災の出来事を、私がかわりに伝えて行こうと思って ここに記します。
長文読んでいただいて、ありがとうございました。