4月に入って年度も切り替わりかなり多忙な日々。一日の仕事を終えて帰宅後に夕飯を食べ終わるともうぐったりで、以前のように模型工作に勤しむ気力すら残っていないほど。
私も歳取ったなぁ…と感じます。
そんな中ですが、単なる参加のみというつもりだったはずの「ろうがんず杯」の1次予選を通過し本戦出場が決まって会場への召集令状が届きました。
どうやら今回の応募数は過去最大だったらしく、その中でヘタレモデラーである私の作品が
選ばれるなど有り得ないはずですが、それでも本戦出場の栄光を頂けたなら参戦しないわけにはいきません(^^)
本線は4月20日(日)に神奈川県横浜市のたまプラーザで行われます。
よし、せっかくの機会だから、小田原城を攻めるか!
全国的に有名なお城はだいぶクリアしていますが、実は大阪城と小田原城は未攻略なのです。
ということで、前日の土曜日に行くことにしました。
豊臣秀吉による小田原征伐では、小田原城近くの山間にある日突然巨大な城があらわれたことで、守備側の北条氏の戦意が大きく下がって無血開城に至っています。
その巨大な城が石垣山の一夜城。まずはそこを攻めます。
小田原城から少し西の山に城跡があり、大きな駐車場がいくつも整備されているので、車でのアクセスは抜群です。
駐車場の目の前に早速野面積みの石垣がでーんと!

いきなり圧倒されます。
そこから石段を登っていくと上下2段に分かれた東曲輪があります。
途中で見かけた石垣と桜。

それぞれがかなりの広さ。20万の大軍を率いての攻城戦であったことを想起させるに十分です。
その上段には二の丸がありますが、これがまた広い!

二の丸の東端からは小田原城が望めます。
秀吉はこの石垣山城に淀殿などを呼んで日々大宴会を催したそうです。
広大な二の丸から小田原城を見下ろしながらの宴はさぞ楽しかったのではないでしょうか。
二の丸東側の少し下りた場所には井戸曲輪があります。相模湾とのコントラストが絶景!
井戸曲輪はその最低部に湧き水があり、そこに至る通路が螺旋状に石垣が組まれていることから「サザエ曲輪」とも呼ばれます。
降りてみました。

すごい迫力です。
これを見るためだけにでもココに来る価値があると思えるほどです。
石垣でよくあるのは、一辺が数メートルもあるような巨石(鏡石)があったり、天守閣を配置する場所の周囲に急角度できっちり組まれていたりすると大迫力を感じますが、ここの井戸曲輪はそのいずれとも異なる迫力。
遥か低い場所まで丹念に石が組まれ、しかもそれが曲輪と呼べるほどの大きなスペースであり、底部に立つとその囲まれ感は特別なものだと感じます。
年寄りの冷や水的に言えば、別にそんなところに石垣をきっちり組む必要はありませんが、そういう場所ですら手を抜かずに施工したことに設計者の執念のようなものを感じます。
石垣山城の設計者は諸説あり、主には黒田長政や加藤清正とされていますが、いずれも小田原征伐に参陣していないため、参陣した黒田官兵衛ではないかという説があるそうです。
官兵衛と言えば、本能寺で信長が亡くなったと聞いてうろたえる秀吉に「ご武運が開けましたな」と耳打ちして秀吉を天下人に導いた逸話が残っています。つまり官兵衛は秀吉をいかに持ち上げるかという視点を持っている人。
石垣山城が小田原城を守る北条氏に対する示威行為だとすると、小田原城から見えない井戸曲輪に必要以上の施工をする必要がありません。よって井戸曲輪の石垣は対北条氏ではなく、対秀吉であったと言えます。
井戸曲輪の底で汲んだ水は秀吉と淀殿が飲む茶に使われたでしょう。そんな大切な水汲み場はしっかりと作る必要があります。こうしたことに配慮が行き届くのは誰か?
やはり真っ先に浮かぶのは、秀吉のことを考える官兵衛ではないでしょうか。
閑話休題。
二の丸北?の急斜面にも巨石がゴロゴロ転がっています。その下には帯曲輪も広がっていました。
そしていよいよ本丸へ。

なかなかの広さです。
さすが秀吉。いや、官兵衛。
しかし天守台はかなり狭いです。およそ100㎡前後といったところでしょうか。

この広さだと大きな天守閣はなく、少人数の寝泊まりや食事が出来る程度の小さな建物があったのだろうと思われます。
山の斜面には多くの樹木が立っているので、天守台から小田原城は見えませんでしたが、当時は木を切り倒していたはずなので、きっと小田原城を見下ろしていたことでしょうね。
さて、これで小田原城攻略の前仕事は終わりました。次はいよいよ小田原城です!
★石垣山城の画像の数々はこちらに保存しました。
石垣山城(神奈川県小田原市)
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Posted at
2025/04/22 21:17:48