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ザクとは違うのブログ一覧

2021年09月18日 イイね!

「小牧長久手の戦い」の城攻め

ぼちぼち2年になろうかというコロナ禍。
私の住む愛知県を含む全国の多くの地域ではまだ緊急事態宣言が続いています。
この間、私はあちこちへドライブに行ってはキャンプを続けています。

「え?県をまたぐ移動は自粛しろって言われてるでしょ?」

はい、承知しています。
でも私は皆様ご存じの通りヘタレ一人キャンパー。しかも選ぶキャンプ場は「数組程度しか利用者がいない」ようなマイナーなところばかり。
途中の寄り道ポイントも「誰もいない場所」がほとんどです。
それゆえ、1泊2日の行程で出会う人の数は多くの場合、キャンプ場の管理人さん一人だけ。しかもしばらく前にワクチンは2回接種済みなので、抗体もできているはずです。
この条件なら県内であれ県外であれ、大きな問題が起こる確率は極めて低いと考えています。


さて今回の行き先も「誰もいない場所」であるマイナーな山城です。
今回の選択にあたってはこちらの動画を参考にしました。

小牧長久手の戦いというとその名の通り愛知県小牧市と長久手市のあたりで起こった豊臣軍VS徳川軍の戦いを想起すると思いますが、この戦いは単なる局地戦ではなく本能寺の変の後、「誰が天下を制するか」をテーマに非常に広範囲で起きた大規模な争いです。
エリア的には関東甲信越から中国四国地方において「秀吉包囲網」が形成され、そのあちこちで様々な形で戦が起こりました。
今回訪れた城は、小牧と長久手で起きた戦いの後、東美濃を制圧しようとする徳川軍を迎え撃つ豊臣軍という構図です。
(動画の19:15あたりから御覧ください。)

最初に訪れたのは明知城。
実は「あけちじょう」という名の城はもう一つ「明智城」もあります。どちらも光秀の城という主張をしており、決着は付いていません。
明知城は大正村の裏手にある小高い山の上に築かれていて、大正村側から登城すると大手門に至ります。
今回は反対側の搦手口から。こちらは駐車場からすぐ城跡に入れます。

ここの立て札に設置された箱にはこんな資料が置かれています。

ポケットサイズに折り畳まれていますが、内容は大変充実しており、持ち歩きながら城攻めするとよいと思います。

城内の様子をいくつか貼っておきます。
まずは城の周囲をめぐる竪堀(たてぼり)。


2枚めの画像は畝状竪堀群。手前と奥に1条ずつ山の上下方向に伸びる堀が作られており、これが何本も続くという構造です。


立て札の奥にあるくぼみは貯水池です。
近くにある山から水の手を引き、この池に貯めておくというもの。

貯水池近くにある出丸の入口部には小規模ながら石積みがされていました。

こうした石積みがされているのはここだけなので、出丸には屋敷があったのかもしれません。

さらに三の丸、二の丸などを経て本丸にたどり着きます。

なかなかの広さ。
各曲輪の周囲はいずれもかなり切り立った崖(切岸)となっていますし、各曲輪もけっこうな広さの削平地が確保されていました。
こうして見ていくと相当大規模な土木工事を行ったものと見られ、城主はこの地域では相当の実力者であったことが伺えます。

ここを攻めた徳川軍は城を陥落させていますが、これだけ大規模な山城を陥とすにはかなりの犠牲が出たのではないかと感じました。

史実では明知城を攻略した徳川軍はさらに東へ進み、岩村城を攻めます。
が、高石垣で有名な岩村城は結局攻め落とすことができませんでした。
次に徳川軍が狙ったのは妻籠城。
長野県木曽郡南木曽町にある山城です。
R256から旧中山道の狭い道へ入って少し走ると、ひっそりとあります↓


本丸へ至るルート上では、倒木もありました。

しかしさほどの距離もなく本丸へ到達。

なかなかの広さです。
本丸からはアルプスの山々も見えます。


城跡自体は本丸とその周囲を取り囲む帯曲輪が中心で、さほど大規模なものではありませんでしたが、徳川軍はこの城を攻略できませんでした。
ということは今見られる遺構よりもかなり広範囲に曲輪や堀などが配置されていた可能性を考えたくなります。
そんな妄想をしながらこの城攻めを終えました。

さて山城2つを後にして向かうのはキャンプ場。
今回は南信州にある「岩倉ダムキャンプ場」に行きます。
ドライブ約2時間で現地到着…と思ったら、ダム湖周りにあるサイトの周囲にロープが張られています。慌ててググると「コロナにより休場」。
まぢか…orz
早速近隣キャンプ場をいくつもググりますが、いずれも休場とか新規予約停止中ばかり。
うーむこのまま帰宅するのはさすがに寂しい。
そうだ、車中泊スポットを探そう!
こちらのサイトで探したところありました、茶臼山。
そして現地到着。


すごくきれいな駐車場です。東西に走る道路を挟んで合計30~40台が停められます。

しかも驚いたのがこちら↓

これらは無料休憩スペース。
6畳くらいの広さのフローリングの部屋にクッション数個程度が置かれていて、1時間無料で自由に使えます。

太っ腹!

他に芝生スペースにテーブルと椅子もあったので、木陰を選んでティータイムを楽しみました。

そして夕飯はこちら。

コンビニで買ったキャベツ千切りの上にさば味噌煮缶を載せ、あさつきを振りかけたもの。火も使わない簡単メニューですが、めっちゃウマい!
食べ終わる頃には日もとっぷり暮れて満天の星空。
夏の大三角はもちろん、濃い天の川もしっかり確認できました。
さすが標高1000m。

偶然から見つけたとは言え、こんないい場所が自宅からわずか2時間足らずのところにあると分かったのは大収穫。
今後はちょくちょく来る場所になるかもしれません♪


※山城2箇所のより詳細な情報はフォトアルバムを御覧ください。
明知城
妻籠城
Posted at 2021/09/18 13:56:53 | コメント(4) | 城めぐり | 旅行/地域
2020年12月01日 イイね!

すごいぞ北畠!

プラモサミット見学で津まで来たので、城跡巡りも楽しみます。
まずは続百名城の津城
津城は1560年代頃に築城された後、築城の名手・藤堂高虎が改修し難攻不落の城に生まれ変わったという経過を持ちます。
現地を訪れると…





櫓は元あった場所とは異なるところに復元され、二重に巡らされていた堀のうち外側は埋められ、内堀も改変され、本丸と二の丸をつないでいた土橋は取り壊され日本庭園になっていました。
当時の面影は石垣に見ることが出来る程度です。

平城は街中にあることが多く、それゆえ縄張りが破却されることが多いですが、この城も例外ではありませんでした…。

もう1ヶ所は北畠氏庭園
津市でも奥地に入った美杉町にあります。
立地的には北畠神社の一角にあります。境内の一部にはまるで城跡のような風景も↓

画像の左手側では日本最古の石垣が発掘されたようですが、なぜか今は埋め戻されていました。見たかったのに…。

社務所で拝観料を支払って小さな木戸をくぐり抜けると、そこが庭園。


作ったのは北畠顕能で、巨石が並んだ池泉庭園は見事な作り。ゆえに「三大武将庭園」に数えられています。
もう少し早く訪れていれば紅葉とセットで見られたのではないかと悔やまれました^_^;

すぐ近くには霧山城があります。
こちらは北畠氏の本拠。小高い山の上に作られており、往復1時間のハイキングとなります。
この日はそこまでの時間が取れそうになかったので、後ろ髪を引かれながら撤収。


昔から
「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」
と言われるほど、津と伊勢(神宮)は密接な関係にあります。
特に都が奈良にあった頃は美杉町を経由するルートが伊勢街道だったので、多くの参拝者が津を訪れたと思われます。
現在はその街道を、当時を偲びながら歩く人の姿が多く見られます。
そういった立地を押さえていた北畠氏はさすが国司といったところでしょうし、それゆえの豪壮な庭園なのだろうと思います。

すげーぞ北畠氏!
Posted at 2020/12/04 22:25:44 | コメント(1) | 城めぐり | 旅行/地域
2019年08月07日 イイね!

城跡攻略、そして庭園でまったり…

2泊3日の初日と3日目は城攻めです。
初日は広島城。
日本百名城の一つであり、名古屋城、岡山城と並び「日本三大平城」の一つにも数えられています。


広島城は天守閣の外壁の色合いから「鯉城」とも呼ばれます。
この「鯉」が広島東洋「カープ」の語源ともなっていますね。
天守閣の建物は、広島に落された原爆によって吹き飛ばされていますが、1958年に現在のように復元されました。




石垣も豪壮。
中には↑のように、切り出す際の穴の跡がはっきりと分かるものも。
城の南側に原爆の爆心地がありますが、石垣の南面にひと目で被爆跡と分かるような状態は確認できませんでした。




門や櫓などもしっかりと再現されています。
近年は当時のものにできるだけ忠実に再現しようという取り組みがきちんとなされますね。その分、当時の土木・建築・加工技術の研究もなされると思うので、とてもよいことだと思います。

また城内にはこんなものも。

広島大本営跡地。
大本営というと、東京や松代を思い浮かべると思いますが、広島にもあったとは知りませんでした。ここには日清戦争の際に約半年ちょっと置かれていたそうです。一時的な首都機能移転ですね。


こちらは二の丸にある被爆したユーカリの木。
見た所特に普通のユーカリの木との違いは分かりませんでしたが、被爆後70年以上経っても緑をたたえる姿には力強さを感じます。

広島城の縄張りは、広島市内を流れる太田川を天然の堀として利用しつつ、さらに三重の堀で本丸を取り囲むという重装備。平城でありながら、大変堅固な縄張りです。
天守閣の豪壮さについ目を引かれてしまいますが、いざ戦となれば天守閣は単なる「最後の砦」。つまりそこに至るまでの城下町を含めた全体の配置=縄張りが勝負となります。
それもそのはず、この城は聚楽第をベースにあの黒田官兵衛が考案したものなのだとか。
さすが官兵衛。

そんなことを感じながら城を後にし、次に向かったのが縮景園。
城の少し東側に広がる美しい庭園です。



いつもの私なら、園内をくまなく回り、写真を撮りまくっていたところですが、今回はあえてそうせず、こちらの東屋でどっかり腰を下ろし、ゆったりと時間を過ごしました。

東屋内は土足禁止となっています。
靴を脱いで板の間に上がり、柵に腕をかけて腰を下ろす。
そして見上げると…

画像では表現されていませんが、水面から反射した夏の日差しが天井裏に写り込んでゆらゆらと揺れていました。
焚き火と同じ、1/fゆらぎですね。
その様子をぼーっと見ているだけで、灼熱の夏の日差しと、日々のストレスを忘れさせてくれます…。
過酷な日々を過ごす殿様や家臣たちも同じ思いを求めて、ここを訪れたのかもしれません。

こうして1900kmの旅・初日は終わりました。
2日目は佐世保で過ごし、3日目は再び城跡へ。
岡山県姫路市にある「御着城」です。

姫路城から東に4kmほど行ったところにあります。
今では姫路城が全国的に有名ですが、戦国時代は逆。
このあたりの大名である赤松氏の被官・小寺氏の居城が御着城で、その家臣に黒田氏がいました。その黒田氏が居城としていたのが姫路城。
と言っても当時は現在のような大きな城ではなかったようです。
信長の命を受けた秀吉が西国の毛利氏を攻める際、小寺政職は毛利方に就き敗北し没落(この時、御着城は廃城)、その後姫路城主だった黒田官兵衛は秀吉に姫路城を献上し、秀吉が現在の姫路城に作り直したという経緯です。

御着城の遺構はあまり残っていませんが、以下のようなものが現地にあります。

・黒田官兵衛父祖の廟所


・二の丸跡(現在はグランド)


・小寺大明神


・天川に架かっていた石橋


正直、小さな城となめてました。
石垣もなく、堀も埋められ、土塁も破壊され、当時の遺構はほぼ残っていません。
でも現場の空気は違う。
この城跡の最大の魅力は少学生ボランティアによる解説です。

現地の小学校に通う5~6年生がそれぞれのポイントに立って、5分程度の解説を滔々と話してくれるのです。
これには驚きました。
今までいくつもの城を見てきましたが、こうした歓待を受けたのは初めて。
さらに驚くのは、生徒たち自ら志願してボランティアを務め、しかも説明内容をすべて自分たちで調べ、どんな説明にするかを自分たちで考え議論しているとのこと。実際、彼女たちの説明は官兵衛ファンの私の知識を超えたものがいくつかありました。
当日は灼熱の酷暑日。それもあってか、生徒は私に塩飴を渡してくれました。なんという気遣い!
しかも、私への説明が終わった後、全員集まって反省会までしていました↓


数年前に大河ドラマで官兵衛が取り上げられ、恐らくその頃はここにも多くの人が訪れ、少学生ボランティアが組織されたのではないかと思います。
事実、ボランティアリーダーと思われるお年寄りに「やはり地元では官兵衛はヒーローですか」と伺うと「いや、地元では小寺の殿様ですね」という答えが返ってきています。
そうした状況がありながら小学生自らがボランティアとして地元の盛り上げに一役買って出る。
こんな素晴らしいことがありましょうか。

御着城周辺には、戦国時代にまつわるポイントがまだまだたくさんあります。
国府山城跡、書写山、観音寺、そして竹中半兵衛の墓などなど…
熱い心を持った小学生たちとの再会も含め、この土地の再訪を誓ったのは言うまでもありません。

「なんと気持ちのいい連中なんだ…」


※↑に載せたモノ以外の写真は以下を御覧ください。
広島城・縮景園
御着城
Posted at 2019/08/09 00:02:30 | コメント(1) | 城めぐり | 旅行/地域
2019年07月10日 イイね!

琵琶湖東岸の城跡めぐり(2日日)

さて2日目。
キャンプでは朝日とともに起床という生活になることが多いですが、この日は曇り空だったので6時半頃起床。昨晩遅くに雨が降ったのでテントの水滴を拭き取ってから朝食の準備をします。

焼き鳥缶雑炊。
おにぎりに焼き鳥タレ缶をタレごとかけてチューブしょうがと混ぜて水で温め、最後にあさつきを山盛り振ります。
さっぱりした味で気持ちいい…(^^)

ささっと撤収作業した後に、城跡へ向かいます。
この日のテーマは「姉川の戦い」。
浅井朝倉連合軍VS織田徳川連合軍という構図で、この戦いで浅井朝倉両軍とも甚大な被害を被り、浅井家は小谷城で、朝倉家は一乗谷でそれぞれ滅亡してしまいます。
この結果、琵琶湖東岸一帯の覇権を織田家が握ったことになり、それはつまり京への足がかりを得たことになったという点で大きな意味があったと言えそうです。

最初に向かったのは姉川の南側にある「横山城」。
元々は浅井氏が作って守備していた山城ですが、浅井氏攻めの拠点とするため、姉川の戦い後に織田氏が攻め取りました。その最初の城代は木下(後の豊臣)秀吉だったので、「出世城」と言われることも。
ちなみに浅井氏滅亡後、横山城の石垣などを移設して長浜城が作られたため、横山城は廃城となっています。

ただ、現地近くでは秀吉よりも石田三成を推しているようです。


城へは日吉神社脇からのハイキングコースを進みます。ハイキングと言っても結構な山登り。しかも樹木や草木が生い茂る中を進むので、トレッキングシューズ+長袖長ズボン推奨です。
城内の要所には↓のような説明板が設置されています。


いわゆる織豊期のように堀と石垣でがっちり固めて、複雑な侵入経路を作って、大きな天守閣を建てて、というものではなく、それ以前の時代から作られていた土塁と堀切などの土木工事中心の作りです。

その中で注目したのは二重堀切。その名の通り、堀切が2つ連続して作られているものです。まずはひとつめ。


そしてそのすぐ向こう側にもう一つ。


この構造を戦術上どのように活用したのか分かりませんが、他ではあまり見られないものだったので、いいものを見ることができました。

さらにどんどん進むといくつかの曲輪を経て本丸へ到着します。


右側の高い山が小谷城。
適度な距離をとった前進基地として、横山城が重要なポイントだったことがよく分かります。

さて、下山後に立ち寄ったのが「三田村城」。
こちらは横山城から少し北へ行った姉川の南側にある小さな平城の跡です。
規模の小ささから、城と言うよりも居館とか屋敷跡と言ったほうがよさそうですが、姉川の戦いの際には朝倉景健が本陣を置きました。そのせいか、姉川の戦いを朝倉側では「三田村合戦」と言うそうです。
現在は伝正寺となっていますが、当時の遺構として土塁が残っています。


こんな看板も立てられていました。


小さな城跡ではありますが、姉川の戦いと絡めながら見ると、また感慨深いものがあります。

お昼をテキトーに済ませ、向かった先は「小谷城」。
姉川の戦いを締めくくる名城の誉れ高い山城で、三代に亘って隆盛を誇った浅井氏の滅亡の地でもあります。
その縄張りの巧みさと堅牢さから、日本五大山城のひとつ、さらに日本百名城のひとつとして数えられています。
それゆえ、城下に「小谷城戦国歴史資料館」が作られているので、そちらで予習します。

館内には浅井氏や小谷城、そして姉川の戦いについて大変詳しい解説が加えられています。そしてこんなジオラマも↓

奥の大きな山に配されているのが小谷城。手前の山にあるのが虎御前山城です。
こうしたプレゼンをしてもらうと、城の縄張りだけでなく城の周囲の状況がよく分かりますね♪

そしていよいよ当城。






詳しい説明はフォトアルバムに譲りますが、各曲輪ごとに当時の状態をイラストにした表示版が設置されており、それと現地の様子を見比べながら歩くことができるため、大変楽しく攻城できました。

と同時に現地を歩いて感じたのは、今回歩いたエリア(金吾丸跡~小丸跡)は本丸と中丸跡の間が「大堀切」で区切られており、両エリアで作りが大きく違うこと。
金吾丸から本丸は浅井氏が使っていた場所で、その向う側にある中丸から奥は京極氏が使っていた場所です。
京極氏は浅井氏を被官にしているという立場であり、それゆえ京極丸を中心とした中丸跡より奥のエリアは広めのスペースが確保され、石垣や土塁もしっかりと作られています。
両者の関係性が城の作りからも感じられたのは面白かったですね~。

小谷城は中腹まで車で登れますが、その後の道のりは険峻な山道の登山となります。今回は時間と体力の関係で山王丸以奥は行きませんでしたし、別尾根にある福寿丸や山崎丸も行っていません。これらの遺構や城下町も含めて制覇しようとすると丸一日コースになってしまいそうなほど、城域は広いです。

予定ではこのあと7つ目の城・虎御前山城に行くつもりでしたが、前日の彦根&観音寺城、そしてこの日の横山&小谷城の登山続きで、足腰はガクガク。とてもあとひとつ山城を攻め取る体力は残っていません。
この近くにはまだまだ攻めてみたい城(長浜城、賤ヶ岳城、山本山城、鎌刃城など)が多くあるので、次回訪問に取っておくかな(笑)

山城を攻め、城下町を歩き、そしてキャンプを楽しむ。
充実した2日間を過ごすことができました。


この日訪れた城の画像はフォトアルバムに収めてあります。
横山城
三田村城
小谷城
Posted at 2019/07/11 22:15:39 | コメント(1) | 城めぐり | 旅行/地域
2019年07月07日 イイね!

琵琶湖東岸の城跡めぐり(初日)

梅雨の合間を縫って、キャンプを計画しました。
実は当初、佐世保へ軍港めぐりの締めくくりに行くつもりでしたが、諸般の事情により頓挫。結果、城巡りキャンプに切り替えました。

行き先は琵琶湖の東岸。1泊2日で7箇所の城跡を巡るという強行軍です。
まずは彦根城。
ここは日本百名城の一つでもあり、現存十二天守の一つでもあります。
まずは彦根城博物館で予習。


敷地は表御殿があったところだそうで、その一部が再現されています。



そして登城。
長い石段を登るとその先に天秤櫓があります。

左右対称の作りですが、それを支える石垣は左右で積み方が異なります。

積み方は向かって右(画像上)が「切込み接ぎ」、左(画像下)が「打ち込み接ぎ」です。切込み接ぎ部は後世に修復された部分だそうです。
縄張り的には天秤櫓と鐘の丸をつなげる橋の下をくぐり抜け、ぐるっと270°回った先に天秤櫓の門があるという構造であり、その間、守備方から見下されて攻撃され放題という悪魔のような作りになっています。

天秤櫓を抜け、太鼓丸を通り過ぎるといよいよ本丸。天守閣があります。


ちょうどその時、ひこにゃんの登場時間。




売店裏から天守前まで歩いてきますが、その間、来場者一人ひとりにゆーっくりとお辞儀をする様子がかわいくてかわいくて…(*^^*)
ひこにゃんを取り巻く人たちは全員笑顔になっていたのは言うまでもありません。(もちろん私も♪)

本丸は現在工事中だったので、現存十二天守としての美しさを十分に堪能するまでには至りませんでしたが、様々な形態の破風を備え、金箔まであしらわれた天守の様は本当に素晴らしいと感じました。

次のお城の隣りにある玄宮園へ。
こちらは天守閣を借景にした庭園というぜいたくな作りになっています。



この日は曇り空だったので、写真もあまりビビッドには撮れていませんが、こうした環境で殿様やお付きの者たちが優雅に会話したのではないかと想像するだけでも楽しいですね。

せっかく彦根に来たので、城下町も散策します。
マイナー嗜好のザクとは違うは、メインストリートから一本入った道を歩きます(笑)
すると…





ところどころでこうした屈曲した道があります。敵が直線的に攻め込むことができないようにした城下町整備ですね。


民家の屋根瓦が少し変わった形をしています。
鈍行電車さんの奥様に伺ったところ、雪が一気に落ちないように上半分の雪を支えるためのものなのだとか。平地でありながら意外と雪深い地方ならではの生活の知恵ですね。

さて、ぼちぼちお昼。
現地のグルメ・近江ちゃんぽんをいただきます。

豚骨と鶏ガラでとったスープで作られたあっさりした味でした♪

午後に行ったのはまず「観音寺城」。
こちらは南北朝時代に近江源氏の佐々木氏、後に六角氏が居城とした近江八幡市にある山城で、彦根城同様、日本百名城の一つに数えられています。
中腹まではクルマで登れますが、その後は長い石段を10~15分くらい掛けて登ります。途中はこんな札が。


ええこと言うなあ…
そして着いたのは観音正寺。
受付で500円の拝観料を払い、そこを通り抜けて城へ至ります。
途中の道は多少のアップダウンはありますが、「登山」と言うほどのことはありません。
そしてこの直線的な石段を登ると…

本丸に到着します。しかしこの有様…

ググって出てくる本丸の画像は樹木がもっと少なく、周囲を巡る石垣も確認しやすい状態になっていますが、現状はかなりひどいです。
本丸からさらに奥へ進むと平井屋敷や落合屋敷などと伝えられる場所(曲輪?)があります。


いずれも周囲を石垣で囲んでいますが、曲輪内部はやはり樹木でいっぱいになっており、奥まで入れないほどの状態でした。
それでも先へ進み、お寺受付の人に教えてもらった絶景ポイントへ。

大きな幟旗と巨石がありました。
さらにその下にはこんなすごい石垣が。


こんな急斜面の中腹にこれだけ豪壮な石垣を作るためには、どれだけの人が動員され、そのうちどれだけの人が亡くなってしまったことか…
佐々木氏や六角氏の権力の凄さを感じざるを得ません。

観音寺城は、Wikiによると1000以上の曲輪を持つそうで、その多くが石垣で囲まれている国内屈指の山城だそうです。もう一つ特徴的なのは、二の丸三の丸などの数字で表さず、池田屋敷跡、沢田屋敷跡など人の名前がついている点です。これはこの城が城主個人の力で作られた戦志向のものではなく、配下の将とともに生活する場であったことを示すものだと考えられます。
この時代の山城の多くは戦争時の防衛拠点として作られたものがほとんどだと思われるので、その点でも異質な城だと言えると思います。

そしてこの日最後に訪れたのは長光寺城。
別名を瓶割城と言います。
名前の由来は織田信長の家臣・柴田勝家。
織田家が近江を攻め、六角氏の観音寺城とその支城である長光寺城を攻め落とし、長光寺城を勝家が支配しました。その後六角氏が長光寺城を攻めに来た際、勝家が水瓶を割って背水の陣を敷くことで士気を高めました。
この逸話が瓶割城、そして瓶割り柴田の異名のベースになっています。
城の入口は日吉神社にあるとのことなので、そこへ行ってみましたが、どれだけ探しても入り口が見つかりません。
しかし神社から少し離れたところにこんな表示版が。


これで初日の城巡りは終了。キャンプ場に向かいます。
今回行ったのは近江八幡市の「十二坊温泉オートキャンプ場」。
簡単に設営を済ませた後は、コーヒータイム。

先日、痛風とうつさんから頂いたせんべいと一緒にまったりします。
その後温泉に入り、一人飲み会開始。
コースターにはこんなデザインのものを使いました。

夕飯のメインはこちら↓

「ミートボールファルファッレ」
成田のオッサンさんに紹介されて毎号読んでいる漫画「山と食欲と私」からパクったものです。簡単ですが美味いです!
日も暮れてくると焚き火。
炎の揺らめきを見ているだけで癒やされますね~。

こうして一日目終了。
二日目に続きます。


※フォトアルバムに上記以外の画像を収めてあります。
彦根城
観音寺城・長光寺城
十二坊温泉オートキャンプ場(フォトギャラリー)
十二坊温泉オートキャンプ場でひとりキャンプ
Posted at 2019/07/07 23:07:50 | コメント(1) | 城めぐり | 旅行/地域

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「重巡鳥海の製作(船体の修正その5) http://cvw.jp/b/488285/48485437/
何シテル?   06/14 16:51
模型工作とキャンプが大好きなヘタレをやぢです。 私がフォローする方には2種類あります。 一つは「以前からのみん友さん」 もう一つは「ちょっと興味を持っ...
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