2011年05月02日
「主査 中村健也」 ~日本を造った男~ 第01回
~はじめに~
自動車とは、無数に存在する各分野における工業技術の集大成である。よって、自動車を造る為には、その国家の工業レベルが極めて高い位置にあることを求められるのである。
同時に、自動車を造ると言うことは、その国家の工業・産業を育成し、全体のレベルを引き上げてゆくことに他ならない。
事実、日本の工業水準は世界でのトップクラスのものとなっており、それは当然、自動車産業においても同じく、である。
そんなことは、今や小学生ですらが常識としている事実である。
しかし、戦後間もない日本には、「自動車などは国産で造らなくとも良い」との考えを持つ者たちがいたのもまた事実であった。
そして、当時はトヨタですらも、あくまでも数多に存在する「一企業」でしかなかった。
「一企業」を世界随一の自動車メーカーに押し上げる。これは並大抵のことではない。その為には、高い技術力の確率はもちろんのこと。その技術力と、人材の全てを俯瞰し、統括し、取りまとめ。遠い未来を見据えた明確な方向性を以て、企業を導く存在が必要不可欠であった――
1998年8月11日、一人の傑人が、この世を去る。
その人物の名は、中村健也。今や世界一の自動車メーカーとなったトヨタ自動車、その黎明期において車両開発の責任者である「主査」の大役を任ぜられた男である。
トヨタが世界一の企業へと成長する、「ものづくり」そして「クルマ作り」の礎を築きあげた男、それが中村健也である。
その中村健也とは一体、どのような人物であったのだろうか――?
中村健也技師が帰幽されるにあたり、トヨタ自動車がまとめた文集「主査 中村健也」(非売品)を元に、その哲学・信念・精神・生き様を追う――
~トヨタの主査制度~
トヨタのクルマ作りにおける大きな特徴として、「主査制度」と呼ばれるものがある。
トヨタでは、新たな車両を開発する際に「車両開発主査」と呼ばれる役割の人物に対して、比較的大きな権限と責任を付与していた。そして主査が開発責任者として車両のコンセプトや開発の過程を取りまとめてマネジメントするという、開発手法を採っていた。
今でこそ、他自動車メーカーも同等の形式を採用していると言うが、かつてはそのような開発形式をとっていたのはトヨタだけであった。
この「主査」と言う、幸運にして責任重大の役職に任ぜられた者にはどのような者が居たのか……
初代パブリカやトヨタスポーツ800の長谷川龍雄技師。初代MR2の吉田明夫技師、2代目MR2の有馬和俊技師、MR-Sの中川齊(ただし)技師、2代目スープラの都築功技師、セラの金子幹夫技師――
現在では「チーフエンジニア」と呼ばれるこの「主査」の役職において。名車と呼ばれるクルマの数だけ、同じ数の名主査の存在と活躍があったのである。
かつて私は、2010年2月19日にスープラ発売25周年を記念してトヨタ博物館で行われたA80型スープラ開発主査・都築功先生の講演会に参加したことがあるが、90分間の講演の内の実に3分の1である30分がこの「主査制度」についての解説に割り当てられていた。
ここからも、いかにトヨタの主査制度が優れたものであり、同時にトヨタのクルマ作りにおいて非常に重要なものと認識されていたかが伺える。
主査とは、単に現場のエンジニア達とトヨタ上層部をつなぐ為だけの中間管理職では決して無い。
主査の仕事は、「主査構想」と呼ばれる企画書作りから始まる。
どのようなコンセプトのクルマを造るのか、どのような仕様のクルマにするのか、どのような部品やコンポーネンツを使用するのか、どのような既存の技術を流用し、どのような新技術を盛り込むのか。そして、その為にはどの部署の誰が人材として必要なのか、そしてどれだけの予算をかけて、どれだけの車輛販売台数を見込んで、どれだけの利益を目標とするのか――
もちろん、この「主査構想」は単なる誇大妄想の羅列であってはならない。全てにおいて現実味を持たせ、同時に新技術を開発するにあたっては、その開発コストと開発メリットを計算し、普段自らクルマを運転することなど無いようなカタブツの役員たちにGOサインを出させるだけの説得力を持たせることが要求される。
例えば、都築功技師が作成したA80型スープラの主査構想は、まさに20ページ以上の大ボリュームとなったと言う。また、その内容も「排気量3リッターで最大馬力は300ps。最高速度は時速300kmのスポーツカー」と言う、ただでさえスポーツカーを造ることを故意に避けて来たトヨタ車のあり方や概念から考えても「ぶっ飛んだ」ものであった。
しかし、都築功技師は、「動力性能や運動性能、燃費や安全性能など、全てにおいてナンバー1の100点を狙えば企画は通る」との考えの元にこの主査構想を提出し、実際にトヨタ上層部の承認を取り付けてしまったのである。
そして、実際に開発の段階においても、主査の役割は単に上層部へと開発の進捗状況を報告するだけの役割では断じてない。
自らが描いたクルマにおいて。それを実際に形に出来るだけの人材を集めて来なければならない。
例えば、初代MR2開発において吉田明夫技師はデジタルメーターの採用を検討していた。
しかし、まだ日本にはデジタルメーターを採用するクルマは存在せず。トヨタにさえ、その技術自体が存在せず、研究する部署も無かった。
そこで吉田明夫技師は、電装関係を取り扱う補器課へと幾度も幾度も足を運び。これを開発出来る能力を持つ人材を探し続けたと言う。
そして実際、MR2の先行試作車両「730B(通称・SA-X)」において、デジタルメーターの搭載を実現させてしまったのである。
結局、このデジタルメーターはコストの関係上、初代MR2に実装されることは無かったが、回り回って初代ソアラやAE86型スプリンタートレノ/カローラレビン、A70型スープラへと搭載されることとなり、ソアラは日本初のデジタルメーター搭載車として世に送り出されることになる。
(なお、このSA-Xは、当時のトヨタに在籍した、技能オリンピックで金メダルを獲得するような超一流の鈑金職人達によるハンドメイドで製作されており、その史料的価値から現在もトヨタ博物館に収蔵されており、かつては初代MR2と並んで博物館3階に展示されていた。現在ではバックヤードに収蔵されているが、時折、表に展示されることもあるので、是非とも世の人々に見て欲しい一台である。)
また、A80型スープラ開発において。都築功技師は、現場のテストドライバーからリアサスペンションの改良に関する助言を受けたと言う。
A80型スープラ開発において、兄弟車であるソアラのプラットフォームを流用することが決定されていたが、ソアラから流用したサスペンションだと、どうしてもコーナリング時においてリアが引っ掛かるような動きになると言うのである。
同時に、その改善策と改良方法の報告も受けた都築技師は、旧来のサスペンションを使用した場合の「挙動の悪さ」を敢えて誇張したビデオを作成して上層部にプレゼンテーションを行い、新たに5億円のリアサスペンション開発予算を取り付けたと言う。
(なお、このことを都築功技師に提言したのは、マイスター・オブ・ニュルブルクリンクとして世界的に尊敬を集めていた、トヨタのトップテストドライバーである故・成瀬弘翁である。)
普通、超高速領域での直進安定性能が高いクルマと言うのは、コーナリングは苦手となってしまうものである。
しかしながら、都築功技師の尽力の結果。A80スープラは、時速300kmでも手放し運転が出来ると言う驚くべき直進安定性能を実現すると共に、意のままに操ることの出来るコーナリング性能をも両立することに成功したのである。
トヨタの「主査」たちのクルマ作りにおけるエピソードは、まだまだ無数に存在している。
そして、これらのように「主査」はまだ見ぬ新型車両を構築する企画力や先見性はもちろんのことであるが、主査自身もクルマと言うものを理解して把握する能力や、ボディやサスペンションなどの主要部品はもちろん、細かなインテリア一つ一つに至るまで。個々の技術においても高い知識を有することが求められ、同時に優れた営業力も要求されるのである。
日本初 純国産乗用車。日本初スーパーカー。日本初リトラクタブルヘッドライト。日本初5速MT。日本初デジタルメーター。日本初ミッドシップレイアウト。日本初ガルウィング。日本初6速MT。日本初シーケンシャルMT……
トヨタが市販車に日本で初めて採用したコンセプトや新技術の数々。これらの裏には数多くの主査たちの、どのような苦心と苦労。どのような苦悩と葛藤。どのような不安と折衝があったのか、推して知るべしである。
時には現場を指揮し、激励し、叱責することはもちろん。上層部との対決も辞さない。
これらのように、トヨタのクルマ作りの成功の可否において「主査」と呼ばれる人々には多大であり重大な責任と、繊細かつ大胆な裁量が求められるのである。
そして、この主査制度を確固たるものとしてトヨタに定着させ、トヨタ自動車のクルマ作りのシステムとトヨタの地位の礎を築いた―――いや、世界における日本車の絶対的な地位と信頼性の礎を築くこととなった主査がいる。それが、中村健也である。
中村健也は、トヨタ自動車において初めて「主査」の役職を任ぜられ、日本初の純国産量産車であるトヨペットクラウンや、トヨペットコロナの開発責任者、開発統括者となった人物であった。
(第2回続くハズ・・・)
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主査 中村健也 | 日記
Posted at
2011/05/02 14:46:29
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