2011年05月31日
「主査 中村健也」 ~日本を造った男~ 第07回
第七章 主査・中村健也
1950年(昭和25年)6月。ようやくトヨタにおける労働争議が終結する。
そして、退任した第二代社長の喜一郎に代わってトヨタ自動車の第三代社長となったのは、豊田自動織機の社長であった石田退三であった。
退三は、戦後の混乱期においても一早く人員整理やGHQへの請願を行って経営の立て直しを図り。退三の優れた経営手腕もあって、豊田自動織機だけが戦後最大の不況の中でも経営の早期安定化に成功していた。
退三は、頑なに無駄を嫌う人間であり。また、他者から融資を受けて経営を行うことを避け、内部留保の確保に励んだ。後にトヨタを無借金経営に導き、現在に続くトヨタの高い地位と巨額の財産を築く基盤を築いた人物でもあった。
そんな退三の人柄と経営手腕は、あの松下幸之助もが師と仰ぐほどであった。
そして、労働争議の収束と同じ月に事件は起きる。朝鮮戦争の勃発である。
第二次世界大戦後、朝鮮半島はアメリカが支援する大韓民国(韓国)とソビエト連邦が支援する朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に分裂し、北緯38度線で睨み合いが続いていた。
しかし、1950年6月25日、北朝鮮が38度線を超えて南進。韓国への侵攻を開始した。
中華人民共和国が支援に大軍を派遣して支援した北朝鮮軍と、米軍が主体となった国連軍が支援する韓国軍と激突し、半島中を巻き込んだ大戦争となったのである。
膨大な物量と物量が衝突し、消耗戦となる中。朝鮮半島のすぐ目の前に位置する日本は、国連軍の補給・支援・修理の為の基地となり、あらゆる産業が再活性化することとなった。いわゆる朝鮮特需である。
この特需においては、もちろん自動車産業も例外では無かった。
トヨタは、日産といすゞとの入札競争に勝利し、第一次の朝鮮特需として1000台のトラックを受注する。
「この数ヶ月、儂は夢を見ているようだ。トラックも四輪駆動車もろくに塗装もせずとも、羽が生えている鳥みたいに(韓国の米軍基地を目指して)飛んでいく。中国の義勇兵が釜山まで攻め込んできたときは、値段もへったくれもなかったで。よこせ、よこせの矢のような催促じゃった。儂も長いこと商売をやってきたが、あの時ほどボロ儲けしたことはなかったわ。戦争直後の時も(豊田自動)織機は信じられないくらい儲けたが、今度は桁が違う」
その当時、退三は、このような驚きの声を上げたと言う。
実際、人員削減を行ったばかりであるのに人手不足となるほどのトラック需要が持ち込まれることになり、トヨタは9ヶ月の間に4679台のトラックを生産。瞬く間に経営を立て直してしまったのである。
朝鮮特需の利益を退三は量産設備を充実させるのに使い、また健也も現場にて、2000トンプレス製造や新たな溶接機械の導入に奔走していたのである。
1951年7月には2000トンプレスが稼働し、トヨタの自動車製造能力は、クオリティ・クオンティティ共に目覚ましい向上を見せた。
また、一方で。この頃にトヨタは、米国のゼネラルモータース(GM)より、GMの自動車をノックダウン生産をしないかと言う誘いを持ちかけられていた。
だが、この裏側には、トヨタをGM傘下に吸収し、子会社化しようというGMの目論見が存在した。
健也は、これに対する断固拒否と国産乗用車の自力開発と生産を進言する。
また、一度はトヨタ社長の座を退いた喜一郎も再び社長の座に復帰することが予定されており。戦前より国産乗用車開発と、それに連なる日本全体の工業・産業の活性化の重要性を説いてきた喜一郎も自社による自力開発に賛同。
結局、トヨタはこのGMの誘いを断り。これによってトヨタはGMの子会社となることを免れたのである。
そして、来たる1952年(昭和27年)1月。遂に日本初の純国産設計の量産乗用車「クラウン」の開発が決定されたのである。
そのクラウン開発の責任者に任ぜられたのは、もちろん健也であった。
健也を責任者に任命した理由について、豊田英二は次のように語る。
「エンジンや足回りはどのようにして造ればよいか大体見当がつくけれども、乗用車のボディーを造った経験はあまりなかったから、ボディーを如何にしてうまく造るかと言うことが一番の問題でした」
「健也君は、ボディーを造るという知識・経験を十分に持っていたし、車体だけのエキスパートではなく自動車の設計のことから製造のことまで幅広く知っていて見識には深いものがあった。トヨタに入る前の共立自動車では乗用車をどうやってつくるかという課題に取り組んできた経験もしていたから、彼ならこの仕事をやれるだろうと確信していた」
「それと、本格的な乗用車を開発するわけだから、それまでのトラックベースの乗用車を開発してきた技術部の人よりも、むしろ白紙の人にやらせた方がいいだろうということもあった」
健也は開発責任者就任の話を持ちかけられた時、「他の人へ回した方がいい」と言う目処も無く、だからと言って成算があるわけでもないので自分が「やった方がいい」というとも言い切れなかった。
しかし、普段から「乗用車を造るべき」と主張し続けて来た手前、断ることも出来なかった。そこで、健也は英二に一つの質問を投げかけた。
「喜一郎さんはご承知のお話ですか」
「ああ、もちろん承知だ」
健也はこの答えを聞いて会社も本気であると思い、開発責任者就任を受けることを決断した。
トヨタでは、それまでにも乗用車製造のために種々の試作が行われ、実際に販売も行っていた。しかし、それらは市場の調査や技術の保存の範囲を出ないものであり。トヨタの興廃を賭けた乗用車の開発が決定されたのは、この時が初めてであった。
「我々仲間は、設計・試作・工作・組立・サービス・販売の知識と経験が殆どないまま、勇気と努力を頼りにこの大きな問題に取り組んだ」
健也は、後にそう語っている。
が、しかし。1952年(昭和27年)3月――トヨタ自動車社長への復帰が予定されていた「おやじさん」豊田喜一郎が急死する……
誰よりも国産自動車作りに命と情熱を燃やしていた喜一郎は、国産乗用車完成をその目で見ることが叶わぬまま、57歳でその生涯を終えた――
健也は労働争議集結後から既に国産乗用車のボディーの量産ライン開発に勤しんでいた。
健也は1946年の頃から、「今後の乗用車ボディーの組み付けは、スポット溶接が主体となるから、その設備の研究をするように」との指示を部下に出していたと言う。
実際問題。乗用車を量産する為には、従来の手作業によるガス溶接組み付けを廃止し、プレス品の品質向上と、自動化されたスポット溶接の組み付けをする必要があった。
そして、労働争議の終結後。健也は部下に、「マルチスポット治具ウェルダー」、「ポータブルスポットウェルダー」「電流制御用同期タイマー、イグナイトロンコンダクター」などの溶接機械の開発を命じる。
現在の自動車工業ではあって当たり前というこれらの機械も、当時はこれらを構成する部品すらもが存在せず。健也はこれらを純国産技術のみで開発することに成功した。
基本的にはトヨタ社内での開発が主であったが、外注で専門のメーカーに依頼する場合であっても、健也は相手を上回る技術力を持っており。明確な開発方針を示したと言う。
その他にも、プレス機械、プレス型、アーク溶接、抵抗溶接、油圧機器――それらのハード面の開発においてだけではなく、健也はもちろんそれを扱う技術員の教育にも力を入れていた。
健也の指示に従い、設備の開発や技術の習得に務めていた社員たちは、過剰なまでの質や量の実現を求める健也の要求に対して不思議に思う心もなかったわけではなかったが、クラウン開発と言う途方も無い計画が発表された時、健也の真意を理解したと言う。
また、健也自身も、社員を教育するだけでなく、自らも必要な開発技術の習得に努めていたという。このことから、技術員はもちろんのこと、現場の職員全員が健也に対して強い信頼感を持つこととなった。
健也は、そのような細かな、そして多岐に渡る努力を2000トンプレスの開発や朝鮮特需の裏側で行って来ていたのである。
これらはすなわち、クラウンの開発が始まる以前から、トヨタには乗用車を量産する為の設備や技術力など、「クルマ作り」の基盤が既に出来上がっていたということであった。
後に、トヨタのクラウン開発はNHKの番組「NHKスペシャル」(1995年4月1日放送)にも取り上げられることになるが。健也はそれについてこのような苦言を呈している。
「NHKが付けた『零からの発進』という題名に註文がある。この題名は、文学的で恐らく日本人好みであり、米国人にも受け入れられ易いと思う」
「しかし、私の体験を振り返ってみても一気呵成にできたものではなく、また我々トヨタグループは零ではなかったし、日本の工業力も零ではなかったと信じている。設備は壊れ、物も金もなかった、その意味では零といえるが、戦後十年で乗用車の生産を始め、二十年で対米輸出が始まり、三十年で輸出を止めさせたいと思わせるほどに至ったのは潜在工業力が零ではなかった証と思う。GNPの伸びが驚異的と言われたのも、工業生産目標を国民が理解したからで、これも潜在工業力の高さを示している」
「豊田英二さんが『準備していたから着手した』とテレビの中で言っておられるが、“嫌みな発言”と註文があった。もし本当に零からの発進ならば“準備がある”筈もなく、総指揮に当たった経営者が成算もなく事に当たる筈も無い。米よこせ運動の中で焼け跡から立ち上がったのだから“零からの発進”と言いたくもなるが、せめて『焦土からの発進』と抑えるか『クラウン誕生』と胸を張るかなどと思った」
「もし零から発進して十年で乗用車のラインが動きだせるなら、どの国でもそれを願う筈です。これが可能となるのは国力であり、潜在工業力であって、たまたまその場に居合わせた個人の働きを評価し過ぎるのは誤りだと思う」
クラウンは、決して零から造り出されたクルマではなかった。戦前より、喜一郎や健也。そして多くの社員たちの長年の努力によって乗用車の開発を可能とするだけの技術と設備が蓄積されていたのであり、準備は出来ていたのである。
そして、準備が出来ていたからこそ、トヨタは。そして健也はクラウン開発に踏み切ったのであった。
かくして1951年(昭和26)年1月。健也を開発責任者として、クラウンの開発はスタートした。
しかし、いくら前準備があったとは言え、クラウン開発が順調に進んだわけではなかった。
開発初期の頃、健也は車体部に所属し、車体部ではボディーとフレームを設計し、造らせていた。
また一方で、サスペンションやドライブトレーン、リアアスクルなどは技術部が担当していた。すると当然、開発責任者である健也は、自らの所属とは別の部門である技術部へも出向き、製造に関する指示を出すことになる。
そして、これに対して技術部が、「車体部の人間が技術部の者に命令するのはおかしい」と騒ぎ出したと言う。
このような無用な混乱が現場で発生したことから、当時、常務の座にあった豊田英二は一つのプランを発案する。
かつて、豊田英二がトヨタに入った時。英二は喜一郎が造った監査改良室と呼ばれる部門に配属された。その監査改良室への指示は、「何でもいいから、とにかく悪い所を見つけたら片っ端から直せ」と言うものであった。
そして同時に、「悪い所を直そうとして言うことを聞かなかったら『社長である喜一郎がそう言っている』と言っても良い」という権限が与えられていた。
健也は技術部に出向いてはしょっちゅう『出来る、出来ない』と言う議論を繰り返していたと言う。そして健也もまた、「君たちは出来そうもないと言うけれど、俺は造る」と一歩も引くことは無かった。
そんな中でも英二は、健也は見込みがないことを言うような人間では無いことをよくよく理解していた。
だからこそ、監査改良室と同じように社長のお墨付きの名の元に、健也が何ら気兼ねなく発言し、指示を出せるようにしなければならないと考えた。
英二は、監査改良室時代の経験を活かし、その延長となる新たな役職を設けることを決定した。その役職の名は「主査」と言った。
国産初の乗用車開発。この前代未聞の大事業を実現させる為には、あらゆる技術と知識に精通するだけでなく、自らも高い技術力と行動力。そして優れた先見性を以て現場を指揮し、開発の取りまとめを行うことが出来る強いリーダーが必要であった。
そして1953年(昭和28年)5月、英二は健也を主査に任命した。
「主査 中村健也」誕生の瞬間だった――
(だいはちかいへ~)
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主査 中村健也 | 日記
Posted at
2011/05/31 12:29:44
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