
拠点を東京から豊田に移しての活動再開となった「ヤング・プロジェクト」。
その第二弾となる「Y2」は、1985年の暮れになってようやくコンセプトとイメージが出来上がる。
若者たちが求めていたのは非日常性と意外性。そして目立ちたいと思う心。手探りのマーケティング調査の中から答えを見つけ出したヤングプロジェクトは、コンセプトを「ライブ&パフォーマンス」と位置付ける。
そして、そのコンセプトに基づいて作成されたイメージスケッチには、飛行機のキャノピーのような「グラッシーキャビン」を纏ったクルマが描かれていた……
~開かない扉~
1985年の暮れのことである。透明なドームの「グラッシーキャビン」を持つクルマ、これがY2プロジェクトのイメージとして固まった。しかし、それと同時にプロジェクトの前に大きな壁が立ち塞がった。それは「ドアが開かない」と言う問題であった。
「グラッシーなボディこそ、このプロジェクトが担う非日常的で自己顕示性の強いクルマには、必要不可欠なものである」
プロジェクトのリーダーである金子幹雄主査はそう確信していた。しかし、ドーム状の曲面ガラスに覆われたデザインと、実用性のあるドアの開閉を両立させることは非常に困難であった。
※余談であるが、かつてトヨタでは飛行機のキャノピーのように、ドアの代わりにスライド式でガラスを開閉して乗り降りするクルマが試作されたことがある。これが後のトヨタスポーツ800のコンセプトカーであるが、やはり乗降性や安全性の問題から、キャノピー式の採用は見送られた。
金子とともに、最初期からY2プロジェクトに参画していたボディ設計出身の八尾博行もドアの開閉方式については頭を悩ませていた。いや、正確には既に答えを知っていたのである。
グラッシーキャビンとドアの開閉を両立させる、たった一つの冴えたやり方……それは「ガルウィング」であった。
ガルウィングとは、横に開閉する通常のドアとは違って上方向へと垂直にドアを跳ね上げるタイプのドアである。この方式は、車高の低さなどの要因から通常のドアでは乗降の困難なレーシングカーに多く採用されていた。
しかし、市販のロードカーとなるとその採用は稀であり、1954年に登場したメルセデス・ベンツ 300SLや、1974年に発売されたランボルギーニ・カウンタック、1981年に登場したデロリアンDMC12などがわずかに採用している程度であった。
これが、メルセデス・ベンツ300SL式のガルウィングドアである。ルーフ中央に残されたバーを支点として、真横から垂直に跳ね上げる方式である。
左右のドアを開放すると、翼を広げた「カモメ=gull」の翼に見えることからガルウィング(=カモメの翼)と呼ばれることとなった。デロリアンDMC12が採用しているのもこの方式である。
そしてこれが、ランボルギーニ・カウンタックに採用されているガルウィングである。
通常のドアがヒンジとしている場所に支点を置き、ダンパーでそれをアシストして前方にドアを跳ね上げて開閉する方式である。これも広義ではガルウィングドアと呼ばれるが、海外では「シザードア(Scissor Door=鋏のドア)」と呼ばれ、区別されることもある。
カウンタックに始まり、ディアブロやムルシエラゴなど、後のランボルギーニ製スーパーカーが多く採用するタイプのものであり、「ランボルギーニ・ドア」「ランボ・ドア」と呼ばれることもあるようである。なお、現在発売されているガルウィング化キットも、これが基本となっている。
ガルウィングを採用すれば、グラッシーキャビンを現実のものと出来る。しかし、その採用の例の少なさ。そしてスーパーカーにしか採用されていないという現実からも、誰もそれを言いだすことが出来なかった。
~第3のガルウィング~
そして、年の明けた1986年1月。八尾の頭に一つのアイディアが思い浮かぶ。それは、デロリアンのように真横でもカウンタックのように前方でも無く、斜め方向へと跳ね上げる方式のガルウィングであった。
斜め開きのガルウィングなら、イメージデザインとドアの乗降性を両立することが出来る――
ベンツ式でもなくカウンタック式でもない、新たなガルウィングドアの方式を思いついた八尾は、段ボール紙を使って3分の1サイズのモデルを製作する。
厳密に言えば、斜め開きタイプのガルウィングドアは、1967年に登場したアルファロメオ33ストラーダレで既に存在した。しかし、アルファロメオ33のガルウィングは、どちらかと言えば構造的にメルセデス・ベンツ方式の応用に近いものであり、八尾の思い付いたガルウィングは、世界初とも言える方式のガルウィングであった。
「これならいける」
確信を得たスタッフたちは、早速、実際の自動車を使用しての試作車造りに取り掛かる。
Y2プロジェクトが使用している部屋の隣には、吉田明夫主査の後を継いだ有馬和俊主査の率いるAW型MR2の開発室があった。MR2とは言うまでも無く1984年に発売された日本初のミッドシップ車である。
そして、その頃のMR2の開発室には、マイナーチェンジを控え、スーパーチャージャーを搭載して1986年に登場することになるTバールーフ仕様のMR2があった。
Y2プロジェクトは、発売前であったTバールーフ仕様のMR2を借りてきて、ガルウィングの試作を行った。
まずは、Tバールーフとフロントシールドの枠の結合部においてはヒンジではなくボールジョイントをを使用して、取り付け位置の調整を行ったと言う。
これらのヤングプロジェクトの試行錯誤を、トヨタ上層部も積極的に後押ししたと言う。
金子の上司であり、AE82型・AE86型カローラ/スプリンターを送り出して大ヒット作とし、専務となっていた揚妻文雄、試作品のガルウィングに初めて乗りこんだのも揚妻であった。揚妻は、「こうしたらもっと良くなるはずだ」と、何カ所かの指摘を行った。
そして、セリカやカリーナを送り出し、取締役となっていた和田明広も、「原理的には十分成り立つ。たてつけの問題は残るだろうが……」と述べつつ、温かな感想を述べたと言う。
「セラが世に出ることが出来たのは、若いスタッフの感性と情熱はもちろんですが、温かくそれを受け入れてくれたトップ。特に揚妻さんや和田さんの功績が大きいと思っています」
金子がそう述べるように、彼らトヨタ役員による推進は、この新たなガルウィングを成功させる大きな力となり、またスタッフたちの自信にも繋がった。
かくして、ガルウィングドアの開発は進められ、翌1987年の第27回東京モーターショーにて。そのガルウィングは公衆の面前に姿を現すこととなる。
Y2プロジェクトの総決算となるクルマ、それがコンセプトカー「AXV-Ⅱ」であった。
(第04回へ……)
参考文献:
・「CARトップ ニューカー速報No.27 SERA」/交通タイムス社
・「モーターファン別冊 ニューモデル速報 第82弾 SERAのすべて」/三栄書房
・「別冊CG 日本のショーカー 1981~1989年 東京モーターショー」/二玄社
・「ベストモータリング」1990年5月号/2&4モータリング社
関連リンク:
・
「セラの系譜」 第01回 ~ヤング・プロジェクトの誕生~
・
「セラの系譜」 第02回 ~ライブ&パフォーマンス~