2012年12月06日
「MR2の系譜」 AW編 第01回 ~主査・吉田明夫~
時に1973年。一人の男が、アメリカ合衆国南カリフォルニアに降り立った。
男の名は吉田明夫、トヨタ自動車の技術者である。これが全ての始まりだった。
1984年、AW型MR2発売。1989年、SW20型MR2発売。1999年、ZZW30型MR-S発売……30年にも及ぶトヨタ・ミッドシップヒストリー。日本初のミッドシップとして登場したMR2シリーズ、その本質と根源は何であったのか。如何なる歴史と系譜によって綴られて来たのか。そのコンパクトなボディにエンジニアたちが込めた思想は、哲学は、情熱はどのようなものであったのか――
「背中にはふたりを酔わせるハートがある」
“MR2の系譜”、本稿を2009年に他界された初代MR2開発主査・吉田明夫技師。そして、2010年に急逝された、歴代MR2シリーズマスターテストドライバー・成瀬弘技師に捧ぐ。
~吉田明夫、アメリカへ~

※2008年。トヨタ博物館にて、AW11型MR2のイグニッションを回す生前の吉田明夫主査。現在、故人。
吉田は1928年(昭和3年)、現在の愛知県豊田市に生を受けた。1958年(昭和33年)にトヨタ自動車に入社した吉田は実験課へと配属され、乗用車における振動や騒音のテストを担当。初代カローラの開発実験にも携わり、初代カローラの開発テストでは、フロント足回りからの騒音はセッティングではなく設計に原因があると主張し、パブリカ・初代カローラ・初代セリカ・トヨタスポーツ800などを手がけたトヨタ自動車稀代の主査・長谷川龍雄と真っ向から渡り合ったという。
日本と日本車が目覚ましい発展を遂げてゆく中、破竹の勢いであった日本車の前に壁が立ちはだかる。1970年に北米で提唱された大気浄化法改正法、通称「マスキー法」である。環境問題が取り沙汰される中、このマスキー法に定められた自動車の排気ガスの環境基準は世界一厳しく、これをクリアするのは不可能とまで言われるものであり、世界を席巻せんとする日本車にとって大きな障害となるものであった。
だが、1972年、ホンダがCVCC(Compound Vortex Controlled Combustion)の開発に成功。これを実装したシビックを投入することによって、世界で初めてマスキー法をクリアしてみせた。続いて1973年には、マツダもロータリーエンジンにおいて、この法律をパスしてみせる。
もちろんトヨタ自動車でも、このマスキー法を突破すべく研究開発が進められていた。そんな中で、トヨタは北米に排気ガスの基準をクリアするためのテスト施設を建設することを決定。北米へと派遣されることになったのは吉田であった。
1973年、渡米した吉田は南カリフォルニアのロサンゼルス、レドンド・ビーチに部屋を借りる。70年代のアメリカ西海岸は、独特の若者文化が花咲く中心地であったと言う。後に映画「キャノンボールラン」のラストシーンとして登場するのもこの場所である。
ロサンゼルス・テクニカルセンター所長となった吉田は現地の若者たちを見ながら、「ここの若者たちにトヨタ車を買ってもらうならどんな物が良いか」ということを考えたと言う。
70年代、南カリフォルニアの若者たちが好んで乗っていたクルマにはイギリス製のスポーツカーが多かった。それらは、決して絶対的な高性能を有してはいないものの、小型で軽量、小回りの利く小粋なスポーツカーであった。例えるならMGミジェット、例えるならロータス・エランがそうであった。

※初代ロータス・エラン(1962~1975)
現代のようなモノコックボディではなく、フレームとボディが別々に構築されるロータス・エラン。かつてのイギリスには、このようなオープンカーが数多く存在し、それらは北米においても数多く輸入されていた。もちろん構造上、ハードユースに耐えられるクルマではなかったにも関わらず、荒く無茶に乗り回したアメリカ人たちによって事故が多発。このようなスポーツカーは衰退の憂き目をみる。それから20年近くを経て、このコンセプトを最新の技術で復刻したのがマツダ・ユーノスロードスターである。
そして、1970年代と言えば空前のスーパーカーブームが巻き起こった時代であった。1968年にはフェラーリ・ディーノが発売され、1971年にはデ・トマソ・パンテーラが登場。同71年にはランボルギーニ・カウンタックが発表される。
とは言え、それらは若者たちに手が出せるようなクルマであるはずもなかったのも事実。そんな中で、一台のクルマが登場する。それはフィアットX1/9であった。

※フィアットX1/9(エクスワンナイン)の北米モデル
1972年に発売されたX1/9は、フィアット128の直列4気筒エンジン由来のパワートレーンを、ミッドシップレイアウトに移設。FF車の技術を応用することによって安価に製造することを可能とした小型のMR車であった。このような、FFのパワートレーンを流用すれば、比較的簡単にミッドシップ車を作ることができるというのは、1969年に登場したポルシェ914によって知られていたのである。

※ポルシェ914。フォルクスワーゲンの部品を流用することによって作られたMR車である。
フィアットX1/9は、カウンタックを手がけたマルチェロ=ガンディーニによってデザインされたミッドシップ車ということもあり、その姿はまさに「ミニ・スーパーカー」と呼ぶべきものであった。そのX1/9が、アメリカの若者たちに大きな人気を博したのは言うまでもなかったのである。
さらに、吉田は若者たちの嗜好を次のように分析した。
「要するに彼らの選択の条件はこうなんです。彼女を乗せる程度だから、座席は2人分で充分。そして車体は小回りが効いて扱いやすい。できればオープンであれば言うことはない。帰国してから、この知見を生かす機会があったらいいなあと思っていました」
自動車が社会に浸透し切った中、ファミリーカーの次に求められるのは、パーソナルユースとして用いる小型のセカンドカーの存在であった。また、吉田自身も毎日のようにステアリングを握り、ロサンゼルスのフリーウェイを走った。非常に混雑するロサンゼルスを走って吉田は、鈍重で大型なクルマの使いにくさと、無駄の多さを痛感したと言う。
そんな北米における自動車文化と自動車社会のあり方を元にして、吉田は新たなクルマのコンセプトを練り始めたのである。
吉田がアメリカに渡ってから1年が経過した1974年。結局、マスキー法はアメリカ国内の自動車メーカーからの猛反発によって廃案となる。一説には、マスキー法は北米市場を侵食しつつあった日本車を排除するためのものであったとも言われている。
トヨタも、ホンダからCVCCの技術を購入するなどして、環境性能の向上に成功することとなり、1974年半ば、吉田は日本へと帰国する運びとなった。
それから5年後の1979年(昭和54年)、吉田は製品企画室の主査に任ぜられる。製品企画室とは、設計部門と実験部門を統括して新車開発をまとめあげる部門であり、主査とは新車開発においてコンセプトに始まって、設計やデザイン、コンポーネンツの選定や性能の決定、生産工程の構築やマネジメントまでにおいて多大な権限と大きな責任を負う役職であった。
本来、製品企画室は設計部門出身の人間が配属される場所であり、実験部門出身の吉田が製品企画室主査に抜擢されたのは、異例の人事であった。
当時、トヨタは昭和53年の日本国内の排ガス規制を達成。また、世間における神経質なまでの環境問題に対する態度も沈静化しつつあり、暗黒の時代から自動車と、一度は鳴りを潜めていたスポーツカーに対する関心が再び高まりつつあり、中でも1978年にマツダが発売したSA22C型RX-7は大きな注目を集めていた。そんな情勢にあって、トヨタでも次代のクルマと、スポーツカーのあり方の模索が行われていた。
そんな1979年。当時のトヨタ自動車社長であった豊田英二が、製品企画室の主査全員を集めて、異例のスピーチを行った。テーマは「トヨタの現状」についてであったという。その中で5代目社長となっていた豊田英二は、主査たちに次のように述べたという。
「従来の発想では考えられないようなコンセプトの車輌が、常識では考えられない一味違った車種が将来のトヨタにはあってもよいのではないか」
1913年、豊田英二は豊田佐吉の弟である豊田平吉の次男として生を得た。英二は、太平洋戦争以前より、トヨタの自動車開発と技術研究。量産のための資本・資材・機材の調達と量産体制の確立に尽力し、伝説の主査・中村健也と共に国産乗用車第一号とされる初代クラウンを開発成功に導いた人物であった。また、「主査」の役職を考案し、中村健也をトヨタ初の主査に任命したのも豊田英二である。
「主査の皆さん。どうか一度、真剣に考えてみて欲しい」。無数の修羅場を中村健也と共に乗り越えて、誰よりもクルマ作りの難しさを目の当たりにしてきた豊田英二は、一時間に渡るスピーチの中で、次代を担う主査たちに語った。
「レドンド・ビーチでのアイデアを実践する時が来た」。英二の言葉を聞いた吉田は思ったと言う。
そして、日本初ミッドシップ・MR2の開発プロジェクトはついに動き出した――
参考文献:(長いので今後省略します)
・「トヨタMR2 E-AW10/11系」 新型車解説書 並びに追補版
・「トヨタMR2 E-SW20系」 新型車解説書 並びに追補版
・「トヨタMR2 E-SW20系」 整備書 並びに追補版
・「MR2 AW10/11」前期型カタログ
・「MR2 AW10/11」後期型カタログ
・「MR2 SW20」Ⅰ型カタログ
・「MR2 SW20」Ⅱ型カタログ
・「MR2 SW20」Ⅲ型カタログ7
・「MR2 SW20 ビルシュタインパッケージ」カタログ
・「MR2 SW20」Ⅳ型カタログ
・「MR2 SW20」Ⅴ型カタログ
・「MR2 SW20」ドイツ版カタログ
・「MR2 SW20」北米版カタログ
・「MR2 SW20」 社内限定セールスマニュアル
・「MR-S」前期型カタログ
・「MR-S」後期型カタログ
・「MR-S Vエディションファイナルバージョン」カタログ
・「GORO」1982年 1月14日号/小学館
・「GORO」1984年 1月26日号
・「GORO」1984年 6月28日号
・「CG CAR GRAFFIC」1983年12月号/二玄社
・「CG CAR GRAFFIC」1985年12月号
・「CG CAR GRAFFIC」1987年12月号
・「driver ドライバー」1985年10月20日号/八重洲出版
・「J's Tipo」1998年1月号
・「AUTO PLUS」2000年9月号
・「J's ネオ・ヒストリックArchives 『TOYOTA MR2&MR-S』」/ネコ・パブリッシング(おススメ)
・「I LOVE A70&80 TOYOTA SUPRA」
・「CAR magazine」2012年7月号(おススメ)
・「Racing on」2004年8月号/ニューズ出版
・「Racing on WRC 2001 VOL.3」
・「日本初ミッドシップ トヨタMR2とトヨタスポーツ」/岡崎宏司 新潮文庫
・「ベストカー」号数不明(グループS仕様の記事について)/三推社
・「ベストカーガイド増刊 オールアバウト TOYOTA MR2」昭和59年8月/三推社(おススメ)
・「ベストカー・クロニクル」/講談社BC
・「Xa Car」1999年8月号/三栄書房
・「モーターファン別冊 ニューモデル速報 第29弾 MR2のすべて」
・「モーターファン別冊 ニューモデル速報 第46弾 MR2のすべて」
・「モーターファン別冊 ニューモデル速報 第78弾 新型MR2のすべて」
・「モーターファン別冊 ニューモデル速報 第257弾 MR-Sのすべて」
・「モーターファン別冊 illustrated Volume32 特集 ミッドシップ 理論と現実」(おススメ)
・「CARトップ」昭和59年6月号/交通タイムス社
・「CARトップ ニューカー速報No.23 MR2」
・「CARトップ ニューカー速報No.74 NEWスープラ」
・「トヨタテクニカルレビュー」Vol.47/オーム社
・「CAR and DRIVER」1990年1月10日号/ダイヤモンド社
・「Best MOTORing」1990年1月号 (Ⅰ型初登場)/2&4モータリング社
・「Best MOTORing」1992年3月号 (Ⅱ型初登場)
・「Best MOTORing」1994年1月号 (Ⅲ型初登場)
・「Best MOTORing」1995年8月号 (ビルシュタインパッケージ登場)
・「Best MOTORing」1996年9月号 (Ⅳ型初登場)
・「Best MOTORing」1998年4月号 (Ⅴ型初登場)
・「ハイパーレブ Vol.21 トヨタMR2」/ニューズ出版
・「ハイパーレブ Vol.50 トヨタMR2 No.2」/ニューズ出版
・「ハイパーレブ Vol.63 トヨタMR-S」/ニューズ出版
・「タツミムック チューニングトヨタ MR2&MR-S VOL.1」/辰巳出版
・「タツミムック チューニングトヨタ MR2&MR-S VOL.2」/辰巳出版
・「タツミムック チューニングトヨタ MR2&MR-S VOL.3」/辰巳出版
・「ROAD&TRACK'S Guide the ALL New TOYOYA MR2」(おススメ)
・「TOYOYA MR2 Japan's First Mid-Engined Production Car」
・「HPBooks TOYOTA MR2 PERFOMANCE」
……他。
資料提供:(下記のお二人には、大変貴重な資料を提供して頂きました。ありがとうございます)
・アルティマ♪ 様
・つの@SW20 様
車輌協力:(今後も、どなたかに協力をお願いすることがあるかもです)
・しょっぺた 様
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MR2の系譜 AW編 | 日記
Posted at
2012/12/06 19:17:07
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