2013年06月13日
「MR2の系譜」 AW編 第08回 ~222D、グループB仕様MR2~(前編)
昭和58年10月、東京モーターショーにて、コンセプトカー・SV-3が発表される。長らく開発が噂されて来たトヨタのミッドシップスポーツ。それが遂に公の場に姿を現した瞬間であった。
既に幾度も各マスメディアがこぞってスクープに成功してきたトヨタ・ミッドシップ。それが遠くない内に量産・市販されるであろうことは誰の目にも明らかであった。
日本中が日本初となるミッドシップの誕生に沸き立つ昭和58年12月、また一つのスクープがもたらされることになる。報じたのは、カートップ誌、それの昭和59年1月号……その内容は「トヨタに4WD仕様のミッドシップが存在する」というものであった。
その真偽、その詳細は不明。昭和59年6月にSV-3がMR2として発売されたこともあり、その情報を深く気に留める者は少なかった。そして昭和59年10月、ベストカーガイドに一枚のスクープ写真が掲載される。

※ベストカーガイド昭和59年11月号より。写真提供はスコラ誌。
撮影されたのは、奇しくも初めにMR2のテストカーがスクープされたのと同じトヨタ・東富士研究所のテストコース。そこを走る一台のテストカー。MR2の面影を残したシルエット、だが異様なまでに張り出したブリスターフェンダーが、そのマシンが只者ではない事を示していた。
ベストカーガイドは、このテストカーを次のように推定する。「これはMR2のグループB仕様である。MR2をベースに4WD化、エンジンは従来の1600ccの4A-Gではなく、1800ccの4Sエンジンをターボ化したものが搭載されているであろう」と。
もしこれが事実なら、トヨタはMR2をベースとしたラリーカーを実戦へと投入するだけでなく、この4WDターボ化されたMR2も量産・市販されることになる。結論から言えば、カートップ、そしてベストカーガイドのスクープと予想は当たっていた。トヨタはMR2を4WD化し、ターボチャージャーで武装したラリーカーの開発を行っており、市販化される予定も存在していたのだ。
……だが、そのグループB仕様MR2が表舞台に登場する日が訪れることは永遠になかった。勝つ事を宿命づけられながらも、戦うことすら許されなかった悲運のマシン。「222D」、これは時の流れに埋もれた、もう一台のMR2の物語……
~トヨタとWCR、そしてグループB~
アスファルトを、石畳を、汚泥を、森閑を、熱砂を、氷雪を……世界のありとあらゆる公道と環境を駆け抜ける『ラリー』。1973年には、その最高峰である『WCR』(当時の名称)が開催されるようになり、そこでは、世界中の自動車メーカーが、その技術力と威信をかけて、熾烈な闘いを繰り広げていた。
日本車でWCRの先陣を切ったのは三菱自動車であった。三菱の投入したランサー1600GSRは、デビュー戦でもあるサザンクロスラリーでは1位から4位までを独占。翌74年のサファリラリーでは、初出場にして初優勝を飾ると言う快挙を成し遂げる。
また、トヨタも古くからラリーへの参戦を行っており、トヨタのラリー初参戦は、1968年のモンテカルロラリーであったと言われる。そしてWCR発足後においては、1975年のフィンランドラリー・通称『1000湖ラリー』において、TE27型カローラレビンで初優勝を飾ることとなった。

※トヨタ・TE27型カローラレビン(1972~1974)。当時の国内ラリーを席巻することとなる。
当時のWCRのカテゴリーは「グループ4」と呼ばれるものであった。 「連続する24ヶ月間に400台」というレギュレーションの中で行われる『グループ4』。その中で、その後のラリーの方向性を決定づける、様々な強力無比なマシンが生み出された。
フェラーリ・ディーノのエンジンをミッドシップレイアウトに搭載した『ランチア・ストラトス』。もはやラリー専用のスペシャルマシン以外の何者でもなかったストラトスは、1974年から1976年まで。3年連続でマニュファクチャラーズ・チャンピオンに輝いた。
そして1981年シーズンには、アウディが世界初のフルタイム4WD機構である「クワトロ・システム」を実装した「アウディ・クワトロ」を実戦投入する。

※世界初のフルタイム式4WDシステムを実装したアウディ・クワトロ。
まだ当時のラリーの主力は2WD。4WDシステムについてもパートタイム式が主流であり、 「フルタイム式4WDのラリーカーは構造が複雑で重量がかさむだけ」というのが当時のセオリーであった。その為、アウディ・クワトロの実力を疑問視する声は多かった。
だが、クワトロはデビュー戦のモンテカルロで、6本のSSで、他車を6分以上引き離すと言う圧倒的な速さを見せ付けた。結果はリタイヤとなったものの、フルタイム式4WDの優位性を実証してみせる。
以降、ダートを中心に走行するラリーにおいて、『もはや4WDでなければ勝てない』という考えが常識となり、4WD技術の開発競争が始まったのである。そして、マシンの変化と共に、ラリーの形態も姿を変えることになる。その一つが、今や伝説となった『グループB』である。
~グループBの時代~
1981年。FIA(国際自動車連盟)の下部組織であったFISA(国際自動車スポーツ連盟)によって、それまでのグループ1 - 8規定を廃止し、1983年シーズンから新規定に移行することが発表される。グループ1~8の規定を再編成し、グループN、A、B、C、D、E、F、Tとする。このうちラリー世界選手権(WRC)はグループBで行われることになった。
グループBのレギュレーションは、大まかに言えば「連続した12ヶ月間に20台の競技用車両を含む200台を生産すればよい」というものであった。これは、ホモロゲーションの規定を緩やかにすることによってより多くのメーカーの参戦を可能とするものであったが、それ以上に、よりラリーに特化したスペシャルマシンの製作が可能となったという側面が大きかった。
結果。この、グループBカテゴリーにおいて、それまでの常識では考えられなかったようなマシンが、次々に登場することになる。
※1983年より本格開催となったグループB
グループ4とグループBの混走となった1982年シーズンのマニュファクチャラーズ・チャンピオンとなったのは、やはりフルタイム式4WDを搭載したアウディ・クワトロであった。続く1983年シーズンにはランチアが「最も美しいラリーカー」と称されるランチアラリー037を投入。スーパーチャージャーで過給され、325馬力を叩き出す2100ccDOHCエンジンをミッドシップレイアウトに搭載する037、2WDでありながらも、ミッドシップならではの運動性能とトラクションを活かし、クワトロを破る。
4WDのアウディと、ミッドシップのランチア。だが、続く1984年シーズン、死闘を繰り広げる二台の前に、一台のモンスターマシンが立ち塞がる。プジョーが送り込んだプジョー205ターボ16E1である。名前こそプジョー205の名を残しているが、中身は全くの別物。セミパイプフレームとケブラー樹脂で構成されたボディは、わずか900kg台。その軽量ボディに350馬力のハイパワーターボエンジンをミッドシップにマウント、さらにフルタイム4WDシステムを組み合わせるという、まさに究極のマシンであった。

※プジョー205ターボ16E2。ミッドシップレイアウトにフルタイム4WDを組み合わせ、その後のグループBのトレンドを作った。
1984年のツール・ド・コルスより投入され、1985年シーズンからはフル参戦を果たしたプジョー205ターボ16は、他を寄せ付けない圧倒的な走りを見せ、85年・86年と2年連続でマニュファクチャラーズチャンピオンを獲得してみせる。
「ハイパワーターボエンジン+ミッドシップレイアウト+フルタイム4WDシステム」。この組み合わせが、WRCの主流となり、また頂点に君臨するであろうことは、誰の目に見ても明らかであった。
パイプフレームに市販車に似せた外装を被せた超軽量ボディ、それに400~600馬力にもなるハイパワーターボエンジンをミッドシップに搭載。駆動は当然フルタイム4WD。あまりのスピードに、車体を大地に押さえつける為の超大型エアロを装着されたグループBマシンは、まさに異形の怪物の姿そのものであった……
~トヨタのグループB戦略~
日本車勢も、グループB制覇の為のマシン開発に躍起となる。サファリの覇者・日産240RS、唯一無二のロータリー・マツダRX-7、そして雪の女王と呼ばれたファミリア。だが、市販車ベースとは、もはや名ばかりのグループBにおいて。そしてWRCの歴史そのものにおいて、日本自動車メーカー達は、未だにマニュファクチャラーズ・チャンピオンを獲得すること適わなかった。
そんな中、トヨタは、熾烈化するグループB制覇において、2段構えの戦略に出る。まず、フェイズ1として、A60型セリカをベースとした『セリカ・ツインカムターボ』と投入。そして、フェイズ2として、日本初のミッドシップ車であるAW型MR2をベースとし、ミッドシップレイアウトに4WD機構を兼ね備えた、モンスターマシンの建造が計画されたのである。そのフェイズ2のマシンこそ、後の『222D』である。
フェイズ1の『セリカ・ツインカムターボ』とは、市販のFR車であるセリカに、わずか0.5mmのボアアップを施し、リアサスペンションを独立を4リンクリジッド化。フロントフェンダーをプラスチック化しただけのマシンであった。

※トヨタのグループBマシン、セリカ・ツインカムターボ。
それでもトヨタ社内における反発は酷く、ホモロゲーション用に、上記程度の改造を施しただけのマシンを200台生産しようとするだけで、社内中から迷惑がられたと言う。グループBセリカの指揮を執っていた技術者などは、セリカ計画を推進した為にエンジニアの道を断たれ、子会社に出向する羽目にもなってしまった。
しかしながらも、セリカ・ツインカムターボは、ビョルン=ワルデガルドのドライブによって1984年のサファリラリーにて優勝。1985年のサファリラリーでは、ユハ=カンクネンのドライブによって。1986年は再びワルデガルドによって、3年連続サファリラリー優勝を果たす。
だが、当時のセリカは2WDのFR……グループBを跋扈するモンスターマシンたちに対抗するには、実力不足は否定できず、セリカに代わるラリーカーの開発は急務であった。
トヨタがグループBの決戦兵器のベース車両として選定したのが、発売を間近に控えたMR2であった。計画が立案されたのは1982年、そして翌1983年には、既に開発が承認されていたのである。
ある日、初代MR2の駆動系を担当したエンジニア・都築功に指令が下される。それはMR2をベースとしたラリーカーの開発であった。

※222D開発責任者を務めた都築功。後にA80スープラ開発主査となる。
都築は愛知県刈谷市出身、名古屋大学大学院修士課程修了、専門は空力学。トヨタでは、トランスミッションの設計部に所属。初代セリカ開発時、後に日本初ガルウィング=セラの開発主査となる金子幹雄と共に、日本の量産市販車として初となる5速マニュアルトランスミッションを設計する。そんな都築は、まだ課長の立場でありながらも役員直轄でラリーカーの4WDターボ仕様MR2の開発責任者に任ぜられる。
元々はFF車であったAE82型カローラをベースとして製作されたAW型MR2。それに、次世代のエンジンとして開発されていた2リッター・DOHCターボエンジン『3S-GT』をミッドシップレイアウトに搭載し、同時期に開発中であったトヨタ初となるフルタイム4WDシステムを組み合わせたマシン。それが、222Dの構想であったと。
車輛の開発は日本のトヨタ開発企画室を中心に、エンジンはTRD、駆動系はアイシン製機、ボディはセントラル自動車とTRD。車輛試作はTRD。そしてテストはTTE(トヨタ・チームヨーロッパ)が担当することとなった。
そして1984年。WRC車輛開発に対するトヨタ社内の凄まじい逆風を受けながらも、ついに『222D』の開発はスタートした。
(長くなったので2回?に分ける……)
※注:
※誠に勝手ながら、文中は敬称略とさせて頂いております。
参考文献:
省略します。第一回を参照のこと。
関連項目:
・「MR2の系譜」 AW編 第01回 ~主査・吉田明夫~
・「MR2の系譜」 AW編 第02回 ~プロトタイプMR2 “730B”~
・「MR2の系譜」 AW編 第03回 ~MR2のシャシー・駆動系~
・「MR2の系譜」 AW編 第04回 ~MR2のボディ・エクステリア・インテリア~
・「MR2の系譜」 AW編 第05回 ~MR2を巡るスクープ合戦~
・「MR2の系譜」 AW編 第06回 ~MR2の誕生、そして~
・「MR2の系譜」 AW編 第07回 ~The Powered Midship~
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Posted at
2013/06/13 10:34:51
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