
さて、昨日の続きです。
『スポーツカー』を作らないトヨタが、スポーツカーと銘打った数少ないクルマである『A80型 スープラ』。
果たしてそのA80型 スープラとは、どのようなクルマであったのか。
生産中止から8年が経過した今、改めて考えてみたいと思います。
※なお、画像は、A80型スープラ開発主査である都築功技師であります。本当はスープラの歴史も、前に書いてたMR2の歴史みたいに何回にも分けてまとめたいんですけどね~。今回は緊急企画ということで(汗)
~スープラの系譜~
スープラのルーツを辿れば、元々は『セリカ』の上級モデルである『セリカXX(ダブルエックス)』に行き着きます。
この『セリカXX』が北米へ輸出される際、アメリカでは「Xの列記」が映画の成人指定度合いを示すため、北米を含めた全ての輸出車は「Xの列記」を避け、新たに与えられた輸出名が『スープラ』なのでした。
そして1986年。A70型にモデルチェンジが成され、『スープラ』は遂に『セリカ』から独立することになります。そこでA70型のキャッチコピーとなったのは『トヨタ3000GT』というキーワードでした。
これは明らかにトヨタ製スポーツカーであり、スーパーカーでもある『トヨタ2000GT』を意識されたものであり、実際、A70型 スープラ発表の際にはトヨタ2000GTと並べて展示されました。
(※ちなみに『ソアラ』発表の際にも、トヨタ2000GTとソアラが並べて展示されました。あと、ヤマハ(笑)って言うな~!)
しかしながら、このA70型スープラにおいても、トヨタは『スポーツカー』という言葉は使用せず、あくまでも、そして意識的に『GTカー』、『グランドツーリング』というカテゴリーが使用されることとなりました。
『GTカー』/『グランドツーリング』とは言ってみれば、アメリカのような広大な大地に延びる長々距離の道路を、高速でロングドライブ、ツーリングするクルマ、という意味合いであり、決してサーキットで速さを競うことを目的とした『スポーツカー』という意味ではありませんでした。
~スープラを『スポーツカー』にした男、都築功~
1989年2月。年号が昭和から平成に移り変わったばかりの季節。スープラに、大きな転機が訪れます。
当時、トヨタ自動車に都築功という人物がおられました。都築技師は、日本初のミッドシップ車である『AW10/11型 MR2』のシャシー駆動系を担当した人物でありました。
そんな都築技師に、一つの辞令が下されます。それは、『現行スープラの開発および、次期スープラの開発』というものでした。
都築技師の中には、ある『悔しさ』があったと言います。
それは、トヨタがWRC『グループB』制覇の為に開発を行っていた、ミッドシップレイアウト+フルタイム4WDシステム+ハイパワーターボエンジンを組み合わせたモンスターマシンである『グループB仕様MR2』、いわゆる開発コード『222D』の開発についてでした。
都築技師は、『222D』の開発にも携わっており、グループBの終焉と共に、自らが深く思い入れていた『222D』が開発中止となってから『クサっていた』と言います。
都築技師は、その無念を晴らすが如く、70型スープラの最終マイナーチェンジの際、排気量は3.0リッターから2.5リッターに下げながらも、出力を国産最強クラスの280psに馬力アップ。さらには、『222D』開発で交流のあったドイツ・ビルシュタイン社のダンパーをその足に採用。スープラを、グランドツーリングから、本格的なリアルスポーツ志向へと転身させます。
その決意の表れとして、『GTツインターボR』と、リアルスポーツの意である『R』を冠した名を70型に最後に与えました。
※『GT-R』にするとスカイラインに申し訳ないので、『GT-R』にはしなかったと、後に都築技師は語っています(笑)
そして都築技師は、『SW20型 MR2』に、企画立ち上がりまで携わった後、ニュー・スープラの開発主査に就任。新たなスープラ像の模索を開始します。
~全てにおいて100点。ナンバー1のスポーツカーを~
そして続く新型スープラについて、どのような方向へ持って行くか。それについてはトヨタ社内でも様々な議論がなされたと言います。
基本的にトヨタは『冒険をしない』『スポーツカーを作らない』メーカーでありました。しかしながら都築技師の中には、『新型スープラはスポーツカーにする』という強い想いがありました。
『私としてはスポーツカー、スープラは、フェアレディZやGT-R、GTOなどより後からデビューするのですから、動力性能や運動性能がナンバー1であるのは当然で、燃費でも安全性でもナンバー1.つまり全て100点を狙えば企画がもらえると考えたのです』
後にこう語る都築技師は、1989年5月に『3リッターターボで300ps。最高速度は300km/h』と言った内容で、20ページ以上に渡る企画書を作成。さらにそれを煮詰めて1989年8月に正式に提出したと言います。
その内容は、『ニュー・スープラのメカニズムは重厚長大ではなく、出来るだけシンプルであること。その一方で安全性を高める為にはハイテクを惜しみなく投入し、スポーツカーと言えども快適性は犠牲にしないこと。そしてスポーツカーとしえt動力性能・運動性能はもちろん、燃費・安全性などで全てナンバー1を狙う』というものでした。
本来、安全性と快適性、そして燃費。これらはスポーツカーの走行性能とは相反する要素です。これについて都築技師は、
『パフォーマンスと優しさというのは相反するんじゃないかと言われましたが、技術があればかなり高いレベルで融合出来るんじゃないかな、そいうクルマをあえてスポーツカーと名付けた。スペシャルティカーではなくてね』
と語ります。そしてそれこそがトヨタが求めた『スポーツカー』像なのでした。
~スープラ開発と、マイスター・オブ・ニュルブルクリンク~
スープラの方向性をまとめ、そして実際に開発していく過程において、必要不可欠な存在と都築技師が考えた人物がいました。その人物こそ、先日、ドイツで事故死された『マスタードライバー』こと、故・成瀬弘氏でした。
成瀬弘氏はもともと『トヨタ2000GT』や『トヨタ7』と言った、伝説的、かつ自動車の歴史に残るトヨタのスポーツカーのメカニックも務めた、叩き上げの技術者でありました。
そして、そのドライビングテクニックは、300人に及ぶトヨタのテストドライバーの中でも群を抜いたものがあり、その最高位の証である『マスター・ドライバー』の称号を与えられていました。
また、『マイスター・オブ・ニュルブルクリンク』。つまり、世界一過酷なサーキットであると名高い、ドイツのニュルブルクリンク・サーキットを極めた者であるとも呼ばれていました。
故・成瀬氏が、テストドライバーとして、他のドライバーと一線を画していた所は『テストドライブのリザルトを設計にフィードバック出来る』という点でした。
1980年代。トヨタが『222D』。いわゆる『グループB仕様・MR2』を開発していた際、10メートルから20メートル車を転がしただけで、『このクルマはココが悪いよ』と指摘したと言います。
それは、単に車の挙動がどうこうというだけでなく、その挙動がどういう原因で発生しているのか、それをどう調整したらいいのかまで的確に分析したものであったそうです。
『私が横に乗ってテストコースに出ていくと、コーナーで『いまこういう挙動が出たでしょ、これはここが悪いからだ』と言うわけ。車の重心やサスペンションの動き、遠心力の働きまで考えた理屈を言うんです。それを聞いてこの人は並みの人じゃないなと思っていたわけです』
都築氏は、その記憶から、80型スープラ開発においては故・成瀬氏のような人物が必要不可欠であると考え、80型スープラ開発の際に選びに選び抜かれ、そしてまた、開発において特別な権限が与えられた3人のテストドライバー=『トップガン』の一人に故・成瀬氏を起用したと言います。
~スポーツ・オブ・トヨタ。A80型 スープラの誕生~
ニュースープラ開発において、都築技師が試金石としたクルマは、『ポルシェ928』と『ポルシェ944ターボ』でありました。928の回頭性能と、944直進性能を超えること、それがまず第一の目標とされました。
もちろん、これ自体が非常に困難な作業であると共に、ニュースープラを具体的にどのようなマシンに仕上げるかについても、大きな問題となりました。
都築技師はもちろん、トップガンの3人は、『Designed Panelist(=特別に指名された評価者)』として、大きな権限を与えられ、同時に北米から欧州まで世界中を飛び回り、世界各地のレーシングドライバーや技術者たちと非常に多くの議論を交わしたと言います。
アメリカでは、欧州では。そして何よりも日本では、どのようなクルマが求められるのか――
『このクルマを開発している時には、ポルシェでもフェラーリでもない。あくまでも目指すのは我々の世界なんだと、』
そう語ったのは故・成瀬弘氏でした。
技術的な面においても、ボルト一本に至るまでの軽量化、電子制御スロットルシステム、ビルシュタインのサスペンション、ゲトラーグの国産初となる6速マニュアルトランスミッション、徹底的に追及されたエアロダイナミクス、250km/hを片手運転出来る直進安定性……。ニュースープラに継ぎこまれた技術と、コンセプトについて、残念ながらここではあまりにも膨大すぎて、とてもではありませんが書ききれません……
そして1993年5月。『SPORTS OF TOYOTA』。トヨタが『スポーツカー』と銘打ったA80型スープラが遂に発売されたのです。
ハイパワーターボエンジン+ハイテク4WDシステムの『スカイラインGT-R』
世界唯一のロータリーターボエンジンを搭載する『FD3S型 RX-7』
アルミモノコックボディを採用した、1000万のミッドシップ・スーパーカーである『NSX』
当時の日本には、ホンダや、日産、マツダなど、その独自、独特の技術、機構を持って『世界一』の称号を手にした個性的なスポーツカーを開発して来た国産自動車メーカーが数多く存在しました。
登場した80型スープラは、直列エンジン+FR駆動方式という極めてベーシックな構造のクルマでありました。
しかしながらスープラは、、そんなシンプルな構造でありながらも、それら特殊な技巧を持つマシンたちに匹敵する国産最強クラスの『スポーツカー』となったのです。
案外忘れられがちなことでありますが、この事実は、トヨタの技術力の高さと、トヨタのトータルバランスを考えたクルマ作りの能力の高さを示しているに他なりませんでした。
(その3に続く……。思いのほか、長くなっちまったorz)