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霧島のブログ一覧

2013年06月20日 イイね!

「MR2の系譜」 AW編 第09回(最終回) ~222D、グループB仕様MR2~(後編)

 時に、1980年代。過激化するWRC・“グループB”は世界中を熱狂の渦に巻き込んだ。

 ランチア、アウディ、プジョー、ルノー、シトロエン、ポルシェ、フォード、日産、マツダ、三菱、そしてトヨタ……。世界中の自動車メーカーが、己の技術力と威信を。そして世界最速の栄誉と称号かけて、熾烈なまでのラリーカー開発競争を繰り広げた。

 スポーツカーの理想、「ミッドシップレイアウト」。グラベルの絶対神、「フルタイム式4WDシステム」。そして、500馬力オーバーを叩き出す「ハイパワーターボエンジン」……この三つを兼ね揃えた者こそがグループBを制する。極めて緩やかなグループBのレギュレーションの中、数々のモンスターマシンが世界中を駆け抜けた。

 そして、日本車を牽引する国産メーカーとなっていたトヨタ。トヨタもまたグループBの覇者たらんと、日夜、研究開発を続けていたのである。

 まずはグループB攻略の第1フェイズとして、FRのセリカに改造を加えたセリカツインカムターボを送り込む。そしてその間に、第2フェイズとなる、ミッドシップのMR2を4WDターボ化したグループBの決戦兵器を作り上げる……。これがトヨタのグループB戦略であった。

 開発リーダーとなったのは、初代MR2の駆動系を担当した都築功。


 ※2011年2月19日、トヨタ博物館で行われたスープラ25周年記念講演での都築功先生。霧島の222Dに関する質問にもお答え頂きました。なお、胸に付けたバッヂはbB、現在の愛車はプリウスとのこと。

 与えられたコードは「222D」。そして1984年、通称「グループB仕様MR2」の開発が始まる――

~222D、第1次試作車~

 セリカが社内の激しい非難にさらされながらも確かな戦績を挙げる中、222Dの開発は進められる。都築だけでなく、後にA80型スープラの開発主査となる片山信昭を始め、初代MR2のマスターテストドライバーを務めた成瀬弘も222Dの開発に参加した。


 ※生前、レクサスLFAのステアリングを握る成瀬弘。2010年6月23日、死去。

 特に成瀬の車両評価スキルは群を抜くものがあり、成瀬は10メートルから20メートル、222Dを転がしただけで、「都築さん、このクルマはココが悪いよ」と指摘してみせたという。それは、単に車の挙動がどうこうというだけでなく、その挙動がどういう原因で発生しているのか、それをどう調整したらいいのかまで的確に分析したものであったと言う。

「私(都築)が横に乗ってテストコースに出ていくと、コーナーで『いまこういう挙動が出たでしょ? これはここが悪いからだ』と言うわけ。車の重心やサスペンションの動き、遠心力の働きまで考えた理屈を言うんです。それを聞いてこの人は並みの人じゃないなと思っていたわけです」

 まずは翌1985年の春。7台の222D第1次試作車が完成した。


 ※222D・第1次試作車。ボディカラーのブラックは、ヨーロッパでテストされたモデルであることを示す。

 エンジンの3S-GTEとトランスミッションを共に横置きでミッドシップレイアウトに配置し、当時開発中であったフルタイム式4WDシステムを搭載した第1次試作車。このマシンのスペックの詳細は不明だが、最大馬力は600ps。最大トルクは60kg/cm前後にも及んだと言う。

 5月にはヨーロッパのTTEへと輸送され、同年4月にセリカを駆り、サファリラリーで優勝を飾ったユハ=カンクネンのドライブによってシェイクダウンが行われることになった。


 ※2007年、英国グッドウッドフェスティバルにおいて、デモ走行を行う222D・第一次試作車両。

 オランダのユーロサーキットを始め、スコットランドの森林コース、ノックヒルサーキット。果ては英国陸軍の悪路試験路まで。ターマック、グラベル双方で行われた走行試験において、多くの問題が浮き彫りとなった。

 特にTTEから指摘されたのは、その整備性の問題であった。ミッションケースの脱着に始まり、クラッチの交換、プラグの交換、スロットル系等々、短時間で整備をこなさなければならないラリーマシンなのにも関わらず、222Dのサービス性は、極めて悪いものであった。

 そして、もう一つの問題は駆動系の脆弱性であった。222Dのあまりの高出力にアルミ製のミッションケースが保たず、用意された5セット全てがテスト中に破損。中には30分も保たずに壊れるものもあったと言う。

 また、AW型MR2とさほど変わらない、短いホイールベースにトレッドの中でエンジンを横置きにしたことにより、重量配分や操縦性などの面にも問題が発生した。

 これらは一重に、それまでトヨタに存在した設計思想、構造部品等を流用した結果であるとも言えた。エンジンが縦置きでなく横置きとなったのは、セリカやMR2を参考に、そして部品を流用することによってコストダウンを図るためでもあったが、その結果、ラリーカーとしては整備性が極めて悪いという致命的な欠陥を抱えることになってしまったのである。

~222D・第2次試作車の完成~

 試験結果を受けてトヨタは、222Dのさらなるパフォーマンスの向上を図る為、エンジンを縦置きに配置した第2次試作車の開発着手を決定する。

 エンジンの縦置き化は、サービス性と、運動性能の向上を図る上では当然の選択ではあったが、縦置きミッドシップ4WDを製作すると言うことは、構成部品の多くを専用部品として開発し直さなければならず、開発コストはもちろん、市販時の価格を高騰させてしまうことに直結するものであった。

 当時、海外のマーケティング部に所属するトヨタ社員は、性能の向上の代償として、市販予定価格が上昇し続けることに相当頭を痛めたと言う。

 そして1985年の年の末。遂に222Dの第2次試作車、8台が完成した。


 ※222D、第2次試作車両。ボディカラーのホワイトは、日本でテストされたモデルであることを示す。

 そのマシンは、シルエットこそAW型MR2の面影を残しているものの、エンジン搭載方法を変更したことにより、ホイールベースは延長され、トランスミッションは、パイプフレームに懸架されたエンジンの後方に突出した形で設置され、オイルクーラーへの巨大なエアインテークがルーフに装着されるなど、もはやMR2からは大きくかけ離れた様相となっていた。

 全長3985mm、全高1880mm。ボディの大半はFRP製。 重量は1100kg。重量配分は47:53。エンジンの最高出力は500ps以上、最大トルクはおよそ60kg/cm。フロント、195/65R16。リア、215/60R16の、当時、例を見ない前後異径タイヤ。サスペンションは、MR2シリーズには、最後まで採用され無かったダブルウィッシュボーン。0:100~40:60まで、可変するトルク配分型4WDシステム。


 ※第2次試作車のエンジンルーム。縦置きにされたトランスミッションが後方に突き出しているのが確認できる。

 222D・第2次試作車は完成後、直ちにテストに移される。その中で、強いアンダーステア傾向の是正の必要性や、エンジンのさらなるパワーアップ等、様々な問題が指摘され、さらなる開発と改良が進められていった。

 222Dの最終的な性能に関しては、様々な意見、証言がある。あるTTE関係者は「グループBセリカとの比較テストも行われたが、時代遅れのセリカより明らかに遅いコーナリングスピードや神経質な操縦性が問題視された」と語る。 逆に企画担当の責任者は「当時の他社車の緒元、テスト情報からして、222Dは抜群の性能を持っていた」と語っている。

 賛否両論の意見があるにせよ、実際、ホモロゲーション取得の為の、市販用200台分の部品の調達も進められ、222Dは、世界を掴むべく、その企画と開発が進められていった……

~グループBの暴走とグループS。そして終焉~

『連続した12ヶ月間に20台の競技用車両を含む200台を生産すれば、20台の競技用エボリューションモデルを製作出来る』

 現代のモータースポーツからすれば、考えられないような緩やかなレギュレーションの中、WRCマシンのパワーアップは、留まる所を知らなかった。しかしながら、そのあまりの馬力と性能のエスカレーションとインフレーションの中、WRCマシンの安全性を危惧する声も上がり始めており、そして、それらは実際にWRCマシンとドライバーの死亡事故として、現実のものとなってしまっていたのである。

 1985年シーズンの第5戦ツール・ド・コルス。アッテリオ=ベッデガのドライブするランチアラリー037が立ち木に激突、ベッテガが死亡。第8戦アルゼンチンラリーでは、アリ=バタネンのプジョー205ターボ16E1がクラッシュ。バタネンは瀕死の重傷を負った。


 ※ランチアラリー037、1983年シーズンのマニュファクチャラーズチャンピオンに輝いた。

 それらの事故を受け、同1985年9月。FISAは『グループS』と呼ばれる構想を発表。この『グループS』は、度重なる事故を受け、ラリー車の安全性が配慮されたものであったとも言われるが、そのレギュレーションには『10台のプロトタイプを製作すればホモロゲーションの取得が可能』、つまり、たった10台のワンオフマシンを製作すればWRCに投入可能と言うものであり、ただでさえ過激であったグループBの規制をさらに緩和し、グループB以上の高性能マシンの開発を容易にするものであった。

 この決定を受け、トヨタはグループS仕様モデル。いわゆる『グループS仕様MR2』の製作を新たに計画。これには、NAエンジンの3S-GEを搭載することが計画された。

 そして、当時開発中であった『グループB仕様MR2』=『222D 第2次試作車』は、そのままの方向で開発、改良が継続されることになり、ホモロゲーション取得の為の、市販用200台分の部品の調達も進められて行った。

 一方で、グループBマシンのポテンシャルの高さは、その後も悲劇を起こし続ける。1986年シーズン第2戦スウェディッシュラリーよりWRCに参戦したフォードRS200、450馬力のターボエンジンをミッドシップレイアウトにマウントし、トランスアクスルタイプの4WDシステムを搭載するRS200は、0-60mph加速は、なんとわずか2.8秒というモンスターであった。なお、このタイムは日産の2012年型GT-Rと同等のタイムである。そして、このRS200が、WRC史上、屈指の悲劇を引き起こすことになる。

 第3戦ポルトガルラリー。ヨアキム=サントスのRS200が、コース上にいた観客を避けようとしてコントロールを失い、コースサイドの群集へと突進。40名以上の死傷者を出す大事故が発生する。


 ※高性能化するグループBマシン。それらの“暴走”は、多くの事故を引き起こすようになる。

 しかし、FISAは事故の原因を、あくまでもポルトガルラリーの主催サイドの管理に責任があるとの見解を示し、グループBマシンの過剰なまでの性能の高さが原因であるとは認めなかった。しかし、グループBの方向を決定づける事故が、遂に発生してしまう――

 1985年の最終戦RACラリーより、ランチアが投入したランチア・デルタS4。鋼管スペースフレームとケブラー素材で構成されたボディに、スーパーチャージャーとターボチャージャーを組み合わせ、400psを発揮するエンジンをミッドシップレイアウトに搭載。さらに4WDシステムで武装したこのマシンは、WRCのアイルトン=セナと呼ばれたヘンリ=トイヴォネンのドライブによって、F1モナコGPが開催されるモンテカルロ市街地コースでのエキシビジョン走行において、当時の予選グリッドで6位に相当するタイムを叩き出したと言う。


 ※ランチア・デルタS4と、ヘンリ=トイヴォネン。グループBマシンの性能は、もはやF1マシンをも凌ぐものとなっていた。

 トイヴォネンの駆るランチア・デルタS4は、1986年のラリー・モンテカルロでも圧倒的な勝利を収めていた。 だが同時にデルタS4は、あまりの性能の高さ故に、ヘンリ=トイヴォネン以外に乗りこなせるドライバーが居ない危険なマシンでもあった。

 そして、悲劇は起こった。続く第5戦ツール・ド・コルス。SS18 コルテ-タベルナ。スタートから7km地点。トイヴォネンの駆るランチア・デルタS4がコースアウトし、崖下に転落。爆発、炎上したのである。

 トイヴォネンのランチア・デルタS4は、車体側面を木の幹が貫き、炎上。サスペンションとパイプフレームだけを残し、マグネシウム製のホイールとケブラー、プラスチックで構成されたボディのデルタS4は、跡型も無く焼けて無くなった。



 ドライバーのヘンリ・トイヴォネン。そしてコ・ドライバーのセルジオ・クレストは死亡――

 事故現場は、ゆるい左カーブ。コースにはブレーキ痕が一切残っていなかった。事故原因は不明。ただ、この事故が。あまりのグループBマシンの性能の高さが一因となっているのは、誰の目にも明らかであった。

 この事故を受け、FISAでは緊急会議を開かれる。そして2日後には、1986年をもってグループBを廃止し、グループS構想も白紙撤回することを決定したのである。

 ――結果。トヨタが開発していた『グループB仕様MR2』である222Dの開発は中止。都築は失意の内に、222D開発責任者の座を降りることになる。そして同時に、計画されていた『グループS仕様MR2』も、計画のみで実際の開発が行われることはなくなってしまった……

~222Dの行方~


 ※2011年、「WRC+」誌が222Dの取材を行った際の貴重な映像。

 計画中止後。全部で15台(11台との説もある)製作された222Dがどうなったのかはよく分かっていない。

 そのうち、222D-8。つまり、第2次試作車として造られ、ヨーロッパへ送られた8号車は、ドイツ・ケルンにあるトヨタのTMGファクトリーの倉庫にて。少なくとも1995年までは埃に塗れた状態で放置されているのが確認されている。


 ※222D第一次試作車両(右)と第二次試作車両の8号車(左)が同時に並んだ貴重な写真。

 そして、日本でテストが行われた11号車・222D-11。これは、西暦2000年頃までトヨタにて、テストドライバー育成の教材として使用されており、一部の関係者の間で噂になっていたというのである。 

 11号車は引退後、トヨタ博物館に引き取られることとなった。222Dは、今も遠く異国の倉庫にて。そして、博物館のバックヤードで、永い眠りについているのである――


 ※トヨタ博物館所蔵の222D・11号車。

 余談であるが、222Dの開発テストに立ち会い、後にトヨタ博物館広報グループ長となる松木秀夫は222Dについて、こう語る。

「確かに形は似ていますが、厳密に言うとMR2はベース車両ではありません。名称も別のものにする予定だったんです。結局、名付けられず、『222D』のままでしたが」

 222Dに与えられるはずであった真名。もはや、それを知る術はない。


~222Dの遺産、平成の夜明け~

 グループBの終了、グループSの白紙撤回。それに伴う222Dの開発中止……だが、WRC自体は無くなったわけではなく、その後もグループAカテゴリによって継続されることとなっていた。トヨタもラリーカーの開発、そしてチャンピオンの獲得を決して諦めはしなかった。そして、222Dの遺した技術とデータからも、多くの名車たちが生まれていったのである。

 確かに222Dそのものは開発中止、販売中止と言う憂き目に会ってしまったが、実は、222Dと同じエンジン、同じ4WDシステムを搭載したマシンが開発されていたのである。

 開発コード・595D。後にST165 セリカ GT-FOURという名を与えられたこのマシンは、1990年、カルロス=サインツのドライブによって、トヨタと222Dの悲願であった、日本車初のドライバーズチャンピオンを獲得する。


 ※ST165 セリカGT-Four。日本車として、初のドライバーズチャンピオンをもたらした。

 1992年シーズンから、トヨタはモデルチェンジを敢行したST185型セリカGT-Fourを投入。カルロス=サインツのドライブによって再びドライバーズチャンピオンを獲得。さらに1993年シーズンにはトヨタに復帰したユハ=カンクネンによって、ドライバーズチャンピオンとマニュファクチャラーズチャンピオンのダブルタイトルを獲得してみせる。

 ST185セリカGT-Fourは、翌1994年にもディディエ=オリオールのドライブによって、再びダブルタイトルを獲得。WRCに覇を成してみせた。その後も日本車勢はセリカを先駆けとして快進撃を続け、スバル・インプレッサ、三菱・ランサーエボリューションと共にWRCチャンピオンの座を独占し続けることになる……


 一方、ラリーカー開発の任を解かれた都築はMR2開発現場に戻り、主査の有馬和俊の元で下働きをしながら「クサっていた」と言う。だが、そんな都築に、ある辞令が下されることになる。それは、『現行スープラのマイナーチェンジと、次期スープラの開発』という内容であった。

 都築は、現行(70型)スープラを、280psにまでチューンナップ。さらに、222D開発において交流のあった、ドイツのビルシュタイン社のダンパーをその足に取り入れ、「あくまでもグランドツーリングカー」であったスープラをリアルスポーツへと進化させるべく、改良を施した。

 続く80型スープラでは、日本車初となる6速MTを搭載させ、馬力、空力、走行安定性能。ありとあらゆる面から『スポーツカー』を目指し、トヨタが2000GT以来、実に23年振りにスポーツカーと称することを許したマシンを完成させる。この80スープラ開発においては、同じく222D開発に深く関わった片山信昭や、成瀬弘も大きく貢献することとなった。


 ※JZA70とJZA80。222D開発中止の悔しさが、都築に2台の280馬力FRスポーツカーを作り上げる執念を与えた。

 JZA80型スープラを完成させた都築は、スープラ開発主査の座を片山に譲り、自らはファンカーゴ、bB、ラウムなどの一風変わったクルマを手がけた後、トヨタを退社。津田工業へと籍を移すことになる。


……
………

 さらに――トヨタは、ST160系セリカをベースに一台のクルマを作り上げる。それは、セリカのシャシーとコンポーネンツを流用し、222Dで磨かれたハイパワーターボエンジン・3S-GTEをミッドシップレイアウトに搭載したマシン……

 時代は昭和から平成へ。国産初の280馬力を叩き出す貴婦人・Z32 フェアレディZ、16年ぶりの復活を遂げる王者・R32 スカイラインGT-R、温故知新のオープンスポーツ・ユーノスロードスター、ザ・ロータリースポーツ FD3S RX-7、フラッグシップ・オブ・スリーダイヤモンド GTO、六連星の輝き・アルシオーネSVX、Dream comes true NSX……

 次々に登場する豪奢な国産スポーツカー。絶頂を迎えるバブル経済……

 開発コード・630D。そして、MR2の系譜は再び紡がれる――





 Next Phantasm...


(「MR2の系譜 AW編」は今回で終わりです。お読み下さった方、コメントを下さった方、色々と貴重な情報を教えて下さった方。本当にありがとうございました。次章として「MR2の系譜 SW編」を書いていくつもりのような、そうでもないような。)

※注:
※誠に勝手ながら、文中は敬称略とさせて頂いております。

参考文献:
 省略します。第一回を参照のこと。

関連項目:
「MR2の系譜」 AW編 第01回 ~主査・吉田明夫~
「MR2の系譜」 AW編 第02回 ~プロトタイプMR2 “730B”~
「MR2の系譜」 AW編 第03回 ~MR2のシャシー・駆動系~
「MR2の系譜」 AW編 第04回 ~MR2のボディ・エクステリア・インテリア~
「MR2の系譜」 AW編 第05回 ~MR2を巡るスクープ合戦~
「MR2の系譜」 AW編 第06回 ~MR2の誕生、そして~
「MR2の系譜」 AW編 第07回 ~The Powered Midship~
「MR2の系譜」 AW編 第08回 ~222D、グループB仕様MR2~(前編)
Posted at 2013/06/20 04:54:13 | コメント(2) | トラックバック(0) | MR2の系譜 AW編 | 日記
2013年06月13日 イイね!

「MR2の系譜」 AW編 第08回 ~222D、グループB仕様MR2~(前編)

 昭和58年10月、東京モーターショーにて、コンセプトカー・SV-3が発表される。長らく開発が噂されて来たトヨタのミッドシップスポーツ。それが遂に公の場に姿を現した瞬間であった。

 既に幾度も各マスメディアがこぞってスクープに成功してきたトヨタ・ミッドシップ。それが遠くない内に量産・市販されるであろうことは誰の目にも明らかであった。

 日本中が日本初となるミッドシップの誕生に沸き立つ昭和58年12月、また一つのスクープがもたらされることになる。報じたのは、カートップ誌、それの昭和59年1月号……その内容は「トヨタに4WD仕様のミッドシップが存在する」というものであった。

 その真偽、その詳細は不明。昭和59年6月にSV-3がMR2として発売されたこともあり、その情報を深く気に留める者は少なかった。そして昭和59年10月、ベストカーガイドに一枚のスクープ写真が掲載される。


 ※ベストカーガイド昭和59年11月号より。写真提供はスコラ誌。

 撮影されたのは、奇しくも初めにMR2のテストカーがスクープされたのと同じトヨタ・東富士研究所のテストコース。そこを走る一台のテストカー。MR2の面影を残したシルエット、だが異様なまでに張り出したブリスターフェンダーが、そのマシンが只者ではない事を示していた。

 ベストカーガイドは、このテストカーを次のように推定する。「これはMR2のグループB仕様である。MR2をベースに4WD化、エンジンは従来の1600ccの4A-Gではなく、1800ccの4Sエンジンをターボ化したものが搭載されているであろう」と。

 もしこれが事実なら、トヨタはMR2をベースとしたラリーカーを実戦へと投入するだけでなく、この4WDターボ化されたMR2も量産・市販されることになる。結論から言えば、カートップ、そしてベストカーガイドのスクープと予想は当たっていた。トヨタはMR2を4WD化し、ターボチャージャーで武装したラリーカーの開発を行っており、市販化される予定も存在していたのだ。

 ……だが、そのグループB仕様MR2が表舞台に登場する日が訪れることは永遠になかった。勝つ事を宿命づけられながらも、戦うことすら許されなかった悲運のマシン。「222D」、これは時の流れに埋もれた、もう一台のMR2の物語……

~トヨタとWCR、そしてグループB~

 アスファルトを、石畳を、汚泥を、森閑を、熱砂を、氷雪を……世界のありとあらゆる公道と環境を駆け抜ける『ラリー』。1973年には、その最高峰である『WCR』(当時の名称)が開催されるようになり、そこでは、世界中の自動車メーカーが、その技術力と威信をかけて、熾烈な闘いを繰り広げていた。

 日本車でWCRの先陣を切ったのは三菱自動車であった。三菱の投入したランサー1600GSRは、デビュー戦でもあるサザンクロスラリーでは1位から4位までを独占。翌74年のサファリラリーでは、初出場にして初優勝を飾ると言う快挙を成し遂げる。

 また、トヨタも古くからラリーへの参戦を行っており、トヨタのラリー初参戦は、1968年のモンテカルロラリーであったと言われる。そしてWCR発足後においては、1975年のフィンランドラリー・通称『1000湖ラリー』において、TE27型カローラレビンで初優勝を飾ることとなった。


 ※トヨタ・TE27型カローラレビン(1972~1974)。当時の国内ラリーを席巻することとなる。

 当時のWCRのカテゴリーは「グループ4」と呼ばれるものであった。 「連続する24ヶ月間に400台」というレギュレーションの中で行われる『グループ4』。その中で、その後のラリーの方向性を決定づける、様々な強力無比なマシンが生み出された。

 フェラーリ・ディーノのエンジンをミッドシップレイアウトに搭載した『ランチア・ストラトス』。もはやラリー専用のスペシャルマシン以外の何者でもなかったストラトスは、1974年から1976年まで。3年連続でマニュファクチャラーズ・チャンピオンに輝いた。

 そして1981年シーズンには、アウディが世界初のフルタイム4WD機構である「クワトロ・システム」を実装した「アウディ・クワトロ」を実戦投入する。


 ※世界初のフルタイム式4WDシステムを実装したアウディ・クワトロ。

 まだ当時のラリーの主力は2WD。4WDシステムについてもパートタイム式が主流であり、 「フルタイム式4WDのラリーカーは構造が複雑で重量がかさむだけ」というのが当時のセオリーであった。その為、アウディ・クワトロの実力を疑問視する声は多かった。

 だが、クワトロはデビュー戦のモンテカルロで、6本のSSで、他車を6分以上引き離すと言う圧倒的な速さを見せ付けた。結果はリタイヤとなったものの、フルタイム式4WDの優位性を実証してみせる。

 以降、ダートを中心に走行するラリーにおいて、『もはや4WDでなければ勝てない』という考えが常識となり、4WD技術の開発競争が始まったのである。そして、マシンの変化と共に、ラリーの形態も姿を変えることになる。その一つが、今や伝説となった『グループB』である。

~グループBの時代~

 1981年。FIA(国際自動車連盟)の下部組織であったFISA(国際自動車スポーツ連盟)によって、それまでのグループ1 - 8規定を廃止し、1983年シーズンから新規定に移行することが発表される。グループ1~8の規定を再編成し、グループN、A、B、C、D、E、F、Tとする。このうちラリー世界選手権(WRC)はグループBで行われることになった。

 グループBのレギュレーションは、大まかに言えば「連続した12ヶ月間に20台の競技用車両を含む200台を生産すればよい」というものであった。これは、ホモロゲーションの規定を緩やかにすることによってより多くのメーカーの参戦を可能とするものであったが、それ以上に、よりラリーに特化したスペシャルマシンの製作が可能となったという側面が大きかった。

 結果。この、グループBカテゴリーにおいて、それまでの常識では考えられなかったようなマシンが、次々に登場することになる。


 ※1983年より本格開催となったグループB

 グループ4とグループBの混走となった1982年シーズンのマニュファクチャラーズ・チャンピオンとなったのは、やはりフルタイム式4WDを搭載したアウディ・クワトロであった。続く1983年シーズンにはランチアが「最も美しいラリーカー」と称されるランチアラリー037を投入。スーパーチャージャーで過給され、325馬力を叩き出す2100ccDOHCエンジンをミッドシップレイアウトに搭載する037、2WDでありながらも、ミッドシップならではの運動性能とトラクションを活かし、クワトロを破る。

 4WDのアウディと、ミッドシップのランチア。だが、続く1984年シーズン、死闘を繰り広げる二台の前に、一台のモンスターマシンが立ち塞がる。プジョーが送り込んだプジョー205ターボ16E1である。名前こそプジョー205の名を残しているが、中身は全くの別物。セミパイプフレームとケブラー樹脂で構成されたボディは、わずか900kg台。その軽量ボディに350馬力のハイパワーターボエンジンをミッドシップにマウント、さらにフルタイム4WDシステムを組み合わせるという、まさに究極のマシンであった。 


 ※プジョー205ターボ16E2。ミッドシップレイアウトにフルタイム4WDを組み合わせ、その後のグループBのトレンドを作った。

 1984年のツール・ド・コルスより投入され、1985年シーズンからはフル参戦を果たしたプジョー205ターボ16は、他を寄せ付けない圧倒的な走りを見せ、85年・86年と2年連続でマニュファクチャラーズチャンピオンを獲得してみせる。

 「ハイパワーターボエンジン+ミッドシップレイアウト+フルタイム4WDシステム」。この組み合わせが、WRCの主流となり、また頂点に君臨するであろうことは、誰の目に見ても明らかであった。

 パイプフレームに市販車に似せた外装を被せた超軽量ボディ、それに400~600馬力にもなるハイパワーターボエンジンをミッドシップに搭載。駆動は当然フルタイム4WD。あまりのスピードに、車体を大地に押さえつける為の超大型エアロを装着されたグループBマシンは、まさに異形の怪物の姿そのものであった……

~トヨタのグループB戦略~

 日本車勢も、グループB制覇の為のマシン開発に躍起となる。サファリの覇者・日産240RS、唯一無二のロータリー・マツダRX-7、そして雪の女王と呼ばれたファミリア。だが、市販車ベースとは、もはや名ばかりのグループBにおいて。そしてWRCの歴史そのものにおいて、日本自動車メーカー達は、未だにマニュファクチャラーズ・チャンピオンを獲得すること適わなかった。

 そんな中、トヨタは、熾烈化するグループB制覇において、2段構えの戦略に出る。まず、フェイズ1として、A60型セリカをベースとした『セリカ・ツインカムターボ』と投入。そして、フェイズ2として、日本初のミッドシップ車であるAW型MR2をベースとし、ミッドシップレイアウトに4WD機構を兼ね備えた、モンスターマシンの建造が計画されたのである。そのフェイズ2のマシンこそ、後の『222D』である。

 フェイズ1の『セリカ・ツインカムターボ』とは、市販のFR車であるセリカに、わずか0.5mmのボアアップを施し、リアサスペンションを独立を4リンクリジッド化。フロントフェンダーをプラスチック化しただけのマシンであった。


 ※トヨタのグループBマシン、セリカ・ツインカムターボ。

 それでもトヨタ社内における反発は酷く、ホモロゲーション用に、上記程度の改造を施しただけのマシンを200台生産しようとするだけで、社内中から迷惑がられたと言う。グループBセリカの指揮を執っていた技術者などは、セリカ計画を推進した為にエンジニアの道を断たれ、子会社に出向する羽目にもなってしまった。

 しかしながらも、セリカ・ツインカムターボは、ビョルン=ワルデガルドのドライブによって1984年のサファリラリーにて優勝。1985年のサファリラリーでは、ユハ=カンクネンのドライブによって。1986年は再びワルデガルドによって、3年連続サファリラリー優勝を果たす。

 だが、当時のセリカは2WDのFR……グループBを跋扈するモンスターマシンたちに対抗するには、実力不足は否定できず、セリカに代わるラリーカーの開発は急務であった。

 トヨタがグループBの決戦兵器のベース車両として選定したのが、発売を間近に控えたMR2であった。計画が立案されたのは1982年、そして翌1983年には、既に開発が承認されていたのである。

 ある日、初代MR2の駆動系を担当したエンジニア・都築功に指令が下される。それはMR2をベースとしたラリーカーの開発であった。


 ※222D開発責任者を務めた都築功。後にA80スープラ開発主査となる。

 都築は愛知県刈谷市出身、名古屋大学大学院修士課程修了、専門は空力学。トヨタでは、トランスミッションの設計部に所属。初代セリカ開発時、後に日本初ガルウィング=セラの開発主査となる金子幹雄と共に、日本の量産市販車として初となる5速マニュアルトランスミッションを設計する。そんな都築は、まだ課長の立場でありながらも役員直轄でラリーカーの4WDターボ仕様MR2の開発責任者に任ぜられる。

 元々はFF車であったAE82型カローラをベースとして製作されたAW型MR2。それに、次世代のエンジンとして開発されていた2リッター・DOHCターボエンジン『3S-GT』をミッドシップレイアウトに搭載し、同時期に開発中であったトヨタ初となるフルタイム4WDシステムを組み合わせたマシン。それが、222Dの構想であったと。

 車輛の開発は日本のトヨタ開発企画室を中心に、エンジンはTRD、駆動系はアイシン製機、ボディはセントラル自動車とTRD。車輛試作はTRD。そしてテストはTTE(トヨタ・チームヨーロッパ)が担当することとなった。

 そして1984年。WRC車輛開発に対するトヨタ社内の凄まじい逆風を受けながらも、ついに『222D』の開発はスタートした。

(長くなったので2回?に分ける……)

※注:
※誠に勝手ながら、文中は敬称略とさせて頂いております。

参考文献:
 省略します。第一回を参照のこと。

関連項目:
「MR2の系譜」 AW編 第01回 ~主査・吉田明夫~
「MR2の系譜」 AW編 第02回 ~プロトタイプMR2 “730B”~
「MR2の系譜」 AW編 第03回 ~MR2のシャシー・駆動系~
「MR2の系譜」 AW編 第04回 ~MR2のボディ・エクステリア・インテリア~
「MR2の系譜」 AW編 第05回 ~MR2を巡るスクープ合戦~
「MR2の系譜」 AW編 第06回 ~MR2の誕生、そして~
「MR2の系譜」 AW編 第07回 ~The Powered Midship~
Posted at 2013/06/13 10:34:51 | コメント(1) | トラックバック(0) | MR2の系譜 AW編 | 日記
2013年06月05日 イイね!

「MR2の系譜」 AW編 第07回 ~The Powered Midship~

「MR2の系譜」 AW編 第07回 ~The Powered Midship~ 昭和59年(1984年)6月8日、日本初のミッドシップカーとなるMR2は発売される。

 エンジン横置き型のFF用ユニットとして開発された4A-GELUを、ミッドシップレイアウトにマウンティング。コンポーネンツは、可能な限りAE82型カローラから流用することによってコストを削減。本来、極めて高価なスーパーカーにのみ許されたミッドシップという存在を、安価に庶民の手の届くものとすることに成功した。

 発売から2年と2ヶ月が経過した昭和61年(1986年)8月末の時点で、生産台数は実に9万2千台にも及んだMR2。ドライバビリティや快適性、防音、防振などの研究が徹底的に行われた結果、海外ではオーナーの半数以上が女性となるなど、幅広いユーザー層へと受け入れられるクルマとなった。

 その立ち位置は、あくまでもシティ・ランナバウトであり、セクレタリーカー(秘書のクルマ)。トヨタはMR2を決して「スポーツカー」と呼称することはなく、「あくまでもスポーティカーである」との見解を貫き通した。

 だが、ミッドシップとはスポーツカーの究極であり理想とされるレイアウトである。この手のパーソナルカーとしては、成功の部類には入るMR2ではあったが、発売当初より、MR2に対してさらなる動力性能と、さらなる運動性能を求める声が強く強く挙がっていた。

 いくら4A-Gエンジンが名機とは言え、やはり1600ccの自然吸気である。それに加えて、MR2には、ミッドシップ特有の命題となる、ボディ剛性の弱さや、隔壁の多さに由来する車両重量の増加などの弱点が存在した。一方で、ホンダが同時期に発売した通称・ワンダーシビック。


 ※3代目となったシビック(1983~1987)。モータースポーツでも目覚しい活躍を見せることとなった。

 エンジンの最高出力こそMR2とは同等ではあったものの、MR2より100~200kgも軽いボディも相まって、ボーイズレーサーの先駆けとして、高いスポーツ性と評価を得ることとなっていた。

 当然のことながら、それはトヨタも把握している問題であり、北米での開発テストの段階で、MR2のパワー不足は既に開発陣の実感する所でもあったと言う。

 この問題に取り組むこととなったのは、MR2のボディ設計を担当していた有馬和俊。


 ※MR2開発の主要スタッフ。左から5番目が有馬。その左隣が、主査の吉田明夫。

 MR2の企画立案者であり、主査を勤めた吉田明夫の跡を継ぐ形でMR2の主査となった有馬和俊。さらなるパワーと運動性能をMR2に与えるべく、MR2のマイナーチェンジに取り組むことになる。

~スーパーチャージャー~

 MR2というクルマのコンセプトを企画し、トヨタ首脳陣に開発を進言したのは、言うまでもなく吉田であった。だが、実際の開発においては、吉田と有馬の二人のエンジニアが主査として担当するという、珍しい開発方式が採られていた。

 有馬は、MR2の発売開始直後より、吉田以上に表に出て、MR2の広報活動にも携わっていた。そんな有馬が、MR2のマイナーチェンジに当たって、最初に取り組んだのは、パワーユニットの強化であった。

 1980年代初頭、自社のクルマ作りにおいて、従来よりの主流であったFRから、FFをメインとしたラインナップへと移行させつつあったトヨタ。エンジン横置きを前提としたFF用ユニットの中でも、スポーツ指向へと特性を振ったエンジンが、二種類、新規開発されることとなる。

 一つは1600ccの直列四気筒自然吸気エンジン「4A-GELU」。そしてもう一つは2000ccの直列四気筒自然吸気エンジン「3S-G」であった。MR2の発売と同じ1984年6月より、SV12型初代ビスタ/2代目カムリのマイナーチェンジで追加されたスポーツモデルに搭載される形で、既に3S-Gは世に発表されていた。

 しかしながら、カローラをベースとしたMR2において、2000ccの3S-Gを搭載することは不可能。例え無理やり本体を搭載したとしても、吸排気系の取り回しの問題から、やはり不可能であった。すると、残されたパワーアップの手段は過給機であった。

 過給機(スーパーチャージャー)には大きく分けて二種類が存在する。一つは、高温高圧の排気ガスによってタービンを回して空気を圧縮、過給を行うターボスーパーチャージャー(単にターボチャージャーと呼ばれることがほとんど)。もう一つは、クランクの回転を利用してコンプレッサーを作動、過給を行うメカニカル・スーパーチャージャー(通称として、単に「スーパーチャージャー」と呼称されることが通例となっている)である。

 スーパーチャージングの技術について、トヨタは古くから研究開発を行っており、1980年10月に6代目クラウンに初めてターボスーパーチャージャー搭載モデルを追加。続く1985年9月には、7代目クラウンにメカニカルスーパーチャージャー(以降、スーパーチャージャーと記載)搭載モデルを追加する。

 MR2に過給機を実装するという構想が出たのは、MR2の発売から間もない頃であったという。ターボか、スーパーチャージャーか。クラウンの開発と平行する形で、MR2に搭載される過給機の形が議論されることとなる。

 1983年頃より、性能の良いスーパーチャージャーの実用化の目処が立っていたこともあり、議論はスーパーチャージャーに傾く形で進められることとなる。だが、それでも、ターボかスーパーチャージャーかについての議論には、かなりの時間が費やされたという。

 MR2のメインマーケットは北米であることから、ターボでも良いのではないかと言う意見もあった。だが、当時のターボ特有の欠点であったターボラグと、それに付随するドライバビリティの問題から、ターボチャージャーはMR2には不向きであるといの結論となり、さらにMR2に求めるものは中高速トルクよりも低速トルクとの意見もあった。

 結果、MR2に搭載される過給機は、タイムラグなしにリニアなレスポンスを得ることのできるスーパーチャージャーに決定される。


 ※MR2に搭載されるスーパーチャージャーユニット・4A-GZE。Zはスーパーチャージャーを意味する記号である。

 エンジンのクランクシャフトプーリーから、Vリブドベルトを介し、スーパーチャージャーのクラッチへと動力が伝えられ、二つの繭型ローターを回転させて空気を圧縮する。このクラッチは電磁式となっており、これをOn/Offすることによって過給の開始/停止を行う。

 エンジンへの負荷が少ない時は、電磁クラッチをOff。条件が整うとOnになり、過給を開始。さらに、1rpmあたりの吸気量が0.65リットル以上となると、インストゥルメンタルパネル内のランプが点灯、0.60リットル以下となると、消灯する。

 さらに、高熱となる吸入空気を冷却する為のインタークーラーも設置される。


 ※スーパーチャージャー搭載型MR2のエア吸入経路。長い配管の中で、720度回ってエンジンに達する。

 ボディ右サイドに設置されたエアインテークバルジよりエアは取り込まれ、トランク下部に通された配管を経由して、トランク左側に設置されたエアクリーナーに到達。(この設計の為、MR2のトランクはマイナーチェンジによって容量が若干少なくなった)

 さらに、エアクリーナーからエンジン後方上部からスーパーチャージャーにエアは送り込まれて圧縮。圧縮された空気は、エンジンルーム左上部に設置されたインタークーラーに送られて冷却された後、エンジンのエアインテークへと導入される。これらの過程によって、3000rpmで100度を超える熱を持つ吸入エアは、50度から60度程度に冷却されるという。

 インタークーラーは空冷式で、面積は3000ccの7M-GTEエンジンを採用する2代目ソアラのそれよりも大きくなっている。当初は、冷却ファンを用いてエンジンルーム上部から冷却風を取り込んで、エンジンルーム下部へと抜くように設計されたが、逆に冷却性能の悪化や、埃を吐き出す問題などが発生した為、冷却用の空気は、エンジンルーム下部から上部へと抜けるよう考えられて作られた。

 これらによって、MR2の4A-GZEは、最高出力145ps、最高トルクは19.0kg/mを達成。従来の4A-Gに比べて馬力は約25%、トルクは約40%もの向上を実現することとなった。

~足回りの強化~

 エンジンのパワー向上に伴って、当然のことながら足回りも強化されることとなる。タイヤサイズは185/60R14からの変更はないが、ホイールのサイズが従来の5.5Jから6Jへと変更。

 スプリングレートは、従来のF:1.7kg/mm/R:3.0kg/mmであったのが、スーパーチャージャー仕様では:1.8kg/mm/R:3.7kg/mmに引き締められる。

 ショックアブソーバーは、従来型がフロントの伸び側減衰力が65kg、縮み側減衰力が20kgであったのが、スーパーチャージャー仕様では86kg/23kg。リアは110kg/35kgであったのが、153kg/38kgと、伸び側が強化される。なお、自然吸気仕様においても、サスペンションの強化が行われている。

 車両重量の増大。そして、前後重量配分におけるリアのさらなる重量化に対して、ジオメトリーやアライメントの見直しが行われる他、リア周りの部品は新設計のものが多く用いられている。当然、ブレーキ周りの容量アップも行われ、フロントが243φ、リアが240φであったのが、258φ/263φ。ブレーキブースターも7インチ+8インチのタンデム型が用いられる。このブレーキ周りの強化も、スーパーチャージャー仕様ほどではないものの、NA仕様についても行われている。

 
~エクステリアの変更~

 スーパーチャージャー搭載に伴って、外装にも各所に変更が加えられる。ラジエーターへの導入空気量を増大させる為、バンパーの開口部が大型化となる他、ボディ右サイドのエアインテークもFRP製に変更される。

 さらに、エンジンルーム上部の開口部にも新たにバルジが増設される。


 ※スーパーチャージャー仕様のエンジンフード。FRP製バルジが増設される。

 これらの変更によって、自然吸気仕様において水温が105度まで上昇するような環境下においても、約10度、水温を低下させることに成功したと言う。


 また、今回のマイナーチェンジのエクステリア変更の目玉となったのはTバールーフの設定であった。

 元々、MR2のコンセプトカーであるSV-3にはTバールーフが採用されていた。だが、市販型となるMR2においてはTバールーフを廃止し、ムーンルーフと呼ばれるサンルーフが設定されることとなっていた。

 そして今回のマイナーチェンジで、遂にTバールーフ仕様が設定されることとなったのである。


 ※新たに設定されたTバールーフ。

 元々、これはタルガトップの形態で企画されたものであったと言う。だが、タルガトップでテスト車両を製作して実走させた所、ボディの捩れの問題が発生することとなった。

 ルーフを取り外して走ると、ボディが捩れてしまい、それがハンドリングはもちろん、乗り心地へと悪影響を与えてしまうこととなったのである。

 走りへの影響だけでなく、ルーフを外した際における、ルーフの格納スペースなども問題となった。それらの問題を鑑みて、ボディ剛性の確保、ならびにルーフ脱着の容易さや、収納場所などを考慮した結果、Tバールーフが採用されることとなったのである。


 ※Tバールーフをオープンとした時の様子。ボディカラーのブルーマイカは、スーパーチャージャーモデル専用色。


 その他にも、フロントノーズの形状変更、リアコンビネーションランプの意匠変更などのエクステリアの小変更や、インテリアにおいてもデザイン変更が行われるなど、数多くの変更が今回のマイナーチェンジで行われることとなった。

~MR2の新生~



 こうして、MR2の初登場から2年2ヶ月が経過した昭和61年8月26日、MR2のビッグマイナーモデルが発売となる。

 スーパーチャージャーの搭載によって、強大なトラクションを手に入れることとなったAW型MR2。だが、モータースポーツの世界においては、AE86型カローラレビン/スプリンタートレノと、シビックによって既に活躍の場が占拠されてしまっており、MR2の入り込む余地はなかった。

 その一方でジムカーナの世界においては、スーパーチャージャーによって武装したMR2と、そしてショートホイールベース・超ライトウェイトボディを武器とするCR-Xとが、最速を競って激闘を繰り広げることとなり、それは20年以上が経つ今でもなお各所で目撃できる光景……であるとも言われている。

 この後期型と後に呼ばれることとなるMR2は、それからも小マイナーチェンジが敢行されることとなり、昭和62年(1987年)8月31日と、昭和63年(1988年)8月31日にデザインの小変更を中心としたマイナーチェンジが行われる。

 さらに、昭和63年1月から2月にかけては、スーパーチャージャー仕様G-LimitedのADパッケージをベースとした特別仕様車である「スーパーエディション」が。平成元年1月から2月にかけては、TバールーフG-LimitedをベースとしたスーパーエディションⅡが発売される。そんなMR2のマイナーチェンジの変遷を簡単にまとめると、以下の様になる。


1984年6月 MR2発売(通称 前期型・Ⅰ型)
1985年1月 特別仕様車「ホワイトランナー」発売
1985年6月 小マイナーチェンジ(通称 前期型・Ⅱ型)
1986年1月 特別仕様車「ブラックリミテッド」発売
1986年8月 ビッグマイナー。通称後期型(Ⅲ型)へ。スーパーチャージャー仕様の追加
1987年8月 小マイナーチェンジ(通称 後期型・Ⅳ型)
1988年1月 特別仕様車「スーパーエディション」発売
1988年8月 小マイナーチェンジ(通称 後期型・最終型・Ⅴ型)
1989年1月 特別仕様車「スーパーエディションⅡ」発売


 さらなるパワーを、さらなるスピードを、さらなる運動性能を求めてMR2は進化してゆく。だが、その一方で、その小型なボディと短いホイールベースに比較して、大きすぎるパワーと重過ぎる重量などが災いし、操縦安定性と、限界付近におけるピーキーさの問題がMR2を蝕み始めた。このスーパーチャージャー仕様こそが、歴代MR2において最も乗りこなすのが難しいモデルであるとの声もある。

 日本国内だけで4万826台の売り上げを見せるAW型MR2。そして、一歩、また一歩と終わりへと近づいてゆく昭和という時代……

 そんな中、MR2開発主査である有馬和俊に一つの指令が下される。それは、MR2のフルモデルチェンジ。「あくまでもスポーティカー」から、「日本一の加速力を持つスポーツカー」への挑戦……。日本を、そして世界を震撼させる「最恐のスポーツカー」の胎動が、少しずつ、少しずつ聞こえ始めていた。

 AWからSWへ。そして日本は、平成の時代を迎える――


(次回、AW編、最終回へ……)

※注:
※誠に勝手ながら、文中は敬称略とさせて頂いております。

参考文献:
 省略します。第一回を参照のこと。

関連項目:
「MR2の系譜」 AW編 第01回 ~主査・吉田明夫~
「MR2の系譜」 AW編 第02回 ~プロトタイプMR2 “730B”~
「MR2の系譜」 AW編 第03回 ~MR2のシャシー・駆動系~
「MR2の系譜」 AW編 第04回 ~MR2のボディ・エクステリア・インテリア~
「MR2の系譜」 AW編 第05回 ~MR2を巡るスクープ合戦~
「MR2の系譜」 AW編 第06回 ~MR2の誕生、そして~

Posted at 2013/06/05 21:14:52 | コメント(5) | トラックバック(0) | MR2の系譜 AW編 | 日記
2013年04月26日 イイね!

「MR2の系譜」 AW編 第06回 ~MR2の誕生、そして~

「MR2の系譜」 AW編 第06回 ~MR2の誕生、そして~  1983年10月28日、晴海の東京国際見本市会場にて、第25回東京モーターショーが開催される。

 出品車両は945台と過去最大であり、この数字は、今なお東京モーターショーの歴史の中でも最高ランクの第三位に位置する数でもあった。120万人を超える大盛況の中、一際、大きな注目を集める車両があった。

 その名は「SV-3」。長らく開発が噂され、泥沼のスクープが合戦の渦中にあったトヨタのミッドシップスポーツカーが初めて公式の場に姿を現した瞬間であった……

 ホワイトとグレーのツートンカラーにイエローのライン。スピードメーターにはデジタルを、タコメーターにはアナログを採用したインストゥルメンタルパネル。スーパーカーの象徴とも言えるリトラクタブルヘッドライト。ルーフのウィンドウを取り外せばオープンとなるTバールーフ。そして、何よりもエンジンがリアミッドシップに収められたその躯体は、大変な熱気を以て迎えられたと言う。

 SVとは「Sporty Vehicle」、あるいは「Sports Vehicle」の略称と言われている。SVのコードを冠するモーターショーのコンセプトカーは、それまでにも二台存在し、SV-1は後の初代セリカのリフトバックモデル。SV-2はA60型セリカXXとして発売されていた。

 SV-3が、日本初のミッドシップカーとして市販されるであろうことは誰の目にも明らかであった。


~背中には、ふたりを酔わせるハートがある~

 東京モーターショーでの反響も受け、トヨタはSV-3の市販化へと動く。そして、その車は、『MR2』という名称を与えられ、遂に量産化が開始されることとなる。MR2とは、『Midship Runabout 2sheeter』という造語の略であり、「小型で軽快に走るミッドシップの2シーター」という意味であった。

 MR2第1号車ラインオフの式典の際、MR2開発の発端となった『従来の発想では考えられないようなコンセプトの車輛がトヨタにはあってもよいのではないか』というスピーチを行った豊田英二前社長もセントラル自動車に足を運び、自らテープカットを行ったという。


 ※セントラル自動車にて、MR2の第一号車ラインオフ式典の様子。

 トヨタの社長がラインオフ式典に訪れるのは極めて異例のことであり、その時の英二の笑顔は忘れられないと吉田は語る。

 ……そして1984年(昭和59年)6月8日。東京は赤坂のラフォーレミュージアム赤坂にて、MR2の発表会が開催され、 MR2は遂に世界に姿を現した。



 従来、自動車の新車発表会とは、メーカーの本社ビルや都内の一流ホテルなどの格式の高い会場を借りて行われるの通例であった。だが、ラフォーレミュージアムはファッションショーなどの比較的カジュアルなイベントが行われることの多い場所だった。

 「MR2という全く新しいジャンルクルマの発表において、照明や音響などの設備も豊富で、様々な演出も可能なラフォーレを用いて、斬新な雰囲気にしたかった」。そう、広報担当者は語る。

 MR2を覆うベールに当てられたスポットライト。BGMと共にベールが引き上げられ、ドライアイスの白煙が薄れてゆき、MR2が報道関係者の前に肢体を露わにする。このような発表会は、新車発表としては、極めて異例のことであったという。



 全長3925mm、全幅1665mm、全高1250mm、ホイールベース2320mm。最低地上高140mm。車両重量940kg。グレードは『Gリミテッド』『G』『S』の3種類。『Gリミテッド』と『G』には『AW11』。廉価グレードで、SOHCユニットの3A-Uを搭載した『S』には『AW10』の型式名が与えられた。

 緑色と金色に染め分けられた、シャーウッドトーニングと呼ばれるボディカラー。前年に発表されたスポーティFRクーペであるAE86型スプリンタートレノ/カローラレビンよりも、さらにコンパクトなボディサイズ。

 コンセプトカー・SV-3からは、デジタルメーターの廃止やウィングの形状の小変更。Tバールーフの廃止の変わりにムーンルーフと呼ばれるサンルーフが設定されるなど、細かな変更点はあったものの、その姿はほとんどSV-3とは変わらなかった。



 ミッドシップレイアウトに収められるのは、エンジン横置き型のFF用ユニットとして開発された4A-GELU。電子燃料噴射装置を備えた自然吸気直列4気筒DOHCは、最高出力130馬力、最大トルクは15.2kgを搾り出し、その非常に軽快な吹けあがりとは裏腹に、驚くほどの厚い低速トルクを生み出してくれる。これが、日本初のミッドシップとなるMR2の全容であった。


 MR2は、ミッドシップというスポーツカーの理想とされるレイアウトを採用したクルマであった。だが、絶対的な速さや走行性能を、ひたすら追求したスポーツカーでなかったのも事実。「MR2」とはあくまでシティ・ランナバウト、即ち「軽快にキビキビ走る楽しいクルマ」と言うコンセプトが込められた名前であり、実際にトヨタがMR2のことを「スポーツカー」と公に呼ぶことは決してなかった。かつてのトヨタ2000GT以降、トヨタが堂々と公式に「スポーツカー」を名乗ることを許すマシンは1993年のA80型スープラ、その次には2012年のZN6型86を待つことになる……


 ……MR2が発売された数年後、吉田は再びアメリカに渡る。かつて自身が居を構え、MR2の構想を練った西海岸のロサンゼルス。そこで吉田は、ある光景を目にすることとなる。

 吉田の前にシルバーのMR2がやって来た。運転席から降りてきたのは、現地の若い青年。青年はMR2を路肩に停めると、そのまま目の前の店へと入っていった。

 それを見た吉田は、手にしたカメラで思わずシャッターを切った。



 独特の若者文化の花開いた南カリフォルニア、「ここの若者たちにクルマを買ってもらうとしたら、どんなクルマが良いのだろうか」。それが、MR2の原点であり、全ての始まりであった。それから10年以上が経った今、かつて自身が思い描いた通りの光景が、まさに目の前に繰り広げられている――

 「感慨深かった」。吉田はそう述懐する。

~カー・オブ・ザイヤーの受賞~


 ♪「Le Train de Paris」/Sapho(邦題:「パリ・エキスプレス」のリミックスバージョン)

 AW型MR2は、日本国内だけで4万826台、海外を含めると10万台を超える売り上げを達成する。もちろん量産車としては決して「大成功」とは呼べない数字ではあるかもしれないが、かつてこれほどまでの人気を博したミッドシップは世界中どこを探しても存在しなかった。

 そしてMR2の売り上げ特徴として、女性ユーザーの比率の高さが際立った。メインマーケットとなる北米ではオーナーの50%が、英国ではなんと60%ものオーナーが女性となったのである。これぞ、MR2の開発陣営が徹底的に研究を行った、静粛性や居住性、快適性などが評価され、操縦性についてもマイルドなものではあるが「誰が初めて乗っても違和感なく運転できる」というトヨタが最も大切にしてきた哲学が「新時代のパーソナルクーペの、あるべき姿」として支持されたことに他ならなかった。


 ※MR2の宣伝ポスター。モデルはMR2のCMソングを歌うフランス人シンガーのSapho(サッフォー)。

 日本初となるミッドシップ・MR2。そのあり方には賛否両論があったが、誰もがMR2に深く注目し、そして大きな話題となったことは疑いようがなかった。

 そしてMR2が発売された年の1984年の第5回カー・オブ・ザ・イヤー。当然のことながらMR2もノミネートの対象となる。評点においては、辛口で知られる自動車評論家・徳大寺有恒が、自身の評点において最高となる8点を入れたという。徳大寺はMR2について別の場所で、後に主査となった有馬和俊に対して「刺激的な部分が欠落している、ちょっと魅力が足りない」ともコメントしている一方での、この評点。「これからのトヨタ」に対して、いかに期待を寄せていたかが見て取れる。

 また、選考員の中には「重量が重い。重くなるほど補強しているにも関わらず、ボディ剛性が不足している。そしてそれがハンドリングに影響している。だからMR2に3点以上は、どうしても与えられない」と述べて、DOHC16バルブのシビックに9点を投じた者もいた。(まあ……「ボディ剛性」って言ってる時点で、誰のことか言わなくても分かるよねえ……)

 だが、「あの」トヨタが。「石橋を叩いた上に渡らない」「冒険しない」「面白みがない」「家電製品ばかり作る」等々、実態は別として「極めて保守的」というイメージばかりが先行してしまっていたトヨタが、このようなクルマを国産メーカーの中で先駆けたことが、最もMR2が評価された理由であることに間違いはなかった。

 そして、選考員の一人であり、ベストカーガイド(現ベストカー)の創刊に尽力した正岡貞雄は、MR2に次のようなコメントを贈っている。

「MR2は、いま、一番楽しいクルマ」

 昨年の夏の終わり、ぼくはMR2で関西に出張していた。仕事も一段落して、真っ直ぐ東京に戻るのも能がないので、かねてより心惹かれていた河内長野に行くことにした。それは雨の日曜日であった。

 阪神高速、堺線で堺に出、光明寺池を経由して河内長野にある観心寺に着いたのは午後1時だったろうか。観心寺には、動乱の鎌倉末期に足利尊氏を散々悩ませた武将、楠正成が祀ってある。つまり、この寺から山路を東にのぼると、金剛山、千早城に出るわけで、ぼくはそのワインディングロードを愉しみにきたわけだ。

 観心寺から渓谷にそって千早城にむかう途中、小綺麗な喫茶店があった。そこで休息をとったあと、ぼくは千早城から水越峠を経て、葛城へ出た。

 葛城のいくつかの古い社を訪ねたあと、ふいと座席をみると財布やライセンスを入れた革の小さなバッグがない!
 
 さあ大変だ。これでは東京に帰れない。心を鎮めて、どこで失くしたかを考えてみた。ふっと河内長野の白い喫茶店が想い浮かんだ。

 それからは、もうMR2を飛ばしに飛ばした。ご存じかと思うが、葛城から水越峠越えは古代から有名な難所である。そこを、MR2はミドシップの特性を生かして、ひらりひらりとコーナーをこなしてくれたのである。

 これだ! クルマ本来のもつスポーツ性とは……。パワーが足りないとか、ミドシップ本来の姿は、こんな妥協の産物であってはならないという意見もあるが、逸る心を乗せてこんなにファン・トゥ・ドライブできるクルマが、いま、ほかにあるだろうか!? ぼくがMR2に最高点を与えた理由は、そこにある。で、幸い、ぼくのバッグは、予想通り、喫茶店のかわゆい娘さんが保管してくれていた。



 ――かくして、MR2は見事にカーオブザイヤーを受賞することとなる。

~MR2の系譜、そして歴史の始まり~

 MR2は翌1985年、北米において「'85 MOTOR TREND IMPORT CAR OF THE YEAR」を受賞。日米において二つのカーオブザイヤーを受賞することとなる。


 ♪「Globe Night」/Sapho(邦題:「コッチキテTongiht」のリミックスバージョン)

 1985年1月には、特別仕様車である「ホワイトランナー」を発売、同1985年6月3日、発売から一年を経たMR2は小マイナーチェンジを敢行する。マイナーチェンジとは言えど、バンパーやリアスポイラー、サイドマッドガードなど、それまで未塗装のブラックのままであったパーツを、ボディと同色化。さらに、「スパークルウェーブトーニング」や「ニューシャーウッドトーニング」などの新規カラーが与えられる。



 さらに1985年8月23日「Gスポーツパッケージ」と呼ばれるモデルが追加。これはGグレードをベースに、標準では設定されていなかったリアスタビライザーを追加。サスペンションを強化し、タイヤはポテンザRE71に設定。サイドマッドガードや7wayシートを採用するなど、よりスポーツ性を高めたモデルであった。

 1986年1月には、Gスポーツパッケージをベースとして特別仕様車「ブラックリミテッド」が限定販売される。


 ……MR2のデビューを見届けた吉田はやがて定年を迎え、トヨタ自動車を退職する。

 だが、MR2の歴史は終わらない。この先もMR2は、幾度も幾度もマイナーチェンジとモデルチェンジを重ね、その身を変えてゆくことになる。

 さらなるパワーを与えられたスーパーチャージドAW11。グループBの悲劇。「危険なクルマ」として世界中を震撼させることになるSW20。GT選手権の栄光。アンチパワー・ライトウェイトへの原点回帰・ZZW30、そしてハイブリッドへ――

 販売期間23年に渡るトヨタ・ミッドシップヒストリーは、今まさに始まったばかりだった……

(第7回へ)

※注:
※誠に勝手ながら、文中は敬称略とさせて頂いております。

参考文献:
 省略します。第一回を参照のこと。

関連項目:
「MR2の系譜」 AW編 第01回 ~主査・吉田明夫~
「MR2の系譜」 AW編 第02回 ~プロトタイプMR2 “730B”~
「MR2の系譜」 AW編 第03回 ~MR2のシャシー・駆動系~
「MR2の系譜」 AW編 第04回 ~MR2のボディ・エクステリア・インテリア~
「MR2の系譜」 AW編 第05回 ~MR2を巡るスクープ合戦~

スペシャルサンクス:
・アルティマ♪ 様(資料提供)
・しょっぺた様(車輌協力)
・正岡貞雄 様
Posted at 2013/04/26 11:39:02 | コメント(3) | トラックバック(0) | MR2の系譜 AW編 | 日記
2013年02月25日 イイね!

「MR2の系譜」 AW編 第05回 ~MR2を巡るスクープ合戦~

「トヨタが、日本初となるミッドシップスポーツカーを開発しているらしい」

 昭和50年代も半ばに差し掛かる頃、自動車業界とマスメディア界で、そんな噂が囁かれ始める。新車開発とは、極秘裏の内に行われるものであり、来るべき時が来るまでは、その存在は秘匿され、そして頑なに否定される。

 もちろんトヨタもMR2の開発については極秘裏の内に進めてきてはいた。だが、人の口に戸は立てられない。どこからともなく情報は漏れてしまうもの。「トヨタがミッドシップを開発している」ということは、いつしか公然の秘密となってしまっていた。だが、それと同時に、それはあくまでも噂であり、その姿を見た者は誰も居なかった。

 自動車雑誌のみならず、一般誌、大衆誌までもが、まだ見ぬトヨタ・ミッドシップの姿を捉えよう躍起になっていた。これは、MR2を巡るもう一つの戦いの物語――

~第一種接近遭遇~

 神奈川と静岡の県境、富士山を遥かに望む裾野、そこに一つのゴルフ場がある。そのゴルフ場は、素晴らしい富士の景色もさることながら、もう一つの隠れた展望スポットであった。そこからは、富嶽以外にも、別のものを眺めることが出来たのだ。それはトヨタ自動車の東富士研究所……即ちテストコースであった。

 テストコース、ましてやトヨタの中でもクルマ好きが集うと言われる東富士。そこは、極秘裏に開発されるテストカーをスナイプするには絶好の狩場でもあった。

 そんな昭和55年8月19日。時刻は午前10時を少し過ぎた頃のことであった。ゴルフ場に張り込み、東富士テストコースを監視していたベストカーガイドスクープ班のカメラマンの前に、一台のテストカーが姿を現した。ハッチバックスタイルのボディ自体は珍しくもなんともない、しかしてそのテストカーは……完全な2シーターであった。

 これこそ、噂されていたトヨタ製ミッドシップスポーツカーに他ならない。カメラマンは、遥か遠くのテストカーを超望遠レンズで狙い撃った。


 ※「ベストカーガイド」昭和55年10月号より。

 この車両は職人によるハンドメイドモデルの先行試作車両であった。世界で初めての、トヨタ・ミッドシップのスクープの成功。これに、編集部は大いに湧き立ったという。

 しかして、トヨタ・ミッドシップのスクープ第二報は意外な所から発せられる。それは総合男性誌の「GORO」、その昭和56年1月16日号。GOROは「トヨタ製1.6リッター、ランチャストラトスか!?」と題打ち、トヨタ・ミッドシップの詳細なイラストと、そして「730B」という開発コードまでもをスクープしたのである。

 いくつかの誤情報が含まれているとは言え、これらの詳細すぎる情報は、トヨタ内部からの情報提供者がいることを示唆しているに他ならなかった。


「常務の○○だが、730Bの開発はどこまで進んだのか」
「開発主査の○○だが、エンジン・シャシーの煮詰めはどの程度までいったのか」

 GOROによって730Bというコードが報じられてから、そんな怪電話が開発スタッフの元にひっきりなしに掛かってきたという。もはや、トヨタ内部に情報を売った者がいることは火を見るよりも明らかであった。

 これらの事態に、トヨタも策を講じることになる。初めに730Bが撮影されたゴルフ場にはトヨタの監視員が巡回するようになり、密告者の検索も行われ、実際に何人かの首が飛んだという。

 続く第三報は、またしても「GORO」の昭和57年1月14日号。「730Bは3台存在し、うち2台はリトラクタブルヘッドライト。残りの一台は角型の固定ヘッドライト」「730Bは3人がけのミッドシップ」「エンジンは1600ccの4A-G」「ボディスタイルはハッチバックでなく、クーペタイプ」と報じる他、マツダのロータリー・ミッドシップやスバルのボクサー・ミッドシップの可能性についても言及してみせる。


 ※「GORO」昭和57年1月14日号。史料提供:アルティマ♪様

 実際には3シーターの730Bは存在しない上、実在する730Bは2台である。固定ヘッドライトモデルはおそらく、セリカのボディを継ぎ接ぎ改造して製作されたテストカーのことだと思われる。そして、このセリカボディのテストカーは、昭和58年2月号のベストカーガイドがスクープに成功する。


 ※ベストカーガイド昭和58年2月号より、セリカのボディを利用して製作されたMR2のテストカー。

 この、セリカをショートホイールベース化して製作されたテストカーは、あくまでもコンセプトカー的存在であった730Bと違い、実際の市販量産に向けてのシャシー駆動系の実証テストを目的とした車両であった。

 そして、あまりにも730Bというコードが有名になり過ぎてしまった為、トヨタは敢えて「分かりにくい名前」として「879B」の開発コードを用いるようになるが、そのコードもメディアの知れる所となってしまう。

~日産の野望、先行するGM~

 トヨタが開発しているという、日本初のミッドシップスポーツ。この存在は、当然のことながら他メーカーたちにも知れることになる。そして、これに真っ先に反応したのがトヨタ最大のライバルであった日産自動車であった。

 1970年代。日産自動車は、『S30Z フェアレディZ』『ケンメリ・スカイライン』『セドリック/グロリア』『サニー』といった大ヒット車を世に送り出し、1976年における日本国内自動車販売シェアの31%を占めるまでになり、トップを走るトヨタの37.7%に肉薄する勢いであった。しかしながら日産はその後、販売店対策や海外進出の失敗などにより、みるみるうちにシェアを失い、1980年代には、トヨタとの差は絶望的なまでになっていた。

 そしてそれは、単に販売台数や販売戦略の問題だけでなく、『技術の日産』とうたわれていた日産の技術力が、トヨタの技術力に差をつけられつつあった為でもあった。

「技術的な面でもトヨタに負けていると実感した時期でしたね。クレーム対策にしてもうちはその車種だけの対策で済ませるところでしたが、トヨタは全部の車種でやっている。『技術のニッサン』って本当? という感じでした」

 当時の日産の技術者は、こう語る。こうした状況の打開のため、日産もまた、ミッドシップ・スポーツカーのプロジェクトを発足させたのである。そして、当時の専務取締役である園田善三は、趣向の異なる2種類のミッドシップスポーツカーを開発するプランを持っていた。

 一つは3リッタークラスの超高性能スポーツカー。そしてもう一つは、1.8リッターの小型ミッドシップスポーツカーであり、それをもってして新しいマーケットを開拓する為の、パイクカー・プロジェクトの一環として位置づけられていたと言う。

 園田は、当時、猛威を振るったRX-7にぶつける小型スポーツの開発を指示。『NXプロジェクト』と呼ばれる開発チームが編成されることとなる。NXプロジェクトにおいて構想されたミッドシップ車は、下記のようなものであった。

 FF化したばかりの『T11型 オースター/バイオレット』のドライブトレーンを流用、リバース・レイアウトし、85psのCA18Sエンジンを横置きにミッドシップ配置。サスペンションにはダットサントラックのトーションバーを半分に切ったものをフロントに。リアにはストラット式を採用。

 日産製スポーツカーを数多く手がけることになる前澤義雄の手による流麗なウェッジシェイプ・スタイリングをまとったそのNX・ミッドシップ。特筆すべき点はなんと、ミッドシップレイアウトでありながらも、フロントに2シート+リア2シートの計4シーターを実現していることであった。

 トヨタ製ミッドシップの発売に3ヶ月先んじて発売するという目論見のもと、モックアップが完成、役員会に提出される。だが、一部の役員から『ゴルフバッグが積めない』とのクレームが付き、あえなくNXプロジェクトは中止となってしまったのである。

 1.8リッターのミッドシップ計画・『NXプロジェクト』が頓挫してしまう中、もう一つの3リッターのミッドシップ計画は、Mr.スカイラインこと桜井眞一郎の手によって進められていた。それこそが、後に『MID4』と名付けられることとなるクルマであった。


 ※日産MID4。Ⅰ型、または前期型と呼ばれるモデル。

 だが、このMID4は、元はと言えば桜井の主管としての裁量の範囲内で行われたものであり、日産自動車上層部からの指示の元に企画がスタートしたものでは無かった。しかも、「次世代の技術の開発と、時代を担う若手の育成」を目的とするものであり、市販量産を念頭に入れて開発が始まったものではなかった。そして実際に、MID4が遂には市販化されるに至らなかったことは言うまでもない。


 一方、MR2のメインマーケットとなる予定だった、北米からもミッドシップスポーツの開発情報が飛び込んでくる。それが、ゼネラルモータース社のポンティアック・フィエロであった。


 ※アメリカ初の量産型市販ミッドシップスポーツであるポンティアック・フィエロ

 92馬力の2500cc自然吸気SOHCエンジンと、4速マニュアルトランスミッションを搭載。車重は1100kg。このフィエロもまた、既存のFF車の技術とコンポーネンツを流用することにより、安価に製作することを可能としたミッドシップであった。

 MR2よりも半年早く市販されることになり、大ヒットとなったフィエロ。このニュースは、トヨタのスタッフたちを驚かせることになる。だが同時にMR2開発陣は、「自分たちの目指した方向性は間違っていなかった」と奮い立ったとも言う。(結局、フィエロとAW、どちらが売れたかはフィエロがかわいそうだから聞いてあげるな。フィエロは発火事故が多発して「最も燃えやすいクルマ」など揶揄されたのも内緒)

~そして、MR2は裸体を晒す~

 各社がミッドシップスポーツカーの開発に奮闘する一方で、各マスメディアたちも必死でトヨタ・ミッドシップの姿を捉えようとしていた。だが、トヨタの守りは堅く、どの雑誌も市販モデルの姿を捉え切るには至ってはいなかった。

 新車スクープの雄であったベストカーガイドは、北米のカリフォルニアにスクープ班を派遣。世界最高の灼熱舗装路であり、耐熱テストのメッカであるデス・バレーで、トヨタのミッドシップを狙う。この中で、新型シルビアや新型フェアレディZのスナイプには成功したものの、トヨタ・ミッドシップを発見するには至らなかった。

 
 ※デスバレーでベストカーガイドがスクープしたテスト中の31ZとS12シルビア

 そして……遂に驚くべきスクープが報じられる。スクープしたのはなんと「週刊プレイボーイ」、その昭和58年8月16日号のことであった。


 ※「プレイボーイ」昭和58年8月16日号。未発表であったMR2の市販モデルを初めてスクープした。

 場所はベルギー・ゾルダーサーキット。「撮らないで!」と両腕で×印をつくるコ・ドライバー。これぞまさしく、トヨタ製ミッドシップスポーツの一糸まとわぬ姿であった。

 トヨタはベルギーのブリュッセルに開発拠点を持っており、その近くにはニュルブルクリンク・サーキットも所在する。吉田明夫主査は、ニュルテストの際の渡欧でスクープ写真を撮られ、帰国後に上層部から大目玉を食らったと述懐する。おそらく、これがその時の写真だと思われる。なお、後の市販型とリアスポイラーの形状が異なっているのが確認できる。

 元々のスクープは、海外のMAXプレスと言うスクープ集団であったと言う。MAXプレスが撮影した写真を、プレイボーイ誌が買い受ける形でのスクープであった。自動車雑誌でも何でもないメディアからの決定打。各自動車雑誌の編集部は悔しさをこらえ切れなかったと言う。

 だが、自動車メディア界も、負けてはいなかった。昭和58年9月20日号の「ドライバー」誌が、トヨタ・ミッドシップのスクープに成功する。


 ※「ドライバー」昭和58年9月20日号より。

 モノクロのプレイボーイと違い、カラーでの撮影に成功した「ドライバー」。これはカリフォルニア・デスバレーで耐熱試験を行うMR2の様子を捉えたものであった。なお、誌面では「4A-Gのターボ、あるいは2S-G」が搭載される」と予測されている。

 同じくデスバレーでMR2を狙っていたベストカーガイドの悔しさ、推して知るべし、である。

~ベストカーガイドの逆襲(笑)~

 だが、転んでもタダでは済まないのがベストカーガイドであった。業界ナンバーワン誌の名にかけて、指を咥えてただ見ているだけなど出来はしない。

 プレイボーイのスクープを見て激怒したのは、当時のベストカーガイド3代目編集長である勝股優。プレイボーイに掲載されたトヨタ・ミッドシップを指してこう言ったという。

「おい、これ作っちまえ」

 この企画を担当することになったのは、ベストカーガイドの名物編集員であった大井貴之。


 ※ベストモータリング時代の大井貴之。若ッ!ベストカーガイド時代は「タコ」の愛称で親しまれていた。

 愉快痛快、おバカな企画を連発しては、ベストカーガイドのテスターであった黒澤元治から呆れられていたと言う大井。ベストモータリングに転出後の大活躍は語るまでもない。

 まずは中古のフィアットX1/9を調達し、さらに「FRPの魔術師」と呼ばれたスタッフを召喚。なんとたった三日間でフィアットX1/9をベースにしたMR2のレプリカを作り上げてしまった。


 ※ベストカーガイド編集部が製作したMR2のレプリカモデル

 題して「TOYOTTA 879C」。これを見開きカラーページに掲載するという暴挙(笑)に訴える。さらにそれには飽きたらず、勝股編集長は次のような命令を大井に下す。

「これでトヨタの前へ行って、広報と一緒に写真を撮って貰って来い」

 ……そしてランクルで879Cを牽引し、本当に東京のトヨタ本社へ向かう大井。トヨタへ着いて広報担当者を呼び出すと、今までに見たことがないほどの険しい表情で「本当に迷惑なのですぐにお引取りください!」と怒られたという。それを聞いた大井は「随分と堅いこと言うなぁ」とのん気に思ったとかなんとか。


 ※昭和58年10月号のベストカーガイドより。ベストカークロニクルに再掲載されている。

 その後も「CARトップ」誌が昭和59年1月号において、トヨタ・ミッドシップ特集の中で4WD仕様のミッドシップの存在を報じるなど(これは当たっていた)、各社が日本初となるミッドシップを大々的に取り上げることになる。

 そして迎えた昭和58年の秋。10月28日より開催された第25回東京モーターショーにおいて、MR2は公衆の面前へと正式に姿を現したのだった。


 ※市販直前、北海道の士別でテストを行う「SV-3」。スクープはベストカーガイド。

(第6回へ)

参考文献:
 省略します。第一回を参照のこと。

関連項目:
「MR2の系譜」 AW編 第01回 ~主査・吉田明夫~
「MR2の系譜」 AW編 第02回 ~プロトタイプMR2 “730B”~
「MR2の系譜」 AW編 第03回 ~MR2のシャシー・駆動系~
「MR2の系譜」 AW編 第04回 ~MR2のボディ・エクステリア・インテリア~

スペシャルサンクス:
・アルティマ♪ 様(資料提供)
・正岡貞雄 様

※注:

 本稿は、下記の雑誌の内容を中心としてまとめたものです。さらに詳しいMR2のスクープ合戦を知りたい方は、どうぞヤフオクでゲットして下さいな。大井貴之さんを鍛える為に、正岡貞夫局長が大井さんに作らせた雑誌だったって局長が仰ってた。目玉は、なんと正岡局長自らが綴ったポエム入りセンターグラビアだッ!



Posted at 2013/02/25 20:47:05 | コメント(2) | トラックバック(0) | MR2の系譜 AW編 | 日記

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