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2013年02月20日 イイね!

「MR2の系譜」 AW編 第04回 ~MR2のボディ・エクステリア・インテリア~

「MR2の系譜」 AW編 第04回 ~MR2のボディ・エクステリア・インテリア~ シャシー駆動系と共に、ボディやエクステリア・インテリア類の開発も進められるMR2。

 だが、量産・市販を前提としたミッドシップのというものは日本に前例がなく、また、ミッドシップそのものが特殊なレイアウトであることから、サスペンション開発がそうであったように、ボディやデザイン等においても、その方向性や味付けなど、多くの問題や課題が、開発陣を悩ませることとなる。

~MR2のボディ~

 ミッドシップのボディは、実は本質的に数多くの弱点と欠点を抱えている。その主たるものの一つはボディ剛性の問題であり、もう一つは重量の増加である。

 2シーターであるミッドシップはキャビンを狭く小さく作ることが可能であり、また、フロントノーズも短く設計することができるため、ボディ剛性の面では一見して有利なようにも思える。だが、エンジンを前後タイヤの中間に配置するということは、同時にメンテナンスの為の巨大な大穴をホイールベース内に設けなければならないということでもある。従って、ミッドシップはどうしてもボディ剛性の面で不利な造りとなってしまうのである。

 加えて、ドライバーとエンジンが、通常のフロントエンジン車と比較して、かなりの至近距離に配置されてしまうこととなるため、自然、エンジンからの振動や騒音、熱などのストレスにドライバーは晒されることになる。

 ダイレクトに背中から聞こえるエンジンサウンドこそがミッドシップの醍醐味であるという者もいるが、MR2はあくまでも日常での使用も加味した万人向けのパーソナルスポーティカーがコンセプトであり、しかも女性をも購買層の視野にいれたクルマである。ならば、それらの振動・騒音等は可能な限り抑えなければならない。すると、どうしても防振・防音・遮熱の為に、余計な素材をボディ各部に挟み込まねばならなくなる。

 もちろん、ボディ剛性を向上させる為に、各部に通常なら不要なはずの隔壁や補強の鉄板も挟み込まねばならず、結果としてミッドシップカーの車重は同クラスのフロントエンジン車と比較して重いものになってしまうのだ。(たとえば、2輪駆動のSW20型MR2と、4WDターボのGC8型インプレッサが同じ重量になってしまう)


 ※セントラル自動車のラインで製造中の、MR2のボディ。

 これらの問題に対して、MR2は高張力鋼板や樹脂部品を多用してボディ剛性の向上を図ると共に、コンピュータを用いた解析を行うことによって、剛性の確保・防音・防振はもちろん、開発期間の短縮にも成功する。鋼板も、防錆性の高いものを採用し、耐腐食性が図られる(※それから10~20年後、AW型はラジエーター周りの腐食が泣き所の一つとなるが、後継のSW20では完全に改善されている)

 シート後方のパーティショントリムは、フェルト・ポリカーボネート・ポリエステル製不織布の三重構造となっており、防振・防音が図られる。それらも功を奏したのか、北米ではMR2ユーザーの50%が、英国では60%ものユーザーが女性となった。

 ホイールベースは2320mmと、直接のヒントとなったフィアットX1/9の2202mmに対して長いものとなっているが、ホイールベースの長大化は右ハンドルを採用したが為にタイヤハウスとアクセルペダルの干渉を避けねばならない日本車の宿命でもある(ホンダ・NSXにおいても、同様の理由からホイールベースが試作段階で伸びたという)が、室内の居住性においてはX1/9に対して格段に快適なものとなっている。

 車両重量は940kgと、そのショートホイールベースに比べて決して軽量とは言えないものとなってしまったが、トータルでの防振・防音・剛性・居住性等では世界の他のミッドシップを大きくしのぐものとなり、前後重量バランスも44.2:55.8と、リアヘビーになりがちなMRの中では、世界でもかなり前後均等に近い部類のミッドシップとなっている。

~MR2のエクステリア~

 特殊なレイアウトを持つミッドシップカーのデザインには、多くの制約があるとされる。加えて、70年代や80年代においてはボディ造形の技術も、まだまだ未発達であり、例えそれがデザイナーにとって不本意なことではあってもランボルギーニやフェラーリのデッドコピーのような形状のミッドシップになってしまうようなことも多かった。加工技術が追いつかなかった日産・MID-4などは、その典型であり、MR2や、同時期に発売されたGM・ポンティアックフィエロもまた、フィアットX1/9とよく似たデザインになってしまっている。

 日本初にして日本発のミッドシップとなるMR2。そのデザインコンセプトとされたのは、能面や日本刀など、日本の伝統的な美術・芸術であった。

 初期の企画段階で、日本の伝統美を再調査・再検討をすることとなり、デザインテーマは「日本刀の反り」、すなわち日本刀の刀身における、鍛えられた鋼に蓄えられたエネルギーによって現出される、ごく自然に出来上がる曲線に決定される。実際、完成系のAW型において、サイドのウィンドウ下からフロントフェンダー、そしてノーズにかけて、日本刀の刀身、そして切っ先がイメージして形作られているのが確認できる。

 単に美術的な要素だけでなく、機能的な要素からもエクステリアのデザインは煮詰められていった。例えば右リアの、エンジンルームへのエアインテーク。これは、ボディサイドを流れる風の流速が最も速くなる位置に設置されることとなる。70年代から80年代前半にかけて流行したNASAダクト(空気を効率よく取り入れられる形状とされる)も検討されるが、最終的には落ち着いたデザインのものとなる(注:トイレの換気扇とか言ったやつ、表出ろwww)。

 リア周りのデザインも、730Bではハッチバックスタイルが採用されていたが、熱の篭りや騒音がトヨタの基準をクリアできず、バットレスタイプのものとなる。主査の吉田は「最後までハッチバックにしたかった」と後に語ってはいるが、最後にバットレスタイプを推挙したのもまた、吉田であったと言う。

 だが、このバットレスタイプとすることによって欠点も生まれる。それは空力の問題である。バットレスタイプは、ルーフより後部へと空気がうまく流れず、空力において不利となってしまう。これを改善するために、ルーフ後部に樹脂製のスポイラーを装着することによって少しでもCd値の低下が図られる。

 また、当初はリアスポイラーのないデザインとなっていたが、高速走行実験において、横風安定性が良くなかったことから、新規に予算を申請してリアスポイラーの開発も行われる。このリアスポイラーの形状も試行錯誤がなされ、開発テスト中に自動車雑誌にスクープされた際のものや、後にモーターショーに発表されたもの、そして実際の市販車では各々の形状が異なっている。それが災いしてか、FRPの成型が追いつかず、初期の市販車両においてリアスポイラーは木製のものが装着されることとなった。

 これらリア周りの空力処理に、デザイン担当者たちはかなりの苦心を強いられたという。


 ※昭和59年7月登録(※MR2の発売開始は6月)のMR2の木製リアスポイラー。車輌協力:しょっぺた様

 ヘッドライトには、スーパーカーの代名詞でもあったリトラクタブル式を採用。トヨタとしては、トヨタ2000GTからA60型セリカXX、A60型セリカ、AE85/86型スプリンタートレノに続く採用であった。

 ギミックや構造、空力など、デザイン担当者は色々と試してみたいこともあったと語るが、予算の問題より、機構はセリカと共通のものが採用される。また、格納時に手を挟まぬよう、ライト前部に樹脂製のカバーが装着されることとなった。


 ※ライトとボディの隙間に黒いカバーが装着されている

 ボンネットには、シンボルマークとして七宝焼の専用エンブレムが取り付けられる。


 ※AW型MR2の七宝焼のエンブレム。現在のアフターパーツでは樹脂製のものに置き換えられている。

 鷲鷹類を象ったこのエンブレムは、鷲鷹類の「進化による空力的美しさ」「敏捷さ」「力強さ」をイメージしたものである。


~MR2のインテリア~

 インテリアのデザインにおいては、二つのコンセプト案が検討される。一つはミッドシップという「まぎれもないスポーツカー」ならではの、本格的な走りに充分対応できるインテリア。そしてもう一つは、トヨタが古くから現代に至るまで貫いてきた、誰が乗っても違和感なく、すぐなじめるようなデザイン。「イメージ的には、さあいくぞっといったような、元気のよさ」を狙ったと言う。


 ※AW型MR2のインストゥルメンタルパネル

 メーターをセンターに配置し、その左右にスイッチ類を配したクラスター。他に類を見ない個性的なスタイルでありながらも、できるだけ低く配置することによって前方の視認性を確保するのみならず、運転席側と助手席側において、ダッシュボードの蓋とステアリング周りをそっくり入れ替えるだけで輸出用に対応できるという量産性も確立させることに成功した。なお、ステアリングホイールは、レビン/トレノ用と同じものである。

 また、インテリアの設計において大きな議題となったのはヒップポイント……つまりシートの着座位置であった。

 ミッドシップと言えば、スーパーカーにのみ許されてきたレイアウト。ならばMR2もまた、スーパーカーを喚起させるような、低い低いシートとするべきではないのか。だが、シート位置を低くすれば、当然のことながら、ユーティリティにおいて不便が生じることになる。

 トヨタの東富士研究所内の、人間工学を専門とする実験部においても基礎実験が行われた。また、メインマーケットとなる北米市場において、大柄な人間が乗ることもまた前提として検証される。設計人は大いに悩んだというが、MR2は、幅広い層をターゲットとしたクルマであるということから、シート位置は高めに作られることとなる。

 その結果、乗降性はもちろん、前方の視界等は非常に良好なものとなり、特筆すべきは室内の居住性においても白人男性もが驚くほどの、フィアットX1/9などと比べて大変ゆったりとしたスペースを実現するに至った。

~MR2の開発テスト~

 日本で初めてとなるミッドシップ開発。その為には、実験部のテスト要員だけではなく、設計担当やデザイン担当の人間もが、ミッドシップというものを身体で感じていなければ、本当のミッドシップの性能を引き出すことはできない、吉田はそう考えたという。吉田は元々、実験畑の出身である。そこで、MR2の開発においては、それまでのトヨタでは考えられたなかったような開発テストが数多く行われた。

 開発が、かなり進んだ真夏。開発スタッフが全員、東富士のテストコースに集められる。その目的は、ミッドシップの限界時の走行特性を皆が実際に体験するということであった。その中には、主査の吉田自身もが含まれていた。

 教官を務めるのは、レーサー出身の実験部員である細谷四方洋(ほそやしほみ)。古くは1963年の第一回日本グランプリにプライベーターとしてフルノーマルのパブリカで出場し、第三位。第二回ではトヨタと契約し、ワークスのパブリカで第二位。1967年には富士24時間にて、トヨタ2000GTをドライブし優勝。1968年の鈴鹿12時間では、トヨタ初のプロトタイプレーシング・トヨタ7で優勝……などと、多くの輝かしい戦歴を持つ大ベテランであった。

 日本車揺籃の頃より、常にトヨタのレースとスポーツカーの中核にあった細谷の指導の元、MR2のテスト車両を用いて、パイロンスラロームや、ダートコースのフルパワー走行。片輪だけを低ミュー路に乗せてのスピン、水の撒かれた旋回パッドでの定常円旋回、横風ダクトを使って外乱を与えるなどの、多くの激しい実体験テストが、夏休みを返上して延べ50時間以上にも渡って行われたという。

 単に設計や、走行性能のブラッシュアップの為だけではない。訓練されていない一般のドライバーならば、クルマが限界を超えた際にどのような操作で対応してしまうのか、果たして対応できるのか。それもまた、実験によって考察されたのである。

 また、この中でMR2の設計に影響を及ぼしたポイントも少なくない。例えばペダルの配置とドライビングのポジション。コンパクトなデザインと、回頭性を重視したタイヤハウスの設計のために、開発なかばまでペダルは現在よりももっとセンターよりに配置され、ドライバーもまた、若干内側に身体を傾けるような形で着座姿勢を取ることを強いられていた。

 これについて、実験部はどうしてもそれを良しとせず、実験部自ら溶接位置やペダル位置を工夫してペダル周りを試作。ステアリングとドライバーが正対できるコックピットを作り上げる。

 メーターパネル周辺のスイッチ類などの細かな形状もそうである。ウィンカーやワイパー、ヘッドライトのスイッチはウィング状のものが設置されていたが、実際に乗ってみるとエアコンの風がウィングで遮られてドライバーに上手く当たらないことが分かった。

 デザイナーは自身のデザイン案をなかなか譲らなかったが、実際に自身がMR2のコックピットに乗ってみて、エアコンへの悪影響を実感。ウィングを削るのではなく、形状に膨らみをつける他、エアコン吹き出し口を少しせり出させるなどとして、解決することにいたった。

 MR2における乗り味の最終決定権を一任されたテストドライバーの成瀬弘も、ミッドシップに少しでも習熟するため、日曜を返上して三河の山々を走り込んだ。

 開発テストは日本国内に留まらず、世界各国で行われる。耐熱テストでは、北米のカリフォルニア。当時はまだほとんどなかった欧州へ渡ってのテストも行われ、トヨタの開発拠点があったベルギーはもちろん、自動車の本場であるドイツのアウトバーンでの超高速テスト。その険しさを響かせるラインバッハの峠での限界走行。そして、「緑の地獄」と呼ばれたニュルブルクリンクサーキット・ノルドシュトライフェ……

 ニュルブルクリンク。そのオールドコースとも呼ばれる北コース=「ノルドシュトライフェ」。全長20km以上。170にも及ぶコーナー、そのほとんどがブラインド。高低差は300メートル、路面のアップダウン、荒れとうねりは世界最高。

 ジャンピングスポットを飛んでからのコーナー進入。石畳が敷かれた強バンクコーナー・“カルッセル(大逆転の意)”、非常に狭いエスケープゾーンなど世界に例を見ないコースレイアウトを有している。

 コースの中に3つの街があると言う、巨大なサーキット。その発祥は1927年(日本歴では昭和2年)。世界恐慌直前の時代、村興しや雇用対策の一環として建設が開始され、作業員も失業者を集めて行われたと言う。

 当時は現代のような重機もなく、全て手作業で建設が行われた。舗装の下には1m四方の天然石が基盤として埋め込まれており、その不揃いの基盤は凄まじいまでに路面の凹凸=アンジュレーションを引き起こし、そこを走るマシンには始終異なる「入力」がもたらされる。

 「1m走ると路面が違う」「右と左のタイヤで路面が違う」。ニュルを走ることでマシンの受ける負荷は想像を絶するものであり、その一周は通常走行の2000kmにも相当すると言う。完走するには非常に強い剛性と耐久性が要求され、並のクルマならば一周する間もなくバラバラに分解してしまうとまで言われている。実際、80年代末、ホンダがレジェンドでテスト走行を行った際には、ボディの剛性が足りず、走行中にウィンドウが大きな音を立てて枠から外れてしまったと言う。

 今でこそ新車の開発テストの聖地とされるニュル・オールドコースであったが、当時はまだ知る者もほとんどおらず、自動車の開発テストも、ドイツのメーカーが行っている程度だった。

 ニュルブルクリンクにおけるMR2の開発テスト。これがトヨタ初のニュルテストであり、そして同時に日本車としても初めての新車開発テストでもあった。(なお、これよりも早くにホンダが第一期のF1で走ってはいるが、NSXの開発において黒澤元治が提言するまで、長らくホンダが再びニュルを走ることはなかった)


 ※ニュルブルクリンクを走るMR2。日本の量産車として初めてニュルの地を踏んだ。

 一日貸切で行われたニュルのテスト結果は――「全く歯が立たなかった」と成瀬は語る。その洗礼の跡は、MR2のストラット周りの異様なまでの生々しいスポット溶接の点数の多さとして確認できる。それから20年の後、成瀬は世界で最もニュルブルクリンクを走り込んだ男=「マイスター・オブ・ニュルブルクリンク」として世界中から尊敬の念を持って呼ばれることとなる。

 これらのテストの中では、トヨタ以外からも顧問を招聘されることとなる。その中に、ミッドシップの大家であるロータスの存在があったという。ロータスから実験部長とテストドライバーが派遣され、MR2への意見を出して貰うこととなった。

 ロータスのテストドライバーは、元F1レーサーでもあったダン=ガーニー。ガーニーは「4A-Gが泣く、もっとやろう」と、MR2の限界をさらに追求するよう述べたが、最終的にはロータス側から「トヨタの看板の元で、従来のトヨタの顧客を相手に売るのなら、機動性はそこそこに留めた方がよい」との意見があり、MR2の味付けは比較的マイルドなものに最終決定がなされる。

 走行テストの中で、リアタイヤをもっと太くして前後で異なるサイズを履かせれば、もっと操縦安定性が向上することも分かり、吉田はオプション扱いであってもそれを実現しようとしたが、「リプレイスタイヤの面で販売に響くから困る」との販売側の意見もあり、前後異サイズのタイヤは廃案となる。MR2が前後で異なるサイズを実現するのはフルモデルチェンジを遂げる1989年のSW20型を待つこととなる。

 豊田英二に代わり、トヨタ社長となったばかりの豊田章一郎も自らステアリングを握ったという。豊田章一郎は副社長時代、まだトヨタ社内にFRでなければならないという風潮の強かった頃、カローラ主査の揚妻文夫の熱心な説得を聞き入れ、カローラのFF化を後押ししたことがあり、それが4A-GユニットとMR2の開発へと繋がったのである。

 
「なかなか走るじゃないか。これは思ったより全然いいぞ」

 第一声、章一郎はそう述べたという。「すごくうれしかった」、吉田は後年、そう述懐する。


 ……多くの苦悩と葛藤。意見の衝突と試行錯誤……かくして、MR2は遂に完成する。

(第5回へ)

参考文献:
 省略します。第一回を参照のこと。

関連項目:
「MR2の系譜」 AW編 第01回 ~主査・吉田明夫~
「MR2の系譜」 AW編 第02回 ~プロトタイプMR2 “730B”~
「MR2の系譜」 AW編 第03回 ~MR2のシャシー・駆動系~

Posted at 2013/02/20 09:00:04 | コメント(3) | トラックバック(0) | MR2の系譜 AW編 | 日記
2013年01月19日 イイね!

「MR2の系譜」 AW編 第03回 ~MR2のシャシー・駆動系~

「MR2の系譜」 AW編 第03回 ~MR2のシャシー・駆動系~  1981年、先行試作車・730Bの完成。同8月、量産試作車両879Bが開発開始。生産はセントラル自動車で行われることも、この時に決定された。

 あくまでもプロトタイプ、あくまでもコンセプトカーとして製作された730Bと違い、量産と販売を前提とした879B。個々の点において、吉田が理想とした形からは変更を余儀なくされたものの、4A-Gという新たな動力ユニットを得て、日本初となるミッドシップ車・初代MR2・AW10/11型の設計・開発がスタートしたのである。

 ※トップ画像、左から4番目が初代MR2開発主査の故・吉田明夫技師。その右隣りが吉田主査の後任としてAW型を担当し、SW20型MR2の開発主査ともなった有馬和俊技師。

~俺を殺す気かッ!~

 通常、新型車両の開発において、駆動系の初期のテストベッドとしては新規にボディを製作して実験・開発が行われるのではなく、現行または過去に生産された車種のボディを切断ないし溶接し、時にはボディを切り詰め、時には鉄板を継ぎ足しボディを拡幅して、テストカーが製作されることになる。

 730Bは熟練職人のハンドメイドによって特別に製作されたボディを所持していたが、量産車のテストカーにおいては、通例通りに既存の車種のボディが流用されることになった。そして、MR2のテストカーとして用いられたのは、セリカであった。


 ※セリカのボディを改造して製作されたMR2のテストカー。スクープはベストカーガイド。

 セリカのボディを切断、ホイールベースを切り詰めて再び溶接して作られた実験車両。これを用いて、MR2の開発テストが始まった。

 これのテストドライバーを務めたのは成瀬弘。1963年、二十歳の年にトヨタ自動車工業に臨時工として入社した成瀬はメカニックとしてモータースポーツの現場においてトヨタ7やトヨタ2000GTといった名車に携わった叩き上げの技術者であった。1970年代には富士グランチャンにおいて、黒沢元治のチームにおいても経験を積み、黒沢の薫陶も受けた人物であった。そして、成瀬のドライビングテクニックは、数百人に及ぶトヨタのテストドライバーの中でも頂点に位置するものであった。


 ※生前、レクサスLFAのステアリングを握る成瀬弘。2010年6月23日、死去。

 だが、そんな成瀬のテクニックを以ってしても、テストカーはまっすぐ走ることすらままならなかった。初テストの際、テストカーから降りるなり成瀬はこう叫んだという。

「俺を殺す気かッ!」

 以降、MR2の開発テストにおける、MR2の味付けの最終的な決定は成瀬に一任されることとなる。これが、後々にまで続くトヨタのマスタードライバー制度の始まりであった。

~MR2の駆動系~

 MR2のエンジンとして選定されたのは、言うまでもなく4A-Gである。4A-Gは元々、トヨタのSOHC8バルブエンジンである3A-Uをベースとして、ヤマハからの供与されたテクノロジーを投入して製作されたものである。


 ※非常に珍しいAW10型MR2に搭載される3A-Uエンジン。車両協力:Jin_Regal様

 また、世界的に駆動方式がFF化してゆく中において、エンジン横置き型FF車に搭載されることを前提として作られたエンジンでもあった。

 4Aエンジンはカローラ/スプリンター初のFFとなったAE80系において初搭載されることとなったが、量産の為の設備投資のコスト削減の一環として、AE80系カローラはFRとFFが混在するラインナップとなっており、4A-Gにも縦置き用の4A-GEUと横置き用の4A-GELUの二種類が存在する(後に横置きを表すLの記号は廃止される)。

 1983年5月にカローラ/スプリンターのスポーティクーペモデルであるAE86型レビン/トレノに搭載されてデビューを果たした4A-Gであるが、これはもちろんFRレイアウトであり、FFのコンポーネンツを流用して製作されるMR2のベースとなったのはAE82型のカローラであった。

 横置き型の4A-Gに、ケースに小変更を加えたAE82型カローラのトランスアクスルを組み合わせる。これがMR2の基本的な駆動系の構成である。ただ、同じ4A-Gとは言っても、AE86型のものとは制御に若干の変更が加えられており、シャッター式吸気制御バルブの開閉装置であるT-VIS(Toyota Variable Induction System)において、シャッターを開いてフルに吸気を行うタイミングが、AE86では4650rpmだったのが、AW11では4350rpmとなっている。

 また、ミッドシップは熱に弱いとされる為、オーバーヒートへの対策が何重にも講じられており、フロントに設置されたラジエーターは水温によって三段階に電動ファンを稼動させると共に、リアのエンジンルームとフロントのラジエーターをつなぐ長大なパイプを満たす大量のクーラントもまた、熱対策に大きく貢献している。

 さらに、オートマチック車においては水冷式のエンジンオイルクーラーと、オートマチックフルードのオイルクーラーも備えられている。

 エンジンルーム内の冷却においても、ボディサイドの最も空気の流速が速くなる場所にエアインテークを設置。エンジンルームの温度が75℃を超えると電動クーリングファンを稼動させて補器類を冷却、71℃以下になるとファンが停止するように作られた。なお、この電動ファンは1500ccの3A-Uを搭載するグレードSには装着されていない。耐熱テストは、世界最高の灼熱舗装路とされるアメリカはカリフォルニア・デスバレーでも行われた。

 エンジンのスペックとしては、電子制御燃料噴射装置を採用した4A-Gが最高出力130ps/6600rpm、最大軸トルクが15.2kg/5200rpm。キャブレターを採用する3A-Uが、83ps/5600rpm、12.0kg/3600rpmとなっている。

 トランスミッションは、2本のワイヤーによって制御するプッシュ・プルケーブル機構。ギア比は3A-U仕様の1速が若干のローギアードとなっている他は、2速~5速・リバースが共通となっている。なお、クラッチの取付荷重は3A-U仕様で350kg、4A-G仕様が450kg。ターンオーバー機構を採用し、クラッチ踏力を低減させている。このターンオーバー機構は、後継のSW20型においてはターボ仕様には一貫して採用されていたものの、自然吸気仕様においては割愛され、NAにおけるターンオーバー機構の復活は、通称Ⅴ型NAの登場を待つことになる。

 これらの駆動系によって、AW11型MR2は非常に軽快で俊敏なエンジンフィールを獲得し、谷田部高速テストコースにおけるテストでは、夜間ウェットコンディションながらも、黒澤元治のドライブによって時速187.98kmと、AE86型を上回る最高速度をマークすることとなる。

~MR2のサスペンション~

 MR2というクルマの特性を決定する上で、世界中から多種多様なスポーツカーが集められ、比較テストや研究が行われた。MR2というクルマの直接のヒントとなったとされるフィアットX1/9はもちろんのこと、X1/9の上級モデルとなるはずだったランチア初のMR、ランチア・ベータ・モンテカルロ。

 同じく1600ccのエンジンを搭載するミッドシップ、フランスのタルボ・マトラ・ムレーナ。イギリスの老舗であり、トヨタと提携関係にあったロータスからはエスプリ。そして高性能リアエンジン車の代表格であるポルシェ911、そして世界最高のFRハンドリングマシンとされるポルシェ944や924。FF車のコンポーネンツを流用して安価に製作されたミッドシップの原典とも言える914……

 中でも、MR2が超えるべき存在として注目されたのはタルボ・マトラ・ムレーナであった。


 ※仏マトラ社が1980年から1983年にかけて製作したMR車、ムレーナ。非常に希少なクルマである。

 まだ日本にはミッドシップ車を市販した例がなく、MR2をどのような味付けのクルマにするかについては様々な意見があった。だが、MR2はあくまでもスポーティなパーソナルクーペであるべきであり、乗り手を選ぶようなハードなスポーツカーであってはならないとの結論により、マイルドな操縦特性が与えられることとなる。

 とは言えど、ミッドシップならではの敏捷性を失わせてしまうわけにはいかず、また、欧州では200km/hでの領域での直進安定性の確保が絶対条件でもあった。コーナリング性能と高速直進安定性の両立。どんなスポーツカーにおいてもそうであるが、特にMR2のようなフロントライト・リアヘビーのミッドシップにおいては、それが最も難しいテーマであった。

 さらに、リアにエンジンという重量物を積むミッドシップは、リアタイヤへの接地荷重が大きくなって限界が高くなる代わりに、どうしても限界を超えた際のリア挙動が唐突に激しいものとなってしまう。これもまた、MR2のサスペンション開発における大きな問題点でもあった。そして、これらにおいて、タルボ・マトラ・ムレーナの持つ操縦安定性を超えることが絶対条件となったのである。

 ムレーナはフロントにダブルウィッシュボーン、リアにセミトレーリングアーム式サスペンションを採用していたが、MR2においては4輪ともマクファーソン・ストラットが採用されることとなる。

 スタビライザーはフロントのみに装着される(後にADパッケージでリアスタビライザーが装着)。また、サスが上下にストロークしてもアーム類の働きが、トーの変化がほとんど発生せず、挙動を安定させる設計が施される。

 キャスターは5度20分、トレールは18mmのハイキャスター・ショートトレール。キャスター角を大きく取ることによって高速での直進安定性を確保を図る。リアサスペンションにおいては、発進時にリアの沈み込みを抑えるようなジオメトリーが取られ、トーインは強めの-4mm、キャンバーも-50分のネガティブとされる。完成後も、AW型はアライメントにおいて非常に柔軟な調整を行える余地が残されている(逆に後継のSW20型では基本的にトーのみしか調整できない)。

 高速安定性とコーナリングの俊敏さ、快適性と限界時のドライバビリティ……これらの相反する要素を高い次元で同時に実現するにはリアサスペンションのセッティングが非常に重要であったと言う。ブレーキにおいても、フロントブレーキはコストカットの意味もあってカムリ/ビスタからの流用となっているが、リアブレーキはMR2用に新設計のものが奢られた。

 ……はじめは真っ直ぐ走ることすら不可能だったMR2。そんなじゃじゃ馬を、「一般公道で普通に走れるように仕上げるのは本当に大変だった。自分が今まで関わって来た車両で、一番苦労したのはMR2」と晩年の成瀬は語る。

 そして遂には「楽しく安全なクルマに仕上がった」と開発スタッフが自信を持って答えられるまでにMR2は煮詰められていった……

(第4回へ)

参考文献:
 省略します。第一回を参照のこと。

Special Thanks:
・Jin_Regal様
・正岡 貞雄様
・黒澤 元治様

関連項目:
「MR2の系譜」 AW編 第01回 ~主査・吉田明夫~
「MR2の系譜」 AW編 第02回 ~プロトタイプMR2 “730B”~
Posted at 2013/01/19 20:25:16 | コメント(2) | トラックバック(0) | MR2の系譜 AW編 | 日記
2012年12月14日 イイね!

「MR2の系譜」 AW編 第02回 ~プロトタイプMR2 “730B”~

「MR2の系譜」 AW編 第02回 ~プロトタイプMR2 “730B”~ 「常識では考えられないようなクルマが、トヨタにはあってもよいのではないか」

 1979年、トヨタ自動車五代目社長である豊田英二は、製品企画室の主査たちを集めて、そう語った。

 
 カリフォルニア・ロサンゼルスより帰国し、実験部出身でありながらも主査となっていた吉田明夫。吉田は、米国滞在の中で得たヒントを元に、ある一台のクルマを考案していた。

 この時、吉田が企画した車のコンセプトは、成熟した自動車社会と、複数台保有時代ににおいて求められるセカンドカー。「ミッドシップが大前提」「複数台保有時代の自分専用車」「個性的で斬新なスタイル」「高性能志向で高い操縦安定性」、そして「乗る楽しみを与える車」であったという。

 このような本格スポーツとはまた違う、こういった概念のクルマならば、米国で地場を固めたばかりのトヨタブランドでも、それなりに市場を得ることが可能である。一方で、日本ではまだセカンドカーの概念が浸透してないものの、沈滞気味の国内市場における刺激剤として最適であり、また、そのようなクルマとクルマ社会の“芽”を育ててゆく必要がある。そう吉田は考えたという。

 既に開発コンセプトはもちろん、マーケティング面でのデータもまとめてあった。それらに加えて、スケッチや使用するコンポーネントを指定した仕様書を作成し、提出する。他の主査たちからも、各種の提案書が出されたが、それらはあくまで既存の車種のマイナーチェンジにおけるインパネやデザインの変更と言った程度のもので、全くの新車種の開発という形を提案したのは吉田の企画書のみだった。

 「製品にならなくてもいいから、先行試作車を一台作らせて欲しい」。吉田の嘆願もあり、この企画は1980年1月25日、豊田章一郎副社長も同席した技術企画会議において承認され、開発コード730Bの名で、開発・製作が始まった。

 だが、トヨタにおいて、ミッドシップカーを作る上で一つの問題が存在した。ポルシェ914やフィアットX1/9などは、エンジン横置タイプのFF車のコンポーネンツを流用することによって、比較的容易に、かつ安価にMR車を開発することを可能としたものであった。しかし、当時の国産車の主流はFRであり、そもそもFF車というものがほとんど存在せず、ミッドシップ車に流用できるエンジン・パワートレーンが存在しなかったのである。

 ……そんな中、この問題を解決する一つの事件が、トヨタ内部で起きていたのである。

~FF化の波と、4A-Gユニットの開発~

 ……西暦が1980年代に移る頃。日本車とトヨタは大きな転機を迎えようとしていた。

 1970年代より、乗用車は駆動方式を従来のFRからFFへと移し、世界的にFF化の波が押し寄せていたのである。そんな時代、トヨタ自動車に揚妻文夫という人物がいた。5代目カローラ開発主査となった揚妻文夫技師。揚妻は、乗用車がFFとなることの必然性と必要性を痛いまでに感じていたのである。

 しかしながら、当時の4代目のカローラはいまだにFR。そもそもトヨタにはエンジン横置き型のFF車という技術自体が存在せず、FRの機構を流用したエンジン縦置きのFF機構を持つ「ターセル/コルサ」しかFF車が存在しなかったのである。

 「このままでは、いずれ世界に太刀打ち出来なくなる」

 そう確信した揚妻は、5代目カローラのFF化をトヨタ上層部に提言する。しかし、トヨタ上層部は揚妻の提言を頑として撥ね退けたのである。反対した役員の中には、パブリカ・カローラ・セリカの生みの親であり、トヨタ自動車伝説の人物である長谷川龍雄専務の姿もあった。


 ※カローラ初のFFとなった5代目カローラ。それの1500ccモデル。

 カローラFF化の為には、新規の技術開発はもちろんのことであるが、多くの生産設備の新設を行わなければならなかったのである。その額は、実に1200億円に上った。

 揚妻が何度説得を試みても、上層部は首を縦に振らなかった。だが揚妻も自らの信念を譲らず、自らの独断でFFカローラの設計図を引くように指示を下した。

 こうした揚妻の姿勢が上層部の反感を買い、揚妻をカローラ開発主査から降板させるという声まで降りて来た。思い余った揚妻は、副社長・豊田章一郎に直談判。FF化の必要性を訴える。その説明は実に3時間以上に渡ったと言うが、技術部門のトップであった豊田章一郎は揚妻の意見を熱心に聞き、揚妻への支援と協力を約束した。

 揚妻の再度の説得もあり。やがてはトヨタ上層部も世界的なFF化の流れとFF車の重要性を把握・理解し。FFに反対するどころか、むしろFF化を推進するようにまでなっていったのである。

 
 揚妻も、単にFF化を推進するだけでなく。5代目カローラにおいて、主力となるセダンとリフトバックタイプのみをFFとし、それ以外のクーペやワゴン・バンタイプは従来のFRとして残すことを提言。これによって従来の設備を流用することが可能となり、生産コストは700億円にまで削減することに成功したのである。

 そして、トヨタ内部では新たなトヨタの主力となるFFの為のパワートレーンの研究と開発が進められることとなった。その過程で生みだされたFF向け直列4気筒エンジンの2リッターモデルは「3S」。1.6リッターモデルは「4A」と名付けられた。


 ※トヨタ・4A-GEUエンジン。横置きを前提に開発されたユニット。整備重量123kg。

 ……来たる1983年5月。かくして5代目カローラはトヨタ初の本格的FF乗用車として華々しくデビューする。その中でも、FR方式を残したカローラのスポーティモデルには、スポーツユニットである「4A-G」エンジンが搭載され、AE86の型式名が与えられることになる。

 最大出力130ps/最大トルク15.2kg。当時の最新技術であるDOHC16バルブツインカムを採用し、軽量、コンパクトな設計ながらも、非常に俊敏な吹け上がりと厚いトルク、省燃費性をも併せ持つ4A-Gエンジン。かくして、730Bに使用されるエンジン・トランスミッションは、4A-Gユニットに決定したのである。

~先行試作車 730B~

 730Bのエンジンは、まさに開発途中であった4A-Gの使用が大前提となった。後にAE82型と呼ばれることになる5代目カローラのエンジン・トランスミッションを流用すれば、MR車のパワートレーンが出来上がる。そして、続く課題はボディであった。

 試作車のボディ製作は、まず実寸大のクレイモデルを製作し、それを100mm間隔で輪切り状にする形で採寸し、図面化する。それを元に、車体設計の技術者が部分ごとに製作していくというのが常であった。だが、これは非常に手間と時間がかかる方式であった為、吉田は設計部は一切介さず、製品企画室と現場の人間だけで、実寸大のクレイモデルから直接、鋼板製の試作車を製作することを思い立つ。

 当時、トヨタの試作部には、技能オリンピックで金メダルを獲得するような鈑金職人が何人もいたと言う。


 ※2010年11月10日の中日新聞より。730Bのボディを手がけた藤川武男氏。(手ブレorz)

 吉田は、現場を離れて班長職や管理職に就いていた彼らを泣き落とし、730Bのボディ試作を嘆願した。彼らは、クレイモデルから必要な寸法だけを測って、型板を製作。これを台にして、鋼板からボディパネルを叩き出してみせたという。


 ※730Bのボディ製作の過程を示した図

 実際の工程は全て手作業。古くからの時代の鈑金作業の通り、ハンマーと当金を用いて、少しずつ冷間圧延鋼板を成型してゆく。当金の位置、ハンマーの角度と、力加減、間隔。そして溶接……あらゆる過程において、ほんのわずかなズレと狂いが、全てを台無しにしてしまう。全ては人間の経験と勘に依存する。そんな非常に高度な職人技によって、製作が進められた。

 彼らは日曜日返上で作業を行い、たった一ヵ月半で試作車のボディが完成してしまったと言う。この時、730Bのボディを手がけた一人であり、国内外から「ゴッドハンド」と呼ばれた藤川武男は、その30年後の2010年11月、厚生労働省より「現代の名工」として表彰されることになる。

 また、吉田には730Bにどうしても採用したいる技術があった。それは、デジタルメーターである。1980年、デジタルメーターは世界各国のコンセプトカーに搭載・発表されていたものの、いまだ市販に至った例はなかった。

 1970年にはフランスのシトロエンが各ステイタスをデジタル風に表示するメーターを既にシトロエンGSに実装・販売を行ってはいたが、これはあくまでもアナログの指針を、数字が記された樹脂製のドラムに置き換えたボビン式と呼ばれるもので、これはデジタルではなく機械式の範疇を出るものではなかった。


 ※シトロエンGSのメーターパネル

 市販車輌として世界初のデジタルメーター。吉田はMR2でこれを実現しようとしたのである。とは言えど、まだトヨタにもデジタルメーターにおける技術も研究も、全く存在していなかった。

 吉田は、補器課へと度々足を運び、デジタルメーターを実現・開発できそうな人物の検索を開始。遂には、そんな人材を発見することに成功する。


 ※1980年8月。トヨタ・東富士テストコースで目撃された730B。ベストカーガイドによってスクープされた。

 730Bの開発は、トヨタにとって数多くの「初」となる技術・開発・方法論となる事項ばかりであった。だが吉田は、社内の隠れた有能な人材を次々に見つけ出し、これらを具現化してみせる。こうして730Bの開発は進められていった。

~730Bの完成、そして879Bへ~

 吉田と、多くの技術者たちの尽力によって730Bは遂に完成する。


 ※トヨタ博物館所蔵の730B。海外ではSA-Xの名で知られている。

 730Bには二つのバージョンが存在し、一台目は1980年に、二台目は1981年に製作されたという。ここでは仮に1980年モデルを730B前期型、1981年モデル730B後期型と呼ぶが、前期型にはキャブレター仕様の4Aエンジン(詳細不明)が、後期型には電子式燃料噴射装置・インジェクター仕様の4A-Gが搭載されていたとされる。なお、初期の4Aエンジン搭載市販車種には、キャブレター仕様は存在せず、キャブ仕様はAE95型の4A-Fを待つことになる。

 もちろん730Bには、吉田がMR2の目玉としたデジタルメーターも実装される。


 ※730Bのメーターパネル類。

 730Bは、あくまで先行試作車輌でありながらも、ラジオやエアコンまでもが装備されていた。また、一説では、リアに設置されたビデオカメラによって、CRTカラーモニターにバックビューを表示させることが出来たともいう。(※写真では確認できないが)

全長:3,835mm
全幅:1,620mm
全高:1,175mm
ホイールベース:2,320mm
フロントタイヤ:165/70R13
リアタイヤ:185/70R13

 ホイールベースこそ市販型のAW型MR2と同じであるものの、全高は75mmも低く、リアもトランク・エンジンフード・ガラスが一体型となったハッチバックスタイル。エンジンも市販型に比べて、さらに前方のミッドシップにレイアウトされており、そして何よりも特筆すべきはその重量で、市販型のMR2に比べて百数十kgも軽量であったと言う(単純計算で820kg程度)。

 その運動性能は非常に軽快で、市販型よりも、もっともっとハードなスポーツカーとして製作されており、そのまま市販化されていれば、素晴らしいスポーツカーになったかもしれないという。

 ……そして1981年8月。730Bを受けて、量産と市販を前提とした試作車の開発が承認されることとなり、生産がセントラル自動車で行われることも、この時点で決定された。る。この頃、「トヨタが日本初のミッドシップスポーツカーを極秘に開発している」というのは公然の秘密となってしまっており、730Bのコードネームは、数多くのメディアによってスクープされてしまっていた。それらの状況を鑑みて、次の試作車のコードは、敢えて覚えにくいような879Bという数字となった。

 ただ、730Bはあくまでも上層部に開発の承認を得るためのプロトタイプ、コンセプトカー的な存在として作られており、実際の量産・市販を前提とした車輌とは、全く別の存在であったと言う。その為、879Bにおいては、数多くの点が変更されることとなった。

 例えばバッテリー。730Bではフロントトランクに設置されていたバッテリーは、市販型では後部エンジンルーム内に設置されることとなった。燃料タンクについても、エンジンコンパートメント内に設置されていたものが、キャビンのセンタートンネル内に設置される。

 また、ハッチバックスタイルのボディも、熱と音の問題のため、バットレスタイプに変更される。これについて吉田は、「最後までハッチバックスタイルで通したかった」と語る。

 さらに、吉田が力を入れたデジタルメーターもコストの問題で879Bでは廃案となってしまった。だが、この時に開発されたデジタルメーターの技術は他車種に受け継がれ、Z20型ソアラにおいて、日本初のデジタルメーターとして市販されることとなり、他にもA60型セリカXXや、AE86型スプリンタートレノ/カローラレビンにおいても実装されることとなった。

(第3回へ)

参考文献:
 省略します。第一回を参照のこと。

参考サイト:
・High-Geared Hobby's Works様

関連項目:
「MR2の系譜」 AW編 第01回 ~主査・吉田明夫~
フォトギャラリー 2011/02/09 トヨタ博物館収蔵 プロトタイプMR2 “SA-X” partⅠ
フォトギャラリー 2011/02/09 トヨタ博物館収蔵 プロトタイプMR2 “SA-X” partⅡ
フォトギャラリー 2011/02/09 トヨタ博物館収蔵 プロトタイプMR2 “SA-X” partⅢ

Posted at 2012/12/14 11:25:37 | コメント(4) | トラックバック(0) | MR2の系譜 AW編 | 日記
2012年12月06日 イイね!

「MR2の系譜」 AW編 第01回 ~主査・吉田明夫~

「MR2の系譜」 AW編 第01回 ~主査・吉田明夫~ 時に1973年。一人の男が、アメリカ合衆国南カリフォルニアに降り立った。

 男の名は吉田明夫、トヨタ自動車の技術者である。これが全ての始まりだった。

 1984年、AW型MR2発売。1989年、SW20型MR2発売。1999年、ZZW30型MR-S発売……30年にも及ぶトヨタ・ミッドシップヒストリー。日本初のミッドシップとして登場したMR2シリーズ、その本質と根源は何であったのか。如何なる歴史と系譜によって綴られて来たのか。そのコンパクトなボディにエンジニアたちが込めた思想は、哲学は、情熱はどのようなものであったのか――

 「背中にはふたりを酔わせるハートがある」

 “MR2の系譜”、本稿を2009年に他界された初代MR2開発主査・吉田明夫技師。そして、2010年に急逝された、歴代MR2シリーズマスターテストドライバー・成瀬弘技師に捧ぐ。

~吉田明夫、アメリカへ~


 ※2008年。トヨタ博物館にて、AW11型MR2のイグニッションを回す生前の吉田明夫主査。現在、故人。

 吉田は1928年(昭和3年)、現在の愛知県豊田市に生を受けた。1958年(昭和33年)にトヨタ自動車に入社した吉田は実験課へと配属され、乗用車における振動や騒音のテストを担当。初代カローラの開発実験にも携わり、初代カローラの開発テストでは、フロント足回りからの騒音はセッティングではなく設計に原因があると主張し、パブリカ・初代カローラ・初代セリカ・トヨタスポーツ800などを手がけたトヨタ自動車稀代の主査・長谷川龍雄と真っ向から渡り合ったという。

 日本と日本車が目覚ましい発展を遂げてゆく中、破竹の勢いであった日本車の前に壁が立ちはだかる。1970年に北米で提唱された大気浄化法改正法、通称「マスキー法」である。環境問題が取り沙汰される中、このマスキー法に定められた自動車の排気ガスの環境基準は世界一厳しく、これをクリアするのは不可能とまで言われるものであり、世界を席巻せんとする日本車にとって大きな障害となるものであった。

 だが、1972年、ホンダがCVCC(Compound Vortex Controlled Combustion)の開発に成功。これを実装したシビックを投入することによって、世界で初めてマスキー法をクリアしてみせた。続いて1973年には、マツダもロータリーエンジンにおいて、この法律をパスしてみせる。

 もちろんトヨタ自動車でも、このマスキー法を突破すべく研究開発が進められていた。そんな中で、トヨタは北米に排気ガスの基準をクリアするためのテスト施設を建設することを決定。北米へと派遣されることになったのは吉田であった。

 1973年、渡米した吉田は南カリフォルニアのロサンゼルス、レドンド・ビーチに部屋を借りる。70年代のアメリカ西海岸は、独特の若者文化が花咲く中心地であったと言う。後に映画「キャノンボールラン」のラストシーンとして登場するのもこの場所である。

 ロサンゼルス・テクニカルセンター所長となった吉田は現地の若者たちを見ながら、「ここの若者たちにトヨタ車を買ってもらうならどんな物が良いか」ということを考えたと言う。

 70年代、南カリフォルニアの若者たちが好んで乗っていたクルマにはイギリス製のスポーツカーが多かった。それらは、決して絶対的な高性能を有してはいないものの、小型で軽量、小回りの利く小粋なスポーツカーであった。例えるならMGミジェット、例えるならロータス・エランがそうであった。


 ※初代ロータス・エラン(1962~1975)

 現代のようなモノコックボディではなく、フレームとボディが別々に構築されるロータス・エラン。かつてのイギリスには、このようなオープンカーが数多く存在し、それらは北米においても数多く輸入されていた。もちろん構造上、ハードユースに耐えられるクルマではなかったにも関わらず、荒く無茶に乗り回したアメリカ人たちによって事故が多発。このようなスポーツカーは衰退の憂き目をみる。それから20年近くを経て、このコンセプトを最新の技術で復刻したのがマツダ・ユーノスロードスターである。

 そして、1970年代と言えば空前のスーパーカーブームが巻き起こった時代であった。1968年にはフェラーリ・ディーノが発売され、1971年にはデ・トマソ・パンテーラが登場。同71年にはランボルギーニ・カウンタックが発表される。

 とは言え、それらは若者たちに手が出せるようなクルマであるはずもなかったのも事実。そんな中で、一台のクルマが登場する。それはフィアットX1/9であった。


 ※フィアットX1/9(エクスワンナイン)の北米モデル

 1972年に発売されたX1/9は、フィアット128の直列4気筒エンジン由来のパワートレーンを、ミッドシップレイアウトに移設。FF車の技術を応用することによって安価に製造することを可能とした小型のMR車であった。このような、FFのパワートレーンを流用すれば、比較的簡単にミッドシップ車を作ることができるというのは、1969年に登場したポルシェ914によって知られていたのである。


 ※ポルシェ914。フォルクスワーゲンの部品を流用することによって作られたMR車である。

 フィアットX1/9は、カウンタックを手がけたマルチェロ=ガンディーニによってデザインされたミッドシップ車ということもあり、その姿はまさに「ミニ・スーパーカー」と呼ぶべきものであった。そのX1/9が、アメリカの若者たちに大きな人気を博したのは言うまでもなかったのである。

 さらに、吉田は若者たちの嗜好を次のように分析した。

「要するに彼らの選択の条件はこうなんです。彼女を乗せる程度だから、座席は2人分で充分。そして車体は小回りが効いて扱いやすい。できればオープンであれば言うことはない。帰国してから、この知見を生かす機会があったらいいなあと思っていました」

 自動車が社会に浸透し切った中、ファミリーカーの次に求められるのは、パーソナルユースとして用いる小型のセカンドカーの存在であった。また、吉田自身も毎日のようにステアリングを握り、ロサンゼルスのフリーウェイを走った。非常に混雑するロサンゼルスを走って吉田は、鈍重で大型なクルマの使いにくさと、無駄の多さを痛感したと言う。

 そんな北米における自動車文化と自動車社会のあり方を元にして、吉田は新たなクルマのコンセプトを練り始めたのである。


 吉田がアメリカに渡ってから1年が経過した1974年。結局、マスキー法はアメリカ国内の自動車メーカーからの猛反発によって廃案となる。一説には、マスキー法は北米市場を侵食しつつあった日本車を排除するためのものであったとも言われている。

 トヨタも、ホンダからCVCCの技術を購入するなどして、環境性能の向上に成功することとなり、1974年半ば、吉田は日本へと帰国する運びとなった。

 それから5年後の1979年(昭和54年)、吉田は製品企画室の主査に任ぜられる。製品企画室とは、設計部門と実験部門を統括して新車開発をまとめあげる部門であり、主査とは新車開発においてコンセプトに始まって、設計やデザイン、コンポーネンツの選定や性能の決定、生産工程の構築やマネジメントまでにおいて多大な権限と大きな責任を負う役職であった。

 本来、製品企画室は設計部門出身の人間が配属される場所であり、実験部門出身の吉田が製品企画室主査に抜擢されたのは、異例の人事であった。

 当時、トヨタは昭和53年の日本国内の排ガス規制を達成。また、世間における神経質なまでの環境問題に対する態度も沈静化しつつあり、暗黒の時代から自動車と、一度は鳴りを潜めていたスポーツカーに対する関心が再び高まりつつあり、中でも1978年にマツダが発売したSA22C型RX-7は大きな注目を集めていた。そんな情勢にあって、トヨタでも次代のクルマと、スポーツカーのあり方の模索が行われていた。

 そんな1979年。当時のトヨタ自動車社長であった豊田英二が、製品企画室の主査全員を集めて、異例のスピーチを行った。テーマは「トヨタの現状」についてであったという。その中で5代目社長となっていた豊田英二は、主査たちに次のように述べたという。

「従来の発想では考えられないようなコンセプトの車輌が、常識では考えられない一味違った車種が将来のトヨタにはあってもよいのではないか」

 1913年、豊田英二は豊田佐吉の弟である豊田平吉の次男として生を得た。英二は、太平洋戦争以前より、トヨタの自動車開発と技術研究。量産のための資本・資材・機材の調達と量産体制の確立に尽力し、伝説の主査・中村健也と共に国産乗用車第一号とされる初代クラウンを開発成功に導いた人物であった。また、「主査」の役職を考案し、中村健也をトヨタ初の主査に任命したのも豊田英二である。

 「主査の皆さん。どうか一度、真剣に考えてみて欲しい」。無数の修羅場を中村健也と共に乗り越えて、誰よりもクルマ作りの難しさを目の当たりにしてきた豊田英二は、一時間に渡るスピーチの中で、次代を担う主査たちに語った。

 「レドンド・ビーチでのアイデアを実践する時が来た」。英二の言葉を聞いた吉田は思ったと言う。

 そして、日本初ミッドシップ・MR2の開発プロジェクトはついに動き出した――


参考文献:(長いので今後省略します)

・「トヨタMR2 E-AW10/11系」 新型車解説書 並びに追補版
・「トヨタMR2 E-SW20系」 新型車解説書 並びに追補版
・「トヨタMR2 E-SW20系」 整備書 並びに追補版

・「MR2 AW10/11」前期型カタログ
・「MR2 AW10/11」後期型カタログ

・「MR2 SW20」Ⅰ型カタログ
・「MR2 SW20」Ⅱ型カタログ
・「MR2 SW20」Ⅲ型カタログ7
・「MR2 SW20 ビルシュタインパッケージ」カタログ
・「MR2 SW20」Ⅳ型カタログ
・「MR2 SW20」Ⅴ型カタログ
・「MR2 SW20」ドイツ版カタログ
・「MR2 SW20」北米版カタログ
・「MR2 SW20」 社内限定セールスマニュアル
・「MR-S」前期型カタログ
・「MR-S」後期型カタログ
・「MR-S Vエディションファイナルバージョン」カタログ

・「GORO」1982年 1月14日号/小学館
・「GORO」1984年 1月26日号
・「GORO」1984年 6月28日号

・「CG CAR GRAFFIC」1983年12月号/二玄社
・「CG CAR GRAFFIC」1985年12月号
・「CG CAR GRAFFIC」1987年12月号

・「driver ドライバー」1985年10月20日号/八重洲出版

・「J's Tipo」1998年1月号
・「AUTO PLUS」2000年9月号
・「J's ネオ・ヒストリックArchives 『TOYOTA MR2&MR-S』」/ネコ・パブリッシング(おススメ)
・「I LOVE A70&80 TOYOTA SUPRA」
・「CAR magazine」2012年7月号(おススメ)

・「Racing on」2004年8月号/ニューズ出版
・「Racing on WRC 2001 VOL.3」

・「日本初ミッドシップ トヨタMR2とトヨタスポーツ」/岡崎宏司 新潮文庫

・「ベストカー」号数不明(グループS仕様の記事について)/三推社
・「ベストカーガイド増刊 オールアバウト TOYOTA MR2」昭和59年8月/三推社(おススメ)

・「ベストカー・クロニクル」/講談社BC

・「Xa Car」1999年8月号/三栄書房
・「モーターファン別冊 ニューモデル速報 第29弾 MR2のすべて」
・「モーターファン別冊 ニューモデル速報 第46弾 MR2のすべて」
・「モーターファン別冊 ニューモデル速報 第78弾 新型MR2のすべて」
・「モーターファン別冊 ニューモデル速報 第257弾 MR-Sのすべて」
・「モーターファン別冊 illustrated Volume32 特集 ミッドシップ 理論と現実」(おススメ)

・「CARトップ」昭和59年6月号/交通タイムス社
・「CARトップ ニューカー速報No.23 MR2」
・「CARトップ ニューカー速報No.74 NEWスープラ」

・「トヨタテクニカルレビュー」Vol.47/オーム社

・「CAR and DRIVER」1990年1月10日号/ダイヤモンド社

・「Best MOTORing」1990年1月号 (Ⅰ型初登場)/2&4モータリング社
・「Best MOTORing」1992年3月号 (Ⅱ型初登場)
・「Best MOTORing」1994年1月号 (Ⅲ型初登場)
・「Best MOTORing」1995年8月号 (ビルシュタインパッケージ登場)
・「Best MOTORing」1996年9月号 (Ⅳ型初登場)
・「Best MOTORing」1998年4月号 (Ⅴ型初登場)

・「ハイパーレブ Vol.21 トヨタMR2」/ニューズ出版
・「ハイパーレブ Vol.50 トヨタMR2 No.2」/ニューズ出版
・「ハイパーレブ Vol.63 トヨタMR-S」/ニューズ出版

・「タツミムック チューニングトヨタ MR2&MR-S VOL.1」/辰巳出版
・「タツミムック チューニングトヨタ MR2&MR-S VOL.2」/辰巳出版
・「タツミムック チューニングトヨタ MR2&MR-S VOL.3」/辰巳出版

・「ROAD&TRACK'S Guide the ALL New TOYOYA MR2」(おススメ)
・「TOYOYA MR2 Japan's First Mid-Engined Production Car」
・「HPBooks TOYOTA MR2 PERFOMANCE」

 ……他。

資料提供:(下記のお二人には、大変貴重な資料を提供して頂きました。ありがとうございます)

・アルティマ♪ 様
・つの@SW20 様

車輌協力:(今後も、どなたかに協力をお願いすることがあるかもです)

・しょっぺた 様

Posted at 2012/12/06 19:17:07 | コメント(1) | トラックバック(0) | MR2の系譜 AW編 | 日記

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