2011年05月22日
第五章 戦後のトヨタとトヨペットSA型
1945年(昭和20年)8月15日、日本の敗戦で太平洋戦争は終結した。
誰もが絶望に打ちのめされ、明日のことなど知る由もなかった。それは個人から企業に至るまで、皆が同じ気持ちであった。
しかし、そんな中にあって。トヨタ自動車の副社長であった赤井久義は、終戦の翌日には社員を集めて次のような発言したと言う。
「トヨタはこれから何としても生きていかなければいけない。そのためには、中華民国には資源もあるし需要もあるから中華民国に進出するのがよいと思う。中華民国と手を握ってやっていきたい。そうしないと、みんなを食わしていくだけの仕事はなかなか無いから」
もちろん中華民国とは、つい昨日まで戦争をしていた敵国である。当然のことながら、そんな国へと進出することへの懐疑論や反対論が湧き起こった。
赤井副社長自身も、明確な自信や計画の根拠があって発言したわけでは無かった為、騒ぎが起こっても黙ってそれを見ていたと言う。
あまりにもその場が騒然として収拾がつかなくなり、その場にいた健也が口を開いた。
「みんなはそういうことを言っているけれども、僕は赤井副社長の意見に賛成だ。これからやっていく仕事が難しいのは変わらない。だけで、何をやるか分からないで、銘々がガヤガヤやっていたのでは六千人が食っていくなんて出来るものではない」
健也のこの言葉に、皆、黙り込んでしまった。その後で健也は赤井副社長から礼を述べられたと言う。
健也は父親の知人より、外交の大切さをよくよく言い聞かされたと述べている。その経験から、赤井副社長の発言に賛成したのかもしれない。
赤井副社長は、戦争中の1941年(昭和17年)1月に三井物産からトヨタに移って来た人物であった。そして健也は、赤井副社長がトヨタの役員とはまた違った人物であることを読み取り、実際にウマも合うと思っていた。
さらには健也は、赤井副社長対しては一目置いていたさえ述べている。
やがて、進駐軍が日本を占拠し、GHQが設置された。そして、GHQによってあらゆる自動車の製造が禁止されてしまった。
「今は日本の再建を冷静になって考えなければならない時で、いたずらに騒ぎ立てても何の利益にもならない。戦災復興のため、今すぐ我々に望まれることは、自動車を作り続けることです。占領下で会社としても難しい問題が出てくると思うが、生産を続けるための努力を示して欲しい」
トヨタ社内でも徹底抗戦論が巻き起こり、それを諌めたのは健也であったことは先に記したとおりである。
これからのトヨタの方針について、「鍋・釜を造るのはどうか」「プレスを使って造れる、もう少し大きな良い製品はないか」、などという意見もあったようだが、1945年の9月にはトラックが。10月には乗用車の製造も許可されることになった。
それを受けてトヨタも、再び自動車の製造を行うことが決定された。
しかし、その矢先。2ヶ月後の12月、赤井久義副社長は事故により亡き人となってしまう――
トヨタは戦前より、乗用車であるトヨダAA型や、G1型トラックの量産を行っていた。だが、戦争中の1938年(昭和13年)8月に、トラックの生産量を確保する為に政府から乗用車生産を事実上禁止する通達の影響もあり、乗用車作りのノウハウはトヨタにはあって無きに等しかったようである。
それもあり、トヨタはトラック製造から操業を再開することを決めた。
そして同時に、戦時中に計画された2000トンプレス機の製造計画の再始動することも決定された。
もちろん、トラックの製造と並行して新たな乗用車造りの研究も再開し、1946年(昭和21年)の11月には、新たなエンジンでるS型の試作品が完成する。
Sとは「Small」の頭文字から付けられたと言われ、1930年代後半にアメリカのフォード社が生産していた小型エンジンや、ドイツのアドラー社が生産していたエンジンを参考に設計されたと言う。
このエンジンは、サイドバルブ式の水冷直列4気筒で排気量は1000cc。最大馬力は27ps、最大トルクは5.9kgであった。
現在のエンジン基準からすれば、もちろんS型はまだまだ未熟なエンジンではあったものの、後にコロナやカリーナなどの大衆車にはじまり、セリカやMR2などのスぺシャリティ・スポーティカー。果ては、WRCのラリーカーに搭載されて500馬力を絞り出すことになる3S系エンジンの祖となるものである。
そして、このS型エンジンを搭載した乗用車、「トヨペットSA型」の開発も進められることになった。
SA型の試作車は、豊田喜一郎の説得もあり。豊田自動織機の自動車部出身である荒川儀兵衛が立ち上げた荒川鈑金工業所(後のアラコ株式会社。2004年に豊田紡織と合併し、現在のトヨタ紡織となる)が製造することとなった。
荒川以下18名の社員の奮闘によってわずか2ヶ月の期間で。1946年の暮れには3台の試作車が完成した。
このSA型は、全長3800mm、全幅1590mm、全高1530mm、ホイールベースは2400mm。車輛総重量は1170kg。
ドライブトレーンとしてS型エンジンに、2速・3速にシンクロメッシュを搭載した3速マニュアルトランスミッションが組み合わされ、公称最高速度は時速87kmであった。
やがて1947年(昭和22年)10月には、このSA型の量産が開始された。
このSA型のデザインは、戦時中のドイツにおいて、アドルフ=ヒトラーの指示の元、フェルディナンド=ポルシェ博士が考案したフォルクスワーゲンTypeⅠ=通称「ビートル」に良く似たものであった。
健也は、このSA型を量産するにあたり。外装パネル製造についてプレス型の担当者に対し、部品の一体化を積極的に行うように指示する。
当時、トヨタにあったプレス機の能力では鋼板をプレスし切れず。プレスした部品にシワが出来てしまうことが明白であった。
逆に部品を一体化せずに、当時の常識的なラインで分割して小分けにプレスすればシワが出来る危険性も減り、より良い仕上がりとなるはずであった。
健也は、「難しい仕事になるのは承知している。だから少々のシワは気にせずとも良い。後は日本一の鈑金屋が引き受ける」と言って、部品の一体化を推進させた。
結果、出来上がった部品は。不満の残る仕上がりとなってしまった。
それについて、当時の担当者は、
「まだ国民は貧しく、自家用車どころかタクシーですら自由に乗れない時代、売れ行き不振となることも予測されていたのでしょう。一体化することによって設備費を抑え、シワになるところは鈑金鋼の余力を当てて対処することが最良と判断されたのです」
と、語る。
そして、その部品の一体化は担当者たちにとっても大変勉強になり、後の乗用車開発でも役立つこととなったと言う。
また、健也がSA型の青写真を見ながら、「こんなサスペンションで良いのかなぁ」と呟いたのを聞いた者がいた。
このSA型の足回りは、前輪がコイルスプリングを用いたダブルウィッシュボーン式。後輪はコイルスプリングで吊られたスイングアスクルと言う形式で、国産車としては初となる四輪独立懸架式のサスペンションが採用されていた。
健也は当時、現場作業を指揮する人間であったことからクルマの設計そのものには携わってはおらず、そうした言動は周囲から不思議がられたと言う。
しかし、健也は現場にその身を置きながらも自身で多数の書籍を買い求めて独学を続けていたようで、SA型開発の頃にはトヨタ社内の図書室について、「技術部図書室としては少々貧弱だね。見たいと思うような本は無かった」とまで評していた。
こうして発売されることになったSA型であったが、2ドアであると言うパッケージングが実用にかけることもあり、一番の国産乗用車の売り込み先であるタクシー業界からも敬遠されてしまい販売は振るわず、わずか213台が生産されるに留まってしまった。
健也が危惧したサスペンションについても。当時の日本の道路は国道一号線を始めとする一級の国道でも舗装されているのはごく僅かで穴ぼこだらけであり、その劣悪な道路環境の多大な負荷に耐えきれずに破損しやすかったと言う。
むしろ、トヨタでも別途に少量生産されていた、トラックのシャシーに乗用車ボディーを架装したような自動車の方が、悪路における信頼性は高かったようである。
SA型自体は商品としては失敗作となってしまったが、逆に、SA型と同じくS型エンジンを搭載して造られたSB型トラックはヒット作となり、トヨタに利益をもたらすこととなった。
確かにSA型が失敗作となってしまったのは事実であったかもしれない。
しかし、このSA型を製造したことによって。自動車の設計と製造についての貴重なデータとノウハウが蓄積され、後のクルマ作りへと繋がって行ったのも、また厳然たる事実であったのである……。
(第6回へ・・・)
Posted at 2011/05/22 16:30:56 | |
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主査 中村健也 | 日記