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霧島のブログ一覧

2011年05月31日 イイね!

「主査 中村健也」 ~日本を造った男~ 第07回

 第七章 主査・中村健也

 1950年(昭和25年)6月。ようやくトヨタにおける労働争議が終結する。

 そして、退任した第二代社長の喜一郎に代わってトヨタ自動車の第三代社長となったのは、豊田自動織機の社長であった石田退三であった。

 退三は、戦後の混乱期においても一早く人員整理やGHQへの請願を行って経営の立て直しを図り。退三の優れた経営手腕もあって、豊田自動織機だけが戦後最大の不況の中でも経営の早期安定化に成功していた。

 退三は、頑なに無駄を嫌う人間であり。また、他者から融資を受けて経営を行うことを避け、内部留保の確保に励んだ。後にトヨタを無借金経営に導き、現在に続くトヨタの高い地位と巨額の財産を築く基盤を築いた人物でもあった。

 そんな退三の人柄と経営手腕は、あの松下幸之助もが師と仰ぐほどであった。

 そして、労働争議の収束と同じ月に事件は起きる。朝鮮戦争の勃発である。

 第二次世界大戦後、朝鮮半島はアメリカが支援する大韓民国(韓国)とソビエト連邦が支援する朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に分裂し、北緯38度線で睨み合いが続いていた。

 しかし、1950年6月25日、北朝鮮が38度線を超えて南進。韓国への侵攻を開始した。
中華人民共和国が支援に大軍を派遣して支援した北朝鮮軍と、米軍が主体となった国連軍が支援する韓国軍と激突し、半島中を巻き込んだ大戦争となったのである。

 膨大な物量と物量が衝突し、消耗戦となる中。朝鮮半島のすぐ目の前に位置する日本は、国連軍の補給・支援・修理の為の基地となり、あらゆる産業が再活性化することとなった。いわゆる朝鮮特需である。

 この特需においては、もちろん自動車産業も例外では無かった。

 トヨタは、日産といすゞとの入札競争に勝利し、第一次の朝鮮特需として1000台のトラックを受注する。

「この数ヶ月、儂は夢を見ているようだ。トラックも四輪駆動車もろくに塗装もせずとも、羽が生えている鳥みたいに(韓国の米軍基地を目指して)飛んでいく。中国の義勇兵が釜山まで攻め込んできたときは、値段もへったくれもなかったで。よこせ、よこせの矢のような催促じゃった。儂も長いこと商売をやってきたが、あの時ほどボロ儲けしたことはなかったわ。戦争直後の時も(豊田自動)織機は信じられないくらい儲けたが、今度は桁が違う」

 その当時、退三は、このような驚きの声を上げたと言う。

 実際、人員削減を行ったばかりであるのに人手不足となるほどのトラック需要が持ち込まれることになり、トヨタは9ヶ月の間に4679台のトラックを生産。瞬く間に経営を立て直してしまったのである。

 朝鮮特需の利益を退三は量産設備を充実させるのに使い、また健也も現場にて、2000トンプレス製造や新たな溶接機械の導入に奔走していたのである。

 1951年7月には2000トンプレスが稼働し、トヨタの自動車製造能力は、クオリティ・クオンティティ共に目覚ましい向上を見せた。

 また、一方で。この頃にトヨタは、米国のゼネラルモータース(GM)より、GMの自動車をノックダウン生産をしないかと言う誘いを持ちかけられていた。

 だが、この裏側には、トヨタをGM傘下に吸収し、子会社化しようというGMの目論見が存在した。

 健也は、これに対する断固拒否と国産乗用車の自力開発と生産を進言する。
また、一度はトヨタ社長の座を退いた喜一郎も再び社長の座に復帰することが予定されており。戦前より国産乗用車開発と、それに連なる日本全体の工業・産業の活性化の重要性を説いてきた喜一郎も自社による自力開発に賛同。

 結局、トヨタはこのGMの誘いを断り。これによってトヨタはGMの子会社となることを免れたのである。

 そして、来たる1952年(昭和27年)1月。遂に日本初の純国産設計の量産乗用車「クラウン」の開発が決定されたのである。

 そのクラウン開発の責任者に任ぜられたのは、もちろん健也であった。

 健也を責任者に任命した理由について、豊田英二は次のように語る。

「エンジンや足回りはどのようにして造ればよいか大体見当がつくけれども、乗用車のボディーを造った経験はあまりなかったから、ボディーを如何にしてうまく造るかと言うことが一番の問題でした」

「健也君は、ボディーを造るという知識・経験を十分に持っていたし、車体だけのエキスパートではなく自動車の設計のことから製造のことまで幅広く知っていて見識には深いものがあった。トヨタに入る前の共立自動車では乗用車をどうやってつくるかという課題に取り組んできた経験もしていたから、彼ならこの仕事をやれるだろうと確信していた」

「それと、本格的な乗用車を開発するわけだから、それまでのトラックベースの乗用車を開発してきた技術部の人よりも、むしろ白紙の人にやらせた方がいいだろうということもあった」

 健也は開発責任者就任の話を持ちかけられた時、「他の人へ回した方がいい」と言う目処も無く、だからと言って成算があるわけでもないので自分が「やった方がいい」というとも言い切れなかった。

 しかし、普段から「乗用車を造るべき」と主張し続けて来た手前、断ることも出来なかった。そこで、健也は英二に一つの質問を投げかけた。

「喜一郎さんはご承知のお話ですか」
「ああ、もちろん承知だ」

 健也はこの答えを聞いて会社も本気であると思い、開発責任者就任を受けることを決断した。

 トヨタでは、それまでにも乗用車製造のために種々の試作が行われ、実際に販売も行っていた。しかし、それらは市場の調査や技術の保存の範囲を出ないものであり。トヨタの興廃を賭けた乗用車の開発が決定されたのは、この時が初めてであった。

「我々仲間は、設計・試作・工作・組立・サービス・販売の知識と経験が殆どないまま、勇気と努力を頼りにこの大きな問題に取り組んだ」

 健也は、後にそう語っている。

 が、しかし。1952年(昭和27年)3月――トヨタ自動車社長への復帰が予定されていた「おやじさん」豊田喜一郎が急死する……

 誰よりも国産自動車作りに命と情熱を燃やしていた喜一郎は、国産乗用車完成をその目で見ることが叶わぬまま、57歳でその生涯を終えた――


 健也は労働争議集結後から既に国産乗用車のボディーの量産ライン開発に勤しんでいた。

 健也は1946年の頃から、「今後の乗用車ボディーの組み付けは、スポット溶接が主体となるから、その設備の研究をするように」との指示を部下に出していたと言う。

 実際問題。乗用車を量産する為には、従来の手作業によるガス溶接組み付けを廃止し、プレス品の品質向上と、自動化されたスポット溶接の組み付けをする必要があった。

 そして、労働争議の終結後。健也は部下に、「マルチスポット治具ウェルダー」、「ポータブルスポットウェルダー」「電流制御用同期タイマー、イグナイトロンコンダクター」などの溶接機械の開発を命じる。

 現在の自動車工業ではあって当たり前というこれらの機械も、当時はこれらを構成する部品すらもが存在せず。健也はこれらを純国産技術のみで開発することに成功した。

 基本的にはトヨタ社内での開発が主であったが、外注で専門のメーカーに依頼する場合であっても、健也は相手を上回る技術力を持っており。明確な開発方針を示したと言う。

 その他にも、プレス機械、プレス型、アーク溶接、抵抗溶接、油圧機器――それらのハード面の開発においてだけではなく、健也はもちろんそれを扱う技術員の教育にも力を入れていた。

 健也の指示に従い、設備の開発や技術の習得に務めていた社員たちは、過剰なまでの質や量の実現を求める健也の要求に対して不思議に思う心もなかったわけではなかったが、クラウン開発と言う途方も無い計画が発表された時、健也の真意を理解したと言う。

 また、健也自身も、社員を教育するだけでなく、自らも必要な開発技術の習得に努めていたという。このことから、技術員はもちろんのこと、現場の職員全員が健也に対して強い信頼感を持つこととなった。

 健也は、そのような細かな、そして多岐に渡る努力を2000トンプレスの開発や朝鮮特需の裏側で行って来ていたのである。

 これらはすなわち、クラウンの開発が始まる以前から、トヨタには乗用車を量産する為の設備や技術力など、「クルマ作り」の基盤が既に出来上がっていたということであった。

 後に、トヨタのクラウン開発はNHKの番組「NHKスペシャル」(1995年4月1日放送)にも取り上げられることになるが。健也はそれについてこのような苦言を呈している。

「NHKが付けた『零からの発進』という題名に註文がある。この題名は、文学的で恐らく日本人好みであり、米国人にも受け入れられ易いと思う」

「しかし、私の体験を振り返ってみても一気呵成にできたものではなく、また我々トヨタグループは零ではなかったし、日本の工業力も零ではなかったと信じている。設備は壊れ、物も金もなかった、その意味では零といえるが、戦後十年で乗用車の生産を始め、二十年で対米輸出が始まり、三十年で輸出を止めさせたいと思わせるほどに至ったのは潜在工業力が零ではなかった証と思う。GNPの伸びが驚異的と言われたのも、工業生産目標を国民が理解したからで、これも潜在工業力の高さを示している」

「豊田英二さんが『準備していたから着手した』とテレビの中で言っておられるが、“嫌みな発言”と註文があった。もし本当に零からの発進ならば“準備がある”筈もなく、総指揮に当たった経営者が成算もなく事に当たる筈も無い。米よこせ運動の中で焼け跡から立ち上がったのだから“零からの発進”と言いたくもなるが、せめて『焦土からの発進』と抑えるか『クラウン誕生』と胸を張るかなどと思った」

「もし零から発進して十年で乗用車のラインが動きだせるなら、どの国でもそれを願う筈です。これが可能となるのは国力であり、潜在工業力であって、たまたまその場に居合わせた個人の働きを評価し過ぎるのは誤りだと思う」

 クラウンは、決して零から造り出されたクルマではなかった。戦前より、喜一郎や健也。そして多くの社員たちの長年の努力によって乗用車の開発を可能とするだけの技術と設備が蓄積されていたのであり、準備は出来ていたのである。

 そして、準備が出来ていたからこそ、トヨタは。そして健也はクラウン開発に踏み切ったのであった。

 かくして1951年(昭和26)年1月。健也を開発責任者として、クラウンの開発はスタートした。

 しかし、いくら前準備があったとは言え、クラウン開発が順調に進んだわけではなかった。

 開発初期の頃、健也は車体部に所属し、車体部ではボディーとフレームを設計し、造らせていた。
また一方で、サスペンションやドライブトレーン、リアアスクルなどは技術部が担当していた。すると当然、開発責任者である健也は、自らの所属とは別の部門である技術部へも出向き、製造に関する指示を出すことになる。

 そして、これに対して技術部が、「車体部の人間が技術部の者に命令するのはおかしい」と騒ぎ出したと言う。

 このような無用な混乱が現場で発生したことから、当時、常務の座にあった豊田英二は一つのプランを発案する。

 かつて、豊田英二がトヨタに入った時。英二は喜一郎が造った監査改良室と呼ばれる部門に配属された。その監査改良室への指示は、「何でもいいから、とにかく悪い所を見つけたら片っ端から直せ」と言うものであった。

 そして同時に、「悪い所を直そうとして言うことを聞かなかったら『社長である喜一郎がそう言っている』と言っても良い」という権限が与えられていた。

 健也は技術部に出向いてはしょっちゅう『出来る、出来ない』と言う議論を繰り返していたと言う。そして健也もまた、「君たちは出来そうもないと言うけれど、俺は造る」と一歩も引くことは無かった。

 そんな中でも英二は、健也は見込みがないことを言うような人間では無いことをよくよく理解していた。

 だからこそ、監査改良室と同じように社長のお墨付きの名の元に、健也が何ら気兼ねなく発言し、指示を出せるようにしなければならないと考えた。

 英二は、監査改良室時代の経験を活かし、その延長となる新たな役職を設けることを決定した。その役職の名は「主査」と言った。

 国産初の乗用車開発。この前代未聞の大事業を実現させる為には、あらゆる技術と知識に精通するだけでなく、自らも高い技術力と行動力。そして優れた先見性を以て現場を指揮し、開発の取りまとめを行うことが出来る強いリーダーが必要であった。

 そして1953年(昭和28年)5月、英二は健也を主査に任命した。

 「主査 中村健也」誕生の瞬間だった――


(だいはちかいへ~)
Posted at 2011/05/31 12:29:44 | コメント(1) | トラックバック(0) | 主査 中村健也 | 日記
2011年05月29日 イイね!

梅雨入り

 梅雨入りしたらしーですよ、関西は。おお早い早い。

 ここの所は連日で夜勤、眠いわあ……

 昨日の夜勤。休憩がてらにテレビ点けたら「灼眼のシャナⅡ」の再放送とかやってましたよ、久しぶりに観た……。そーいやシャナも8巻ぐらいまでしか読んでないなぁ……Ⅲは一体いつになったら製作されるのやら……

 で、仕事が終わった後。豪雨のワインディングをえっちらおっちら帰る訳ですよ……。街灯もなくて真っ暗な道ですよ。一昨日は、仔鹿(と思われる動物)が轢かれて粉砕されてました。頭は既に無いわ内蔵がそこいらに飛び散ってるわ、生臭い匂いが漂ってるわ……

 うんまぁ……これが奈良なら、死刑ですよイヤマジで。奈良で鹿を殺すと子供でも死刑です、生き埋めにされます。奈良は人より鹿がエライのですよ(爆)

 で、田舎の山中なのに、近くに工業団地がある上に名神高速への抜け道にもなってて10トンクラスのトラックがバンバン走るから、道もガタガタなのですよ……

 まぁそんな感じでヘビーウェットで真っ暗なクネクネ道なので、のんびり走ってたら……うんまぁ後ろからえらいスピードで煽って来るクルマがあるねぇ……

 後ろからピッタリくっついてくるヘッドライトを観る限りでは、そんなに車高の低いクルマではない。リトラじゃないからFDとかでも無い。ランエボかなぁなんて思いつつ、一応スピードメーター確認したけど、警察の人が見たら顔をしかめるスピードだし、別に遅くはない。

 どっかで先に行かせよーかと思いつつも、なんか癪だからブロックしまくることにする。

 すぐ近くに京都府随一の走り屋スポットがあるから、そういうクルマと思われたのかねぇ。どこぞの大学の自動車部がヤンチャして事故りまくってる辺りでもあるし。つうか、こっちは夜勤明けで眠いんですけど……

 ワインディングを抜けて国道の交差点で横に並んだクルマを観たら……レガシィツーリングワゴンだったよ。そりゃぁあのコンディションでもビシッと安定してるワケだ。

 で、そのレガシィTW。信号待ちしてて、信号が青になる前にフライングして飛び出していった挙句、次の信号では赤を無視してどっかに消えていきましたな……走り屋さんじゃなくて、単にマナーの悪いドライバーだったのね……

 しかし、スバルのクルマに煽られたのは初めてでしたなぁ。……生まれて初めてランエボが欲しいと思った(爆)

 いや、どっちかって言うとGC8インプレッサWRXのSTiのverⅢかⅤが欲しいんですけどね、て言うか欲しかったんですよ、元々。

 まぁ何だかんだでMR2と出逢うこととなり。今ではMR2しか考えられんような感じですけどね。ホントにインプレッサ欲しかったら、Ⅲ型潰した時点でインプ乗りに転向してますよ。

 MR2は普通に街乗りで乗ってても独特過ぎるクルマですからな……一回乗ったら、他のクルマでは物足りないってのは時々聞く話で。

 MR2で雨の中とか走ったら、普通に怖いですよね……ただでさえ轍に乗ったら、ガードレールか対向車線に吹っ飛んで行きそうになるのに、雨が降って水溜りとか出来てたら死ねます。

 水溜りに突っ込む度に、タイヤが後ろに押し返されるようなフィーリングがハンドルから伝わって来るのですよ……ハイドロこわいよハイドロ。「交差点でスピンした」なんて伝説もあながち嘘では無いのかもしれない……

 MR2が「危険なクルマ」と呼ばれる理由はこのあたりにあるんじゃなかろーかと思う今日この頃……まぁAZ-1/キャラの方がもっと危ないのかも知れんが(笑)

 まぁその辺りを抑え込んで走るのがMR2の面白さなのですが……とりあえず砂袋載せるか、フェニックスパワーのフロントダウンフォースウイングが欲しいなぁ……

 べ、べつにFFとか4駆が欲しいなんて思ってないんだからねっ! 勘違いしないでよねっ!(爆)

 でも正直、その辺の悪路の走破性とか全天候性。高速領域での安定性とか考えたら、他車種の走行性能がうらやましいと言う気持ちは無いわけではない。

 もし今のⅤ型NA以外に、もう一台持てるとしたら、何買うかな……。Ⅰ型ターボ、Ⅱ型ターボ、Ⅲ型ビルシュタインパッケージ、Ⅳ型ターボ、前期AW、後期SC仕様AW、AWグレードS、前期MR-S、SMT仕様MR-S……あれ?おかしいな……何故かMR2シリーズしか思いつかん謎(汗)

 最近、愛知県から売りに出てるストロングブルーのAW10とか、岐阜県で出てるスーパーレッドⅢのⅠ型GTとか欲しいですのぅ……。今となっては稀少車種ですからなぁ。

 そういや三重県の四日市にスープラ博物館みたいなのがあるそうで。いやまぁ個人の人が70と80スープラを10台ぐらい集めてて。さらに、グッズとかミニカーとかも集めまくっているというのがあるんですよ。スープラオーナーズクラブの「STARTING POINT」に連絡すれば見せてくれるかもなんでしたっけ。

 MR2で、MR2博物館みたいなの造れたら面白いでしょうなぁ……。自分なら何集めるかねぇ。

AW11 前期シャーウッドトーニング・ムーンルーフ
AW11 後期SCブルーマイカ・Tバールーフ
AW11 ホワイトランナー
AW11 ブラックリミテッド
AW11 スーパーエディション
AW11 スーパーエディションⅡ
AW10 グレードS
SW20 Ⅰ型GTスーパーレッドⅢ or クリスタルパールマイカⅡ・Tバールーフ
SW20 Ⅰ型スーパーエディション
SW20 Ⅱ型GT-S ブルーイッシュグレーアージェンタムマイカ
SW20 Ⅱ型改 ターコイズマイカメタリック
SW20 Ⅲ型ターボ スーパーホワイトⅡ
SW20 Ⅲ型ビルシュタインパッケージ(敢えてのブラック)
SW20 Ⅳ型NA ソニックシャドートーニング
SW20 Ⅴ型NA ダークパープルマイカ or オレンジマイカメタリック
SW21 (北米仕様)
SW22 (北米仕様)
SW20 MRスパイダー
SW20 TRD2000GT
SW20 MC8ロードゴーイングバージョン
ZZW30 前期スーパーレッドⅤ
ZZW30 後期シーケンシャルMT仕様
ZZW30 後期Vエディションファイナルバージョン
ZZW30 モデリスタの「カセルタ」

 さて、合計、幾ら予算があれば実現出来るんでしょうかね……。まぁカラーリングとか仕様にはそれなりにこだわりがあるんだけど、分かる人にはなんとなく分かるかなぁ。

 つうかMC8なんてどこにあるんだろう、今……。スパイダーは手に入れば何でも……ⅣかⅤが手に入れば最高だけどねぇ、うちの近所に一台あるけど。ビルパケのブラックは実在してるか不明。TRD2000GTはたまーにヤフオクに出るなぁ、TRDの刻印が残ってれば嬉しい。

 SWの特別仕様は根気良く探せば見つかるけど、AWの特別仕様は……うん見つから無いね!

 左ハンドルのSWは見ないなぁ……スープラのオフ会とか見てたら逆輸入の左ハンドル仕様もちょくちょく見るんだけどね……TMCJでそこまでやる猛者は居ないか……。北米だけでなく、欧州仕様とかも欲しいかね。

 後は、グループB仕様MR2「222D」のエンジン横置きの第一次試作車(欧州仕様ブラック)と、エンジン縦置きの第二次試作車(日本仕様ホワイト)を1台ずつと、プライベーターの4WD化AWであるファルケン池沼MR-2。

 ハンドメイド製作のプロトタイプMR2「SA-X」、それにコンセプトカー「SV-3」「MR-J」「MR Spyder」。それに「MR-Sハイブリッド」なんかが揃えば最強無敵。ただ、トヨタ博物館とTTEの倉庫から強奪してくる必要がある。SV-3とか、残ってるのかねぇ……


 ……あれ? なんの話してたんだっけ……MR2以外にもう一台持てるならって話だっけ。うんまぁMR2以外という条件付きでのセカンドカーって言うなら、今はスープラが欲しいですなぁ……。

 80なら、80のGZとか北米仕様の80とか。70なら70のGTツインターボRとか、グループAホモロゲの3.0ターボとか、エアスクープ付いてる北米仕様とか、5ナンバーのGAとか。

 低速トルクの鬼と言われる加速力、時速300kmで手放し運転出来る直進安定性ってのがどんなものなのか興味津々ですな。両方ともSWには無いモノですからな。MR2で「痛い目」を見たトヨタがSW20以降に造った「スポーツカー」ってのはどんなモノなのか……?

 まぁ他にもセラだとかインプだとかサンバーだとかレクサスLFAニュルブルクリンクパッケージとか色々と欲しいクルマ乗りたいクルマは無数にあるけど、今のMR2を手放す気がカケラも無いし、買い換えたいなんて全く思わんですからな……そもそも2台目買うなら、今のⅤ型NAを徹底リフレッシュするなぁまずは。

 さてはて。Ⅴ型NAリフレッシュ計画の最終目標であるエンジンオーバーホールにまで到達できるのはいつの日であろうか……orz

Posted at 2011/05/29 15:44:28 | コメント(8) | トラックバック(0) | MR2 | 日記
2011年05月28日 イイね!

「主査 中村健也」 ~日本を造った男~ 第06回

 第六章 労働争議 ~豊田喜一郎と中村健也~

 トヨタがトヨペットSA型を製造する前々から、健也はトヨタの生産効率向上の為に活動していたことはもちろん。自動車設計そのものについても独自の思考や理想を持っていたようである。

 SA型が発売された後、健也は社長である豊田喜一郎に、乗用車製造に関する建議書を直接提出する。そしてまた、それを受けた喜一郎も、直々に現場まで足を運んで健也に会いに来たと言う。

「儂は織機を発明し、お国の保護を受けて金を儲けたが、お国の為にも尽くした。この恩返しに自動車を造れ。自動車を造ってお国の為に尽くせ」

 「織機の発明王」と呼ばれ。自動織機以外にも多くの発明を行った豊田佐吉。喜一郎は父・佐吉からこのような訓戒を受けており。そしてまた、喜一郎自身も戦前より、

「我々日本人の誰かが自動車工業を確立しなければ、日本のあらゆる民族産業が育たない。それは別にトヨタでなくともいい。けれども現状のままでは、カナダがフォードのノックダウン生産に占領されて自動車工業など芽も出ないように日本も同じ道をたどることになる。ひいては日本の工業が全部アメリカの隷属下に入り、日本は永久にアメリカの経済的植民地になってしまう」

 といったような考えを持っており。佐吉の遺志もあって自動車作りには熱い情熱と硬い信念を持っていた。

 戦前の日本の自動車事情と言えば、アメリカのゼネラルモータースやフォードと言った先発企業の自動車が幅を利かせており。そして、複雑で高度な自動車を独自での開発するなどは、リスクがあまりにも大きいことであった。

「困難だからやるのだ。誰もやらないし、やれないから俺がやるのだ。その阿呆がいなければ、世の中には新しいものが生まれないのだ。そこに人生の面白みがあり、また俺の人生の生き甲斐が、そこにあるのだ。出来なくて倒れたら、自分の力が足りないのだから潔く腹を切るのだ。」

 そして喜一郎はどんな大会社や大財閥ですらも手を出そうとしなかった自動車作りに取り掛かる。
 喜一郎は、1935年(昭和10年)3月にA型エンジンの開発に成功。同年11月にはG1トラックの製造・販売に漕ぎつける。

 G1トラック販売に辺り、セールスマン達に対して次のような訓示が成された。

「ええか、クルマを売り込むのに、うちのクルマは他のクルマよりいいなどとは決して言ってはならんぞ。世界のどこに比べても、現在のうちのクルマは一番劣悪なんだ。ただ国産品だから買ってくれ、使ってくれと頼むんだ。そうでなければ、自動車はいつまでもアメリカの独占物になる。日本の自動車工業は育たず、であるから日本の民族工業自体が二流三流のまま取り残される。皆さんが使ってさえくれれば、トヨタは必ず改善して、やがて世界一のクルマにしてみせる」

 これは営業責任者からの発言であったと言うが、その裏に喜一郎の存在があったことは間違いないであろう。

 実際、トヨタが造ったG1トラックは故障が頻発し、「トヨタトラックまたエンコ」「国産トヨタ、またも座禅を組む」などと皮肉られる始末であった。

 しかし、トヨタの担当者たちは、昼でも夜でも駆けつけて修理作業を行ったと言う。

 喜一郎自身も、工場に泊まり込みを続け。そして自身も油まみれになりながら修理を行い、研究と改良を行った。

 昭和11年5月には「自動車製造事業法」が制定されるが、これは外自動車メーカーの日本進出を抑制して国産自動車メーカーを保護し、日本国内の産業力と工業力を育てるべく作られた法律であった。

 喜一郎の、まさに粉骨砕身の努力もあり。豊田自動織機はこの法律によって、日産自動車と共に、国から自動車の製造を許可されることとなったのである。

 この時のことを喜一郎は雑誌「流線型」に寄稿し、それを見た健也がトヨタの門を叩くことになるのである。

 健也は喜一郎の先見の明に惹かれてトヨタにやって来たのであり、そんな喜一郎もまた同時に、健也に対して厚い信頼を持つこととなるのである

 戦後においても、自動車製造が禁じられる中。喜一郎は日産自動車に合併を持ちかけるなど、自動車産業の存続に骨を砕いていた。

 喜一郎はかねてから、「下駄の代わりになるような小型車」を理想としていたようで、SA型もまた、こうした喜一郎の考えの元に造られたクルマであったようである。

 また。喜一郎は、フォルクスワーゲンのような「小型車」とはまた別に、アメリカ車のイメージの「乗用車」を区分けして考えている節があったと健也は言う。

 健也は、喜一郎に対して「乗用車」の製造と、製造の為の機器の購入を進言していたと言われている。

 それだけでなく、当時トヨタにて健也の指導を受けた者は、「健也は10年先の乗用車の量産体制を考えて、部下の教育を行っていたように思う」とも述べている。

 戦後においても健也は、自動車を企画・設計する立場にはなく。あくまでも製造現場に身をおいていたが、自身の中に理想の自動車像と自動車製造体制を持っていたことは間違いないと思われる。

 実際、1949年(昭和24年)頃、健也は次のようなことを述べていたと言う。

「トラックをいくらやっても駄目だ。トラックは乗用車から派生したもので、自動車のソースは乗用車。乗用車を開発しない会社は人の知りに付いていくしかない。そんなことではダメだから乗用車が先だ」

 そして、後に「乗用車をやらない会社は倒産するしかない」とも述べたと言う。

 しかし、1949年2月。超均衡財政政策が実施されることになった。

 1946年。政府は、早急に日本経済を復興させる為に鉄鋼や石炭関連の産業に対して重点的に力を注ぐ傾斜生産方式を導入していた。

 政府は戦後復興金融公庫を1947年に設立。傾斜生産方式の対象となった産業に特別融資を行ったが、融資は1000億円を超え。戦後のインフレーションを誘発・促進することとなってしまった。

 これらのインフレ対策として、アメリカはデトロイト銀行頭取であったジョセフ=ドッジを経済顧問として派遣。ドッジは「ドッジライン」と呼ばれる経済政策を断行。そのドッジラインの一つとして行われたのが1949年の超均衡予算の実施であり、これによって金融政策の抜本的な見直しと改善、引き締めが行われた。

 結果。日本経済は戦後最悪の不況に陥ることとなった。

 多くの企業が経営悪化に陥った。そしてそれは自動車会社……トヨタも決して例外では無かった。

 トヨタにとっては、生産も徐々に上がり、これからと言う時であった。

 しかし、金融引き締めによって自動車を製造しても売れず、また銀行も融資を行ってはくれず、トヨタは倒産の危機を迎えた。

 給料の遅配や給料の削減などが発生し、当然のことながら、これらに対して従業員たちから猛烈な反発が巻き起こることになった。

 戦後すぐの頃、トヨタと日産が中心になって三菱・ダイハツ・マツダなどと共に全自動車労働組合が結成されていた。

 喜一郎は、この労働組合との間で「人員削減は行わない」との旨の協定を結んでいたのであるが、人員削減も止むを得ずという事態にまで陥ってしまったのである。

 その労働組合が中心となって、労働争議が激化することになったのである。

 また、この頃。日本の政界でも日本自動車産業の方向性について意見の対立があった。

 とある大臣は、「日本はトラックさえ作っていればいい。乗用車は輸入していればいい」と発言し、1950年4月には、日銀総裁の一万田尚登は「乗用車に手を出してペンペン草を生やしても知らん」などと言い、自動車工業不要論まで唱えたのである。

 現在では考えられないほどに、日本の自動車産業……特に乗用車づくりは軽視されていたのである。もちろんそういった論調が、自動車メーカーにとっては立場の悪化に繋がったことに間違いなかった。

 健也は、一万田の言葉に対し、

「そのように言われると、日本人は『トラックさえやっておればええ』と曲解する人が多いわけです。こっちを向いたらこっちばかり見て、あっちが見えない。下手な運転手と同じで、右にトラックが来たらトラックばかりを見て、左にものが来ていることにまで気が回らない」

 と皮肉っている。

 しかし、いくら健也と言えども。日本企業全体の経営悪化はもちろん。それに連なるトヨタの経営を立て直すことは不可能であった。

 1949年より、労働運動が活発化し、1950年には連日のようにストライキが行われた。

 トヨタにおいて、その先頭に立ち、赤旗を振っていたのは長谷川龍雄。後にパブリカやトヨタスポーツ800を開発することになる人物である。

 激化する労働争議の中、工場長や主任らも批難の対象となった。もちろん、社長である喜一郎や、健也も吊し上げを喰らうことになる。

 各工場で職場大会が行われ、組合員の怒号が交錯する中、会社代表として工場長・次長が壇上に立たされて質問に答えていた。そして、その中には健也の姿もあった。

 健也の声が小さく、怒号の中では聞こえないとの声が満場に上がった時。健也はこれに怯まず「聞きたければ聞く示す姿勢を示せ」と返したと言う。

「大きな川があり、それは急流で、船は右岸に位置しているが右岸のままでは転覆する。右岸から左岸に着けようとすれば船は流されてしまう。再建案は、船が流されない、また転覆もさせないためのものである」

 “小さな声”であることは変えずに健也は冷静に説得と説明を繰り返し、悠然と壇上に立つ姿は、そしてその主張も堂々としたものであった言う。

 ……結局、30%の人員削減が行われ、労働争議がようやく終結したのは1950年(昭和25年)6月のことであった。

 しかしその代償として。この責任を取って喜一郎は社長を辞任することとなってしまったのである……


(第7回につづく)
Posted at 2011/05/28 13:34:49 | コメント(1) | トラックバック(0) | 主査 中村健也 | 日記
2011年05月26日 イイね!

4 years passed...

4 years passed...あれから、もう4年か……色々なことがあった……。

「分裂」が発売された当時、自分は本屋のアルバイト……

まだ学習参考書担当だった為、文庫担当者にイチオシしておいたのも懐かしい記憶……分裂がちょっとしか入荷せず。角川ホットラインに電凸で大量に注文するも入荷しねー。

 分裂の2ヶ月後ぐらいに発売とか言ってて。売り上げの多い店にはハルヒの等身大ポップのカウントダウンボードが設置されてたっけなぁ……

 一日、また一日と減って行く日付を(他の本屋で)見ながら、まだ見ぬ驚愕へと期待を膨らませたものだ……

 そして迎えた発売日。「発売は延期になりました」


……
………

 しっかり等身大ポップの入れ替えボードに「延期」の分までついてやがったと言う。その後、「ゴメンね」のスティックポスターが送られてきたのも懐かしい記憶である。

 お客さんから問い合わせも、もちろん来て、角川書店に直接問い合わせても「発売日はわかりません」なんて回答も頂いたっけねぇ……

 ちなみにトップの画像は、4年前にエクセルで作ってmixiに載せた画像である。よく残ってたもんだ……

 いやでもハルヒは売れた。アホみたいに売れた。笑いが止まらんかったわ。

 あれから色々なことがあった……。霧島は学参担当から文庫・ラノベ担当になり、ライトノベルの在庫を数百冊増やしたものだ……

 角川の営業さんの口車に乗せられて、当時はまだアニメ化もしていなかった「とある魔術の禁書目録」を大量に仕入れてしまって、在庫と頭を抱えたこともあった……

 「狼と香辛料」の新刊が3冊しか入って来なくてマジギレしたこともあった……

 そしていつしか霧島は文庫担当からコミック&ラノベ担当になり。さらには店長代理を申しつけられ、膨大なコミックの在庫を一掃すべく行動を開始してから2ヶ月後。店は潰れたorz

 なお、店が潰れた翌日の撤収作業の休憩中。珍しく揃ったバイト仲間たちの前で、「ハレ晴レユカイ」を披露したりなんかはしていない!


 その後は……何があったっけのう……もっかいアニメ化して、話題作りに奔走し過ぎて構成が破綻してたり、作画が崩壊してたりしたようなこともあったかなぁ……

 アニメ2期……もとい「新アニメーション」に合わせて「驚愕」が発売になると思っていた時期が私にもありました。アニメ2期で、「消失」編をやるに違いないと思っていた時期も私にもありました。

 残り話数の数で、第何話がどのエピソードをやるかを予想して楽しんだ時代が私にもありました。消失編が映画化すると聞いたものの、エンドレスなエイトのおかげで、すっかり心が萎えてしまった私は全く嬉しくもなんとも感じませんでした。

 もちろん、消失の映画化に合わせて今度こそ驚愕が発売になると思っていた時代が私にもありました。なお、消失の映画はいまだに見ていませーん。


 いつしか時は流れ、多忙の中に身を置く中。すっかりラノベなんて読まなくなりました。そして私の心は「けいおん!」へと移ってゆくこととなりますた。

 そして、こうすら思うようになりました「ハルヒはオワコン」と……


 スニーカーに先行掲載された時も「『祝・掲載』とか読者を舐めてるとしか思えん」なんて言いました。ええ、言いました。言いましたとも。

 昨年の前半ぐらいに谷川センセイが「80%完成」と言ってるのに、昨年中に発売しないなんてことは全て想定内のことでありました。

 先日、発売日が決定された時も「どうせ今回も延期だろ常考」なんて思ってました。

 さらには、上下巻でセット販売。しかも単独販売よりも価格上乗せ。バラ売りは一ヶ月後とか聞いた時には、逞し過ぎる角川の商売根性にもはや怒りを通り越して呆れてしまいました。まぁ、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」のブルーレイの方がもっと酷かったけどね。


 そして平成19年6月1日の発売予定から、実に4年……昨日、ついに「驚愕」が発売されましたとさ。

 しかし、私はもはやハルヒなど忘れ去っており、買おうという気持ちすらもはや沸き上がってきませんでした。


……
………





何か!?


 ……賀東招二の「フルメタル・パニック!」の最終巻は2年。神坂一の「ロスト・ユニバース」の第4巻は4年。庄司卓の「倒凶十将伝」の13巻なんて6年以上待ちましたしねー

 ま、4年ぐらい発売日が延びた所でグダグダ言うヤツはまだまだ若造ですよ。それなら、ラノベなんて読まんほーがいーですな(←皮肉)

 さて、フルメタの最終巻はどこだったかな……
Posted at 2011/05/26 14:25:49 | コメント(3) | トラックバック(0) | ヲタク | 日記
2011年05月24日 イイね!

【ニューストピック】 「働く女子が「乗りたいと思う(思ったことがある)国産車」とは!?

 MR2だろ常識で考えて(爆)

 いやだって。霧島の知ってるクルマ好きの女の人はみんなMR2に乗っておりますが……

 まぁつうわけで、久々にニュースでも取り上げて見ようかと。

 去年の9月ぐらいに、アメーバに上がってた、クルマを知らん奴が集計・執筆したとしか思えない「『女の子ウケする車』とは?」みたいなニューストピックを取り上げた覚えがあるような無いようなだが、久しぶりにそんなネタが入って来たので、自他共にクルマ好きだと認める我々の手で検証してみようではないかと。

 実際、自動車評論家のセンセイ方やら自動車メディアやら自動車メーカーの語る、昨今の「若者のクルマ離れ」論なんて、実際に若い人からしたら的外れの失笑モノなのが多いけどね……

 あ、ちなみに初代MR2のAW型は、秘書が乗る「セクレタリーカー」として、英米では女性に大人気だったんですぜ。USAで50%、UKで60%が女性オーナーでしたかな。SWは知らん。


 なお、色つき文字はニュースからの引用。白地は霧島のコメでございます。


女性に人気の車はどれ?
 働く女子が「乗りたいと思う(思ったことがある)国産車」ランキング

(escala cafe - 05月19日 16:24)


自由に好きな場所へ移動できる「車」。持っていればこれほど便利なものはありません。
いろいろな車種がありますが、働く女子にはどんな車種が人気なのでしょうか? 「乗りたいと思う(思ったことがある)国産車」について聞いてみました!



 ●第1位/トヨタの「プリウス」……35.8%
 ○第2位/ニッサンの「マーチ」……17.7%
 ●第3位/トヨタの「パッソ」……16.8%
 ○第4位/トヨタの「ヴィッツ」……16.5%
 ●第5位/ニッサンの「キューブ」……10.8%
 ○第6位/ホンダの「フィット」……9.5%
 ●第7位/スズキの「ラパン」……7.9%
 ○第8位/トヨタの「セルシオ」……6.3%
 ●第9位/ニッサンの「スカイライン」……6.0%
 ○第9位/トヨタの「クラウン」……6.0%


※複数回答式・第11位以下は略。
※『escala cafe』にて2011年4月にWebアンケート。有効回答数316件(escala cafe会員:22歳-29歳の働く女性)。

 まぁ、こんな感じらしーですよ。なぜマツダが無い、なぜ三菱が無い、なぜダイハツが無い、なぜスバルが(ry

 女性をターゲットにしたクルマっつったら。古くはスプリンターマリノ、カローラセレス、スターレット・ソレイユ、カレン、サイノス、インプレッサリトナなんかがありましたなぁ……トヨタばっかなのは御愛嬌……実際トヨタはそう言う女性向けのマーケティングとかも上手いからな……他社はよう分からんのデス(汗)

 今でも、SW20型MR2とか、ST202型セリカとかに乗ってる女の人は結構見るねぇ。ノーマルのS13シルビアに、中高年の女の人が乗ってるのも見るかな。ヴィヴィオRX-Rで溝落とし決めて、FD3Sを千切っちゃう人も(ry

 で、各順位のコメントも載ってましたよー

第1位は35.8%でトヨタの「プリウス」でした! エコな車として話題のプリウスは、働く女子に圧倒的な人気を誇っているようです。今は燃料代が気になる経済状況。燃費のよさはやはり重要なポイントなんですね。

 ……ふ~ん? まぁ知名度だけで選んでるとしか思えませんな。「エコカーは正義!」みたいな世の中ですし。現行プリウスを2台持ってる家とか、何なんでしょな……

 つうか燃費どうこう言うならば、インサイトが入ってもいーじゃない。まぁこないだのカービューオブザイヤーのコメント読んでたら、インサイトへの投票理由の大半は「トヨタがキライだから」って理由だったねぇ。つまりインサイトはアンチトヨタが乗るクル……ゲフンゲフン

 世間ではCR-Zばかりが注目されてるけど、初代インサイトも霧島は好きだったのぜ……あれをプリウスと競わせるのは色んな意味でどうかと思ったけど(爆)

 まぁプリウスはいいクルマですよ……


第2位は17.7%でニッサンの「マーチ」。信号待ちなどの停車時にエンジンを自動停止するアイドリングストップ機構を備えているのが特徴です。本体価格がお手軽なこともうれしいポイント。

 ……マーチは女の人に人気ありますなぁ。クルマを知らんウチの姉でも「欲しい」とか言ってましたし。

 「彼女のカレラ」で轟麗菜も、ポルポル君の前に乗ってましたっけ。ドリヴィンの編集長もコレでしたっけな。

 K12マーチは、エンジンのガスケットが抜ける。日産の「対策品」を入れても抜ける。欧州仕様のガスケットを入れたら大丈夫、だとかまぁ色々一部では揉めているそうで……。まぁ、そんなの気にする人はよっぽどのクルマ好きだよね……

 マーチつったら世にも稀なツインチャージャーのマーチスーパーターボが……


第3位には16.8%でトヨタの「パッソ」、第4位には16.5%でトヨタの「ヴィッツ」と、コンパクトカーなのに車内が広く感じられる車にも女性の人気・注目は集まっているようです。

 ……あ~う~まぁ。パッソにヴィッツね……トヨタはやっぱりクルマを売るのが上手いねぇ……パッソなんて見事に女性向けのコンパクトカーでないですか。でもヴィッツって車内広かったっけ……どうだっけ(汗)パッソもヴィッツも、「企画=トヨタ・開発=ダイハツ」なのはナイショ……

 個々のクルマのコメントはこんだけですけど、マーチ、ヴィッツ、フィットあたりのコンパクトカーは鉄板ですよなぁ……昔で言うと、カローラとかシビックの立ち位置を食ってしまいましたからな。マーチの先代は知らぬorz

 日産はいいクルマ造るけど、マーケティングが弱かったのかねぇ。「販売のトヨタ・技術の日産」なんてのは古来からよおく言われてたことで。まぁ逆に言うと、「客」をよくよく見たのがトヨタで、今一つ見きれなかったのが日産、結果的に世界一と倒産寸前、ってことになったワケなんですけどな……

 ここには入ってないけど、マツダのデミオなんかは声優の新谷良子が「欲しい」と言ってたことで(ごく一部で)有名ですなぁ。良子かわいいよ良子……ギャラクシーエンジェルが懐かしいよ……アマガミ(※アニメ版ね)での扱いが微妙だったよ……

 今だったら、三菱のiとか入っても良いと思うけどね……コルトとかも有りだろう、ラリーアートバージョンはさすがにアレだけど。ダイハツだったらムーヴカスタムとかさぁ。

 キューブとラパンは分かるけど、解せぬのはセルシオ・スカイライン・クラウンですな……。それは玉の輿を狙ってるだけでは……クラウンはトヨペットが付く時代ので、スカイラインは34までの話ですね、分かりま(ry

 そんなにラグジュアリーセダン欲しいもんなのかねぇ……ワカメ。

 逆に意外だったのは、ミニバンが一台も入って来ない事ですな……これは興味深い。なんだかんだでミニバン欲しがるのは若い男だけなんですかな……。

 んで、最後の締め↓

全体としては、丸みを帯びたやさしいデザインの車が上位に多くランクインしました。これらの車は、「狭い道でも扱いやすくて安心な大きさがいいけど、車内は広々で荷物もたくさん載せたい」なんてワガママをすべてかなえてくれますよ。もし気になる車があれば、実際に体験してみるのがオススメ。週末に恋人と試乗デートなんていうのも楽しいですよ!


 ……昨日ですね、霧島は夜勤でしてね。休憩時間にテレビ見てたんですよ。京都テレビ見ようと思ったら映らなかったので、仕方なく読売のマンデーパークです。つまり「花咲くいろは」の第八話「走り出す」がやってたんですよ。ていうか、いろはを見るの初めてだったんですよ。

 ……あれ?……めっちゃおもろいんですけど(汗)

 嗚呼、今期は「もしドラ」の夕紀さん(cv 花澤香奈)がお亡くなりになられてからと言うもの、観るべきアニメなどないと思っていたが……甘かった……。未だにシュタインズ・ゲートも見ていない愚か者がここにおりまするorz

 そして、明日はハルヒの新刊の発売日か……3年、3年待ったんだぞ! そ、そんな抱き合わせ販売に俺が釣られクマー

 ……いやまぁ別にラノベの世界では3年待ちなんて短い方ですけどね(ボソ

 で、何の話でしたっけ。女性に人気のクルマの話でしたっけ。もうどーでもいーじゃないそんなの。菜子さんが可愛すぎて生きるのが辛い~

 あーまぁでも。去年の「女性ウケするクルマとは?」のアレよりは、まだまだまともな文章だったんじゃないかと。あれは痛かったねェ……去年の9月14日ぐらいの所にブログが残ってるかもしれん。まぁがんばって女子(おなご)の自動車購買欲を煽っておいてもらいましょうや~

 とかなんとか言って、今日も夜勤でございますorz


 P.S.

 「緋弾のアリア」も初めて見たが……いや、何も言うまい(汗)


Posted at 2011/05/24 15:08:05 | コメント(7) | トラックバック(0) | 自動車 | 日記

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