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2012年03月06日 イイね!

若者のクルマ離れという幻想

 株や為替の世界では特にそうなのだが、経済の世界では「理由づけ」が大変重要になってくるものだ。

 経済において急激な変動が発生した場合、その理由が「分かりません」では済まされないからだ。そして、その理由は後づけでもなんでもいい。間違っていようが正しかろうが、とにかくそれらしい理由をつけなければならないし、つけるものなのだ。

 例えば東日本大震災において、外国為替は急激に円高方向へと向かった。通常ならば、災害が発生した国家の通貨は、景気の悪化に陥る危険性が高いため、リスク回避のために売られて通貨安方向へと向かうはずなのだ。ニュージランドでの地震の時もそうだった。

 だが、昨年の3月から5月にかけて。円は歴史的な円高を記録することになる。その時の理由を、「各保険会社が、保険金の支払いに備えて海外資産を売却して円を確保したからだ」と、各証券会社や証券アナリストは分析・発表していた。

 で、ぶっちゃけた話、これは完全なデマだった。保険会社が、円を還流させたなどという事実は結局存在しなかったのだ。でっちあげの、その場凌ぎのニュースだったのだ。

 先ほど、こんなニューストピックを見つけた。

「“若者の車離れ”の原因は「トレンディードラマでデートに車が登場しないから」http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1700457.html

 ……もう、これを書いた奴はどんだけアホなんだと。まぁ上のページの抜粋は、多少悪意が見える編集が入ってるけどね。

 つうか、この手の「若者のクルマ離れ」を語るひょーろんかのセンセー方のオナニー記事は、どうしてこうもズレまくったことしか書かれていないのか……

 ホントに?ホントにクルマが売れない理由が分からないの!? だったら今時の若者の言葉を俺が代弁してやるわ。

「お金が無いから」

 以上。

 これ以上でもこれ以下でもない。これを上回る理由なんてあるわけがない。

 考えてみても欲しい、現代の日本の経済状況を……。昨年の12月の段階で、4年制大学2012年卒の就職内定率が59パーセント台。そして、若者の3人に1人が非正規雇用に甘んじているという、この現実を……。たぶん、非正規雇用は実際にはもっと多いね。たぶん今時の20~30代の半分ぐらいは、無職、フリーター、契約社員、派遣社員だろうね。

 今の時代、一度新卒採用を逃したら、普通の正社員の職につくなんてハッキリ言って絶対不可能。もう非正規雇用の手取り10万あるかないかで生きていくしかない。そこから、家賃や生活費を引いてみなよ。一体、どこに自動車のローンが組める余裕があるってんの?

 もちろん派遣とか契約っていっても色々ある。それこそ自動車の組立工場なんかは、手取り20万とか25万とかいうのもある。でもさ、それに釣られて工場勤務して、派遣切り食らって泣いてる人がどれぐらいいると思ってんの? そんな不安定な仕事してて、クルマ買おうなんて気になれると思う?

 つか、非正規に限らず正社員でも今時はそんなもんだ。今時はボーナス出ないなんて珍しくもないしね。ぶっちゃけフリーターとかやってた方が下手したら稼げるからね。霧島も、今よりも学生時代の方が断然稼いでたわ。

 バブルだかなんだかで育ったダンカイノセダイの人たち(つまり霧島の親だ)は、こういうのですよ……。「大学さえ卒業すれば、文字通り山のように求人票を押し付けられて、面接に行けばケーキとお小遣いを出してもらえて、一度内定が出たら、他の企業にとられないようホテルに監禁される」……うんぬんかんぬん……。そんな話を高校生の時、二時間とか三時間とかずっと聞かされ続けた覚えがあるわ。

 黙れカス。しね、氏ねじゃなくて死んでくれ。何の努力もナシに仕事と金を貰えて、そしてそれらが自分の功績だと勘違いしてる。そんなオッサンのタワゴトなんて聞き飽きたわい!

 そしてもう一つ、こんなんもあったね。

徳大寺有恒氏「女にモテる車を作れば若者の車離れは止まる」
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1581010.html

 霧島のブログ、自動車メディアの人たちが何人か読んでます。ベストカーやベストモータリング創刊責任者の正岡貞雄局長や、ホットバージョン編集長を勤めておられたベスモの田部さん。他にも、まさに徳大寺有恒さんの徳大寺自動車研究所の所長さんも読んでくれてます。

 ……だから、こういうことを書くと色々と問題が発生するかもしれない。でも、“まだ”今の自分の立場なら、こうして個別にトピックを取り上げることが許されると思う。将来的にはNGになる可能性も無いわけではない……だから今の内に書いておく。

 先生……徳大寺先生…・・・ちがう、ちがうんですよ……。個性とかそんなのまったく関係ないんですよ……。まあ、あんなテキスト、半分以上はゴーストライターが創作して書いてるんだろうけどね。いずれにせよ、編集者の神経を疑うわ。

 若い人のことは若い人に聞いてみればいい……。今時の若い人が欲しいと言うクルマ。それは、エスティマでありオデッセイでありアルファードでありヴェルファイアでありノアでありエルグランドでありステップワゴンであり……。そう、ミニバンなんですよ……。それらに個性が無いとはいわない。でも、二馬力みたいな個性あるクルマでは決して無いことも確か。

 あと、受けるのはエコカーね、ひたすらにエコカー。霧島が世話になってる車屋さんに、ダイハツのディーラーに務めてる人がいて、その人はこれまで3台のインプレッサSTiを乗り継いできたという猛者です。

 GC8→GDB丸目と来て、今は涙目のGDB型インプレッサWRX STiバージョンに乗っておられます。ちょうど30歳ぐらいの方ですが、話を聞いているとこんなこと言ってましたよ。

「飲み会とかに行っても、全然女の子には受けないねぇ……。男はみんな『おお~ッ!』ってなるんだけど。今はプリウス、これが一番ウケがいい」

 「無知な女が日本車をダメにした」って言ってる人がいましたけど、本当ですな。

 インプだぜ?インプ。しかもWRブルーで涙目とか、下手したら現行以上のマシンですよ。GC8が欲しかった霧島からしたら、うらやましくてしょうがない。インプなんて個性の塊みたいなクルマですよ。あ、欧州車のデザインがどーとかの話はイランですので。デザインなんて、あんなの、個人の感性の問題やん。つか欧州的デザインのクルマが日本で人気が出るとは全く思わんし。

 メーカーからすれば、どんなクルマが売れるのかを見極めるのが一番大切な仕事なわけで……。そして、徹底的なマーケティングの結果が、今の日本車のラインナップでないの。そりゃ若者はミニバンを欲しているんだから、ミニバンばっか造ることになるよ。

  90年代ぐらいのスポーツカー好きは、とにかくミニバンやプリウスを叩きたがるけど、それはそれでズレた行為なんだよ。それを言い出したら、街中のいたる所をスポーツカーが走り回ってるとか。峠へ行ったら昼間から何百台何千台というスポーツカーやバイクが集まってた80年代の方が明らかに異常だよ。

 スポーツカーやスペシャリティカーみたいな「個性的な」クルマなんて今時は流行らんのですよ。これはどうやっても覆しようの無い事実。

 ……ケインズの予言というものがある。それは次のようなものだ。

 『豊かであるがゆえにこそ停滞に陥る時代には、経済問題ではなく、「退屈」こそが最大の問題となるだろう。「退屈」の中で人々は規律を失い、倫理を失い、生の確かな手ごたえをもつことができず、ある人たちは神経症に陥り、ある人たちは退屈しのぎにゲームやギャンブルにうつつをぬかす』

 そういうことなのですよ。金があれば時間が余る、時間が余れば退屈する。そこで金があるならば、刺激を求めて色々なモノを買い漁る。それが、バブルの時代における「スポーツカー」であり「スペシャリティカー」だったのですよ。今の金も時間もない若者が、クルマなんて買えると思って?

 で。上の記事の中に、「トヨタの豊田章男社長はその理由を問われて『良く分からない』と述べている」とかいう一説がありますねぇ。豊田さん……ホント勘弁して下さい。あなたの師匠の故・成瀬弘さんが、どうしてアイゴベースの「FR Hot Hatch Concept」を造ろうとしていたのか……。86やMR-Sハイブリッドではなく、KP61スターレットの再来となるはずのFRホットハッチをどうして「本命」と呼んだのか……もう一度よく考えてみてください。

 ……たぶん豊田社長も本当は分かってると思う。でも、立場上、「若い人は金が無いから車が買えない」なんて言えないんだろうね。だって、そんなことを認めたら、トヨタは社員の給与をもっと上げて、非正規雇用を正規で雇用せんといかんくなるんだもん。そしてそれが、失笑モノの理論ばかりが横行する「若者のクルマ離れ」論の正体だと思う。うまいことはぐらかしてると思うわ。

 ちなみに86&BRZの値段ですが、霧島は決して高いとは思わんですよ。社会の負け組街道を驀進中の霧島(26)でも、買おうと思ったら買えますから。ただそれは、学生時代に早朝から深夜までバイトしまくって必死で貯金しといた金銭があるからこそ、今になって買えるんであって。でも、バイトもしたことないようなゆとり社会人には辛いのは確かだとも思うけどね。26ぐらいだったら結婚する人も増えてくるし。

 ここでもう一つ逸話を。自動車王・フォードの話です。

 ……ヘンリー=フォードが大衆車の量産化に成功し、フォード社がアメリカを代表する大企業になった頃のことである。ヘンリー=フォードは、一つの事に気がついた。それは、会社の絶好調ぶりに相反して、現場で働く工員たちに元気がないことであった。不思議がるヘンリーを諭したのは、息子のエドセルだった。

「どれだけ働いても彼らの日当はほんのわずか。彼らは自分たちが作っているクルマを、自分で買うことすら叶わないんだよ?」

 この話の真偽は定かではない。しかし、これが全てだ。なお、ヘンリー=フォードが労働者への待遇に力を入れた(入れるようになった)のは有名である。

 ハッキリ言う。今の若い人の半分は非正規雇用。非常に貧しい生活を強いられている。手取り10万、年収200万すらいかないのだから、結婚したり子供作ったり家庭を築くという「普通の」生活を送ることなんて絶対にムリ! ましてや自動車を買うことをや。

 小泉政権が非正規雇用を緩和したのは、間違いだったとは言わない。それによって、一時的に景気が上を向いたのは確か。でも、その恩恵を受けた自動車メーカーは、その後も調子こいて非正規を増やすばかり。非正規雇用緩和によって収益を得たのだから、それは社会に還元すべきなのだよ。でも、それをやらないメーカーばかり。

 とある日本の自動車メーカーの名経営者が次のように言い遺している。

「若さを信頼できなくなった企業は死ぬ」

 聞いてるか?ホンダ! これは藤沢武夫さんの言葉だぞ! 昔は中卒から大卒まで、夢と情熱に燃える若者たちが集ったホンダ……。若者たちを魅せるそのクルマづくりに、トヨタが、日産が嫉妬したホンダ……。それが今はどうだ。社内は完全な学歴社会な上に、醜悪なスキャンダルまで報道されてサ……。なぁ……ホンダよぅ……あの不撓不屈のスピリットはどこへ消えたんだよ……オヤジさんが草場の陰で泣いてんぞ……?

「私は年寄りだから新しい開発からはもう手を引いているが、一応、今の若い連中が何をやっているか見せて貰っている。でも分からないんだな。だからこそ嬉しいんだ。この年寄りに分かるような事をやっているのなら、うちの若い連中はボンクラですよ」
                   ――本田宗一郎


 メーカーもメーカー。でも、もっと問題があるのは自動車メディア!

「ワカモノノクルマバナレデザッシガウレマセン」
「オモシロイクルマヲメーカーガーダシテクレマセン」
「ダカラオモシロイキジモカケマセン」

 ……そりゃ自動車雑誌も軒並み廃刊になるわ。今の自動車メディアは、メーカーからの広報資料を丸写しするばかり。クルマの楽しさや魅力を全く伝えようとしない。その努力すらも放棄してる。クルマは面白いものだ、楽しいものだ、嬉しいものだ、滾るものだ、熱いものだ。なぜそれを伝えようとしない!?

「夢のあるクルマと言うのは、高くなくても速くなくても、小さな幸せを運んでくれるクルマのことだ」

 そんな最低限のことも分からずに、クルマを語ろうとする愚者のなんと多いことか。まぁクルマ好きなんて金持ちのボンボンが少なくないですからな。親の金を使いたい放題で、クルマ買ってクルマを走らせて、知識とテクを身につける。そーゆー人がメディアで文章を書くようになる。そりゃハートなんてどこにもないわ。

 イギリスに「トップギア」と言う自動車番組がある。現代の若者、クルマ好きが自動車メディアを語る際には必ずといっていいほど登場する名前である。

 なぜトップギアがこれほどまでにクルマ好きたちの支持を集めているのか――。どんなメーカーに対しても媚びない。レクサスLFAだろうがプリウスだろうが、ケチョンケチョンにいてこます歯に衣着せぬ言動……なるほど、それもあるだろう。だがそれはトップギアの本質では無い。

 高いクルマでも安いクルマでも、クルマの楽しさ・クルマの魅力・クルマの可能性・クルマの潜在力を「命懸け」で伝えようとするその姿勢こそがトップギアの真髄なのだ。

 ボリビアスペシャルを見たか? まともに動かぬ中古のSUVで南米のジャングルを掻き分け澱んだ大河を渡り、意識と命すらも奪わんとする3000メートルの高地を走る、あの生死を賭けた冒険を――

 ハイラックスサーフの壮絶極まる耐久テストを見たか? 燃やし、爆破し、海中に沈め――原形をとどめなくなるほどボロボロとなった、それでも動き続けたあのハイラックスの勇姿を――

 無論、トップギアはあくまで「皮肉」の文化を持つ英国だからこそ出来るスタイルの番組である。あんなのは日本では出来ないし、やる必要も無い。

 高いとか安いとか。スポーツカーだとかミニバンだとかは関係無い。「クルマで走ることは楽しいことだ、ワクワクすることだ」、それを何よりも誰よりも大切にしている。それを一番に伝えようとしている。だからこそトップギアは面白いのだ。

 トップギアを一度見てみろ。手に汗握るだろう? 胸が高鳴るだろう? 「クルマが欲しい」と思ってしまうだろう?

 ……そんな熱い熱い熱い想いが、魂が、信念が今のベストカーにあるか? 終盤のベストモータリングにあったか? 今のホットバージョンにあるか? カートップは? カーグラフィックは? レスポンスは?カービューは?クリッカーは?


 「老人はゴミです」。こう言ってのけた映像監督が居た。

 「最近の若い者は~」「あの頃は良かった~」「日本車なんて~」「最近のメーカーは~」

 うるさい黙れ。いい加減に目を覚ませ、いつまでバブルが続いていると思っている。

 自分たちの経営努力を棚に上げて、若者に責任押し付けてんじゃねぇぞ。

 早く現実を見ろ。若者と向き合え、対話しろ。

 「クルマが好き」だと自称するのならば。
Posted at 2012/03/06 22:08:02 | コメント(27) | トラックバック(1) | 自動車 | 日記
2012年03月04日 イイね!

K of SUBARU ~六連星54年の系譜~


~軽自動車と自動車社会の幕開け~

 時に、1958年。富士重工業は、一台の乗用車を世に送り出した。その名は「スバル360」。これが日本車と、スバルの50年以上に及ぶ軽自動車史の幕開けであった――

 1945年(昭和20年)8月15日、太平洋戦争における日本の降伏。これにより、長きに渡って繰り広げられた第二次世界大戦は終結した。GHQによって、日本のあらゆる産業と工業に厳しい制限が設けられ、その中で自動車の生産も禁止されてしまう。

 だがそれも1945年の9月にはトラックが、同年10月には乗用車の製造も許可されることになる。米軍の度重なる空襲によって焦土と化していた日本。その中で、国産乗用車開発に先鞭をつけたのはトヨタであった。トヨタは戦時中より、国産乗用車開発に必要な技術の研究と開発。さらには量産を行うための設備と資材の調達と確保までも行っていた。それらの「準備」もあり、トヨタは1955年(昭和30年)、純国産乗用車第一号とされる「クラウン」を送り出した。

 クラウン発売に少し遅れて、同じく戦時中より国産車開発を行ってきた日産自動車が、イギリスのオースチンやフランスのルノーとの提携の中で「ダットサン110型」を発売する。

 とは言え、これらの乗用車を所持することは一部の富裕層のみに許された特権であり、とてもではないが、まだまだ貧窮に喘いでいた庶民の手に届くものではなかった。その一方で、庶民にとっても馴染み深い自動車というものが存在した。それが、軽自動車であった。

 第二次世界大戦後、敗戦国を中心とした多くの国々において、航空機や二輪車の余剰部品を流用した小型車が多く作られていた。日本においてこれらは、1949年7月に軽自動車規格として、普通車とは別区分に分類・制定されることとなっていた。

 軽自動車は、その厳しい規格の制約のため、商用車として作られることが多く、その代表が、1957年に登場したダイハツの「ミゼット」やマツダの「K360」などのオート三輪である。しかして、それに先んじた1955年10月には、スズキが軽規格の乗用車である「スズライト」を発売。これが、日本初の4人乗り軽乗用車であった。(異説あり)

 スズライトは、四輪ダブルウィッシュボーン式サスペンションに加えて、早くもFFレイアウトを採用するなどの多くの先見性に満ちた意欲作であったが、まだまだ本格的な国産大衆車としては未熟であることも否めなかった。

 スズライトの登場から少しさかのぼる1955年5月18日。通産省は「国民車育成要綱案」を発表していた。通称「国民車構想」と呼ばれるそれは、下記のようなものであった。

・4名が搭乗した状態で100km/hが出せること
・時速60kmで走行した場合、1リッターのガソリンで30kmは走れること
・構造が複雑ではなく、生産しやすいこと。月3000台を量産できること
・工場原価15万円/販売価格25万円以下であること
・排気量350 - 500ccであること
・走行距離が10万km以上となっても、大きな修理を必要としないこと
・1958年秋には生産開始できること

 そして、これらの要件を満たせば、国がその自動車の製造・販売を支援するというものであった。

 結論から言えば、この大衆車構想の全てを満たす乗用車は実現しなかった。だが、多くのメーカーが、この大衆車構想を意識するようになったのは事実である。トヨタ・日産・東洋工業・三菱……戦前から続く大企業たちは、こぞって庶民のための乗用車づくりに取り組んだ。

 それらの大手以外にも、愛知機械工業やオオタ自動車工業、プリンス自動車などの小規模メーカーが、自動車開発に勤しんでいた。そして、それらの一つに、富士重工業という会社があった。富士重工業は、戦時中の航空機メーカーである中島飛行機を前身とする企業であり、戦後は二輪車や商用車などの製作を行っていた。

 1954年、富士重工業は、普通車規格での乗用車である「スバル1500」の試作車を完成させたが、遂に市販に至ることはなかった。その後、富士重工はオートバイメーカーとの合併し、オートバイ用の製造ラインを使い、排気量360ccのエンジンを用いた軽乗用車を企画する。

 開発の指揮にあたったのは百瀬晋六。百瀬は中島飛行機出身のエンジニアであり、戦時中は戦闘機のエンジン「誉」の設計・開発などに従事した人物である。百瀬、並びに多くの技術者たちの尽力もあり、かくして富士重工は軽乗用車「スバル360」を完成させる。

 スバル360は、軽規格の乗用車でありながらも普通車にも勝るとも劣らない信頼性と耐久性、走破性と実用性とを兼ね揃えたクルマであり、そして何よりも庶民も購入できる安価な「大衆車」であった。

 スバル360の登場は、大衆にも「マイカー」の概念を与えることになった。大人4人が乗れる軽自動車。スバル360によって、遂に日本でもモータリゼーションの幕が開くことになったのである……


~スバル軽自動車54年の歩み~

1958年3月 スバル360


 日本初のマイカーとして登場し、現在に至るまでの大衆車社会の礎を築いたのが、このスバル360である。

 航空機の技術を応用したフルモノコックボディに、空冷2ストローク直列2気筒360cc自然吸気エンジンをRRレイアウトでマウントする。キャビンは、大人4人が乗車できるよう、「はじめに人間ありき」で設計されている。これは、長年に渡ってスバルの設計思想に継承されることになる。

 徹底的な軽量化によって重量はわずか390kgに抑えられ、サスペンションは独立懸架式。最高速度は83km/hを達成(後に110km/h)。通産省の大衆車構想の多くの要件を満たし、日本に大衆車社会をもたらした。

 「てんとうむし」の愛称で親しまれた360は、その後も改良を重ね、1970年の生産終了までに、実に39万2千台が生産された。360に続いて、1962年のマツダ・「キャロル」や同じく1962年の三菱・「ミニカ」などの軽乗用車が次々に登場することとなったが、スバル360は軽乗用車の販売台数首位の座を長きに渡って守り続ける。

 スバル360の牙城を崩す軽乗用車が現れるのは、1967年のホンダ・「N360」の登場を待つことになる。

1961年3月 初代サンバー


 1961年、スバル360の姉妹車として登場したのが、この「サンバー」である。Sambarとは、インド近郊に生息する水鹿の意であり、360が乗用車でるのに対して、サンバーは軽貨物車……いわゆる軽トラックとして登場した。

 開発は、360と同じく百瀬晋六が指揮。エンジンは360と同じ空冷2気筒360ccエンジン。それをRRレイアウトに搭載する。サスペンションも、独立懸架式である。サンバーにおけるRRレイアウトと独立懸架サスは、1999年に登場する6代目サンバーに至る最後まで踏襲されることになる。

 側面から見ると、バンパーが唇のように見えることから、初代サンバーは「クチビルサンバー」との愛称を与えられた。なお、この「サンバー」は、スバルで最も長く使われるペットネームとなった。

 なお、1960年にはダイハツからは「ハイゼット」が。1961年にはスズキから「スズライトキャリィ(後のキャリィ)」が発売されている。血で血を洗う軽トラック同士の熾烈な戦いが始まったのはこの頃のことであった。

 中でも、低床タイプの構造を採用したサンバーは、半世紀もの後のウェルキャブ車の登場を見越したユニバーサルデザインな仕上がりとなっている。スバルの技術者の慧眼には驚かされるばかりである(これは嘘)

1966年 2代目サンバー


 1966年にモデルチェンジが行われ、2代目となったサンバー。「ニューサンバー」という通称が与えられている。驚くべきことに、この時代に既にオプションではあるが副変速機が採用されている。

 1970年3月には、R-2に搭載されるリードバルブ付きエンジンが搭載され、ダミーグリルが装着された「ババーンサンバー」が。1972年2月には、さらに大型化したダミーグリルを装着した「すとろんぐサンバー」が発売される。

 2代目サンバーと同じ1966年には、三菱が「ミニキャブ」の投入によって軽トラック市場に参入を開始する。

1969年8月 R-2


 1958年の登場以来、大ヒット車種となったスバル360。しかし、他メーカーの送り込む軽乗用車――特にホンダ・N360の登場によって販売に翳りが見え始める。そんなライバル車種たちに対向するために360の後継として登場したのが、このR-2である。

 空冷2気筒の2ストロークエンジンをRRレイアウトにマウントするところは360から変更せず、しかしてエンジンブロックにアルミ合金の採用や、ホイールベースの拡張によるさらなる居住性の確保などが図られている。1971年には、水冷式エンジン搭載モデルも登場することになる。

 R-2は発売から一ヶ月で2万6千台、総計29万台を売り上げることになったが、R-2が成功した車種であるかどうかについては賛否両論がある。この時代のクルマで、モデルサイクルが3年しかなかったという事実を考えると、どちらかと言えば不人気モデル扱いのようである。
 
 ……え? Nッコロが最近また登場しただって? またまたご冗談を~www

1972年7月 初代レックス


 短命に終わったR-2の後継車として作られたのが、このレックスである。レックスとは「王」を意味するラテン語である。ただ、この初代レックスは、完全な新車種というよりは、R-2のモデルチェンジ版に近い存在であり、事実として初代レックスはR-2の水冷エンジン搭載モデルをベースに造られたものであった。

 初代レックスは1981年に至るまで、実に9年に渡って生産されることになった。その間に受けた改良の数は非常に多く、1973年の2月には、スズキ・フロンテに先駆けて軽自動車ながらも4ドアセダンモデルが追加される。ちなみに軽の4ドアは、ホンダが既に初代ライフで1971年に発売済。初代ライフは、この時期で既にFFレイアウトや、タイミングベルト式のエンジンを採用するなど、時代の最先端を走る軽自動車であった。 それが今のホンダの軽と来たら

 1973年にはエンジンが、2ストロークから4ストロークSOHCエンジンに変更。1976年には、軽自動車規格の変更に則り、エンジンを360ccから550ccのものに変更。ボディも拡幅されることになる。

 この初代レックスの9年に及ぶモデルサイクルの中で、1979年にはスズキかは初代アルトが、1980年にはダイハツから初代ミラが発売されるなど、現代にも続く名軽自動車のほとんどが出そろうことになった。

1973年2月 3代目サンバー


 スバル360からR-2、そしてレックスへと至るモデルチェンジに沿って、サンバーも初代レックス登場に習って3代目へとモデルチェンジが行われる。力士の貴ノ花がイメージキャラクターとして採用されたこともあり、「剛力サンバー」の愛称を与えられる。

 3代目から、エンジンはもちろん水冷式2ストロークエンジンとなったが、4ストロークSOHCエンジンが搭載されるのは、1976年の2月を待つことになる。その3ヶ月後には、新しい軽自動車規格に対応するために、さらなる変更を行うことになる。

 サンバーにおいてはレックスほど車体改良に掛けられる時間は無かったようで、1976年5月の新規格化では、360cc仕様のボディをベースに車体を拡幅、排気量も500ccで対応することとなった。これがいわゆる「サンバー5(ファイブ)」である。だが、それも翌年には550ccとなり、「サンバー550」となった。

 この3代目サンバーでは、1979年にはハイルーフ仕様を。1980年には4WD車をラインナップに加えるなど、軽キャブオーバー初となる試みも行われる。

 また、1977年には、MRレイアウトを使用した軽トラックであるホンダ・「アクティ」が軽トラック界に殴りこみをかけてくる。以降、「農道のポルシェ」と「港のNSX」の血で血を洗う(ry

 有名な赤帽サンバーの開発が始まったのは、おそらくこの3代目あたりからと思われる。

1981年10月 2代目レックス


 1981年10月、続々と登場する強力なライバルたちに対向すべく、レックスが2代目にモデルチェンジ。初代と比較して最大の変更点は、伝統のRRレイアウトを2代目からはFFへと変更したことである。RRからFFへの変更は、当然のことながらキャビンのスペース向上へと繋がった。

 バン仕様には「レックス・コンビ」の名が与えられ、1982年にはフジサンケイグループとの提携による業界初の通信販売モデル「ディノス・レックス」も登場する。

 モデル途中で、4WD仕様やターボモデルも追加。さらには軽自動車初となるベンチレーティッド式ブレーキローターを採用するなど、走りを意識したマイナーチェンジが多く行った。さらには、女性をターゲットとして助手席に回転式シートを採用したレックスuやレックス・コンビiなども追加するなど、色々な意味で80年代の好景気の影響を受けて育ったクルマと言えるんじゃないでしょーか。

1982年9月 4代目サンバー


 1982年9月、4代目のサンバーが登場する。パワートレーンに関しては、特に大きな変更や追加はないが、4WDモデルのフロントサスペンションが、初代以来のセミトレーリングアーム式から、マクファーソン・ストラット式となる。

 ちなみに当時の軽トラのフロントサスペンション事情としては、ハイゼットトラックがダブルウィッシュボーン式(1981年まで)、アクティとキャリィが最初期からマクファーソン・ストラットであった。どちらかと言えば、サンバーにおけるサスペンションはいささか他社に遅れをとっていたとも言える。

 この4代目から、サンバーのモデル構成が非常に複雑なものとなる。まず、ワンボックスの乗用車仕様が「サンバートライ」となり、1987年には商用仕様が「サンバーバン」となる。さらに、1983年には1000ccの普通車仕様までもが登場しており、「ドミンゴ」となる。

1986年11月 3代目レックス


 時は既に昭和60年代に突入。3代目となったレックスである。女性向けモデルもきちんと抑えつつ、1987年にはツインのビスカスカップリング式フルタイム4WDシステムや、まだ世界的にも珍しかったECVTを搭載するなどの最新鋭の技術を投入する。特にECVTは、1984年に発売されたジャスティが量産車としては世界初の採用であった。

 1988年には軽自動車では初となるスーパーチャージャーモデルが追加される。さらに、1989年には、従来の2気筒エンジンから「クローバー4」と呼ばれる直列4気筒エンジンに変更。加えて1990年1月の軽自動車規格変更では、660ccとなり、自主規制馬力めいっぱいの64psを発揮するまでになる。

 これによって「アルトワークス」・「ミラターボ・アヴァンツァートTR-XX」「ミニカ・ダンガン」「レックス」と、過給機付64psエンジン+4WDの軽自動車ホットモデルが各社にズラリ。え? レックスだけ名前が普通すぎるって? それはまぁ1993年登場のアレを待てばいいじゃないかな?かな?

 ただ、この頃。スバルは創業以来の経営難に陥っており、倒産までもが噂されていた。そんなスバルを救ったのが、いわゆるレガシィである。マツダで言うデミオみたいもんやね。

1990年 5代目サンバー


 長かった昭和は終わりを告げ、時代は遂に平成へと突入。1990年1月、軽自動車規格が大幅に改定される。660cc時代の始まりである。それに適応する形で登場したのが5代目サンバーである。

 5代目サンバーにおいては、乗用仕様である「サンバートライ」のさらに上級グレードとなる「サンバーディアス」が登場する。このサンバーディアスにおいて特筆すべきは、1994年に追加されたレトロデザインのマスクを採用した「サンバーディアスクラッシック」であろう。

 ディアスクラッシックはヒット車となり、それを受けて実に多くのクラッシックスタイルの軽自動車が各メーカーから登場。レトロ風自動車のブームが訪れた。

 スバルも当然のことながら、ディアスクラッシック以外のレトロスタイル自動車を製造する。中でも最も成功したのは1995年に登場したヴィヴィオ・ビストロであろう。その一方で1998年に5000台限定で登場したインプレッサスポーツワゴンベースの「カサブランカ」は大爆死することになる。だが俺は大好きだぜ!

 なお、この1990年1月の軽自動車規格変更を受けて発売されたのが、1993年のスズキ・「ワゴンR」である。これまでになかったトール型軽自動車の登場は、以降の軽自動車のあり方を決定付けるほどのセンセーショナルなものであった。

 ワゴンRに負けじと、1995年にはダイハツが「ムーヴ」を。1997年にはホンダが「ライフ」を復活させる。三菱に至っては、1990年の段階で既に「ミニカ・トッポ」の投入を終えていたのである。

 しかしながら、スバルにおけるトール型軽の初登場は1998年のプレオであり、スバルは時代の潮流に随分と乗り遅れてしまうこととなる……

1992年3月 ヴィヴィオ


 レックスの後継車種として登場したのがヴィヴィオである。ヴィヴィオとは英語のvivid(活き活きとした~)からとられた造語であり、また、「660」をローマ数字に直した際の「ⅥⅥ0」とも掛けられているという。

 レックスから直列4気筒エンジンと4輪ストラット式独立懸架サスを受け継いだヴィヴィオは、軽自動車としては異例のことながら、世界最高峰にして世界最難関とされるサーキット、ドイツの「ニュルブルクリンク」で開発テストが行われた。

 並の自動車では一周することすら出来ずに分解してしまうといわれるニュルブルクリンク。そこで鍛えられたヴィヴィオの耐久性と頑強性は、レックスに比較してねじり剛性が1.5倍、曲げ剛性は2倍という、それまでの軽自動車の常識を覆すものでもあった。

 中でも、その最強モデルである「ヴィヴィオRX-R」は、軽ながらもDOHC直列4気筒エンジンにスーパーチャージャーを搭載、軽自動車自主規制の64psを搾り出す。RX-RにはFFに加えて4WDモデルも設定されており、FFであってもニュルを9分54秒台、筑波サーキットを1分13秒台で走行してみせるという脅威の走行性能を誇っていた。

 その4WDモデルにおいても、1993年に出場したWRC・サファリラリーにおいて、一時はサファリの名門であるトヨタワークスのST185型セリカGT-Fourを上回る順位で走行。出場した3台のうち1台が見事に完走、クラス優勝してみせている。

 他にも、峠道でFD3S型RX-7を溝落としで千切ってみたり。管理局の白い悪魔の娘になってみたりと話題はつきない。

 ヴィヴィオは間違いなく軽自動車史上における伝説の一台であった。だが、そんな中の1997年1月21日、スバル軽自動車生みの親である百瀬晋六が死去。ヴィヴィオは、百瀬が見送った最後のスバル製軽自動車となった……

1998年10月 プレオ


 1998年10月、またも軽自動車規格が改定される。今回の改訂では、軽自動車においても普通車と同じ衝突安全基準が義務付けられると共に、ボディサイズが全長が+10cm、全幅が+80cmの拡幅が許されることとなった。

 「さらに豊かに、そして完全に」という意味のラテン語から取られた名前を冠するプレオ。ヴィヴィオの後継として登場したプレオは、いち早く98年10月の新規格に対応する形で登場する。そしてまた、ようやくスバルの軽自動車にもトレンドであるトール型ワゴンタイプの軽自動車がラインナップされることとなったのである。

 とは言えスバルは、トール型軽において、ワゴンRやムーヴなどに既に大きなシェアを奪われてしまっているのも現実であった。プレオはこれらのライバルたちに対して「走り」での対抗を試みる。

 ワゴンRやムーヴ、ライフにおいては、直列3気筒エンジンや前輪ストラット・後輪トーション式サスが主流であったのに対し、プレオは全車に直列4気筒エンジンと4輪ストラット式サスペンションを採用する。過給機は、このタイプの軽自動車では唯一のスーパーチャージャーであり、ブレーキにおいてはフロントには全車ベンチレーティッド式を、スポーツグレードにはリアにディスクブレーキが奢られる。

 トランスミッションにおいても、他社が3速ATに甘んじてる中で、CVTを早くも採用するだけでなく、スポーツグレードでは7速マニュアルモード付きのi-CVTが搭載される。

 エクステリアにおいても、ディアスクラッシックやヴィヴィオ・ビストロと同じく、ヨーロピアンテイストのレトロマスクを持つ「プレオ・ネスタ」がモデルに加えられた。

 走りやデザイン以外においても、スバルの福祉車輌コンセプトである「スバル・トランスケア」も採り入れられ、電動リフト式のシートによって乗降を補助する仕様が、全グレードにおいて選択することができた。

 プレオは2009年に至るまで、なんと実に11年に渡って生産されることになる。2010年には“フルモデルチェンジ”敢行して2代目となるが、実際にはダイハツ・ミラのOEMであった……

1999年2月 6代目サンバー


 1998年の軽自動車新規格に適合する形でモデルチェンジが行われた6代目サンバー。

 初代サンバーから受け継がれてきた伝統のRRレイアウトによる安心と信頼のトラクション。軽トラック唯一の4輪独立懸架式サスペンションは、ドライバーに類を見ない快適性をもたらすだけでなく、貨物に対する衝撃をも大きく和らげ、商品を保護する効果をも併せ持つ。

 狭い日本の路地裏や、田畑のあぜ道でもスムーズな回頭を可能とする、軽トラック最短の小回り湯銭のショートホイールベース。高いアクセルレスポンスを持つ直列4気筒エンジン、過給機には、急激な荷重変動が起こりにくいメカニカル・スーパーチャージャーを採用……

 そんな絶大なユーティリティとリライアビリティから、サンバーは少数ではあっても確実な支持と信頼を受けることになってきた。中でも、 超絶ブラックとして有名な 赤帽(全国赤帽軽自動車運送協同組合連合会)によって、赤帽正式専用車輌として採用されているのは有名であろう。

  その一方で、整備性の悪さとか、スバルの軽にありがちなエンジンオイルの漏洩だとか、長大な冷却系パイプによる配管の詰まりとかがあるのは口に出してはいけない。いいか?絶対にだぞ!

 この、熟成に熟成を重ねた6代目サンバーの生産は、13年もの長期間に及んだのである。

 だが、2008年。そんなサンバーも、スバルとトヨタとの提携の中で交わされた富士重工の軽自動車撤退のあおりを受け、生産中止が決定されていた。そんな中でスバルは2011年7月27日、サンバー発売50周年記念特別仕様車である「WR BLUE LIMITED」を発売する。

 これは、スバルがWRC参戦で培い、スバルのイメージカラーとなっていた「WRブルー」色によって塗装されたサンバーを、1000台限定で販売するというものであった。 ただし、その時点でスバルはWRCからはとっくに撤退していたし、塗装の質もあまり良くなかったり、肝心のスーパーチャージャー仕様が選択できなかった微妙仕様だったのはナイショ

2003年12月 R2


 2003年にスバルが送り出した5ドアハッチバックの軽自動車、それがR2である。

 R2という名称は、『R2というシンプルで響きの良い記号的な名称によって、従来のミニカーとは一線を画する新たな価値観を表現しています』とスバルは述べている。

 かつて存在した「R-2」を彷彿とさせるネーミングに合わせて、航空機を想起させるフロントグリルデザインは、中島飛行機から続くスバルのモノづくりのスピリットの意思表示であるとかなんとか。なお、こちらのR2はハイフンは要らない。 ついでにMR2とレクサスLFAにもハイフンは要らないと主張し続けるのにも、もう疲れました……

 R2は、その丸みを帯びた可愛らしいエクステリアデザインから分かるように、女性をターゲットとして造られたものである。アルトラパンとかミラジーノみたいなクルマに対抗したかったんじゃないでしょーか? イメージキャラクターとして、木村カエラだとか沢尻エリカだとか観月ありさだとかの女性芸能人を起用したそうですが、芸能にカケラも興味の無い霧島には何のことだ全ッ然わかりませーん。

 だが、このR2は見た目だけのクルマなんかじゃないんだぜ? エンジンは当然直列4気筒エンジンで、スーパーチャージャーも設定。サスはもちろん4輪ストラット。駆動方式はFFに加えてAWDもアリ。さらにトランスミッションは、5速マニュアルか、7速マニュアルモード付きのi-CVTのどちらかという男仕様だ!

 まぁ、売れたのかどうかはお察しください。

2005年1月 R1


 R2の姉妹車として登場したのがこのR2。コンセプトカーの段階では電気自動車だったのに、やっぱりガソリンカーになっちまったぜ!

 5ドアハッチだったR2を、ホイールベースを短縮して3ドアハッチに変更。スバル360の愛称であった「てんとうむし」になぞらえて、「NEWてんとう虫」というキャッチコピーが使われた。

 どうみても女性向けのシティコミューターなのに、R2譲りの足回りだとか64psを発揮するエンジンだとか、軽くなったボディ&短くなったホイールベースによって、さらに過激になっちまったぜ、ヒャッハー! ついでにR2の方がR1より先に発売されたんだぜ?

 売れたかどうか?もう許してやれよ! まさかコペンに対抗したかったんじゃあるまいな!?

 なお、このR1。STiの「仙人」こと辰巳栄治・元STi社長の愛車でもある。

2006年6月 ステラ


 いささかやりすぎてしまった感のあるR2の反省を活かしたのかどうかは不明だが、R2のプラットフォームを使用して作られたトール型軽ワゴンが、このステラである。一応はプレオの後継という扱いであったが、発売後しばらくはプレオと併売されていた。 ステラって聞くとフォウ=ムラサメ的な最期を迎えそうな気がするねぇ。

 このステラも女性をターゲットとしたが、 さすがにスバルも懲りたのか R2と異なって単なるデザインだとか走り重視とかなのではなく、「女性が望むユーティリティ」をアンケートから割り出して、「ベビーカーを載せやすい」だとか「チャイルドシートを装着しやすい」等々を考慮して設計されることになった。

 このあたりのマーケティングは実にトヨタっぽいよねぇ。ていうか、言われなくてもそうすべきだったんだよ常考……。技術者の独りよがり的な自動車開発は、会社を傾けることすらあるんだよ……ホンダさんやら日産さんやらマツダさんが先例を示してたし、スバルさんだってそうだったじゃない……

 とは言っても、キチンと4輪ストラットだとか直列4気筒エンジンだとかスーパーチャージャーだとかを抑えてくるのはさすが。さらには途中からWRブルーカラーのモデルまでもが加わった!

 さらにさらに目玉として、電気自動車仕様の「プラグ・イン・ステラ」の開発まで行われていた。一説には、このPIステラは、三菱の「i MiEV」以上の性能を持っている電気自動車とも言われていた……いわれていたのだが……結局は……

 2011年3月、初代ステラは生産を終了する。代わる2代目ステラの座に着いたのは、OEMされたダイハツ・ムーヴであった……


~スバル製軽自動車の終焉~

 西暦2005年10月、スバルの運命を決定付ける重大な出来事が起こる。米国ゼネラルモータースは、GM社の保有する富士重工株式を売却することを決定したのである。そして、その内の多くはトヨタ自動車買い取ることとなり、これによってトヨタはスバルの筆頭株主となる。つまり、実質的にスバルはトヨタ連合傘下に入ることが決定したのである。

 ちなみにこの頃、トヨタでは「レビン後継」と噂されるライトウェイトFRスポーツカー開発計画を行っており、開発陣は「水平対向エンジンが使えたら……」と考えていた。その中でのトヨタ・スバルの提携発表であり、まさに渡りに船の提携であった。その結果生まれたのが86&BRZである。

 水平対向エンジンと、世界屈指のAWD制御テクノロジーなどの独自であり独特の技術を保有していたスバル。だが、軽自動車においてはそうは行かなかった。トヨタグループには既にダイハツという軽自動車のトップクラスのシェアを誇るメーカーがあったのである。すると、同じトヨタ傘下内で、スバルとダイハツの間で軽自動車のシェアの奪い合いが起きてしまう……

 ダイハツのクルマ造りは、世界でも屈指のレベルであった。軽自動車において随一の耐久性と信頼性を誇るダイハツ。その小型車開発のノウハウは、トヨタが頼りにするほどであり、現に大ヒット車種となっていたヴィッツなどは、ダイハツの功績による部分が大きかった。

 確かにスバルの軽自動車は、非常に優れた性能と技術を持っていたのも事実。だが、トータルで見た時、ダイハツ製軽自動車は、さらにその一枚も上を行くのもまた事実であった……。RRレイアウトも四輪独立懸架式サスペンションも、軽自動車においてはディファクト・スタンダードたりえないのだ。

 ――結果。2008年4月10日、スバルは軽自動車からの撤退を発表する。それは、スバル360が発売されてから50年目にあたる年でもあった……。

 プレオ、R2、R1、ステラ……次々と消滅して行くスバル製軽自動車たち。そして来たる2012年2月28日、遂に最期のサンバーが、群馬県太田市のスバル群馬製作所から送り出されていった。これにより、スバルは自社の軽自動車の製造を全て終了することになる。スバル360以来、スバルが生産した軽自動車は、800万台に及ぶという。

 ここに、スバルの54年に及ぶ軽自動車の歴史は、幕を閉じた。


~スバルの軽自動車撤退の意義と意味~

 さて、下記は去年の5月頃に書いたことの再掲載となる。

 スバルという自動車メーカーを考える時、思い浮かぶのがイギリス車の話である。ジャガー、ランドローバー、モーリス・ガレージ、モーガン、ロータス、ケータハム、ベントレー、ミニ……。かつてのイギリスには、数多くの自動車メーカーが数多く存在した。

 イギリス車の特徴としては、日本のトヨタや日産と言ったように大量生産を行うメーカーがほぼ皆無であったことが挙げられる。その代わり、非常にユニークで個性的なクルマを小規模生産する工房的なメーカーが無数に存在したのである。

 「量より質」。「儲けより個性」。イギリスの自動車メーカーとは、「それでよし」とするメーカーばかりだったのである。

 イギリスには、FRPモノコックのクルマや、木製自動車などが存在した。ミニによって世界にFF車の威力を知らしめたのも、イギリスである。かつては、絶対的な速さは欠いても、走っていて楽しい小粋なオープンカーを数多く存在しており、それが原点となって生まれたのがマツダのユーノスロードスターというクルマである。

 ……だが、それらのイギリス車メーカーは軒並み消滅してしまった。たとえ生き残っていても、中国やアメリカなどの海外資本によって買収されてしまっている。現在、純粋なイギリス発の自動車とは、皆無に等しい。

 なぜこうなってしまっただろうか? その第一の理由としては、品質の問題がある。イギリス車には確かに個性的なクルマが多かった。しかし、その品質においては目を覆うものがあったのも事実。

 雨漏りは標準装備であるし、脆弱な接着剤によって内装は脱落、エンジンルームのスポット溶接までもが剥落する……。これは何も、太古のブリティッシュレイランドの話ではない。1990年代から2000年代にかけての話である。

 「友人を失いたかったらクルマを売れ」、などということわざのあるイギリス。そのような品質のクルマが、国際競争の時代において生き残れるはずもなかったのである。

 そしてイギリス車没落の第二の理由として、国内に競争相手が多すぎたことがある。つまり、身内同士での争いが熾烈すぎて、世界で戦える大企業が育たなかったのだ。ここにこそ、スバルの軽撤退の意味と意義が見出せるのだ。

 日本には、品質・信頼性・生産能力などのどれをとっても優秀な自動車メーカーが数多く存在する。いや、多すぎるのだ。トヨタ・日産・ホンダ・スバル・マツダ・ダイハツ・三菱・スズキ・いすゞ・日野……。各メーカーに各々の技術と個性があり、日本車市場はまさにガラパゴスである。

 自動車産業とは、あらゆる工業・産業の集大成である。そして、自動車会社が発展すると言うのは、国全体の工業産業と経済が発展するのと同義なのだ。そして、その逆もまた然りで自動車産業の衰退は国全体の衰退を意味するのである。

 だからこそ、戦前から豊田喜一郎は国産自動車の重要性を説き、日本が産業工業の二等国に、欧米産業の奴隷国家にならない為に、国産乗用車開発に命を賭けたのである。だからこそ、戦後、通産省の佐橋滋事務次官は国産車の発展のために奔走したのである。。

 果たして、今のトヨタマンのどれだけがそれを理解していることやら……。まぁ戦後間もない頃、日銀のそーさいが、「日本には乗用車なんて必要ねーぜー」なんてほざいてましたけど、今も昔もエライ人は変わりませんな。それに流される国民性も変わりませんが。

 ……これからの時代。安い(だけが取り柄の)中国・韓国車の台頭で世界中で自動車メーカー同士の大戦争が始まるだろう。それだけではない。ドルの失墜、空中分解寸前のユーロ、バブル崩壊の兆しが見える中国。相変わらずキナ臭い中東事情、暗躍する石油連盟、東日本大震災とエネルギー転換、原子力と火力。遂に始まったメタンハイドレード採掘……

 まさに世界は一触即発の状態。いつ世界同時恐慌や第三次世界大戦が始まってもおかしくはない。そんな中で日本と日本車が生き残ってゆくためには、あまりにも多すぎる自動車メーカーと車種の整理統合を行って身内同士での争いを避け、国際競争力を高めてゆくことが必要不可欠なのだ。それに失敗したのが、大英帝国なのである。

 現在では、トヨタ・スバル・ダイハツ・いすゞのトヨタ連合。フォルクスワーゲンとの提携に失敗したスズキ。いまや親会社のフォードを養ってあげてるマツダ。ルノーの言いなり日産。意地と反骨のホンダ。もはや、やる気があるのか分からない三菱。

 おそらく日本車は、トヨタグループと、日産グループの二つに大別されることになるだろう。ホンダは、おそらくどことも提携しない。そして、自社グループ内での車種の整理を行ってゆくことになる。その一歩が、スバルの軽自動車撤退なのだ。

 スバルは確かに優れた技術と個性を持つメーカーである。しかし同時に、大量販売力や生産力、絶対的な耐久性や信頼性については、いささか劣っていると言わざるをえない。これはどこか、かつての英国車に通じるところがないだろうか?

 軽自動車のノウハウや販路に関して言えば、ダイハツがトップクラスである。10年落ち10万kmの中古車に乗ってみればいい。ダイハツの軽が、スズキやホンダ以上の品質と耐久性を持っていることがハッキリ分かると思う。ならば、軽はダイハツに任せて、スバルはスバルの得意分野を伸ばしてゆくしかない。

 スバルに「軽自動車をやめないで!」と言うのは簡単である。「トヨタのせいだ!」とトヨタを叩きまくるのも簡単である。だが昔、イギリスにはスバルのようなユニークな中小メーカーが山のようにあったのに、全部無くなってしまったという過去があるのだ……

 誰よりも断腸の想いであるのはスバル自身に決まっている。スバルがこれからの時代に生き残って行こうと思うなら。軽自動車を切るのは20年、30年先を見越した大英断だと思うよ……

 数多の星々の中にあっても、キラリと輝く六連星。

 スバルにはこれからもがんばって欲しいし、トヨタとダイハツは、そんな健気なスバルを大事にしてあげて欲しいですな。

Posted at 2012/03/04 13:42:35 | コメント(6) | トラックバック(0) | 自動車 | 日記

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