2013年09月17日
本日、2013年9月17日 午前4時32分。トヨタ自動車最高顧問・豊田英二さんが帰幽されました。享年100歳とのことでした。
豊田英二さんは1913年(大正2年)、現在の名古屋市西区堀端町にあたる、西春日井郡金城村生まれ。発明王と呼ばれた豊田佐吉の甥にあたる方で、トヨタ自動車創業者である豊田喜一郎とは従兄弟の間柄となります。
1936年、英二さんは東京帝國大学卒業後、豊田自動織機に入社。翌1937年、豊田自動織機の自動車部に配属されることとなりました。この豊田自動織機自動車部こそが、現在のトヨタ自動車の起こりなわけです。
自動車とは、あらゆる分野の工業・産業の技術の集大成となるものです。即ち、自動車を自国で開発できるということは、その国の工業技術力が非常に高いレベルにあることであり、自動車の開発は、その国の工業・産業のレベルを底上げすることにも繋がるものでした。
また、1936年当時。変動する国際情勢の中において、自動車という工業製品の重要性が軍事的側面からも議論・認識されるようになり、政府は自動車製造事業法を制定。国産自動車の開発・製造と、国産自動車メーカーの育成を図ります。そして、この自動車製造事業法の中で、二つの会社が国産自動車メーカーとして許可されることとなりました。その一つは日産自動社、そしてもう一つが豊田自動織機・自動車部でした。
日産と豊田自動織機・自動車部は、各々異なる性質を持つ会社でした。日産自動車は、多くの資本家が資金を出し合うことによって設立・運営される公の会社で、国策企業と呼んで差し支えない会社でした。一方で豊田自動織機は、豊田喜一郎らによって設立された完全な私企業でした。以来、トヨタ自動車は、強い信念を持つ豊田一族によって経営されることになります。
特に、豊田喜一郎が国産自動車の開発に馳せる想いは並々ならぬものがあり、それに魅せられて多くの資本家や技術者が豊田に集うこととなりました。その中の一人が、トヨタ自動車伝説の人物の一人であり、国産乗用車第一号とされる初代クラウン開発リーダーとなる中村健也主査です。
第二次世界大戦が勃発する中、豊田英二さんは中村健也と共に、トヨタの生産ラインの整備、技術力の向上を図るために東奔西走することとなります。それらは、当時のトヨタからすれば明らかに過剰な質と量を求めるものであり、現場からは疑問の声も上がったと言います。ですがそれらは全て来るべき国産乗用車の開発・量産を見据えたものでした。
1945年の大戦終結後、英二さんと中村健也は国産乗用車の開発に再着手。その中で作られた2000tプレス機は、その後50年以上にも渡ってトヨタのものづくりを支え続けることとなります。
1953年には、トヨタ取締役となっていた英二さんは、国産初の乗用車となるクラウンの開発にあたり、新たな役職を設定することを決定します。それは「主査」と呼ばれる役職でした。
自動車の開発にあたり、一人の人間に、あらゆる部署を超えた多大な指揮権と決定権を与える。これが主査制度であり、今なお続くトヨタの自動車作りの最大の特徴と呼べるものでした。そして、その主査第一号に任ぜられたのが、ほかならぬ中村健也でした。 これにより、1955年、トヨタ自動車は見事に国産乗用車第一号となる初代クラウンを完成させることとなりました。
その後も英二さんは、トヨタの生産力と品質の向上に尽力し、1967年10月にはトヨタ自動車5代目社長に就任。以後、14年と9ヶ月に渡って社長を務めることになります。1982年6月まで社長を務めた後は、トヨタ自動車会長として、トヨタのものづくりに心を砕くこととなりました。
そんな英二さんが開発を後押ししたトヨタ車の一つが初代MR2でした。

1979年。当時、社長であった英二さんは、製品企画室の主査全員を集めて、異例のスピーチを行ったといいます。テーマは「トヨタの現状」について。その中で英二さんは、主査たちに次のように述べたそうです。
「従来の発想では考えられないようなコンセプトの車輌が、将来のトヨタにはあってもよいのではないか――」
オイルショックや日米貿易摩擦、環境問題……これらの多くの難題をクリアし、飛ぶ鳥落とす勢いであったトヨタ自動車。その品質と耐久性は既に世界第一と呼んで差し支えのないものでした。一方でその反面、「トヨタの車には個性がない、面白みがない」などと揶揄されていたのも事実であり、英二さんのスピーチは、そんなトヨタの現状と未来を憂いてのものでした。
そんな英二さんの期待に応えたのが、吉田昭夫主査。吉田主査は、自らの北米滞在での経験を活かして、一台の車を作り上げることとなります。それが日本初のミッドシップカーとなった初代MR2でした。
初代MR2のラインオフ式典には、トヨタ会長となっていた英二も足を運び、自らテープカットを行いました。このようなことは、極めて異例のことであったと言います。

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初代クラウン以後、トヨタは世界への進出を目論見、北米へのクラウン輸出を開始します。しかしその結果は散々なもので、アメリカ市場におけるハードユースに脆弱なトヨタ車は耐えることができずに故障や不具合が頻発。クラウンは這う這うの体で北米市場から撤退を余儀なくされることとなります。
それより昔の戦前において、トヨタがまだトヨダと名乗っていた時代。トヨダはシボレー製エンジンを参考にしたA型エンジンを開発、それを積んだG1型トラック、AA型乗用車を発売していましたが、これも故障や破損が多発し、連日のようにマスメディアによって非難、中傷されていました。
ですが、昭和の終わり頃にはトヨタ車の信頼性は世界で他の追随を許さないものとなり、世界中を日本車が……トヨタ車が席巻するまでになりました。これらは亡くなった豊田英二さんが苦渋と辛酸を舐め、粉骨砕身の努力で作り上げた実績であります。今の日本は豊田英二さんなくしてはありえませんでした。
今や世界一の自動車となったトヨタ車。日本人なら、これに疑問を抱く人は少ないと思います。ですが2010年代に入り、その裏側で……経営のワンマン化によって、これまでの自動車づくりに狂いが生じ、トヨタ最大の武器であったクオリティコントロールまでもが著しく低下しているとまで言われています。あるトヨタ役員は「今後10年はリコールが多発する」とまで危惧しています。
……トヨタは、豊田一族の強い信念によって導かれ、大成功を収めた会社です。そして、トヨタ中興の祖として現在の地位にまでトヨタを押し上げたのは、紛れもない豊田英二さんでした。
豊田喜一郎、豊田英二、中村健也、長谷川龍雄、揚妻文夫、和田明広……トヨタと日本車を作り上げてきた彼らが、その背中で後世に語り継いだ「ものづくり」の心は、今なおトヨタと日本の「ものづくり」の中に深く根付き、永く生き続けているのでいるのでしょうか。それとも――
最後に。謹んで、豊田英二さんのご冥福をお祈り申し上げます。
Posted at 2013/09/17 19:50:57 | |
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