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すた☆君のブログ一覧

2019年03月22日 イイね!

垂井町に可愛いカフェを見つけました。

垂井町の花屋さんがやっている カフェシュクル へ、友達と訪れました。

国道21号線ヨシズヤさんの東の交差点から斜めに入って少し進んだ右側になります。

駐車場も広かったです。

花屋さんがやっているだけあって、ガーデニングが西洋風でお洒落で、ああいう庭がうちにもあったらいいなあと思わされました。

建物の中もとても可愛くてよかったんで、また行きたく思います。

お近くの方、こちらに来られる方に、お勧めです。

ただし、時々臨時のお休みがあるので、事前に電話確認した方が無難です。

食べログ カフェシュクル
https://tabelog.com/gifu/A2101/A210104/21015512/
Posted at 2019/03/23 08:23:36 | コメント(0) | トラックバック(0) | カフェ | グルメ/料理
2019年03月21日 イイね!

町内会の偉そうなおっさんに反論したった

私今年、町内会の役員に選ばれました。

今日は町の神社のお祭りだったんで、朝から準備に追われていました。

神様をお迎えするための準備と式典、餅牧の櫓の組み立て、鏡餅の配布、それらの片づけなどでした。

餅牧の櫓を組み立てるときに、櫓の上に登っていた時の事でした。

上で垂れ幕をしばろうと、短く切られたビニールひもを持っていると、

真下にいた一回りぐらい年上のおっさんに

「くくれ!!」

と突然大声で怒鳴られ、命令されました。

私は別に皆さんを無視して上でぼーっとしていたわけでもありません。

この人はいったいどんな権限を持って、こんな発言をしているのでしょうか。

自分はいったい何様だと思っているのでしょうか。

偉そう極まりありません。

私は大変な憤りを感じました。

作業を終え、一段落して、みんなが櫓の周りで休憩しているときに、このおっさんのところへ歩いていきました。

こういう人間は、調子に乗るとどんどん付け上がってきます。

最初にガツンとハッキリ言ってやった方がいい。

おっさんのところへいって、そのことをおっさんに説明して、言いました。

すた   「そういう言い方、やめてくれませんか?」

おっさん 「っ、へえっ!!」

おっさんは、そう一言いうと、私と反対の方向へくるりと振り向いて、顔を背け、その場を去りました。

悪いと思っていないようです。

他の人にもいろいろ頼まれましたが、誰も偉そうな命令口調では話しませんでした。

こういうしゃべり方をする人がいるから、町内会もやる人が減っていくんです。

自覚てほしいものですが、歳が歳だけに、もう無理でしょうね。

今度何か言ってきたら、通報しようかと思います。
Posted at 2019/03/23 09:04:18 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記
2019年03月17日 イイね!

田原城址 「家康が引き渡された城」

前回のブログ「愛知県田原市 浦町大谷吉継の歴史の史跡巡り」の続きになります。

浦町を出発し、次の目的地 田原城址へと向かいました。

田原城は昔はお城の際まで海が来ていたそうで、やはりこの地域は隔離された地形だったようです。

落人を匿う事ができるという村というのも納得できます。


田原城址とロド


一万石ちょっとの大名の城と聞いていたのでそんな大きくないかなと思っていましたが、意外に大きくて立派で驚きました。


天守への登り階段には野面積みが見えました。

戦国時代をイメージさせられ、ワクワクしてきます。

野面積み

天守の横の明らかに切り取られた深い空間。

いやあ、いいですねえ、こういう景色、大好きですよ。

これを人の力で掘ったって、凄いですよね。


堀切


天守跡には大きな博物館と小さな史料館があり、大きい方は「渡辺崋山の絵」がメインでした。

渡辺崋山は、田原城主の家老で、若い頃家計を助けようと絵を習っていて、開国について主張していた内容が幕府に嫌われ、蟄居させられ、蟄居中に生活費を稼ぐために絵をかいていたら「反省の色がない」と注意され、家族に迷惑がかかると心配して自害をした人物らしいです。

田原市には渡辺崋山が自害した場所が今でも残っています。

恐ろしいですよね。

でも、こういう勇気ある人たちのおかげで、今の新しい時代があるんですよね。


因みに、小さい史料館は、戦国時代と旧石器時代の史跡で、私、こちらの方が好きでした。

甲冑とか田原城の模型がありました。



内堀


田原城を造ったのは 戸田宗光(全久)で、その後の城主 戸田康光の時にある事件が起きました。

戸田氏は今川氏に属していたんですが、戸田康光は裏切り、人質としてとらえていた松平竹千代(のちの徳川家康)を、今川氏ではなく、織田信秀(信長の父)の元へ送ってしまいました。

それで怒った今川義元は、田原城を攻撃し、落城、戸田康光は討ち死にしました。

1547年です。


桶狭間の戦いの後、

田原城は吉田城主 酒井忠次、池田輝政の指揮下となり、江戸時代は再び戸田氏が入りました。

江戸時代の大垣城主が戸田氏なので、繋がりがありそうですね。




田原城址の石碑


何のご縁か、浦町の大谷吉継の史跡と同様に、田原城も、私がメインとしている 「関ケ原合戦の参戦武将の史跡巡り」 となりました。

面白いものですね。





桜門とすた


建物類は、昭和になってからのものですが、石垣等は戦国当時からのものでした。



お堀には大きな鯉が泳いでいました。


本丸跡の石垣が近代ビルとつながって、トンネルになっていました。

これ、たぶん本物の石垣を固めたんでしょうね。

なんというか、もったいないというか。。。



近代ビルと石垣が合体


櫓も昭和の建物ですが、当時の大きさがうかがえ、面白かったです。

石垣の色が真ん中から違っていたのもユニークでした。



二の丸櫓

田原は石灰岩が産出されるので、田原城には石灰岩が使われているそうです。

地域性が面白いです。

本丸跡の前に中学校のグラウンドがあり、モロ石垣の上にあったのがとても印象的でした。

田原の史跡は驚きだらけです。



お城を出て、ランチへと最初の待ち合わせ場所に戻りました。

雨が降っているにもかかわらず、広い駐車場はほぼ満車でした。

ここの道の駅は最近リニューアルしたばかりで、大人気だそうです。

ランチはずっと節約してきたので、一番豪勢なメニューを注文しました。


大アサリ定食

実はちょっと気になっていた「大アサリ」を初めて食しました。

渥美半島は貝がとても美味しいと評判だそうです。

ごちそうさまでした。

(-人ー)



終わり。
Posted at 2019/03/17 16:37:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | 徳川家康 | 日記
2019年03月17日 イイね!

大谷吉継の史跡巡り 「愛知県田原市~大谷一族の子孫たちに愛されている史跡たち」

前々回の「ロードスター車中泊」の続きになります。
^^;

この日の目的地、愛知県田原市、渥美半島にやってきました。

今日は、「浦町大谷吉継一族の歴史」について研究をしている、浦町大谷一族の子孫の友人が、大谷吉継ゆかりの史跡を案内してくれます。

「道の駅めっくいんはうす」で無事に合流、さっそく史跡へ移動です。

今回は、田原市の浦町 という地域にある、「浦町大谷吉継続家の史跡巡り」になります。



車で15分ほど走ったところで、最初の目的地に到着。


八幡社 ロド


うーん、この神社の造り、お城っぽいなあ。



神社周り 


まるで山城みたいな。。。


はい、本題へ入ります。


ここ八幡神社には、大谷吉継の名前が刻まれた石碑があります。

なんでこんなところに出てくるのでしょうか?



鳥居


こんなにしめ縄の位置が低い鳥居、珍しいですね。



石碑手前


はい、これがその石碑になります。



石碑 全体


注目すべき文章が、後半に刻まれています。




石碑 ピックアップ


「文禄慶長(朝鮮出兵)の頃 越前敦賀の城主 大谷刑部 関ケ原の合戦 に敗れ自害する。

その時に 家臣の 大谷刑馬 一族郎党を率い 御神体 を奉持して 浦町 に 居住する。」




では、この大谷刑馬(おおたに ぎょうま)とは 何者なのでしょうか。

古文書が残っていないので彼が何者かは分からないそうですが、大谷吉継とゆかりの深い人物には違いないそうです。

刑馬という名前も、刑部に似ています。

きっと何か繋がりがあるのでしょう。

古文書がないゆえに、田原市も大谷一族に関する史跡等を町の歴史としては認めていないそうです。

家系図は幕末にあったそうですが、仲良くなったお侍さんが持ち帰ってそれっきりだそうです。

しかし、浦町の子供たちが昭和の初期頃によく歌っていた歌 「童浦かぞえうた」には

「九つ 古墳のこうじんは 大谷よしたか 祭りたり」 という歌詞があるそうです。



浦町 は、戦国時代のその前から、落人の村 として知られていたようで、昔は 訪れにくい 分かりにくい 地域だったそうです。

関ケ原合戦の20年ぐらいあとに、彼らはこの村にたどり着いたのでは とのことでした。




はい、では次に、ご神体を祀る祠へ移動します。

駐車場がないとの事で、畑の道や山の横の道をしばらく歩きました。

ブロッコリーの畑や、菊のビニールハウスがたくさんあり、初めて見るものばかりでとても新鮮で、気持ちのいい散歩でした。


祠は農家の家々のわき道をどんどん入っていった一番奥の山際にありました。

これは、友人と一緒でなければ入れません。

不審者と間違われます。

(><)



「荒神神社(大谷神社)」





これは、浦に落ち延びてきた大谷一族が、吉継を祀るために江戸時代に建立したそです。



祠手前

見た目には何を祀っているのか分かりませんが、祠の左右の石碑には、大谷さんの名前がたくさん刻まれていました。

おそらく 数百年にわたり、名前を隠して守ってきたのでしょうね。

毎年2回お祭りをしているそうです。




ここを離れて、またしばらく歩きました。

次の目的地には、大谷吉継が朝鮮出兵から持ち帰ったシジの実が大木になって今でもあるとの事。

この木を見ることは念願で、今回の旅行で私が特に楽しみにしていた事の一つです。



事前にグーグルマップで調べていたので、全く同じ景色が見えてきました。

今の時代って、凄いですよね。



墓地の全体


墓所へと通じる道です。







これをしばらく登ると、道の中腹の右側に、真ん中から斬られた木があり、それがそうです。

お墓参りに邪魔なほどに大きくなったから、斬られたとか。


シジの木


大谷吉継は朝鮮出兵で飢えをしのぐために、「シジの実」を食べていて、それを日本に持ち帰り、「一族の命を救った宝」として大切に育てていたそうです。

関ケ原合戦の時は、大谷吉継は自害する直前に、そこへ シジの実を土の中に押し込んだそうです。

シジの木は日本ではとても珍しい木なので、関ケ原にシジの木が生えているところがあれば、そこが大谷吉継が自害した場所 という事になります。

今後、注意して探してみようと思います。

ただ、僕も正直この木を直接見ても、どこを特徴として探していいのか分かりません。

もしかしたら、日本一の植物学者の牧野富太郎が作った植物大図鑑には載っているかもしれないので、今後そちらを調べてみようと思います。

因みに「シジの木」は「椎(シイ)の木」ではありません。

「シジの木」をネット検索してみましたが、全く出てきませんでした。

日本ではとても珍しい木です。



余談ですが、以前、この町から関ケ原に来た人がいて、私がいつもの調子で大谷吉継の涙の最後のお話をしてみんな去っていたあと、ふらりと僕の真横に来て、

「渥美半島に大谷吉継が生き延びたって知っている?」と言ってきました。

物語を根本的にぶち壊そうとしていました。

すた 「本人じゃないでしょ? 子孫でしょ? 家老か身内の大谷刑馬でしょ?」

その人は、ちょっと教育してやろうという感じで話してきましたが、私はすでに友人から教えてもらって勉強していて知っていたので、「なんで知っているの?」と驚いて、目が点になっていました。

その人が「シジの木」をしきりと「椎(シイ)の木」と連呼していたので、その間違いにも気づけました。

「椎の木違いますよ、シジの木ですよ。」と、思わず言い返してやろうかと思いました。

最後「知っているの!? 本当に!?」と驚いて去っていきました。

撃退できたのは、友人のおかげです。

はい、では話を戻します。



道を抜けたところにお墓がたくさんあり、その一番奥に 「大谷吉隆のお墓」があります。

大谷吉継は関ケ原合戦で、不幸な死に方をした同じ名前の人物 三好吉継と同じ名前という事を嫌って、吉隆と名前を変えました。

だから、吉継(よしつぐ)⇒吉隆(よしたか)となっています。


大谷吉隆 供養のお墓


このお墓は大正時代に、浦町の人々が、気軽に大谷吉隆を祀れるようにと建てられたものだそうです。

墓石に刻まれている戒名ですが、「院殿」というのは、仏閣の建立者、大名、または戦国武将クラスの人物でないと授けられないそうです。

 吉 峰明 隆 に、吉隆の文字が刻まれているのがわかります。


違い矢

これは大谷吉継の「違い鷹の羽」の家紋と少し違います。

正体がばれないように少し変えたものと考えられるそうです。

大谷一族も明治に入るまで「大屋」と名前を変えていたそうで、明治政府による苗字御免の際に再び「大谷」に戻したそうです。


お墓詣りを終え、再び山道を通っていると、シジの実を見つけました。

友人も、シジの 実 を見つけたのは初めてだそうです。


シジの実

親指サイズのとても小さいものでした。


友人が「食べようか」と迷っていたので、「救急車を呼ぶかもしれないのでやめとこう」と止めました。

伝承によると食べれるはずなんですが、やっぱり、ね。

(笑)


実はそのままにして、墓所を後にしました。





ガードレール下に花

田原市は花の町で、沿道に花畑をたくさん見ました。

こういうのって、いいですよね。

心癒されます。


次は、最後の史跡になります。

大谷家のもっとも古い記録が残されていたお寺です。

1639年だそうです。

関ケ原合戦の直後に移住じゃなくて、大坂の陣のあとに、伊勢から船で移住じゃないのか? が、友人の考えです。


最初に出てきたお寺  西光寺



一通り見たので、車へ戻ることにしました。

この電柱、完全に埋められていますね。

これも凄いですね。



電柱埋もれた



最期に大谷吉継の子供たちですが、次男頼継は関ケ原合戦に参戦後、敦賀で病死という話が一般的だけど、実は田原に移住してて、その子孫が現在に至る というお話や、

木下頼継の子孫が大谷刑馬で、その子孫が現在に至る というお話とか、いろんなお話があり、

まだまだ魅力の尽きない地域であることは違いありません。


田原市の史跡巡りですが、このあと、田原城へ行きました。

それはまた、次回へと。


戦国史跡巡りですが、以前ほど多くありませんが、ボチボチ続けていますんで、また紹介したいと思います。

では。

^^


*上記の内容の紹介については、友人からブログに載せていいとの許可を得ています。
Posted at 2019/03/17 11:26:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | 大谷吉継 | 旅行/地域
2019年03月16日 イイね!

関東2週間大旅行 第六話 「中休みの一日~埼玉イオン・レイクタウン」

旅行六日目、元旦になります。

日本一大きなショッピングモール 埼玉の「イオンレイクタウン」の二日目です。

正月の朝なので、お昼近くまでホテルでくつろいでいました。

今日は旅行の中休みです。


「モロゾフ」の いのししチーズケーキ

昨夜レイクタウンで買った料理とデザートで新年を祝いました。


おせち料理 たい

今日は、昨日と違う道で駅へと歩きました。

すると、南越谷阿波踊りを始めた人が建てた企業のビルがあり、驚きました。

「結構、町の真ん中にあるんだな。」


ビルとすた


お世話になった故郷 徳島 へ 感謝の気持ちを込めて始めた 南越谷の阿波踊り。

同じ故郷を持った人として、より一層、感慨深いものがありました。


石碑


嬉しいですね。




プリキュアカフェ

レイクタウンの駅からの入口にありました。


入ってはいませんよ。

(笑)


元旦のお客さんはすさまじいほどに多く、昨夜の人の少なさが遠い過去のようでした。

今日は、昨日行かなかったアウトレットを中心に回りました。

アウトレットの横に湖があり、そのほとりでのんびりしたり。

湖=レイク 、で、この湖が想像していたのと違って大きかったので驚きました。

まさに、レイクタウン。



そのあとはひたすらレイクタウンの中を歩きまくり。

端から端のスポーツ用品店へ行って、明日からのディズニー用のインソールを購入、人ごみの中をひたすら歩いて元の場所へ戻る。

歩いても歩いてもなかなかたどり着けないほどの、あまりの広さ。

「西遊記」で孫悟空がお釈迦様の掌の中を移動していただけのエピソードを思い出しました。

昨日今日と歩いているうちに、歩くのが早くなりました。

(笑)




夕方ごろお腹がすいてきたので、レストランを探したのですが、どこもかしこも満員で、それでも何とか奇跡的にお店を発見、即決で入店しました。









適当に入ったお店だったんですが、これが意外に大当たり。




パン


パンが食べ放題で、ヨモギパンが特に美味しくて、お腹いっぱいになるまで食べました。

パンも何度も温めなおしてくれていて、どれもホカホカ。

こういう気が利くお店って、いいですよね。




ステーキ

ステーキも肉々しくて美味しかったです。



明日から、四日連続ディズニーなんで、翌日に備えて、夕方6時にはホテルに帰宅しました。

そしてさらに、プリンを。

朝、チーズケーキを食べたばっかりなのに。


プリンもチーズケーキも大好きな「モロゾフ」です。

やっぱり「モロゾフ」は美味しいですね。




「モロゾフ」のプリン

うちら家族は、こういう限定品に弱いです。

今日は早めの就寝です。

さて、明日は千葉へ移動して、朝から晩までディズニー三昧です。

旅行、ようやく半分に達しようとしています。

^^;



ここまで読んで下さって、ありがとうございました。

プロフィール

「[整備] #ロードスター パナソニック カオス アイドリングストップ専用 N-80、ターミナルアダプター https://minkara.carview.co.jp/userid/572723/car/2397340/8414803/note.aspx
何シテル?   10/29 04:58
旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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