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すた☆君のブログ一覧

2020年06月29日 イイね!

大桑城(土岐氏 最期の城)、明智光秀のお墓(生誕地)等 

岐阜県山県市(岐阜市の北隣)へ行ってきました。



「南泉寺」
1517年 土岐政房(頼芸の父とされる)が土岐氏の菩提寺として開山。

1551年 「心頭を滅却すれば、火も自ずから涼し」で有名な、快川紹喜が住職となった。


四国堀

「四国堀」
大桑城下の空堀です。

四国とは、尾張、伊勢、越前、近江の四つの国の加勢を受けて築かれた事が由来です。




「六万墓」

1542年 土岐氏と斎藤道三の激突が始まり、激しい戦いが繰り広げられ、多くの戦死者が出た。

戦いの後、戦死者の骨が埋められた場所に、この「六万墓」が建てられた。
六万という人数は定かではないが、それほど多くの人々を巻き込む戦がここで繰り広げられた。


六万墓の場所:「四国堀」の道路を挟んだ東側に「電気柵に囲まれた栗農園」があり、そのすぐ北側にありました。


次に、大桑城へ行きました。



土岐氏は、斎藤道三に滅ぼされるまでの約200年間、美濃の守護をしていました。

1535年、長良川の大洪水により、守護をここへ移しました。

登山口 はじかみ林道登山口(ゆったりコース)P

「ゆったりコース」とは名ばかりで、幅1メートルほどの小道が続き、崖に手すりのロープが張られ、階段もほとんどなく、むき出しの大小の岩を登り降りする危険な道のりで、ほとんど大人のアスレチック。

山頂 模擬天守

展望がとてもきれいでした。

遠くの向こうから、斎藤道三が攻めてきたのでしょうね。

展望 


麓でガイドさんとお話をしてから、「明智光秀の墓」のある 白山神社「桔梗塚」へ行きました。

トンネル

トンネルの向こうにお寺があり、異世界へ行くような雰囲気がよかったです。




まずお神社の入り口で、これが目に入りました。

明智光秀の生誕地 板

すぐ近くに、「産湯の井戸」というのもありました。

生誕地 川の横当たり

こちらは、場所まで特定されているんですね。

春日局のお墓も?

「明智光秀は、山崎の合戦で死んだのは影武者で、荒深小五郎と名前を変えて、生誕地であるここで過ごした」 と言い伝えられたそうです。 

明智光秀の墓

左から3番目が光秀の墓、2番目は春日局の墓でしょうか。

きれいな説明看板

こちらの言い伝えでは、

「明智光秀は、土岐元頼と中洞源左衛門の娘との間に生まれた。
後に明智城主 明智光綱の養子になった 」

光秀の母は、光秀を身ごもった時、岩の上で「たとえ3日でも天下を取る男子を」と祈ったらしいです


看板アップ

「光秀の最後」
明智光秀は、関ケ原合戦へ進軍途中に、溺死した そうです。

説明書き

信憑性はともかく、面白いですね。

お堂の説明

神社の境内で、さっき大桑城で会ったガイドさんと再会。

行動が同じだな と思いました。

ガイドさん 「この人、荒深小五郎の子孫!」

見ると、テントの下で、おじいさんがニコニコしながら座っていました。

ということは、この人は、明智光秀の子孫という事ですよね。

おじいさんは、優しそうで、のんびりとゆったりとした人でした。

もしかしたら、光秀もそういう性格だったのかもしれませんね。


おじいさん  「この奥へ行くと、490年前のお堂がありますよ。」

見ると、なだらかな坂道が、神社の奥へ奥へと一直線に伸びていた。

正直、私はとても疲れている。

でも、明智光秀の子孫様がお勧めしてくれている。

すた 「・・・これは行かなきゃいけないのか?」

   「ええい!!」

ぬかるんだ坂道を滑りそうになりながら、一番上まで登った。

確かにお堂があった。




小屋で囲まれ、綺麗に保存されていた。



降りると、二人とも帰っていた。

偶然このタイミングで会えてよかったのかもしれない。


なんだかんだで、楽しい旅でした♪


ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
^^
Posted at 2020/06/30 13:08:46 | コメント(1) | トラックバック(0) | 土岐氏 | 日記
2020年06月28日 イイね!

「明智光秀生誕の地 多羅城」展へ行ってきました。

「大垣市上石津郷土資料館」 で、「明智光秀生誕の地 多羅城」展をやっているらしいので、早速行ってきた。

パンフ

このテーマを聞いて、まず多くの人たちは寝耳に水だろうが、上石津町の人たちはずっと以前からこれについて研究をしている。

結論から言うと、「なぜ多羅城が明智光秀の生誕地?」だというのかというと、主に二つの根拠があるらしい。


資料館前 

根拠①
東京大学史料編纂所の「大日本史料」の中に、「明智光秀は、享禄元年(1528年)八月十七日、上石津郡多羅に於いて生まれる、多羅は進士家の居城也」 
と書かれている。
これは日本史研究のための最も信頼できる資料集と言われている事実。

*「進士家」とは、将軍家の料理係「進士流」のことを意味し、光秀の兄晴舎が「進士流の後継者」として、将軍義輝に仕えていた。


根拠②
江戸時代の学者 塙保己一(はなわほきいち)の著書「続群書類従」の明智系図の中でも、「光秀は美濃多羅城で生まれる」と書かれている。

この2点になります。


旗 高木家 島津

さらに加えると、こちらもあります。

「光秀の親の出自」
古文書「明智氏血脈 山岸家相伝系図書」によると、
明智光秀の実父(=山岸信周)は「石津郡多羅城」の城主で、明智光秀の実母(市の方)がそこに嫁いだ。
市の方は 明智城主 明智光綱の妹。
妊娠した市の方が里帰りして、明智城で光秀を生んだ。
との事。

生誕地とは、「母の体から出てきた一瞬の場所を言うのか?」それとも、「生まれ育ったところをいうのか?」云々。

「多羅という土地」
1355年に足利尊氏が明智頼兼(明智の祖)に、多羅の領地を与えた。




「明智城落城と多羅城」
「麒麟がくる」では、斎藤義龍が明智城を攻撃したとき、明智光秀はすぐに越前の朝倉氏の元へ落ち延びましたが、実際は、父の家(石津郡多羅)に身を寄せ、
妻子を父に預け、光秀は諸国を旅し修練し、その6年後 1562年に越前朝倉義景に仕えた との事です。

「細川ガラシャと多羅」
明智光秀の娘、細川ガラシャの娘(光秀の孫)の名前は、「多羅」です。
これは偶然でしょうか?
ガラシャはお世話になった「多羅の地」を忘れまいと、娘にこの地名をつけた

と私は考えます。

多羅城

「明智光秀の子供」
長男「晴光」は、山崎の戦いの後、祖父信周によって「大野郡」の山林に身を隠して生き延びた。
後に、出家して、妙心寺の住持となって、父「光秀」を弔い続けた と言われています。



ロド 斜め

甲冑ボランティアでお客さんとお話ししていると、いろんな歴史談議に発展します。

その流れで「上石津町は明智光秀の生誕地と言われています」というと、大体の人は「嘘でしょ? あっち 美濃の東でしょ?」と言っていました。

ですが最近になって、年配の初老の男性から「本当らしいよ。親の生誕地だよ。里帰りしてた時に生まれたって。」

と言われて、地元ながら正直、嬉しく思いました。


ロド 横 遠景

このテーマは面白いので、今後もあちこちでかけて、研究したいと思います。

さて、次はどこに行こうかな。

^^
Posted at 2020/06/28 23:09:09 | コメント(0) | トラックバック(0) | 明智光秀 | 旅行/地域
2020年06月27日 イイね!

「石田三成~幻の大垣城決戦~展」に行ってきました。

チケット

早起きして、洗車。

1時間半かけて、隅々まで洗い、ワックスがけもしました。

洗車

車がピカピカになったところで出発。

車がきれいだと、運転していて、とても気持ちがいいです。


大垣城の前に、大垣市の「あみやき亭」へランチに行きました。

久しぶりに友人と再会です。

すたとロド


友人も、ロードスターに乗っています。
(私の影響で買いました・・爆)

友人のロドとツーショット

友人とたっぷり焼肉ランチして、ここでお別れ、一人で大垣城へ移動しました。

久しぶりに再会、いっぱいおしゃべりして、とても楽しかったです。

焼肉もとてもおいしかったです。



大垣城 天守

戦国時代の大垣城は、多くのお堀に囲まれた、最新鋭の難攻不落の水城だったそうです。

今はお堀はもうなくて、ほんの少しだけ、水が流れています。

内堀 チョロチョロ


・・・穴、開けすぎやろ。

塀の穴

大垣城の天守に入場の際は、コロナチェック表に住所と氏名と電話番号を記入。
(もう、慣れたわ。)

「杭瀬川の戦い」のジオラマが、きれいに大きくなっていました。

看板

展示のほとんどが、「関ケ原合戦までの流れの基本説明」でした。

結論的には、「明治時代に大洪水があって、大垣城天守の石垣にまで水が浸っていたので、水攻めも可能でしょう」

との事で、その後が今でも残っているらしいので、そちらの確認に行きました。

石垣 水の位置

確かに、石垣に線が引かれています。

これは知りませんでした。

確かにこれなら、水攻めをしても、成功できそうですね。

大垣の郊外には、水害の多い地域もありますので、まんざらでもなさそうですね。



看板2

「おあむ物語」

関ケ原の戦いのとき、大垣城(西軍の本拠地)にいた石田三成の家来が、おあむ(その家来の娘)とともに天守からたらい舟にのって脱出しました。

おあむは年老いたとき、子供たちにその時の出来事を語り、それを書かれた文献は「おあむ物語」と呼ばれ、関ケ原合戦当時の大垣城籠城の状況などが詳しく書かれています。

おあむの松

おあむは父とともに、はしごをこの松にかけて、ここからたらい舟に乗って、大垣城を脱出したそうです。

ガラス 大垣市内

今年は関ケ原合戦420周年で、大垣市も一緒に関ケ原を盛り上げてくれているようで、ありがたいなあと思いました。

楽しい一日でした。

史跡めぐり、まだまだ行きますよー!!

(笑)

Posted at 2020/06/28 14:12:37 | コメント(0) | トラックバック(0) | 石田三成 | 旅行/地域
2020年06月26日 イイね!

無印良品のバームクーヘン

「無印良品」で初めて、スイーツを買いました。

「無印良品」は、正直、お店のジャンルがよく分からなくて、ワタクシ的には、

「癒しの品 専門店」と認識しています。

バームクーヘンが大量に売られていたので、いくつか買ってみました。

1個150円と意外とお値打ちで、ボリュームもあり、結構おいしかったです。

また買いに行きたいです。


Posted at 2020/06/28 12:54:52 | コメント(0) | トラックバック(0) | グルメ/料理
2020年06月25日 イイね!

意外な近場に発見、ガンプラ量販店。

久しぶりに「アクアウォーク 大垣」へ行きました。

行って初めて、向かいの「ヤマダ電機(JR大垣駅 北側)」の存在を思い出し、「もしかしたら(プラモ売っているのでは)?」と店内に入ると、ガンプラの多さに驚き、感動。

テンション高くなり、当然のごとく、爆買い。
^^;

大垣市近辺では、まず間違いなく、ここが一番ガンプラ多いです。

意外な近場に、こんなに大きなガンプラ量販店を見つけられて、ラッキーでした♪

今回購入したガンプラ4個
「MG ガンキャノン」「HG ジオング」「MG ガンダムデスサイズEW」「MG ガンダムヘビーアームスEW」
Posted at 2020/06/28 12:25:48 | コメント(0) | トラックバック(0) | プラモデル(すた) | 日記

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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