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すた☆君のブログ一覧

2020年08月09日 イイね!

西円寺② ~教如上人の身代わりとなり、関ケ原で西軍に殺された住職の寺~

前回と同じ流れになります。

「潤いの泉」に関ケ原合戦とか石田三成とか書かれていて、「西円寺」の名前があったので、西円寺を訪れました。




関ケ原合戦の直前、江戸から京都へと向かっていた教如上人は、石田三成の攻撃に会い、大垣の西円寺へ逃げ込みました。

西円寺

・・・偉いお坊さんだったんで、捕まえて人質にしようとか考えたのでしょうか。

西円寺門前の石碑 赤線参照

西円寺の住職賢秀は教如上人とそっくりだったので上人の僧衣を纏い、身代わりとして東山道(中山道)を関ケ原方面へと進み、野上で殺されました。

中山道沿い 関ケ原野上 七つ井戸

野上の中山道(東山道)は垂井辺りから上り坂になっていますので、十数キロ向こうの大垣からだと、そうとうきつかったと思います。

教如上人は、揖斐川町旧春日村の人たちに連れられてお寺を脱出、無事に潤いの泉まで辿り着き、水を飲んで「うまい」と言ったそうです。

その後、春日村の寺をあちこち回り、山を越えて京都へ無事帰宅し、後に徳川家康と共に東本願寺を建立しました。


このお話を今風にまとめると、社長の身代わりになって部長が死んだというところでしょうか。

私は絶対に嫌ですけどね。
2020年08月09日 イイね!

西円寺① ~斎藤道三と和睦した西美濃一向宗門徒支配頭の寺~ 

先日訪れた揖斐川町の潤いの泉に、「石田三成に攻撃された教如上人は、大垣西円寺から避難救出されてここへ来た」と書かれていたので、西円寺を訪れました。
潤いの泉


西円寺

石田三成と関ケ原合戦に興味があったからここへ来たんですが、門前の石碑に斎藤道三の事も書かれていたのが気になり、調べてみる事にしました。

石碑 青色参照

天文年間、西円寺は西美濃一向宗徒の支配頭であった。

斎藤道三は美濃を支配する為には、一向宗徒を味方につけなければならなかった。

7月24日(年未詳)の書状には、「西円寺が道三に敵対しないなら仲良くしたい」と書かれている。

斎藤道三は、西円寺を所領安堵としていた。

しかし、斎藤道三の支配下に入りたくない西円寺は美濃国外へ出てしまったが、再び戻る事を希望した。

そこで斎藤道三は、大垣城主である宮川安定を友好関係を復活させる使者として、西円寺へ行かせた。

大垣城

さっきの石碑から、斎藤道三と和睦したのでお寺の四方にお堀を作って、その記念にお堀の名前を道三堀ってしちゃいました~。 と読み取れますね。(すた訳)



お寺のぐるりを数メートルの水堀が取り囲んでいて、初めて見た時は驚きました。



これはもう、お寺というより、お城ですよね。

ここから約30キロほど南に行くと、織田信長に約2万人が焼き殺された長島一向一揆のお寺があるんですが、斎藤道三が和睦を強く望んだのは、それだけ彼らの力が強大だったから敵に回したくなかったのかな と、思いました。

それと、大坂城は和睦の条件として堀を埋められたけど、こちらは逆だなあとも思いました。

面白いですね。
2020年08月09日 イイね!

明智光秀家臣堀口貞之の息子が杭瀬川の戦いで討死していました。

まだまだ引っ張りますよ~、明智光秀の史跡巡り。

今日から「麒麟がくる」放送再開なんで、テンション高いです。↑↑。

今度は舞台を変えて、大垣市へと移ります。


東京大学史料編纂所蔵「美濃国諸家系譜」によると、

明智光秀の家臣の堀口貞之の子堀口甚八は、存命して後に、中村一氏に仕え、慶長五年九月十四日、安八郡池尻にて討死。三十五歳。

と書かれています。

これは、杭瀬川の戦いを意味します。

最近、杭瀬川の戦いは無かったと主張する人達がいますが、この文献によりそれは否定されます。

池尻は杭瀬川の東岸になります。

西岸のすぐ後ろには、東軍の徳川家康本陣がありました。

池尻に中山道池尻一里塚の石碑があるので、ブログの写真のネタにと一時間ぐらい散策してみましたが、見つかりませんでした。

ちょっとスマホが欲しいなあと思いました。


この辺かなあと思って適当に撮った田んぼの写真

③章で紹介した明智光秀の庶子(側室の子)光貞も関ケ原合戦に参戦していましたから、まだ他にもいるかもしれませんね。

金生山。左端に徳川家康本陣(写真には写っていません)

史料を調べていると、今回のように思いがけないところから繋がりの発見があったりで、とても面白いですね。
2020年08月08日 イイね!

徳山ダムまで史跡ドライブしました。 ~揖斐川町 明智光秀の史跡巡り⑨ 最終回~

徳山には、明智光秀の家臣堀口兄弟の先祖堀口貞滿が住んでいたそうです。

また、徳山の手前にある久瀬には、明智光秀の落ち延び伝説があるし、春日村の博物館にも行きたかったので、合わせて徳山ダムまでドライブしてきました。

池田山の麓

小島城の麓を通り、まずは「春日の村 森の文化博物館」へ。



なにか面白い歴史ネタないかなあと訪れたところ、「関ケ原合戦の言い伝え」があったり、「壬申の乱」の縁の地でもあったりで、行ってよかったです。

次は、藤橋歴史民俗資料館へ。

藤橋城とロド



お城の中は1階がプラネタリウム、2階が宇宙の博物館、3階に甲冑や槍、陣羽織などの歴史展示物が半分、残りの半分は何故か、カッパでした。

先に訪れた森の文化博物館でも、カッパを紹介してました。

「うしおととら」の影響で遠野物語に興味があって、遠野のカッパの淵を訪れようと計画した事もあったので、別にそんな遠くに行かなくてもいいんだなと思いました。

宇宙は殆ど興味がなくて、涼しめたらいいやと休憩がてらに入ったプラネタリウムでしたが、司会案内がとても分かりやすくて面白く、あっという間の30分でした。

今度は家族を連れて行きたいです。

藤橋城というお城は過去には存在せず、杉原砦というのがあったそうです。

風聞 七人衆の墓

築城は新田義貞で南北朝時代の砦と言われているこの城に、杉原家守という武将が住んでいました。

家守の子孫に豊臣秀吉の正室ねね(北政所)が生まれたという事を知った時には驚きました。

お墓の由来ですが、斎藤氏が1000人で攻めてきて家守が500人で応戦し、吹雪の中死闘十数回を繰り広げたが追い詰められ、家守は自害しようとした。

しかし、再起を図るために他国へ落ち延びる事を勧めた七人の近従たちが次々と身代わりになって討死。

それから数年の後に里長の所へ商人が訪ねてきて、杉原家守は尾張へ落ち延びて寄る辺の者に匿われて再起を図っていると伝えたそうです。

ですから、「彼らが家守を助けなければ、後に北政所は生まれなかった」→「秀吉もそんなに出世できなかった」→「山崎合戦は無かった」→「明智光秀が天下を取った」とも考えられます。

とても興味深い史跡でした。

徳山会館

徳山ダム湖は貯水量日本一で、あまりにも大きいので、地球が丸いのを実感できるほどでした。



ダムカレーのお店が閉まっていたのが残念でした。

最後に、徳山ダムの堤防へ行きました。

放流口

ダム湖

タイヤ

このタイヤはダム工事で使われた90トンダンプのタイヤで、一本250万円もするそうです。

ダンプの燃費は500メートル/ℓとの事でした。

駐車場に来た時、2台のロードスターがいました。

驚く事に一台はNAでした。

もう一台は、私と同じNDの色違いでした。



ほぼ同じ時間に離れてダムを観光していて、私のロドが先に駐車場を出て南下を始めました。

しばらくすると、途中で間にいたダンプが道を譲ったりで、後ろから幌を開けた2台のロードスターがくっついてくる状態になりました。(私も幌を開けていました。)

ロードスターツーリングをしていた頃を思い出して楽しくなったんで、途中で「明智光秀の落ち延び伝説」の久瀬にダムがあるので、そちらへ寄る予定でしたが、面白かったんで、そのまま池田町まで突っ切って帰りました。
(笑)

前回徳山ダムへ来たのも、8~9年程前に主催したロードスターツーリング以来なので、思い出して懐かしくなりました。

久瀬

とりあえず、車内から写真を撮りました。

久世②

池田町の町中をひたすら南下しているうちに、いつの間にか後ろのロードスターはいなくなっていました。

池田温泉道の駅

史跡巡りというよりも、ほとんどロードスターのオープンドライブを楽しんだ一日でした。

最近は、コロナコロナで「県をまたぐ不要不急の外出をしないで」とかで、大好きな旅行にも行けない日々ですが、地元を見直すという事で、史跡めぐりと共に、ロードスターのオープンドライブの楽しさを再認識できるようになりました。

せっかくオープンカー買ったんだから、いっぱいオープンで走らないとね。



これで、揖斐川町 明智光秀の史跡巡りを終了とさせて頂きます。

最後まで読んで下さった皆様、本当にありがとうございました。

コロナが収束したら、是非、揖斐川町を訪れてみてはいかがでしょうか。

私が久しぶりの「戦国史跡ツーリング」として、ご案内してもいいんですけどね。
2020年08月08日 イイね!

山岸氏の館跡を探して ~揖斐川町 明智光秀の史跡巡り⑧~

前回の補足ですが、明智左馬之助光俊の自害の後、嗣子宗俊は揖斐川町桂に蟄居し、宮城を名乗りました。

よって、「明智氏一族 宮城家相伝系図書」と称したそうです。

それにしても、また 桂 が出てきましたね。

まさに 桂 は、明智一族蟄居の地 ですね。

揖斐川歴史民俗資料館は、いい場所に建っていますね。


では、本編に移ります。

山岸氏の館が府内にあったという事で、結城からそちらへ移動しました。

結城から山を挟んで1キロ北になります。

府内の府内城は谷汲の山岸氏の居城で、明智光秀四天王の安田国継の遠祖、安田利実が死去した場所でもあります。

華厳寺から東に1キロ、結城から北に1キロにあります。

府内は東西約2キロ南北数百メートルの集落で、集落の周りをゴルフ場がUの字に囲っているので、ゴルフ場が集落と府内城、結城、華厳寺を遮断している所が残念でした。

ゴルフ場看板 曲がり角 ここで曲がると府内

曲がらずに北上すると、法雲寺(土岐頼芸の墓)があります。

府内にあった山岸氏の館跡ですが、それらしき場所へ行ってみたけどよく分かりませんでした。



府内城址は登り口はなく登城は困難との事です。
でも、だいたいの場所は分かっていたので、きっとあの辺だろうなあと思いをはせて、集落を後にしました。


ここまで読んで下さって、ありがとうございました。

揖斐川町の明智光秀の史跡巡り、もうしばらく続きます。

プロフィール

旅行が好きで、日本中の戦国時代の史跡を巡っています。 2012年 3月 関ヶ原検定 ≪零≫  2012年12月 関ヶ原検定 ≪壱≫  に、合格しました...
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